人生論メッセージその4 「人生の処世考」

 (最新見直し2008.7.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで人生の処世法を考察する。

 2008.7.22日再編集 れんだいこ拝



 では、こうした人生観にたってどう処世していくべきであろうか。ここに徳川家康の家訓がある。家康は、織田信長、豊臣秀吉の時代を耐えて耐えて耐え抜いて、ついに天下を制覇した人物であり、諭す言葉も味わい深い。「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し」は、忍耐と努力の大切さを強調した言葉として知られている。『論語』のなかに曽子の「任重くして道遠し」という言葉があり、同じことを別の言葉で言い換えたと言われてきた。この言葉のあとに「急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし」という言葉が続く。 この言葉が徳川家康自身の言葉かどうか、それとも東照宮遺訓の編者の言葉かは不明だが、この言葉が徳川家康の辛抱人生と重なることもあり、特別の重みがある。「忍耐と努力」、「慎重と着実」のシンボルのような家康的生き方は、忍耐力不足のために失敗を繰り返す危険と背中合わせに生きている多くの人々にとって教訓的である。

 徳川家康には他にも同様な趣旨の教訓が遺訓として残されている。「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」(忍耐こそが大切、怒りはその身を滅ぼす敵と思って慎まなければならない)、「凡そ人の上に立って下のいさめを聞かざる者の、国を失い、家を破られざるは、古今ともこれなし」(部下の忠告に耳を貸さぬ指導者は真の指導者たり得ないという意味。指導者の心得を示したもの)、「及ばぬは猶過ぎたるに勝れり」(何事も出過ぎるよりは多少控え目であるほうがよいという教え。孔子の「過ぎたるは猶及ばざるが如し」をもとに家康が自己流に「翻訳」したと伝えられている) 。これらの言葉はいずれも家康の人生体験に裏打ちされているだけに説得力がある。結果的にみて、信長的・秀吉的な生き方への生き方への痛烈な批判でもあったかも知れない。
 
 信長・秀吉・家康の三人の生き方を比較した江戸時代の川柳がある。

織田信長 「鳴かざれば殺してしまえほととぎす」
豊臣秀吉 「鳴かざれば鳴かせてみようほととぎす」
徳川家康 「鳴かざれば鳴くまで待とうほととぎす」

 この川柳には、戦国時代の三英雄の信長「過激」、秀吉「積極」に対し家康は「忍耐と慎重」という特徴が見事に表現されている。
 
 徳川家康(1542〜1616)は三河国(愛知県)岡崎の城主松平広忠の長子として生まれた。幼名は竹千代。6歳で織田信秀の人質となり、3年後に今川義元の人質として駿府に行き、父の死のときも帰ることはできなかった。家康が人質の境遇を脱して独立できたのは今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれた後のことだった。その後、京都をめざす武田信玄の軍を迎えうって窮地に立つが、信玄は急死。そして信玄の子・勝頼を織田軍とともに破り力をつけた。

 信長が本能寺の変(1582年)で没したあと、家康は秀吉と対峙する。そして両者間の「小牧・長久手の戦い」(1584年)はむしろ徳川有利に展開したといわれたが、ここで家康は一歩譲る。家康は秀吉の妹朝日姫を正妻として娶り、その母の大政所を人質にする。その間、家康は秀吉との虚々実々の駆け引きに耐え抜き、秀吉没後の関ヶ原の戦いで石田三成を破り実権を握った。さらに豊臣家を挑発し、大阪冬の陣と夏の陣で豊臣家を滅ぼし、天下を制し、江戸幕府を開いた。家康は艱難辛苦の末に天下泰平を成し遂げたのであった。家康の言葉が人々の心を打つのは、こうした忍耐の人生に裏打ちされているからであろう。
 

 れんだいこがこの言葉を貴いと思うのは、事業の成功者の経験から抽出された大元のエッセンスであると思うからである。人は己の人生を如何様に費消しようと自由である。しかし、その費消の結果の運命を抗うことなく受け入れねばならないとするならば、悔いが残らないようにせねばならない。悔いは残るとしても極力招かないようにするのが人生の処世法としての知恵である。この知恵も決して一様なものではないので押し付けるわけには行かない。が、功をあせらず足下を固めることの必要は一つの法則のようなものではなかろうかと、れんだいこは考える。「屈する者はよく飛ぶことが出来る」の例えに似せて、「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し」、「急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし」、「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」、「凡そ人の上に立って下のいさめを聞かざる者の、国を失い、家を破られざるは、古今ともこれなし」「及ばぬは猶過ぎたるに勝れり」を大事にしたいと思う。






(私論.私見)