石巻大川小津波訴訟考

 更新日/2016.11.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「石巻大川小津波訴訟」を確認しておく。

 2016.11.1日 れんだいこ拝


石巻大川小津波訴訟考
 「★阿修羅♪ > 原発・フッ素46 」の魑魅魍魎男氏の2016 年 10 月 29 日付投稿「あの日大川小学校
で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争
(世界のニュース トトメス5世)」。
 「あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争」(世界のニュース トトメス
5世)
 http://thutmose.blog.jp/archives/66862393.html

 40分の口論

 2011年の東日本大震災の後で発生した津波で、石巻市大川小学校の生徒と教員ら84人が不明になり、児童の保護者らが起こした裁判の判決がありました。2016年10月26日仙台地裁は保護者らの訴えを認めて市と県に対し、約14億円の損害賠償を命じました。なぜ津波という自然災害が裁判で争われ、一審判決が出るまでに5年も掛かったのでしょうか。

 当初は自然災害が原因と思われていたが、詳細が明らかになるにつれて、教師らが闘争を繰り広げて、津波からの避難を禁止したのが分かってきました。地震は2011年3月11日午後2時46分に発生し、校舎の窓ガラスが割れたり備品が散乱したため、生徒全員を校庭に集合させました。この日校長は出張のため不在で責任者がいなかった事で、指揮命令系統を巡って教師間で大混乱に陥りました。地震の3分後の2時49分に津波警報が出され、消防団と役場の広報車数台が出動して、スピーカーで高台への避難を呼びかけました。広報車を運転した一人は少なくとも2回、大川小学校の前まで行って避難を呼びかけ、2回目には車を降りて教師らを説得しようとしたが、教師らは耳を傾けなかったという。生徒を校庭に座らせたまま大川小学校の教員11名は2派に分裂して避難派と待機派に別れ、果てしない論争を繰り返していた。大川小学校の100mほど裏には裏山と呼んでいた高台があり、そこに上って避難するべきだという意見が出された。だが教師の一人と”自治会”あるいは保護者の一人が「山に登って生徒が転んで怪我をしたら、誰が責任を取るんだ」と強硬に反対して責任論を展開した。このとき現場にいた教頭は最初裏山への避難に同意していたとされるが、強硬派を説得できずに議論を続けた。

 津波に向かって行進させたのは誰か?

 強硬派の教師は「津波は来ないかも知れない。もし津波が来ずに裏山に上って生徒が怪我をしたら、教頭が責任を問われる」と言って教頭を脅したという証言もある。さらに強硬派の教師らは避難のために駆けつけたスクールバスに生徒が乗車するのも禁止し、バスの運転手は最後までバスの中で子供たちを待ったまま、学校前で津波に飲まれたそうです。バスに乗車するのを禁止した理由は、全員がバスに乗れないので不公平だとか、何度も往復したら時間がかかる等の理由を言っていたそうです。ある子供は避難を呼びかける町内放送が聞こえていて、広報車が怒鳴っているのも何度も聞こえたので、数人の児童が裏山に駆け出して、一旦は避難したと証言した。だが反対派の教師達は山の上まで子供たちを追いかけて引きずり下ろし、全員を校庭に集めて怒鳴りつけていた。ある生徒は「ここに居たらみんなしぬんだよ!何で先生は分からないの」と泣きじゃくり、ほとんどの生徒が泣きながら怯えていたと証言しました。

 この間に保護者数人が自家用車で迎えに来たので、保護者と一緒に学校を出た生徒が何人か居ました。近所の人たちは皆裏山に上って助かったが、生徒らを裏山に上らせるよう提案しても、ことごとく教師に撥ね付けられたそうです。避難を呼びかけていた広報車の運転手は、林の向こうで轟音が聞こえ、海のほうから津波が押し寄せるのを見ていた。広報車は大川小のほうに戻って津波が堤防を越えたのを伝えたが、それからまだ5分間教師らは避難すべきかどうか議論を続けた。そして地震から約40分後の3時25分過ぎに、近所の人は教師らが生徒を率いて北上川の方向に歩き出したのを目撃し、直後に轟音とともに川が決壊するのを見た。この時ですら行進の最後尾に居た教師と生徒数名は裏山に登って助かっていて、校庭に居たままだったら津波を見てからでも裏山に登れた可能性が高かった。校庭と裏山は子供でも数分で上がれるほど近く、課外授業などで子供たちはしょっちゅう上がっていた。なぜ教師らが2派に分裂して校庭で口論を続けたりしたのか、校長不在のなかで教頭派と反教頭派が派閥闘争をしていた疑いが強い。おそらく反対派の教師にとって避難は口実に過ぎず、教頭を批判して打撃を与えたかったのではないだろうか。 津波が来ているのを聞いた後で、生徒を低地の北上川に向かって歩かせた事は人災だと言える。最後尾を歩いて一人だけ生き残った教師は証言を拒否したため、保護者や近所の人や生き残った生徒らの証言しか得られていない。

 -------(引用ここまで)--------

 大川小学校の教師たちの愚劣さに開いた口がふさがりません。こんな愚かな教師は勝手に死ねばよいのですが、子供を巻き添えにすることは絶対に許されません。津波被害が予想される学校に子供を通わせている人は、あらかじめどこに逃げるかを決めておき、教師が何を言おうと、危ないと思ったら逃げるよう言い含めておくことです。自分の身は自分で守るしかありません。

 津波を放射能被ばくに置き換えれば、そのままそっくり現在の状況に当てはまります。デマだ、風評被害だ、避難は必要ないという政府・自治体の言うことを信じていたら、従っていたらどうなるか、大川小の出来事は見事に示唆していると言ってよいでしょう。すぐにやってくる津波と違って、被ばく被害は何年もしないと明らかにならない点が違うだけです。いや、もう一つ違う点があります。被ばく被害に関して裁判所が政府や自治体の賠償責任を認めることは、まずあり得ないということです。教師を含めた公務員がいかに愚劣で無責任で全く頼りにならないかがよく示された事件であったと言えます。亡くなった多くの子供たちの冥福をお祈りします。

 (関連情報)

「大川小訴訟、14億円賠償命令 津波襲来『予見できた』」  (朝日新聞 2016/10/26)
http://www.asahi.com/articles/ASJBS72GZJBSUNHB018.html

「大川小 地震の40分後に避難(NHK)」 (阿修羅・赤かぶ 2011/6/5)
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/393.html

「無能な政治家や教師は、福島原発災害や大津波がやって来た事で明らかになった。
適切な判断を早く下せる指導者を選ぶべきだった。」 (阿修羅・TORA 2011/4/11)
http://www.asyura2.com/09/jisin16/msg/904.html

 コメント
2. 2016年10月29日 07:12:04 : lv7vbj53vM : R5TUbJyqZ1g[1511]
 恥知らずの石巻市が控訴するらしい。抗議はこちらへ。

 「石巻市電子申請 市政へのご意見・ご提言」
 http://www.shinsei.elg-front.jp/miyagi/navi/procInfo.do?govCode=04202&procCode=3000040


 「津波訴訟 石巻市控訴へ 大川小74人犠牲 14億円賠償不服」
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201610/CK2016102802000261.html

 「東日本大震災の津波で多数の犠牲を出した宮城県石巻市立大川小を巡る訴訟で、市は二十八日、児童二十三人の遺族に対する十四億円余りの損害賠償を命じた仙台地裁判決を不服として、仙台高裁に控訴する方針を固めた。遺族側は「極めて遺憾だ」と反発した。石巻市は控訴方針について、三十日の市議会臨時会で説明する。宮城県の村井嘉浩知事は「判決文の内容を精査している。今後の対応は石巻市の対応を見守りつつ、慎重に判断する」とのコメントを出した。

 原告団長の今野浩行さん(54)は「判決は学校の責任を認めたもので、市の控訴は未来の命を守るわれわれの主張と反する。対応は非常に残念だ」と語った。代理人の吉岡和弘弁護士も「遺族の感情を逆なでするような行為で、極めて遺憾だ。市議会の対応を見守りたい」と批判した。

 判決は、学校前を通った広報車の避難呼び掛けにより、教員らは遅くとも襲来七分前までに津波を予見できた上、助かった可能性が高い裏山を避難先に選ばなかった過失があると認定。避難先として不適切な堤防近くに移動しようとした結果、津波にのまれて児童が死亡したとした。 大川小は海岸から約四キロに位置し、震災で児童七十四人が死亡・行方不明となった。教職員も十人が犠牲になった」。

9. 2016年10月29日 19:31:39 : 5X7ktLFEHz : @Yy8bGcQgco[53]
 まさかやろ、これは本当か?と目を疑って二度読んでしまった。教師などを責めるのは勿論必要なんやろうが、これはもう、教育が完全に破綻しとるということやろ。責めても恐らく彼らの頭には言い訳だけが渦巻き、混乱するだけなのやないか。多分、教育だけやなくて、今の公務員を使った植民地主義社会がいよいよここまで来てしまったということやと思う。控訴したというのは絶望的や。カネが惜しいんやろ。とにかく次は生き残った教師に証言させるべきや。放置すれば今後、他の地域でも同様の事態で子供たちが殺される可能性が有る。
10. 2016年10月29日 21:34:46 : cT0g69ZE6Y : HFJGyCB96Ys[1]
 あの大川小学校の大惨事の一報を聞いて、こんな馬鹿な行動があるのか、と思ったのは私だけではなかった。彼ら馬鹿教師どもが、津波の水が流れてくる方向に向かって子供らを歩かせた。裏山は衛星地図から見ても、すぐわかるほど至近距離にあった。あそこで生徒が転んでけがをしても、たいしたことはない。小学生にもなれば、知恵がある子供らもいる。六年生が一年生の手を引いて逃げるなどの行動もできる。事実、助かった他の学校の子供らは、津波てんでんこの教えとおりに自ら避難に避難を重ね、大きい子が小さい子の手を取って、高いところへ、高いところへと逃げていった。この大川小学校の馬鹿教師どものせいで、大切な子供らを失った親の悲しみはどれほどか。あの韓国の沈没船の話を思い出した。避難できる時間があったのに、馬鹿船長がきちんと指示を出していなかった。待機しつつつあるうちに、高校生たちがどんどんと水の中に浸水していく船の中に取り残された。沈んだ船の方向を見て、絶叫する父と母の涙をテレビで見た。韓国人は日本人と違って、人前でも感情をあらわにする。父母が大声で泣き叫んでいた。 人の命をあずかる責任者の判断がまちがっていて、小学生や高校生の命が失われていく。大切な子供を育ててきた親の心はどれだけ泣き叫んでいるのか。
11. 2016年10月30日 00:39:08 : F1roKxa1MJ : YXHfhitzXTw[7]
教 師を批判して日教組批判に繋げたい意図はよく分かるがその教師も死んだわけで、命がけで”権力闘争”とやらをしていたわけではあるまい要は、津波は来ないと高をくくってただけ。難を逃れた校長は生徒の遺体捜索にも参加せず、生き残った教師も当初は聞き取りに答え、裏山の大木が根元からギシギシ音を立て折れて裏山には避難できなかったなどと相手が木だけに根も葉もないことを言っていたと言うが、聞き取り証言等々のメモは校長が破棄してしまって存在しない。当初から言われている高台の避難所に移動する途中に津波に飲まれたという話もどうやら校庭待機で迎えに来た父母に子供を引き渡すと言う事で話はまとまり避難途中に津波に襲われた、ではなく校庭待機中に津波襲来だったとのこと。生き残った子が大人になってこの日何があったかを語るまで真相は闇・・・
12. 2016年10月30日 01:09:06 : AiChp2veWo : crH3ggO@jw4[688]
■たかをくくるも何も、このような奴らは殺人鬼にしかみえないが如何か。校庭で、ここにいたらみんな死んじゃうよ、といって泣いていた子供たちが親ごさんともども不憫でならない。心から合掌したい。
■子供たちを最後まで待って津波にのまれた運転手さん、国家を挙げて表彰すべきだ。原発でもなんでも、巨大な力には、十分な想像力を駆使して、最大限の防御態勢を敷くのが当然である。
■山から子供たちを引きずりおろした教師とはいったい何者か?。一家断絶の刑に処されても仕方あるまい。
■山で怪我したらどうする責任とれるかだと、は~っ、本当に君らはあほか?。子供の命の危険が秒単位で目前に迫っておるんじゃぞ。子供は走り回って怪我するものだよ、少々のことで騒ぐな、あほなのか。そういう親も親なら教師も教師、埃りが立つから黙っていなさい。
■まして大地震と津波を目前に、怪我したらどうする~って、君らは本当にあほか?。強行突破して子供たちを裏山に引率して、反対する教師らは殴り据えてやればよい。最大防御策を一瞬にして判断し実行する、当たり前の大人の判断である。■こんな奴らが隊長だったら、戦わずして部下は全滅するぞ、腰抜けなのかあほなのか、人格破綻者なのか知らないが、裁判の判決は正しいが、まだまだ処分は甘いと思う。ここのところ数十年、教師は腐ればかりになったのか、ロリコン犯罪教師も多いしな。子供にしか威張れんのかね、痴れ者が!。貴様は死んでも自業自得、子供の恐怖と命を返せ!。
13. 茶色のうさぎ[-3117] koOQRoLMgqSCs4Ks 2016年10月30日 02:07:44 : NNJX2lqWdc : 8VMObt@irIY[-15]

 資料です。
 ↓ なぜ子供たちは避難できなかったのか? 大川小学校より
https://www.youtube.com/watch?v=0h0FLBAF6tQ
 ↓ 石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波
https://www.youtube.com/watch?v=DW0dqWR4S7M
 ↓ 映像と地図です。
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%
A0%A1&client=firefox-b&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiA9J27uIDQ
AhUJybwKHRVEAlAQiR4IigE&biw=12
63&bih=585

 ↓ 関連の動画です。
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%
A0%A1&client=firefox-b&biw=1263&bih=585&tbm=vid&source=lnms&sa=X&ved=0ahUKE
wiqyNr-uIDQAhXBVLwKHQ2rDVQQ_
AUICygE&dpr=1
17. 2016年10月30日 03:34:53 : lv7vbj53vM : R5TUbJyqZ1g[1522]
 繰り返すけれど、これはこれから起きる、いやすでに起きつつある放射能被害の予告編だからね。
18. 2016年10月30日 07:43:57 : UVkUo7TPCA : Rf1PKdokx@M[1]
 
>要は、津波は来ないと高をくくってただけ

 津波が来るかどうかを判断する専門性は小学校の教諭にはないであろう。学び、教わり、ということを指導している当人たちが良く知っていることに違いない。にも拘らず、広報車が2度も避難を呼びかけても、そこを動かなかった理由は何か?

 ヤブ蛇論争、つまり日常的な権力争いをしていた、というのはもっともらしい。99%は利他的に行動する人間でも 1%は譲らないところがあるのだろう。そこが聡明さの分かれ目。聡明とは言えなかった大人を最後まで信じて、ついて行った子どもたちが哀れでならない。 

25. 茶色のうさぎ[-3119] koOQRoLMgqSCs4Ks 2016年10月30日 17:43:10 : NNJX2lqWdc : 8VMObt@irIY[-17]

 亀山市長って、ばか? うさぎ♂

>「仙台地裁判決には納得がいかないけれど、納得しようと思っていた。亀山紘市長は敗訴したらすぐに控訴する考えだったのだろう。残念だ」と非難。

>亀山市長は28日、判決を不服として控訴する方針を表明。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161030-00000002-khks-soci

26. 茶色のうさぎ[-3118] koOQRoLMgqSCs4Ks 2016年10月30日 18:09:44 : NNJX2lqWdc : 8VMObt@irIY[-16]
 今回、児童二十三人で14億だから、一人、約6000万円です。合計の児童七十四人だから、約44億4000万円くらいになると思います。 結論: 市長、教育委員会の連中は、当然、減俸だね! 市議員も! うさぎ♂
29. 2016年10月30日 22:05:32 : bSLbN3XiJs : zzl0FqGlXVU[2]
 これって本当の事なんですか?!すごく驚きました。このような状況になっていたなんて全く知りませんでした!!ダマスゴミのテレビ、新聞では全くこの事は報道していない。私もこの瞬間までてっきり「自然災害なのでしょうがない」と思ってしまっており、訴訟した遺族の方々に対してあまり良い印象を持っていませんでした。しかし、こういう状況でしたら遺族の方々が訴訟を起こすのも良く分かります。遺族の方々、誤解していて本当に申し訳ございませんでした。このような事実もきっちりと報道すべきなのに、今のダマスゴミのクソ共は遺族の方々が自分勝手で訴訟を起こしたみたいに報道している。裁判所もこういう事実があったから賠償を認めたのでしょう。この事実が広く知れ渡れば世間の認識も変わってくると思います。まあそうすると今度は「日教組が悪い」となってしまうのでしょうが・・・・。当局側は控訴するみたいですが、遺族の方々がんばって下さい。しかしこの事実を世間一般にもっと知ってもらった方がいい。
30. 2016年10月31日 01:06:45 : BfzoarbU32 : p88bfpHCiA0[5]
 気象庁が地震を観測した折に適切な津波警報を出していれば 教師たちは 非難指示に同意して避難していただろう。問題は気象庁の最初の津波警報の間違いです。詳しくは気象庁を調べればわかります。教師の所為にするな。
33. てんさい(い)[562] gsSC8YKzgqKBaYKigWo 2016年10月31日 12:29:41 : 0kUGInjLpY : VLecBnM2280[226]
 大川小学校、ついに判決で明らかになった「法的責任」 唯一生存した男性教諭の報告に大きな矛盾 大津波の惨事、揺らぐ“真実”
http://www.asyura2.com/13/nihon31/msg/855.html

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 「★阿修羅♪ > 日本の事件31」の軽毛 氏の 2016 年 10 月 28 日付投稿「大川小学校、ついに判決で明らかになった「法的責任」 唯一生存した男性教諭の報告に大きな矛盾 大津波の惨事、揺らぐ“真実”」。
 【第50回】 2016年10月28日 池上正樹 [ジャーナリスト],加藤順子 [フォトジャーナリスト、気象予報士]
 大川小学校、ついに判決で明らかになった「法的責任」

 判決後の会見では、これまであまり取材に応じなかった遺族も壇上に(2016年10月 26日、仙台市内) 5年7ヵ月の闘いがついに決着 遺族の思いは報われたか?

 東日本大震災で、学校管理下の児童74人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の23人の児童の遺族19家族が、市と県を相手に総額23億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が10月26日に行われ、仙台地裁(高宮健二裁判長)は、学校側の過失を一部認め、14億2600万円あまりの損害賠償を命じた。

 この判決は、学校管理下における惨事としては我が国では例を見ない犠牲者を出した大川小を巡り、東日本大震災における施設管理下での津波被災事故の裁判というだけでなく、学校に預けられた子どもたちの命を教員がどう守るのかという学校防災の基本を問う判断が示されるという点で、教育現場に与える影響は大きいと注目が集まっていた。

 遺族は裁判で、児童が津波の犠牲になったのは、学校が事前の安全対策を怠った上、大津波警報発表下でも、徒歩1分でたどり着く裏山があるにもかかわらず、児童を校庭に長時間待機させ、速やかに安全な高台に避難しなかったためだと訴えてきた。また、事故後に救命要請を行わなかった学校や、説明を尽くそうとしてこなかった市教委の対応のあり方についても、問題があったとしていた。

 「先生方、学校関係者、石巻市、宮城県は、判決を受け、学校は安全だと先生方みなさんが考えていくこと」と話す紫桃隆洋さん(左)(2016年10月 26日、仙台市内)。一方、市と県は、教職員が学校までの津波襲来を予見することは不可能だったと主張。その理由として、地域には過去津波に襲われた記録がなかったことや、当時の津波浸水予測図では「大川小までは到達しないものと予測されていた」ことを挙げている。地震発生直後には、教職員が様々な形で情報収集を行い、想定通りに避難行動したために、情報収集義務違反や結果回避義務違反はなかったとしていた。

 つまり、市と県は「津波が学校まで到達することを事前に予見できなかった」と反論してきたものの、遺族側は「万一、津波が来たときの子どもたちへの危害発生を予見すべき義務を怠ったのは学校側の落ち度」だと主張。「津波の予見性」とは何かという中身を巡って、真っ向から対立していた。

 判決で高宮裁判長は、「市の広報車が高台への避難を呼びかけていることや、ラジオで津波予想を聞いた段階では、教員らは津波が学校に襲来することを予見し、認識した」と認定。その上で、「津波を回避できる可能性が高い裏山ではなく、避難場所としては不適当というべき(川沿いの)交差点付近に向かって移動しようとした(生存教諭を除く)教員らには、児童らの死亡回避義務違反の過失がある」と指摘した。

 一方で、事前に危機管理マニュアルで避難場所や方法、手順を明記しなかったなどの安全対策を怠ったこと、当時不在だった校長や生存教諭らが被災後、救命救助活動を行わなかったこと、市教委や学校の事後対応に関しての注意義務違反は認めなかった。

 地裁が、学校に子どもの命を守る法的責任があると確認したことは、学校防災全般にとって大きな意味がある。また、大川小の現場で、津波が迫ることを知りながら、教諭らが児童を適切に避難させていなかった点が判決で認められたことも、遺族にとって非常に意味が大きい。

 判決後も燻る遺族たちの不満 「なぜ死ななくてはならなかったのか?」

 当時 5年生だった次女を亡くした紫桃さよみさんは、「事後対応に対して何一つ責任はなかったという判決は、私は100%不満です」と話した(2016年10月 26日、仙台市内)。26日の判決は、原告の一部勝訴だった。しかし、判決後に開かれた原告団の会見では、勝訴したとは思えないような重い空気が漂っていた。「なぜ死ななくてはならなかったのか、裁判では明らかになっていない」、「事後対応についての判決は、何1つ納得していません」。

 原告の遺族側から、不満が次々に噴出したのだ。

 今回の訴訟は、「津波の予見性」以外にも、事前の対策に不備があった点や石巻市の事後対応の適正性も争われたことが大きな特徴だ。

 当時の校長が初めて被災校舎に来たのが震災から6日も経ってからだったことや、市教委が震災直後の聴き取りメモを廃棄し、津波が来る前に「山へ逃げよう」と訴えた子どもの証言がなかったことにされたことなど、遺族たちの受けた震災後の不誠実な事後対応による精神的苦痛についても、遺族の強い意向により加味されたのだ。

 少しだけ、大川小の遺族が提訴に至るまでの経緯を振り返りたい。

「あの日」の津波被災事故からほどなくして、学校や市からの説明ではあまりにも不十分だとして、捜索活動を終えた遺族たちのなかから、真相を究明するためのグループが自然とでき上がっていった。

 遺族は、説明会や話し合いを求め市教委にかけ合った。市教委は、真相究明に向けた協働歩調を取ろうとはしなかった。初めての説明会の場では、市教委は、遺族が当時の現場の状況を唯一知る生存教諭に質問することを許さず、2回目の説明会でも、時間が来たからと、一方的に席を立ち説明を切り上げた。さらに、生存児童らに聞き取りを行った調査のメモを、担当指導主事が廃棄していたことも発覚。このメモ廃棄を、遺族は隠蔽行為だと受け取った。

 2012年8月になって、当時の平野博文・文部科学大臣が大川小を訪れた。大臣が遺族の訴えに耳を傾けたことをきっかけに、翌 2013年の2月、第三者の防災の専門家らでつくる検証委員会が設置された。すでに発災から2年が経とうとしていた。

 学校、行政、検証委の誰もきちんと答えようとしなかった

 当時6年生の三男を亡くした佐藤和隆さんは、「(地震が起きた後の)3時ぐらいから『ここにいたら死ぬ』と言っていたという息子のことが今でも忘れられない。どんだけ怖かったか」と涙ぐんだ(2016年10月 26日、仙台市内)。ところが、その検証委では、事務局と委員の選定や検証方法、委員の言動などの問題が次々に噴出。結局、約5700万円もの高額な費用をかけた「権威」の検証では、新たな事実は明らかにできなかった。真相究明に期待を寄せ、積極的に傍聴に足を運んでいた遺族のなかには、「ここで心が折れた」という人もいる。「あのとき、大川小で何が起きたのか?」、「学校の子どもたちの命を教員はどう守るのか?」といった遺族の問いに、学校や行政関係者、検証委の誰もきちんと答えようとしてこなかった、一連のプロセスの積み重ねが、訴訟の引き金になった。「最も安全なはずの学校管理下で、なぜ死ななければならなかったのか。どんな状況で、なぜ死にいたったのか。なぜ大川小だけなのか。その真実の解明のため、被災から3年後、提訴に踏み切ったんです」。会見で、当時小学6年生の大輔君を犠牲にした原告団長の今野浩行さんは、そんな経緯を交えながら、感想を語った。

 しかし判決では、学校で教職員が、大津波警報のような子どもたちの命への危険を予見したとき、回避行動や回避対策をとるべきではないのか、という学校管理下での明確な基準を示すことはできなかった。

 「学校は津波を予見して子どもたちの命を守らなければいけないと、学校側の責任を認めたことについては、一定の評価をしたい。しかし、そんな当たり前のことが司法の場で確認されただけに過ぎない。道義的責任ではなく、やっと法的責任が認められたものの、被災から5年7ヵ月もかかったのは残念。裁判の結果が我々の目的ではない。真実を解明するための1つの手段にしか過ぎない。知りたかった真実は裁判では知ることができなかった。裁判が終了してから、本当の検証作業になると覚悟している」(今野原告団長)。

 被告の石巻市と宮城県は、判決文を分析しながら、控訴するかどうかを検討しているという。

 「歴史を刻み 未来をひらく判決」 残された課題の重さと新たな闘い


 勝訴の一報を伝える横断幕は遺族 3人が自ら掲げた。「歴史を刻む」、「未来をひらく」は、大川小の校歌の一節(2016年10月 26日、仙台地裁)。今後、仮に被告が控訴した場合、原告側も「当時の校長や生存教諭が責任から除外されたこと」や「遺族への事後対応に関する責任」などを含め、付帯控訴する可能性もある。「勝訴は勝訴。だけども、中身を知れば知るほど、なぜ勝ったのかわからない。事前の防災対策をいい加減にしていてもいいんだ、津波がすぐそこに来るまで何もせずにいていいんだ、資料も廃棄していいんだという判決。みんな納得していない」。当初からいち早く真相究明に取り組んできた遺族の紫桃隆洋さんは、そう振り返った。 その言葉に、「あの日」から続いた5年7ヵ月の闘いが報われたと思うのと同時に、今後の学校防災に広く役立つわかりやすい判決を勝ち取れなかったという悔しさもにじむ。

 「歴史を刻み 未来をひらく判決」

 勝訴判決を受けて掲げた横断幕には、大川小学校の校歌の一節を借りた言葉があった。子どもたちの命が、いつか起きる災害で、未来の子どもたちの命を救う枠組みにつながる判決になってほしいと、原告団が期待を込めたものだ。

 今回、現場にいた教師の責任を認める形で判決は出されたが、遺族が期待した学校の防災体制のあり方、事故後の対応のあり方についての判断は、原告の期待に対して大きな課題が残ったと言える。

 (取材・文・撮影/池上正樹、加藤順子)

 *『大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~』連載バックナンバーはこちら
 http://diamond.jp/category/s-okawasyo
 http://diamond.jp/articles/-/105944

 大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~
 【第9回】 2012年9月5日 加藤順子 [フォトジャーナリスト、気象予報士]
 唯一生存した男性教諭の報告に大きな矛盾!?
 大津波後の大川小生存者を見た夫妻の証言
 東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という世界でも例のない犠牲者が出た石巻市立大川小学校。震災から1年5ヵ月が経過したが、なぜこれほどの児童・教職員が犠牲にならなければならなかったのか、今もまだ真実は明らかになっていない。大津波が襲った当日、大川小の生存者の様子を目撃したという夫妻がいる。夫妻はあの日、どんな事実を見ていたのか。


 裏山からみた大川小。入釜谷の国道に出る林道につながる。(2012年2月14日、石巻市釜谷) 東日本大震災の津波被害で、児童と教職員の計84人が、死亡・行方不明となった現場、石巻市立大川小学校の被災校舎付近はいま、多くの人がひっきりなしに訪れる観光スポットとなっている。献花台で手を合わせ、痛々しい姿になった校舎を半周してから、学校の裏山を見上げ、口々につぶやく。「こんな近くに山があるのに、なぜ」、「この角度はちょっと……」、「ここから登れたんじゃないの?」。災害や事故の被災現場をめぐる追悼の旅を、ブラックツーリズムというそうだ。大川小には、そのようなツアーバスやレンタカー、他県ナンバーの車が、次々と来ては去っていく。多くの人がため息と共に見上げるこの山の根をまわったところに、小さな工場がある。津波被災当時、周辺の集落の人々が避難していたところだ。

 私たちは、この工場の経営者が、大川小の生存者の当日の様子を知っていると聞いて、話を聞きに行った。

 A教諭の証言は実は別人の証言? 夫妻が見た真実と報告書の間にある矛盾

 「A先生の報告書は、最初から全部嘘なんです。だいたい9割方は嘘だから。なんで嘘ついたんだかは、わかんないですけども」。私たちが訪れた目的を説明すると、工場の社長は、市教委が作成した生存教諭の聞き取り書について、いきなり、そう切り出した。報告書とは、市教委の加藤茂美指導主事(当時)が、震災から2週間後の3月25日に、被災当時と直後の様子を、教職員で唯一生存したA教諭から聞き取り、翌4月に入ってからまとめたものだ。柏葉照幸前校長に連れられて、A教諭が市教委まで証言に訪れた時の様子は、前々回、加藤氏が私たちに語った話のなかで、紹介した。社長夫妻の話によると、この報告のなかには、いくつも矛盾点があり、A教諭とは別人の証言のように読めるという。私たちは、市教委を通じて再三A教諭への取材の問い合わせをしているが、「主治医からの許可が出ない」、「自分たちも直接話ができない」(指導主事)と説明されている状況だ。まずは以下に、市教委が作成した聞き取りの報告書のなかから、「被災時、避難誘導に当たった教諭Aの聞き取り調査の概要」の一部を紹介する。

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 (三角地点へ移動)
 校地を出て、釜谷交流会館前の山沿いの小道(交流会館駐車場付近)を通っていたとき、津波が来た。A教諭は最後尾におり、「山だ。」と叫んで、山に登ることを指示した。A教諭も山に登るが倒れた木に挟まれて動けなくなった。その後、動けるようになり、近くにいた3年児童Bを連れて、さらに上に登った。

 (山へ避難後)
 A教諭と3年児童は、倒れた木の間に落ち葉やススキを敷き、雪をしのごうとした。津波の音が近づいてきたので、さらに上に登ることにした。松くい虫防除用のビニルシートをはがしてくるまった。児童の体の冷えがひどかったので、山を越えて雄勝側に行けば、車道に出て助かるかもしれないと考え移動した。周辺を照らしていた車のライトが見え、近くの車の中で過ごした。

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 震災当日は車の中で過ごしたはずが…実際は社長宅に宿泊していた

 大川小で唯一生存した教諭と助かった子どものひとりが、工場のシャッターの前で、周辺の地区から逃げてきた人たちとともに立っていた。(2012年8月11日、石巻市)Photo by Yoriko Kato 社長夫妻によると、あの日、大津波警報が出てから、雄勝峠を越えてきた車や、大川小などのある北上川方面から逃げてきた人たちで、工場の前の国道は混雑していた。津波は、目の前の国道まで上がってきて、人々は工場で立ち往生していた。あっという間に、目の前の集落の大半が水に沈んでしまったが、工場の敷地は、かろうじて浸水を免れた。社長夫妻は、事務所や自宅を、避難所として開放した。屋内は、100人ほどの人で、すき間がないくらいにいっぱいになった。大川小のある釜谷地区からも、山を越えて来た人たちがいた。その中に、大川小で唯一生存したA教諭と、助かった3年生の男子児童Bくんもいた。学校からつながる国道が冠水し、瓦礫が散乱していた点を考えると、どうやら学校の裏山からつながる林道を歩いてきて、工場のそばに出たらしかった。学校裏から山道を歩けば、国道までは30分くらいでたどりつく。最初に2人と会ったのは、社長夫人のほうで、工場の入り口付近に立っていたたくさんの人の中にいたという。「時間は、私も全然覚えていないんですけど、ただ、空が明るいうちに来ましたよ。最初に会ったとき、(A教諭は)『ひとりしか助けられなかった』と言っていたね。最初の言葉はそうだった」。

 そして、A教諭は、「この子は、大川小学校何年なんとか」とあいさつをしたという。そのときは、“大川小”まではわかったが、それ以上を確かめる状況ではなかったため、その男性が、大川小の教諭であったことを夫人が把握したのは、震災からひと月ほど経って、人づてに聞いてからだった。「じゃあ、子どもを自宅の方に寝かせた方がいいんじゃないですか、って言って、自宅の方に行って、子どもさんはすぐ、上着と、あとズボンも脱いだのね」(社長夫人)。A教諭と3年男子児童の2人は、そのまま社長宅の和室に泊まった。 このA教諭と子どもは、少なくとも、明るいうちに工場の敷地へたどり着き、そのまま自宅に泊まったということは、夜になって車に泊まったとする報告書とは明らかに違う点だ。

 市教委は、昨年11月にこの社長へ聞き取りをした後、震災から1年以上経った今年の3月18日の説明会で、「A先生が教育委員会に報告に来た時に、本当に精神的に錯乱状態でして、私ともう一人で対応していたんですけども泣きながらずっとお話ししていたもんですから、聞き間違えたんだと思います」(当時の加藤茂美指導主事)といって、間違いを認めた。さらに、同30日付けの県の県教育委員会への報告書によって、社長宅への宿泊の事実だけは訂正している。「なんぼ錯乱状態でも、民家さ泊まったかどうか、なんも覚えてねぇなんてさ、ははは……笑ってしまうよ、本当にね」(社長)。

 A教諭は本当に津波をかぶったのか 夫人が見たのはきれいなままの背広だった

 社長の自宅には、他にも避難してきた人がたくさんいた。服が濡れている人はみな、畳に上がる前に、社長宅にあった衣類を借りて着替えていた。「A先生は、何も濡れていないから和室にそのまま通した。Bくんの靴は、濡れていたね。靴下を脱がせて、そのまま履いているわけにはいかないということで履き替えさせた。濡れた場所はわからないですよ。おそらく歩いてくるのに、この辺も全部泥だらけだったから。Bくんは、濡れて汚かったね」(社長)。A教諭が、津波をかぶって濡れていたかどうかも、証言が違っているところだ。A教諭は、これまでに一度だけ、保護者向けの説明会で直接証言をしている。震災からひと月後のそのときに、津波襲来後の様子を振り返って話をしたなかには、以下のようなくだりがある。

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 「山の斜面についたときに杉の木が2本倒れてきて、私は右側の腕のところと左の肩のところにちょうど杉の木が倒れて、はさまる形になりました。その瞬間に波をかぶって、もうダメだと思ったんですが、波が来たせいかちょっと体が、木が軽くなって、そのときに斜面の上を見たら数メートル先のところに3年生の男の子が『助けて』と助けを求めて叫んでいました。私は、眼鏡がなくなって靴もなくなっていたので、とにかく『上に行け、行け』、絶対にこの子を助けなきゃいけないと思って、とにかく『死んだ気で上に行け』と叫びながら、その子を押し上げるようにして、斜面の上に必死で登って行きました」。

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 証言の一部分だけだが、津波が地域を襲った瞬間、自分自身も逃げながら、目の前の子どもを助けようと必死だった様子が伝わってくる内容だ。しかし、社長夫人は、波をかぶったはずのA教諭の背広の様子をはっきりと覚えているという。「4本格子のチェックの茶っこいようなグレーな感じの、はっきりしたような色でなくて。先生らしい、くたびれた上下だった。濡れてなくてきれいだったね。めがねは掛けていなかった。私、こうやってしゃべれるくらいに、覚えているもん」。その夜、A教諭は、ストーブのところであぐらをかいてすわり、一晩中、ほとんどしゃべらなかった。取り乱しているようにも見えなかった。

 本当は山から惨事の一部始終を見ていた? A教諭の反応から考える報告書の不審点

 社長は、さらに、証言の信憑性を疑う点があると続けた。A教諭は、説明会で、校庭での様子をこう証言している。 「子どもたちは、その時に校庭の真ん中に座って、もう人員の点呼は全部終わっていました。中にはパニックになって吐いているお子さん、それから泣き続けているお子さんがいて、先生たちは、その子たちをなんとか落ち着かせようとしていました。雪が降ってきて、中には裸足で逃げた子もいたので、すごく寒がっていましたので、特に1年生、2年生の教室からジャンバー、それから上靴を取りに行ってはかせたりしました」 、「雪降ったというんだけど、ここは、雪、降っていないんです。降ったのは夜なんで。A先生は、雪降ったかどうかはわかってるんでないか。だから、A先生が『雪が』と書くのは考えられない。たぶん誰かが書いたんだね、どう考えても。早い頃に降ったのは石巻方面だから」 。工場がある場所は、学校から数百メートル離れていて、山の裏側にあたるが、被災時の空模様については、私たちが聞いた範囲でも、証言が分かれている。津波をかぶりながらも山によじ登って生存した当時5年の児童による、「うっすらと積もっていた」(児童父親談)という証言がある一方で、すぐそばで同じく山によじのぼってかろうじて助かった地元住民は、「車を降りて逃げたときは降っていなかったなぁ。人を助けたときにはけっこう降ってたよ」と言っている。

 被災から一夜が明けてから、社長たちは、大川小学校のすぐ側にある、三角地帯と呼ばれる国道と県道の交差点まで行った。うずたかく積もった瓦礫に、名札を付けた女の子がひっかかって、亡くなっているのが見えた。惨状を確かめて戻ってきた社長が、たまたまそこに出てきたA教諭に「女の子が引っかかってた。瓦礫さ何人か引っかかってた」と言った。しかしA教諭は何も言わなかった。さらに、社長夫人が、「○○ちゃんという子がランドセル背負って亡くなっていたみたいですよ」というと、「ああ、その子ども、お母さんが迎えに来た子だね」と静かに答えたという。ショックを受けているかどうかは、わからなかった。

 社長は、子どもといた男性が大川小の教諭だったと知った今、A教諭の当時の反応からこう推測する。「ふつうは、子どもたちを助けてくださいとか言うと思うんだけどな。たぶん山から全部見ていて、助かってねぇと、知っていたんでねぇか」。再び、聞き取り報告書から一部を紹介する。

 (翌朝)山から下りてきた5年男子2名と大人2名、1年女子1名とその祖父と合流した。5年男子は津波に巻き込まれたが、大人に助けられ、夜はたき火をして過ごしたとのことだった。そこから、入釜谷交流会館(※)に移動した。そこには15名程度の子ども(幼児も含む)が避難していた。A教諭は腕を脱臼しており、けがをした児童2名とともに、ボートと救急車で日赤に搬送された。その後、桃生小にバスで移動した。(後略)

 ※正しくは、入釜谷生活センター

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 子どもが亡くなっていたと聞いても、A教諭は学校のある釜谷の方に行かずに、林道を登っていった。社長夫人も途中までついていった。「A先生がね、“ほー”とか“あー”とか、(山に向かって)かけ声しているの。なんでかな? と思った。すると、姿は見えねぇんだけど、“ほー”とか“おー”とか返ってきた。子どもが死んでたよ、って言ったのに、今考えると、なぜこっち(林道)に登っていったのかなと思う」 。

 ともかく、かけ声のやりとりの後、ひと晩山の中で過ごした2人の生存児童が、地域の人たちと一緒に、林道を下りてきた。傷だらけだった彼らは、そこで手当をしてもらった。 そのうちに、社長宅に避難していた人たちは、近くの入釜谷生活センターという公共施設へ移動することになり、工場にあったマイクロバスで、ピストン輸送されることになった。 「うちには、足腰立たないおじいさんが泊まっていたんで、A先生が車までおじいさんをおんぶしてきたんですね。おれがおんぶすると言ったら、大丈夫、大丈夫って。だからまあ、先生はケガしてねえんでねえか。まあ、本人がしてたといえばしてるんだろうけれども、脱臼している人がおじいさんをこうやって抱えてこれねぇよ」(社長) 、「おじいさんをおぶったとき、靴は、かかとをつぶしていたからね。ちゃんと両方靴はいていたし。その時、片方脱げた。それは覚えてる」(社長夫人) 。

 証言によるリスクを負ってでも真実を伝えなければならない

 大川小のある釜谷地区の山に登ったり、津波に打ち上げられた人たちが、歩いて降りた林道。(2012年8月11日、石巻市入釜谷) 工場の社長夫妻が見た、大川小のA教諭や子どもたちの様子は、そこまでだ。子どもたちの家族は、後日工場を訪れてお礼を言っていったが、A教諭は、それ以来一度も訪れていないという。 「私なんかが本当のこと知りたいと思うのはさ、地震が起きて、津波後の、学校からここまでの間ですよね。うちさ来たのは、あんまり大事なことじゃないんだけど、嘘ついて、報告に出てるから。でもなんぼ考えたって、最初の報告書は、だって丸きり嘘なんだもの。誰が書いたのかって追及したらいいと思う」 。

 そして、このままでは、今後も市教委によって、 「嘘の(報告書の)まま、子どもたちは避難していたのに流されたと、言われる可能性がある」(社長)と危機感を募らせる。そのためにも、保護者と市教委が話し合って、これまでほとんど説明に出てこないA教諭から、改めて聞き取りをする必要性を強調した。「A先生が来ないと、話にもなんねもんね。市教委が事実を隠した隠さないってことばかりを話していて、だれがこの報告書のストーリーを書いたんだか、知りたいね。A先生が書いたとはとっても思えねぇね」。

 社長夫妻は、被災当時から、避難してきたたくさんの人を夢中で世話して、人によっては数ヵ月に長引いた避難生活を助けた。その中で見聞きしたことを話すことは、地域の中で暮らす以上、さざ波を立てるような行為だ。 「これで、1年以上経って、なんなんですかね。この辺のお母さんたちは、しゃべるなっていうけど、私は負けないから。だって私ら本当のこと言うほかないんだもんね」 。夫人はそうつぶやいた。

 (加藤順子)

 大川小学校関係者や地域の方、一般の皆さまからのお話をお聞きしたいと思っています。情報をお持ちの方は、下記までお寄せください。
teamikegami@gmail.com(送信の際は「@」を半角の「@」に変換してお送りください)
 http://diamond.jp/articles/-/24268  

コメント
2. 2016年10月29日 22:31:40 : F2230ndbwE : N_t1ziYiq68[52]
 これ程多くの子供たちが亡くなった以上、生き残った教員や亡くなった教員の名誉だとか、市民の税金だとかを配慮する前に、事実を知りたいと親たちが思うのは当たり前だと考える。裁判になったのは、市や教育委員会の態度が真摯なものではないからだ。親たちは真剣に誠意をもって災害の検証をしてくれたならば、それが教育委員会や教師たちの判断ミスによることであったとしても、司法に訴えようとまではしなかったかも知れない。子供を失ったのは何故なのか、大災害だから仕方なかったのか、親が追及するのはあたりまえである。彼等は何も金を求めているのではない。事実を求めているのだ。
5. 2016年11月01日 13:01:10 : TzkPlcUDmw : 5LJnlaMg0G0[88]
 全てが明らかになっていないようですね!先生も亡くなっているから責任はないってな意見があるようだが、子供たちは74人も亡くなった!大人は子どもに責任を持つべきだろ。避難するまでかかった時間の間に一体何があったのか!その中に責任問題が隠れている。控訴はしないほうが良かったよね!責任問題と損害賠償を嫌った市と県。

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 「★阿修羅♪ > 日本の事件31」の戦争とはこういう物氏の2016 年 10 月 30 日付投稿「大川小津波
訴訟 石巻市議会が控訴承認の議案を可決(どうせ高裁は権力に屈する?!)
」。

 助かるはずだった小学生74人を死に至らしめた避難計画と判断のミスを、証言を隠蔽して認めまいとした結果の敗訴。さらに翌日の控訴決定。しかし高裁で論理無用な役人擁護の逆転判決が出がちなこの国で、恥も外聞も無く控訴に踏み切る役人が出るのは予想できたことか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(ここから)
 大川小津波訴訟 石巻市議会が控訴承認の議案を可決
 10月30日 19時48分
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161030/k10010750111000.html

 東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校の児童の遺族が訴えた裁判で、石巻市は、14億円余りの賠償を支払うよう命じた判決を不服として控訴の承認を求める議案を30日の臨時議会に提案し、採決の結果、可決されました。宮城県も同調する方針で、石巻市と宮城県は控訴期限の来月9日までに控訴することにしています。震災の津波で犠牲になった石巻市の大川小学校の74人の児童のうち23人の児童の遺族が訴えた裁判で、仙台地方裁判所は今月26日、「津波が襲って来るおよそ7分前までには市の広報車が避難を呼びかけたのを教員らが聞いていたと認められ、津波が到達する危険を予測できた」と指摘し、石巻市と宮城県に対し、原告全員に合わせて14億2600万円余りの賠償を支払うよう命じました。

 これを受けて、石巻市の亀山市長は28日、控訴する方針を示し、市は30日、臨時議会を招集して控訴の承認を求める議案を提出しました。 本会議は原告の遺族が見守るなか午後から開かれ、亀山市長は議員から控訴の理由を問われると、「教職員が小学校に大規模な津波が来ることを予見することは不可能であったと認識している。また、およそ7分間で、崩壊の危険がある裏山に全員が無事避難できたとは考えられない」と述べました。 一方、控訴に反対する議員からは、「遺族をこれ以上苦しめることなく控訴を取り下げるべきだ」とか、「子どもたちは市長の控訴の判断に悲しんでいる。判決を真摯(しんし)に受け入れるべきだ」といった意見が出されました。 このあと採決が行われ、議案は賛成16、反対10の賛成多数で可決されました。宮城県も同調する方針で、石巻市と宮城県は控訴期限の来月9日までに控訴することにしています。

・市長「重い判断だったと受け止め」
 本会議のあと、石巻市の亀山市長は「非常に苦渋の選択をしていただいた。重い判断だったと受け止めている。私たちもこの問題について責任を感じている部分もある。上級審で原因を検証して今後の教訓にしていきたい」と述べました。

・原告団長「予想だにしない結果で怒りしかない」
 控訴の議案が可決されたことについて、原告団長で小学6年の長男を亡くした今野浩行さんは「予想だにしない結果で、ことばも出ない。東日本大震災のいちばんの被災地である石巻市から、『学校ではこどもの命を守らなくてもいい』と、行政のトップと教育委員会のトップが主張して、それを議会が承認した。子どもの命を見捨てると議会で決定されたことについて、非常に危機感を持っている。怒りしかありません」と話しました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(ここまで)
・関連:
■あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争 (世界のニュース トトメス5世)
http://www.asyura2.com/16/genpatu46/msg/701.html
投稿者 魑魅魍魎男 日時 2016 年 10 月 29 日 05:25:27: FpBksTgsjX9Gw 6bOWo@mx6bKSag

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 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK215」の戦争とはこういう物氏の2016 年 11 月 03 日付投稿「<大川小訴訟>専決で控訴 県議会異論相次ぐ(政治問題化?)」。
 津波避難計画不備で児童70人以上を死なせた責任あり、と判決を受けた市が認めず控訴。議会も開かず専決で控訴支持を決めた県知事に、議会が反発するのは当然と思えるが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(ここから)
 <大川小訴訟>専決で控訴 県議会異論相次ぐ
 http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201611/20161102_13024.html

・大川小の被災校舎=2016年10月26日、宮城県石巻市
*拡大写真略

 東日本大震災の津波で死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小の児童23人の19遺族が市と県に損害賠償を求めた訴訟で、控訴方針を専決処分した村井嘉浩知事に対して県議会の与野党会派から1日、異論が相次いだ。村井知事は急きょ全員協議会で説明に応じる考えを示し、中山耕一議長を通じて4日招集を通知した。自民党・県民会議(32人)は1日午前、県議会棟で会派総会を開き、知事が記者会見で表明した控訴の専決処分について協議。議員からは「議会軽視だ」「説明責任を果たしていない」などと不満が続出した。午後の各会派代表者らによる会長懇話会でも対応を疑問視する声が上がり、全協の開催を決定。中山氏は会議後、「控訴を表明する前に議会へ経緯を説明すべきだった」と強調した。ただし、会長懇の協議で全協は知事ら執行部の説明のみとし、議員の質疑はしないこととした。みやぎ県民の声(10人)の坂下康子政調会長は「本来なら臨時会の招集が筋。説明だけで開催の意義があるのか」と質疑の必要性を訴えたが、実施は見送られた。質疑見送りの判断について、自民会派からは「知事に説明は求めるが、是非を判断する『踏み絵』は避けたい。ベストな選択だった」(ベテラン議員)などといった率直な声も漏れた。村井知事は取材に対し、「時間的制約で専決を判断したが、説明がないという議会のお叱りは受け止めたい」との考えを示した。

 関連ページ:宮城政治・行政 2016年11月02日水曜日

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 説明は求めるが質疑はしない、とは?一応議会を立てろ、けど対立はしないとの形だけの政治的アピールにも思える。遺族に寄りそう姿勢は無いのだろうか。







(私論.私見)