この日、宝来館で板長をしていた上澤隆年くん(享年49)の息子さんの内輪だけの結婚披露宴があった。会がお開きになり、女将が旅館に隣接する自宅に戻ったとき激震が襲った。女将は急いで宴会場に走り残っていたお客さんに声をかけた。ラジオ速報が知らせる津波の高さが3mから6mになったとき、「てんでんこっ」(津波がきたら人にかまわず必死で逃げろ)の三陸の教え通りに「ラジオを持って、外サ、駐車場サ行って!」と指示し、「虫の知らせ」のような霊感に導かれて、宿泊していた旅行客と従業員をホテルの裏山に登らせて避難させた。 女将は、自分のホテルが津波の避難所に指定されていたというのに、それも信じることなく、さらに高台にみんなを誘導した。皆が列をなして裏山の登山道を上り始めた。
女将も上りかけたが、お客が残っていることに気づき、自分たちの命の危険をも顧みることなく女性スタッフと迎えに旅館に戻り、絶叫して避難を呼びかけて回った。その時すでに津波は近づいていた。 女将は、ノンビリ歩いていた人たちに悲鳴に似た避難の呼びかけをしており、女将の絶叫が「避難スイッチ」を入れ、つき動かされるように全力疾走で走っている映像が残されている。女将が逃げ遅れた人たちと再び登山道へと走り出したとき、津波が海からではなく横から鵜住居川を逆流して来ており、これに飲み込まれた。「登山道の入口が渋滞していて、後から来た二人のお母さんを押し上げて。さぁ上ろうとした瞬間、水の中だった」、「間に合うと思ったの。4軒となりに泊めている宝来館のバスがふわっと浮くのが見えた。と、次の瞬間、流されました」。津波にのまれた女将は水の中であおむけになった。「空を見上げて浮いた格好になっていた。その空がまた、すごく奇麗な青空で。痛くも怖くもないんです。あ~私、54歳だけど、これで死ぬ運命だったんだな」と、諦めにも似た思いがよぎった。
突然、目の前が暗くなり息が苦しくなった。小型ボートが彼女の上に覆いかぶさったようだった。その息苦しさに正気に戻った。岩崎さんは強く思った。「生きっぺし!」。「生きっぺし」とは、「生き抜くぞ」、「生き続けよう」と自分に言い聞かせる方言である。運よくボートが頭上から外れ、立ち泳ぎをして浮かび上がった。宝来館の送迎バスなど2、3台の自動車が頭の上を通り過ぎた。波の中でもがくうちに光が見え、光の方向へ泳ぐ中で運を味方につけ奇跡的に、みんなが逃げた裏山の裾野の方に押し流された。「あのがれきをつかめば何とかなると手を伸ばしたら、ふわ~っと温かなんです。がれきじゃなくて女性スタッフの手だった」。「女将さん、手を離さないで」という声が聞こえた。一緒に流された2人の女性スタッフと助け合い、マイクロバスの屋根によじ登り、山の斜面に飛び移って山の急斜面を駆け上がった。間一髪で命をつないだ。助けられ九死に一生を得た。
宝来館は避難指定ビルになっていた。駐車場に集落の人々が続々と集まってきた。そのとき上澤さん一家が親戚と車で帰ると言ってきた。「明治29年、昭和8年にも大津波があり、この地域では地震から津波が来るまで20分ほどかかることはわかっていた。一瞬、間に合うのかなと思ったんですが、『すぐ帰って。津波、来るから』と止めなかった」。
震災の夜、女将は宝来館の屋上から懐中電灯で海を照らした。「誰かが砂に埋まって助けを求めているかもしれない。まだ、生きている人がいるかもしれない。途端に怖くなったんです。でも、『ごめん』としか言えなかった……」。電気は遮断されたまま、海は陸との境もわからない暗黒だった。「そしてまた、思うんです。生きっぺし、と。自分たちは生きている。だったら、生きっぺし。生き抜くことが使命。義務なんです」。地区の死者・行方不明者は583人に上り、宝来館の従業員も3人が犠牲になった。根浜の村の死者は14人。宝来館に逃げた人からは1人も犠牲者が出なかった。