人生論メッセージその5 「人生の体感経験重視考」

 (最新見直し2008.7.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで人生の体験経験重視の必要について考察する。

 2008.7.22日再編集 れんだいこ拝



【経験重視派の箴言】
 こうした人生の不可解さの中で生きる身の我々に本当に大事なこととして自身の経験、体感を尊重すべしという達観がある。
 「自分の経験はどんなに小さくても、他人の経験より値打ちのある財産である」(レッシング)。

 レッシング(1729−81)はドイツの劇作家で、18世紀のドイツ啓蒙主義を代表する思想家である。ザクセンの牧師の長男に生まれた。兄弟は男10人、女2人。うち5人は夭折した。レッシングは5年間の世間から隔絶した中等教育を受けた後、ライプチッヒ大学神学科に入学し、戯曲を書き始める。その後ベルリンに出て、数多くの著作を著した。生涯を通じてとくに演劇において活躍したが、詩、考古学、美学、神学など多方面にわたって活動した。

 レッシングについてこんな逸話がある。レッシングは中等教育を親元を離れてマイセンの聖アフラ校で受けたが、中等教育の終わる頃、校長は父親にこう言った。

 「飼い葉が倍量ないと納まりのつかない馬さながらです。ほかの子たちのてこずる学科があの子にはいっこう苦にならない。本校であの子にしてやることはもうないも同然です」 。

 レッシングは幼少の頃より優秀な児童だった。父親は自分と同様、聖職者になることを期待したが、レッシングは学者のコースに進む。このため進路をめぐって父親と激しく対立した。

 レッシングの立脚点は啓蒙思想である。啓蒙主義ないし啓蒙思想というのは、正の面では、17世紀末以降西ヨーロッパを中心に普及したルネサンス思潮の流れを汲んでおり、人間の理性を重視し、理性に光を与えることによって古い社会の旧弊を打破し、公正な社会をつくろうという思想を云う。負の面では、パリサイ派の流れを汲む秘密結社フリーメーソン、イルミナティの選民主義的思想を云う。

 イギリスでは、啓蒙思想はベーコンからベンサムにいたる反封建主義思想を意味した。イギリスの市民革命はこれによりもたらされた。フランスの啓蒙思想は、理性を中心とする人間の能力に信頼をおく人間主義である。中世の古い迷信と偏見を打破しようというのがフランス啓蒙主義者の共通の主張だった。これがフランス革命の原動力となった。これに対し、ドイツ啓蒙思想は時期的には少し遅れて18世紀になって登場し、主として内面的な精神運動として展開された。ドイツ啓蒙思想の先駆者はライプニッツである。そのあとにつづいたのがレッシング、メンデルスゾーン、カントらだった。19世紀半ばに登場するカール・マルクスは啓蒙主義最左派と位置づけることもできる。


 森田実氏曰く、レッシングのこの観点を高く評価したのが、社会学者にして戦後日本の代表的な進歩的文化人であり、現代社会思想講座の創始者となった清水幾太郎教授であった。清水幾太郎教授は常々次のように口にしていた。

 「人間は自分自身の経験からは絶対に離れられない。それがどんなに惨めなものであっても捨てることは不可能だ。いかなる体験であろうとも生涯背負っていかなければならないのだ」

 清水教授のこの言葉は森田実氏にも継承され、次のように述べている。

 「自分自身の体験ほど大切なものはない。いかなる人間も自分自身の体験からは逃れようとしても逃れることはできない。自分自身の体験は死ぬまでついて離れない。人間は自分自身の体験を重視し、自分自身の体験から学ばなければならない。自分自身の体験をないがしろにする者は愚かである。同時に人間は恥ずべき過去をつくらないよう努力しなければならない」。


【体験と経験の差異と同一性について】
 体験、体感、経験は個人生活のレベルでは同じ意味である。広辞苑(岩波書店)は、「体験」を、「自分が身をもって経験すること、また、その経験」と定義している。岩波哲学・思想事典は次のように記している(丸山高司氏執筆)。
 「〈体験〉概念は、多くの点で〈経験〉概念と重なり合うが、それとの相違点をあえて強調するなら、直接性や生々しさ、強い感情の彩り、体験者に対する強力で深甚な影響、非日常性、素材性、などのニュアンスをもっている」 。

 れんだいこは、体感、体験と経験の違いを次のように識別する。
 「体験と経験はどちらも自己感覚のものであり同じようなものであるが敢えて識別するとするなら、体験は数学に於ける十分条件に当る。経験は必要条件に当る。体感は必要十分条件に当る」。

 体感、体験と経験、その人の人生を動かしてきた決定的な要素であり、自分自身の体験はいかなる偉人の体験よりもずっと大切で価値の高いものである、としたい。しかも、たとえ自分自身の体験がどんなに醜く恥すべきものであったとしても、それから逃れることはできない。己の体験をしっかりと受け止め、これと共存する以外に道はないのである。この認識と強い自覚を持てば、人それぞれに前向きで個性ある人生を送ることが可能になるだろう。


 以上を踏まえて、れんだいこは、体験、経験、体感の意義を更に次のように進めたい。今日の知の発達は史上未曾有規模であり、この流れはま止まるところを知らず益々総花的に進展していくであろう。しかし、これを我々個々の人生から見れば、それは知の洪水であり、来襲でさえある。もはや、誰一人これを制御しきれる者はいないほどに肥大化しつつあるというのが実際である。判明しつつあることは、知はどうやらそれ自身価値を持っておらず無原則なまでに膨張していくのがその本質であるということである。知−これを科学的知識と置き換えて見れば良い−のこの厄介性を知ることが知恵であろう。この知恵を生む為に何に依拠すべきか、ここに体感、体験、経験がある。このフィルターを通じて濾過された知恵を核として知を集積していくことが、真の知の使い手であり、この逆を行うものは浪間に漂う知の遭難者といっても過言でなかろう。

 つまり、思弁社会に於ける処世法として、思弁の中の空疎性、有効性を識別する必要がある。こうなると、体験、経験、体感を重視して判断する事が往々にして誤まり少ない。体験、経験、体感の幅を広く持つことが求められる所以がここにある。





(私論.私見)