8.12日、123便墜落事故が起こった日、中曽根首相は「身内」と一緒に軽井沢で休暇を過ごしていた。この時の「身内」が誰であるのか明らかにされていない。
事件の真相考その6、中曽根官邸の奇奇怪怪の動き考 |
更新日/2017(平成29).8.26日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「事件の真相考その6、中曽根官邸の奇奇怪怪の動き考」をものしておく。中曽根論については「Re11代、中曽根康弘」参照のこと。 2008.10.25日 れんだいこ拝 |
【「事件一カ月後のプラザ合意」について】 |
この大事故の一ヶ月後の9月22日アメリカ、日本、西ドイツ、イギリス、フランスの先進5カ国がニューヨークのプラザホテルで蔵相・中央銀行総裁会議 いわゆるG5のプラザ合意がなされた。人為的為替市場介入が行われたのである。 そして、このプラザ合意は円高に拍車をかけ、バブル経済を呼び、ビッグバンへと向っている。 |
【「日航機を爆破した」との怪電話について】 | |||
「日航ジャンボ機 御巣鷹山墜落の真相」を参照する。「日航機を爆破した」との怪電話が、防衛庁と日航にかかってきていたと報道されている。これを事故発生の翌日(1985年8月13日)に、産経新聞と山陰中央新報が報じている。その情報の詳細は、1985年8月12日午後7時48分頃、防衛庁に電話がかかり、中年の男の声で過激派と名乗り、「国防会議議長は中曽根総理だな。総理に伝えてもらいたい。日航機を撃墜した」と一方的にしゃべって電話を切った。また同日、午後8時3分頃、日本航空東京支店にも電話がかかり、過激派と名乗り、中年の男の声で、「われわれのちからで爆破した」と云うものでした。これを伝えた産経新聞社記事は次の通り。
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【当日の中曽根首相の軽井沢「ホテル鹿島の森」での様子考】 | ||
8日の夜から夏休みで軽井沢「ホテル鹿島の森」に滞在していた。
8.12日、123便墜落事故が起こった日、中曽根首相は「身内」と一緒に軽井沢で休暇を過ごしていた。この時の「身内」が誰であるのか明らかにされていない。 |
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「日航123便と軽井沢の首相<本澤二郎の「日本の風景」(3403)」 によると、(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)の本澤二郎氏の「日本の風景」(3403)、2019年8月13日記」が「在京政治部長会とのゴルフを止めて上京した中曽根康弘」の見出しで次のように記している。
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【「中曽根首相の別荘における盗聴発言」について】 | |||||||||||||||
「中曽根首相の別荘における事件指揮発言の盗聴」が一部で流布されている。「2007.04.04御巣鷹山日航ジャンボ機事件の真相」その他参照。
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【中曽根首相が、軽井沢から東京の官邸に向かう時の様子考】 |
8.12日17時11分、中曽根首相が、軽井沢駅を発車する特急「あさま22号」に乗り東京に向っている。この時刻は、18時04分、日航123便が羽田空港離陸の1時間前である。思うに、怪人21面相派が123便に搭乗することが確認でき、官邸に向かったのではなかろうか。
18時52分、「あさま22号」が大宮着。4分後の18時56分26秒、123便が群馬県多野郡上野村にある標高1639mの「御巣鷹山」(おすたかやま)に墜落している。 19時15分、「あさま22号」が上野着。中曽根首相は、上野駅から公邸まで、自動車電話の付いている首相専用車に乗る。 19時47分、公邸に到着。 この間、日航123便墜落は中曽根首相の耳に届いているはずであるが、表向き「首相への報告はなかった」とされている。依田秘書官の言によれば、「行方不明という情報だけではどうしようもないので報告しなかった」としている。これらは、中曽根首相の123便墜落事件との関わりを外す為のフェイク情報であろう。首相は公邸前で待ち受けている新聞記者から123便事故のことを聞かれ、「ほぉー、どこで?」と驚いたという。中曽根の驚きの様子は特異のお惚けでありフェイクであろう。問題は、この時のやり取りそのものが存在しないかのようにネット上から消されていることである。 官邸にいたのは平沢官房長官秘書官である。平沢氏は、警察官僚出身で中曽根首相とは非常に関係の深い議員である。その平沢秘書官には、19時頃つまり墜落直後に運輸省航空局、防衛庁、警察庁から相次いで報告が入っていた。平沢秘書官は直ちに藤波官房長官に連絡をとって第一報を入れている。このときは官房長官と連絡がとれている。それから30分近く連絡がとれず、やっと連絡が取れて、平沢秘書官は藤波官房長官に二度目の報告を次のようにしている。「JAL123便の大坂着予定時間を過ぎました。事故発生は、ほぼ間違いないと思われます。大至急お戻りください。平沢勝栄官房長官秘書官」。 19時45分、藤波官房長官が官邸に戻る。その2分後、中曽根首相が公邸に戻る。「依田秘書官が、はじめて事故の状況を立ち話で首相に伝えている」としているが、これもフェイクであろう。 19時48分、中曽根首相が、予定に組まれてあった河本敏夫国務大臣との会談に入っている。 この頃、三光汽船問題があり、三光汽船の元社長である河本氏は苦境に立たされていた。首相との話はこれがテーマで辞任云々がやりとりされたと云われている。20時1分、その会議が終る。 20時16分、藤波官房長官と副長官が公邸に駆けつけて、16分間、首相と123便事故について報告が行われている。20時32分、終了。 23時、官邸の大広間で事故対策本部の初会合が行われている。中曽根首相がそこに顔を出したという記録はない。実際に居なかったのか、いたけれども居なかったことにしているのか分からない。 翌13日午前5時30分、就寝中の首相に対して、墜落現場が中曽根首相の出身地の群馬県であることが伝えられている。「特段の反応がなかった」と云う。 この間、加藤紘一防衛庁長官の動きが消されている。事故発覚後当時の中曽根総理および加藤糸広一防衛庁長官が対応を協議している。その場で、事故直後の犯行グループの一味からと思われる「日航機を爆破した」などの犯行声明が内閣府や日航宛てに届けられた点を含めて協議している。12日の夜、墜落場所の上空までヘリで飛来している。但し、救援を指示せず次の日の朝まで放置している。これらの動きが全て隠蔽されている。 事故調査にあたっていた前橋地検の山口悠介検事正は、「事故原因を、ぎりぎりまで追究すれば、戦争になる!」と発言している。 |
【中曽根首相の舌先三寸ぶり考】 | |
事故当時、中曽根首相は、記者会見や国会答弁において、次のようにいっている。概要「1.事故原因は徹底的に究明する。2.人命最優先でことに当る。3.遺体の捜索は最後の一体まで行う」。これがその通りになるのなら良い。実際には、中曽根首相は正反対の姿勢で処理している。「事故原因の究明」について云えば、尾翼の海底調査を行う必要があるとして特別予算を計上したのに、これを行った形跡がない。「人命優先」について云えば、事故が起きた当日の午後7時過ぎには墜落場所が確認されている筈なのに「行方不明」として朝まで発見を引き伸ばしている。墜落直後には相当の生存者がいたことが生存者の証言によって明らかになっており見殺しにされたことになる。「遺体の捜索」について云えば、古屋国家公安委員長は、事件後9日にして「全遺体の収容は困難、捜査の打ち切り」を首相に進言し、少しでも早く合同慰霊祭をして事件の幕引きを図ろうとしている。中曽根首相は何らリーダーシップを発揮することがなかった。
この時の中曽根首相が次のように評されている。
中曽根が、123便墜落事故にまつわる真相のすべてを「墓場まで持っていく」と公に発言したことに対して、その真意は国鉄分割民営に関する話であり、「国鉄分割民営の本当の目的が国鉄の経営再建ではなく特定の労働組合つぶしが目的だったことです」なる言が蒔かれている。これは為にする悪質な論であり、すり替え以外の何物でもない。そもそも「国鉄分割民営化の真の狙いが特定の労働組合つぶしだった」として、それは何も「墓場まで持って行く話」になるものかは。人を誑かすのもエエ加減にセンカイと言いたくなる。 |
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【中曽根首相の撃墜命令考】 | |||
「桐沢 凛々子、2013年8月12日」。 中曽根康弘「JAL123便は私が撃墜命令した」。JAL123便は自衛隊が撃墜した。憶測混じりなので、れんだいこ的取捨選択により纏める。 http://johnbenson.cocolog-nifty.com/…/2009/03/post-3143.html
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【角田四郎氏の目撃談考】 | |
007年09月03日「●墜落場所は早くからわかっていた(EJ第1061号) 」。
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【米軍救助拒否考】 | ||||
「自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号) 」。 ( http://intec-j.seesaa.net/article/53856463.html )
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「告発・日航機123便事件」。
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【1985年前後の主な政治事件】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1985年前後の主な政治事件を確認する。
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(私論.私見)
だから、その「墓場まで持って行く」云々の話は日航ジャンボ機墜落事故ではなく、国鉄分割民営に関する話だってば。そしてその墓場まで持って行くはずの話も、もう語っちゃっているし。
中曽根氏が「墓場まで持って行く」はずの話は、国鉄分割民営の本当の目的です。国鉄の経営再建ではなく、特定の労働組合つぶしが目的だったことです。