人生論メッセージその2、人生の価値考

 (最新見直し2008.7.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 人生の値打ちとは何か、人生論においてこれが次に考察を要する課題となる。

 2008.7.22日再編集 れんだいこ拝



【人生の値打ちについてその1、如何に生きるべきかについて】
 人生には寿命がある。寿命を有限と見なすべきか、輪廻転生論により再生を考慮すべきか、まずはここを明らかにせねばならない。れんだいこは、「寿命有限、死すれば土に還る」という事実をそのまま観る。他方、古来より智者はそうは見ないようである。特にヒンズーの影響を受けたか仏教僧は、堂々と輪廻転生を説いて聞かせてくれる。あるいはキリスト教徒が生命の再臨−千年王国論を聞かせてくれたことも有る。それらの真意には、恐らく「人生の値打ち」に対して積極的な意義付けを為そうとした営為があるのであろう。しかし、れんだいこはこの思想を拒否する。人生は有限人生として捉えきるうちよりその価値を引き出すべきであり、この内在的な価値論から離れた説話は思弁的過ぎるというスタンスに立ちたい。以下、この観点から考察することにする。

 一般に寿命に対して、単純に長命であれば良いと云うもので無いように思われる。この思いを吐露しているのが、セネカの次の一説である。「いかに永く生きたかではなく、いかに良く生きたかが問題である」。この人生の価値考こそが人生論の第二の課題となる。
暫く、このセネカとその学派に付いて述べてみる。なぜなら、人生に対して有徳の重要性を考察した貴重な学派であることによる。

 セネカ(紀元前4、5年頃〜65年)は、著名な弁護家マルクス・アンナウス・セネカの次男としてスペインのコルドバに生まれた。父(大セネカ)と区別するため通常は「哲学者セネカ」と呼ばれている。幼少時にローマに移り、弁論術を学ぶとともにストア派の哲学を勉強した。セネカは古代ローマの代表的なストア派学者だが、同時に元老院議員、皇帝ネロの家庭教師をつとめたことでも知られている。セネカは暴虐のかぎりを尽くす暴君ネロから反乱計画に加担したとの嫌疑をかけられ、自殺を命じられて血管を切ったが死にきれず、風呂のなかで苦しみ抜いて死んでいったと伝えられている悲劇の哲学者である。

 セネカが属するストア学派とは、キプロスのゼノン(紀元前三三五〜二六三)が創設した学派である。ゼノンがアテネのストア-ポイキレ(彩色柱廊・壁画で有名な講堂)で教えたためストア学派と呼ばれた。ストア学派の思想は、ヘラクレイトス、アリストテレスの影響を強く受けた学派で、認識論、自然学、倫理学の三部門からなっている。

 ストア学派の思想は、アテネからロードス島を経てローマに広まったが、次のようなものである。「宇宙は全体として有機体をなしており、いっさいは必然性に従って生起する」という考え方を基礎にしている。「人間はそれ自体小宇宙であり、その本質である理性(ロゴス)は宇宙の理性と同一のものである。したがって理性に従った生活は、宇宙、自然に従った生活である」とした。さらに、「人間はこの宇宙理性を有するから万民は平等である」ともしていた。「ただひとつの真なる善は徳であり、ただひとつの真なる悪は道徳的薄弱である。他のいっさいのものは善悪とは無関係である。ここから外物にわずらわされることなく内部的な精神的自由を保ち、平静・不動のアパティ(激情のない)生活を送るのを賢者とした」。


 この思想がセネカの人生観の根底にあった。しかし実生活ではこの人生観と現実との矛盾に悩まされる。セネカは弁護士、元老院議員として活躍し、やがて政府の財務官に任ぜられる。若くして高い名声を得れば、ねたみの対象にされるのが世の常である。『史記』でいうところの「孤丘の戒め」である。地位や収入が上がると人のねたみを買いやすい。名声を得たというだけで憎しみや恨みを受けるものだ。とかくこの世はおそろしい。セネカもその例に漏れず時の皇帝カリグラのねたみを買い、危うく殺されかけたこともあった。その皇帝カリグラが暗殺されクラウディウス帝の時代になる。が、ここでも皇后メッサリーナの陰謀によってコルシカに追放される。セネカが多くの哲学論文や悲劇を書いたのはこの失意の時代である。

 8年後、クラウディウス帝の後妻アグリッピーナの尽力でローマに帰任し、アグリッピーナの連れ子のネロの家庭教師に任ぜられた。アグリッピーナは夫のクラウディウス帝を毒殺してわが子ネロを皇帝の座につけた。これより先、国家法務官になっていたセネカはブルルスとともに執政となりネロを補佐した。ネロ時代の初期の五年間善政が敷かれたのは、セネカとブルルスの補佐によるものだった。『幸福なる生活について』や『人生の短さについて』が書かれたのはこの頃である。こうした経歴を持つセネカは、真の幸福は徳性(道徳的な力、道徳的優秀性)のなかにあると考えていた。ここでの幸福と徳性はきわめて精神的なものである。

 このセネカ観と対立していたのはエピクロス派だった。暫く、このエピクロスとその学派に付いて述べてみる。なぜなら、人生に対して快楽の重要性を考察した貴重な学派であることによる。エピクロスは紀元前340年頃から270年頃まで足跡を持つギリシアの哲学者であった。エピクロス哲学は倫理学、物理学、論理学から成っているが、倫理観は快楽主義だった。快楽を幸福有徳な生活の最高原理と考えた。

 これに対しセネカは、「快楽の蔑視こそ真の快楽とする人が幸福な人である。快楽は、悪しきもののなかにも、善きもののなかにも存在する。快楽を善い意志の仲間にせよ」と主張し対立していた。実に、幸福と快楽の関係は哲学の根本問題のひとつである。徳性と快楽との関係についても、セネカは、「徳性は高貴なものであるが快楽は破れ易いものであり、楽しさが最高潮に達したときに消滅するものだ」とした。「古人は、最も楽しい生活を送れとは言わないで善き生活を送れ、と説いた」という言い方で、セネカは自己の道徳論を表現した。してみれば、「いかに良く生きたかが問題である」との箴言は、享楽主義に対して向けられたセネカの闘争宣言のようなものであったことになる。

 哲学史上、エピクロスに対するセネカの思索によって、エピクロスの快楽主義をとるかセネカのストイシズムをとるかが呈示されており、この成果を継承しない思索は物足りない観がある。

【人生の値打ちについてその2、人生における理想追及の値打ちについて 】

 もう一つ、「人生の価値」考察にあたって、「人はパンのみにて生きるにあらず」(新約聖書)を検証する必要がある。この言葉の出典は、新約聖書「マタイによる福音書」第4章である。そこにはこう書かれている(日本聖書教会『聖書』、1955年)

 「さて、イエスは御霊(みたま)によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になれた。すると試みる者がきて言った。『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい』。イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」 。

 このイエスの答えは旧約聖書「申命記」第8章の次の言葉のことである(出所、同前)。
 「主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの祖先たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」。(「マナ」とは天から与えられた植物の種のような食物のこと)。

 この「人はパンのみにて生きるにあらず」をどう解釈すべきか。これは議論を呼ぶところである。そもそも聖書の記述の正確ささえ疑わしい。れんだいこは、文字通りに受け止め、「パンは大事であるが、パンに象徴される物質的富だけに生きるものではない」と理解する。しかし、「マタイによる福音書」では、神の威徳を知らしめる言葉であるように記している。

 他にも次のような理解がある。
この言葉が最も人口に流布された戦後、左翼知識人は、「人間が生きる目的はただ食べることではない。人間には食うこと以上に大切なことがある。人間はより高い理想の実現のために生きるべきだ。世界平和のために、搾取のない自由で平等な社会をつくるため、革命に生きるべきだ」と拡大解釈して使っていた。左翼知識人のなかには少数のキリスト教社会主義者や非マルクス主義者もいたが、大多数はマルクス主義の信奉者だった。

 聖書の言葉が、宗教的教説全般を否認する唯物論者によって盛んに使われるという現象が現れたことが興味深い。しかし、れんだいこは、「パンは大事であるが、パンに象徴される物質的富だけに生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる即ち真の信仰も叉命である」と云う意味の御言葉と理解したい。


【人生の値打ちについてその3、人生における生き甲斐について 】

 人間には生き甲斐が必要である。ここが他の動物と違うところと云える。その理由(WHY)を詮索して見ても難しいので、人間という種族の高次に発達した脳機能がそういうものを求める仕組みになっていると単に了解したほうが良いように思われる。

 人間は、生き甲斐を達成するために、目的を掲げ、困難を乗り切っていく。この過程は、一見苦しんでいるようでも、その実は人生最大の楽しみを味わっているわけで、非常な魅力を発揮する。

 この目的の同伴者は立身出世である。立身出世はあながち拒否するべきではない。立身出世の意義は、既存の秩序に対する寄生的なそれを意味しない。人として生まれたからには、人間としての最高のパフォーマンスを求めて精進すべきであり、それによって登用される立身出世は望むところとすべしではなかろうか。当然、不正手段や秘密結社入りの後押しによって立身出世すべきではない。そこは弁える必要があろう。

 立身出世の意義は単に名誉にあるのではない。収入に有るのでもない。地位を通じて影響力を発揮するという改革面と、責任を担うことによって自己の全能力を発揮し世に貢献するという機能面にこそある。これは人生の最良目的に叶っている。これを纏めて「人間の生き甲斐は立身出世を目指して努力することにある」と云えることになる。

 青年は大志を抱き、小成に安んぜず、常に最高のものを目指して、当面の困難に挑戦する。そこに生き甲斐があり、その姿にこそ最高の魅力がある。安易な生活に馴れ、目的を持たないで苦難を避けている青年には魅力は無い。





(私論.私見)