福島原発事故発生時の官邸動向 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、2011.3.11日の三陸巨大地震に伴う東電の福島原発事故を確認しておく。十分には整理されていないが、それなりに役に立つだろう。 2011.03.12日 れんだいこ拝 |
【311の記憶 寺田学】 |
「寺田学のオフィシャルウェブサイト [ Manabu.jp ]」の2016/03/11「【5年前の記憶の全て】」
落選中に書いた「3月11日の記憶」を再掲します。5年前の壮絶な日々を振り返ることが、慰霊と哀悼になることを願って。 311の記憶 寺田 学 これから数回に渡り、3月11日、そして、そこから数日間の記憶について、この場で書いていこうと思います。以前から、総理補佐官として官邸勤務をしていた当時の事を、備忘録を兼ねて書き記しておきたいと思っておりました。これまで全ての事故調で証言し、多くの取材でも聞かれたことは全てを正直にお話してきましたが、聞かれていない事、記事にならなかったものも多数あります。
重要な部分は既に既報の通りなので目新しいものはありませんが、それでも、政治から離れた今、区切りの意味も込めて、自分なりに覚えている事を全て書いておこうと思います。
【予めご了承ください】
主観的な修正はせず、余分な事であっても備忘録の意義も込めて記憶のまま吐き出し、淡々と書きたいと思います。そこには、私の弱さが、そして当時の官邸の善悪諸々が混在していると思います。それが被災された皆様に失礼になるような記述もあるかもしれません。何卒ご容赦ください。また、2年以上前の記憶をもとに書き記すため、事実として誤った部分があるかもしれません。それを事実を調べながら書くには、個人的に難しいのでご容赦ください。単なる記憶違いは後ほど訂正します。 また、出来る限り実名で書きます。記憶が定かではない場合等は匿名にします。 カギカッコも記憶のママ、書きます。多少の言葉遣いの違いはあるかもしれません。 以上の事、予めご了承ください。 |
【1】3月11日
3月11日の朝は早かった。というより、徹夜だった。朝6時に総理公邸に出向き、いつも通り総理答弁のレクに参加した。 その日は、菅総理の外国人献金絡みの記事が朝日新聞朝刊に載るとの事で、夜を徹して報道からの情報収集、答弁案の調整をしていた。寝ていなかった。朝6時でも空は真っ暗。 種々の打ち合わせが終わり、9時前に国会に移動。委員会が始まり国会内各所を回って議員会館自室に帰る。会館自室でテレビを通して質疑をチェック。 昼休み、修正すべき答弁等、総理と打ち合わせ。山は越えた感じ。
午後、質疑も落ち着き、いよいよ睡魔に教われる。自室の椅子でウトウトしていたら緊急地震速報。それと共に大きな揺れを感じる。2時46分。 免震構造の会館は大きく揺れた。窓から地上を見ると山王坂の木々が激しく揺れている。秘書室からは秘書の悲鳴に近い声。予算委員会中断。揺れが収まったのを確認して部屋をでる。 補佐官車を会館に呼ぼうと思ったが、それよりは走った方が早いと判断。部屋を出るも、エレベーターが全機停止。12階の最上階から走って地上へ、そして官邸に走る。官邸5階の総理秘書官室に到着。総理秘書官らと席を共にしている秘書官室で様子を伺う。総理は執務室におらず、危機管理センターへ向かったのか。直ちに秘書官室で総理会見の原稿チェック。 総理、執務室に戻る。私も同時に執務室に入り、総理最初の記者会見の原稿の詰めの打ち合わせ。最初の会見ゆえ、情報は限られているから内容は乏しい。しかし、総理として、一刻も早く会見するべきとの判断。各省から集められた現時点での情報を盛り込んだ原案をもとに議論。記憶にあるのは「各原発は正常に停止しています」との文言。当時、原発に無知であった私は「『停止する』するって良い事?悪い事?」と混乱していたから、記憶に残った。犠牲者、行方不明者等の当たり前の情報の中に、突如「原発」の文字が入っていたのも違和感として記憶に残ったのかもしれない。 いずれ、簡単なA4一枚の会見原稿の完成。総理、会見へ。会見室まで同行。行き帰りのエレベーター内、非常に重い空気。会見から秘書官室に戻る。テレビからは仙台の津波の映像。黒い津波が田んぼを乗り越えていく生中継。「犠牲者が数名」との報道に、ある秘書官「これは数千のレベルになるのでは」。海江田経産大臣が総理宛に入室するので、秘書官と同席。大臣から「福島第一原発が正常に冷却できていない」旨報告。私は「さっきの会見で『正常に停止』と言ったばかりなのに『冷却?』何だろう」と、事の深刻さを今一つ理解していなかった。しかし、総理の異常な反応に事の重大さには即座に気付いた。総理は何度も大臣に、事務方に聞く。語調は抑えめ。総理「バッテリーがダメになっても、他のバッテリーがあるだろ。」。 事務方「予備もダメです。全部津波で水没しました」。 総理「何で水没するんだ!?乾かしても使えないのか」。 事務方「一度海水に浸っているので、塩分でダメになっています」。 総理「大変なことだぞ、これは大変なことなんだぞ」。 執拗に質問を繰り返す総理。 以下、余談。 +++++++++++++++++++++
これ以降の数日間、様々な事務方(保安院)が説明者として現れたが、原子力発電所の構造に詳しい人、そして俯瞰的に説明する人は現れなかった。それもあって、総理は一層「何が起きているか」を知ろうと強く追求した。何人目かに、経産省安井部長が来て双方落ち着く。安井部長は「何が起きているか」、「何をすべきか」ということを冷静に広角的に答える方だった。以後、安井部長の信頼は総理のみならず方々から厚くなった。当時の総理のスケジュールは、非常に突発的だった。震災を受けた対策会議、新たな大問題となった原発対策会議等々、極力形式的なものを排除してきたつもりだったが、特に原発は事が重大になると「会議を開かなくてはならない」的要素があって、何度も会議を開いていたように思う。加えて、震災の対策会議は事務局がしっかりしていたが、原発の会議は、どこが事務局なのかよくわからなかった。広い意味で経産省(実質保安院)との認識だったが、初めて起きた大事故ゆえ、システマティックな様子はなかった。すべては想定不足、訓練不足だと思う。
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以上。
原子力緊急事態宣言に関して、総理は海江田経産大臣からの上申後直ちに、というタイミングでは出さなかった。「なぜ、宣言しなくてはならないのか」、「その宣言をだすと、どうなるのか」を理解しようとしていた。理解の後、緊急事態宣言。この姿勢の善し悪し、その影響は専門家に任せる。この頃、午後7時過ぎ。
正直、この日から数日間の時間感覚はない。全電源が喪失し冷却出来なくなった福島第一原発を抱えて最初に関与したのが「電源車」の確保。手配は東電、サポートは保安院という形になっていたと思う。官邸総理室としては、その流れをチェック、そして省庁横断的なサポートが必要な場合は官邸から指示をだした。とにかく、福島第一原発に一台でも多く、一刻でも早く電源車を届ける必要があった。全国の発電所の何処に、何台電源車があり、福島第一まで何時間かかるのか、把握していた。陸上を走って向かう場合は、警察に連絡し高速の通行を許可するとともに先導をさせ(実際行われたかはわからない)、自衛隊のヘリによって空輸できないかも検討させた。東電からくるはずの電源車の仕様が防衛省に届いておらず、慌てて秘書官が東電側にせっついたのを記憶している。結局、大きすぎ重過ぎでヘリでは運べなかった。総理執務室にホワイトボードを設置し、進捗状況を把握。その後、地下の危機管理センターへ。それこそ、危機管理上、構造は申し上げられない。ただ、総理と同時に入室したためか、想定しているセキュリティチェック等は受けずに入った。生物兵器や様々なことを想定した入り口になっていたが、素通りした。
中は騒然。多くの情報が飛びかう。 以後、危機管理センターに総理は陣取る事になる。
細野補佐官と立ったまま打ち合わせ。今後の役割分担について。細野「俺は電源車やるから、寺田君は避難区域策定をやってくれ」 。寺田「いや、電源車は私やります。今やってる総理秘書官とは私の方が付き合い長いので」。細野「分かった。じゃ、俺はここに残るから、寺田君は上行ってくれ」。ものの数秒の立ち話で役割を割り振った。34歳3期目の私にとって、39歳4期目の細野さんがいてくれた事は、強さも弱さも含め有り難かった。
おそらく午後9時過ぎ。秘書官らと共に電源車の進捗チェッックを続ける。逐一あがってくる情報を整理し、地下の危機管理センター小部屋にいる総理に連絡をする。
主のいない総理執務室にホワイトボード。加えて、執務室内のテーブルに地下の小部屋直通の黒電話を設置。その前に座る。秘書官が日本列島の地図を書き、各発電所の持っている電源車の数を記載。
「◎◎発電所電源車◎◎台、◎◎時に発電所出発、◎◎インターチェンジ通過」 。我ら総理秘書官チームがチェックしなくとも、どこかでチェックされていたはずだが、それでも進捗をチェックした。その「どこか」が不明確だから。いずれにせよ、総理に最新情報をあげる。他方からと二重報告となっても仕方が無い。
以下余談 +++++++++++++++++++++++
総理秘書官と、総理補佐官は、大きな官邸機構のラインに組み込まれている訳ではない。表向きの会議に陪席はあれど、出席はほぼ無い。唯一無二の上司は総理大臣ただ一人。部下はいない。あくまでも総理の補佐に徹する。
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以上
秘書官チームに、一刻も早くとの焦燥感が募る。「8時間後までに電源が回復しないと大変な事になる」、 そんな情報はあった。どこで計算されたものか正確に覚えていない。おそらく保安院だと思う。いつを基点に8時間なのかも覚えていない。ただ、とにかく急がなければ「大変なことになる」そんな認識があった。
「大変な事」。口には出さなかったが、それが「メルトダウン」だというのは全員感じていたと思う。ただ、メルトダウンするとどうなるか、具体的には私は想像していない。秘書官らも同様だろう。メルトダウンは、今でこそ不幸な事に一般的な言葉となっているが、事故発生当時、専門家以外の一般の人には馴染みが無い。シーベルトなんて単位を知ってる人も、ごく少数だっただろう。この時は。電源車到着の一報が届く。何時だったかは忘れた。執務室と秘書官室を結ぶ扉を開けっ放しで作業をしていたので、到着の一報には、秘書官室にいる事務の方も含め喜んだ。
「なんとかなった。。。。。」。恐怖感と切迫感からの一時の解放。期限とされた時間内だった気がする。 (実際、電源車は届いたが種々の事情で全く役に立たなかったようだ。これらの事実関係は既存の事故調査報告書に譲る)。
その後、後続の電源車が到着した報せは受ける。ケーブルが足りないとの連絡もあった。そのケーブルを自衛隊のヘリで運ぶ検討をした。それら全てを総理に伝え電源車関係の業務は閉じる。電源車が功を奏している、との連絡はない。(実際、ことは深刻さを増していく)
11日深夜。
岡本政務秘書官から相談を受ける。「総理から明朝現地に出向きたい、準備せよ。との指示あり」。 私の第一印象は否定的。福山官房副長官に相談。同じく否定的。枝野官房長官に相談。同じく否定的。その旨、総理に進言。総理多少迷っている様子。
「準備だけは進めてくれ」との指示。 現地とは原発事故と、津波被害。現地入りによる人手を最小限にする方法、救助に使われていない機材で、とのこと。移動に使う自衛隊ヘリ「スーパーピューマ」は、飛行中であっても官邸と連絡が常時可能か確認必要。秘書官より「可能」との返答。秘書官チームと具体的な行程案の検討にはいる。事務方から原発と津波の両方の現地を回る行程案届く。詳細行程は保安院と警察、防衛省あたりで作成か。福島第一は重要免震棟へ、津波現場は宮城県上空。「スーパーピューマ」の航続距離等勘案し、福島第一後は自衛隊基地にて、同じく自衛隊ヘリ「チヌーク」に乗り換えて、津波被害の状況を上空から視察する案。その間に「スーパーピューマ」の燃料補給を行う。
総理、福島第一を組み入れた案了承。 実行の最終判断は後ほどに。行程案作成後は「スーパーピューマ」の乗車メンバー調整。小型ヘリゆえに10名前後しか乗車出来ない。人数絞り込み。総理、政務秘書官、警護担当秘書官、警護官、医務官は必須。残り数名。総理より、広報担当審議官の下村審議官を乗車させる旨の指示。しばらく後に、班目原子力安全委員会委員長の同乗の指示。現地入りの最中、総理として何かしらの判断を下す事があった場合、正式な助言機関の助言を直ちに仰ぐ必要性から、か。
残る調整要素は二つ。総理の補佐として政治家が誰か一人。それと、総理随行の記者をどうするか。政治家の搭乗候補者は、私か福山官房副長官のどちらか以外いない。
福山副長官は「どうする?」と特定の意思は無い様子。 私から「東北で起きた事故なので、東北出身の私が参ります」と提案し、福山副長官了解。内心、怖かった。でも、任務。総理随行記者の調整が残る。
以下余談 ++++++++++++++++++
常時、総理が移動する時には共同通信と時事通信の両社から、若手の記者2名が同行する。どんな時でも。総理が官邸から出発したときは、車列の最後方から車で追ってくる。総理が何処にいくか、誰に会うのかを確認すべく、報道を代表して追っかける役割。総理が朝公邸から出て、夜に公邸の門が閉まるまで、ずっと張り付く。平時に、なぜそこまでするのか彼らに訪ねたら、「つまるところ、いまこの時点で総理が実際生きているか、誰かに殺されないか、直接確認し続ける義務がある」とのこと。生存確認。
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以上
官邸記者クラブに内々「現地入りの可能性あり」と通知。従来であれば、共同通信と時事通信の2名を同行させなければならないが、緊急時であり、乗車定員が限られる為、いずれか一人にして欲しいと伝える。共同通信の津村記者が同行することになる。加えて、記者クラブ内、特にテレビ局側から「代表のカメラマンを一人乗せて欲しい」旨打診あり。定員的に、既に限界。様々交渉の結果、同行する広報担当の下村審議官にカメラを渡し、報道の代わりに現地映像を撮影してもらい、その映像を記者クラブに提出することで折り合う。現地入りのメンバー確定。行程案、メンバー案、総理了解。総理はこの間、執務室か地下の危機管理センターにいた。午前3時は過ぎていた。総理現地入りの大方の調整が終わり、少し時間が出来た。これから数日は帰れないと思い、官邸裏にある議員宿舎に着替えをとりに帰る事にした。合わせて、これから出向く現地入りでの万が一に備え、妻に会っておきたかった。宿舎は官邸裏口から出れば、走って数分もかからない。裏口から出ると、深夜3時過ぎにも関わらず、目の前の大通りが大渋滞。全く車が動かない。電車が止まり、帰宅困難者大量発生の影響。走りながら馴染みの記者に電話をする。すると「いま緊急地震速報が出てる、場所は新潟!」と興奮した声。今度は新潟か、、と、日本が壊れるような想像が頭をよぎる。既に宿舎の目の前だったので、急ぎ宿舎自室に入る。テレビの情報を見ながら官邸に電話。直ちに戻る必要は無かったので、急いでシャワーを浴びる。着替えを沢山抱え、妻に、まもなく福島原発に行く事を伝えて官邸に戻る。妻の表情が硬くなったのを記憶している。
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【2】重要免震棟へ | ||||||
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【3】福島原発、爆発
12日朝。
福島第一原発の上空を通過し、北上。そこから以北の惨状たるや、筆舌に尽くしがたいほど。自衛隊基地で給油のためヘリを乗り換え。チヌークで市街地上空飛行。既に朝を迎えているが、外は暗い。雪雲が覆っている為。地上は吹雪。沿岸部で火事。工場のようなところが燃えている。校舎らしき建物の屋上に「水」の文字。机を並べて作られた文字。同乗者に「このシグナルは地上部隊に伝えられるか」確認した記憶あり。自衛隊基地で再度スーパーピューマに乗り換えて官邸へ出発。東京上空は快晴。ビルの合間を抜け、官邸屋上に到着。
屋上から官邸内部に駆け下りる。総理執務室があるフロアに降りたところで、医務官が立派なサーベイメーターを持っていた事に気付く。「試しに測ってもらえませんか?」と依頼。銀色の棒で体全体を測定。「大丈夫ですね」。知識のないこの時点では、何が大丈夫かわからなかったが、少し安心。 総理秘書官室の自席に戻る。不在だった4時間の出来事を秘書官らから聞く。空腹に気付き、何かを食べようとした時に、ふと「福島原発に行った服装のママでいいのかな」と思った。現地の重要免震棟では、外から来た人間は直ちに防護服を脱いでいたのを思い出す。途端に怖くなる。急いで着ていた防災服と靴を脱いでゴミ袋に入れた。そして同行していた岡本秘書官と桝田秘書官にも「着ていった防災服脱いだ方が良くないかな」と問いかける。二人も驚いた表情で急いで脱いだ。皆、現地では毅然と職務についていたが、自分と同じように、心の奥に恐怖を感じてたんだな、と思う。総理室に入り、総理にも脱いでもらうよう依頼。しかし「いーよ。別に」と断られた。「総理自身が良くても、周りがダメです」と再度依頼。渋々着替えてもらう。防災服を廃棄。
この日から、総理執務室の隣にある総理応接室が、常設の会議室となった。地下の危機管理センターは携帯電話が繋がらない構造の為、やむを得ない判断。集うのは、総理や、長官、副長官、補佐官の官邸政治家、経産大臣、各省職員、保安院、原子力安全委員会、そして東電幹部、職員。この部屋に外部の人間が出入りする事に、秘書官付きの職員からは相当反対された。なんとか秘書官らと説得し、貴重な装飾品を運び出した。この部屋に、随時、現状の原子炉内部の情報を届けてもらい、関係者が一度に情報共有出来るようにした。
「ダウンスケール」 この部屋で一番聞いた言葉。東電から報告される原子炉内部の計器について、よく聞いた。ダウンスケールとは、計器の針が一番下に張り付いている状態をいう。正常に計測されても、ダウンスケールになるし、計器が壊れていても、ダウンスケールになる。例えば水位計。原子炉内部の燃料棒が水に浸っているかどうか調べた時に、「ダウンスケールなので」との報告有り。本当に水位が無いのか、実際は水位があるのに計器が壊れてダウンスケールなのか、わからない。徐々にダウンスケールと言われる計器が増えていった。内部の正確な様子がわからなくなる。午後、「福島原発の上空で煙のようなもの、との情報有り」。地下の危機管理センターから入った情報を 秘書官付の誰かが報告。総理は階下で会議中。秘書官らと「総理にはお伝えしておこう」と決め、総理同行の秘書官宛にメールしてもらう。総理が会議を終え執務室に戻る道中に伝達。執務室では班目委員長らが集まって打ち合わせをしていた。まだ、煙が出ているとの噂レベル。私は秘書官室の自席で作業。 しばらくすると、「4チャン見て下さい!!!!」と、隣の付室から大声。急いで秘書官室のテレビを日本テレビに合わせる。 原発が爆発していた。音は無い。反射的に総理執務室に駆け込んだ。総理が班目委員長や福山副長官らと話し込んでいた。「原発が爆発しています」と慌て気味に報告。テレビのリモコンをとって爆発映像を見せた。班目委員長が「あちゃぁ」と頭をうな垂れる。総理は厳しい表情。前日、班目委員長は「爆発はありえない」と断言していた。しかし目の前には爆発映像。(これは総理、感情的になるかもな)と内心思った。 だが、総理の口調は落ち着いていた。「これは何ですか」と班目委員長に問う。返答は要領をえないものだった。「情報をあげてくれ」。総理のこの声は苛立ちが感じられた。爆発なのか違うのか(一時、爆破弁との説すら流れた。ベント成功という意味)。建屋か格納容器か、放射線量は上昇したのかどうか。衝撃的な映像のみが流れ、実態が報告されない時間が過ぎた。 +++++++++++++++++++++++++++
福島原発の爆発を、官邸はテレビで初めて知ることになった。総理も、地下の危機管理センターの幹部らも。官邸にいた東電の職員すら同様。震災当初から数日、とにかく確たる情報がない状況だった。テレビ局から聞いた話。この爆発映像は偶然撮れたものらしい。各社、震災前から福島原発宛に無人カメラを設置していたが、震災でどの社のカメラも津波に飲まれ故障した。だが、福島中央テレビ(日テレ系列)のカメラだけが爆発の映像を捉えた。聞けば、中央テレビだけ福島第一原発に向けたカメラを内陸部に設置していたらしい。海岸部は他のテレビ局が既に占めていたために。そしてこれが、爆発の唯一の映像となる。これを福島中央テレビは直ちに放送。だから福島県民は、ほぼリアルタイムで爆発映像を見たと思う。福島中央テレビは、県内放送と平行して全国ネットの日本テレビに映像を送付。爆発映像を受け取った日本テレビ側は、全国放送すべきかどうか判断に迷い、結果、放送されたのは、映像を受け取ってから1時間後。それを、官邸は見た。
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以後、総理応接室に絶えず関係者が集まって状況を確認し続ける。ホワイトボードが持ち込まれ、保安院と東電が状況を書き込みつつ随時説明する。東電がホワイトボードに書いたのは1号機から3号機まで。
総理が問う「それで全部じゃないだろう」。 東電「はい、まだ4号機もありますが、点検で燃料棒は取り出してますので」。 総理が苛立ち問う。「いいから全部書け」。結果、1号機から6号機まで。加えて福島第二も。
総理「とにかく、パラレルに対応しろ」。 事故発生当初から東電の対応は、1号機が深刻になれば1号機、2号機が深刻になれば2号機に、と、 小学生の下手なサッカーのように単一的な行動しかしていないように見えた。その後、最も深刻と言われることになる4号機が最初から記載されないことが示すように。夕方には原子炉への海水注入の打ち合わせが行われていた。私は打ち合わせに参加していない。後に「総理が海水注入を止めた」との報道があったが、それを聞いたときに違和感をもった。
こんなことがあった。事故後かなり早い段階で、総理は東電に「政府で調達して欲しいものをリストにまとめろ」と指示。東電が提出してきたA4紙一枚には、多くの物資と共に「◯◯◯◯◯水」との専門用語が入っていた。 総理が「これは何だ?」と問うと 、東電「原子炉を冷やすのに一番適した水です」と返答。総理「いまは緊急時なんだから、それじゃなくても水だったら何でもいいんだろう?水道水でも、海水でも」。東電「はい」。以上のやり取りを聞いていたので、総理が海水注入を止めたと聞いて違和感を持ったのを覚えている。爆発を受け、避難区域の拡大について打ち合わせ。基本的に班目委員長が避難範囲を提案し、避難の実際のオペレーション想定を伊藤危機管理監が行った。昼過ぎの爆発を受け、20キロに拡大。班目委員長はチェルノブイリとの比較を持ち出しながら、20キロで充分との判断。伊藤危機管理監が、その際の避難人口、病院の数、受け入れ患者数等を把握し、避難に要する時間や人手の算出にとりかかる。政治側は、拡大志向が強い反面、班目委員長は他国の事故や国際基準らを持ち出し抑制志向。20キロも充分すぎるとの感覚見え隠れ。伊藤危機管理監は、拡大する事による膨大な作業量を実務的に懸念しながら指示を受ける。 ヨウ素剤の服用に関して覚えている事。 総理と班目委員長と会話。 総理「いつのタイミングで住民に飲んでもらえばいいのか」。
班目「いや、それは現地の医者が適時判断するでしょう」。
総理「現地の医者が判断出来るのか。医学の専門家であって、原発事故の専門家じゃない。そもそも線量の最新情報を医者が全員持っていないだろう」。
班目「いや、現地の医者が判断出来ます」。
総理「とにかく行政側から服用のタイミングについて指示を出せるようにしてくれ」。
夜には総理会見。原稿打ち合わせ。
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(私論.私見)
いまから約100年前の1896年に明治三陸地震津波が発生している。この津波の記録が残されているが、津波の高さは、綾里 38.2メートル、吉浜 24.4メートル、田老 14.6メートルとなっている。