釜石宝来館奮戦記

 更新日/2019(平成31).3.14日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「釜石宝来館女将奮戦記」を確認しておく。

 2019(平成31).3.14日 れんだいこ拝


【釜石宝来館奮戦記その1、事故直後の奮戦記】
 釜石市は、岩手県の南東部、リアス式海岸の特徴的な地形で知られる陸中海岸国立公園のほぼ中央に位置している。市の総面積は441.42平方キロメートルで、市域は東西29,552メートル、南北31,781メートルに及んでいる。三陸沿岸にある他の市町村と同様、三陸漁場の中心港を有している。釜石市は近代製鉄発祥の地としても大いに発展した歴史を持っている。昭和30年代にはその隆盛を極め、人口増加が加速。昭和38年に人口92,123人のピークを迎えたが、鉄鋼業の合理化の影響などによって減少に転じた。平成22年12月末には、人口40,056人、17,575世帯に落ち着き、水産業と製鉄業は、現在も市の重要な基幹産業として中心に据えられている。

 東日本大震災が引き起こした津波によって、死者・行方不明者が1,000人を超す大惨事となったが、市内の小中学生は、被災時、学校にいた生徒2,921人全員が無事に避難。下校後や欠席などで学校にいなかった生徒のうち5人と学校職員1人が行方不明となったが、その数は他の沿岸都市より大きく下回つている。

 2011.3.11日、創業48年の宝来館がある釜石市鵜住居町根浜も巨大な津波に襲われた。この地区には64世帯170名弱の方々が住んでいた。まるでコップの水があふれるようにやってきて、これが7回も繰り返した。建物が流され、所々で火の手があがり火災が発生した。この地区の大槌湾に面した根浜海岸という風光明媚な海岸から道路1本隔てて高い場所に立つ浜べの料理旅館「宝来館」(女将/岩崎昭子)も二階まで津波に襲われた。かろうじて4階部分が助かった。

 この日、宝来館で板長をしていた上澤隆年くん(享年49)の息子さんの内輪だけの結婚披露宴があった。会がお開きになり、女将が旅館に隣接する自宅に戻ったとき激震が襲った。女将は急いで宴会場に走り残っていたお客さんに声をかけた。ラジオ速報が知らせる津波の高さが3mから6mになったとき、「てんでんこっ」(津波がきたら人にかまわず必死で逃げろ)の三陸の教え通りに「ラジオを持って、外サ、駐車場サ行って!」と指示し、「虫の知らせ」のような霊感に導かれて、宿泊していた旅行客と従業員をホテルの裏山に登らせて避難させた。 女将は、自分のホテルが津波の避難所に指定されていたというのに、それも信じることなく、さらに高台にみんなを誘導した。皆が列をなして裏山の登山道を上り始めた。

 女将も上りかけたが、お客が残っていることに気づき、自分たちの命の危険をも顧みることなく女性スタッフと迎えに旅館に戻り、絶叫して避難を呼びかけて回った。その時すでに津波は近づいていた。 女将は、ノンビリ歩いていた人たちに悲鳴に似た避難の呼びかけをしており、女将の絶叫が「避難スイッチ」を入れ、つき動かされるように全力疾走で走っている映像が残されている。女将が逃げ遅れた人たちと再び登山道へと走り出したとき、津波が海からではなく横から鵜住居川を逆流して来ており、これに飲み込まれた。「登山道の入口が渋滞していて、後から来た二人のお母さんを押し上げて。さぁ上ろうとした瞬間、水の中だった」、「間に合うと思ったの。4軒となりに泊めている宝来館のバスがふわっと浮くのが見えた。と、次の瞬間、流されました」。津波にのまれた女将は水の中であおむけになった。「空を見上げて浮いた格好になっていた。その空がまた、すごく奇麗な青空で。痛くも怖くもないんです。あ~私、54歳だけど、これで死ぬ運命だったんだな」と、諦めにも似た思いがよぎった。


 突然、目の前が暗くなり息が苦しくなった。小型ボートが彼女の上に覆いかぶさったようだった。その息苦しさに正気に戻った。岩崎さんは強く思った。「生きっぺし!」。「生きっぺし」とは、「生き抜くぞ」、「生き続けよう」と自分に言い聞かせる方言である。運よくボートが頭上から外れ、立ち泳ぎをして浮かび上がった。宝来館の送迎バスなど2、3台の自動車が頭の上を通り過ぎた。波の中でもがくうちに光が見え、光の方向へ泳ぐ中で運を味方につけ奇跡的に、みんなが逃げた裏山の裾野の方に押し流された。「あのがれきをつかめば何とかなると手を伸ばしたら、ふわ~っと温かなんです。がれきじゃなくて女性スタッフの手だった」。「女将さん、手を離さないで」という声が聞こえた。一緒に流された2人の女性スタッフと助け合い、マイクロバスの屋根によじ登り、山の斜面に飛び移って山の急斜面を駆け上がった。間一髪で命をつないだ。助けられ九死に一生を得た。

 宝来館は避難指定ビルになっていた。駐車場に集落の人々が続々と集まってきた。そのとき上澤さん一家が親戚と車で帰ると言ってきた。「明治29年、昭和8年にも大津波があり、この地域では地震から津波が来るまで20分ほどかかることはわかっていた。一瞬、間に合うのかなと思ったんですが、『すぐ帰って。津波、来るから』と止めなかった」。自宅に向かった上澤さんは戻ってこなかった。「津波で屋外に投げ出された上澤くんは、電線につかまって奥さんと手をつないでいたけれど、奥さんの手が離れると『ちくしょー』と叫んで後を追ったそうです。生き残ったのは娘さんだけでした」。ほかにも、二人の仲居さんが津波の犠牲になった。

 震災の夜、女将は宝来館の屋上から懐中電灯で海を照らした。「誰かが砂に埋まって助けを求めているかもしれない。まだ、生きている人がいるかもしれない。途端に怖くなったんです。でも、『ごめん』としか言えなかった……」。電気は遮断されたまま、海は陸との境もわからない暗黒だった。「そしてまた、思うんです。生きっぺし、と。自分たちは生きている。だったら、生きっぺし。生き抜くことが使命。義務なんです」。地区の死者・行方不明者は583人に上り、宝来館の従業員も3人が犠牲になった。根浜の村の死者は14人。宝来館に逃げた人からは1人も犠牲者が出なかった。
 「今ね、宝来館では毎日、一周忌の法要をしているの。何も予定ないのは友引の日だけなの。昨日はね、8人亡くした方の一周忌。その前は一族38人の一周忌。普通は、『あの人、亡くなったずな』っていうでしょ? でもこの辺では逆。『あの人、生きでらったな』っていうの。釜石で亡くなった人、888人中、約600人が両石と鵜住居の人たちなの。でもね隣の大槌はもっと大変。1300人もの方が亡くなっているの」。「宝来館の亡くなった二人の仲居の一人は非番で休みだった方。宝来館が大好きなスタッフの方で、たまたま体調が悪くて家にいたそうです。そして彼女の遺体は『避難所としての宝来館が今日で解散するという3.26日、遺体があがったの。その子は宝来館が大好きだったから、ここ解散する前に見つけてほしかったんだね』」。

 「女将は、遺体安置所で経験した不思議な体験について語った。一か月もたつと、遺体というのは黒くただの木のような色になり、顔も何も見分けがつかなくなる。でも、ある奥さんがそのご遺体の前に来た時、とっさに『お父さん!』と。そのとたん、さっきまで黒かった遺体がすっと人のお顔に戻った。また、16才で亡くなった高校生は本人のものではないジャージを着せられていた。それでも、その子のお母さんは自分の子だってわかった」。(「2012.2/22 復興応援バスツアー宝来館の女将が語る3.11報告」参照)


【釜石宝来館奮戦記その2、避難民受け入れ】
 宝来館は釜石の海岸の一段高い場所に建っているため、津波のときの避難所に指定されていた。過去のチリ津波の時にも多くの地元の人々が逃げ込んだ。このたびは「宝来館」自体が大被害を受け、別館が全壊、一階・二階は津波被害に遭い吹き抜け状態となっていたが、3、4階は避難所として使うことができた。宝来館は、建物が半壊しながらも地域住民を支え続けた。震災翌日から3月末まで、約120名の人たちが避難生活をすることになった。当初はブルーシートを敷いて被災者が身を寄せた。2週間後、盛岡の避難所等々の避難所に移った。宝来館従業員一同が、震災前と同じように津波に残った大漁旗を女将が振って、共に過ごした地元の人たちを見送った。

 この間、女将はリーダー役となり避難生活を助けた。食料が支給されていたが次第に貰うだけに物足りなくなった。「働きたい」という気持ちが強くなった。その頃、支援物資でいただいた「りんご」が日を追うごとに傷んでいるのを見てもったいないと思うようになり、取材に来ていたスタッフの方に相談し、お菓子作りの先生を紹介してもらい、現地に来てもらい、皆でアップルパイやお菓子作りの勉強をし、5.1日、友人の藤原政子さんと震災前に話していた「山カフェ」を立ち上げた。また、カップめんやおにぎりしかなかったので、「郷土料理を食べてもらおう」との声に応えた。「じっとしているだけではなく、みんな働きたかった」と当時のことを振り返っている。
 
 めちゃくちゃに破壊されながらも「宝来館」には人が集った。多くの人たちが女将のもとに駆けつけ女将を応援した。

 5.3日、宝来館の復興にとボランティアと一緒に海岸の清掃活動を実施した。そこには津波で傷つきながらも力強く芽吹いたハマナスの姿があった。女将たちは、この海岸をまたハマナスで一杯にしたいと新たに苗を植えた。

【釜石宝来館奮戦記その3、宝来館再建運動】
 宝来館の避難所としての役割を終える時が来た。この時、電気工事の方が、「おかみさん、避難所を解散するなら、このままでいいから私たちを泊まらせてくれませんか?」とお願いした。「うちはお風呂も水も出なく、生活できる状況ではありませんよ」。すると、「私たちは、毎日車の中で足を折って寝ています。でもみんなに電気を届けたい。そのためにも従業員に足を伸ばして寝かせてあげたい」と言われた。宝来館がまだ人の役にたつことができる。必要としてくれる人がいると思った。「必要とされることが明日生きる糧、そして目標でした。それなら必要とされることをやろう。そして宝来館を再建しよう」と決意した。女将は復興への一歩を踏み出した。

 平成23年9月から復旧工事が始まり、翌年1月5日から営業再開。全国から多くの宿泊客が訪れた。女将は「宝来館」の立て直しと同時に地域の復興に尽力した。


【釜石宝来館奮戦記その4、2019ラグビーW杯釜石誘致運動】
 5.3日、震災から2カ月後、新日鐵釜石ラグビー部を受け継いだクラブチーム「釜石シーウェイブス」の事務局長・増田久士さんと岩手県出身で元日本代表のラガーマン・笹田学の二人の男性が宝来館を見舞いに訪れた。女将は三人で海岸を歩いた。震災前の根浜海岸は、日本白砂青松100選に指定された景勝地だったが、2キロあった砂浜は津波で半分になり、松林は50メートルほどしか残っていなかった。松林の残骸を撤去するブルドーザーが行き交う浜を眺めながら笹田さんが言った。「ここはニュージーランドやオーストラリアのラグビー場に似ているよ。港から芝生が見えて、すぐ近くにスタジアムがあるんだ。ここでW杯がやれたらいいね」。女将ははじけるように叫んでいた。「やってけれ!絶対に釜石でW杯をやってけろ!」。

 釜石はラグビーの街でもあった。1960年代、製鉄の街として隆盛を極めたいた頃の新日鐵釜石ラグビー部は1979年から日本選手権7連覇を遂げ、8度、日本一となって「北の鉄人」と呼ばれるほどの活躍を見せていた。女将は当時20代で熱狂した一人だった。「ラグビー部は釜石市民の誇りです。優勝パレードをすれば一目、選手を見ようと、屋根にまで人が上がっていましたよ。釜石の体育館でダンスパーティをしたときに、ラグビー部が来ると聞いて、私たち、その日のために社交ダンスを習ってね。22-23歳だったかな。スーパースターの松尾(雄治・元主将兼監督)さんとは踊れなかったけど、森(重隆・元主将兼監督)さんとは手をつないでダンスして。それがずっと自慢でした」。若かりし日を思い出しながら、女将は軽トラから色鮮やかな大漁旗を出して広げて見せた。「私たち、釜石の市民は、ラグビーの試合があると、この“ふらいき”を振って応援するんです」。“ふらいき”とは、いわゆる大漁旗のこと。この地方では「富来旗」もしくは「福来旗」と書く。女将はこの縁起旗をことあるごとに振ってきた。スタジアムの中央に立った女将が大漁旗を高く掲げた。カメラマンの要望に応えて、右に、左に大きく振る。原色が鮮やかな大漁旗が青空に翻った。女将は復興が進むようにと祈りを込めて振った。「大漁旗を振っていると、いろいろなことが忘れられる。もう、前を向かねばと思うんですよね」。

 
「ラグビーの街にW杯が来る。これほどピッタリなことはない。世界じゅうから根浜の海にラグビーファンが集まるんです!」。女将の夢が広がった。ラグビーW杯は、夏季五輪、サッカーW杯と並ぶ世界3大スポーツの祭典で、試合は全国12カ所のスタジアムで行われる。開催を受け入れる自治体には大きなスタジアムがあることが条件だった。釜石は大震災で壊滅状態に陥ったばかりで街にはがれきがあふれていた。とてもW杯どころではなかった。しかし、釜石へのW杯誘致の言い出しっぺとなった女将は宝来館再建と同時にラグビーW杯招致に向けて奔走し始めた。招致活動の先頭に立ちイベントやフォーラムには必ず出席、一貫してこう訴えた。「子どもたちの未来のために、釜石でW杯をやりましょう」、「W杯招致とスタジアム建設を通じて、明るい希望のある未来につなげていきましょう」。

 震災のその年に、釜石有志による「釜石ラグビーW杯2019を語る会」が開かれ、W杯招致をしていくことが正式に決まった。釜石の復興をラグビーで支援する「スクラム釜石」が東京で立ち上がった。その第2回会合で、女将は熱い夢を語った。「復興も大事ですが私たちには夢が必要です。釜石でW杯をやりましょう。私たちはスポーツで夢をもらいたい。夢をください」。最初は誰もが半信半疑だった。それでも女将は訴え続けた。「津波が怖いから、何もやらないでは、何もできません。大地震を経験して、私たちにはどうすれば生き残れるかという知恵がある。津波は防ぐことはできない。でも、避難場所を造って、津波が来る前に、てんでんこ(バラバラ)に逃げる。それを教えていくのが、震災で生かされた私らの役目です。いま夢を語らねば、いつ語るんですか」。震災直後の5月から、宝来館再建と同時に、ラグビーW杯招致に向けて奔走し始めた女将がいなかったら、震災被害が甚大だった釜石で、W杯開催など、誰も思いつかなかったことだろう。

【大規模な防波堤や防潮堤の是非】
 釜石市の沿岸地域では、高さ14.8メートルの防潮堤を造る工事が進められている。根浜地区では美しい海の景観を遮ってしまうことを理由に造成を断ったが、断りきれなかった。

【釜石宝来館奮戦記その5、宝来館ニューアルオープン】
 2012.5.1日、閉館を余儀なくされていた宝来館が再オープンした。この日、工事関係者、有識者、ボランティアを除いて、新安比温泉の橋本英子女将らの㈱のびあのツアーが震災後初めての一般の観光客となった。 

 震災から1年後、営業再開。自らも津波にのまれるという恐ろしい体験を経ながらも、三陸で生きていく自らの姿を世界中に伝えたいという気持ちで、全国各地から訪れる宿泊客を迎え入れた。大槌湾沿岸域を「どんぐりウミネコ村」と名付け、地域の活性化・復興のためのさまざまな活動にも精力的に取り組んだ。


 2015.4.25日、岩手県釜石市に旅館「有限会社宝来館」(以下、宝来館)が株式会社北日本銀行(以下、北日本銀行)による融資に加え、公益財団法人三菱商事復興支援財団(以下、三菱商事復興支援財団)から2,000万円の出資を受けリニューアルオープンした。
 
 再建にあたっては、地元釜石市が誇る白砂青松の根浜海岸や、地元三陸産の海の幸をふんだんに使った料理など、自然の豊かさを宿泊客の皆様にご堪能頂くことをコンセプトに、釜石市の観光拠点となることを目指している。宝来館では、今回のリニューアルオープンにより、30名の雇用と、年間約2万人の宿泊客を見込んでいる。 

 他方、14.5mの防潮堤工事が始まった。海の目の前にある宝来館は、5階建ての防潮堤ができると見晴らしが悪くなる。

【釜石宝来館奮戦記その6、女将の「箱崎半島アートの森構想」運動】
 女将は云う。「単にW杯の開催を目指してきたわけではありません。生まれ育った根浜地区は戦後、海水浴場を中心に観光業で栄えた地域。もう一度、観光で人が集まりにぎわう場所にしたい。W杯がそのきっかけになれば」。震災後、日本中、世界中の人たちとつながりながら旅館の再建、地域の再生に取り組んできた。「三陸の特徴は海と背後の山が近く、それぞれの集落の人たちが行き来し支え合っていることです。箱崎半島全体で世界中からのお客さんをもてなし、自然や文化を感じてほしいんです」と語る。その一つとして掲げている根浜再興構想は海岸にとどまらない「箱崎半島アートの森構想」。観光客が民家に泊まり地元の暮らしを楽しむ「民泊」の仕組みを使って根浜地区を「民泊村」にし、世界からのアーティストやミュージシャンを受け入れたいと考えている。アーティストが箱崎の山に作品をつくり、根浜を訪れるアート好きな人たちは山を散策しながら、アーティストの作品と三陸の山と海を愉しむことができる……、そんな空間を思い描いている。

 根浜海岸は白砂青松100選」にも選ばれているワカメ漁などが盛んな箱崎半島の入り口部分にあたる。鵜住居川の河口近くから大槌湾に面し、2キロにわたる広く白い砂浜と松林が、海水浴場、景勝地として親しまれていた。60数世帯の集落の根浜の家屋はほとんどが流され、みな仮設住宅の生活を余儀なくされた。40世帯以上は再び根浜に戻ることを決め、元の集落の山側を切り開き、移転先として造成することになった。2014年6月から造成工事が始まり、2016年夏には造成工事が終わった土地で住宅や災害公営住宅の建設ができるようになる見通し。

 大規模な造成工事が続くなか、2015年6月に残念な知らせがあった。津波で失われた根浜海岸の砂浜が自然に再生するには少なくとも360年かかると釜石市が発表した。調査の結果、震災の前と後の航空写真を比較すると、長さ1・5キロの海岸線が約300メートル後退しているという。約50万立法メートルの砂が沖などに流されたことになる。釜石市は人工的に砂浜を再生する方法をさぐっている。


 根浜の人たちは行政の動きとは別の自力の復興運動を始めている。「津波の前、根浜にはクロマツやハマナス、ハマボウフウ、ハマグミなどたくさんの植物があって、それが当たり前のことだった」と振り返るのは、元漁師で現在は市内の仮設住宅で暮らす佐々木虎男さん。佐々木さんは、津波の時、避難を呼びかけるため海岸近くにあった半鐘を最後まで鳴らし続けていた。避難路からその様子を見ていた人たちは佐々木さんは助からなかったかと絶望したが、間一髪、宝来館の階段を駆け上って逃げることができた。長年、海で生きてきた佐々木さんの根浜の海や海岸への思いは変わらなかった。「津波で壊れたのは家や建物、防潮堤や橋ばかりと思われているけれども、自然も破壊されたんだ。自分の生まれ育った根浜の自然を取り戻して、震災前の根浜に少しでも近づけたい」。

 2014年2月、地域で10名ほどが集まって新しい団体が発足した。「根浜ハマボウフウ研究会」。ハマボウフウはセリ科の多年草で、地中深くに伸びた根には薬効があると言われている。昔は全国の浜辺の砂地で見られたが、近年は限られた浜にしか生息しない希少な植物になっている。震災前の根浜海岸は、春になるとハマボウフウが芽吹き、夏には濃い緑が砂浜に彩りを添えていた。 しかし、津波の後、2年たってもハマボウフウが芽を出すことはなかった。なじみ深いハマボウフウをもう一度根浜で見たい、さらにハマボウフウを地域の料理にも使ってみたい、女将はそんな思いで、海岸だけでなく鵜住居川下流などでハマボウフウを探し続けた。すると、2013年秋、根浜からほど近い片岸町で、ハマボウフウが生えているのを見つけた。片岸町は同じ大槌湾に面していて、根浜の北側の地域。津波によって押し流された根浜海岸の砂は片岸に堆積しているとも言われ、環境が似ているのか、ハマボウフウは青々と茂っていた。女将はこのハマボウフウを持ち帰り、すぐ佐々木さんに報告した。以来、佐々木さんを中心としたハマボウフウ研究会が、試行錯誤して適地を探し苗を移植して増やし600株ほどまで増えた。佐々木さんは「おれ一人にできることじゃねえ」とぶっきらぼうに言う。

 研究会の活動は、元「宝来館」従業員で、震災後は一般社団法人「三陸ひとつなぎ自然学校」を立ち上げた伊藤聡さんやボランティアによって支えられている。夏の草取りにはたくさんのボランティアが参加した。「震災前は身の回りの自然はあるのが当たり前だったけれども、山に木がなくなれば人は生きていけなくなるし、自然はまわりまわって人間を助けてくれる。根浜に自然を取り戻すのはおれたちの役目なんだ」と佐々木さんは言う。根浜地区では防潮堤の復元工事が続いており、ハマボウフウは工事終了後に根浜海岸に植え替える予定になっている。

 女将の構想の出発点となったのは、2014年に宝来館の裏山に完成した根浜地区の木製避難路<絆の道>。女将の発案で釜石地方森林組合がボランティアで施工したもの。消防団員が車椅子で避難した人を助けようとして亡くなった事例があったことから、車椅子でも速く安全に避難できる手段が欲しいと同組合に相談し実現させた。釜石市を支援するUBSグループや国内の企業などのべ400人のボランティアが1年かけて160mにわたりスギの板のなだらかなレールにした。この避難路が安全に使えるよう、草取りやレールの整備などの作業のために、今も東京からボランティアがやってきて、「手をかけるたびに避難路への愛着が増す」と口々に言う。そんな姿を見ながら女将は、海だけでなく山の持つ魅力や可能性を強く感じるようになった。さらに、2015年夏、半島の突端部分が環境省の「みちのく潮風トレイル」のコースの一部として設定されたことも後押しした。トレイルコースの整備にも、企業や大学のボランティアがかかわり始めており、地域の人とソトの人がいっしょになって半島の魅力を打ち出す取り組みになろうとしている。

 箱崎半島の玄関口は根浜海岸。女将や佐々木さんは、ハマボウフウだけでなく、震災後に芽を出したクロマツも増やしている。女将は「東日本大震災から5年たって、ますます根浜のマツの価値は高まっている」と言う。それは、「三陸ひとつなぎ自然学校」(さんつな)の伊藤さんらが重機を入れずボランティアを集めて人力でがれきを撤去し、がれきの下のマツを守ったからです。「さんつなや根浜の人たちが守ったマツには震災後の物語がまだまだ続いていきます。その物語を世界中の人たちと分かち合い、根浜の魅力を伝えていきたいと思います」。


【釜石宝来館奮戦記その7、「ラグビーワールドカップ2019」開催地の一つに釜石決定】
 2015(平成27).3.2日、東日本大震災から4年を迎えようとしていたこの日、「ラグビーワールドカップ2019」W杯を開催する12都市が発表された。「札幌」に続いて「か」が聞こえた瞬間、大歓声が起こった。日本大会の国内12開催地の一つとして、岩手県釜石市が選ばれた。釜石にラグビーW杯がやってくる!後は「釜石、釜石」の大合唱。9.25日14時15分キックオフ。フィジー対ウルグアイ。ひときわ喜びに沸いたのは、スタジアムの建設候補地である鵜住居地区の東部・根浜地区の人たちだった。この地区にある旅館「宝来館」では決定の瞬間をみんなで迎えようと120人が集まり、開催地のひとつとして「釜石」の名が呼ばれると拍手と歓声に包まれた。

 女将と共にW杯招致に奔走した浜登寿男さん(50・釜石シーウェイブス理事)はこう話す。「女将さんは、愚痴っぽいことを口にしても、数秒で切り替えて『前に進まねば』と、あっけらかんとしています。どんな負の要素もプラスに変え、エネルギーにして突き進むパワーがあるんです」。ラグビーW杯は釜石復興につながる。岩崎さんも浜登さんも、同じ信念でここまで走り続けてきた。「ラグビーは、体格も性格もバラバラな人たちが勝利という目的に向かって、チームを1つにします。工業、商業、観光、漁業、農業と、それぞれの業種業態の人たちが、復興という目的に向かっていく姿は、ラグビーと重なるんです。バラバラにやっていては、うまくいきません。いろんな立場の人がW杯を目標に、チームとなって一緒に頑張る。そのW杯を通じて、市民が何を感じ、どう復興に生かすのか。大事なのはそこです」。

 新日鉄釜石ラグビー部を育んだ鉄とラグビーの街を再び観光で賑わう場所にしたい、子供達に夢を届けたいという希望を持って2019ラグビーW杯誘致の苦労が実った。宝来館の少し先にある夫婦岩の岩場は、ハマギクの自生地だ。花言葉は「逆境に立ち向かう」。秋になると、丘一面にギッシリと咲き誇る。「その先をさらに行けば、スタジアム。釜石で試合をするW杯の選手たちは、必ず、このハマギクの丘を通るんです。あ~、ハマギクの季節が待ち遠しいですね」。

【釜石宝来館奮戦記その8、さらにその後の奮戦記】
 2016(平成28).3.30日、岩手県釜石市の根浜海岸に「おかえりなさい」(平成19年発売のシングル)の歌碑が完成し、除幕式典が行われた。生前、島倉千代子が、平成23年の東日本大震災の大きな被害に胸をいため、「落ち着いたら被災地へ持ち歌の『おかえりなさい』(作詩:友利歩未、作曲:杉村俊博、平成19年5月30日に発売。定年で職場から離れていく団塊の世代へ向けた応援歌)を歌いにいきたい」と語っていた。その「おかえりなさい」を、震災で犠牲になった方々に「お帰りなさい」…、いまだ行方が分からない方々には「帰っておいで」…と、そんな思いをこめて歌いに行きたいと周囲に話していたが、この思いを遂げることができずに他界した。本人の思いを聞いていた関西地区のファンクラブ島倉千代子後援会(事務局・大阪市吹田市、吉田恵美子代表、会員約160人)が、平成27年3月、同曲の歌碑建立を計画した。吉田代表ら4人が発起人となり会員に寄付を呼びかけると歌碑建立のための寄付金323万8000円が集まった。吉田代表の友人で釜石市出身の小松廣子さん・義次さん夫妻に相談すると、夫妻の知り合いであった旅館「宝来館」の女将・岩崎昭子さんの好意で同地の敷地内に歌碑建立することになった。同年10月末、「おかえりなさい」の白御影石製で高さ90cm、幅約1.4m歌碑が完成した。「おかえりなさい」の歌詩が刻まれ、背面にはそのジャケット写真が刻みいれられている。製作は島倉千代子の墓石も製作した稗田石材店で、東京から10時間の移動を経て同地に運び込まれ設置した。本人の誕生日に合わせて除幕した。
 ■設置場所:岩手県釜石市鵜住居町20-93-18(宝来館)
 2018.1.19日、メニコンANNEX・HITOMIホールにて「宝来館」旅館女将、岩﨑昭子講演会/タイトル「生き続けるということ~名物女将が語る東日本大震災から未来のまちづくり~」が開催された。女将は、東日本大震災で九死に一生を得た体験から津波避難の教訓を伝え、日本中、世界中の人と絆を結び、旅館の再建や地域社会の再生のために尽力している。

 三陸地震と南海地震は、どちらか一方が発生すると、10年以内にはもう一方も発生しているという事は過去の歴史が物語っている。東日本大震災の発生から7年目を迎えた今、近い将来発生する可能性の高い南海トラフ地震において大切な命を守る行動や防災に対して地域の皆様と一緒に考える機会とさせていただきます。
 2018.8月、「釜石鵜住居復興スタジアム」が完成した。目の前に大槌湾、メインスタンド後方には、深い森がある。このスタジアムで今年9月25日、「ラグビーW杯2019」が開催される。

【釜石宝来館奮戦記その9、社長哀史】
 2019.3.9日午後9時00分~9時49分、NHKスペシャル「崖っぷちでもがんばっぺ~旅館おかみと“魚の町”の社長の奮闘記」。復興支援で借りた億単位の借金。まもなく返済猶予が切れる。今、崖っぷちに立たされている被災地沿岸の社長たち。 岩手県釜石の旅館「宝来館」のおかみ、岩崎昭子さんもそんな一人だ。国から3億円の補助金を借り再建を果たしたが8年たった今、客足が遠のき始めている。正念場の冬場をどう乗り切るのか。震災から時が経つほど復興需要に依存していられない被災地の現実が横たわる。苦闘しながら活路を求めてもがく社長たちの奮闘記。





(私論.私見)

原爆と秘密結社 元米陸軍情報将校が解明した真相
デビッド・J・ディオニシ (著)、平和教育協会 (翻訳)