人生論メッセージその1、人生の目的考

 (最新見直し2015.04.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 我が人生論の最初の考察は、「人生の目的考」から入る。

 2008.7.22日再編集 れんだいこ拝



1、思弁上の目的論について

 「人は何のために生きているのか?(what for do people live?)」、「人生の目的とは何か」。こう自問している人は少なくないと思う。インテリにはこの傾向が強い。しかし思考は空回りするばかりで明確な結論に達することはできない。人は、その模索の過程で宗教家に、革命家に、実業家に、単なる市井の人になり云々というようにして過ごしているうちに人生の半ば以上を費消し早や晩年に至り、その頃になって改めて人生論に至るのであるが、群盲が像を撫でる如く、諸氏百家がああでもないこうでもないと嘯(うそぶ)いているだけのことで、未だに解明されたとは思えない。

 人生論に於いて、「人は何のために生きているのか?(what for do people live?)」、「人生の目的とは何か」の問いと解こそが最初に考察を要する課題となる。人類は発祥のときより賢者も愚者もそれなりに人生の目的とか意義を求めて格闘してきた。そのことは良いのだが、この問いかけには或る癖があることを見てとらねばならない。どういう癖かと云うと、問いが大上段構え過ぎることである。この構えが分別的に如何にも日本的問いではなく西欧学的なものであることを知らねばならない。日本学的にはこういう問いをしない。日本学的に問うのは「人は如何に生きるべきか」である。もう少し詳しく云うとこうなる。「人は寿命を見据えて、その折節に相応しい生き方をするのが賢い。折節に整合させつつ寿命を如何に費やすべきか。これが有益な人生論である」。

 問いかけのこの差は大きい。解を求めるのは良いが、日本学のように、求めても得られない解があることを知るのも知恵ではなかろうか。これは、物事の根本に於けるロゴスとカオスの差になる。この世の中は根本的に説明できるのかできないのかの問題で、ロゴス派はできるとして解を求める。カオス派は根本の不可思議性を認め、徒な解を引き出さない。れんだいこは、ロゴス派の認識作法に軍配を挙げる。


 日本学から見れば西欧学的な問いかけは真答不能論であり、日本学はそう云うものに拘泥しない。回答の得られないものを徒に求めるのではなく、あるがままに生を受け入れて、生の折節の対応に叡智を傾けることを知の作法とする。まずはこう問い、次に西欧学的な問いに向かうのなら良い。日本学的な問いを喪失したまま西欧学的な問いに向かうのは単に西欧知被れでしかない。れんだいこが思うのに、これは単に対比ではなく、日本学の方が西欧学より一歩突き進み抜きんでているのではなかろうか。今後の人生論は、この辺りの弁証を要すると思う。

 西欧式人生論の喧騒の中で一つの卓見が為されているので確認しておく。ゲーテの「生きることの目的は生きることそれ自体である」という見識であるが、ゲーテのこの謂いは、単に同義反復的に述べているのではない。著作「ファウスト」の一節にこう記している。

 「ああ、わしはこれで哲学も法学も医学も、よせばいいのに神学まで骨おって研究しつくした。そのあげくがこの通り哀れな愚かものだ。前よりちょっとも賢くなっていない。(中略)もうかれこれ十年もあげたり、さげたり、斜めに横に、学生たちの鼻をつまんで引っぱりまわしている―そしてわれわれは何も知りえないのだということを悟っている。この胸が焼けてしまいそうだ」(高橋健二訳「河出世界文学全集」)

 これが、世界の最高知識を渉猟した挙句の言葉であることに留意する必要がある。ちなみに、ゲーテ(1749〜1832)とは次のように解説される人物である。

 「ドイツの代表的詩人、劇作家で、「若きベルテルの悩み」、「ファウスト」等の著書で知られる。同時代のシラーとともに当時のドイツ古典主義を代表する文人である。ゲーテは思索に没頭できるだけの恵まれた家庭で育ち、弁護士となったのち詩人として世に出た。その後、政治家にもなり政務の面でも手腕を発揮した。さらに地質学、植物学、比較解剖学など自然科学も手掛けた。世界の歴史上最も有能にして多才な人物である。

 これを仮に「ゲーテの解」と命名すると、「ゲーテの解」は、「生きることの目的は生きることそれ自体である」とすることにより、生きることの目的に何か絶対的な価値を見出し教条とする西欧的な人生論を否定しているところに意味がある。れんだいこは、ここにゲーテの図抜けた知性を感じる。

 「ゲーテの解」の秀逸さを確認するには他の秀逸解と比較すれば良い。姉崎嘲風(1873〜1949、宗教学者)曰く「人は希望なしには一日も活(い)き得ない」ソクラテス(紀元前469年頃 - 紀元前399年、古代ギリシャの哲学者)曰く「彼らは食べるために生きているが、私は生きるために食べる」サマセット・モーム(1874〜1965、イギリスの小説家)曰く「人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ」。これらの解はそれぞれ人生の何らかの的を射ている。但し「ゲーテの解」と比べれば扁平な気がするのは、れんだいこだけだろうか。

 いずれにしても、「ゲーテの解」も含めて、幾ら上手い言い回しであったとしても、それを
聞いたとしても人生の目的とか意義が明らかにされる訳ではない。そもそもこの課題に対しては、解明に向かったとしても埒があく訳ではない。こういう問いかけは無用といえば無用かも知れない。だがしかし、人はどんな逆境におかれても生きなければならず、生きる過程で何の為に生きているのか自問自答を涌かせることは悪いことではない、と云うか必要なことのように思われる。ゲーテは、そういうことを全て前提に踏まえた上で、人生の目的について「生きること自体が生きる目的なのである」と云ったように思われる。

 ゲーテのこの言葉には、「生きること自体が生きる目的」とする以外の価値、例えばユダヤ―キリスト教的聖書の御教えに基づく絶対真理教説の押し付け、あるいは権力者が安易に得々と語り押し付ける政治的要請を拒否しようとしている面があるのかも知れない。この点は注意を要するところであるが、国情や歴史、文化の違う我が国の人士には見落とされがちなところでもある。

 ここで「日本的解」を確認しておく。日本学的人生論は解けないものを解こうとして呻吟せず、人生を全体として眺め漂白する気風が強い。山上憶良の次の和歌を聞こう。「世の中を厭(う)しとやさしと思へども、飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」 。この一句は、憶良が自らの境遇の苦しみを詠ったものである。憶良はこの短歌のすぐ前で次のような意味の長歌を詠んでいる。

 「天地は広いというけれど、私に対しては狭くなってしまったのだろうか。日月は明るいというけれど、私に対しては照ってくださらないのでしょうか。(中略)綿も入っていない布の袖なしの、海草のようにぼろぼろに垂れ下がっている、ぼろ衣ばかりを肩にかけて、つぶれて曲がった小屋のなかで土の上に藁を解き敷いて(中略)かまどに煙も立たず(中略)これほどまでどうしようもないのだろうか、世の中の道というのは」。

 憶良は元の出自からすれば高貴の身分の者であったが、世の有為転変により末端官僚の国司の身分に甘んじていた。その国司の立場から、時の愚昧な政治に悲憤慷慨していた。かっての御代の善政を思い、時の御代の悪政により「民のかまどに煙も立たず」を嘆いている。そうではあるが、一国司の身分では何も為し得ない、そういう無力さを詠んだのが上述の和歌であると思われる。苦しい生活をしている多くの民草のことを考え、この苦難を解決できないことへの深い苦悩を表現したものである。

 ゲーテの言葉が人生論に対して大上段の構えであるのに比して、憶良の和歌は正眼の構えである。一見、悲観的、後向きに聞こえるが、「如何に生きるべきか、どう寿命を費やすべきか」と云う人生の価値観を重視している。憶良は、希望を見出すことができないながらも生き続けなければならないとして歴史の中に身を投じ生きようとしている心情を吐露している。かくれんだいこは窺う。大上段の構えではない正眼の構えの憶良のこの生き方の方が即応的で無理がないのではなかろうか。こういう日本的な学問の質の高さを知るべきではなかろうか。もとより大上段の構えを貶しているのではない。大上段の構えと中段の構えをセットにして問うべきだと申し上げている。

 
憶良の人生観の底にあったのは、古来よりの在地土着的な神道的叡智であったように思われる。憶良の、絶望的な現実に耐え続ける生き方は、これらの思考の混合のうえに成り立っていたのではなかろうかと思われる。
憶良調のこの一種の諦観と順応の方が今日の日本人の心の底にまで生き続けているメンタリティーであり、今後も我々が持ち合わせねばならぬものではなかろうか。

 在地土着的な神道的叡智は万葉の時代から連綿と引き継がれ、後に儒教、仏教をも吸収咀嚼しながら日本人の人生観の根幹を形成してきているのではなかろうかと思う。近代に入って西洋の知識を学んだ知識人が、日本伝統のこのメンタリティーを喪失したまま、西欧的な知識に被れるのは却ってお粗末な話であり、やがて西欧学が日本学の高度さに注目した時、日本学を知らない西欧被れは単に恥じるばかりではないかと心配する。この差を知らないままの哲学的問いは知の対話に成功しないのではなかろうかと心配申し上げておく。


 2011.8.31日再編集 れんだいこ拝


2、実践(心構え)上の目的論について

 さて、以上を踏まえて、れんだいこは次のことを語りたいと思う。ゲーテの「生きることの目的は生きることそれ自体である」には、世に流布されている人生とはかくかくしかじかなりの諸説の虚構を剥ぐという積極性があることを認めよう。だがしかし、そうしてみても、「生きることの目的は生きることそれ自体である」は、人生の目的について相変わらず何も語っていない。それで良いのだという同義反復の世界のうちに沈潜しているに過ぎない。 

 れんだいこは、ゲーテのこの沈潜をも踏まえて、以下れんだいこ流に人生を説きたいと思う。人生とは何ぞや、についてかく答えたい。「個々の人生とは、人類の生命の世代連鎖に貢献し、この縛りの下で、寿命のある限りにおいて、有益な何事かを刻印することに意義を持つ。これが人生の意義であり使命である」。

 しからば、その為に要す個々の人生は極力ストイックであるべきか、快楽的であるべきだろうか。れんだいこは考える。人は誰しも生命を終え、棺の中に納まるにあたって本望であらねばならない。ストイックも良し、快楽も良し、肝心なことは、人生に対し当人が自然発露として自律的に選択処世してきたという経過を持つ必要があるということだ。前段は字句通りである。後段については、我々の自律的な人生費消権を侵害してくる、そうさせじとする社会的威力に対して共同して闘わねばならない、ということを示唆している。この闘い抜きに、あるいは闘いと離れた地平での人生論は、人生の本質に絡めない。この指摘は意外と大事だが、これまでさほど指摘されてこなかったところである。

 なお、れんだいこの敬愛する中山みきは、次のようにみき流に見事な解析をしている点で魅力的である。「創造主が人類を誕生させるにあたっての思惑は、被創造物である人間が互いに助け合って『陽気に勤め暮らす』様(さま)を見て、自身も楽しみたいであった」と説いて聞かせる。そういう思いで創造された以上、「互いに助け合って『陽気に勤め暮らす』様」を演じていくのが、人間にインプットされた人生の本源性であり、かく創造された人類は、お互いが「助け合う」生き方、それを見て神が興じ味わう様こそ本望とするよう意図づけられているからして、そう生きるべきだと諭す。この説話は、「人生の目的とは何か、その意義とは」に対して正面からではないもものの一つの解答を与えている。れんだいこは目下最も気に入っている。

 このみき説話を受け入れるかどうかは別にして、私が云いたいことは次のことである。一般にHOWよりWHYが難しい。世の中で本当に大事なことは解き明かされないままヴェールのうちにあり、今後もそうあり続けるだろう。そんなものだという認識の中で、過去も今もこれからの人たちも生命を費消していかねばならない。信仰にせよ、信念にせよ、これらが介在する原理がここにある。科学的なんとかを云々すれば全てが解けるなぞという安易なからくりにはなっていない。この識別が肝心である。

 2011.8.29日再編集 れんだいこ拝


3、生物上の目的論について
 さて、以上を踏まえて、もう一つの人生論をしておかねばならない。今までの人生論はいわば思弁的にして究極の人生論であり、しかして実態は「生きることの目的は生きることそれ自体である」という結論以外のものを見出しえなかった。それに比して、これから述べる人生論はかなり具体的である。なぜなら生命論を究明するところから生まれる人生論であるからである。ここは難しく語る必要はない、限りなく素直に実態を見れば良い。

 全ては「命あっての物だね」から始まる。肉体的諸機関の器質上から始まる生命活動の舞台についての考察となり、生命の保全とそのことの目的を問う人生論という趣になる。人生論という場合、生命原理の仕組みを通じた人生論の考察もしておかねば片手落ちであり、この人生論と思弁的な人生論との統一的理解が十全な人生論ということになると思われる。以下、概述する。

 人は、両親の性の交接により母胎に生命を宿す。十月十日を標準としてこの世に誕生する。誕生より死没に至るまでの寿命サイクルがその人の人生となる。この人生の最初の公理は、【個体としての生命活動の維持、転変適応】である。これを【第一次欲求】としてみなせばよいと思われる。端的に云えば【オマンマ(食うこと)系】の活動と表現することができる。心臓の鼓動、呼吸、摂食、排泄、睡眠、体温調整等々いわば【1・生理的野性的本能レベル】と考えられる。人は、これらの所為を適正に為さしめるよう生きることが人としての第一の人生目的となる。

 次の人生公理は、【人と人との相互関係を通じた生命活動の維持、転変適応】である。これを【第二次欲求】としてみなせばよいと思われる。一言でいえば【生活圏確保系】の活動と表現することができる。人間は、他の生物との識別の最大特徴として高度に発達した頭脳を持つ。もとより実際には頭脳だけではない、頭脳に照応した身体の諸器官を備えているが、右代表として頭脳に照準を合わせることにする。人は、この頭脳を使って、第一次欲求の「オマンマ系活動」がより安定的恒常的に獲得されんが為の生活圏確保活動に向かうことになる。その第一歩は家族紐帯の形成であり、そこから自然発露として初歩的な地域関係の形成、労働の共同、その習熟、教育の享受、相応の組織形成と役割分担へと向かうことになる。こうした第二次欲求は、通常【2・準本能レベル】の所為と見ることができる。当然のことながら、これらを適正に為さしめるよう生きることが人としての第二の人生目的となる。

 れんだいこは、ここまでの欲求を分かりやすく【汎オマンマ系】の生命活動と考えている。この活動は、人の生涯を通じて根本的な欲求であり、全てがここから始まっているという自然史的認識で了解されねばならない。これらの欲望は、人間が生存し発展していく上で必要なものであり、捨ててはならない、捨てきれるものでもない、ものとして考えたい。

 人はこののちますます知恵を深めていくことにより高次な生命活動を可能にしていくことになるが、留意せねばならぬことは、下手に知恵をつけると「オマンマ系生活圏確保の生命活動」の自然史的認識を軽視しがちになることである。俗に、「人が頭で立っているかのような逆立ち思考」に陥り、そうなると本末転倒的認識が立ち表れ、しっぺ返しにあわされることになる。 

 人の頭脳活動は、更に欲求を深めていくことになる。【汎オマンマ系】の生命活動をさらによりよく確保、充足せしめるための【社会圏確保系】に向かうことになる。それまでの基本的欲求を踏まえて更に高次な人と人との群れ方としての労働組織の形成、より機能的な地域共同、あるいは国家・社会の形成、労働分配の適正化、社会的権限及び地位、名誉の確保等々の欲求に向かうことになる。これらを【第三次欲求】と考えることができるが、この段階において【3・人工的な文明社会レベル】の所業(なりわい)と見ることができる。当然のことながら、これらを適正に為さしめるよう生きることが人としての第三の人生目的となる。

 この第三次欲求段階にいたって、人生のより多方面闊達な充足を目指しての諸活動が「向自」的に花開き、これもまた人生の目的となる。スポーツ、趣味、教養、文化的諸活動等々−これらを【第四次欲求】と読んでも良いと思われる。ここにおいてはじめて「オマンマ系云々」とは区別される生命活動となる。第四次欲求は、通常【4・社会的生活充足レベル】の所業と見ることができる。当然のことながら、これらを適正に為さしめるよう生きることが人としての第四の人生目的となる。

 れんだいこは、ここら辺りの欲求を分かりやすく【世渡り」系】の活動と考えている。この欲望もまた、人間が生存し発展していく上で必要なものであり、捨ててはならない、捨てきれるものでもない、ものとして考えたい。

 さて、最後にある【第五次的欲求】が最高度のものであると思われる。その要素には、環境改変活動、政治・社会変革活動、宗教・哲学等の世界認識活動、芸術的、技芸的諸活動が考えられる。恐らく、【人の諸能力の臨界値的発展段階】であり、それ故に憧れと苦痛且つ悦楽的エンドルフィン分泌を伴うものである。れんだいこは、ここら辺りの欲求を分かりやすく【5・パフォーマンス系】の活動と考えている。この欲望もまた、人間が生存し発展していく上で必要なものであり、捨ててはならない、捨てきれるものでもないものとして考えたいが、こうなると野性的本能レベルのものではなく、かなり特殊人間的な生命活動ではなかろうかと考える。


 以上、無理矢理に5段階規定したが、実際には渾然一体の欲求であり、識別すればかく分別為し得るという観点で踏まえる必要がある。もう一つ、第一次欲求から次第に第五次欲求まで重畳的に絡んでおり、少なくとも第一次欲求に至るほど基底的であり、踏まえられねば成らない生の原則であるということを公理として知っておく必要がある。言い方を替えれば、第五次欲求の舞台だけを目的化する訳には参らないということである。結局のところ、人生目的とは、こうした人間の欲求摂理に総体としてどう応えていくのかという問題に収斂するであろう。

 なお、簡略にするために言及できなかったが、これらの活動の全てに【生殖・性活動】がオブラートしている。しこうしてこの秘密は恐らく永遠に解けない。こうなると、いやはや人生論なぞに手を出すものではないことが知らされることになる。

 2011.8.30日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)