事件の真相考その6、中曽根官邸の奇奇怪怪の動き考

 更新日/2017(平成29).8.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「事件の真相考その6、中曽根官邸の奇奇怪怪の動き考」をものしておく。中曽根論については「Re11代、中曽根康弘」参照のこと。

 2008.10.25日 れんだいこ拝


【「事件一カ月後のプラザ合意」について】
 この大事故の一ヶ月後の9月22日アメリカ、日本、西ドイツ、イギリス、フランスの先進5カ国がニューヨークのプラザホテルで蔵相・中央銀行総裁会議 いわゆるG5のプラザ合意がなされた。人為的為替市場介入が行われたのである。 そして、このプラザ合意は円高に拍車をかけ、バブル経済を呼び、ビッグバンへと向っている。

【「日航機を爆破した」との怪電話について】
 「日航ジャンボ機 御巣鷹山墜落の真相」を参照する。「日航機を爆破した」との怪電話が、防衛庁と日航にかかってきていたと報道されている。これを事故発生の翌日(1985年8月13日)に、産経新聞と山陰中央新報が報じている。その情報の詳細は、1985年8月12日午後7時48分頃、防衛庁に電話がかかり、中年の男の声で過激派と名乗り、「国防会議議長は中曽根総理だな。総理に伝えてもらいたい。日航機を撃墜した」と一方的にしゃべって電話を切った。また同日、午後8時3分頃、日本航空東京支店にも電話がかかり、過激派と名乗り、中年の男の声で、「われわれのちからで爆破した」と云うものでした。これを伝えた産経新聞社記事は次の通り。
 過激派「爆破」と電話 

 日航へ犯行ほのめかす。日航ジャンボ機墜落事故に関連して十二日夜、過激派を名乗る団体から「犯行」をほのめかす電話があった。午後八時四分、日航の予約センターに男の声で電話がかかり「我々は日航機を爆破した」といって切った。また、この直前の午後七時四十八分にも、東京・千代田区の国防会議事務局に男の声で「局長はいるか」と電話がかかった。対応に出た職員が「いない」と答えると、「国防会議の最高は中曽根か。日航機を爆破した」と同じ団体名を名乗った。政府筋は、この“犯行”について「そういう情報はある」と認めた。
(私論.私見)
 この電話は捜査上は、単なるいたずら電話として処理されている。しかし不可解なことが多い。「我々」という言葉を使っているが、誰ないしはどういう組織なのであろうか。しかも過激派を装った団体名まで伝えているとのことである。。しかも、最初に防衛庁へ電話されている。次に日航へ電話している。どうして、防衛庁へ最初に電話をする必要があったのであろうか? 「国防会議の最高は中曽根か。総理に伝えてもらいたい」の意味はなにか。「爆破するぞ」の予告の電話ではなく、「爆破した」と電話している。一回目の電話は、NHKが当事故のニュース速報を流した22分後の19時48分に防衛庁へかかり、二回目は、その16分後の20時04分に日航にかかっている。それは日航機が何処に墜落したのか、また、どうなったかも、未だ分からない時点のことである。即ち、その人物は、日航機が墜落したことを既に知っていたことを意味する。不可解なことである。

【当日の中曽根首相の軽井沢「ホテル鹿島の森」での様子考】
 8日の夜から夏休みで軽井沢「ホテル鹿島の森」に滞在していた。

 8.12日、123便墜落事故が起こった日、中曽根首相は「身内」と一緒に軽井沢で休暇を過ごしていた。この時の「身内」が誰であるのか明らかにされていない。
 「日航123便と軽井沢の首相<本澤二郎の「日本の風景」(3403)」 によると、(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)の本澤二郎氏の「日本の風景」(3403)、2019年8月13日記」が「在京政治部長会とのゴルフを止めて上京した中曽根康弘」の見出しで次のように記している。
 「1985年8月13日、在京政治部長会と中曽根康弘首相との軽井沢ゴルフコンペ中止」。
 「不思議なことは、事故当日の夜、首相は軽井沢のホテルに滞在していた。単純な航空機による大惨事だけなら、ヘリコプターで御巣鷹山に急行して、人命救助に奔走するところであるが、それがなかった」。

【「中曽根首相の別荘における盗聴発言」について】
 「中曽根首相の別荘における事件指揮発言の盗聴」が一部で流布されている。「2007.04.04御巣鷹山日航ジャンボ機事件の真相」その他参照。
 中曽根首相の別荘における『とある筋』との遣り取り。この会話が盗聴されている。それが真実であるか否かの真相は闇の中である。
(矢の催促の撃墜命令要請に対して)
中曽根  私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう。
官僚  目撃者が出たらどうしますか。
中曽根  何とかしろ。
官僚  殺せという意味ですか。
中曽根  私をこれ以上人殺しにするつもりか。何とかしろは何とかしろという意味だ。
(私論.私見)
 これも俄かに信じ難い卒倒すべき情報である。これが事実かどうか確認されれば良い。但し、17時11分、中曽根首相が、軽井沢駅を発車する特急「あさま22号」に乗り東京に向っている、ことを踏まえると辻褄が合わない。「別荘ではなく、事件発生後のどこかに於ける中曽根の盗聴」とすれば成立する。原文には「総理がみぞうの都市部墜落の大惨事を恐れて許可する条件として言い出した」とあるが、蛇足文臭いので外した。この中曽根発言は日航機123便がダッチロール中の指示として窺えば重大な意味を持ってくる。これが事実として、その真相が解明されたら、中曽根元首相の「らしさ」が又一つ明るみになったことになる。それにしても究極の卑劣漢と云うことになる。

中曽根首相が、軽井沢から東京の官邸に向かう時の様子考】
 8.12日17時11分中曽根首相が、軽井沢駅を発車する特急「あさま22号」に乗り東京に向っている。この時刻は、18時04分、日航123便が羽田空港離陸の1時間前である。思うに、怪人21面相派が123便に搭乗することが確認でき、官邸に向かったのではなかろうか。

 18時52分、「あさま22号」が大宮着4分後の18時56分26秒、123便が群馬県多野郡上野村にある標高1639mの「御巣鷹山」(おすたかやま)に墜落している。

 19時15分「あさま22号」が上野着。中曽根首相は、上野駅から公邸まで、自動車電話の付いている首相専用車に乗る。

 19時47分、公邸に到着。


 この間、日航123便墜落は中曽根首相の耳に届いているはずであるが、表向き「首相への報告はなかった」とされている。依田秘書官の言によれば、「行方不明という情報だけではどうしようもないので報告しなかった」としている。これらは、中曽根首相の123便墜落事件との関わりを外す為のフェイク情報であろう。首相は公邸前で待ち受けている新聞記者から123便事故のことを聞かれ、「ほぉー、どこで?」と驚いたという。中曽根の驚きの様子は特異のお惚けでありフェイクであろう。問題は、この時のやり取りそのものが存在しないかのようにネット上から消されていることである。

 
官邸にいたのは平沢官房長官秘書官である。平沢氏は、警察官僚出身で中曽根首相とは非常に関係の深い議員である。その平沢秘書官には、19時頃つまり墜落直後に運輸省航空局、防衛庁、警察庁から相次いで報告が入っていた。平沢秘書官は直ちに藤波官房長官に連絡をとって第一報を入れている。このときは官房長官と連絡がとれている。それから30分近く連絡がとれず、やっと連絡が取れて、平沢秘書官は藤波官房長官に二度目の報告を次のようにしている。「JAL123便の大坂着予定時間を過ぎました。事故発生は、ほぼ間違いないと思われます。大至急お戻りください。平沢勝栄官房長官秘書官」。

 19時45分、藤波官房長官が官邸に戻る。その2分後、中曽根首相が公邸に戻る。「依田秘書官が、はじめて事故の状況を立ち話で首相に伝えている」としているが、これもフェイクであろう。

 19時48分、中曽根首相が、予定に組まれてあった河本敏夫国務大臣との会談
に入っている。 この頃、三光汽船問題があり、三光汽船の元社長である河本氏は苦境に立たされていた。首相との話はこれがテーマで辞任云々がやりとりされたと云われている。20時1分、その会議が終る。

 20時16分、藤波官房長官と副長官が公邸に駆けつけて、16分間、首相と123便事故について報告が行われている。20時32分、終了。

 23時、官邸の大広間で事故対策本部の初会合が行われている。中曽根首相がそこに顔を出したという記録はない。実際に居なかったのか、いたけれども居なかったことにしているのか分からない。

 翌13日午前5時30分、就寝中の首相に対して、墜落現場が中曽根首相の出身地の群馬県であることが伝えられている。「特段の反応がなかった」と云う。

 この間、加藤紘一防衛庁長官の動きが消されている。事故発覚後当時の中曽根総理および加藤糸広一防衛庁長官が対応を協議している。その場で、事故直後の犯行グループの一味からと思われる「日航機を爆破した」などの犯行声明が内閣府や日航宛てに届けられた点を含めて協議している。12日の夜、墜落場所の上空までヘリで飛来している。但し、救援を指示せず次の日の朝まで放置している。これらの動きが全て隠蔽されている。

 事故調査にあたっていた前橋地検の山口悠介検事正は、「事故原因を、ぎりぎりまで追究すれば、戦争になる!」と発言している。

【中曽根首相の舌先三寸ぶり考】
 事故当時、中曽根首相は、記者会見や国会答弁において、次のようにいっている。概要「1.事故原因は徹底的に究明する。2.人命最優先でことに当る。3.遺体の捜索は最後の一体まで行う」。これがその通りになるのなら良い。実際には、中曽根首相は正反対の姿勢で処理している。「事故原因の究明」について云えば、尾翼の海底調査を行う必要があるとして特別予算を計上したのに、これを行った形跡がない。「人命優先」について云えば、事故が起きた当日の午後7時過ぎには墜落場所が確認されている筈なのに「行方不明」として朝まで発見を引き伸ばしている。墜落直後には相当の生存者がいたことが生存者の証言によって明らかになっており見殺しにされたことになる。「遺体の捜索」について云えば、古屋国家公安委員長は、事件後9日にして「全遺体の収容は困難、捜査の打ち切り」を首相に進言し、少しでも早く合同慰霊祭をして事件の幕引きを図ろうとしている。中曽根首相は何らリーダーシップを発揮することがなかった。

 この時の中曽根首相が次のように評されている。
 「中曽根康弘が次のように述べている。『死ぬまで言えない事がある。墓場までもっていく』云々。要するに、日航ジャンボ機123便墜落事故には総理だった中曽根だけが知っている真相がある?」。

 中曽根が、123便墜落事故にまつわる真相のすべてを「墓場まで持っていく」と公に発言したことに対して、その真意は国鉄分割民営に関する話であり、「国鉄分割民営の本当の目的が国鉄の経営再建ではなく特定の労働組合つぶしが目的だったことです」なる言が蒔かれている。これは為にする悪質な論であり、すり替え以外の何物でもない。そもそも「国鉄分割民営化の真の狙いが特定の労働組合つぶしだった」として、それは何も「墓場まで持って行く話」になるものかは。人を誑かすのもエエ加減にセンカイと言いたくなる。

出典: http://ameblo.jp/pridea/entry-10442965791.html


【中曽根首相の撃墜命令考】
 「桐沢 凛々子2013年8月12日」。 中曽根康弘「JAL123便は私が撃墜命令した」。JAL123便は自衛隊が撃墜した。憶測混じりなので、れんだいこ的取捨選択により纏める。
 http://johnbenson.cocolog-nifty.com/…/2009/03/post-3143.html
 中曽根は地元なのに事故現場視察や慰霊に行ってない! 地元なのにおかしい。 しかも首相の頃の事故である。
 ★中曽根康弘

 ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由であった。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。

 この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写しである。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」、「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。 
 JAL123便日航機墜落事故の事故調査委員会の結果を待たずに、ボーイングが圧力隔壁の終了ミスを認めたのは、訴訟社会のアメリカの企業としてはあり得ない対応策と言われている。何か裏がある。JAL123便では自衛隊が撃墜してるところを民間人が撮ったという写真はあったが、特撮扱いされこの報道は消された。航空機の真後ろに自衛隊戦闘機が飛んでいてその間には火柱があった。複数の目撃者がいて報道もされたのになぜここまで隠蔽するのか。 「不時着後も自衛隊がミサイル攻撃を続けていた」 と言ったアメリカ政府のコメントした報道はどこへ消えたか。

 日本を売り渡した男たち 第一回 中曽根康弘
 http://www.rokusaisha.com/0test/kikan/book-bakudan1.html
 http://www.rokusaisha.com/

 中曽根がしでかした日本経済転落の契機となったプラザ合意と ロッキード事件P3C疑惑の関係。

 JAL123便墜落事故の日時は設定された

 http://s1.shard.jp/rabbit1/0202/6/153_2.html

 中曽根が自分の『天地有情』の中にも『回顧録』の中にも書いている。「俺はCIAのテストを受けた、英語もあった、論文も書いた、パスした」。自分から進んでCIAのテストを受けたちゅーことですね。それで彼はアメリカに派遣される。こういうことを中曽根は自分で自慢げに書いている。中曽根の背後にCIAが絡んでいる。

 今の福島のある原発はGEが開発して間もなくて危険極まりないのに無条件に入れている。その数年後に、 欠陥商品であるということがわかる。設計者が言う。あれは間違ってたって。 アメリカは、その設計をし直したり、色んな部品をつけ直したりしてやってきてる。 日本はまったくやらないまま四十年間、欠陥商品をそのまま使い続けてきている。日本は四十年間経ってるのに、「危ない」とGEも原発を作ったジェネラルエレクトリックも、 報告書を東電に差し上げたのに日本は改善一つしない。
 http://www.youtube.com/watch?v=TuVjmXdufS4

 日本の電気料金は世界の電気料金の三倍である。自民党も民主党も、ほとんど反対しない。


【角田四郎氏の目撃談考】
  007年09月03日「●墜落場所は早くからわかっていた(EJ第1061号) 」。
 JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の自衛隊機の存在はこの件に関するマスコミ報道では完全に伏せられています。 しかし、この2機の自衛隊機を目撃した人物がいます。その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャンプをしていて目撃したというのです。 後になって、角田氏は、JAL123便事件解明のため『疑惑/JAL123便墜落事故』という本を出しています。この本から、角田氏自身の目撃状況をご紹介します。
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 このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市 と神奈川県相模湖の中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回しようとする地点である。18時42分頃になる。そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かっ たであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊機を私は見た。その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし、 今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。 「あれはさっきの飛行機[JAL12便]じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登ていった。この間5~6分の出来事である。――角田四郎著、 『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊
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 2機の自衛隊機の目撃情報は角田氏だけですが、防衛庁側はこれに対して何もコメントしていません。 自衛隊機がこの付近の空を飛んでいても別に不思議ではないからです。 角田氏自身もあとでJAL123便の墜落を知って、自衛隊機とJAL123便とをはじめて結びつけたのです。 ところで自衛隊機はどのようにして、JAL123便の進路を変更させたのでしょうか。 自衛隊機は無線で直接JAL123便と交信して旋回するよう指示したか、あるいは、航空基地を経由しての交信により横田基地に着陸しないよう伝えたはずです。 おそらくJAL123便の機長は、あくまで横田基地着陸を訴えたはずです。機長が当初「羽田に戻りたい」といったのは、羽田空港の方が、救急医療体制が整っているからです。 いずれにしても、まともな着陸はできないと考えていたのでしょう。
 
 しかし、機を完全にコントロールできないこともあり、この時点では横田基地しか選択肢はなかったはずです。とにかくボイスレコーダには、自衛隊機とのやりとりは記録されていないので、推測するしかないのですが、もしかしたら自衛隊機の指示を拒否したことも考えられます。このことを裏付けるようにJAL123便は横田基地に向けて高度を下げつつあったのです。そこで、自衛隊機はJAL123便の前方に出て、飛行進路を遮断するなど妨害し、埼玉・長野・群馬の県境の山岳地帯に向かうよう強引に左旋回飛行指示を出しているのです。 これに対して、JAL123便の機長は、あくまで「ターンライト」を主張して抵抗しています。しかし、結局、横田基地から北方向に向かわされ、御巣鷹山に入っていくことになります。この2機の自衛隊機の存在を肯定すると、JAL123便はエンジンの出力調整によって何とか左旋回できたことになります。 ここで奇妙なことは、JAL123便は何者かにミサイルなどで攻撃され、垂直尾翼を破壊された「被要撃機」になっているという事実です。
 
 この場合、既に述べたように、自衛隊による日本の防空上の規定では、スクランブルをかけられた領空侵犯機と同じ扱いになることです。もし、領空侵犯機がスクランブルをかけた軍用機の指示に従わないときは、攻撃してもよいことになっているのです。 このようにして、JAL123便は、2機の自衛隊機によって御巣鷹山のある山岳地帯に入っていくのですが、どのようにして墜落したのかについては、あとで明らかにするとして、墜落直後の状況について述べることにします。
 
 墜落事故のあった1985年8月12日――私は今でも鮮明に覚えていますが、テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田の日航の事務所に押しかけて、ごった返していたのです。 しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだったのです。私は13日の午前2時頃まで起きていて、テレビを見ていましたが、とうとう朝になるまでわからなかったのです。しかし、今となって考えると、これは実に奇妙な話なのです。というのは、JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ、米軍機もその墜落地点の上空までは行っているからです。
当時の防衛庁長官であった加藤絋一氏は、当日夜、救難ヘリコプター・バートル107で現場上空に飛んでいるのです。これを受けて防衛庁では13日の午前0時5分から、緊急会議を開いています。出席者は、加藤長官以下、内局幹部、陸幕長、空幕長です。ですから、加藤長官はそれ以前の時間に――午後9時頃ではないかと考えられますが、墜落現場の上空までヘリで視察しているのです。しかし、少なくともそのとき、乗客・乗員の救助は行われていないのです。もちろんその間テレビでは相変わらず「捜索中」が繰り返されていたのです。なぜ、発表しないのでしょうか。なぜ、墜落場所が特定できていたのに、なぜ、いち早く救助に向かわなかったのでしょうか。こういう問いかけに防衛庁、政府関係者は完黙の構えです。だからこそJAL123便の墜落事故に自衛隊が深くコミットしていたと考えざるを得ないのです。

【米軍救助拒否考】
 「自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号) 」。
 ( http://intec-j.seesaa.net/article/53856463.html
 2007年09月04日
 ●自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号)

 1994年9月25日のことです。テレビ朝日「ニュース・ステーション」では「米軍幻の救出劇」と題して、御巣鷹山日航機墜落事故関連の番組を放映しています。1985年8月12日当日、沖縄嘉手納基地から横田基地に帰投中の米軍C-130輸送機は関東南A空域にさしかかっていたのです。そのとき、同機のマイケル・アントヌッチ航法士(ナビゲーター)は、横田基地からJAL123便の探索命令を受けたので、一帯を捜索した結果、午後7時30分前にJAL123便の墜落現場を確認しています。番組では、マイケル・アントヌッチ航法士が次のようにいっています。
 「あたりはちょうど夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさでした。燻る機体も炎も見えた」。

 米軍C-130のジョン・グリフィン機長は、JAL123便の残骸の上空600メートルで旋回飛行をし、横田基地からの位置を測定し、20分後には正確な墜落場所の位置を横田基地に知らせているのです。午後8時30分になって、横田基地からC-130に再び連絡が入り、「60キロ離れた米陸軍キャンプ座間から救難ヘリUH-1が、そちらに向かっている」と知らせてきたのです。 やがて救難ヘリUH-1は飛来し、乗員2人を下ろそうとして木の梢から15メートルのところまで降下したのです。 そのときC-130に横田基地からいきなり「直ちに基地に帰還せよ」という命令が入ったのです。 しかし、ヘリは「救助に入りたい」――と連絡。これに対して、横田基地の司令官は「日本側の救助隊が向かっている。 繰り返す直ちに基地に帰還せよ」と短兵急に帰還を命じたのです。 時刻は午後9時20分――地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていったのです。 そしてC-130は横田基地に帰還するのです。横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団のジョエル・シルズ副司令官――グリフィン機長が報告を終えると、シルズ副司令官は「良くやった。 しかし、このことは一切マスコミには話してはいけない」といったといいます。 このヘリの音を生存者の落合由美さんは聞いており、次のようにいっています。
 「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたので す。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていまし た。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右 手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、 遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」。

 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。 米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。 それなのにテレビでは、次の日の朝まで墜落場所を特定できていないと報道しているのです。これは明らかに意図的です。加藤紘一防衛庁長官(当時)にいたっては、12日の夜に墜落場所の上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、次の日の朝まで放置したのです。

 C-130の航法士、マイケル・アントヌッチ氏は週刊文春1995年9月28日号でも次のようにいっています。
 「あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたとき たまたま近くを飛んでいた。 現場はすぐに確認できた。墜落2時間後には、アメリカ海軍(陸軍?)の救助ヘリが着いた。 あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。日本の救援隊が現場に着いたは、その14時間も経ってからというではないか。 ――『週文春』1995年9月28日号より」。

 これに対して防衛庁は、米軍ヘリが墜落現場上空に到着し、救助寸前であったことについて次のように否定の見解を示しているのです。防衛庁「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」 。米国防総省「当時の記録がないので、ノーコメント」。そのうえ、自衛隊の松永貞昭中部航空方面司令官(当時)は次のようにコメントしているのです。 「夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である」 。これに対して、米陸軍救難ヘリのスタッフは次のように反論しています。「陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん、1980年代 から、夜間暗視装置を標準装備しており、夜間でも急斜面でも、救急隊員であれば、だれでも降下できる」。その頃、墜落場所付近では奇怪なことが起きていたのです。 ・・・[御巣鷹山事故の謎/12]

 「告発・日航機123便事件」。
 もはや客観的事実は明らかになっている。123便の垂直尾翼の5分の三を吹き飛ばしたものは、「無人高速標的機=ファイヤー・ビー」である事。安定飛行のコントロール機能を破壊し、困難にしたけれどもそこから羽田に着陸させておれば十分帰る事が出来た。それを羽田に着陸させなかったのは誰の指示か。これも明らかだ。
 これらを既に実証している人々の論証がある。これらを総合して「J A L123 便は自衛隊が撃墜した」と断じている。池田昌昭氏の「御巣鷹山ファイル2」及び「完全犯罪・JAL123便撃墜事件」など一連の著作である。
 覚悟をして述べる論証には、何度も何度も自分の検証を加えている。真実を貫く事の大切さを嫌という程自分に言い聞かせてきたものの仕事だと思っている。これは、ある意味で「行動証拠」である。それと同じ意味で逆説ではあるが、国民の命を代表する524人の乗った飛行機に対する中曽根康弘らの取った行動の国賊的意味である。あれが、本当に自衛隊のやった事だとすれば「自衛隊とは何か」という事を自衛隊自らが示すものになるのである。そして、状況証拠は、自衛隊が黙している限り真っ黒の汚名をかぶる事になるのである。
 高度な技術力と権力とそして想いもつかない目的を持っているものの仕業なのである。しかも、自衛隊と思わせる事が出来る軍事的部隊をあやつっているのである。C130 の輸送機に韓国軍特殊部隊を輸送していたのではないか。横田基地はどれほど把握できていたのか。ステルス機のテスト段階は終わっていた。中性子爆弾や小型水爆もテストしたかったであろう。アーミーナイフを持ち拾い集めていたのはおそらくそれらの兵器を使用した後のデータのサンプルだったのではないのか。人体の一部であろう。機長の頭部が無く歯だけが残っていたという異常さはそれを示しており、顔面はあっても頭部自体はないという状況ではなかったのではないだろうか。つまり、脳細胞への影響を確認するサンプル採集をやらせていたのだ。
 同じ月( 2014-05 )の記事

【1985年前後の主な政治事件】
 1985年前後の主な政治事件を確認する。
1985 1月 独仏首脳会談
G5蔵相・中央銀行総裁会議
2月 サッチャー英首相訪米
田中角栄元首相倒れる
3月 日ソ首脳会談
4月 デビッド・ロックフェラー氏東京講演
5月 G8サミット開催 (西ドイツ、ボン)
6月 G10蔵相・中央銀行総裁会議 (東京)
7月 虹の戦士号爆破事件(フランス)
8月 独仏首脳会談
ドイツスパイ事件(西ドイツ)
8.12日航機事故(日本)
8.12日の大惨事にも拘わらず3日後の8.15日、靖国神社を首相として公式参拝。
9月 9.22日、G5蔵相・中央銀行総裁会議(プラザ合意)。円高誘導がきまりバブルへと突入する。
1986年 日本の市場開放を求める前川レポートが発表される。これによりバブル経済が加速した。




(私論.私見)

 だから、その「墓場まで持って行く」云々の話は日航ジャンボ機墜落事故ではなく、国鉄分割民営に関する話だってば。そしてその墓場まで持って行くはずの話も、もう語っちゃっているし。

中曽根氏が「墓場まで持って行く」はずの話は、国鉄分割民営の本当の目的です。国鉄の経営再建ではなく、特定の労働組合つぶしが目的だったことです。