れんだいこの事件考 |
更新日/2024(平成31. 5.1栄和元/栄和6)年5.4日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「れんだいこの1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」を開陳しておく。 2010.8.16日 れんだいこ拝 |
【御巣鷹山墜落事故事件についてのれんだいこ見解その1】 | |||||||||
2010.8.16日、れんだいこが主宰する「左往来人生学院」に次の投稿が為された。
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「日航ジャンボ123便 垂直尾翼にオレンジエアが刺さっていた」を補足すれば、日航機の塗料には白赤黒しか使用されていない。写真の如くの「オレンジ色の塗料」は一切使われていない。他方、自衛隊では軍事演習用のミサイル小型機は鮮やかなオレンジ色に塗ってある。両機の接触を物語っているのではなかろうかと云うことになる。 | |||||||||
れんだいこは、次のようにレスした。 | |||||||||
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Re::れんだいこのカンテラ時評782 | れんだいこ | 2010/08/21 |
【れんだいこの1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考】 | ||
123氏の投稿を機縁として、ここ暫く「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」(以下、簡便に「123便事件」と言い換える)情報を確認した。次のような見解を打ち出しておく。但し第一次見解とする。今検証に着手したばかりなので未熟ではあるが、れんだいこの事件考はこうである。 この事故が、日本政府事故調査委員会発表の「修理ミスによる後部圧力隔壁破壊説」のような内部要因的飛行機事故ならまだしも許せる。問題は、外部要因だとしたらどうなるかであろう。この事故はその可能性が強い。そういう意味で、事故ではなく事件になっている。では、どういう事件なのか、これを検証せねばならない。これが基本見解である。 この事件は、蓋を開け中を覗くと諸説飛び交うノンフィクションミステリーとなっている。臭いとして「国策事故」の可能性が強い。故に、容易には解明し難いよう情報撹乱されている。航空事故調査委員会の報告書は、論の中身以前に委員の人選に於いて失格している。委員長を含め定員5名の殆どが運輸省内部委員であり、いわば身内を裁く委員会となっている。独立性に大いに疑問がある構成になっているからして「まともな結論」が出る訳がない。これは常識である。 案の定、報告書は外部原因説の可能性に一切言及せず、内部原因説の「後部圧力隔壁破損説」を打ち出した。日航の従業員組合の組織である日航乗員組合連絡協議会は納得せず、「急減圧はなかった」と結論したレポ―トを発表している。被害者の遺族たちも同様で、1999年1月に事故原因再調査要求を提出した。しかし、事故調査委員会はこれを完全に無視し今日に至っている。それどころか、「123便事件」関係の全書類を1999年11月にすべて廃棄処分にすると云う挙に出ている。一体何の為に証拠書類をすべて廃棄処分にしたのだろうか。このことを知るだけでも事件の真相が解明されようとするのではなく意図的故意に隠されようとしていることが分かろう。とにかく異常である。 こういう場合には、次の4原則を顧慮しなければならない。 第1原則は、公式見解が打ち出されても鵜呑みにしてはいけないということである。事件の真相がけっして掴まえられないよう巧妙に細工されているので、これを疑惑せねばならない。我々は、報告書のウソを見破らねばならない。 第2原則は、核心を衝く情報が他の情報で撹乱されることである。これを精査し、本筋情報を繋げていかねばならない。 第3原則は、重要情報が隠蔽されることである。これを許さず全ての情報を開示させねばならない。 第4原則は、マスメディアを使って興味本位方向に誘導され、それは決して事件の真相解明に向かわせないことである。 我々は、マスメディアの情報操作に騙されず、あくまでも事件の真相を粘り強く追わねばならない。 「123便事件」に関する情報を分析すると、これらの4原則にぴったりと当てはまる。こういう場合の「れんだいこ常法」として、まず信頼するに足りる情報を見定め、これを芯として追跡して行くことにする。まずは情報の見定めが能力である。ここが狂うと、以下論旨を幾ら精緻に展開しても却ってこんがらがってくる。 れんだいこは既に「宮顕の党中央委員査問致死事件考」を手掛け、スパイを摘発したと云う宮顕側こそ真性のスパイであった、日本共産党は戦後も1955年の六全協以来、この系譜に党中央を占拠されており今日まで続いているとの逆真説を獲得した。 田中角栄を研究することにより、角栄が「諸悪の元凶」どころか「戦後左派運動側の無能を尻目に、偽装保守となることにより政権奪取した元来は左派系人士であり稀有の有能政治家であった。と云うか左派とか右派とかの仕切りでは評し得ない土着縄文系の能力者であり、現代版大国主の命であったと評されるべきである」との逆真説を獲得した。 南京大虐殺事件は、ナチスのホロコースト事件同様にネオシオニストに都合の良い反戦平和論を生む出す為のフレームアップであるとの逆真説を生みだしている。その他その他。これらの考究の経験を生かすことにする。 「論より証拠」と云う諺がある。これは、凡百の推理より一つの証拠の是を云うばかりではない。もう一つ裏意味があり、口先のあれこれで優劣を競うより、後に見えて来た諸事象の姿形を見て、そこから元に戻って判断せよと云う意味合いを含んでいるように思われる。そういう意味で、事件後何が起こり何が変わったのかを見る方が良い。後づけになるが、先決めよりはよほど正確な判断を得るであろう。 この線から追うと、「123便事件」後、中曽根政権を愚弄し続けたグリコ森永事件騒動がピシャリと封じられている。このことが明らかなのに、論者の多くが見ようとしない言及しない不思議がある。 次に、「123便事件」40日後の1985(昭和60).9.21日、バブル経済に繋がる「プラザ合意」が為され、1ドルが250円に決まっている。「プラザ合意」以降、日本の国富が天文学的にむしり取られることになったのは事実である。「123便事件」と「プラザ合意」の因果関係を窺う説は既に出されているが、説得力があるように思われる。これも本筋ではなかろうか。一見関係ないように思われるが、時系列で追うと案外繋がっている線が見えてくると云うことは時にあることである。 「123便事件」は、その後の中曽根政権の政策と深く関わっていると考えられる。ここに「123便事件」の重要性がある。この因果関係において、中曽根首相は蚊帳の外に置かれたのではなく積極的な役割を果たしているように思われる。或いは脅された側かも知れない。どちらにせよ、中曽根首相がどう対応したかが問題である。危機の時にこそ、その人の本性、能力が顕われる。かの時の中曽根首相の対応ぶりの拙劣さが後に脅され、何らかの迎合政治を余儀なくされたと考えられなくもない。そういう意味で、「123便事件」は中曽根政治のアキレス腱になっている可能性がある。但し、これは、事件の間接的底流的真相である。 事件の直接の真相を廻っては三説あるように思われる。一つは、海上自衛隊の演習上のミスによるミサイル誤射説である。この観点が、123便尾翼損傷を奇禍としての事故隠蔽工作説を生んでいる。山崎豊子著「沈まぬ太陽」始め事件不可解派の多くが、この説に傾いているようである。しかし、この説を採ると、後で述べるグリコ・森永事件犯暗殺説と繋がらない。れんだいこは、グリコ・森永事件犯暗殺説の方を本ボシと見るので、この説は採らない。仮に採るとしても、「演習上のミス説」ではなく「意図的故意の尾翼攻撃説」となる。「事故の決定的証拠になるはずの相模湾の垂直尾翼の回収作業は3日で終了し、結局回収されなかった」のは、隠蔽せねばならない事情があったということであろう。 もう一つは、国家的頭脳であった洗脳専門家の塚原仲晃(つかはらなかあきら)教授の暗殺である。これについては分からない。と云うか疑問である。一体、どんなに裏事情があるにせよ、一教授暗殺の為に520人をも巻き込む航空機全体の爆殺なぞするだろうかという思いが強い。 もう一つは、グリコ・森永事件犯の暗殺である。この説は説得力がある。なぜなら、日航123便にグリコ・森永事件犯に企業恐喝されていたハウス食品の浦上郁夫社長が搭乗し帰らぬ人となったのは事実であり、123便墜落後、グリコ・森永事件犯の動きがピタッと止まったのも事実であるからである。如何にも因果関係がありそうではなかろうか。 123便にはグリコ・森永事件犯の主役「キツネ目の男」も搭乗していたとの説がある。123便でハウス食品社長と最終取引する為に同乗していた可能性が云われている。この機会を捉えて、123便爆破と云う荒業で処理したのではなかろうかと云うことになる。では、なぜ、そのような荒業をしてまでグリコ・森永事件犯を抹殺する必要があったのか。このことは、森永事件犯が単なる刑事事件犯ではなく政治犯でもあったことを窺わせることになる。犯人側から見て敵であったのか、仲間であり用済みとして始末されたのか、どういう奥行きがあったのかは分からないが。時間があれば今後追跡して行きたいと思う。 れんだいこの仮説はこうである。どういう経緯と理由でグリコ・森永事件犯が登場したのかは分からない。とはいえ、時の中曽根政権の面目が丸潰れにされる形で愉快犯的な事件を連続させており、中曽根政権は何としてでも犯人一味を検挙せよと指令していた。こういう背景に於いて、国際金融資本系諜報機関が、日航123便にグリコ・森永事件犯の主役「キツネ目の男」が搭乗していることを逸早くキャッチし、日本政府に対応を要請した。中曽根政権―自衛隊最高司令部は直ちに了承し、自衛隊戦闘機に命じて尾翼に最初の一撃を加えた。これで日航123便は墜落される予定であった。予定地は海上であった。なぜなら、証拠品が全て海の藻屑となるからである。 ところが、123便は類まれなる名操縦で乗り切った。そればかりか、交信により横田基地へ向かおうとした。しかし、着地の仕方で大惨事が予想されることと、何より123便撃墜の真相が明らかになることを恐れてか拒否された。(2023.9.18日、読み返してみて全く不十分な記述であることを恥じている。その件はこうである。123便は交信により横田基地へ向かおうとしたのではなく向かわされようとしていた、こう記さねばならない) 123便ピットは、どういう事情によってか横田基地着陸を拒否している。多くの論者が、「123便ピットの横田基地着陸拒否」を記さない。123便ピットクル―は横田基地誘導を怪しみ羽田空港へ向かい始めた。何と羽田空港まで戻っており旋回し始めている。ところが、羽田空港は着陸を拒否している。仕方なく他の空港への着陸許可を要請したが同じく拒否されている。(ここの件を、他の論者が言及していない。この時、着陸が許可されていたら大事故にはなっていない可能性が強い) 慌てた中曽根政権―自衛隊最高司令部はミサイル攻撃を指令し、これを受けて戦闘機3機が123便の廻りを周回し始め、長野―群馬県境の山岳地へ誘導した。(ここの件もそうである。長野―群馬県境の山岳地へ誘導されたのではなく、123便ピットが最後の奥の手として長野―群馬県境の山岳台地を見つけ、乘るか反るかの大勝負の挙に出た、こう記さねばならない) この間、ピットと横田基地、ピットと羽田空港、あるいはピットと戦闘機とも相応のやり取りが為されている筈である。ボイスレコーダー非公開の秘密はここにあるのではなかろうか。今後仮に公開されたとしても改竄を疑わねばなるまい。最終局面で、戦闘機はミサイル攻撃でトドメを刺した。二発撃ちこんでいるとの説がある。 123便ピットは山中墜落必至を覚悟した。その中でも最も生存者が出る可能性の強い地形を探し出し、名操縦で御巣鷹山(群馬県多野郡上野村)の尾根に激突した。と云うか「胴体着地」した。この時点では、搭乗者の多くの者が生存していた。犯行側は秘密部隊を現場へ逸早く乗り込ませ、戦闘機攻撃、ミサイル攻撃の証拠品を回収させた。横田基地着陸を拒否し、手間を取らせたコツクピット内の操縦士を焼き尽くした。グリコ・森永事件犯を割り出し、死の儀式を執行した。 或る遺体は黒こげだったと云われている。主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化しており、遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかったという。当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)は、概要「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。二度焼きしたような状況だ」と証言している。 中曽根政権―自衛隊最高司令部は、このひと仕事が終わるまで捜索隊、救助隊が上らぬように墜落現場を錯綜させ混乱させた。放射能説を流し足止めさせた。全員死亡、始末完了を確認して現場を立ち去った。これが真相ではなかろうか。してみれば、落合由美、吉崎博子、吉崎美紀子、川上慶子の4名の生環者は奇跡の僥倖であったと云うことになる。或いは女性と云うことでターゲットから外されたのかも知れない。 中曽根政権官邸がこの一部始終で胡散臭い立ち回りをしている。その動向の一部始終が監視されており、後のユスリのタネとなり、取引材料に使われたのではなかろうか。こう解くと、中曽根政治の本質とその後の一連の流れが整合的に理解できるようになる。但し、これは現段階での推理である。この事件に関わって亡くなった多くの方々の無念は未だ晴らされてはいない。一応これで第一次検証を終えることにする。 「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/zikenzikoco/ kokuzikoco/osutakay amazikenco/top.html) 2010.8.21日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1272 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 8月11日 |
1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その2 |
2010.8.21日付けブログ れんだいこのカンテラ時評782の「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」その2を発表しておく。門外漢なのではあるが、私の誕生日の事件と云うことで奇しきな縁を感じてウォッチを続けている訳である。今年、何か言わせるものがある。 一般に、事件は日々発生しているが、ディリーニュースとして消化的に処理されて構わないものと歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないものの二種ある。当然、その中間のようなものもあるので三種とみなすこともできる。「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」(以下、単に「御巣鷹山事件」と記す)は、このうちの「歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないもの」に属する。この事件の待遇の仕方として、まずこの観点を確立せねばならない。そういう訳で、「根底の真相解明」に向かう。 「その1」の構図を継承し、その後明らかになったことを補足したいが、この方面はできていないので他日に譲る。本稿では、この事件の核心的なキモの部分を再確認し共認を深めたいと思う。もう一つの中曽根犯罪を裏づけることに力点を置く。やること為すことが骨の髄まで国際奥の院ネオシオニストユダ邪被れであり、よくもバチが当らず90歳過ぎてなおのうのうと生きておることよと感心させられている。 マスコミの長年の名宰相論、大勲位論だのは当分の間、お笑いの種になるであろう。要するに中曽根は国際ユダ邪御用聞き一等賞の首相であり政界君臨者である。その対極が田中角栄であり、角栄の運命は衆知の通りである。よりによって二人が同年生まれの同期代議士にして首相経験者であるとは。歴史は時にこういう奇しき味なことをする。神業と思うしかない。 さて、第一に記しておくべきことは、JAL123便(以下、単に「123便」と記す)の操縦者についてである。海上自衛隊出身の高濱雅己機長、他に佐々木祐副操縦士、福田博航空機関士が操縦していた。この3名は日航の誇る名パイロットであり鉢合わせすること自体が異例であった。事前に何事かが起ることが予見されており、その対策としてクルーにされていたようである。パーサー、スチュワーデスも同様であろう。客室にも何名かシフトしていたようにも思われる。要するに日航はエリ抜きの乗務員を配置し、万全の態勢で最善最良の対応ができるようシフトしていた。史実は、それを上回る事態になる。 6時12分、123便が524人の乗客乗員を乗せ、12分遅れで羽田を離陸した。これより「32分間の戦い」が始まる。18分、クルーが右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいて来るのを視認している。23分、一度外したシートベルトの再着用をアナウンスしている。24分35秒、123便が伊豆大島の北の相模湾上を飛行中、「ドドーンドンドン」と云う衝撃音が発生し垂直尾翼に何ものかが衝突した。同37秒、客室高度警報音(または離陸警報音)が鳴っている。同40秒、関東南A空域のレーダー画面に「エマージェンシー・コール」(EMG、緊急事態)の赤い文字が点滅しピーピーと金属音を帯びた警報が鳴り異変を知らせた。同42秒、機長が、東京ACC(東京航空交通管制部)にEMGの国際緊急無線信号「スコーク77」を発信している。 以降、123便と管制室の命がけのやりとりが始まっている。機長は、「スコーク77」を発信した後、「羽田への帰還」を求めている。28分30秒、「現在アンコントロール(操縦不能)」と発信している。管制官は名古屋に着陸できるかと聞いている。機長は羽田着陸を主張している。この間、横田基地へ着陸誘導されている。31分02秒、機長は羽田に戻りたいと強く主張している。(横田基地着陸を忌避し羽田空港への帰還を希望している事実を、御用派は無論、告発派も指摘していない) 同08秒、焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロールし始めている。 なぜだか羽田空港に引き返すことができない状態になっており、右に大きく旋回し北方向へ飛行を続けていった。この後、異変が発生しているが略す。(ここの件の記述の考察が不十分であるので訂正しておく。その1に書き加えたが、「123便」は羽田空港まで戻っている。着陸許可されずならばと木更津空港着陸を打診しているが、こちらも許可されていない。羽田空港は無論、木更津空港着陸をも可能にしていた事実が御用派は無論、告発派も指摘していない。御用派が隠蔽するのはそいう役目だからであろう、問題は告発派が指摘していない不自然さである。首を傾(かし)げざるをえない) 40分頃、管制室が横田基地への緊急着陸を指示している。この後、「謎の7分間の空白」となっているとされ明らかでない。傍受によると、横田基地が合計13回にわたって「スタンバイできている」ことを繰り返し呼びかけている。123便はなぜかこれに応答していない。(実際にはやり取りされているのだろうが、公開できないやり取りになっているのではなかろうか) 47分、123便は墜落地点である御巣鷹山に向かって降下して行く。この時、自衛隊機が123便の前方に出て進路誘導している気配があるが、強引に左旋回飛行するなりして抵抗している。47分頃、既に墜落を覚悟し、最適の着陸地を求めて操縦している。48分40秒、機長「山いくぞ」、副操縦士「はい」。この時、凡その着陸地の方位方角が決まっていたようである。50分09秒、機長「どーんと行こうや」。同27秒、機長「がんばれ」。副操縦士「はい」。この後のやりとり略。56分26秒、猛烈な衝撃音。 ここまでのピット内のクル―、パーサー、スチュワーデス乗務員一丸の奮闘は涙なしには語れない。この経緯で何を窺うべきか。機長が横田基地への着陸を頑なに拒否し、羽田に戻る旨を告げ、それが拒否され、(多くの解説が、ここの下りを逆に評している。本稿以降は通用しなくなるであろう)123便は、与えられた情況と条件下での最適の操縦により「御巣鷹の尾根」に胴体着陸した。即ち多くの人が生き残られるよう、海ではなく、なぜだか基地でもなく、山を目指し、「御巣鷹の尾根」を見つけ、墜落と云うよりも胴体着陸した。 「れんだいこの事件考」はここまでが前半で、ここからが後半となる。後半については来年度の命日に記そうと思う。関心は、機長を始めとするコックピットの名操縦で相当数の者が生き残っていたのに、女性ばかり4名のみが生還した不可解さを問うことにある。午後7時だと、それほど暗くはなかろうに、長時間にわたって墜落現場が不明だとされ、向かった者は誤誘導され、あるいは正しく向かう自衛隊員が始末されたとも云う。これに関心の湧く者は各自で調べるが良かろう。 |
【胴体着陸論】 | ||
「日本航空123便墜落事故を検証する」。 (|Topへ | 追加報告書の解説|)
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1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その3 | ||||||||
今年また書かせるものがあり、1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その3をものしておく。前稿で日航機123便の墜落までを論じた。この墜落の要因をいろいろに論(あげつら)うことができるが、とにもかくにも御巣鷹の尾根へ胴体着陸した。本稿はその後の事件を考察する。 524名の乗員乗客のうち520名を亡くしたこの事件は、飛行機事故史上、当時も2017年現在に至る今日まで最悪の大惨事となっている。それまでの日本国内の航空事故としては最大の犠牲者数を出した事故は、乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した「1971.7.30全日空機雫石(しずくいし)事故」である。岩手県岩手郡雫石町上空で、飛行中の全日本空旅客機と航空自衛隊戦闘機が接触し、双方とも墜落した事故である。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、旅客機は空中分解し最期を遂げている。 この時の防衛庁長官が25代/中曽根康弘である。中曽根長官は、佐藤政権下で1970(昭和45).1.14日任命され、事故の翌々日の7.5日に辞任している。偶然か必然かは分からないが、中曽根こそが、日本航空史上最大事故の1971全日空機雫石(しずくいし)事故、1985日航機123便御巣鷹山事故の両方に歴史的に遭遇していることになる。こういうなのを奇しき機縁と云うのだろうと思う。 ところで、日航機123便墜落直後には数多くの生存者が居た。その数は200名近く、少なく見積もっても40-50名と云われている。次のような記述もある。
これについて、「あんぽんたんな日々」の「第62回、ほおっておけない疑問」が次のように記している。
生存者の一人である日航客室乗務員落合由美さんの同僚の青山透子氏の告発本「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」(河出書房新社、初版2017.7.17)が、33回忌を前に真相究明に一石を投じる渾身のノンフィクションを書き上げている。次のように書評されている。
この事故で子供2名と親戚の方3名を同時になくされている小田周二氏の「524人の命乞い 日航123便乗客乗員怪死の謎」(文芸社、2017.8.1日初版)もまた執念の著作を書き上げている。帯文はこう記している。
観点をここに据えねば事件性が見えてこない。私も同じ見解であり、本件は中曽根政権下の国策事件であると断定している。そういう国策犯罪であるが故に撹乱目的のフェイク情報が異常に張り巡らされている。それらを潜り抜けながら進まねばならないので真相に辿り着くのは容易なことではない。以下、私の推理を記しておく。 墜落直後、多くの生存者が居たことは生存者の手記で証言されているから間違いない。問題は、その生存者のほとんどが生還できず僅か4名、しかも女性ばかりとなったことにある。これは偶然ではなかろう。私の推理はこうだ。日航機123便は墜落時に機体前部、機体中部、機体後部に3分解している。機体前部は胴体着陸の格好で尾根を登る方向に滑走、岩場に激突している。乗員乗客は人の跡形なく木っ端微塵にされている。機体中部は激突地点で粉砕、同時に航空燃料を飛散させて炎上している。乗員乗客は遺体が分断且つ黒焦げにされている。機体後部は着地ののち飛来してきた方向から見て反対方向に下りながら尾根の急斜面を滑走してスゲノ沢の谷底に激突している。こちらの乗員乗客は人形(ひとかた)のある遺体となっている。生存者4名は全員が機体後部の乗客でありスゲノ沢の谷底で救出されている。 このことをどう理解すべきか。私は、墜落現場に逸早く到着した鬼畜部隊のうち、機体前部と機体中部の指揮隊は指令通りに乗員乗客を残酷無比に始末し、機体後部の指揮隊は温情を見せ、女性数名につき止めを刺さなかったと理解している。この深淵を覗くと、鬼畜部隊による「死人に口なし策」の形跡が見えてくる。この仮定によると、520名の犠牲者は中曽根政権により口封じ殺戮されたことになる。故に、中曽根を歴史法廷に立たせ、我々が中曽根を裁かねばならない。そういう課題を歴史に遺していることになる。付言しておけば、温情を見せた機体後部の指揮隊は、いずれ頃合いに始末されることになるだろう、と予見しておく。 本事件の不可解さは、政治が真っ当なら全速力で現地に向かい救援に当るべきところ、現場に待機命令が出され続け、救援隊が現場に入れたのは墜落事故から半日以上も過ぎた「墜落現場の特定まで10時間、救出隊の現地到着まで14時間半の奇怪さ」にある。墜落地は群馬県多野郡上野村にある標高1639mの御巣鷹山(おすたかやま)の尾根であった。 墜落地の御巣鷹山(おすたかやま)につき、長野県の「高天原山」(たかまがはらやま)と云う説もある。地続きなのかどうか分からない。これにつき、「植草一秀の『知られざる真実』」の2019.8.12日付ブログ「123便墜落事件から34年でも封印の巨大な闇」で次のように説明されている。
ところが、墜落直後の情報は群馬県上野村の小倉山、ぶどう峠、埼玉県の三国山、長野県の御座山(おぐらやま)、扇平山、南佐久郡北相木村と様々に誤報がまかれ続け現場が大いに混乱せしめられた。これにより救援隊が無駄足を踏まされ続けた。他の部隊は待機命令により足止めされた。 これを偶然と読む者は以下の文章を読むに値しない。互いに胸糞が悪くなるだけだから読まぬ方がましと建言しておく。この奇怪さに満腔の怒りを覚える者は以下読み進めてくだされ。 「現地到着までの14時間半の奇怪さ」にはもう一つの理由があった。それは、機内に医療用放射性物質アイソトープが92個積載されていたとされ、放射能汚染による二次災害懸念を理由として待機命令が下され足止めされた。翌朝の4時50分、科学技術庁が「そのアイソトープは人体に支障なし」と発表したことにより待機命令が解除された。これは、この頃までに現地の国策始末が終り、立ち入りしても良しの状態になったと云うことで、これが裏意味であろう。これらの理由により、墜落直後の貴重な救出時間が無為に経過させられた。付言しておけば、「事故を目撃した地元の有志たちが生存者を救うべく入山しようとすると、すでに自衛隊がバリケードを築いており近づくことができなかった」の証言もある。 救援隊第一号の栄誉に与(あずか)ったのは長野県レスキュー隊(以下、単に「レスキュー隊」と記す)だった。墜落から14時間半後の翌日午前8時30分、墜落現場に到着した。相次いで自衛隊、消防隊、警察が現地到着している。このレスキュー隊が生存者救出のお手柄を挙げた。何と「生存者4名全員」が偶然か必然かレスキュー隊によって発見されている。これによりレスキュー隊は現地一番乗り栄誉、生存者救出栄誉の両方に浴した。しかしながら、この栄誉は救出を願う側から見てのそれであり、国策口封じ派から見れば「勝手なことをしてくれた」営為であったであろう。このことにより、このレスキュー隊には然るべき頃合いに然るべき制裁が予想され、将来に暗雲が予想されることになった。これが杞憂であれば良いのだけれども。 実際には、レスキュー隊到着前に、県警の指示の遅さにしびれを切らした地元消防団員の一部が墜落現場へ向かっている。この時、山上から降りてきた自衛隊員とおぼしき者たちとすれ違ったと証言している。「この者たち」は何者か。これを仮に「先着隊」と命名する。この「先着隊」の正体が未だに明らかされていない。追って判明するが、この「先着隊」の任務は生存者救出ではなかった。むしろ逆で、A班が墜落原因証拠物の回収、B班が生存者焼殺を任務としていた。この「先着隊」を誰が指揮したのか。この者たちが直接の下手人であるが、「口封じ始末」など現場の者が勝手にできる訳がない。彼らに指示を出した奥の院の首謀者こそ最も重責の犯人であろう。その者に歴史法廷で白状させれば、本事件が引き起こされた真の理由が分かるだろう。もっともその者たちはウソの白状をするのが常であり、言い条のまま迂闊に合点する訳には行かない。 ところで、初動の時期、生存者救出に向かった自衛隊員がいたようである。待機命令を無視して墜落現場に救助に行こうとした自衛隊員が射殺されたとの情報が報道されている。事件当夜の午後8時のNHK速報で、概要「(長野県警の発表によると)上野村三つ岐待機自衛隊一群到着。待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人が射殺される」とテロップされている。その後、NHKアナが次のように報じている。「ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に向かった自衛隊員数名が何者かに銃撃され、死者負傷者数名が出ている模様です。続報が入り次第お伝えします」。その後、NHKアナが次のように訂正報道している。「先ほど自衛隊員が何者かに襲撃され死者が数名出たとお伝えしましたが誤報だった模様です」。 これは余りにも奇怪な報道である。「午後8時のNHK速報テロップ」、「NHKアナ放送」が本当に存在するのかフェイクなのか。これを検証しようにもブロックされており確かめようがない。青山透子氏の著書「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」では真情報として採用されている。実際に報道されていたことが確認された場合には、その報道内容の真偽の確認へと、こう云う順に理詰めで詮議して行くのが良かろう。本事件では、こういう大事なところが情報閉鎖されている。ウソと思うなら確かめればよかろう。 もとへ。「墜落直後の不審な一団の現場検証」その他を参照する。墜落現場の「発見一番乗り」は米軍のようである。墜落後25分頃、米軍C-130機が墜落地点と見られる火災を発見している。この時、既に米軍厚木基地の救助ヘリがいたことを証言している。墜落現場の地上15mくらいのところまで降下したところで横田基地からの不可解な連絡「救助はせずに、帰ってこい」が入り、救出を断念し引き返すよう命じられ帰還させられている。これはアメリカの新聞にも載っている事実と云う。そして、こうも付け加えられたと云う。「今回のことは、メディアには何もしゃべるな」。 この後の奇々怪々の様子が次のように証言されている。
これに関連して、概要「JAL破綻と墜落直後に事故現場で行われていた事」が次のような「M氏の目撃談」をサイトアップしている。
「先着隊」引き上げ後の墜落現場の或るカ所はまるで火炎放射器で焼いた跡のようだった。特にコックピット内が焼けただれており、人形(ヒトカタ)がないまで焼き尽くされていた。高浜機長の遺体が特に酷く顎の一部の歯5本のみだった。それが機長と確認できたのは歯医者の治療記録と一致したことによる。歯しか見つからないまでに高浜機長を焼き尽くした理由が分からないが、指令に従わず抵抗し続けたことに対して見せしめ処分されたと推理できる。 遺体は散乱して居たものと寄せ集められて居るものとに分かれていた。或る集団の遺体はバーナーで焼かれたように焼け爛れており黒焦げだった。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに遺体だけが骨の芯まで焼かれ原型を留めないほど炭化していた(航空機事故では稀だと云う)。現場の医師が口を揃えて「尋常な遺体ではない」と証言している。本稿その1で触れたように遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかった。遺体の歯形で本人確認を行った歯科医師が次のように証言している。
遺体からは航空機用燃料(灯油とほぼ同じ成分のケロシン)とは異なるガソリンとタールの臭いがしていた。燃焼区域は広範囲で燃料タンクが落下した地点とは離れていた。これを映像公開で確認したいと思うが、ネット上に出てこず、仮に出てきてもコピーできないようにブロックされている。これも、ウソと思うなら皆が確かめればよかろう。遺体の大半がかくも激しく損傷していた為に身元特定が困難を極め、約4カ月の時間と膨大な人員を要しても確認できなかった遺体片が多かった。同年12月の合同慰霊祭で火葬に付されている。 以上が墜落後の救援、生存者、犠牲者事情の概要である。「救援遅延の異常性」、「遺体の異常性」が確認されれば良い。問題は、このことをどのレベルで認識するかである。事故調査委の「ボーイング社の修理ミスによる機体破損説」は、墜落要因の異常性隠しの為の与太報告に過ぎない。この報告を批判する側の論として自衛隊機又は米軍のミサイル誤射説がある。これも「誤射」としているところがウソ臭い。「誤射」とする限り本事件の本質が見えてこない。自衛隊機又は米軍のミサイル正射説ならあり得る。但し、この場合には、誰が、何の為にかくなる仕業に及んだのかをワンセットで推理せねば画竜点睛を欠いており意味をなさない。 こういう内実を持つ本事案に対し、当時の中曽根首相がどう対応したのか、配下の者がどう従ったのか、これを次稿で確認しておく。但し、情報が厳しく封印されており容易には手に入らない。それは恐らく、中曽根康弘の次の言「死ぬまで言えないことがある。墓場までもっていく」がバイアスとなって規制されていることによるものと思われる。要するに情報統制である。故に相当に困難な検証になるが日本政治の未来をこじ開ける為に、この機密の解明に向かおうと思う。中曽根の「墓場まで持って行く」を「国鉄分割民営に関する発言」であるとする論があるが、気色の悪いすり替えフェイク発言であろうに。 2016.8.12日 れんだいこ拝 |
1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その4 |
私の論考がいよいよ大詰めに向かいつつある。私の推論はこうである。事件は要するに、中曽根政権下での、中曽根官邸による、怪人21面相派との抗争の結末としての123便撃墜だったのではないのか。こういう首相命令は許されるのだろうか。仮に国益上、万が一許されるとしても自害して御詫びする的な厳しい政治責任がついて回るのは自明だろう。 問題はこのことだけではない。中曽根官邸側は、123便が海上に墜落すること、横田基地に着陸することの二案を想定して万全の態勢を敷いていた。ところが、123便は、甚大な損傷を受けながらもクルーの名操縦により羽田に帰ろうとした。公開されたボイスレコーダーの私流解析によると、実際に三度試みている。これが悉く拒否され、代わりに横田基地へと誘導されている。今度は機長がこれを拒否し木更津着陸が可能か問うている。 何と、123便は羽田まで戻ってきており木更津空港上空旋回まで航空軌跡している。不審なら改竄前の「航跡図」を確かめれば良い。羽田、木更津空港着陸が拒否されていなかったら全員生還だった可能性がある。このことに言及する論者がほとんどいない。と云うことは、123便が羽田、木更津空港着陸がよほど知られたくない不都合と云うことになる。ということは、123便事件論者が何人居ようが、123便の羽田、木更津空港着陸スタンドバイに触れぬ者は急所を撃たない評者ということになる。 123便は羽田に続き木更津空港まで拒否され万策尽きるに及び果然として引き戻り山を目指している。この間、自衛隊機2機が123便を追尾し始めており、御巣鷹山上空から胴体着陸を試み始めた123便をミサイル撃墜している。123便は真っ逆さまの急降下を余儀なくされ、それでも最後の最後の神業で胴体着陸を成功させている。 国策完全犯罪に失敗した中曽根政権は慌(あわて)て、死人に口無しの全員殺戮を指令した。救援隊に対し「機内に持ち込まれた医療用放射性物質アイソトープ汚染による二次災害懸念を理由として」足止め指令し、14時間半後の現地入り策を講じている。翌朝の4時50分、科学技術庁の「そのアイソトープは人体に支障なし」発表は、現地処理が終わったという裏意味をメッセージしていよう。8時30分、長野県レスキュー隊と消防団のお手柄で4名が救出されたが、それはたまさかの僥倖でしかない。123便事件はそういう意味で国策撃墜&生存者全員殺戮事件となっている。日本政府が犯した国家的犯罪の中でも群を抜いて悪質なものとなっており国際刑事裁判事案に値している。 中曽根政権が何故にかような事件を画策したのか、その動機をグリコ犯との角逐以外の理由を求めてみよう。推理するのに、中曽根首相自身シナリオによる、彼を庇護せんとする国際勢力の支持を得る為に、その前に忠誠の証を見せよとの彼らの要請に応えた狂態劇だったのかもしれない。悪魔教崇拝者の好みそうな乗員乗客総殲滅ホロコースト劇だったのかもしれない。こう考えれば不自然が解け、こう考えないと解けないことが多過ぎる。 この事件は中曽根自身のトラウマにもなっており、自分が現役の時の大事故にして、墜落現場の群馬3区が地元にして選挙区と云う三重の因縁があるにも拘らず、今日までタダの一度も現地に寄りつこうとしていない。オカシなことであるが、中曽根の言「死ぬまで言えないことがある。墓場までもっていく」と見事にハーモニーしている。この「死ぬまで言えない墓場までもっていく」発言を、他の理由にすげ替えている論評もあるが、為にする御用理論としか思えない。論者の中にはこういう雇われも居る。と云うかそういう雇われが殆どかも知れない。1918(大正7)年生まれの中曽根は2017年の今年99歳、来年は百歳を迎える。長命は結構なことだが事件の真相を語って後に逝くことを期待したい。 日航機123便事件は尋常ならざる事件性故に情報統制が敷かれている。事件絡みの単行本が既に数十冊出版されている。怪人21面相絡みの単行本も既に数十冊出版されている。にも拘らず、肝心要のところの証拠資料が厳しく封印されている為に推理上の混乱が免れていない。しかし、秘すれば覗きたくなるのが人情で多くの者が関心を強めている。その一人である私の上述の推理は決して私だけのものではない。細部を別にすれば構図的に同じ見解を持つ者がそれなりに居る。本事件の解明は相当に困難な検証になるが、日本政治の未来をこじ開ける為に必要な営為であると確信している故に、私も向かわざるを得ない。 真相を知る為には少なくとも真正のボイスレコーダーが公開されねばならない。真正のボイスレコーダーを下に事件を解明するのが一番早い正解の近道であるのに、事故直後より乗員のプライバシーを保護するという理由で一切公開されなかった。事件から10年後、その一部が公開されたが、その音声には数々の編集跡がみられ且つ大事な部分がカットされている。最重要な自衛隊機、米軍横田基地との交信部分がカットされている。これでは態をなさない。まずはこの闇から切開せねばならない。恐らく事件の真相を語る生々しいやりとりが記録されているはずである。あるいは怪人21面相派の生の声が聞けるかもしれない。 「123便事件」の巷間の推理はいずれも、中曽根政権と「怪人21面相」が直接対峙していた政治状況を隠蔽する役割を果たしている。かの時代、どういう事情があってか分からぬが、怪人21面相が中曽根政権に絡み続けており、政権にとって何としても成敗せねばならない最優先案件になっていた。これを手短かに確認する。 1982(昭和57).11.27日、中曽根が自民党総裁・内閣総理大臣に就任する。中曽根首相はロナルド・レーガン米大統領と親密な関係作りに成功し日米同盟の宴のさ中にいた。その中曽根政権全盛期の頃の1984.3.18日、怪人21面相によるグリコ事件が発生している。これより1年5ヶ月後の1985.8.12日の123便墜落事件まで、怪人21面相が中曽根政治を嘲笑し続け、事件後、ピタッと鳴りを潜めた。この事件後の音沙汰なしこそ論より証拠であり、怪人21面相が始末されたことを語っていると推理したい。 これを思えば、「123便事件」の背景に、中曽根政権と怪人21面相の抗争があったと読むのが普通だろう。「123便事件」とは、怪人21面相派が123便に乗り込むと云う情報を受けた中曽根政権が、これをどう捕捉し、あるいは始末するかのお手並みが問われた事件であった。かの時、123便機内で、524名の人質を盾に堂々と乗り込んできた怪人21面相派と、524名の人質を鴻毛より軽くあしらった中曽根政権との虚虚実実の駆け引きがあった。私はこう読む。 怪人21面相派が、日航機123便に乗り込み、機内で最終取引する情報を、どういう筋の誰が中曽根官邸に届けたのかは分からない。これに暗躍したグループを仮に「ジャパンハンドラーズ」と命名しておく。この「ジャパンハンドラーズ」こそが、怪人21面相派を123便に誘い込み、その機密情報を中曽根官邸に届け、中曽根首相のお手並み拝見と洒落たのが事件の構図ではなかろうか。 2017.8.12日 れんだいこ拝 |
1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その5 |
事件を予知していた中曽根首相は、「歴史その時」をわざわざの芝居仕立てして軽井沢別荘で迎えた。「123便への怪人21面相派が間違いなく搭乗」情報を得て、軽井沢から首相公邸へ向かった。中曽根首相が、袋の鼠と化した怪人21面相派をどう始末したのか。結果は、乗客乗員524名中520名を死亡せしめる123便墜落事件となった。しかも単なる死亡ではない、口封じの為としか考えられない遺体焼殺により二度殺ししている。怪人21面相派は寄せ集められ、特に丁重に死の儀式を執行されたはずである。こうなると、事件は中曽根官邸だけの采配ではなかったかもしれない、日米合作による成功裡の「怪人21面相始末劇」だったと受け取るのが正解のような気がする。 この時の中曽根対応は、その後の良好円満なロンヤス関係から見て、国民524名の命などオガ屑の如く軽く扱って「怪人21面相始末劇」を遂行したことにより、「ジャパンハンドラーズ」への忠犬ぶりが認められたことになるのではなかろうか。「怪人21面相始末劇」が連中の歓心を得るに値するものだったことになる。但し、このことは、事件の一部始終を掴んでいる「ジャパンハンドラーズ」が中曽根の政治的な弱みを握ったことを意味する。そういう意味で、中曽根政治は「ジャパンハンドラーズ」の云うがままの御用聞き政治へと誘導された。三日後の8.15日、靖国神社を首相として公式参拝。翌月の9.22日プラザ合意により、円高誘導がきまりバブルへと突入。この頃より日本政治史上に「口で愛国、裏で売国」方程式が敷かれた気がする。そういう契機となった本事件の歴史裁判が待ち受けているはずであるが、例によって「揉み消し」のまま今日に至っている。 2017.8.12日 れんだいこ拝 |
1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その6 |
1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件と具体的にどう絡むのかまでははっきりしないが、深く関わっていると思われる長野、群馬の両県の救援隊指導部始末としか思えない奇異なへり墜落事件事故が相次いでいる。これを追跡しておく。詳細は「長野県レスキュー隊の栄光と悲惨事故」で確認する。 2017.3.5日、「長野防災ヘリ墜落事故事件」が発生。これにより長野県救援隊の有能な指導幹部7名、パイロット、機関士合わせて9名全員が死亡している。 2018.8.10日、「群馬防災ヘリ墜落事故事件」発生。これにより群馬県救援隊の有能な指導幹部7名がパイロット、機関士合わせて9名全員が死亡している。奇妙なことに、両事件とも飛行の高度などを記録するフライトレコーダーがヘリに搭載されていなかった、とされている。両事件とも、救援活動の遅れ、乗員の墜落時の安否確認、死亡経緯の不明等々が共通するミステリアス事件となっている。マスコミは必要最小限報道で済ましている。 こうなると、この両事件は偶然が重なっただけの事件だろうか、こう問わなければならない。長野県と群馬県のレスキュー隊は、1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件に格別に絡んでいる。その両県のレスキュー隊の指導幹部が殲滅されている。何がしかの事実の「揉み消し」の臭いを嗅ぐのは私だけだろうか。あるいは「揉み消し」と云うより「警告的脅し」かもしれない。今は、こう述べるだけにとどめておく。 |
【圧力隔壁破壊説とボーイング社のその後の受注増の怪】 |
日本政府は事故要因として圧力隔壁の修理ミス説を発表し、尻もち事故事故後のボーイング社による修理ミス→金属疲労で隔壁が破壊→客室内の空気が壊れた隔壁から噴出して垂直尾翼を吹き飛ばす→同時に油圧パイプがすべての系統で破損→操舵不能というスト-リ-によるボーイング社の不始末とした。ボーイング社は修理ミスを認めたが、作業員は指示通り設計図通りにやったと言い張った。「未だになぜ責任を言われるのか分からない、と言い訳にもなってない言い訳をする」と評されているが、現場の声の修理ミス不可解論の方が正鵠なのではなかろうか。 日航ジャンボ機墜落事故の原因をボーイング社の修理ミスとしたのは政治的にそうしたのではないのか。その後の流れを読み取れば、ボーイング社に責任を押しつけた代償として、日本政府は見返りにボーイング社の民間機しか日本は買わないことにしたのではないのか。普通に考えれば大惨事を引き起こしたずさんな修理をしたボーイング社機など決して買わないはずのところ、日本はボーイング社しか選択しない航空機購入史を歩ませている。事故後は余計にボーイングから買っている。「事故の責任をボーイングが被ってくれた見返りか?」と云われている。当たりではないのか。 |
【1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その7】 |
2015.8.12日、「JAL123便墜落事故の出回っている話はウソばかり」、2015.8.13日、「JAL123便墜落事故の出回っている話はウソばかり~中曽根総理の別荘における盗聴内容」。2009年3月29日 (日)ブログ「日航機墜落事故の真相」 (2) http://johnbenson.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/ post-3143.html 事件はどの時点で首相に伝えられたか(EJ第1078号) http://intec-j.seesaa.net/article/57079977.html 等々参照する。いずれもこれが真相というスタイルでの語りになっているが、これもそのまま受け入れられる説にはなっていない。そこで、れんだいこが解析しておく。 |
あの日、最初の衝撃音がした海域では、日米軍合同の極秘戦闘態勢が敷かれていた。日航機123便は予定通りに狙われ撃墜用のターゲット弾が尾翼に接触した。日米軍ともオンタイムで掌握している。日航機123便は予想に反してなかなか落ちなかった。空軍機のミサイルによって攻撃され止めを刺された。墜落現場にもいち早く到着している。事故調査にあたっていた前橋地検の山口悠介検事正は「事故原因を、ぎりぎりまで追究すれば、戦争になる!」と発言している。ボイスレコーダーも公表していない!これが、一体何を意味しているのか。 8.12日、JAL123便墜落事故が起こったこの日、中曽根首相は敢えてわざわざ官邸から遠い軽井沢の別荘にいた。この時の別荘におけるやりとりが盗聴されている。但し、公開された情報は真相に辿り着けないように細工されたものばかりが流布されている。これを逆推理しながら真相を確認しておく。官邸はJAL123便墜落事故が予定通りに発生するべく事態が進行していることを告げ、中曽根首相の指揮を仰ぎ続けた。「私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない」。前後の事情が分からないが、この発言が歴史に刻まれている。この発言は本当にあったのではないのか。「国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう」。続いて「目撃者が出たらどうしますか」に対して、「何とかしろ」。「殺せという意味ですか」に対して、「私をこれ以上人殺しにするつもりか」と怒鳴り「何とかしろは何とかしろという意味だと」怒鳴っていた。要するに、中曽根の責任にならぬように巧妙に遂行せよの指示を飛ばしたことになる。 17時11分、軽井沢駅発の特急「あさま22号」に乗り、東京に向っている。仕組んだ通りに事件が発生することを確認したうえで官邸帰りに向ったことになる。18時24分40秒、JAL123便が緊急信号を発信している。18時52分、JAL123便がレーダーから消える2分前、大宮着。19時15分、上野着。この間、JAL123便墜落事故が発生している。但し、JAL123便は「行方不明」と報道され続けている。上野駅から公邸まで、首相は自動車電話の付いている首相専用車に乗る。19時47分、公邸に到着。この間、車中の時間が約30分あるが首相への報告はなかったとされている。依田秘書官が、「行方不明」という情報だけではどうしようもないので報告しなかったという、為にする虚言だろう。公邸前でヤラセ会見が行われている。待ち受けている新聞記者がJAL123便事故のことを尋ね、「ほぉー、どこで?」と初めて聞いたような驚きを見せている。これほどの大事件の情報を新聞記者からはじめて聞かされるたことにしている。 19時頃、墜落直後、官邸にいた平沢官房長官秘書官に運輸省航空局、防衛庁、警察庁から相次いで報告が入っている。平沢秘書官は直ちに藤波官房長官に連絡をとって第一報を入れている。このときは官房長官と連絡がとれたが、それから30分近く連絡がとれず、やっと連絡が取れて、平沢秘書官は藤波官房長官に2度目の報告を次のようにしている。「JAL123便の大坂着予定時間を過ぎました。事故発生は、ほぼ間違いないと思われます。大至急お戻りください。平沢勝栄官房長官秘書官」。19時45分、藤波官房長官が官邸に戻る。 その2分後、中曽根首相が公邸に戻る。首相が戻ると、依田秘書官は、はじめて事故の状況を立ち話で首相に伝える。その間わずかに1分間。その後首相は19時48分から予定に組まれてあった河本敏夫国務大臣との会談に入っている。この頃、三光汽船問題というのがあって三光汽船の元社長である河本氏は苦境に立たされていた。首相との話はこれがテーマで辞任うんぬんがやりとりされたといわれている。20時1分、その会議が終った。20時16分、藤波官房長官と副長官が公邸に駆けつけて、16分間首相とJAL123便事故について報告が行われている。20時32分、報告終了。23時、官邸の大広間で事故対策本部の初会合が行われている。中曽根首相がそこに顔を出したという記録はない。 翌13日、午前5時30分、就寝中の首相に対して、墜落現場が中曽根首相の出身地の群馬県であることが伝えられ、とくに反応がなかったとされている。19時15分、藤波官房長官が上野着。19時20分頃から19時47分の間、姿を消している。この時間帯に平沢秘書官は官房長官と連絡がとれていない。加藤紘一防衛庁長官。加藤防衛庁長官と藤波官房長官は、上野から公邸に向かう車中で首相に報告し、指示を仰いでいるはずである。 JAL123便墜落事故から40日ほどして、日本国政府がプラザ合意をのむ決断をしたのは歴史に記されている。 |
1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その8 |
2024(令和6)年8月、日航123便事故事件につき、今年また久しぶりに言わせるものがあるので記しておく。1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件の不透明さ、これに呼応するかのような様々な誤誘導評論、こういう構図の中から真実を探り当てねばならない。その営為を得て事件の犠牲者を弔うのが、かの人たちの本望だろう。れんだいこにはそういう思いがある。 |
(私論.私見)