和歌山県日高郡日高町小浦原発阻止闘争考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).8.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「和歌山県日高郡日高町小浦原発阻止闘争考」を確認する。「日高原子力発電所」、1997年10月4日「原発反対三重県民会議97年総会への報告と提案」、「紀勢町住民主権の会の記録」、「海亀の来る浜」、「1Q74 1967年芦浜」その他を参照する。

 2016.03.12日 れんだいこ拝


 和歌山県の原発:http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0c7a.html 参照

【和歌山県日高郡日高町小浦原発阻止闘争考】
 日高(ひだか)原子力発電所は、和歌山県日高郡日高町に関西電力により計画されていた原子力発電所である。2005年に、国による開発促進重要地点の指定が解除され、計画は中止となった。 その経緯は次の通り。

 1967年、町長は日高町阿尾地区に原子力発電所の誘致を表明、町議会は誘致議案を可決した。翌年、阿尾区と比井崎漁協が反対決議。これを受け、町長は原発誘致の白紙撤回を表明した。

 1975年、関西電力は日高町に対し、120万kW級原子力発電所2基を建設すべく、小浦地区での環境調査を申し入れた。

 1978年、小浦区と比井崎漁協は環境調査受け入れを決議。

 1979年、スリーマイル島原子力発電所事故。これにより一旦は環境調査が凍結となった。

 1981年、関西電力による環境アセスメントの陸上調査が開始した。1984年からの海上調査に際しては、漁協や住民は推進派と反対派に二分して紛糾し、結論は出なかった。

 1986年、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生、周辺市町村を含んだ反対運動が活発になった。

 1990年、反対派の町長が当選、3期12年務めた。

 2002年の町長選挙でも、反対派の中善夫候補が当選した。中町長は当選直後と2004年に、関電に対し原発建設の中止を申し入れた。

 2005年、国による開発促進重要地点の指定が解除され、計画は中止となった。

 2013年、日高原子力発電所と、紀伊水道を挟んだ対岸の徳島県阿南市の四国電力蒲生田原子力発電所の反対運動を描いたドキュメンタリー映画が製作された。和歌山県内には、日高町のほか日置川町(現 白浜町)、那智勝浦町、古座町(現 串本町)に原子力発電所の建設計画があったが、いずれも建設は具体化していない[4]

[脚注の使い方]
  • 汐見 文隆 (監修), 「脱原発わかやま」編集委員会 (編集)『原発を拒み続けた和歌山の記録』([2012年 寿郎社)
 2012.7.31日、「【書評】北村博司『原発を止めた町』(現代書館)-原発現地の闘いをどう発展させるか」。
 「中曽根水ぶっかけ」で思い出したのは、「なぜ警告を続けるのか」に登場した、小浦原発計画を断念させた日高漁協の方々のことである。88年、漁協の臨時総会が紛糾して、反対派が実力行使をして、議事進行を断念させた。このへんの事情は「なぜ警」に紹介されているが、日高の漁師さんは、原発を阻止して本当に良かった、立地をさせられてしまった他の地域の人が気の毒だ、と言っていた。…実力行使とは、どういうことか。それは、怒った人々が議長席へ突進し、マイクを奪って総会を進行させないように邪魔をする、ということである。漁協が受け入れを決定しないと、原発が作れないからだ。…ふうん、そういうことで、原発立地を止められるんだ…。なんだ、そんなことでいいのか?とても失礼な言い方になるが。これは、漁師さんたちの集団だったから、できたことなのかもしれないが。賛成派も反対派も漁師さんだから、警察を呼ぶ、ということには、たぶんならないのだ。なんだ、そんなことでいいのか?というのは、その前に78年に伊方原発訴訟で一審棄却で負けているからだ。小出さんらが証人となって、熊取6人組が「志高く立ちはだかった」というのに。そのあと、92年に最高裁で敗訴決定。今は3号機まで作られてしまっている。
 http://ameblo.jp/nothingrealymatters/entry-10892595135.html

 2012年1月2日 、「原発の火種消した町 漁師、医師ら40年のたたかい 和歌山県 日高町」。

  関西南部の紀伊半島では過去に、関西電力が五カ所で原発建設を計画しましたが、住民運動で一基の建設も許していません。紀伊水道の穏やかな海に面した和歌 山県日高町もその一つ。「日高原発」の建設を巡り、人口七〇〇〇人の小さな町を二分した熾烈なたたかいがありました。関電が一九六七年に同町阿(あ)尾 (お)で、続いて小(お)浦(うら)に建設をもくろみます。「豊かな海を守ろう」と漁師や町民、三〇キロ圏の周辺住民、そして医師が立ち上がります。巨額 の補償金で住民分断を図る関電。建設まであと一歩と追い込まれながら、押し返した住民。約四〇年のたたかいを経て、ついに原発の火種を消しました。(新井 健治記者)

 「板子一枚下地獄」

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 「漁師の世界では『板子(いたご)一枚下地獄』と言ってな、お互い助け合わないと生きていけない。町長、この気持ちがわかるか」―。漁師の濱一己さんの叫びが、議場にこだまします。壇上には二〇年にわたり原発を推進してきた一松春(はじむ)町長(当時)の姿が。

 板子とは舟底に敷く揚げ板のこと。板子の下には危険な海が広がります。漁師は命がけで漁をし、いざという時には身を投げ打っても仲間を助けます。原発はこの人間関係をずたずたにしました。
 関電は一九七五年、小浦崎の突端を埋め立て一二〇万キロワット二基の原発建設を計画。約七億円の漁業補償金を提示し、漁師は推進派と反対派に二分されま した。方杭(かたくい)浜の濱さん(62)の自宅から、小浦崎までわずか八〇〇メートルです。「親からもらった海を子どもたちにつないでいくには、原発で海を汚したらあかん」と濱さん。「日高町原発反対連絡協議会」事務局長として反対派を引っ張りました。濱さんが町長に訴えたのは、一九九〇年の比井崎(ひいざき)漁協総代会。同漁協は阿尾、小浦など日高町沿岸九漁港の漁師が会員です。世論に押された漁協 は建設拒否を決定。直後に原発反対の町長が当選し、建設は事実上ストップします。ただ、ここまで来るのは長い道のりでした。

 アカのレッテルで分断

 日高町で原発建設の話が持ち上がったのは一九六七年。関電はまず阿尾で計画。住民の反対で頓挫すると、小浦に持ちかけます。最初に動いたのは女性たちでした。「男は黙って働いて、しゃべるのは女に任せたんやな」と振り返るのは「原発に反対する女の会」のメンバーで元教師の鈴木静枝さん(93)。今は阿尾港の見える高台の特別養護老人ホームに入居しています。鈴木さんの反対の原点は戦争です。「人を殺していいと教育した。もう、騙されたないわ、お上の言うことは信用できへん、との思いがあった」と言います。原発も突如、“お上”から。「『原発さえできれば豊かになれる』という、ありがたい話なので疑った」。直感でその危うさを見抜きました。「難しいことは分からんが、お上の言うことは聞かんと」と推進派からは言われました。原発反対はお上に反対すること。「わたしらは『アカ』ということになってね」と笑います。

 同町は関電とともに、建設を推進。反対だった住民も、関電の接待攻勢や就職斡旋で賛成に転じます。漁協も理事の大半は推進派に。親兄弟、親戚でさえ賛成 派と反対派に分かれ、漁船の進水式や結婚式にも呼ばないなど狭い町内が険悪なムードに包まれました。阿尾港の漁師として建設に反対し、今は比井崎漁協組合長を務める初井敏信さん(63)は、「周囲の漁師が次々に切り崩されていく。本当に阻止できるのか、不安とのたたかいだった」と振り返ります。

 立ち上がった周辺住民

 一九八一年、関電は原発建設に必要な環境アセスメントの陸上調査を開始。後は漁協が海上調 査に同意すれば、建設が始まることになっていました。調査を巡り、漁協は何度も総会を開きます。理事会が受け入れ議案を提案しても、反対派の組合員が激し く抵抗して紛糾、総会は流会、散会を繰り返しました。ぎりぎりの状況の中、一九八六年にチェルノブイリ原発事故が起きます。事故では原発から三〇キロ圏が立ち入り禁止区域に。この事故に危機感を深めた日高 町と周辺自治体(御坊市と八町)の住民が翌八七年、「日高原発反対30キロ圏内住民の会」を結成します。「原発は一自治体だけの問題ではない」との結成呼 びかけ文は、福島原発事故にも通じる先駆的な視点でした。同会事務局長で元中学教師の橋本武人(たけんど)さん(御坊市)は「授業が終わってからビラを配り、学習会を開き、それこそ東奔西走の毎日だった」。同会は建設反対の世論づくりに尽力。日高郡市で一七の住民の会を組織し、署名を集めました。日高町と隣接するすべての自治体(五市町)で、有権者の過半数が署名し、推進派を包囲しました。「会ができる前は『建設を阻止できないのでは』という気持ちも。ところが、運動を始めると圧倒的に反対世論が強い。場さえ作れば住民は立ち上がると肌で感じた」と橋本さん。

 医師31人が意見広告

 激しいせめぎ合いが続く中、医師たちも立ち上がります。一九八八年三月、日高医師会(日高郡市)の医師三一人が、連名で新聞に意見広告「恐ろしい原発はいらない」(写真左)を出したのです。日高町で唯一名前を連ねた古田医院の古田浩太郎院長(71)は「住民の健康を守る医師にとって、その対極にあるのが原発」と言います。病院勤務医から一九七五年に開業した古田さん。「帰郷した時、息子と見た紀伊水道の夕日が忘れられない。この海を守りたくて反対した」。住民の信頼が厚い医師の意見広告は、世論づくりの弾みに。橋本事務局長は「医師の意見広告は署名集めに大きな効果があった」と指摘します。

 原発から福祉の町へ

 反対世論が高まっても、一松町長は建設に固執しました。30キロ圏内住民の会は「町長を変えるしかない」と「新しい日高町をつくる会」を結成。同会は一九九〇年の町長選で「原発に頼らない町政」を掲げた志賀政憲さんを擁立、当選させます。町議の大半は推進派。志賀さん(74)は議会対策で苦労しました。「建設に反対すれば国から交付金が来ない」と攻撃されましたが、周辺自治体に先駆け福 祉センターを造り、中学までの医療費無料化を実現。原発に代わり福祉の町づくりをすすめました。その結果、過疎化がすすむ県内では珍しく、日高町はここ二〇年、人口が増えています。紀伊水道は数少ない天然の高級魚クエで有名。同町はクエを観光資源化、観光客も大勢訪れるようになりました。前出の濱さんもクエ漁師です。「今は近隣自治体や大阪からも感謝の電話が来る。在職中は悩んだが、判断は正しかった」と志賀前町長。八期にわたり原発反対を貫いた一松輝夫町議(62)は「私が反対した一番大きな理由は、関電に田舎の良さを破壊されたこと。札束で頬を叩くような仕打ち への怒りだった」と言います。「どちらかと言えば、右翼なんだけどね」と笑う一松町議。「甘言に惑わされず原発を許さなかった地域を誇りに思う」。

 隣市で核燃施設の計画

 志賀さんを継ぎ、二〇〇二年から町長を務める中善夫さんも原発反対です。関電は建設をあき らめませんでしたが、二〇〇五年に国が小浦の「開発促進重要地点」(現在は重要電源促進地点)指定を解除、実質的に建設は不可能になりました。一九六七年 以来、約四〇年くすぶり続けた原発の火種は鎮火しました。ただ、油断はできません。二〇〇三年、使用済み核燃料の中間貯蔵施設を日高町隣の御坊市に建設する計画が明らかに。30キロ圏内住民の会は「日高原発・ 核燃施設反対30キロ圏内住民の会」と名称を変え、活動を続けています。

 古田さんらは「使用済み核燃料中間貯蔵施設建設に反対する医師の会」(深谷修平会長)を立ち上げました。日高医師会の会員九〇人に呼びかけたところ、六〇人が会の趣旨に賛同しました。 同会事務局長で龍神医院(美浜町)院長の龍神弘幸さん(58)は、「医療従事者の良心にかけて反対を貫く」と言います。龍神さんは民医連の和歌山生協病 院を経て、一九九六年に開業。「核燃施設は今でこそストップしているが、全国に原発がある限り、いつ再燃するかわからない。火種を消すには、原発を止める しかない」。原発で二分された町内も、月日が経ち修復されたかに見えます。福島原発事故で、反対運動の意義は明らかになりつつありますが、濱さんは「自分たちが正し かった、とは強調しない。逆に『もともと同じ漁師やないか』と、こちらから推進派だった人に声をかけている」と気を遣います。初井組合長は言います。「国 や関電が人間関係を壊したのは大きな罪。反省してほしい」。


 日高原発建設を巡る動き

1967年 町長が阿尾に原発誘致表明。町議会が誘致決議
1968年 阿尾区及び比井崎漁協が反対決議
       町長が原発誘致の白紙撤回を表明
1975年 関電が小浦での環境調査を町長に申し入れ
1978年 小浦区と比井崎漁協が環境調査受け入れを決議
1979年 スリーマイル島原発事故。町長は環境調査を凍結
1980年 町長が環境調査凍結を解除
       日高町原発反対連絡協議会結成
1981年 関電が陸上調査開始
1984年 海上調査受け入れを巡り比井崎漁協総会が流会
1985年 比井崎漁協総会は紛糾の末、継続審議
1986年 チェルノブイリ原発事故
1987年 日高原発反対30キロ圏内住民の会結成
1988年 医師31人が新聞に意見広告を発表
       比井崎漁協総会で海上調査の議案が廃案
1990年 比井崎漁協理事会が「原発にとりくまない」と決定
       原発反対派の志賀政憲さんが町長当選(3期)
2002年 原発反対派の中善夫さんが町長当選(3期目)
2005年 国が開発促進重要地点の指定を解除

(民医連新聞 第1515号 2012年1月2日)


 「「原発反対、正しかった」日高町の町長ら安堵」。
 東日本大震災の大津波の被害を受けた福島県の福島第一原子力発電所の放射能漏れの危険性から、周辺市町村では、避難や自宅待機はじめ、農産物の出荷制限など住民生活に大きな影響が出ている。原子力発電所問題については、和歌山県内でも1960~70年代、建設推進か建設反対かを巡って大論争があったが、結局、建設せずに今日に至っている。そんな折、かつて読売新聞社の同僚で、原発論議が盛んだった舞台である、和歌山県日高町周辺地域を担当していた読売新聞御坊通信部の竹内文雄元記者が、原発反対を貫いた同町の現町長と元町長に直接取材し、その内容を送信してくれた。
 福島原発事故の後、県民の間では、「これまでは原発推進派だったが、今は絶対反対派に変わった」とする結果論に基づく声や、「問題なのは危機管理がお粗末だったことで、原発無用論はまるで論理の飛躍」とする人災糾弾派、また、「将来は原発のない日本を目指すにしても、今は原発の安全性を確保しながら、太陽光や風力、波力、地熱発電、あるいは新しい発電方法に取り組むべき」とする、現実路線派など、さまざまな意見が出ている。
 和歌山県民としては、県外の原発のお陰で、便利な生活が出来ているこを承知しながらも、福島第一原発事故の後は、「原発がなくてよかった。大地震・大津波が起きても安心」と、ほっとしているのが本音だろう。昔の県内の原発論争とは、どんなものだったのか。その一端を見ることが、今後の判断の参考になるかも知れないと考え、竹内元記者の通信文を紹介することにした。(高野山麓・橋本新聞代表 曽我一豊)
 通信文

 「和歌山県日高町に、初めて原発計画が持ち上がったのは、1967年のことです。建設予定地は、同町阿尾、小浦両地区です。町議会が誘致決議をしたり、チェルノブイリ原発(現ロシア)事故のあおりで、一部着手していた陸上調査を凍結したり。町議会が推進陳情するなど、賛否をめぐり、めまぐるしく展開しました。この間、住民や地元の比井崎漁協は賛否両派に分かれ鋭く対立。親戚同士や同じ屋根の下の兄弟でもいがみ合ったり、町内会の行事に参加しないなど、大きな亀裂が各地区で見受けられました。町内を2分する対立をなくそうと、1990年9月の町長選挙で初当選した志賀政憲町長(73)は「原発にたよらない街づくり」を表明。それまで毎年の予算に組まれていた住民らの「原発視察費」(年間500万円)をカットするなど、町内から原発を一掃した。志賀さんは『当時は、和歌山県も原発推進の立場だったので、私の反対施策により、県や国からの補助金や交付金を減らされるという指摘もあった。しかし、実際はそんなことはなく、町立武道館はじめ、いろんな施設を建設することもできた。もし、原発事故が起きたら、住民の安全が脅かされるのではないか、そんな不安がなくなったことが、町長としてうれしかった』と、当時を振り返りました。志賀さんが町長になる前の、町議会事務局長当時、福島県双葉町へ原発視察に行くと、町の幹部は『原発に反対する住民など追い出せばいい』などと、一本やりだったことを覚えています。志賀さんは『このように推進しか考えない姿勢でしたから、住民に避難や自宅待機などの迷惑をかける事態を、考えていたとは思えない』と語ります。福島原発事故が起きた後、『私のもとへ県内の御坊市や大阪府吹田市の住民らから、原発反対の姿勢を堅持してくれたお陰で怖い思いをしないですみます、という電話が寄せられます』と説明してくれました。一方、志賀さんについで、2002年から日高町長を務めている中善夫町長(67)は、町長初当選直後と04年の2回にわたり、関西電力に対し「原発中止」申し入れました。もし、町内に原発計画が再燃し、建設された場合、事故は皆無といえるのか。事故が起きた場合、住民の安全はどうなる。そんな不安からの行動でした。中町長は今、『原発に頼らないまちづくりを踏襲してよかった。予想されている南海、東南海地震が起きて、もし、原発事故が起きたら、日高町だけでなく、県内外の多くの人々に多大な迷惑をかけることになる。原発を推進しないで本当によかったというのが実感です』と言い、最後に『早く西日本の電気が、周波数の異なる東日本へ送れるよう、技術開発を進めてほしい』と希望を述べました」(読売新聞御坊通信部、元記者・竹内文雄)

 更新日:2011年4月15日

【反対運動のリーダー/濱一巳さんインタビュー 】
 「原発建設を拒否した和歌山・日高町を訪ねて 濱一巳さん インタビュー 【関西共同行動】 古橋雅夫」。
 ■はじめに

 原発の立地点を見ればわかることですが、福井県沿岸に16基ある原子力施設に比して、大都会大阪を挟んで反対側の紀伊半島には一基の原発もありません。それは偶然でしょうか? むろんそうではなく、関電の建設計画はバランスをとるかのように5か所にわたって進められていたのです。しかし、それらはことごとく破産したのでした。どのようにして? 3・11の福島原発事故以来、このことがあらためて見なおされています。安全神話に眩惑された圧倒的な推進派と関電の札束攻勢の中で、何が起きたのか。当時反対運動の中心であった濱一巳さんを現地に訪ねました。

 リアス式海岸が続く紀伊半島ですが、46年にM8の南海地震が発生した際、多くの地域で土地が陥没しました。その時に阿尾の入江ができています。それ以前は豊かな農地であったそうです。当初、「木材の貯木場」ということで土地買収があり、地元としても「使い道ができた」と喜んで地権者は土地を売りました。ところがいつまでたってもそれが実行されない。「どうなっているんだ」と聞くと「もう、そんな話ではなくなっているんだ」ということで、すでに土地は転売され、その場所に関電の原発建設計画のあることが暴露されます。慌てた元の地権者は「話が違う」と土地返還を求めましたが「契約にない」とにべもない。こうした第三者を通じて密かに土地買収を進めるのが関電の常です。比井崎漁協として正式に「受入れ拒否」を宣言したのは90年ですが、国が正式に建設候補地を解除したのは05年です。その間にこの土地はその後どうなったのでしょうか。日高町は不動産会社と粘り強く買い取りを交渉。遊休地のまま不法ゴミ捨て場と化し、その扱いに困った不動産会社は、ついに無償で町に返却しました。そして今はそこは新たなビオトープにすべくバードウォッチング小屋が建てられています。それだけではありません。いつまた町が知らぬ間にこの土地を売却するとも限らないと「原発反対派」の町長の擁立を欠かしていません。以来、現在の町長も反対派です。日高における原発立地問題は、ただ拒否してそれで終わったのでなく、今なお原発反対の手を緩めてはいないのです。

 このことは、次の原発候補地であり最大の闘いの焦点でもあった小浦でも同じです。濱さんの住む、いや営む民宿「波満の屋」はそこにあります。目の前はすぐに海水浴場です。小浦の山は当時小浦さん個人所有でありましたが、その海岸沿いの山を「ゴルフ場を建てるため」ということで不動産屋が買収しました。しかし工事が始まりません。ここもまた「どうなっているんだ?」言う間に原発建設予定であることが発覚します。この地もまた「勝利」ののちに同様に日高町は買い取り策を進めます。ついに維持費に音をあげた不動産屋は格安で町に売却しました。今、日高町はネットでも「クエ料理の町」として紹介されています。そしてさらには温泉を掘り当て、ここに日高町温泉ありとして名を上げています。また目の前の海は最もきれいな海ベストワンとして夏には海水浴客でにぎわうところでもあります。これらはすべて未来に向かっての日高町の再生の道筋なのです。これこそが反原発の成果というべきでしょう。私たちが真に闘いから学ぶことはここにもあるように思います。

 ■濱一巳さんインタビュー


 ▼まえがき

 現地での反対運動の中心となるのは当時まだ二十代の青年漁師であった濱一巳さんですが、まずもって親父さんが反対の旗手先方でした。そこに伊方原発差し止め訴訟で原告側の証人としても論陣を張った久米三四郎さん(阪大講師)が和歌山県での原発計画に驚愕して飛んできます。そうした出会いの中で「建設が始まってから反対したのでは遅い。裁判で長期に闘うことを考えたら、今命がけで阻止すべし」という結論にまず達したのでした。

 ▼いかにして総会の主導権を握るか

 『原発に反対といっても世代間で考え方は違う。老人と若者、そして子供・孫と。私たちは青年団として仲間を募りました。当時比井崎漁協の理事は14名ほどでしたが、反対派は3名しかいません。組合長は理事による互選で選ばれます。推進側は、多数を決め込んで進行表を作成してその通りに進め議決を得る大勢にある中、議長(組合長)を選出で推進側が漁師でない人物を押すことを知ると、そこを衝いて反対派の議長を選出させ、総会で議決させず閉会に持ち込む作戦をとりました。

 またいち早く臨時総会の日程を知ると、即座に議題の問題点を書き、夜中に小学校に偲びこんでチラシ2千枚を印刷。朝5時までに新聞に折り込むべく届けて全戸配布したこともありました。そうした事で漁には出れず、夕方になれば仲間と対策を練るという日々が続きました。

 7時間に及ぶ総会がありました。何度も休憩に入るも我々はトイレにも行けません。その場を離れることはできないのです。その間に推進派の根回しがあるからです。その時、お茶・おにぎりを持った女性陣が「がんばってよー」と大挙して差し入れてくれました。会場もまたその雰囲気に圧倒されるわけです。ついに「あしたも漁に出んならんにいつまでだらだらやりよんのやー」と議長も怒りだして流会です。またある時はゴリゴリの推進派であった理事長が、県の水産課長など「来賓」6名ほどを総会に呼んで前に座らせ、それを頼みに議事進行を図ろうとしたことがありました。ところが、(濱さんの)親父が「なんでこんな関係ない人間を前に座ってするんや!お前らに用事ない。出ていけー」と来賓用の机・椅子をひったくってしまった。来賓は立ったままでいるしかなくなり、マスコミは固唾をのんでその場の成り行きを見守っています。窮した組合長は理事を降り散会です。この日の総会はたった7分で終わりました。我々反対派が推薦した組合長が推進派に寝返るといった事態もありました。どこからか我々反対派の悪評が宣伝され、内部の議論も筒抜けとなりました。理事会でのやり取りもやりにくくなってきます。いよいよ少数派になって反対運動内部でも意見がぎくしゃくしてきました。そうした中での総会です。その時に反対派の理事も壇上に上がるかどうかで議事が始まる前に組合長と取っ組み合いとなる一幕があり、これまた散会となりました。

 ▼総会のクライマックス

 いよいよこれでは受入れが決まらんということになって、推進派であった一松町長が漁協総会に来るという最後の勝負に出てきました。陸上部の事前調査はすでに終わっていましたが、問題は海上事前調査の受入れ問題でした。それは絶対許さないという構えでした。町長がそれを頼みに来ることは分かっていました。その時の組合長も反対派でしたが断るわけにはいかない。打つ手はなかったが「来るなら来いや」という感じで、この間の闘いの成果を得て不安はありませんでした。そして総代会が開かれ、町長の話が始まりました。「実は、次の町長選に私は出馬しない。それで何度も審議してもらっている事前環境調査だが出来ればそれを受け入れてもらって、以後のことは後進に譲りたい。よろしく頼む」と頭を下げ、そのまま帰ろうとしました。その時「これは・・・!」と思いました。これでは受入れ可否の決を我々に預けられてしまう。町長は「頼んできた」として公表するだろう。まずい・・・と。ここで一松町長の策略を悟りました。

 が、その時若い漁師が叫んだ。「さっきから聞いてたら、己の花道を飾る話ばっかしでよ、後の我々はどうなってもかまへんいうんか!」、「そやないんや、君らのことは君らでいいように判断してくれたらいいんや」と応える町長。外では大阪から駆け付けた仲間が太鼓たたいて大声で「原発反対」を叫んでいました。会場内には反対派の長老も多く集まっていて「そんなに金がほしかったらわしがやろか」とヤジが飛びます。それでも町長は帰ろうとするから私は立ちあがって話し始めました。「あんたが事前調査やなんやばっかし言うてきて、町の中はおかしなってしもた。漁師いうもんは助け合ってこそ漁ができるんや。仲間なんや。あんたにはその気持ちがわからんやろ。半年前に(反対派の)漁師仲間が海で行方不明になる事故が起こった。同じ組合員であれば漁を止め1週間全員で捜す決まりになっている。時化(しけ)の日もある。なんとしても見つけ出すということで6日目にきれいな姿で見つかった。その時は反対派も賛成派もなかった。周りの漁師全員が参加し、女の人は炊き出しで走り回った。その姿見て感動した。その時の一致団結する漁師の気持があんたにはわかるかー」と20分ぐらい演説しました。

 このまま町長から話預けられたらまたこれから審議せなあかんはめになる。そうさせないためにも町長を説得することに必死でした。その間に推進派のヤジもあったらしいが「やかましいや、ええ話やないか黙って聞け!」との一喝で沈黙。外にいる応援団も「今濱さんが話してるから静かにして!」と太鼓の音も止んだ。そしたら町長は「濱君!わかった。これ以上言わんでくれ。その気持ちは分かった。もう今日から二度とこの話は漁協には持ってこない。この話は今日で終わりや。約束する。それでええな。今日はこれで帰らしてくれ」と言って町長は退散しました。多くの推進派も含め全員が顔を合わせた場面であるからこそ、私の話が説得力を持った瞬間でした。ただ、あくまで主催は組合の執行部、組合長ですからこの日の内容をどうまとめるのかが焦点でした。

 そして話し合った結果「町長が断言した以上、今後原発に関しては組合として審議しない」と表明。推進派含めた理事全員がそれを承認しました。実は町長室では先のシナリオ通りに「受入れをお願いしてきました」という予定原稿まで準備した多くのマスコミが帰りを今か今かと待ちかまえていたのですが、町長は自宅に帰ってしまって戻ってきません。それで行き場を失ったマスコミ陣が「どうなりましたか」と(濱さんの)自宅前に集まってきて大変でした。自宅に入ると親父が2階から降りてきました。「どうなった」、「おやじ、終わった。これでもう原発の話はない」と経緯を説明しました。軍隊上がりの怖い頑固おやじでしたが、その時ばかりは親父の目にも涙が光っていましたね。

 ▼エピローグ

 翌日には「漁協受入れ反対」の文字が新聞に載りました。それまでは町民の目には「漁師は保証金が出れば海を売ってしまうもの」と見られていましたが、「そうやないんや」ということが分かって、もともと原発に賛成しているわけでもなかったのですが、このことで大きく町内に反対の声が広がりました。そして町長選が始まり、そして受入れ反対派の町長がついに登場したわけです。早速関電に行って「原発はいらない」と日高町として正式に申し入れをしました。一気に風向きが変わったわけです。それを受け「祝杯を!」という声がないわけではなかったのですが、「ちょっと待て」と。「そんなことしたら、それでなくても賛成派・反対派で割れた気持にしこりが残る。ここは静かに静かに・・・」。うれしい気持ちは一杯でしたけれどもそれは抑えました。その時から30年、確実に当時のしこりは小さくなっています。もし逆に原発ができていたら、こうしたあたりまえの人間関係も出来なかったでしょう。建設させなかったということの意味を改めて感じます』。

 ▼インタビューを終えて

 この日のインタビューは以上で終わりました。この物語には筋書きはありません。しかし、濱一巳さんの叫びは圧倒的な説得力を持ち、関電の原発建設のもくろみは潰え去り現在の和歌山があります。そのご本人を前にして、大阪での反原発への決意を新たにしました。




(私論.私見)