飄(つむじ風)転載11

 (最新見直し2014.08.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 1985年8月12日、羽田発大坂(伊丹)行き日本航空インターナショナルのボーイング747型(ジャンボジェット、機体記号JA8119)機のJAL123便が墜落し、505人の乗客と15人の乗員合わせて524人(他、赤ちゃん1名)が死亡すると云う大惨事が発生している。問題はこの事故が事件の臭いがすることにある。この事件には不可解なことが有り過ぎる。幾人かの識者が既に言及しているが未だ真相は明らかにされていないと考える。これを仮に「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」と命名する。長年気になっていた事件であるが今漸く着手する。

 2010.8.16日 れんだいこ拝


 そして、日本人、とりわけ真正ユダヤ人としての日本人を標的とする人体実験であった。その巻き添えにあったのは、米ソに巣食う偽ユダヤ人の傀儡軍機である。そのため、激怒した偽ユダヤ支配の米国は日本を標的として徹底的な壊滅作戦を発布し、そのためにプラザ合意が成立した。以後、日本経済は壊滅的な破壊工作にあっている。これはあくまで小説である。しかし、素直に分析すれば、歯牙も掛けず表現すればそうなる。しかも事もあろうに、多数の生存者が居たにもかかわらず、日本の闇に隠された軍部は隠蔽を画策し、救助を拒み、抹殺を図った。図ったばかりでなく血も涙もない決行を実施した。その実行部隊は熊谷駐屯のある自衛隊部隊である。

 《参考》ある隊員は、証拠に残らない薬品の入ったガラスの分厚いビンを

 各生存者の周りに巻き、投げつけ嘔吐、窒息死させ、ある隊員はぴんぴんしていた生存者を器具で皆で抑えて、火炎放射器で焼きはらったのです。その焼いた人間の中には首を更に切断されていた元生存者も居ました。それから、5人目の生存者はあまりにもピンピンしていた為、そのまま連行され今でも監禁されています。そして最後の米軍からの指示は、16時間後に救助に向かうように命令され、そのため自衛隊が情報を総作させ他の救助を遅らせました!全ては 公安管轄の支持の元!!その場に居た自衛隊員たちにも証言して欲しくなかったのもあり、ある隊員はベルトに巻かれて動けなくなっている元気な生存者をアーミーナイフで大丈夫ですかと楽しそうに笑いながらベルトに沿いながら腹部を裂き死に至らしめ、その間100名以上は生存者が居たって言っていましたが、ある自衛隊の人がまだ山を登るなとの命令を無視して救助に向おうとした際に射殺されたと報道していましたが、苦しんでいる乗客には目もくれずに、何やら黄色い塗料の付いた部品を横一列になって自衛隊の人たちと海兵隊の連中とで拾い集めて、さっさと皆、下山したと云うことです!《参考修了》

 
その証拠が多数見いだされる。これらは深層において、彼の宇宙人の作為から発している。彼の宇宙人の真の意図は、最終的に地球人の一掃と、自らの植民地としての地球支配である。しかし、それらは許されるべき事ではないので隠密理に事を計っている。彼らは高度なテクノロジーを所持している。しかしながら、品性や情緒的に低劣な部分がある。無慈悲で残酷である。又、そうしたテクノロジーを駆使して人間を簡単に操ることもできる。彼らは、無恥な人間を使ってそれらを実行しようとしている。日航機123便撃墜事件は、その典型である。その実行に荷担した人間も多数存在するが、その一部にはその事を進んで公開しようとしている。又それを邪魔する人々も多い。その確執が続いている。

 佐宗邦皇氏は殺された。それも最新の毒薬で実行された。それはおーいお茶に仕組まれていた可能性が高い。その薬品は陸上自衛隊大宮駐屯地、化学学校で調達された可能性がある。それを組織的に隠蔽された。これから起こりうる災厄は日航機123便を遥かに凌ぐ恐れがある。それを最小又は阻止する為にも日航機123便の真相を暴露することが必要である。真相が暴かれることを下手人である彼の宇宙人は恐れている。それは許されぬ事だからである。地球人、就中、自衛隊や身の組織の諸君は手繰られている。目覚めることが必要である。手繰られたままでは日本はおろか地球も危ない。これは小説である。小説であるが、そのコンセプトはこれまでに本家『(新)日本の黒い霧』や、その他のブログを参照した。とくに123さんの類い希な才能には驚嘆している。しかもそのリークは手繰られた人々のものである。しかし、直接読み解くことは普通の人では難しい。123さんは、その示唆を絶えず与え続けている。

 日航ジャンボ123便 米軍最強SR-71は日本の文部省が撃墜した
 投稿者 愉快通快 日時 2010 年 8 月 30 日 04:43:29:
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 SR-71撃墜は文部省だ。
 http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/5443a73c23c7ec1f9062749f2e9ddd12#comment-list
 長野県佐久市(当時は臼田町)の電磁パルス砲で撃墜。日本の文部省施設。観測施設という名目であるが、実際は電磁パルス砲。

 愛媛丸は、文部省がSR-71を撃墜した理由での米軍から文部省への報復措置。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4+%E7%B7%B4%E7%BF%92%E8%88%B9%
E3%80%80%E3%81%88%E3%81%B2%E3%82%81%E4%B8%B8&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

 愛媛には紫電改展示あり(旧日本海軍の優秀な戦闘機)
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%B4%AB%E9%9B%BB%E6%94%B9&aq=0&oq=%E3%81%97%E3%81%A7%
E3%82%93%E3%81%8B%E3%81%84&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

↑日航ジャンボ123便当日、広島県呉港に某海上自衛隊艦が。

 <参考>五・一五事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 五・一五事件(ご-いち-ご じけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが

<以下引用>
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/5443a73c23c7ec1f9062749f2e9ddd12#comment-list
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/8e/c51a93f72c50d39fbabe87a00fc9f8c4.jpg
 陸上自衛隊大宮駐屯地、化学学校の井上先生、あなたはこの写真の瓶がいったい何であるかをご存知のはずです。日航機事故、そしてサリン事件と、あなたたちがどう関わったかを国民に向けて全て話してください。それができなければ、科学的データを以ってあなたたちを売国奴以下の、ただの人殺し集団と認定するしかありません。なお、国営テロ部隊の妨害活動については、取材中に撮影したビデオ動画をアップロードして、この問題に関心を寄せる全ての読者様にお知らせしたいと思います。この平和ボケと言われる日本には、政府でないニセ政府が存在し、自衛隊でないニセ自衛隊や、警察でないニセ警察を使って国民を弾圧し続けている現実があることをぜひ知っておいてください。その前提知識を抜きにしたまま日航機事故の真実を理解することは永久に不可能です。

 ---- 以下 公開映像 ----

 (1)電子銃搭載車に襲われた時の様子(付電磁波計による計測)

 表向きは人体攻撃用の電磁兵器は存在していないことになっていますが、自身の経験から、実際には、警察・公安・自衛隊内に国民弾圧用の非殺傷兵器として広く 導入されていると考えられます。いったい、これまで、どれほど多くの国民が事故という形で電磁兵器に殺されていたのでしょうか。日航機事故だけでなく、こちらの問題についても深く追求していかなければなりません。ちなみに、123便の墜落後、雄巣鷹山周辺に展開した米軍機や人員、ソ連機、自衛隊機、それらを最終的に(一瞬で)殲滅したのは、臼田宇宙空間観測所のパラボラアンテナから発射された電磁パルスビームであると私は見ています。その根拠については、 後日、現地取材したデータを元に解説したいと思います。

 http://www.youtube.com/watch?v=V6dGLuWlzTM

 (2)道路上で国営テロ集団に襲撃された時の様子

 中央道から圏央道に入ったところ。それまで後ろを付けていた部隊車が中央道からガラガラの圏央道に流れ込む様子。高輝度ライトを点灯させ自損事故を誘う危険走行を繰り返す。追跡してくる車の数から、そこに投入される予算の規模を計算してみてください。一民間企業・団体でこのレベルの動員を毎日繰り返すことが 不可能なのは一目瞭然です。明らかに国家単位の資金が投入されています。

 http://www.youtube.com/watch?v=sBRAHu4o8CI

 http://www.youtube.com/watch?v=o_2JdvtMCqA

 <以下引用>
 http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/5443a73c23c7ec1f9062749f2e9ddd12#comment-list
 警告 (某国諜報員)  2010-03-01
 このような馬鹿げた行為はやめなさい。私たちはいつでもあなたを監視しています。窓の外を見てください。私たちはいつでも24時間体制であなたを監視しています。例えばあのたの住居の両隣の住居を監視の仮アジトにすることや、あなたの住居の周辺に複数の車を停車させて監視することもできます。携帯のiホンで衛星中継でリアルタイムで上空から簡易監視をすることも容易です。こちらがその気になればあなたをどうにかすることくらい容易いのです。あなたが寝ている今この瞬間にもあなたの所を訪れることはできます。そうなる前にあなたには自らこのおろかな行為をやめて欲しいのです。そうすれば誰も傷つかないですみます。これはあなたの為に警告です。私一人ではチームに逆らうことはできませんが、私も人間です、心があります。ですからこれは私個人の警告です。これがばれたら私もただではすみません。

 Unknown (某国諜報員)  2010-03-01
 私はある国の諜報員です。日本政府の調査の為に入国していたのですが、この国の集団ストーカーにより私の存在を把握されてしまい逮捕され調査は打ち切られました。この国の集団ストーカーを管轄する組織のとある人物に「集団ストーカーの実行部隊の隊員(末端)になり公務に協力すれば釈放しよう」という条件を持ちかけられました。私は自分の身が可愛いのと日本語が達者なので素直に協力することにしました。そして私が配属されたチームの仕事は「あなた自身とあなたのサイトを監視する」ことでした。実際にあなたのサイトは2chや他のサイトにも晒されています。それも私たちの仕事の一環です。あなたがこのサイトを立ち上げてることにより周囲の人間にこのことが知れてしまうのが私たちにとっては目障りなのです。あなたがもしこのサイトを閉じてくれるならば私たちはあたなから監視の目を引くようにチームに進言しておきます。どうか賢明なご判断を。

 2010-08-25 、暴かれるか、日本航空123機墜落事故の真相?!46

 なぜ、人類最強のSR-71ブラックバードがU字溝近辺に落ちているのか?変容する日航機123便事件の真相!!俄に思考の整理が付かないのも無理もない。かといって、123さんは生真面目だ。『愉快痛快』と名乗っておられるが、別に愉快犯ではない。それは一つの確信である。

 VCLP0088.MOV
 http://www.youtube.com/watch?v=wJA8sTCwNws

 こうした事態の推移は、普通の科学的推論では導き出すことができない。これが思考の混乱を招く。一つのパラダイムシフトが必要だ。そこに物証がある以上、あらゆる可能性を考えてみることは必要だろう。SR-71ブラックバードとは一体何だ? 詳しくはリンクを見て頂く方が早いが、要するにU-2の後継機種の様だ。殆ど化け物偵察機だが、F-117(F-19)先行開発に至った経緯が見てとれる。U-2ではなく、SR-71ブラックバードであった可能性があるが、それが墜落したとすると、その原因は何だ。これも普通の因果関係では説明は難しいだろう。それ以上にウンモ星人なんたらになると思考停止もやむを得まい。それを言っていたのでは、もう全ての話はお仕舞いになるので、敢えて先に進める事とする。単刀直入に言及するしかないが、やっぱりウンモ星人抜きにしては話は進まない。いささか荒唐無稽な話になるので、この稿も一つの小説と云うことにして読み進めて頂けると有り難い。それしても、日航機123便墜落事故(事件)は、あまりに不可解なことが山積している。不可解なことと云えば、SR-71ブラックバードに言及する前に、自衛隊機2機F-4EJの追跡劇である。その後の情報では、そのパイロットとおぼしき自衛官2名が自殺しているようだ。確定はできないが、その情報は早くからあった。一瞬、何のことかは理解に苦しんだが、だんだんと収束してきた。何と、その記事を書いたブログにセットで掲載されていた写真が繋がったのである。何のことはない、当時、意味不明であった下の写真は、あの日航機123便の尾翼ではないのか。こういう事が、あの事故(事件)以来密かに囁かれる事自体、一種異様である。又、自衛隊機2機F-4EJの追跡劇があったかなかった、この目で確認したわけではないが真実味を帯びてくる。目撃情報に接したにすぎないが、自衛隊撃墜説にも一定の信憑性が浮かび上がる。その延長線上に、かのウンモ星人の話があるのだ。それがなければ、SR-71ブラックバード撃墜話も繋がらない。その詳細について語るべき情報がまだ少ないので、割愛して後刻に譲るが、次第に輪郭が見えてきたことは、自衛隊、米軍、そして、ソビエト(現ロシア)を巻き込んだ事件の様相が見えてきた。今までは見えないが、その中に、北朝鮮、中国が含まれるかも知れない。そこに、ウンモ星人となると誰にでも理解が出来るように説明できる者がいるであろうか? 123さんおいてはないだろう。今、『~ この世・あの世を知る ~』、『(新) 日本の黒い霧』の、とくにコメント欄に注目している日々だ。

 2010-08-16 、暴かれるか、日本航空123機墜落事故の真相?!45。

 大きく変容した日航機123便墜落事故追求情報。ここに再開された(新)日本の黒い霧ブログ!!情報の陳腐化は隠しようがない.......。何故、隠されたか読者はその先を行っている!!第45弾。理解を超える新情報に行き詰まっているのかも知れない。それは端でも感じられる。しかし、それらは読者よりもブログ主は最新情報をいち早く入手しているはずである。その解釈を壁だというなら、確かに壁には違いがないが、真実を伝えるというのが本義ならば、解釈抜きで伝えることで済む。どうもそうではないようだ。ここに至って、兎も角公開されたことには、賛同と敬意を表する次第だ。又安心もした。いろいろ事情があるようだ。それについてはここでは言及しないでおこう。求めるのは真実だからである。それ以外の都合は都合がある当該人に委ねよう。他人の介入するのはお節介の誹りを免れないからだ。講演会の情況も、それなりの情報で伝え聞いている。非常に整然とした講演会であったようである。それを知って安心した。どんなに衝撃的であろうと真実は大事だ。そもそも、『日航機123便墜落事変』は、その事変たる事変の事由は真実の隠蔽にある。その暴露の先鞭をつけた転載元ブログは衝撃的であったし尊敬もした。現在もそれは変わらない。故に更新が続けられる以上、転載を続行したい。中断すれば独自の追求を試みるまでだ。あらゆる情報を斟酌して真実に迫りたい。これはまさに思想信教の自由の根幹である。人により突破口は違うであろう。解釈・理解も当然の事ながら相違がある。これは仕方がない。しかし真実は一つである。その真実が少しずつ明らかになりつつある。これは確かだ。今、投稿者の解釈は別の所にある。しかし、まだ確認が必要だ。得心が入っているわけではないから、それを待つしかないが、その内、明確になるだろう。今は、(新)日本の黒い霧が再開されたことを心から喜びたい。そして、当然、公開されるだろうと予想していた事柄が公開されつつあることをこころから敬意を表したい。御巣鷹の謎は、アデンの海に何らかしら共通する要因がある。それが明らかになるのはそう遠くない様な気がする。

 JAL123便墜落事故-真相を追う-悲劇から25年そして講演会その後2010-08-12

 本日8月12日で、あの日航機事故からちょうど25年が経過しました。犠牲になられました乗客乗員の皆様におきましては謹んで哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。また、一切公式の記録に残されることなく、同じ日、同じ場所で他界された名も知れぬ皆様にも、お立場の違いにかかわらず、安らかに神の御許に迎え入れられますようお祈り申し上げます。

 ■講演会その後

 早いもので講演会から3ヶ月が過ぎようとしています。その間、「何をしていたのだ」とやきもきされた読者の方も多かったかと思います。また、知人からは安否を心配する声を多数いただきました。お詫びの言葉に代えて、私が今、この日航機事故もとい「御巣鷹事変」を調査する中で最大の壁に突き当たっていることをここにご報告いたします。

 ■オレンジ色の怪光

 写真1をご覧ください。乗客の小川さんが撮影したものです。すでに「折れなかった垂直尾翼(1)」 で触れていますが、○内の黒いシミのような点は、実際の写真ではオレンジ色の発光体として写っています。この情報は小川さんのご遺族と接触したイギリス人日航機事故研究家(本人の承諾を得てないので匿名とさせていただきます)とのやり取りで判明した事実ですが、何と今月発売の「週刊現代」8月14日号 にオリジナルの写真が掲載されたとのことです。

 写真1:小川さんの写真に写りこんだオレンジ色の発光体

 これについては、とりあえず以下の点を疑問としてあげて起きましょう。・小川さんの写真が公表されたとき(1990年)、なぜオレンジ色の情報が消されたのか?・何故、今になってオリジナルの画像がマスコミで公開されたのか?。

 5月の講演会で、私は、怪光の招待は、123便撃墜に向かった戦闘機(状況から考えられるのは旧ソ連のMIG25)を誘導するするための「発光弾」もしく は「曳航式の発光体」だったのではないかとの仮説を提示しましたが、実は、その説明がかなり苦しいものであることは私自身も自覚していました。国際軍事評論家B氏の意見もこの仮説に関してはかなり否定的です。それでは、この怪光の正体は何だったのか・・・・ この3ヶ月、新しい資料がほとんど出てこない状況でありましたが、何とかその答え(またはその片鱗)を見つけつつあります。しかし、残念ながらまだ皆様に論理立ててご紹介できる状況ではありません。そこで、今回は、私がこの怪光を理解する上での最重要資料と思われる画像を最小限の説明を付けて掲載いたします。


 写真2:黒い焦げ跡。事故現場近くの傾斜地にてS氏撮影
    直径1m程度の真円。地中数10cm深く掘り進んでも炭化の状況は変わらず、そばに寄ると強いめまい         現場周辺に複数の同様の焦げ跡
    ADGRAVATA AUTEM EST MANUS DOMINI SUPER AZOTIOS ET DEMOLITUS EST EOS ET
    PERCUSSIT IN SECRETIORI PARTE NATIUM AZOTUM ET FINES EIUS

 写真3:事故現場で見つかったバナジウムを多量に含む金属片
    POSUIT QUOQUE IDOLUM LUCI QUEM FECERAT IN TEMPLO DOMINI

 写真4:事故現場で見つかった特殊な部品
    AMEN AMEN DICO VOBIS ANTEQUAM ABRAHAM FIERET EGO SUM

 ■日航社内で根強いUFO撃墜説?


 以下は日航に縁のある知人から伝聞情報なので確実といえるような情報ではありません。しかし、それなりに意味があると思われるのでここでご紹介いたします。「日航社内では123便の墜落の原因について主に2つの説が囁かれています。それは、(1)米軍機に撃墜されたとする説、そして(2)UFOに撃墜されたとする説です」。(2)のUFOによる撃墜などというのは、私も本ブログ「気になる怪説」シリーズですら取り上げなかった珍説奇説です。しかし、事故当事者である日航社内で今もってそんな奇説が語られ続けている事実に大きな意味があります。「人は何を知覚したとき、それをUFOと認識するのか?」。その問いを突き詰めれば、 オレンジ色の怪光は無視し得ない追求の対象となり得ます。
* * *

 私がオレンジ怪光の正体を自信を持って説明できるとき、そのとき初めて「御巣鷹事変」の本質が人々に理解され、また私が「国営テロ集団」と呼んでいる組織の正体、そして、なぜ日本国政府や超大国が本件について沈黙を続けているのか、その真の理由が明らかにされるだろうと確信しています。

 2010-08-11 、暴かれるか、日本航空123機墜落事故の真相?!44

 明日はあの事件から四半世紀が経つ。あの事故ではない!あの事件である!!。そのレクイエムを拾ってみたい。しかし、真相の解明なしに真のレクイエムはない!!。折から、当時の管制を担当した手記も公開された。転載する。

 前回は新たな情報を元にした事件経過を、小説風に整理した。あくまでも推察事実であって、真相ではない。今回はそれには触れない。それらをさておいて、事件を風化させない想いは重要だ。自ずから沈黙を破った証言が、いくつか声として上がっている。これは重要なことだ。改めてその声の指し示す方向に真相が見えてくる。今回の管制官の初めての証言は貴重だ。証言者にも依るが、いずれも時の流れが真実の露吐を促してくれているように思える。隠されたものは、顕れるのである。

 管制官の証言に併せて、http://asukadoremi.hp.infoseek.co.jp/sozai/JAL123_2.swf を視聴せられると良い。時経と2次元空間経で、交信のやりとりが手に取るように分かる。既に何度も視聴した方も多かろうが、管制官告白を機に確認される価値がある。少なくとも今回の情報からは、隔壁の破壊はなかったものと思われる。「日航123便、トラブル発生。羽田への帰還を求める。2万2千フィート(高度約6700メートル)に降下したい」。という交信が、真相であるならそう言うことになるではないか。アンコントロールの原因は一体何であったのか? 一般にはハイドロプレッシャーダウン(油圧系統のダウン)と言われている。果たしてそうだろうか? 確認はできないがリモートコントロールが考えられる。ハイジャック防止を理由にそうした機能が旅客機には暗に装備され始めた時期に当たる。今回はそれ以上触れない。

 私の8月12日〔亡き先輩へのレクイエム〕

 投稿者:渡邉良明 投稿日:2010年 8月10日
 ※渡邉先生のご投稿が下に行ってしまったので、副管理人が勝手に再アップしました。gigi様、並びに皆様へ。今回も長文をどうかお許し下さい)

 人には必ず人生の先輩がいる。学校、職場、地域などの中に様々な先輩がいよう。
私の忘れ得ぬ先輩は、小学生の頃の色白の眉目秀麗な方だった。彼は、いつも笑顔を絶やさず、誰に対しても心優しい人だった。5歳年長なので特に親しく語り合ったことはないけれど、少年の頃、私が心から憧れた先輩である。彼の周囲には常に幸せな雰囲気が漂っていた。それゆえ、少年時代の私は彼を見る度に心地よく感じた。けれども彼は今はもうこの世にはいない。四半世紀も前に亡くなってしまった。
 
 今年も、あの「御巣鷹の日」が間近に迫っている。1985年8月12日(日)、午後6時12分20秒、JAL123便(ボーイング7477型機)は、大阪(伊丹)空港に向けて羽田空港を離陸した。同機の乗員・乗客数は524名(他、赤ちゃん1名)。コックピット内の操縦席では、正面に向かって左側の機長席に、機長になるための昇格訓練(あるいは試験)中だった佐々木祐(ゆたか)副操縦士(39)が座った。つまり、この時、同氏が操縦桿を握っていた。また、教官の高濱雅己機長(49)が彼の右に着席した。高濱氏は海上自衛隊出身の熟達したパイロットである。さらに、ベテランの福田博航空機関士(46)も後方のいつもの機関士席に座った。客室では12名の客室乗務員がそれぞれの持場についた。坂本九氏(43)を含む乗客者数は509名(他、赤ちゃん1名)だった。実は、九ちゃんに対して私には特別な思いがある。小学6年生の頃の私にとって、彼はまさに「ヒーロー」だった。私事だが、小学校の卒業文集に、同級生たちのように絵を上手く描けなかった私は、一人だけ、「上を向いて歩こう」と書き遺した。また、中学時代の私のアダ名は「変人」の前に、実は「九ちゃん」だった。ひときわ目立つニキビ顔だったからだ。それに、友達から、「九ちゃんと笑顔が似ている」とも言われた。その彼が、突然、不帰の人となった。その時受けた私のショックはとてつもなく大きかった。日本で九ちゃんほど国民から愛されたキュートな歌手はいなかったと感じる)
 
 ところで、JAL123便が、伊豆大島の北を下田市方面を目指して上昇中、これから水平飛行に移ろうとした途端、相模湾上で突如「トラブル」が発生―。その時刻は午後6時24分35秒。それは離陸後12分ほどの出来事だった。では、この突然の「トラブル」とは一体何か? 事故調査委員会(略称「事故調」)は圧力隔壁の破壊によって垂直尾翼が破損したと発表―。つまり、彼らは、昭和53年(*同事件の7年前)6月2日の同機の「尻もち事故」直後、ボーイング社による修理ミスによって亀裂(=金属疲労)が進行したと主張した。そして、それが今回の「トラブル」につながり、結果、垂直尾翼を破壊したと“推定される”と報告した。つまり、日本政府は「急減圧原因説」と採る。しかし、日航関係者や同事件の真相究明者からすれば、この説は甚だ矛盾に満ちている。事実、これは全くの“作りごと”だと思うのだ。それは、まさに、ケネディ大統領暗殺事件に関する『ウォーレン報告書』や、9・11事件についての『9/11委員会報告書』同様、全くのフィクションだと思う。事実、圧力隔壁の破壊は同重大事件(=大惨事)の結果であって、決してその”原因”ではない。この真実をわれわれは直視すべきだ。では何が起こったのか? この時、高濱機長が叫んだ。「何か爆発したぞ!」と。 実際、この時、垂直尾翼が大きく破損した。ほぼ5分の3以上を失った。これを評した著名な航空評論家の関川栄一郎氏がテレビで述べた。「『無人標的機』が、ぶつかったのではないか」と。関川氏は、当時、たいへん信頼され、かつ非常に定評のある航空評論家だった。だが、彼のこの言葉は、その後、公には報じられなかった。しかし、大惨事の初期報道にこそ、まさに事件の「真実」が潜んでいる。
 
 同事件の真相究明者の中には、この「無人標的機」をファイアービーという人がいる。だが、他に、国産巡航ミサイルSSM-1の(爆薬を搭載していない)演習用ミサイルが、日航機の垂直尾翼を破壊したと主張する人もいる。しかし、そのどちらにしても、軍事兵器が垂直尾翼を直撃して、それを大部分破損させたことは間違いない。事実、6時18分時点(つまり、かなりの低空状態)で、或る飛行物体が同機を目がけて直進してくるのを、乗客の一人、小川哲氏は自らのカメラに撮影していた。つまり、高濱機長や佐々木副操縦士は、衝突が起こる6~7分前には、この飛行物体をじゅうぶん認識していたと考えられる。何故なら、この時間帯に、同機は、まるで何かから逃げるかのように猛烈な急上昇をしていたのである。
 
 では、一体、誰が、この飛行物体(=ミサイル兵器)を発射させたのか? それは、在日米軍による極秘軍事演習中の出来事なのか? それとも、日本の海上 自衛隊に配属されたばかりの護衛艦「まつゆき」から発射(つまり、誤射)されたものなのか? あるいは、その誤射さえ、事前にアメリカ軍によって仕組ま れていたものなのか? 正直、私には「事」の実態(あるいは真実)は、分からない。しかし、それでも、JAL123便が日米両国による準軍事行動の犠牲になったというのが私の偽らざる確信だ。実は、私には、かつて日航でパイロットをしていた知人がいる。彼の言によれば、日航などの民間航空機が米軍や自衛隊によって、 航行中、仮想の「敵機」と目され、度々軍事訓練の“目標”にされることがあったという。同事件のあった相模湾上は、まさに様々な航空機が飛び交う、航空路の“銀座”とでも呼ぶべき密集地域だ。そんな空域での軍事演習など、まさに人命軽視の蛮行である。腹蔵なく言えば悪魔の所業だ。
 
 実際、この”重大事件”を隠蔽しようと画策し、123便の横田基地への着陸を拒否し、2機の自衛隊機を発進させ、遠く御巣鷹(=地元)の尾根まで同機を誘導させた、その命令権者としての中曽根元総理は、当日、一体、何を考え、何を命令したのか? 2機の自衛隊機がミサイルで123便を撃墜したという説(池田昌昭氏)もある。また、二つの原爆の様な「きのこ雲」が湧き立つのを見たという多くの目撃証言もある。さらには、墜落した123便の機体後部(尾翼付近)に、ミサイルAIM4(オレンジ色の機体)が突き刺さっていたという証言(佐宗邦皇氏の言)さえもある。実際、ご遺体の識別や鑑識に関わった医師や歯科医師が「単なる墜落事故の遺体とは思えない」と語っているのを、われわれはすでに聞いている。
 
 それゆえ私は正直に問いたい。 中曽根元総理、あなたは、あの日、防衛庁とりわけ航空自衛隊に対して、一体、如何なる命令を下されたのか?! 何故、あなたは、墜落後の乗客の早期救出を命じられなかったのか? 事実、墜落直後、数十名の生存者がいたというではないか。そればかりか早期救出に向かおうとした数名の自衛隊員が待機命令違反というだけで、なぜ射殺されなければなかったのか?!加藤紘一氏(当時の防衛庁長官)、当日、あなたは、当時の中曽根総理から、一体如何なる命令を受けられたのか?! 第一、あなたは、事故当夜、現場の上空まで行っていたというではないか!一体、何をしに行ったのか? 遭難者を救助する前に、自衛隊が、「大事件」の証拠物件を搬出するのを見届けに行ったとでも言うのか?! 当時の極秘情報を深く知悉していた後藤田正晴氏や藤波孝生氏が亡き今日、あなた方ご両者には、25年前の、あの大事件の真実を、われわれ日本国民に語る義務があるのではないか!
 
 520名(厳密には、赤ちゃんを含めた521名)の死者―。余りにも多い数だ。だが単に数の多さだけでなく、その御一人御一人の方々に、それぞれの人生があり希望があったはずだ。それが、あの大惨事によって潰(つい)えてしまった。そのすべての犠牲者の無念な思いは想像するに余りある。乗客のK氏を始め、多くの方々がすでに6時30分の時点で遺書を書いておられる。尾翼の破損後、間もなく、機内は深刻な事態に陥っていたことが察せられる。トラブル発生から墜落までの32分間、乗客の驚愕と絶望感はわれわれの想像をはるかに超えている。だが、そんな絶望的な状況の中、コックピット内のクルーや客室乗務員(当日、非番で一般乗客として搭乗していた落合由美さんを含めて)の最期までの健闘・献身には心から感動する。彼らは最後の最後まで乗客のために尽くされた。しかし、垂直尾翼の大半が破壊されたことで、そこを通っていた4本のハイドロプレッシャー(油圧系統)が全壊し、同機は全くの操縦不能に陥った。この事態を人間にたとえるなら、突然、大動脈が切断され大量出血した状態だ。ダッチロール(航空機が激しく横揺れしながら首を振り、8の字を描くように飛行する状態)とフゴイド運動(航空機が急角度での上昇と下降を繰り返す状態)に悩まされつつも、高濱機長たちは羽田への帰還を求めた。だが、それは叶わなかった。しかし、このような人知を超える極限状況の中で、高濱機長、佐々木副操縦士、それに福田機関士たちは、それぞれの持場でまさにベストを尽くされたと思うのだ。
 
 実は、この時、操縦桿を握っていた佐々木副操縦士こそ、少年の頃、私が心から憧れていた先輩である。まさに「事実は、小説よりも奇なり」である。佐々木先輩のご母堂は、彼の没後、私の母に、こう語られた。「息子は戦死しました」と。今、私には、この言葉の意味がよく分かる。今日、そのお母様も、もうこの世におられない。今夏、佐々木先輩のご実家の裏庭には、青紫色のガクアジサイが実に美しく咲いていた。その余りの美しさに、私はしばし心を奪われた。今はピンク色のサルスベリの花が美しい。あれから25年―。けれども、ご遺族の方々にとっては、どれほど年月が経とうとも、あの大惨事は決して過去の出来事ではなく、今も変わらぬ“現実”なのである。これら無辜の人々を犠牲にして一体、何が国家か! 何が政治か! そして、一体、何が「日米軍事同盟」か!【了】

 当日の目撃 (Unknown)(新 日本の黒い霧ブログコメントより)2010-08-10

 知人の親戚が辻堂に住んでいて、やや離れた上空で旅客機に何かが当たり、オレンジ色の光が光った瞬間を目撃しました。これはただ事ではないと思った親戚はすぐにNHKに通報しました。その直後に事故のニュースが流れ、目撃した出来事と強い関連があると判断したそうです。現場が判明した数日後、親戚宅にNHKの職員と称する人物が訪れ、情報提供に対して丁寧に礼を述べ、その気持ちとして紙包みを手渡されたのです。そして帰り 際にその”職員”は、要請がない限り、この事実は決して口外しないように、と何度も念を押したそうです。その親戚は職員が帰った後にその紙包みを開けたところ、中から大量の札束が現れ、しばらく足が震えて泊まらなかったとか。この件について、その親戚は今から5年前にようやく周囲に公表しましたが、お金には一切手を付けず今でもタンスの奥に眠っているそうです。
 墜落前の悲鳴「今も耳に」 日航機の管制官、沈黙破る(全文)2010年8月10日

 「夏になると当時に引き戻されるんですよ。(日本航空のジャンボ機の)墜落直前にヘッドホンを通じて耳に届いた、パイロットの『ああっ』という悲鳴のような声が忘れられない」 西日本のある空港で、男性(54)は言葉を選び、語り出した。25年前の夏。東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)の管制官として、上空の航空機と交信していた。8月12日も普段と変わらない一日だった。当時29歳。管制官になって8年目だった。先輩管制官らと「関東南セクター」という空域を担当する勤務に夕方からつき、管制卓に着席した。羽田への到着便が増える時間帯。「そろそろ忙しくなるぞ」と思った矢先だった。

 ■午後6時24分47秒

 「ブーッ」。管制室内にブザー音が鳴り響く。レーダー画面の日航123便の機影に、緊急事態(エマージェンシー)を示す「EMG」の文字が点滅し始め た。乗客と乗員計524人。午後6時12分に羽田空港を離陸し、大阪(伊丹)空港に向かっているボーイング747型機だった。部屋の隅から、上司が近づい てきた。

 ■同25分21秒

 「日航123便、トラブル発生。羽田への帰還を求める。2万2千フィート(高度約6700メートル)に降下したい」。機長の声が英語でヘッドホンから流れてきた。 「了解」。そう答えながら「おかしいな」と感じた。エンジン出力が低下した、客室内の気圧が下がったなどと、普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。 心が騒いだ――。

     ◇

 東京航空交通管制部に「羽田へ戻りたい」と告げた日本航空123便は、旋回することなく、ふらふらと伊豆半島上空を西に向かっていた。

 ■午後6時27分2秒

 「123便、確認しますが緊急事態を宣言しますね」 「その通り」。「どういった緊急事態ですか」。やはり応答はない。「とんでもないことが起きているのでは」。

 ■同28分31秒(地図上の1)

 「レーダー誘導のため90度(東)へ飛んでください」 「しかし、現在アンコントロール(操縦不能)」。衝撃的な言葉だった。普段はオフのスピーカーがオンになり、123便とのやり取りが管制室中に響いた。

 ■同31分2秒(同2)

 「降下できますか」 「今、降下しています」。「名古屋に降りますか」。「いや、羽田に戻りたい」。「何とかしたい」。そう思うと、とっさの呼びかけが口をついた。「これから日本語で話していただいて結構ですから」。パイロットと管制官とのやり取りは、近くを飛ぶ航空機でも聞き取れるよう、通常は英語を使う。でも今は、パイロットの負担を少しでも減らし、事細かにやりとりしたかった。123便は北に向かう。すでに隣の空域に移っており、無線の周波数を切り替え、別の管制官に移管するところだが、そういう指示はしなかった。「切り替えたはずみで無線がつながらなくなるかもしれない。そうしたら日航機は命綱がなくなってしまう」。じりじりとしながら画面をにらんだ。他機が近づかないよう、航路から退ける指示を続けた。富士山をかすめた123便は、羽田のある北東に向かい始めた。「戻れるかもしれない」。かすかに期待も芽生えたが、周囲は山。機体の高度は5分間で一気に3500メートルも下がっていた。

 ■同47分17秒(同3)

 「現在コントロールできますか」 「アンコントローラブルです」。もはや管制官はまったく役に立っていなかった。ヘッドホンから「ああっ」という声も聞こえてきたが、機内で何が起きているのかは、わからなかった。 「おれはどうしたらいいんだ」。絶望が襲う。その頃、機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことは、後で知った。

 ■同53分28秒(同4)

 「えーアンコントロール。ジャパンエア123、アンコントロール」 「了解しました」。これが最後の交信になった。 3分後、糸の切れたたこのように画面上を点滅しながら漂っていた機影が止まった。その場で十数秒間点滅した機影は突然、消えた。 体に電気のようなしびれが走った。薄暗い管制室は静まりかえった。背中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていた。30秒ほどして、上司に促されて呼びかけてみた。「ジャパンエア123、ジャパンエア123」。応答はなかった。 ヘッドホンを外し、席を立った。別室で報告書を書いた。妻には「いつ帰れるか分からない」と電話で告げた。頭の中で何度も、交信した「最後の30分」を繰り返していた。 朝方に帰宅して、墜落した機体をテレビで見た。ショックを気遣った上司に数日、休みを与えられた。事故原因を調べる国の航空事故調査委員会や警察から、事情を聴かれることはなかった。

 ◆  ◆

 管制官の仕事を続け、最近までいた部署では事故防止の対策づくりに取り組んできた。今は管理職として空港事務所で管制関連業務に携わっている。だが、123便と交信していたことは、家族や一部の同僚しか知らない。事故から数年後に御巣鷹の尾根に立った。その後も、遺族や報道陣が多い8月を避けて、仲間や家族とたびたび登ってきた。だが、尾根へと向かう険しい道のりや、事故で傷ついた山肌を見るたび、あの時のつらい思いが呼び起こされた。無理だったと分かっていても「自分が何とかできなかったか」という思いはぬぐえず、表に出て話す気持ちになれずにいた。最近になって、「事故を風化させないため、今ならできることもあるのでは」との考えが頭をよぎるようにもなった。世界各地で飛行機事故が起きるたび、原因は分かっているのか、管制官はどう対応したのかと気になる。管制の現場には、御巣鷹の後に生まれた管制官も出てきた。航空会社の経営はどこも厳しく、安全よりもコスト削減ばかりが取りざたされるのが気がかりだ。 25年前の「あの夏」のことを伝える時期なのかもしれない、と思いはじめている。

 ◇

 日航123便墜落事故 1985年8月12日午後6時12分に羽田空港を離陸した大阪(伊丹)行きの日本航空のボーイング747型(ジャンボ)機が、 12分後に相模湾上空で操縦不能になり、同56分に群馬県上野村の山中(御巣鷹の尾根)に墜落した。乗客509人と乗員15人のうち乗客4人を除く520人が死亡した。スペイン・カナリア諸島の空港で77年にジャンボ機同士が衝突し、583人が死亡した事故に次ぐ惨事で、単独機の事故としては現在も世界最悪。国の航空事故調査委員会は87年、機体後部の圧力隔壁の亀裂が広がって破壊され、一気に噴き出した客室内の空気が尾翼などを吹き飛ばしたとする調査報告 書を公表。この機体は事故の7年前に伊丹でしりもち事故を起こして隔壁を損傷しており、この際にボーイング社が行った修理が不適切だったことが破壊につながったと結論づけた。御巣鷹以降、日本の航空会社は乗客を死亡させる事故を起こしていない。

 2010-08-03 、暴かれるか、日本航空123機墜落事故の真相?!43

 連続する御巣鷹の悲劇!!目に見えない因縁の連鎖。そうとしか考えられない日航機123便墜落現場周辺の遭難!!秩父と言えば、群馬・長野に隣接する地域、その中心に御巣鷹がある。御巣鷹、知る人ぞ知る日航機123便墜落現場である。そこで立て続けに起こる遭難事故の連鎖。時あたかも日航機123機墜落25周年である。前原国交省大臣が慰霊登山を宣言した。異例の慰霊登山である。何で今なのか? 25周年は一般通念として解らなくもない。その25周年で日航は潰えた。その担当大臣は前原大臣である。そして、その直後に、立て続けに遭難事故が発生した。目に見えぬ何かが作用しているようである。それとも作用させている何者かがいるのか? あるのか? これまで次第に明らかになったことがある。これは信ずるも信じないも、提起された問題点を素直に丹念に拾った結果である。それをジグゾウパズルのようにつなぎ合わせると、とんでもないことが浮かび上がってくる。まだ不明なことが多い。しかし、これまでに情報を元につなぎ合わせると見えてくるものがある。それはとんでもはっぷん、到底、これまでに予想を遥かに超えた恐るべき事件なのだ。そして、それは25年前の単なる事故とは似ても似つかぬ、今に活きる謀略の伏線が浮かび上がる。今回の遭難事件も、その伏線上にないとは言えない。一つだけ確信がある。それは、有形無形の侵入者を拒む働きの力があの山にはあるという事だ。埼玉県警は何故、取材自粛要請をしたのか? これは有形の侵入拒否宣言であろう。理由はともあれ、そう言っても差し支えがない。無形の力とは何か? 目に見えぬ力のことだ。霊の力などと言うつもりはないが、力学的作用がないとは言えない。その事の詮索はさておいておいて、驚愕すべき日航機123便墜落事件の顛末を、少し纏めてみようと思う。もう少し、様子を見てみようと考えていたが、転載元の『(新) 日本の黒い霧』がすっかり鳴りを潜めた。元気なのはコメント欄のみである。どうも情報元は彼の123さん(HN)の様だ。そして、その言によると、転載元ブログ主との関係は余りしっくり行っていないようにも見受けられる。その事に言及するつもりはないが、大筋を一貫して情報発信しているのは彼の123さん(HN)である。そして、その情報は驚愕すべき内容である。あまりに荒唐無稽とも言える内容であるから、いわゆる小説として軽く受け流して頂いても結構だ。実は3年前は投稿者自身そうであった。しかし今は違う。それはその内容において一貫しているからである。そして、そのひとつ一つは驚愕の事実に裏付けられているように思われる。この目で確認したわけではないので、あくまで推察事実と云うことで、その事実を追って纏めてみよう。確定事実とは云わない。又、同定したわけでもない。投稿者が信頼事実と踏んでいるに過ぎない。この墜落事件、実は撃墜事件であった。それも単なる日航機123便ばかりでない。自衛隊機、米軍機、警視庁救難ヘリ、そればかりではなく、ミグ25までも含む一大戦場を呈していたというのである。さらに驚くことは、その機種には、U-2機を含み、F-117ステルス戦闘機2機まで含んでいるのだ。そればかりではなく、何と墜落直後は200人からの生存者が存在し、明け方近くでも70人くらいの生存者がいた。しかし、それらは何と殺害せられたという。奇跡的にも4人が生存したが、これは幸運であった。たまたま隠れていたからに他ならない。そして、その4人を救出したのは群馬県警隊員ではなく長野県警隊員であった。これにも助かった理由がある。さらに2名の比較的健常な生存者がいたとされるが所在は洋として知られていない。200人の生存者が存在したこと自体、奇跡的だが、その理由はここで書いてもさらに荒唐無稽となろうからスルーする。しかし殺された。その理由は最大の謎であるが、最大の事件の核心でもある。その首謀者は、この事件を起こしたグループの中核部隊であるが、この問題もスルーする。問題がさらに複雑化するからである。その内に言及する。纏めるのが今回の目的である。

 事の起こりは、離陸直後、巡航ミサイルファイアービーに追跡されたことに始まる。実は早くから日航機123便はその回避行動に費やされたのであって突然の悲劇ではない。その追跡目的は意図されたものか事故かは判断できない。意図された可能性が高い。ミグ25は、実は日航機123便を寧ろ警護に立ち回っていたように思われる。それをスクランブル発進したのは自衛隊機F-4Eであるとの経過事実がある。そして、被弾した日航機123便を追尾した。さらに追尾した飛行体がある。F-117である。F-19(ジューク)とも称せられる。日航機123便は、羽田に帰還しようとしたがリモートコントロールにより誘導された。決して油圧系統のダウンによる操縦不能ではない。それを誘導したのは何かは特定できない。航空機なの基地なのかは分からない。御巣鷹には誘導されたのである。そして空対空ミサイルにより被弾した。それにより墜落したのか、リモートコントロールにより墜落したのかは定かではない。最終的にとどめとなったのはデュートロン爆弾、すなわち純粋水爆であった。その際、おそらくF-4EもF117も墜落したのであろう。併せてU-2も墜落しミグ25もあえなく墜落した。その後、場所はすぐさま特定されたが隠された。そして救難行動が差し止められた。この事は米軍横田基地の救難行動が日本側の要請で止められたことからも明らかである。しかし警視庁救難ヘリはそれをよそ目に出動した。しかし、その途上、墜落したのである。多分、撃墜されたのであろう。それもおそらく携帯対空ミサイルが使用された経緯がある。少なくとも警視庁殉職の碑がそれを物語る。さらに信じがたいことが続く。地上戦も行われた経緯がある。何らかの回収に動いた当時ソ連(現ロシア)の地上車両が破壊されて残骸が存在する。そればかりではない。意外に多い生存者が、ことごとく明け方までに救助を装い、集められ、殺されたのである。それはスゲノ沢に集中している。生存者4名+アルファ(?)は、たまたま運が良かったのである。しかし、その発言は封ぜられた。

 これが、纏めである。勿論、端折った纏めであるから修正することが求められよう。しかしながら、なんと驚くべき話ではないか? それだけの事件であるなら、このエネルギーは大きい。25年やそこらで消滅するはずのものでは決してない。それらは渦となって一帯を覆っているはずである。一帯を覆っているものには他にもある。デュートロン爆弾というなら、それは放射線だろう。放射線を受けたものは放射能化する。<一瞬のHHOガス燃焼により高温の赤い炎と化す>しかるべき調査が行われるならば全ては明かされるはずである。今回の連続遭難も全く無関係とは言えないような感が拭えなくなるのは気のせいか。気のせいであろう。具体的な関連性があるわけではない。最後に、当日、近くでキャンプしていた方の手記をご案内しよう。これは、かつて読んだ記憶があるが123さんが送付して下さった。

 まだ私が高校3年生だったころです。その当時キャンプに、はまっていた。私は夏休みが始まる前、クラスの友人6人と何処でキャンプをしようという話になりました。神奈川県内のキャンプ場で飽き足らなかった私は群馬、長野、どちらかですることを思いつき有鱗堂(ゆうりんどう)という本屋で地理院(?)の等高線なども詳しく書かれた地図で あの日に泊まった場所に目星をつけました。なにせ高校生でしたから現地まで行って確認するにはお金が無かったし、キャンプ場でするのが嫌でしたから綿密な下調べが必要だったのです。沢山の地図の中からあの場所を探し出すのはとても大変でしたが、なにか強烈に引き込まれるようなそんな場所でした。(これは気のせいかな?) そして、あの夕暮れ・・・ 私は陽が暮れる前に なんとかカマドに火を入れておかなければならないと少し湿った小枝をかき集め新聞を燃やしたりして炭に火を点けようとがんばりますがなかなか点かなかった。そうしているとジェット機の音が聞こえてきたのです。音だけで辺りを見回しても飛行機は見えません。するとジェット機の音は聞こえなくなりました。「けっこう 低く飛んでいるような音がしたんだが・・・」と思いましたがあまり気に留めはしませんでした。またカマドと格闘しだしたのですがすぐにまたジェット機の音が聞こえて来ました。今度はずーと聞こえています。また私は辺りを見回してジェット機を探しました。するとなんと私たちの頭上を飛んでいくジャンボを見たのです。車輪も下りていました。「はぁ??何処に着陸するんだろう・・・??」。私はしばらくぼーっと見ていました。ダッチロールをしていたかどうかは分かりません。

 私は厚木飛行場のそばに住んでいましたので、騒音から逃れる為に長野まで来たのですから「このそばに飛行場があるのなら私の選定ミスだな」などと考えながら見ていたので、私から2~3メートルの左手の所に小学校3~4年生と思われる男の子が立っていたのです。その姿はうつむいていて顔は見えません。そして上半身だけがボーっと浮いているのですがしっかりと立っている様に見えました。洋服は半そでの黒か又は濃いグレーのTシャツで胸の真ん中あたりに白のローマ字で何かが書かれています。背丈からして小学生と見た私ですがその時、私が感じたのは"寂しい"という彼のとても強烈な感情でした。本当に寂しそうに立っていました。それを見たのはとても短い一瞬のことでした。一瞬のうちに(わ)っと彼の感情が私の中に入ってきたのです。私は「え・・・・?」とそちらに視線をずらした瞬間・・・今度は左;40センチのところから女性の頭部が私の左頬にぶつかるように飛んできたのです。その女性は歳で言うと20歳代です。その表情はとても凄惨な顔でした。どんなに上手な役者さんでもきっと作ることは出来ないでしょう・・・口惜しさ、寂しさ、悲しさ、人の感じえる陰、全ての感情が詰まって"助けて~" "助けて下さい"でした。もうわたしは半分パニックです。「無理だから・・・俺には無理だから・・・ごめんね・・」。心の中でそう言い続けるしかありませんでした。すると男の方の声で "だめだ・・・この人たちは助けてくれない"。そう聞こえました。私は「ごめんなさい」、「ごめんなさい」。そう思い続け、声も聞こえなくなってきたので恐る恐る視線を上げると青白い光も全く無くなっていて大部分の方々も居なくなっていました。それでも20人位の方はいたようです。その後は何事も無く翌朝を迎えたわけですが、その時点で墜落したことは思いもよらず、ただただおののいていた私です。
 1988 年1月、アメリカ軍事月刊誌「アームド・フォーセズ・ジャーナル」が、それまで伝えられていたステルス戦闘機F-19は存在せず、F- 117というステルス機が極秘で配備されているというスクープを行った。このスクープを受けたアメリカ国防総省は、いつまでも秘匿としておく事が難しいと 判断し、同年11月10日にF-117の存在を公的にはじめて発表した。 この時明らかにされた項目は以下の通り。アメリカ空軍とロッキー ド社による開発で、F-117はすでに実用段階となり昼間飛行を行う段階に達したこと。開発計画は1978年に開始されたこと 。初飛行日時と1983年に初期運用段階に達したこと 。この計画は終始、アメリカ議会委員会の特に超党派から支持を受けたこと。機体はV字型尾翼を有する双発機であること。59機の発注がなされ、すでに52機が納入済み、トノパー基地の第4450戦術群に配備され、運用段階に移行していること。第4450戦術群には練習機としてA-7Dが20機配備・使用されていること。過去に2機が墜落し乗員2名が死亡していること。この乏しい内容に記者たちは質問を浴びせたが、国防総省の報道官は「ノーコメント」を連発している。回答を拒否した項目は以下の通りであった。 

 下請け会社・エンジンメーカー。搭載兵装・搭載電子機器。第4450戦術群の任務内容。複座型の有無。外国での作戦参加の有無 。





(私論.私見)