人生論メッセージその1、人生の目的考 |
(最新見直し2015.04.29日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
我が人生論の最初の考察は、「人生の目的考」から入る。 |
1、思弁上の目的論について | |||
「人は何のために生きているのか?(what for do people live?)」、「人生の目的とは何か」。こう自問している人は少なくないと思う。インテリにはこの傾向が強い。しかし思考は空回りするばかりで明確な結論に達することはできない。人は、その模索の過程で宗教家に、革命家に、実業家に、単なる市井の人になり云々というようにして過ごしているうちに人生の半ば以上を費消し早や晩年に至り、その頃になって改めて人生論に至るのであるが、群盲が像を撫でる如く、諸氏百家がああでもないこうでもないと嘯(うそぶ)いているだけのことで、未だに解明されたとは思えない。
これが、世界の最高知識を渉猟した挙句の言葉であることに留意する必要がある。ちなみに、ゲーテ(1749〜1832)とは次のように解説される人物である。
これを仮に「ゲーテの解」と命名すると、「ゲーテの解」は、「生きることの目的は生きることそれ自体である」とすることにより、生きることの目的に何か絶対的な価値を見出し教条とする西欧的な人生論を否定しているところに意味がある。れんだいこは、ここにゲーテの図抜けた知性を感じる。 ここで「日本的解」を確認しておく。日本学的人生論は解けないものを解こうとして呻吟せず、人生を全体として眺め漂白する気風が強い。山上憶良の次の和歌を聞こう。「世の中を厭(う)しとやさしと思へども、飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」 。この一句は、憶良が自らの境遇の苦しみを詠ったものである。憶良はこの短歌のすぐ前で次のような意味の長歌を詠んでいる。
憶良は元の出自からすれば高貴の身分の者であったが、世の有為転変により末端官僚の国司の身分に甘んじていた。その国司の立場から、時の愚昧な政治に悲憤慷慨していた。かっての御代の善政を思い、時の御代の悪政により「民のかまどに煙も立たず」を嘆いている。そうではあるが、一国司の身分では何も為し得ない、そういう無力さを詠んだのが上述の和歌であると思われる。苦しい生活をしている多くの民草のことを考え、この苦難を解決できないことへの深い苦悩を表現したものである。 |
2、実践(心構え)上の目的論について |
さて、以上を踏まえて、れんだいこは次のことを語りたいと思う。ゲーテの「生きることの目的は生きることそれ自体である」には、世に流布されている人生とはかくかくしかじかなりの諸説の虚構を剥ぐという積極性があることを認めよう。だがしかし、そうしてみても、「生きることの目的は生きることそれ自体である」は、人生の目的について相変わらず何も語っていない。それで良いのだという同義反復の世界のうちに沈潜しているに過ぎない。 2011.8.29日再編集 れんだいこ拝 |
3、生物上の目的論について |
さて、以上を踏まえて、もう一つの人生論をしておかねばならない。今までの人生論はいわば思弁的にして究極の人生論であり、しかして実態は「生きることの目的は生きることそれ自体である」という結論以外のものを見出しえなかった。それに比して、これから述べる人生論はかなり具体的である。なぜなら生命論を究明するところから生まれる人生論であるからである。ここは難しく語る必要はない、限りなく素直に実態を見れば良い。 全ては「命あっての物だね」から始まる。肉体的諸機関の器質上から始まる生命活動の舞台についての考察となり、生命の保全とそのことの目的を問う人生論という趣になる。人生論という場合、生命原理の仕組みを通じた人生論の考察もしておかねば片手落ちであり、この人生論と思弁的な人生論との統一的理解が十全な人生論ということになると思われる。以下、概述する。 人は、両親の性の交接により母胎に生命を宿す。十月十日を標準としてこの世に誕生する。誕生より死没に至るまでの寿命サイクルがその人の人生となる。この人生の最初の公理は、【個体としての生命活動の維持、転変適応】である。これを【第一次欲求】としてみなせばよいと思われる。端的に云えば【オマンマ(食うこと)系】の活動と表現することができる。心臓の鼓動、呼吸、摂食、排泄、睡眠、体温調整等々いわば【1・生理的野性的本能レベル】と考えられる。人は、これらの所為を適正に為さしめるよう生きることが人としての第一の人生目的となる。 次の人生公理は、【人と人との相互関係を通じた生命活動の維持、転変適応】である。これを【第二次欲求】としてみなせばよいと思われる。一言でいえば【生活圏確保系】の活動と表現することができる。人間は、他の生物との識別の最大特徴として高度に発達した頭脳を持つ。もとより実際には頭脳だけではない、頭脳に照応した身体の諸器官を備えているが、右代表として頭脳に照準を合わせることにする。人は、この頭脳を使って、第一次欲求の「オマンマ系活動」がより安定的恒常的に獲得されんが為の生活圏確保活動に向かうことになる。その第一歩は家族紐帯の形成であり、そこから自然発露として初歩的な地域関係の形成、労働の共同、その習熟、教育の享受、相応の組織形成と役割分担へと向かうことになる。こうした第二次欲求は、通常【2・準本能レベル】の所為と見ることができる。当然のことながら、これらを適正に為さしめるよう生きることが人としての第二の人生目的となる。 れんだいこは、ここまでの欲求を分かりやすく【汎オマンマ系】の生命活動と考えている。この活動は、人の生涯を通じて根本的な欲求であり、全てがここから始まっているという自然史的認識で了解されねばならない。これらの欲望は、人間が生存し発展していく上で必要なものであり、捨ててはならない、捨てきれるものでもない、ものとして考えたい。 人はこののちますます知恵を深めていくことにより高次な生命活動を可能にしていくことになるが、留意せねばならぬことは、下手に知恵をつけると「オマンマ系生活圏確保の生命活動」の自然史的認識を軽視しがちになることである。俗に、「人が頭で立っているかのような逆立ち思考」に陥り、そうなると本末転倒的認識が立ち表れ、しっぺ返しにあわされることになる。 人の頭脳活動は、更に欲求を深めていくことになる。【汎オマンマ系】の生命活動をさらによりよく確保、充足せしめるための【社会圏確保系】に向かうことになる。それまでの基本的欲求を踏まえて更に高次な人と人との群れ方としての労働組織の形成、より機能的な地域共同、あるいは国家・社会の形成、労働分配の適正化、社会的権限及び地位、名誉の確保等々の欲求に向かうことになる。これらを【第三次欲求】と考えることができるが、この段階において【3・人工的な文明社会レベル】の所業(なりわい)と見ることができる。当然のことながら、これらを適正に為さしめるよう生きることが人としての第三の人生目的となる。 この第三次欲求段階にいたって、人生のより多方面闊達な充足を目指しての諸活動が「向自」的に花開き、これもまた人生の目的となる。スポーツ、趣味、教養、文化的諸活動等々−これらを【第四次欲求】と読んでも良いと思われる。ここにおいてはじめて「オマンマ系云々」とは区別される生命活動となる。第四次欲求は、通常【4・社会的生活充足レベル】の所業と見ることができる。当然のことながら、これらを適正に為さしめるよう生きることが人としての第四の人生目的となる。 れんだいこは、ここら辺りの欲求を分かりやすく【世渡り」系】の活動と考えている。この欲望もまた、人間が生存し発展していく上で必要なものであり、捨ててはならない、捨てきれるものでもない、ものとして考えたい。 さて、最後にある【第五次的欲求】が最高度のものであると思われる。その要素には、環境改変活動、政治・社会変革活動、宗教・哲学等の世界認識活動、芸術的、技芸的諸活動が考えられる。恐らく、【人の諸能力の臨界値的発展段階】であり、それ故に憧れと苦痛且つ悦楽的エンドルフィン分泌を伴うものである。れんだいこは、ここら辺りの欲求を分かりやすく【5・パフォーマンス系】の活動と考えている。この欲望もまた、人間が生存し発展していく上で必要なものであり、捨ててはならない、捨てきれるものでもないものとして考えたいが、こうなると野性的本能レベルのものではなく、かなり特殊人間的な生命活動ではなかろうかと考える。 以上、無理矢理に5段階規定したが、実際には渾然一体の欲求であり、識別すればかく分別為し得るという観点で踏まえる必要がある。もう一つ、第一次欲求から次第に第五次欲求まで重畳的に絡んでおり、少なくとも第一次欲求に至るほど基底的であり、踏まえられねば成らない生の原則であるということを公理として知っておく必要がある。言い方を替えれば、第五次欲求の舞台だけを目的化する訳には参らないということである。結局のところ、人生目的とは、こうした人間の欲求摂理に総体としてどう応えていくのかという問題に収斂するであろう。 なお、簡略にするために言及できなかったが、これらの活動の全てに【生殖・性活動】がオブラートしている。しこうしてこの秘密は恐らく永遠に解けない。こうなると、いやはや人生論なぞに手を出すものではないことが知らされることになる。 2011.8.30日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)