人生論メッセージその12 「引き際考」

 (最新見直し2008.7.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで労働の意義について考察する。

 2008.7.22日再編集 れんだいこ拝



 人生は、やがてその生を終える時を迎える。これをどう了解し対応し処理するのか、これを引き際考と云う。「功成り名遂げて身退(しりぞ)くは天の道なり(老子)の諭しは大いに指針となるであろう。

 
諸橋轍次著『中国古典名言事典』(講談社学術文庫、1979年刊)では「功遂げ身を退くは天の道なり」となっており、次のように解説している。「春は春のなすべきことを終われば、その地位を夏に譲る。夏も秋も、それぞれ葉を茂らせ実をみのらせれば、冬にその地位を譲る。人間も、一応の仕事ができ、功名を遂げたら、その位置から退くのが、天の道に従うゆえである」。

 この言葉は次のような文章の一部分である。「持してこれを盈(み)たすは、その已むにしかず。揣(きた)えてこれを鋭くすれば、長く保つべからず。金玉堂に満つれば、これをよく守ることなし。高貴にして驕れば、おのずからその咎(とが)を遺す。功遂げて身を退くは、天の道なり」。

 現代語になおすと次のとおり。「酒を満たした杯はいつまでも持ちこたえることができない。鋭利な刃物は折れやすい。財宝を蓄えればかならず狙われる。高貴になって慢心するのは災厄を招くもとだ。成功すれば身を引くのが天の道である」(奥平卓・大村益夫訳『[中国の思想W]老子・列子』、徳間書店、一九九六年刊)。

 『老子』の著者が誰かを特定することはできない。しかし、道家思想の開祖であり中国思想史に巨大な影響を与えた人物であることは確かなことである。司馬遷は『史記』のなかでこう書いている。「老子の学問は、才能を隠し、無名であることを旨とした」。最近では真の作者が自ら名を隠したという説が有力だが、あり得ないことではないと思われる。

 老子思想の真髄は「無為」
 日本人がよく使う老子の言葉のなかに次の言葉がある。
 *敢えて主とならずして客となる(自ら進んで主人公になるのではなく控え目でいるのがよい)
 *敢えて天下の先とならず(世の中の先頭に立つようなことはせず謙虚な態度がよい)

 ここに老子思想の真髄が示されている。老子は個人ないし政治家の行動規範として〈無為〉を説く。これは道家思想の「謙下不争」(下の者や弱い者に譲り争わないこと)の考え方に沿ったものである。 「敢えて天下の先とならず」は、「我れに三宝あり。持して之を保つ」(私には三つの宝があり、それをしっかりと守っている)のなかの言葉。三宝とは一つは「慈」(慈愛の心)、二つは「倹」(倹約)、三つは「敢えて天下の……」(謙虚な態度)。この言葉は三つの宝の一つなのである。老子は人間の処世術として「控え目に生きる」ことをすすめていた。

 しかし、老子の教えは単に処世術にとどまるものではない。老子思想は自然哲学、認識論、倫理学、政治論、軍事論に及ぶ包括的な思想体系である。そして、老子はこの世界を支配している「道」を説く。それが〈無〉であり、〈無〉とは知覚を超越した「あるもの」である。 老子の世界観は「無名は天地の始めなり」、「玄の又た玄は衆妙の門なり」の言葉に凝縮されている。諸橋轍次氏の解説によると――万物生成の根本である「無名」すなわち「名のないもの」は「道」を指す。この「無名」が天地の始めであり、万物の母だという意味。「玄」とは老子の「道」を意味する。道はすべてのものが生ずるところだから「門」という。「衆妙」とは宇宙の森羅万象のこと。

 『老子』のなかに「道の道とすべきは常の道にあらず」という言葉がある。真の道は絶対不変の固定した道ではない、という意味である。この思想の根底にあるのは、万物は流転する、これが宇宙の根本原則だという考え方。人間はこの変化のなかに身を投じ自然と一体化すべきだ、そこに自由の境地が開かれると老子は説いているのである。

 「上善は水の若(ごと)し」(最上の善は水のようなものである)。これも老子思想を代表する言葉。 『老子』はこう言っている――「水は万物を育てながらも自己を主張せず、だれしも嫌う低きへ低きへとくだる。だから『道』に似ているといってよい。水、それは、位する所は低い。心は深く静かである。あたえるに、わけへだてがない。言動に、いつわりがない。おさまるべきときには、必ずおさまる。はたらきは、無理がない。時に従って、変転流動して窮まるところがない。水と同様に、自己を主張せぬもののみが、自在な能力を得るのである」(奥平卓・大村益夫訳『[中国の思想W]老子・列子』、徳間書店刊、より引用)

 「引退の哲学」を忘れたわが国の政治家
 老子の「功成り名遂げて……」の教えは、とくに政治指導者にとって大切だと思う。政治家は国民のために働くべき立場にある。全力を尽くして国民のために働き、そして自らの任務が終わったら潔く引退するのが正しい道である。
 政治家の引退に対する姿勢には三つのタイプがある。
 (1)なすべきことをなしたら潔く引退する(田村元・元衆議院議長や細川護煕元首相ら)
 (2)いったん引退して再び復活する(石原慎太郎東京都知事)
 (3)あくまで頑張り抜く(中曽根康弘元首相や宮沢喜一元首相ら)。
 
 (1)のタイプの政治家は高潔である。(2)のタイプはきわめて稀。いまは圧倒的多数が(3)タイプだ。日本の政界には「引退の哲学」がなくなっている。老醜をさらしている者もいる。これが政界の世代交代を阻害し、新陳代謝を妨げている。これは政治家が国民から遊離する大きな原因でもある。
 「利して利する勿れ」という言葉がある。周の武王の弟・周公の言葉で、「政治家は人民の利益を第一に考えるべきで、自分個人の利益をはかってはならない」という意味である。

 ところが現実はどうだろう。自分の利益ばかりを考え、政治権力を利用して自らの個人的利益をはかろうとする政治家が目立つようになった。浅ましい政治家が増えてきたように見えるのは残念なことだ。これも指導的政治家が「引退の哲学」を忘れてしまい、世代交代をかたくなに拒否する政治家が増えていることが原因している。ベテラン政治家が潔く引退することが、政治家の世代交代と政界浄化を促進する道だと思う。政治が退廃したとき不幸になるのは国民である。







(私論.私見)