反原発基地闘争の歩み

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).9.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後日本の反戦平和運動は、原水禁運動に関連して新たに原子力発電をどうみるかという問題に直面し、抗議運動を組織していくことになった。この問題の要は、1・原発や再処理工場からでてくる放射性物質汚染いわゆる「汚染水と死の灰による環境汚染問題」、2・現代科学が危険放射性廃棄物の最終的処分能力を持っていないのに開発を押し進めることへの警鐘にある。

 日本政府は、「日本の原発は25基に達し、発電能力1827万キロで世界第4位となった」と自慢するが、使用済み燃料の再処理問題、高レベル廃棄物の処理、低レベル廃棄物の処分などいわゆる「ダウンストリーム」に関してはまったくお手上げのままこれを押し進めている。これは狂気の沙汰と云うべきであろう。今後、原発が増え、その稼働が長びいてくれば、この問題はいよいよ深刻な難問になっていくに違いない。

 ところが、この問題を廻っても「原水禁」と「原水協」が対立した歴史がある。「原水禁」が反対姿勢を打ち出したのに比して、「原水協」はむしろ協力的姿勢を採った。政府の原発政策を容認し、「民主・自主・公開の原則が守られればこれに賛成する」という態度をとった。しかし、それは、政府・電力資本の原発政策を裏から容認するもの以外の何物でもなかった。宮顕ー不破系日共党中央が日本左派運動に果たす役割がここでも透けて見えてくる。

 2006.5.22日 れんだいこ拝


【「反原子力発電闘争の歩み」】
 「反原子力発電闘争の歩み」は次の通り。「原水禁運動の歩み(2)」その他を参照する。
 1953年、アイゼンハワー米大統領が国連総会で「原子力平和利用」を演説する。
 1954年3月、国会で2億3500万円の原子力開発予算が提案され採決された。
 アメリカのノーベル賞受賞者ライナス・ポーリングは、「核実験でつくられた放射性物質が人類に大きな遺伝子的損失をもたらす」と判断し、アメリカの原子力委員会(AEC)の核実験を強く批判した。ソ連のサハロフ博士も、自分たちのつくりあげた水爆の実験が人類に被害を与えていることに責任を感じ、反核運動に乗り出していくことになった。
 原水禁が、反戦平和運動の観点からの原水禁運動のみならず、核の放射能汚染それ自体を問題に採り上げ、本格的な運動を取り組み始めたのは1969年からである。反原発の市民運動が、原潜が寄港し、放射性物質が港湾を汚染する危険性、原潜が放射性物質を海水中に放出していることに対して抗議運動を開始し、反原発の運動に着手した。原潜が海水中に放出した放射能は、たとえ微量であって食物連鎖を通じて濃縮され、生態系へ被害をもたらす。と同様に、原発もまた放射能による環境汚染の元凶となる危険性を十分に持つと判断した。
 この頃、日本列島各地に原子力発電所が強行的に建設されていった。当時、プルトニウムの危険性などをまったく無視して、再処理工場計画や高速増殖炉(実験炉)の建設計画が進められていた。稼働する原発がふえ、その使用済み燃料の再処理過程が進めば、膨大な余剰プルトニウムが生じる。プルトニウムを燃料とする次の原子炉(高速増殖炉)が確立されない限り、原子力発電を動かす核物質の流れは回らない。日本の原子力利用の核心となる物質がプルトニウムである。
 この点に着目した原水禁は、反原発運動を盛り上げるとともに、一連の核燃料サイクルに戦略的攻撃をかけるために、プルトニウム・キャンペーンを開始した。A・タンプリン博士やT・コックラン博士は、プルトニウムの恐るべき危険性に警告を発しており、「わずか数グラムあれば3億人に肺ガンを発生させる危険がある」として、「プルトニウム防護基準を10万倍きびしくせよ」と主張した。
 現在日本での計画されている原発は、1・安全性が立証されておらず危険である。2・たとえ事故がなくとも日常運転で生じる放射性物質の環境放出自体危険である。3・放射性廃棄物の処理方法もない、ことを問題にして反対運動を進めることになった。各地の住民運動間の「情報連絡センター」的役割を果たすとともに学習会や活動者会議などを開き、反原発運動の輪の拡大に努めた。
 1971年以降、反原発のスローガンが、夏の原水禁世界大会の主要なスローガンの一つとなった。「原水禁運動の歩み(2)」は次のように述べている。
 「だが、この運動は集会やデモだけで片付くものではない。地元における住民の強力な反対運動がなくてはならないし、この住民運動と協力することなしには発展しない。こうして、各地域に発生してきた地元反対同盟との協力・提携が、反原発闘争の組織方針の基本となる。

 さらに反原発闘争においては、原発に関する知識、放射線障害に関する知識、核分裂とは一体なにを意味するかという一定の理解をもたなくてはならない。なぜなら、政府や電力はいわゆる専門家を動員しデタラメな数字を並べ、一方的な理屈でその安全性を主張してくる。国民一般や僻地の住民たちはこれでゴマ化されつづけてきたのである。革新系の地方議員すらこのゴマ化しにのって原発誘致運動すらしてしまったのだ。この政府・電力のゴマ化しの理屈を見抜き、これに反論する知的能力を蓄えなくては、運動はできない。ビラ一つ書けなくなる。

 こうして原水禁は、各所で反原発の学習会を開き、理論的武装のためのパンフレットを発行してきた。あるいは学者・専門家などの協力をえて理論的活動にも手がけてきた」。
 該当地の各県原水禁からも問題が提起されてきた。1969年の柏崎集会をはじめとして、1970年の活動者集会(茨城・東海村)、1972年の活動者集会(敦賀市)を経て「原水禁」としての反原発闘争の方針が固められていった。反原発運動が拡大していくうえで原発裁判闘争の果たした役割は大きい。愛媛県伊方町では、地元の原発反対同盟が四国電力の「おどし」や「ダマシ」に屈することなくつづけられてきたが、1973年、「原発の許可取消」の裁判を起した。この裁判闘争では、関西地方の多数の学者・弁護士の支援の下に大々的な論戦を展開していった。法廷における証人たちの証言は説得力をもち、さながら学術論争の観を呈し、政府側証人の護謬や安全審査のズサンさを暴いていった。
 大阪軍縮協はこの裁判への支援運動を開始し、傍聴動員やカンパ運動を展開した。1976年から原水禁世界大会の名で裁判支援カンパが行なわれ、伊方原発裁判は全国的なものへと発展していった。この裁判は1978.4.28日の判決で敗れはしたが、この裁判は政府の原子力行政のズサンさをいかんなく暴くことになった。これと平行して、東海村における反原発裁判も開始され、これまた関東規模での裁判支援運動が展開された。
 1974.5月、原水禁は、原子力委員会に対して、「プルトニウムに関する公開質問状」を提出し、「プルトニウムの被害から国民の健康を守るために『プルトニウム目やす線量』を10万倍きびしくした『防護基準』をつくること」を要求した。
 1977~78年は、反原発の運動がさまざまな形で噴出してくる。この時期、「核燃料輸送廃止」、「再処理工場のストップ」、欠陥原子力船「むつ」廃船など、反原発・反核の諸運動が盛り上がり、これらの運動がマスコミに報道されない日の方が少ないという状況となった。国際的にも反原発の水位が上昇してきた。1978.9.25日、西ドイツのカルカー高速増殖炉反対集会には6万人が参加した。同年のオーストラリアのウラン採掘反対デモにも8万人が参加している。
 こうしたなかで、1979.3.28日、アメリカ、スリーマイル島(TMI)原発の大事故が起こった。この原発事故は、「給水系が停止」し、「冷却材が喪失」してしまい、炉心全面溶融(メルト・ダウン)の寸前までいった大事故であり、大量の「死の灰」を環境中に放出する結果となった。いまや、このTMI事故は「二重、三重の安全装置があるから起こりえない」とされた大事故が起こりうることを実証した。
 原発の安全性とともに、放射線の有害さについて国民の関心も増大してきた。ハンフォードの核施設で働いていた約3万5000人の労働者を10年間にわたって調査してきたピッツバーグ大のマンクーゾ博士たちは、低線量被ばくとガン発生の間には明らかな因果関係があるとして、ガン発生の「倍加線量」は従来の値よりも二ケタないし三ケタ低いと発表した。また、バーテル博士は、核施設の多いニューヨーク州では、ガン発生率が他の州より多い(男性2・5倍、女性4・2倍)ことをつきとめている。
 1980年になると、原発で働く労働者の放射線被曝問題がもはや放置できないものとなりはじめてきた。このころ発行された「原発ジプシー」や「被曝日記」などはその深刻さを証言している。

 「原水禁運動の歩み(2)」は次のように述べている。
 「原発の放出する放射能の環境汚染も住民の不安のタネであったが、これに関してはわが国ではユニークな運動がはじめられた。市川定夫埼玉大教授(現在・原水禁副議長)の提唱したムラサキツユ草による環境放射能の測定である。1974年、浜岡原発に取り組んでいた永田教諭は、このムラサキツユ草を原発周辺に植えて、雄しべの毛の突然変異を観測し、周辺の放射能が中部電力の発表(線量目標値年間5ミリレム以下)に反して、それを上回っていることをつきとめたのだった。原発推進側の発表する数値は信頼できるものではなく、放射能の環境汚染は確実に進んでいることがわかった。いまやこのムラサキツユ草による測定運動は、浜岡をはじめ、島根、高浜、大飯、東海村など各地にひろがり、毎日、放射能による環境汚染を暴きつつあるのである」。
 1980年、政府は、原発に対する国民の不安や原子力行政への批判の高まりを受け、従来の強行的買収的原子力行政を若干修正し始めた。「公開ヒアリング」導入もその一つである。だが、政府の採用した「公開ヒアリング」とは、1・予め陳述人を選定し、2・回答に対する再質問を禁じ、3・討論を避けるという「意見のいい放し方式」でしかなかった。つまり、「原発を設置することを予め決めておき、この結論をくつがえすことのできないヒアリング」だった。この「おしきせまやかし公開ヒアリング」に対する反対運動が組織された。
 1982年、全国各地に草の根的な脱原発グループが誕生し活動を開始していた。「ジョン・ウェインはなぜ死んだか(82年)」、「東京に原発を!(83年)」などの著者である広瀬隆氏の主張も広く知られるようになった。
 現在、政府や電力側は、「下北半島にウラン濃縮、再処理工場、低レベル廃棄物貯蔵施設を設置する」という計画を発表したり、北海道幌延に「高レベル廃棄物の施設をつくる」ことを打診しはじめている。「ダウンストリーム問題」が未解決なままの政府行政の裏に何があるのだろうか。原子力利権は当然として、「国際ネオ・シオニストによる日本民族溶解政策」まで視野に入れないと解けないのではなかろうか。 

 2006.5.22日 れんだいこ拝
 「Gさんの政経問答ブログ」の「勝利した反原発闘争――現地、現地闘争とはなにか?」参照。
 
 稼働中の原発は全国に地域・自治体は16カ所で54基ある。現在、計画から建設までのプロセスにあるのは東北電力の浪江、小高。東京電力の東通。中国電力の上関、電源開発の大間の4カ所である。以下、建設を阻止した原発を確認しておく。

 2006.5.22日 れんだいこ拝


【反原発基地闘争勝利史】
 こういう年表及び一覧表が欲しかったところ、格好のサイト「【年表4】原子力発電所建設との闘い―立地反対運動と原発訴訟(富永智津子)」に出くわした。この労作の意義を称えたい。以下、これを参照する。このサイトに問題があるとすれば、社共運動全体に対して共産党の活動ばかりに偏った記述をしていることであろうか。追っ付け社会党のそれも確認しておく必要があろう。
 「原発事故が起きる数十年間前、原発の危険性に気づき、原発マネーの誘惑を拒み、原発計画を追い出した場所が日本には34ヵ所もあった」 。
勃発年 電力会社 都道府県 地域
1956年 原子力基本法が施行される。
1957年 大阪府 茨木市。1958年、白紙撤回。「茨木市阿武山関西研究用原子炉設置計画反対市民運動」。
1958年 関西 兵庫県 兵庫県御津市(現たつの市) 。1960年、阻止。
1962年 日本原電 福井県 川西町(現福井市)三里浜 。1962年、阻止。
1962年 中部 三重県 紀勢町(錦漁協・現大紀町)・南島町(古和浦漁協・現南伊勢町)にまたがる芦浜。2000.2、阻止。
海山町(紀北町)大白浜
紀伊長島町(紀北町)城ノ浜
1966年 東北 福島県 双葉郡浪江町小高町。2010年、。
1967年 関西 兵庫県 香住町(現香美町)。1970年、。
1967年 関西 和歌山県 日高町阿尾(あお)、小浦(おうら)地区(クエの漁場)、日置川(ひきがわ)町(白浜町)。2005年、。
1968年 関西 和歌山県 古座町(現串本町)。1990年、。
1968年 関西 福井県 小浜市(若狭湾) 。1976年、。
10 1968年 東京 福島県 双葉郡浪江町・小高町。「浪江原子力発電所誘致絶対反対期成同盟」を結成。
11 1968年 四国電力 愛媛県 愛媛県津島町(現宇和島市)
12 1969年 四国 高知県 佐賀町(黒潮町)。1974.12.25日、。
13 1969年 関西 和歌山県 那智勝浦
14 1970年 四国 徳島県 海南町(現海陽町)。1970年、。
15 1970年 中国 岡山県 日生町(現備前市)鹿久居島。1972.3.13日、阻止。  
16 1971年 関西 京都府 舞鶴市(若狭湾)。1982年、。
17 1971年 中国 山口県 森北町(豊北町)(現下関市)。1978.6、。
19 1972年 中部 三重県 熊野市井内浦。1972年、。
20 1975年 四国 高知県 窪川町(現四万十町) 。1988.6月、。
21 1976年 関西 和歌山県 日高町日置川(ひきがわ)町(現白浜町) 。2005.2月、。
22 1977年 四国 徳島県 阿南市。1979年、。
1979年  スリーマイル島原発事故。
23 1983年 中国電力 山口県 祝島―上関。1982年、。祝島―上関原発反対闘争(スナメリなど希少動物の生息地)
山口県萩市。
1986年  チェルノブイリ原発事故。
24 1986年 中国 山口県 田万側町(萩市)。1995年、。
25 1987年 関西 京都府 久美浜町(現京丹後市)。2006.2月、。
26 1987年 北陸・中部・関西 石川県 珠洲(すず)市寺家、高屋。2003.12月、。
27 1992年 九州 宮崎県 串間町(串間市)。1997.3月、。
28 1994年 東北 新潟県 巻町(新潟市西蒲区)。2003.12、。 
2011年  東日本大震災(三陸巨大震災)で福島原発事故。
北海道 浜益村(石狩市)
北海道 大成町(せたな町)
京都府 宮津市
兵庫県 浜坂町(新温泉町)
鳥取県 青谷町(鳥取市)
岩手県 田老町(宮古市)
 上記の原発建設の動きに併走して原発の建設、運転を中止させるため、国や電力会社を相手に闘う原発訴訟がある。これには大きく分けて行政訴訟と民事訴訟がある。行政訴訟は原発などの設置許可をした経済産業大臣ら(国)に対して許可の取り消しを求める訴訟で、処分があった日の翌日から60日以内に異議申し立てをすることが前提である。一方、民事訴訟は電力会社などの設置者に対して住民が人格権や環境権に基づいて施設の運転や建設の差し止めと求める訴訟である。この両者を併合したもんじゅ訴訟のような事例もある。

 もんじゅ訴訟の名古屋高裁と志賀原発2号炉金沢地裁、および高浜原発3,4号機福井地裁での原告勝利はあったが、その後、上級審でなお係争中であり、最高裁で結審した案件はすべて棄却されている。しかし、判決理由の中で、原子力推進の立場から積み上げられてきた様々な安全神話の矛盾やまやかしや嘘が少しずつ明らかになってきていたことは注目に価する。他方、棄却の理由が判例として原告に不利な方向で援用されて行くことになった。加えて、裁判長の不自然な交代や、最高栽のダブルスタンダードなど、裁判の複雑なからくりや裏舞台を読み解く作業も欠かせない。原発訴訟の歴史を見ると、一度建設された原発や建設許可が出た原発を、住民が差し止める手段はまずないと言って良い。これにどう立ち向かうべきかが問われている。


【建設計画が中止された発電所】
 建設計画が中止された発電所は次の通リ。

北海道電力 浜益
東北電力
浪江・小高
東京電力 ***
中部電力 芦浜
珠洲
熊野
北陸電力 珠洲
関西電力 珠洲
小浜
久美浜
香住
日置川
日高
中国電力 豊北
四国電力 蒲生田
窪川
九州電力 串間

【参考文献】
『現代技術の構造』 武谷三男 技術と人間 1981
『熊野漁民原発海戦記』 中林勝男 技術と人間 1982 
『海よ―芦浜原発三〇年』 朝日新聞津支局 風媒社 1994 
『原発訴訟』 海渡雄一 岩波新書 2011
新装版『原発に子孫の命は売れない
ー原発ができなかったフクシマ浪江町』
恩田勝亘 七つ森書館 2011 
『原発を止めた町―三重・芦浜三十七年の闘い』 北村博司 現代書館 2011
『原発を拒み続けた和歌山の記録』 汐見文隆監修・
「脱原発和歌山」
編集委員会編
寿郎社 2012
『原発をつくらせない人びと』 山秋 真 岩波新書 2012 
婦民新聞2012年10月10日・20日合併号





(私論.私見)