事件の真相考その3、救出までの不可解検証

 (最新見直し2008.10.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 墜落するまで」参照。


【墜落その時の様子】
 1985.8.12日午後6時56分26秒、123便は、北西に570m離れた谷向こうの蟻ヶ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根に裏返しの状態で激突する。位置は北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒で、群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地国有林76林班内であった。墜落現場は黒沢丈夫.上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名される。御巣鷹山(高天原山とも云われる)の南東2Kmの地点に当たる。乗員乗客524名のうち死亡者520名、生存4名という単独機の航空事故では現在も世界最大の事故となっている。

 検索で出くわした「日航123便墜落事故に関わる不幸な因縁」を転載しておく。
 毎年この時期になるとニュースなどが流れる日航123便事故ですが、早いもので今年で29年目です。1985年8月12日、日本航空123便(18時56分東京発大阪行)が、群馬県多野郡上野村の高天原山(御巣鷹山)の尾根に墜落しました。乗員乗客524名のうち死亡者520名、生存4名という、単独機の航空事故では現在も世界最大の事故となってます。事故の原因などについては別の機会にゆずるとして今回は、この大事故にまるわる不思議な因縁を。

 日航123便墜落事故に関わる不幸な因縁

 JALが発刊してる自社の機関紙「WING(ウイング)」があります。月1回の発刊の『ウイング』には、各種の企画ページがあり、全国47都道府県のユニークな人物を交替でインタビューして紹介するその企画も毎月掲載されていました。そして、9月号の順番は群馬県だったのですが、その群馬県の数ある市町村で選ばれたのが、事故機の墜落現場、上野村の黒澤丈夫村長だったのです(1913年12月23日生〜2011年12月22日没 画像は若き少佐時代の黒澤村長)。

 村長への取材が実施されたのは、事故のわずか2ヶ月前、6月のことでした。その事故機に積まれていたのが『ウイング』85年9月号だったのです。この2ヶ月後に、日本航空がこの不幸な偶然の一致に驚き嘆く事態になってしまうこと、インタビューを受けた黒沢村長がこの不幸な因縁に公私ともに振り回されることになるなど、予測できるものではなかったと思います。

 それにしても全国に47もある都道府県のうち、よりによって群馬県が選ばれたのはなぜなのでしょう。そして、まったくの偶然とはいえ、事故が起きた上野村の村長が取材対象者に選択されてしまったのはなぜなのでしょう。まさしく天文学的な偶然の一致であると思います。ちなみに、黒澤村長は第二次世界大戦中は零戦などの南九州の第七十二航空戦隊参謀であったといいます。これも飛行機と深く関わる因縁めいた話です。

 実は村長自身にも、不思議な偶然が働いていたそうで、その年の始めに村の占い師に次のような予言を聞かされていました。「今年は、あなたが世界中に注目されるような出来事が起こる」と。これはまた随分と大げさなことを言われたと思った黒澤村長がは、家に帰って奥さんにその予言の話をしました。取材を受けた時もまさか世界的な注目を浴びるほどの内容ではないと思ったのでしょう。しかし、その年の8月にこの村に落ちてきた123便の墜落事故。「あの予言はこの事故のことを言っていたのね・・・」その騒ぎの最中に奥さんは村長にそういったといいます。

 この『ウイング』9月号は、「乗客や遺族の方が事故を思い出すことがあってはならない」との日本航空の意向から、すべて廃棄処分にされたそうです。黒沢村長の二ヶ月前のインタビューの数々はこの大事故によって葬り去られることになりました。偶然とはいえ、あまりにも天文学的としか表現できない、不幸な偶然の一致であったと思います。


【墜落直後から8月12日までの動き】
 123便墜落が確定し、救出作業が始まることになる。これを確認する。

 午後6時56分2秒、123便のレーダー機影が消失した。その報は救難調整本部、自衛隊、警察庁外勤課、海上保安庁警備救難課、運輸省航空局管制保安部運用課に流される。横田基地が、C-130に捜索を依頼している。

 午後6時57分頃、航空自衛隊レーダーサイトは123便が墜落したと判断、中部航空方面隊へ救助を具申した。峰岡山基地の吉田勝一尉が、123便消滅を中部航空方面隊司令部防衛部長の大中康夫一佐を通じて松永貞昭司令官に伝達。「北緯36度02分東経138度41分」 。

 午後6時59分頃、航空自衛隊中部航空方面隊(司令官:松永貞昭空将)が救援体制に入り待機状態を執った。羽田の航空機救難調整本部(RCC)が123便消滅情報入手。警視庁外勤課、航空自衛隊、海上保安庁警備救難課、運輸省航空局管制保安部運用課に通報した。横田基地が、C-130に捜索を依頼している。
 午後7時00分。茨城県・航空自衛隊・百里基地 第七航空団。日航123便を緊急信号受信直後から追っていた航空自衛隊は、独自判断で、緊急体制当番で待機していた第305飛行隊のF4EJファントム戦闘機二機を長野・群馬県境の行方不明地点に急行させた。(故・式地豊二尉リーダー)
 午後7時頃、日本航空の関係者に緊急連絡が入り、JALは羽田オペレーションセンターに対策本部を設置した。
 午後7時頃、官邸にいた平沢官房長官秘書官に運輸省航空局、防衛庁、警察庁から相次いで報告が入った。平沢秘書官は直ちに、藤波官房長官に連絡をとって第一報を入れている。このときは官房長官と連絡がとれた。しかし、それから30分近く連絡がとれず、やっと連絡が取れて、平沢秘書官は藤波官房長官に2度目の報告を次のようにしている。「JAL123便の大坂着予定時間を過ぎました。事故発生は、 ほぼ間違いないと思われます。大至急お戻りください」。藤波官房長官は19時45分に官邸に戻り、すぐその2分後に中曽根首相は公邸に戻る。首相が戻ると、依田秘書官は、はじめて事故の状況を立ち話で首相に伝える。その間わずかに1分間。その後首相は19時48分から予定に組まれてあった河本敏夫国務大臣との会談に入っている。この頃、三光汽船問題というのがあって、三光汽船の元社長である河本氏は苦境に立たされていた。首相との話はこれがテーマで辞任うんぬんがやりとりされたといわれている。その会議が終ったのは20時1分。20時16分。藤波官房長官と副長官が公邸に駆けつけて、16分間首相とJAL123便事故について報告が行われている。終了したのは20時32分。その後、官邸の大広間で事故対策本部の初会合が、23時から行われている。しかし中曽根首相がそこに顔を出したという記録はない。翌13日、午前5時30分に就寝中の首相に対して、墜落現場が中曽根首相の出身地の群馬県であることが伝えらたとくに反応がなかったという。首相は最後まで墜落現場には行っていない。
 午後7時1分、大中一佐が、松永空将の捜索機の緊急発進の了承を得て、空自が、自衛隊レーダーサイトの提案を受けて茨城県百里基地から捜索任務のため2機のF-4EJ戦闘機(第305飛行隊の式地豊司尉ら)が緊急発進する。この一番最初の自衛隊出動は上層部の出動要請の前に行われた。F-4が発進したとはいえ百里基地ではMU-2救難機とV-107ヘリが待機中だった。正式な出動要請がこない限り自衛隊は出動できない。航空自衛隊は何度も要請権者に要請を促した。米軍輸送機は偶然近くを通りかかって発見した火災と残骸の位置を知らせるために上空を旋回しつつ救援隊を待ったが、災害派遣命令はなかなか出なかった。 
 午後7時13分。時事ファックスが「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」の至急報。
 午後7時15分。米空軍C―130H輸送機が雲の下に煙を発見。
 午後7時19分。米空軍のC130H型輸送機が現場らしき炎、墜落現場を発見。「1919 Large fire from Yokota, 305, 34.」(「午後7時19分、横田から方位角305度方向、34マイルの地点で大きな火災を発見」)。
 その直後百里基地のF-4EJも墜落現場と山火事を確認、位置を通報した。「横田から方位角305度方向、34マイルの地点」(「炎を確認。横田タカンから300度、32マイル」)。
 午後7時21分。空自百里基地のF-4EJ2機も現場確認。「炎を確認。横田TACAN(無線位置標識)より磁方位300度・32マイル(約51キロ)」と測定結果を送った。
 午後7時26分。報道各社に「日本航空123便が、レーダーから消えた」の旨の第一報が入り、まずTVやラジオが速報で伝えた。
 NHKが7時のニュースの終わり際に速報を読み上げた。「新しいニュースが入りました。羽田空港の空港事務所に入った連絡によりますと、午後6時に羽田を出発しました大阪行きの、日航ジャンボ機の機影が、レーダーから消えたもようです」。
 NHKニュースは墜落現場について二転三転する報道を行った。埼玉県三国山、長野県御座山、群馬県上野村小倉山、同ぶどう峠と様々に伝えた。「NHKは翌日の朝まで墜落地点を長野県北相木村と報じた」とも記されている。「墜落現場の特定がなぜ遅れたか」。それは「遅らされていた」のではないかとの疑惑が残る。救助隊を分散させ、数時間にわたって、御巣鷹山に誰も近づけないようにする何らかの「作為」が働いたのではないかとの疑惑がある。防衛庁は13日の午前2時になってもまだ墜落地点は「ぶどう峠から210°/3マイル」とか、「御座山(おぐらやま)の 南斜面云々」などの情報が新聞社に流されていた。13日の朝、明るくなって 墜落地点が視認されてからも、まだ防衛庁は長野県とか群馬でも5km北西の地点を通報していた。

 テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田の日航の事務所に押しかけて、ごった返していた。しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだった。とうとう朝になるまでわからなかった。しかし、不可解である。JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ米軍機もその墜落地点の上空まで行っている。当時の防衛庁長官であった加藤絋一氏は、当日夜9時頃、救難ヘリコプター・バートル107で現場上空に飛んでいる。
 午後7時30分、中村守雄陸上幕僚長が、東部方面総監部(増岡県総監)に災害派遣を要請する。
 午後7時35分、長野県警が警備二課に日航機墜落事故総合対策室設置。事故に関する情報の収集を各警察署に指示。臼田署が南佐久郡北相木村を中心に捜索を開始。
 午後7時45分、運輸省航空局長室にJAL123便対策本部が設置される。警察庁に日航機墜落事故総合対策室が設置される。
 午後7時45分、藤波官房長官が首相官邸に戻る。
 午後7時47分、中曽根首相が軽井沢から公邸に戻る。中曽根首相はこの時、記者団に事故について問われて初めてこの事故の事を知る素振りを見せている。
 午後7時50分、長野県警警備2課内に日航機墜落事故対策連絡本部、臼田署に日航機墜落事故対策本部、北相木村役場内に日航機墜落事故現地指揮本部が設置される。
 午後7時54分、災害派遣出動要請のない中、百里救難隊のV-107ヘリが”見切り発進”する。航空自衛隊に災害派遣出動要請があったのは午後8時33分。
 午後7時58分、空自百里MU2S発進。
 午後8時、群馬県警警備2課に日本航空機行方不明事故対策室が設置される。

 午後8時16分、政府対策本部の設置が決定される。日本アイソトープ協会から”事故機に医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が92個積載されていた”と警察庁に届け出がでる。

 午後8時21分、長野県と群馬県の県境にあるぶどう(武道)峠より200メートル群馬県側に入った長野県警臼田署のパトカーから、”埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える”との通報が長野県警本部に入る。(地上からの最初の公的目撃報告)。長野県警が、ぶどう峠・三国峠(ぶどう峠の南東方向・埼玉県、長野県の県境)付近で捜索・聞き込みを始める。
 午後8時30分、米空軍C―130Hが上空旋回し、同空軍UH1救難ヘリを誘導する。朝日新聞社のヘリ「ちよどり」羽田発進 。

 午後8時30分すぎ、日航対策本部に高木社長ら役員がそろう。

 午後8時33分、羽田の航空機救難調整本部から航空自衛隊中部航空方面隊司令部(入間)に災害派遣出動要請が入る。これにより空自はやっと正式な災害派遣出動要請を受け自由に動けるようになった。出動要請を待っていたのは航空自衛隊だけではない。陸上自衛隊も群馬県・相馬原の第12師団偵察隊や第12戦車大隊、長野県松本の第12師団第13普通科連隊情報小隊、第13連隊などが出動態勢を整えていたが要請はなかなか出なかった。防衛庁では運輸省への要請催促が行われていた。
 午後8時40分、中空司令松永空将が入間基地を非常召集、30人を先遣隊として出発させる。
 午後8時40分ごろ、防衛庁内に対策本部が設置される。
 午後8時42分、航空自衛隊百里救難隊のV-107ヘリが墜落現場上空に到達。「150~200メートルにわたって山腹炎上、位置は横田タカンから299度、35.5マイル」と報告する。林三佐が現場に到着、米軍の輸送機C-130と交信した。

 午後8時50分、厚木米海軍航空隊基地からの海兵隊救難チームがUH-1ヘリで墜落現場上空に到着。墜落現場付近に海兵隊員2人をラペリング(ロープを使った垂直降下)で降ろそうとするが横田基地司令部からの帰還命令(理由は「日本の救助隊が現地に向かっているから」)を受け中止。それまで上空で旋回していたC-130と共に基地へ帰投する。

 午後9時0分、長野県警が群馬側と確信する。群馬県警が上野村の藤村輔二郎猟友会会長に道案内を依頼する。

 午後9時6分、朝日新聞東京本社のヘリ「ちよどり」が墜落現場上空に到達する。
 午後9時10分、朝日ヘリ「ちよどり」が現場を撮影する。
 午後9時20分、米軍救難隊が帰投前に日本の飛行機を見たと言っている。ヘリではなく飛行機としたらF-4なりMU-2であるからこの時点から多数の航空機が飛来しだしたのであろう。即ちこの時点から空からの救助活動を行うべきであり可能であったはずである(現に海兵隊員は着陸しかけていた)。しかし日本の救難隊は位置を測定しただけで何もしなかった。百里救難隊のV-107ヘリは救難目的で離陸したはずなのに。
 午後9時20分、日航が搭乗者名簿を発表。この間羽田東急ホテルに乗客の家族が集まってくる。
 午後9時25分、5人の医師、看護婦を含む85人の”日航救援隊”(日航現地派遣団)がバスで羽田を出発。目的地は長野県。しかしお盆の帰省ラッシュに巻き込まれる。

 午後9時25分、朝日ヘリ「ちよどり」が現場計測し、「羽田から304度方向60マイル群馬側」とする。

 午後9時30分、航空自衛隊中部航空方面隊が、東京空港事務所長から災害派遣出動要請を正式に受けた。群馬県警警備2課の日本航空機行方不明事故対策室が日本航空機行方不明事故対策本部に切り替えられる。陸上自衛隊に災害派遣出動要請が出る。12偵察隊、13連隊情報小隊が出動。航空自衛隊熊谷基地から地上部隊の先遣隊10人が出発する。
 午後9時30分、是枝空港長が、東部方面総監部に災害派遣を要請する。陸自第12偵察隊(相馬原)と第13普通科連隊情報小隊(松本・小川二尉)計14名が出発する。読売ヘリ127号機が現場を撮影する。
 午後9時39分、長野・埼玉遼県警パトカーが三国峠西北西で赤い煙を発見する。NHK―TVが「御座山中腹で煙を見た」とぶどう峠からの目撃談を報道する。これが日航・警察に通達され、御座山へ移動開始する。

 午後9時40分頃、日航職員の現地派遣団第2陣が羽田を出発。

 午後9時50分、NHKが目撃証言として北相木村の御座山(長野県)に落ちたと報道。その一方で長野、埼玉両県警のパトカーが目撃情報から墜落地点は群馬側と判断する。混乱する情報の中で不正確な位置の測定、未確認情報から墜落現場は御座(おぐら)山とされ捜索隊はそれに従った。しかし朝日新聞の報道ヘリ、地元の住民は正確な位置をつかんでいた。
 午後9時50分、空自百里MU2Sが現場写真を撮影する。
 午後9時59(6?)分、自衛隊空幕が運輸省運用課へ「千葉県嶺岡山のレーダーから消えた位置は北緯36度2分、東経138度41分」と連絡する。墜落現場の位置は長野県北相木村の御座山北斜面に確定したという情報が自衛隊、日航、警察庁、長野県警に流され、現地付近で捜索していた警察は御座山へ移動する。
 午後10時03分、NHK―TVが「御座山北斜面で炎上中」と報道。日航も「御座山北斜面」と正式に発表する。
 午後10時05分、朝日「ちよどり」が羽田格納庫で墜落地点の計測「三国山の北方5km群馬側」。
 午後10時15分、日航職員の現地派遣団第3陣が羽田を出発。
 午後10時30分、政府対策本部が設置される。

 午後10時50分、日航、札幌・大阪地区にも対策本部を設置。朝日「ちよどり」羽田発進再度現場へ。

 午後11時00分、首相官邸で政府対策本部の第1回会合(事故の経過と今後の対策について)が開かれる。群馬県警、上野村山間部の小倉山付近の民家に対して聞き込みを開始。群馬県警、上野村に1000人投入通知。 
 午後11時30分、長野県警が”現場は群馬県内、と判断している”との公式見解を正式発表する。①御座山で残骸見つからず。②上野村のほうへ飛んでいったby菊原孝雄氏」と報告。群馬県警「北偉36度02分東経138度41分by自衛隊」を頼りに船坂山東側の「マムシ岳」付近の捜索開始する。群馬県警機動隊、御巣鷹山方面に向かって捜索を始める。
 午後11時35分、朝日「ちよどり」現場到着。

 午後11時45分、防衛庁に「御座山ではなく群馬県側の可能性」の情報が入る。 


 正確な場所への到着に時間がかかり、地元猟友会・消防団の案内を無視した群馬県警、夜間降下命令のない自衛隊、在日米軍の援助拒否などの「現場到着・救出までの時間の空費」に批判が集中した(放射能汚染を警戒したことや命令系統の縦割りの問題もあったと見られる)。

【8月13日の動き】

 午前0時、警視庁機動隊員200人と埼玉県警機動隊員222人が群馬県警に到着する。

 午前0時5分、防衛庁で山下徳夫運輸大臣主宰の緊急会議としての第1回日航機事故対策会議が始まる。出席者は、加藤長官以下、内局幹部、陸幕長、空幕長。航空自衛隊のMU-2救難機及びV-107ヘリが再度出動する。

 午前0時36分、群馬県警が上野村役場に現地対策本部を設置する。出動人員は他県からの応援を含んで1086人になる。

 午前0時36分、空自入間V-107ヘリ(金子正博一尉)が発進する。
 午前1時、群馬県警、上野村役場に現地対策本部を設置。出動人員は他県からの応援を含んで1086人になる。
 午前1時00分、入間の空自V-107ヘリが再び墜落現場上空に到着し、位置を計測。「入間から291度、36.3マイル」と報告する。その後、着陸灯をつけて長野県警のパトカーを誘導しようとするが失敗。さらに上野村にいた車のヘッドライトをぶどう峠にいるものと誤認し、誤った位置情報を空幕に伝えている。空自静浜から115人が基地出発。
 午前1時5分、羽田東急ホテルから乗客の家族家族39(300?)人を乗せた第1陣のバスが長野県小海町の日航現地連絡本部に向けて出発する。
 午前1時15分、空自入間本隊548人が基地から出発する。
 午前1時30分、陸上自衛隊第13連隊情報小隊や第12偵察隊、第13連隊の本隊が北相木村に到着、御座山北斜面の捜索を始める。中空司令部、空幕運用課に未確認情報として「ぶどう峠から210度3マイル御座山南斜部から1キロ」と連絡。
 午前1時35分、第12戦車大隊、第12施設大隊なども現地に向かっていた。しかしどの部隊も目的地は長野県の北相木村であった。
 午前1時35分、日航派遣団第1陣が長野県南牧村に入る。
 午前2時、市ヶ谷の東部方面総監部から陸上自衛隊大宮駐屯地の科学学校に災害派遣準備命令が下る。「日航123便には医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が積載されていた。その種類、放射能の強度は不明。人員、装備を整え出動準備せよ」。空自熊谷本隊91人が基地から出発する。
 午前2時15分、朝日新聞最終確定版「群馬・長野県境で炎上」、読売新聞「御巣鷹山(群馬・長野県境)付近に墜落」の見出し。
 午前22時20分、防衛庁が、在京社会部に電話で御座山南斜面頂上から1キロ」と連絡。
 午前2時30分、羽田の捜索救難調整部(RCC)から海上保安庁運用司令室に「ドアがはずれた場合乗客が機外に吸い出される可能性がある」と通報が入る。その情報は第3管区海上保安部に伝えられ、駿河湾で行動中だった巡視船「おきつ」・下田港にいた「まつうら」・清水港の「しずかぜ」が捜索を開始した。
 午前2時37分、陸自立川HU1が映像伝達装置付で相馬原へ向かう。
 午前3時4分、群馬県警機動隊が、船坂山南・中ノ沢林道行き止まり地点から長野県境へ向けて捜索を開始。
 午前3時25分、北相木村役場に日航現地派遣団の藤野団長が到着、長野県警と対策を協議する。陸自第13連隊の本隊第12戦車大隊、第12施設大隊到着。第12師団長・合原陸将が「夜明けを待って行動開始」を決定。陸幕了承する。
 午前3時30分、空自先遣隊10人北相木村到着。

 午前3時40分、日航現地派遣団、北相木村役場内に現地対策本部を設置。

 午前3時45分、NHK―TVが「御座山南斜面」と報道する。

 午前3時49分、陸自立川HU1、映像伝達装置付で相馬原へ向かう。

 午前3時50分、空自入間先遣隊が北相木村小学校到着。

 午前3時56分、空自V-107ヘリが入間基地を離陸する。

 午前3時59分、陸自OH6が駐屯地発進。  
 午前4時前、レスキュー隊が墜落現場に向けて動き出す。
 午前4時30分、北相木村役場付近に集結していた自衛隊約700人がぶどう峠から東へ移動する。朝日「ちよどり」三度羽田発進。地元消防団の一部が墜落現場に向かう。 

 午前4時39分、防衛庁発表「V―107三国山西約3キロ、扇平山北約1キロ」。V-107ヘリ、墜落現場上空に到着し123便の残骸を発見。

 午前4時50分、科学技術庁が”アイソトープは人体に支障なし”と発表する。この間(4時半頃)県警の指示の遅さにしびれを切らした地元の消防団の一部が墜落現場に向かい出す。後にこの消防団員達が生存者を発見することになる。
 午前4時50分、科学技術庁が「アイソトープは人体に支障なし」と発表。空自入間本隊548人が基地から出発。
 午前4時55分、 陸自立川HU1「三国山北西約2キロで機体視認」。

 午前4時58分、東京の日の出時刻。


【現地一番乗り民間人の証言】
 「JAL123便墜落事故・自衛隊員への銃撃・更に連続自殺⇒パイナップル・ブリゲイズ」。

 何十人ものうめき声を聞いている。

 午前5時5分、群馬県警藤岡署から藤岡市総務部長の自宅に遺体収容所や家族待機所の提供要請が入る。
 午前5時10分、防衛庁発表「御座山東方約5㎞」。先のV-107ヘリの位置報告は「三国山西3㎞、扇平山北約1㎞」、陸上自衛隊のOH-6ヘリの位置報告は「御座山東方約5㎞」と報告結果はバラバラであった。
 午前5時10分、陸上自衛隊のOH-6ヘリが墜落現場を確認する。
 午前5時33分、V-107ヘリが「三国峠の340度3~4キロ3㎞で機体確認」と報告。
 午前5時37分、長野県警のヘリ「やまびこ」が墜落現場を確認する。「御巣鷹山南南東約2㎞、県境から東方に700m。現場は群馬県側」と報告する。
 午前5時40分、空自熊谷本隊91人が北相木村役場到着。

 午前5時45分、上野村消防団員に出動命令が流れる。

 この時点での日航総括レポート「陸上自衛隊第12師団の発表によれば「御座山東7㎞、南4㎞の地点に白い尾翼発見。さらに500メートル離れたところに黒こげ物体発見」。12師団は1000名出動。長野県警の発表によれば御巣鷹山南南東2㎞、県境の東700mのところに墜落物体発見」。 

 午前5時50分、空自百里RF4E偵察機2機が写真撮影で発進する。

 午前6時15分、陸自立川HU―1が東部方面総監部に映像伝達。
 午前6時30分、観測ヘリから陸上自衛隊東部方面総幹部に現場の画像が届く。それを見た幹部は部隊をヘリからラペリング(懸垂降下:地面に垂直なロープによって人員を降ろすこと)で降ろすことに決定、習志野駐屯地の第1空挺団の編成が開始される。
 午前6時40分、空自静浜115人が北相木村小学校到着。
 午前6時50分、日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろした方が得策」と現地派遣団から連絡が入る。
 午前7時、群馬県警機動隊40人が上野村猟友会会長の案内で本谷林道から現場へ向かう。上野村消防団の全8分団も中ノ沢と本谷の2つの林道に分かれて現場に向かう。松本連隊情報小隊14人が長野県側から入山する。

 午前7時10分、海上保安庁、航空機で海上捜索。

 午前7時30分、日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろす。検死は上野村小学校で行い、遺体の安置は藤岡市民体育館、遺族休憩所は安置所付近に設置予定」と警察庁から連絡が入る。※結局全て藤岡市民体育館になった。

 午前7時54分、陸上自衛隊第1空挺団(重高昭教一佐)73人の部隊が習志野駐屯地をヘリで離陸発進する。

 午前7時55分、長野県臼田町営グラウンドから長野県警ヘリ「やまびこ」に乗り込んだ長野県警レスキュー隊の隊員2人が現場から2,3㎞下流の沢にロープを使って降下する。

 (13時間後に救助開始)
 午前8時30分、午前4時前に出発したレスキュー隊()が墜落現場に到着する。現場に一番早く到着したのは、土地勘を有し、山ですべりにくい地下足袋をはき、日の出とともに登った地元の消防団であった。但し、最も早く現場に到着したはずの地元消防団員たちは、彼らが朝9時頃現場に到着したところ、「自衛隊員がすでに山の上から降りてきた」と証言している。

 救助活動の遅れについては、アイソトープの積載原因説が云われたことがある。当機には医療用アイソトープ(放射性物質)が92個積載されていたため、当墜落事故では放射能汚染による二次災害と云うものが大いに懸念されたと云う。この点については、科学技術庁により翌朝の04時50分に、「そのアイソトープは人体に支障なし」との発表がなされるまで、墜落から約9時間が経過している。これを逆に云うと、現場近くに入山した自衛隊員(14名)は、アイソトープ情報のため現場を見ながら約2時間待機したということでもある。その頃には県警の指示の遅さにしびれを切らした地元の消防団員の一部が、墜落現場へ向かい出していた。

 救助活動の開始がもっと早ければ、もっと多くの生存者を救出できたはずとの非難の声がある。この救助活動の開始に遅れがあったため、自衛隊・米軍等の行動が疑われ、事故原因に関して自衛隊、米軍等の関与説まで飛び出し、今も、その説が根強くある。この点、墜落現場での安全確認が出来ていない科学技術庁が、「そのアイソトープは人体に支障なし」と発表することは、相当な英断であったろうと思われる。結果的には、この英断が、幸いにも四人の生存者の救出に繋がっているようにも思われる。
 午前8時35分、警視庁ヘリ「おおとり」上野村からレンジャー8人乗せ現場へ向かう。

 午前8時49分、第1空挺団、尾根の上の墜落現場に直接ラペリング降下を開始する。

 午前9時まえ?、立命館大学深井教授一行4人が墜落現場に到着する。教授一行が現場入りした時間ははっきりしていない。証言によると”現場に入った時、周りは静まり返っていた”とあるから空挺団が現場入りする前に到着していたのかもしれない。深井教授はこの他にも「奇妙な証言」をしている。消息を絶ってから13時間が過ぎていた。

 午前9時00分、山下運輸大臣による第2回対策会議。
 午前9時20分、松本連隊情報小隊14人が墜落現場直前に到着する。この部隊は現場を目前にしながらも2時間後、本隊300人と合流するまでアイソトープ情報のために待機し続け、現場に入らなかった。すでに東部方面総幹部からアイソトープの無害発表が出ていたのだが現場までにそれが通じていなかったのだ。
 午前9時25分、長野県警レスキュー隊の2人が水平尾翼の落下現場に到着する。
 午前9時30分、第1空挺団、陸幕に「降下地点、目下生存者なし」と報告。上野村消防団第5分団が墜落現場に到着する。松本連隊情報小隊14人が墜落現場直前に到着する。
 午前9時48分、藤岡公民館に日航対策本部が設置される。

 午前9時54分、第1空挺団73人の降下が完了する。

 当日、中曽根首相は軽井沢の別荘にいて事故のことを知らなかったと報道されている。次の日、東京にもどって車を降りた時、記者達から事故の件を知らされたところ、中曽根のすっとぼけた表情がテレビに映されている。「本当に知らない意外な事実を知らされてびっくりした時の顔と、知っていながら知らないふりをするときのとぼけた顔の違いはテレビを通してより一層わかるものである」とコメントされている。
 午前10時00分、政府が第2回対策本部会議。
 午前10時15分、群馬県警機動隊が墜落現場に到着する。立命館大学の深井教授一行4人が墜落現場に到着する。

 午前10時20分、警視庁ヘリ「おおとり」のレンジャー部隊8人、遺体捜索。

 午前10時40分、長野県警レスキュー隊の2人が墜落現場に到着する。長野県警レスキュー隊、スゲノ沢に降りる途中に上野村消防団5・6人と合流。

 午前10時40分、空自YS―11、現場上空で管制活動。
 午前10時45分、第12師団第3次偵察部隊の2人(関根貞夫二尉、小林幹夫一曹)と第1次隊の2人が墜落現場に到着する。この後は時間が経つにつれ墜落現場に(報道関係も含めて)どんどん人が入ってくる。

 午前10時54分、長野県警レスキュー隊員が生存者を1人発見。

 午前11時、第12師団偵察部隊、上野村消防団と合流し上方の空挺団に生存者発見を連絡する。

 午前11時3分、長野県警レスキュー隊員が生存者を2人発見。

 午前11時5分、長野県警レスキュー隊、上野村消防団が生存者を1人発見。

 午前11時30分、現場からのテレビ生中継が始まる。日航現地本部、北相木村から上野村へ移動。

 午前11時45分、政府対策本部から日航に「運輸大臣、航空局管制保安部長、官房副長官らが現地に向かう予定」と連絡が入る。
 午後12時30分、日赤の医師1人、看護婦3人がヘリコプターで墜落現場の尾根に到着、生存者の応急処置を開始。
 午後12時45分、運輸省から日航に「事故調査委員会12人をヘリで現地に派遣する」と連絡が入る。
 午後13時29分、生存者4人の自衛隊ヘリつり上げ収容開始。
 午後13時40分、高木日航社長が藤岡市公民館現地対策本部に到着する。
 午後14時8分、生存者2人(吉崎博子さん、落合由美さん)を乗せた自衛隊のヘリがが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸。
 午後14時12分、生存者2人(川上慶子さん、吉崎美紀子さん)を乗せた東京消防庁のヘリが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸。
 午後14時13分、先の生存者2人が多野総合病院に着く。後の2人も同じ病院に搬送され応急手当が始まる。
 午後15時21分、川上さんが国立高崎病院に移送される。
 午後16時15分、遺体安置所が第1小学校体育館と藤岡市市民体育館に変更される。
 午後17時00分、山下運輸相、藤岡北中学校で遺族に対し陳謝。運輸省航空事故調査委員会が13日の調査を実施しないことに決定する。

【8月14日の動き】

【中曽根首相の舌先三寸ぶり考】
 事故当時、中曽根首相は、記者会見や国会答弁において、次のようにいっている。概要「1.事故原因は徹底的に究明する。2.人命最優先でことに当る。3.遺体の捜索は最後の一体まで行う」。これがその通りになるのなら良い。実際には、中曽根首相は、正反対の姿勢で処理している。「事故原因の究明」について云えば、尾翼の海底調査を行う必要があるとして特別予算を計上したのに、これを行った形跡がない。「人命優先」について云えば、事故が起きた当日の午後7時過ぎには墜落場所が確認されている筈なのに「行方不明」として朝まで発見を引き伸ばしている。墜落直後には相当の生存者がいたことが生存者の証言によって明らかになっており見殺しにされたことになる。「遺体の捜索」について云えば、古屋国家公安委員長は、事件後9日にして「全遺体の収容は困難、捜査の打ち切り」を首相に進言し、少しでも早く合同慰霊祭をして事件の幕引きを図ろうとしている。中曽根首相は何らリーダーシップを発揮することがなかった。

 この時の中曽根首相が次のように評されている。
 「中曽根康弘が次のように述べている。『死ぬまで言えない事がある。墓場までもっていく』云々。要するに、日航ジャンボ機123便墜落事故には総理だった中曽根だけが知っている真相がある?」。

【中曽根首相の撃墜命令考】
 「桐沢 凛々子2013年8月12日」。 中曽根康弘「JAL123便は私が撃墜命令した」。JAL123便は自衛隊が撃墜した。憶測混じりなので、れんだいこ的取捨選択により纏める。
 http://johnbenson.cocolog-nifty.com/…/2009/03/post-3143.html
 中曽根は地元なのに事故現場視察や慰霊に行ってない! 地元なのにおかしい。 しかも首相の頃の事故である。これに関連する中曽根元総理の別荘における盗聴されたとされる発言がある。それが真実であるか否かは闇の中である。その中の言葉に官邸からの矢の催促の撃墜命令要請に対して 「私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない」の言葉が伝えられている。「国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう」。「目撃者が出たらどうしますか」に対して「何とかしろ」。「殺せという意味ですか」に対して「私をこれ以上人殺しにするつもりか」と怒鳴り、「何とかしろは何とかしろという意味だと」怒鳴っていた。

 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/manifesto/1288493643/
 http://www16.atwiki.jp/911next/pages/15.html
 http://blog.goo.ne.jp/ya…/e/31b8776d983469bad82ffec40288122b

 ★中曽根康弘

 ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。  

 JAL123便日航機墜落事故の真相は核兵器運搬の証拠隠滅だった!日本は既に核武装国である!自衛隊、米軍、ロシア軍が死闘の末全機撃墜される!想像を絶する軍事衝突の真実とは?
 http://www.news-us.jp/article/286164530.html

 http://wonderlist.web.fc2.com/file/rekishi/002.html

 事故調査委員会の結果を待たずに、ボーイングが圧力隔壁の終了ミスを認めたのは、訴訟社会のアメリカの企業としてはあり得ない対応策と言われています。 米軍に寄る早期救出が中止されたり、非常に疑問の残る事故です。 状況証拠からは、何か裏があるのは間違いないと思います。 日航のパイロットの間でも不自然な点が多くしてきされています。

 JAL123便は自衛隊が撃墜してる民間人が撮ったという写真はあったが、特撮扱いされこの報道は消された。まるで中国のやってることと同じだ。航空機の真後ろに自衛隊戦闘機が飛んでいてその間には火柱があった。複数の目撃者がいて報道もされたのになぜここまで隠蔽するのか。 「不時着後も自衛隊がミサイル攻撃を続けていた」 と言ったアメリカ政府のコメントした報道はどこへ消えたか。

 http://www.asyura2.com/09/lunchbreak27/msg/669.html
 日航ジャンボ123便 生存者は自衛隊員がアーミーナイフで殺害していた 。

 http://www.asyura2.com/09/lunchbreak27/msg/1220.html
 日航ジャンボ123便 ある隊員はベルトに巻かれて動けなくなっている元気な生存者を‥

 日航ジャンボ123便 ある隊員は、証拠に残らない薬品の入ったガラスの分厚いビンを各生存者へ‥
 http://www.asyura2.com/10/lunchbreak35/msg/418.html

 ネット上にあれだけ書き込みされているのに、マスゴミが一切報道しないのはやっぱ変。電通顧問である中曽根が死んだら電通どうなるか? 中曽根ナベツネ読売、電波芸者テリー伊藤みのもんた・・・・・ 売国奴も中曽根親子もナベツネも読売も日テレもマスメディアも・・・ 日本を売り破壊する大悪党=官僚、自民党も・・・すべて日本人ですよ

 JAL123便墜落事故に海上保安庁長官の疑惑
 http://s1.shard.jp/deer/0202/6/153_2.html
 長官就任の日付と退官の日付が、強烈に墜落事故を示唆する。 この航空機事故は、遠隔操作による無 人航空機の墜落事故だった可能性が大きい。生存者の救出状況を検証すると、「やらせ」の疑いが大きい。
 ( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/index.html )

 123便墜落の真相
 ttp://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4121599.html
 ttp://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4230997.html
 ttp://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4276638.html

 日本を売り渡した男たち 第一回 中曽根康弘
 http://www.rokusaisha.com/0test/kikan/book-bakudan1.html
 http://www.rokusaisha.com/

 中曽根がしでかした日本経済転落の契機となったプラザ合意と ロッキード事件P3C疑惑の関係。

 JAL123便墜落事故の日時は設定された

 http://s1.shard.jp/rabbit1/0202/6/153_2.html

 中曽根が自分の『天地有情』の中にも『回顧録』の中にも書いてます、俺はCIAのテストを受けた、 英語もあった、論文も書いた、パスした、自分から進んでCIAのテストを受けたちゅーことですね。 それで彼はアメリカに派遣されます、で中曽根は自分で自慢げに書いてますけど、 色んな原子力発電所の法律は俺がみんな作ったってね、野党改進党です、自民党、自由党時代で、その野党の若造が作れるはずがない、そこの背後にCIAがみんな絡んでます。 そうして日本に原子力発電所ができるんです、東電とか関西電力に作れています。 だけどまったくやってないことなのにやれというわけですから、無理があったわけですね。 無理がありました、だから今日、福島が事故があるのはそこなんですよ。

 でブラックボックスといって触ってはいけない、中を見せないような状態なのに原発が日本に来ます。だから今の福島のある原発はGEが開発して間もなくて危険極まりないのに、 彼らは無条件に入れて信じきったわけです、だから無条件に入れてそしてその数年後に、 欠陥商品であるということがわかるわけです、設計者が言うわけですよ、あれは間違ってたって。 だけどアメリカは、その「マーク1」ていうんですけど最初のやつが、まだいっぱいあります。 その設計をし直したり、色んな部品をつけ直したりして、ずうっとやってきてるわけですよ。 日本はまったくやらないまま四十年間、欠陥商品をそのまま使い続けてきたわけです。
日本は四十年間経ってるのに、「危ない」とGEも原発を作ったジェネラルエレクトリックも、 報告書を東電に差し上げたのに日本は改善一つしない。
 http://www.youtube.com/watch?v=TuVjmXdufS4

 でみんなが安全だと思わせるために凄い金を使ったわけですよ。 その金が全部電気代になってる、ということをみなさんは知らないといけないんです。 日本の電気料金は世界の電気料金の三倍なんです、三倍ですよ、でまだこれから上がります。 彼らはみんな太ったわけです、だから自民党の政治家も民主党の政治家も、 ほとんど反対しないじゃないですか、今でさえ反対の声上げないじゃないですか。
ここまで福島の人が苦しんでいるのに何をやってるんだと。
 http://www.youtube.com/watch?v=3glGABd52fk

 ハワイ編入が米国大統領によって宣言されたことに意味があった。

 ( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/index.html )

 みんな、 政治の裏はバラしても、「本丸の世界の裏」はバラさない。 つまり、寸止め。(笑) 命の危険を冒して、バラしているのは、ベンジャミン・フルフォードとリチャードコシミズくら いでしょ。 ? 裏世界の大筋はこれを観れば分かります。
 → http://www.youtube.com/user/amenouzumei#g/u    

 既に、日本は危険な状態なのに、いい加減に、気づかないと、手遅れになってしまうと思います・・・・


【墜落地点の意図的誤報考】
 墜落地点を米軍は確実に捉えていた。自衛隊も正確に捉えてた。にもかかわらず、防衛庁自衛隊はわざと誤報を連発し、墜落地点を明朝まで隠蔽した。墜落後25分で米軍機Cー130が墜落地点と見られる火災を発見、それ から1時間近くも経過してから墜落地点から8キロも離れたぶどう峠の長野県側が現場だとの怪情報が流された。墜落から2時間15分後には、米軍情報に基づいて、朝日新聞社のヘリによって墜落現場が再確認され、写真撮影に 成功している。その3時間後に自衛隊が運輸省や警察に通報した地点が約4キロも北にずれた場所で、群馬県なのに、なぜかその地点が、長野県側であるとの誤った情報までつけ加わっていた。防衛庁は13日の午前2時になってもまだ墜落地点は「ぶどう峠から210°/3マイル」とか、「御座山(おぐらやま)の 南斜面、頂上から1」などの情報が新聞社に流されていた。13日の朝、明るくなって、 墜落地点が視認されてからも、まだ防衛庁は長野県とか、群馬でも5km北西の地点を通報していた。これについては、「単なる誤りとは考えにくい。現地に人を 近づけないようにしたのではないか?」との疑問の声が当時から出されていた。

 1995年8月27日付の米軍の準機関紙である「スターズ アンド ストライプス」紙にMICHAEL ANTONUCCI氏の証言が発表された。「米軍がなぜ現地に降下しかけていた厚木基地の救助ヘリや、最初に 現場上空に到着していたCー130輸送機に引き返しを命じたのか」、「そのことをなぜ口止めしたのか」云々。

【NHKの救助に向かった自衛隊員を射殺報道考】
 「自衛隊・救助に向かった自衛隊員を射殺・NHK第一報」。翌日のNHKニュースの初報で、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨を報道している。NHKアナ「ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に向かった自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。 続報が入り次第お伝えします」 。NHKアナ「先ほど自衛隊員が何者かに襲撃され 死者が数名出たとお伝えしましたが、誤報だった模様です」。

【角田四郎氏の目撃談考】
  007年09月03日「●墜落場所は早くからわかっていた(EJ第1061号) 」。
 JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の自衛隊機の存在はこの件に関するマスコミ報道では完全に伏せられています。 しかし、この2機の自衛隊機を目撃した人物がいます。その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャンプをしていて目撃したというのです。 後になって、角田氏は、JAL123便事件解明のため『疑惑/JAL123便墜落事故』という本を出しています。この本から、角田氏自身の目撃状況をご紹介します。
---------------------------------------
 このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市 と神奈川県相模湖の中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回しようとする地点である。18時42分頃になる。そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かっ たであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊機を私は見た。その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし、 今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。 「あれはさっきの飛行機[JAL12便]じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登ていった。この間5~6分の出来事である。――角田四郎著、 『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊
---------------------------------------
 2機の自衛隊機の目撃情報は角田氏だけですが、防衛庁側はこれに対して何もコメントしていません。 自衛隊機がこの付近の空を飛んでいても別に不思議ではないからです。 角田氏自身もあとでJAL123便の墜落を知って、自衛隊機とJAL123便とをはじめて結びつけたのです。 ところで自衛隊機はどのようにして、JAL123便の進路を変更させたのでしょうか。 自衛隊機は無線で直接JAL123便と交信して旋回するよう指示したか、あるいは、航空基地を経由しての交信により横田基地に着陸しないよう伝えたはずです。 おそらくJAL123便の機長は、あくまで横田基地着陸を訴えたはずです。機長が当初「羽田に戻りたい」といったのは、羽田空港の方が、救急医療体制が整っているからです。 いずれにしても、まともな着陸はできないと考えていたのでしょう。
 
 しかし、機を完全にコントロールできないこともあり、この時点では横田基地しか選択肢はなかったはずです。とにかくボイスレコーダには、自衛隊機とのやりとりは記録されていないので、推測するしかないのですが、もしかしたら自衛隊機の指示を拒否したことも考えられます。このことを裏付けるようにJAL123便は横田基地に向けて高度を下げつつあったのです。そこで、自衛隊機はJAL123便の前方に出て、飛行進路を遮断するなど妨害し、埼玉・長野・群馬の県境の山岳地帯に向かうよう強引に左旋回飛行指示を出しているのです。 これに対して、JAL123便の機長は、あくまで「ターンライト」を主張して抵抗しています。しかし、結局、横田基地から北方向に向かわされ、御巣鷹山に入っていくことになります。この2機の自衛隊機の存在を肯定すると、JAL123便はエンジンの出力調整によって何とか左旋回できたことになります。 ここで奇妙なことは、JAL123便は何者かにミサイルなどで攻撃され、垂直尾翼を破壊された「被要撃機」になっているという事実です。
 
 この場合、既に述べたように、自衛隊による日本の防空上の規定では、スクランブルをかけられた領空侵犯機と同じ扱いになることです。もし、領空侵犯機がスクランブルをかけた軍用機の指示に従わないときは、攻撃してもよいことになっているのです。 このようにして、JAL123便は、2機の自衛隊機によって御巣鷹山のある山岳地帯に入っていくのですが、どのようにして墜落したのかについては、あとで明らかにするとして、墜落直後の状況について述べることにします。
 
 墜落事故のあった1985年8月12日――私は今でも鮮明に覚えていますが、テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田の日航の事務所に押しかけて、ごった返していたのです。 しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだったのです。私は13日の午前2時頃まで起きていて、テレビを見ていましたが、とうとう朝になるまでわからなかったのです。 しかし、今となって考えると、これは実に奇妙な話なのです。というのは、JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ、米軍機もその墜落地点の上空までは行っているからです。 当時の防衛庁長官であった加藤絋一氏は、当日夜、救難ヘリコプター・バートル107で現場上空に飛んでいるのです。 これを受けて防衛庁では13日の午前0時5分から、緊急会議を開いています。出席者は、加藤長官以下、内局幹部、陸幕長、空幕長です。ですから、加藤長官はそれ以前の時間に――午後9時頃ではないかと考えられますが、墜落現場の上空までヘリで視察しているのです。しかし、少なくともそのとき、乗客・乗員の救助は行われていないのです。 もちろんその間テレビでは相変わらず「捜索中」が繰り返されていたのです。なぜ、発表しないのでしょうか。 なぜ、墜落場所が特定できていたのに、なぜ、いち早く救助に向かわなかったのでしょうか。 こういう問いかけに防衛庁、政府関係者は完黙の構えです。だからこそJAL123便の墜落事故に自衛隊が深くコミットしていたと考えざるを得ないのです。

【米軍救助拒否考】
 「自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号) 」。
 ( http://intec-j.seesaa.net/article/53856463.html
 2007年09月04日
 ●自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号)

 1994年9月25日のことです。テレビ朝日「ニュース・ステーション」では「米軍幻の救出劇」と題して、御巣鷹山日航機墜落事故関連の番組を放映しています。 1985年8月12日当日、沖縄嘉手納基地から横田基地に帰投中の米軍C-130輸送機は関東南A空域にさしかかっていたのです。そのとき、同機のマイケル・アントヌッチ航法士(ナビゲーター)は、横田基地からJAL123便の探索命令を受けたので、一帯を捜索した結果、午後7時30分前にJAL123便の墜落現場を確認しています。 番組では、マイケル・アントヌッチ航法士が次のようにいっています。
-------------------------------------
 あたりはちょうど夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさでした。燻る機体も炎も見えた。 ――アントヌッチ航法士
-------------------------------------
 米軍C-130のジョン・グリフィン機長は、JAL123便の残骸の上空600メートルで旋回飛行をし、横田基地からの位置を測定し、20分後には正確な墜落場所の位置を横田基地に知らせているのです。午後8時30分になって、横田基地からC-130に再び連絡が入り、「60キロ離れた米陸軍キャンプ座間から救難ヘリUH-1が、そちらに向かっている」と知らせてきたのです。 やがて救難ヘリUH-1は飛来し、乗員2人を下ろそうとして木の梢から15メートルのところまで降下したのです。 そのときC-130に横田基地からいきなり「直ちに基地に帰還せよ」という命令が入ったのです。 しかし、ヘリは「救助に入りたい」――と連絡。これに対して、横田基地の司令官は「日本側の救助隊が向かっている。 繰り返す直ちに基地に帰還せよ」と短兵急に帰還を命じたのです。 時刻は午後9時20分――地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていったのです。 そしてC-130は横田基地に帰還するのです。横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団のジョエル・シルズ副司令官――グリフィン機長が報告を終えると、シルズ副司令官は「良くやった。 しかし、このことは一切マスコミには話してはいけない」といったといいます。 このヘリの音を生存者の落合由美さんは聞いており、次のようにいっています。
-------------------------------------
 やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたので す。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていまし た。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右 手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、 遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。 ――――――― 落合由美さんの証言
-------------------------------------
 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。 米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。 それなのにテレビでは、次の日の朝まで墜落場所を特定できていないと報道しているのです。これは明らかに意図的です。 加藤紘一防衛庁長官(当時)にいたっては、12日の夜に墜落場所の上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、次の日の朝まで放置したのです。

 C-130の航法士、マイケル・アントヌッチ氏は『週刊文春』1995年9月28日号でも次のようにいっています。
-------------------------------------
 あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたとき たまたま近くを飛んでいた。 現場はすぐに確認できた。墜落2時間後には、アメリカ海軍(陸軍?)の救助ヘリが着いた。 あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。日本の救援隊が現場に着いたは、その14時間も経ってからというではないか。 ――『週文春』1995年9月28日号より。
-------------------------------------
 これに対して防衛庁は、米軍ヘリが墜落現場上空に到着し、救助寸前であったことについて次のように否定の見解を示しているのです。
-------------------------------------
       「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」 ―――― 防衛庁
       「当時の記録がないので、ノーコメント」 ―――― 米国防総省
-------------------------------------
 そのうえ、自衛隊の松永貞昭中部航空方面司令官(当時)は次のようにコメントしているのです。
-------------------------------------
       「夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である」 。
-------------------------------------
 これに対して、米陸軍救難ヘリのスタッフは次のように反論しています。
-------------------------------------
 「陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん、1980年代 から、夜間暗視装置を標準装備しており、夜間でも急斜面でも、救急隊員であれば、だれでも降下できる」
-------------------------------------
 その頃、墜落場所付近では奇怪なことが起きていたのです。 ・・・[御巣鷹山事故の謎/12]





(私論.私見)