事件の真相考その3、パイロットの名操縦、乗務員の名カバ-考 |
更新日/2024(平成31. 5.1栄和元/栄和5).5.22日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「事件の真相考その3、パイロットの名操縦、乗務員の名カバ-考」をものしておく。JAL123便(以下単に「123便」と記す)には計15人が乗務していた。年齢・総飛行時間は共に事故当時のものである。コックピット・クルーの三名共に日航選りすぐりのベテランパイロットであった。「123便を支えた乗務員」その他を参照する。 |
【パイロットの名操縦、乗員の名カバ-考】 | |
日航123便事件でもう一言。123便には運航乗務員3、客室乗務員12の合わせて15名、他にも乗客に紛れ込ませた隠れ乗務員数名が配置されていた(仮に総数19名とする)。指摘されていないが、日航の誇る選りすぐりの乗務員を配置していたと思われる。機長の高濱雅己、副操縦士の佐々木祐、航空機関士の福田博、この組み合わせは、日航が事前に123便に何事かが起こることを予測して、この日この刻の為に特別に配置した名パイロットではなかったか。彼らは実に暴走を始めた70メートルの巨大な機体と戦い、見事なまでに能く操縦しえた。客室乗務員然り、最後まで冷静に乗客の対処に当り混乱を起こさせていない。19名の乗務員は、極限状態の中、墜落寸前まで任務をまっとうした。しかし、その能力、奮闘を無慈悲に裏切る魔性権力により残虐な悲劇へと追い込まれていった。この事件の霊の鎮魂が終わっていない。だから毎年この頃に出てくるのではないのか。 | |
「風化させてはいけない大惨事 (御巣鷹山の悲劇)」参照。
|
【運行乗務員考】 |
【機長(CAP)/高濱雅己(たかはま まさみ、49歳)】 |
コックピット・クルーに機長(CAP)として高濱雅己(たかはま まさみ、49歳)(運航部門指導教官)。海上自衛隊出身の熟達したパイロットであった。 1936(昭和11).1.2日生まれ。宮崎県延岡市出身、当時千葉県在 住。京都市内の高校を中退後、海上自衛隊第1期航空学生として入隊。 その後、富士航空、日本国内航空(いずれも東亜国内航空の前身)を経 て1966(昭和41).12.1日、日本航空へ入社。1981(昭和56).2月 、ジャンボ機の操縦教官を兼任。パイロット歴は通算26年、総飛行時間 12,423時間41分。運航部門指導教官。 1985(昭和60).8.12日、墜落した日航ジャンボ機123便の機長として、最後まで必死に操縦かんを握り続けた。CVRは高濱機長の悲痛な叫び声の後、2回の衝突音で終わっている。 日本海軍の戦闘機搭乗員にして個人での撃墜記録32機を誇る撃墜王 の一人にしてソロモン戦線を生き抜いた数少ない戦闘機パイロットである 杉野計雄(かずお)飛行兵曹長。杉野氏は、公職追放が解除され、1953(昭和28)年、海上自衛隊に入隊。操縦士、操縦教官として勤務。この時の教え子にパイロット高濱雅己がいる。杉野氏の上官が何と上野村村長だった黒沢丈夫氏。しかもその上野村・黒沢村長のことが事故当時の日航の機内誌最新号「WINDS9月号・WINDS人国記14」に顔写真入りで載っていると云う奇しきな縁がある。 |
【副操縦士(COP)/佐々木祐(ささきゆたか、39歳)】 |
副操縦士(COP、以下「副長」と記す)として(機長昇格訓練生)。 昭和21年生まれ。当時千葉県在住。日航入社/昭和45年4月18日。総飛行時間3,963時間34分。機長昇格訓練生。123便を実際に操縦していたのは、この佐々木副操縦士である。昇格試験で機長席に座った彼が最後まで操縦桿を握り続けた。 |
【航空機関士(F/E)/ 福田博(ふくだひろし、46歳)】 |
航空機関士(F/E、以下「機士」と記す) は福田博(ふくだひろし、46歳)(エンジニア部門教官)。羽田-福岡線363・366便から引き続きJA8119に乗務。 昭和14年生まれ。当時千葉県在住。甲府工業高校を卒業後、昭和32年4月1日、日本航空入社。総飛行時間9,831時間03分。エンジニア部門教官。音声を聞く限りでは、福田航空機関士が一番冷静だったのかもしれない。機体の破損状況確認から酸素マスク着用の催促・ギアダウン・フラップ操作の提案等、その時々に応じて必要な事柄はほとんど彼が率先して行っている。 |
|
【客室乗務員考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
客室乗務員として12名が、それぞれの持場についた。チーフパーサー(PUR)は波多野純(はたのじゅん、39歳、総飛行時間10,225時間)。客室乗務員の白拍子(しらびょうし)由美子さん(当時25歳)は新婚生活の身であった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「123便を支えた乗務員」を参照する。
|
【パイロット、パーサーの特別体制考】 |
日航は、「123便」に何か異変が起こることを予知して。その対策のためのパイロット、パーサーの特別体制を組んでいた。乗客の中にも乗員を紛れ込ませていた。このことをもっと判明させなければならない。その特別体制効果で、パイロットは実に名操縦し、パーサーも実に乗客の不安を見事に抑えていた。このことが分かる。 |
(私論.私見)