高知県佐賀町、窪川町の原発阻止闘争史考

 (最新見直し2016.03.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「高知県佐賀町、窪川町の原発阻止闘争史」を確認する。「土佐高知の雑記帳」の2011.11/14付けブログ 「佐賀原発阻止闘争史、「窪川町=反原発『10年戦争』に勝った高知県の町/猪瀬浩平論文から」その他を参照する。

 2016.03.12日 れんだいこ拝



高知県佐賀町の原発阻止闘争史考
 「土佐高知の雑記帳」の2011.11/14付けブログ 「佐賀原発阻止闘争史」その他を参照する。

 1960年代後半の頃、四国電力は、伊方原発につづく原発立地を高知県、最初は窪川町の南西に位置する佐賀町(現・黒潮町)に求めた。

 1969(昭和44)年7月8日、新愛媛新聞が「原子力発電所/伊方町に誘致の動き/用地買収を始める/九町越の約50ヘクタール」と報道、水面下で伊方町に原発建設が進められようとしていることが明らかになった。

 1972(昭和47)年10月、四国電力の山口恒副社長(のち社長)が「原発三、四号機は外洋へ建設したい」、「例えば横波三里か中村など高知県を中心に構想を練りたい」と発言、にわかに高知県が注目をあびた。

 1974年、四国電力が第2原発を高知県佐賀町(現黒潮町)に計画する。

 1974(昭和49).1月、岸本正年町長が町広報で「電源開発事業誘致こそ佐賀町のすべての発展につながる最たるものである」と述べた。3月12日、佐賀町の49年度一般会計当初予算案に560万円の電源開発調査費が含まれていることが明らかになる。3月14日、佐賀町議会が始まる。電源開発調査費をふくむ予算を可決。4月、町議会の議員全員と福島一三助役が茨城県東海村の原発を視察する。

 4月23日、社会党、共産党、公明党、県総評など9団体が「高知県原発反対共闘会議」(議長・国沢秀雄県総評議長)を結成する。5月23日、「佐賀町原発反対町民会議」(沢原明吉議長)を結成する。

 5月27日、町議会の意向を受けた町執行部が、佐賀町漁協に視察への参加を呼びかける。

 5月28日、佐賀町漁協が臨時総会。「誘致建設に絶対反対である以上、視察しても意味はない」と前日の申し入れを拒否することを決定。6月30日、佐賀漁協婦人部が誘致反対再確認、デモを呼びかけ。7月27日、原水禁の被曝29周年原水爆禁止四国大会が高知市で開かれ、佐賀原発設置に反対する決議を採択。8月17日、18日、原水協第20回原水爆禁止四国大会が高知市と佐賀町でひらかれる。

 11月2日、佐賀町漁協臨時総会。申し合わせで「町費による視察に応じる」旨の決議。

 11月、佐賀町漁協組合員40人が、建設中の伊方原発を視察、改めて原発反対の立場を確認。11月17日、佐賀町漁協が町役場で町議会に対して原発反対を申し入れ。12月、定例議会で原発問題を白紙に戻すよう要望。

 12月8日、町農協、商工会、町建設協会、町森林組合の四団体が、町役場で町議会に対し原発調査の継続を申し入れ。

 12月25日、佐賀町漁協の呼びかけによる二度目のデモ行進し、町役場で原発絶対反対を町長と議長に申し入れ。それをうけて議会協議会は本年度の原発調査は実施しないことを決める。町長が、議会の意向を受けて本年度の原発調査費を凍結、来年度予算には調査費を計上しないと、議長と共に漁民に確約する。原発問題に一応のピリオドが打たれた。町は60haの土地の買収に着手、商工会も誘致に動いたが、漁協や農家を中心に「反対町民会議」が結成され、全県的な反対運動によって原発建設計画が断念された。

高知県窪川町の原発阻止闘争史考
 2012年12月10日、猪瀬浩平論文「窪川町=反原発「10年戦争」に勝った高知県の町」、島岡幹夫 (著)「生きる―窪川原発阻止闘争と農の未来」(高知新聞社、2015年)、明治学院大学准教授、国際平和研究所の所属の猪瀬浩平(著)「むらと原発ー窪川原発計画をもみ消した四万十の人びとISBN 9784540151095」(農山漁村文化協会、2015年)、猪瀬浩平論文「原子力帝国への対抗政治に向かって―窪川原発反対運動を手掛かりに」、」その他を参照する。


 1975年、四国電力が、佐賀町立地を断念した代案として計画地を2.5km移動させた四万十川渓流の高知県高岡郡窪川町(現四万十町)大鶴津を予定地にし始めた。これが窪川原発計画である。この時、猪瀬が言う原発立地の「窪川方式」即ち「計画が明らかにならない段階で、住民自ら誘致につながる請願を議会に提出し、議会が採択するという手続きを踏み、まず立地調査から始める」という方式が採用されていた。計画発表が先行したことにより大闘争がおこった60年代の三重県・芦浜や和歌山県・日高の例から学んだものらしい。四国電力は住民に「自ら誘致につながる請願を議会に提出」させるため、当時の人口1万8000人に対し8500人を原発立地地域への「大名旅行」に無料招待した。

 1979年、原発立地を争点とした町長選挙で立地反対の藤戸町長誕生。「保守系とされる住民や地元の商店主などが運動の中心を担い、新住民や革新派とされてきた住民などあらゆる住民を巻き込みながら」の草の根運動が始まった。島岡氏は農業の傍ら自民党員として窪川町の広報責任者を務めていた。その島岡氏が島岡が「保革の枠を超えて」の旗を掲げ反対派を組織し始めた。四万十川の水面に沈む夕日が反射する。「川底まで見える。きれいだろ」。「この水のおかげで海で魚が捕れ、陸で作物が育つ。だから、原発に売り渡すわけにはいかんかった」、「もし、原発が事故を起こしたら、放射能が川にも田んぼにも降り掛かり、故郷が壊れる」  。これが島岡氏の生まれ育った高知県窪川町(現四万十町)の愛郷魂だった。

 1980.5月、町長の誘致表明直前の頃、小倉文三氏は、運動の中心に立った島岡幹夫(元・公安刑事、自民党員)が共産党の反対集会にのりこんだエピソードを紹介している。彼は言った。「この町の有権者は1万3000人、原発反対の共産、社会、公明支援者は1000人ずつの3000人、残りは保守だ。革新が政党の理念で反対しても数でたたきつぶされる。この反対運動は、私のような保守系の人間が中心にならなければ大きな力になりません。私を反対運動の代表にしてください」。ちなみに島岡は若い時に4年間、大阪府警に勤めていた。共産党のデモの警戒に当たったこともあったという。 島岡幹夫氏が「原発反対町民会議」の代表となった。

 同年6月、藤戸町長が原発推進に転向して原発誘致を表明。誘致に賛同する多くの住民や町議から「原子力発電所立地問題に関する請願書」が提出され、町議会で採択される。町長となった藤戸進は原発の誘致をしないと公約しながら、原発誘致もあり得るというスタンスに変節した。9557名の誘致請願がだされ、採択をうけて町長は四国電力に調査を依頼する。それは50億円にのぼる立地交付金と固定資産税に目がくらんだのだった。 

 反対派は「原発反対町民会議準備会」を発足させ、学習会をはじめ、「原発設置反対請願」をまとめる。保守を含めた反対派による町長リコール運動を開始する。女性たちが立ち上がる。その中心に元自民党党員の島岡幹夫がいた。島岡幹夫氏は語った。

 「窪川町には当時、農業と畜産業で80億、林業で30億、縫製工場などの加工産業をあわせると150億近い収入があったのです。四国有数の食糧生産地なのに、たかだか20億や30億の税収に目がくらみ、耐用年数30年程度の原発のために2000年続いてきた農業を犠牲にするのは愚の骨頂であります」。


 7013筆を集めた反対請願が不採択となり、町長が独断で四国電力と立地調査条件について交渉を始めるにおよんで、闘いは町長リコールの段階に入った。自民党幹事長らを巻き込んで、推進派によるリコール阻止運動始まる。同年8月、「原発反対町民会議」を基盤に「原発設置反対連絡会議」が結成された。自宅の牛舎の2階に畳を敷いて急造した「土佐黎明(れいめい)舎」と名づけられた広間が拠点だった。街頭宣伝や130ほどの集落を網羅する学習会のうえ、まず半年ほどで小学区単位の11支部ができ、それを母体に官公労5労組と2派の部落解放運動団体の結集が進んだ。島岡幹夫氏は酪農会議40戸を核に「農民会議」をつくった。つれあいの島岡和子氏は、高南酪農協同組合婦人部400名を中心に「原発反対婦人会議」を結成した。また30歳以下の労働者・農民は「青年会議」に組織された。こうして元・窪川農協組合長を会長に、11地区支部と23団体をあつめた「故郷(ふるさと)をよくする会」が設立され、リコールに臨んだ。「署名の受任者300名を募集し、530名もの女性が手を挙げた。「原発設置反対請願までは運動の中心は男によって担われていたが、この頃から女たちの活躍がはじまる」と猪瀬は書いている。また島岡和子は、「女性たちが立ち上がることで、戦いの潮目が変わった」と振り返っている。

 1981.3月、藤戸町長リコール投票。結果は、賛成6,332票(賛成約52%)、反対5,848票(反対約48%)、投票率92%で僅差ながらリコールが成立した。「勝った」。原発推進派の町長が解職された。  

 この頃、例の嫌がらせが続いている。右翼の街宣車も現れた。「家庭内でも賛否が割れた。まさに町が二分されていた」。身の危険にさらされたこともあった。「町で急発進した車にひかれそうになった」。「演説中、賛成派の漁師に右脇腹を刺されたこともあった」。自宅には「おんしの家に火を付けるぞ」といった脅迫電話が毎晩かかってきた。 


 1982年、40日後のリコールに伴う出直し町長選で、町政の混乱の収束を訴え、全国初の原発立地住民投票条例の制定を掲げた藤戸町長が約54%を得票して再選された。「リコールが成立して少し気を抜いたら、ころっと負ける。力が抜けた」 。 藤戸は公約通り住民投票条例を制定した。

 1983年、町議選(定数22)で、島岡も含めて反対派が10人当選した。賛成派は12人いたが、それまで8割以上が賛成派だった町議会の構成を大きく変えた。

 1984年、11対10の僅差で促進決議を採択、立地可能性調査に関する協定書と確認書の調印。立地調査の協定を締結して四国電力に窪川原子力調査所を設置させた。


 1986.4月、チェルノブイリ原発事故。これが流れを大きく転換させた。推進派は「日本であんな事故は起きない」と安全神話を持ち出したが、島岡の言葉に耳を傾ける人たちが増えた。 


 1987.12月、原発建設予定地に近い興津漁協が海洋調査拒否を表明した。島岡らの働きかけで推進派の中心となる議員が原発反対に転身し、議会の勢力が逆転した。

 1988.1月、藤戸町長が原発誘致断念を表明。原発問題の棚上げ、88年度予算に関連予算を計上しないことを表明、辞表を提出せざるを得なかった。

 1988.3月、町長選で、推進派の後継候補が敗れ反対派町長が誕生した。6月、町議会が全会一致で「これ以上は原発の話をしない」という趣旨の原発問題議論の終結を宣言する。町は原発対策室を廃止した。こうして「10年戦争」、実際には足かけ13年の原発阻止闘争が全面勝利した。


 ところが、島岡を待ち受けていたのは苦難だった。 「島岡は町政混乱の元凶じゃ」。周囲の目は冷たかった。「町中を歩いても、誰も話し掛けてくれない。町議として県庁へ要請に行っても、誰も取り合ってくれない。原発反対で一番目立っていたのは俺だから、風当たりがきつかった。村八分。犯罪者扱いだ」 。時間の経過とともに、反対派の仲間からさえ、「原発があった方がよかったんじゃないか。ほかの町では建てているじゃないか」という声が漏れてきた。 「身近な人までもが半信半疑だったのかと思うと、やりきれなかった」。原発誘致の阻止後も町議を務め続けたが、原発騒動の終結を宣言した手前、反対論を町内で強調することははばかられた。原発反対への懐疑論が少しずつ広がっていく中で、声を上げることができなくなった。「故郷を思って打ち込んできた10年以上の時間がばからしくもなったし、自分が間違っているんじゃないかと疑った時もあった」。2011.3月、福島原発事故。窪川町民の島岡評は一変した。「原発を止めてくれてありがとう」、「おまんのおかげで高知は安心じゃ」、「窪川のヒーローじゃ」と言われ、握手も求められた。町民のタクシー運転手の男性(50)は「私は推進派だったけど、いまは原発がなくてありがたい。いま思えば、当時は後先考えずにやっていた」と話す。島岡は「それまで俺を避けた人が、事故後は途端にニコニコ。その手のひらの返し方に戸惑った。生きている間に評価されるとは思わなかった。やっと分かってもらえたという気持ちの半面、何をいまさらという思いもあった」と言う。とりわけ、「英雄扱い」には閉口した。「福島の悲劇はつらく悲しく、その土地の人を思うと心が痛む。俺はヒーローなんかじゃない。福島の人たちを救うことができなかった。むしろ情けなくなった」。町外での講演は、求めに応じて福島事故前から続けてきた。現在も月に1~2回、講演する。そこでは必ず「カネは一代、生命は永遠。原発があっても、町が栄えることはない。原発の危機と引き換えの補助金に頼って生きるより、豊かな自然を子孫に」と語る。

 その思いは現在、地元での子どもたちとの活動にも反映されている。昨年末、島岡は地元の小学校近くにある林で、児童らと一緒にアジサイの苗木を植えた。「この活動も、原発反対と根は一緒だ」。最近は地元の子どもたちでも、林の中に入ることは少ないという。「これじゃあ、自然を通して地元を愛する気持ちは生まれてこない。郷土愛がないと、また原発に故郷を売ろうという連中が出てしまう」 。子どもたちが土いじりに悪戦苦闘する姿を目の前にして、島岡はこうつぶやいた。「故郷を愛する気持ちが連綿と続くように若い世代に教えていかんと。そのためには、自然に触れあうことが一番じゃ」(白名正和)。 

 「10年戦争の前奏を奏でた」のが「窪川町農村開発整備協議会」の歩みだった。それは1967年からの助走の後、農協の合併にともない1972年に発足。規約に活動の目的を以下のように書き込んだという。「農村に於ける住民主体的地域づくりに置き、協議会の性格は、地域自治機能を発展させ、自然と調和した定住社会の建設を図るための・・・審議機関」。その理念は、「地域とは生物体であり、我々の農村地域とは、自然と人間のよりよい関係が創造されるべき生活空間」。「郷土をよくする会」会長・野坂静雄の言葉「農村とは人間と自然の調和する中に築きあげられた生命を培う食糧生産の場で、生命を産み守り育む健全な生の文化が花開かなければなりません」。原発は住民を賛成派と反対派に分断し、人間関係を壊す。よしんば建設され事故をおこせば地域に壊滅的な打撃を与える。窪川町民は「原発なしでもやっていける」と、それらを拒否した。

 闘いに勝利した窪川町の住民たち10名の座談会の席での発言は次の通り。その町は、いまは地図の上にない。06年3月、農業・畜産業・漁業を営む窪川町、林業を主体とした大正町・十和村が合併、四万十町となった。だが窪川町の名は反原発闘争の歴史のなかで輝いている。

吉川  「窪川というところに原発の話を持ってきたこと自体が、まず大きな失策であった・・・住民自身が・・・その時その時の肝心な問題には大きな力を発揮して地域を守ろうとしたという歴史性を持っている」。
島岡 「原発というものに対するその人その人のとらえ方が、結局、その人自身の“生きざま”というもんまで問われちゅうわけよ」、「今年は反原発ポテトということで、無農薬・無照射のじゃが芋を高知市内で売った。そうすると食の安全という問題を真剣に考えている消費者の人たちが結構沢山おって」。
市川  「地域内の自給流通機構の確立。・・・農・林・漁業・商工業の提携のシステムを作っていくという事が、やはりこの地域を見た場合は、21世紀へ向けて展望できる」。





(私論.私見)