事件の真相考その8、犠牲者の遺体の黒焦げ考

 更新日/2023(平成31. 5.1栄和元/栄和5).2.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「事件の真相考その8、犠牲者の遺体の黒焦げ考」をものしておく。

 2008.10.25日 れんだいこ拝


【情け容赦のない乗員乗客殺害部隊の存在
 「乗員乗客殺害部隊の存在」。
 8月13日04:00頃 墜落翌日まだ夜も明けぬ早朝、白バイを振り切って、長野県からオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者達2人。生存者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのをはっきりと聴いた。およそ50人と推測。指が欠損しただけの、比較的軽症の人も。この人は助かる、と確信。既に到着していた100名くらいの自衛隊員。片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴は急峻な山での作業に適した短靴。1時間後、次の部隊が続々と到着。後から来た部隊は山で歩きにくいブーツ着用。(「救助に向かう自衛隊は武器を携行しない。もし携行するとすればその手続きは煩雑で必ず証拠が残って居る。その証拠が出ていない以上、このサイトに書いてあることは悪質な作り話である」という書き込みがこのサイトにあった。その人は自衛隊関係者で実際の武器携行手続の経験から言っているのかもしれないが、世界の厳しい現実を知らないおめでたい人、という他無い。「答えてみろ、この嘘つき野郎!オレが怖いのか?オイコラ!」と余りに礼儀を欠くチンピラのような調子だったので削除。)

 しかし、彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。何故だ!?何故この部隊は救助をしない!?目の前で多くの人々が手当を待っているというのに!!人命より優先される回収物とは、一体何だ!?以下にその件についてのウェブサイトを紹介する。

【他の生存者証言】
 「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4)」
 http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a 
 このオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会が無かったが、2010年5月16日、江戸東京博物館にて、その日目撃したことの証言を依頼される。ところが、講演の2週間前、アクシデント発生。車の後輪がバースト。あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の運転テクニックで回避する。損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない、熱線銃によるものと判明。「123便事件の真実について、これ以上語るのを止めよ」というメッセージが彼に送られる。幸いにも、かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、証言することができた

 話を墜落の日の翌朝に戻そう。日が昇ってからも奇怪な事が起こる。公式に生存者とされる4人の女性以外に、3名乃至4名の生存者が目撃されている。生存4人の現場からさらに200mの急斜面を登ったところにいた朝日新聞社の社会部記者が「今さらに3人の生存者救出!2人は担架に乗せられているが、1人は担架が必要無いほど元気な女の子で、救助隊員に抱かれている。」と無線で報告。

 朝日新聞前線キャップ木村卓而氏は『一人の女の子は、担架に乗らないほど元気で、救助隊員に抱かれている。他の二人は毛布をかぶされているため、男女の別やけがの程度ははっきりしない』と元気で無事救出された女の子のことを報告。だが、その後女の子はどうなったのか?突然存在が消えてしまう。

 また、8月13日午前9時~10時頃、地元上野村消防団が墜落現場に、獣道を伝って登っていく途中で、沢伝いに下ってくる「中学生くらいの男の子を含む男性四人連れ」に遭遇。衝撃の現場から来たというのに、挨拶しても返事もしない、何も語らない、不気味な沈黙の集団。「沢伝いに下りてくる、中年の男性三人と中学生くらいの少年が加わった四人のグループに出くわした」飯塚訓(いいづか・さとし)著「墜落現場、遺された人たち」p.119、5行目~。

 この男の子は一体どこへ連れ去られたのだろうか?「この少年は生きているのではないのか?私の知り合いの医療関係者は、筋肉の張り方など自力で腕を上げていると観察され、この時点では明らかに生きているだろうと語っている。」元記事

 さらに、7歳~8歳くらいの小さな男の子が13日午前「走り回っている」ところを自衛隊員に発見されている。報告は無線でただちに流された。報道関係者もこの無線を傍受。「男の子発見」のニュースは流れた。フジテレビの「ニュースレポート」では、マイクを握ったフジの山口氏が『現場は惨憺たる状況です。まもなく、担架に乗せられた七、八歳の少年が運ばれてきます……。』と生中継。しかし、この「男の子」に関する情報が途絶。以後、まるで神隠しにでも遭ったように、その後の「7歳~8歳くらいの小さな男の子」の消息は杳として知れない。


【先着特殊部隊は墜落現場で何をしたのか考】
 JAL123便墜落後の午後9時30分過ぎ、墜落現場の御巣鷹山方向から信号弾が上がった。その信号弾に呼応して、上野村三つ岐に待機していた一団が移動を開始し、御巣鷹山の墜落現場に入っていった。この時刻は、米軍のC-130と救難ヘリが横田基地からの連絡により乗員・乗客の救出を断念して引き上げた時刻と一致する。彼らはそこで何をしたのか。はっきりしていることは救助ではなかった。仮にこの一団を自衛隊の秘密部隊と推定しておくが、自衛隊の者であるかどうかは分からない。その秘密部隊は、墜落現場で機体の前部・中部の様子を入念に調べ何やら作業をしていたと云う。そして、スゲノ沢の機体後部付近で、無線交信妨害電波を出しながら、何かをやっていたといわれる。その時点ではかなりの生存者がいたと考えられるが生存者の救出は一切行ってはいない。いったいこの特殊部隊は何をしていたのか。コックピット内は焼き尽くされ何もなかった、操縦クルーの遺体はなくただ歯が残されているのみという状況であったといわれる。いかに激しく地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずである。しかるにコックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれる。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったという。

【123便の乗客、乗務員の殺処分】
 助かっていたはずの乗客達。不幸にも軽症すぎたがため、また不運にも見つかってしまったが故に、最後の最後で、彼等は口封じのために殺された。航空機事故遺体に模して。決して知られてはならない秘密があったから。そうとしか考えられない。無念であったろう…震えが止まらない。

 この墜落現場で「生き残った罪も無い乗客、乗務員にとどめを刺した者達」は恐らく国籍が日本では無い、と信じたい。来るべき極東有事を演出するために特別訓練された、日本の自衛隊を偽装した部隊の可能性が高いのでは?任務遂行のみに全神経を集中する訓練と共に、部隊を編成するに当たって「日本人を嫌悪する教育」を受けた者達が選ばれたのではないか?

 123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか?『お前達は何者だ!?乗客乗員の救助に来たんじゃないのか?』現場で何が起こっているのか、理解している人はほとんどいなかったであろう。彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた。

 尋常ならざる遺体の状況 参考ウェブサイト: http://www.asaho.com/jpn/bkno/2010/0809.html 

 ジェット燃料は高くて1400℃に到達するというが、それは灯油の1100℃とたいして変らない。実体はほとんど灯油と同じと考えてよい。写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、あるいは近くで激しく燃えていたことになる。しかし、子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。しかも雑誌の文面には「紙幣や書類が周囲に散乱していた」(写真誌フォーカス)と記載されている。ジェット燃料はこの子だけをめがけ飛び散り、この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?この不自然な状況を説明する理由を私はこう考える、「この子はごく間近から火炎放射器で焼かれたのだ」と。元記事 

 上の焼死遺体も、遺体の側の木は全く焦げ跡が無い。

 当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さん(元日航客室乗務員、青山透子氏)は何度もインタビューを試みている。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない。

 写真上:女性4人の生存者が見つかったスゲノ沢の上流で発見された携帯用VXガス兵器と思しき容器。20数年経って、瓶には微量の液体が残っていた。持ち帰る際、念のため何重にもビニール袋で密封したが、調査に当たった方達2人は、密封を解いた途端気分が悪くなり、数日間寝込んでしまったという。

 墜落現場へ救助に向ったと思われる警察の救助ヘリの残骸が見つかっている。彼らも何者かによって空対空、或いは地対空ミサイルで撃ち落とされたのか?また、当日午後8時頃、TVのテロップで「救助に向かおうとした自衛隊員を別の自衛隊員が射殺した」との報道があったという。 http://raizen.seesaa.net/category/11130729-1.html 事件の後で、勇気を持ち、真実を語って、自殺を装い殺された自衛隊員もいる。911事件でも乗客の殺害はイスラエルの諜報機関モサドが担当したという情報がある。同国籍人で無ければ、何の躊躇も無く殺害マシンとなって、乗客乗員のみならず、救助隊でさえ抹殺できるからか?

 写真aは林中で見つかった2名の隊員、写真bは暴露された尾翼写真、尾翼に外部から飛行物体が激突した証拠。彼等はこの写真をリークしたため殺害されたのだろう。

 国を売った者達は、第二次世界大戦時の軍人としては山本五十六大将、米内光政大将、宇垣 纏中将などがいた。軍部のみならず、各界のトップに売国奴が君臨している状況は、今も昔と何ら変わりは無い。

 彼等は国家や、大企業の要職を占めるものの、少数派である。大多数の、良識ある国民が真実に目覚めれば、彼等も悪事を働くことが難しくなる。この123便墜落事件を通して、この機会に真実を見抜く眼を養ってみては如何だろうか?

 123便墜落事故をモデルとした、山崎豊子氏の小説「沈まぬ太陽」(1995年、平成7年から順次発表、3編に渡る長編小説)が映画化、2009年秋封切。小説では日本航空の腐敗、利益追求第一主義を指摘。もとより事件の本質解明に至ってはいないものの、かなり近い線まで迫っている。この事件は恐らく、2011年3月11日の地震兵器による東日本大震災、津波、核兵器による原発事故と本質でつながっていると思われる。

 日本航空の経営を圧迫した大きな要因に、911テロ事件、SARS等々の事件があるが、それらは全て国際金融寡頭勢力が起こしたものであった。そして今回取り上げたJAL123便撃墜も。日本航空のトップと、その巨悪とのつながりを紐解けば、この事件の本質がみえてくるのではないだろうか?

 映画封切りのタイミングは、日本航空国営化に賛成世論を形成する目的があったと思われる。空の安全を目指した小説・映画のはずが、却って「日本航空機を使ったテロを起こしやすい環境」を整えるのに協力するという、何とも皮肉な結果を招いてしまった。

 日本航空123便墜落事故。言うまでも無く、これは単なる事故ではない。ハッキリ、事件である。それも世界規模の大事件である!

 事件の真相を知る政府、日航関係者は、勇気を持って口を開いて欲しい。そうすればこんな悲劇は二度と起こらないかもしれない。そして何よりその事が、亡くなられた方々への最大の供養になるのだから。

 ※ 「JAL123便墜落事件の真相②真実に迫る勇者達」(命懸けの現場調査。事件の原因となった世界二大勢力対立の構図に迫る!)に続く http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4230997.html


【犠牲者の遺体の黒焦げ考】
 医師らが「こんなに遺体がバラバラになるなんて・・と驚いた」との証言がある。「航空事故史上、ここまで細かく機体が分散破壊された事故は見たことがない」との証言もある。灌木の枝に人間の皮がビニール袋のように引っかかっていた救出現場の写真もあった。目を覆うどころの騒ぎではない現場模様の写真だった・・。
 未明まで生きていたとされるJAL123便の生き残り搭乗者の40~50名は、特殊な殺人ガスを吸引させられた挙句に、証拠隠滅の為に焼かれたものと考えられる。
 「【JAL123便墜落事故】毒ガスで息の根を止められた生存者」、「JAL123便墜落事故の真相は?No2」の「第4の疑問」その他参照。
 ijn9266のブログさんより
 http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4121599.html
 参考ウェブサイト:http://www.asaho.com/jpn/bkno/2010/0809.html
 墜落現場には最低50人くらいの生存者が墜落現場にいた、指先が1本ちぎれただけの男の人もいた。墜落現場では多くの人達が助けを呼んでいたと生存者が証言している。「生き残った罪も無い123便の乗客、乗務員にとどめを刺した者達」は恐らく、国籍が日本ではない、特別訓練された、日本の自衛隊を偽装した部隊の手にかけられ、処分された可能性が高い。殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか? 彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた。助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された。
 尋常ならざる遺体の状況  
 参考ウェブサイト:http://www.asaho.com/jpn/bkno/2010/0809.html
 機体前部や中部では激しい衝撃で遺体は断片化し(ほぼ全身にわたって断片化した方もいる)。火災などで着ていた衣類は焼け、手だけ、足だけの部分遺体もあり、遺体は炭化するなど遺体確認は困難を極めた。


↑問題の焼死体の写真

 写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、あるいは近くで激しく燃えていたことになる。しかし、子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。ジェット燃料がこの子だけをめがけ飛び散り、この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?この子供の焼死体は何を訴えようとしているのであろうか?

 ジェット燃料は高くて1400℃に到達するというが、それは灯油の1100℃とたいして変らない。実体はほとんど灯油と同じと考えてよい。写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、あるいは近くで激しく燃えていたことになる。しかし、子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。ジェット燃料はこの子だけをめがけ飛び散り、この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?この不自然な状況を説明する理由を私はこう考える、「この子はごく間近から火炎放射器で焼かれたのだ」と。

 ジェット燃料はJET-A/40という灯油の部類でケロシンというが、大気中に出たケロシンはガス化しやすく、煤も出にくいにもかかわらず、主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化している。遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかったという。

 当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さん(元日航客室乗務員、青山透子氏)は何度もインタビューを試みている。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない。焼死体の焼損状況から、ジェット燃料の火力により焼死したのではないということになる。

 写真上:女性4人の生存者が見つかったスゲノ沢の上流で発見された携帯用VXガス兵器と思しき容器。20数年経って、瓶には微量の液体が残っていた。持ち帰る際、念のため何重にもビニール袋で密封したが、調査に当たった方達2人は、密封を解いた途端気分が悪くなり、数日間寝込んでしまったという。
 この事故では多くの確認出来なかった遺体(衝撃などで断片化したり火災で炭化したもの)があり、これらは荼毘に付された後、123の骨壺に収められて上野村の「慰霊の園」に納められました。その後、現場から発見された遺骨を同様に扱ったため、現在「慰霊の園」には124の骨壺が納められている。
 2001/11/07 、「墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』 飯塚 訓 / 講談社+α文庫 」。
 著者は高崎署刑事官在職時に日航機墜落事故の身元確認班長を拝命し,藤岡市民体育館で520人の遺体の身元確認に務める。本書は無残な遺体に警察,医師団を率いて 体育館はマスコミのカメラを避けるために暗幕で窓を閉ざされ,8月の焼けつくような陽光に屋根をあぶられて館内の温度は40度を越える。そこに遺体の放つ悪臭と線香の匂い,脱臭剤やホルマリン,クレゾールの匂い。完全遺体492のうち五体がすべてそろったもの177体,離断遺体,分離遺体,移棺遺体のうち部位を特定し得るもの680体,部位不明の骨肉辺893体……。520人の身体が,2065の遺体として体育館に運ばれたことになる。 

 首からスパッと切断されているが顔面頭部にはほとんど損傷のない女児の頭部。炭化した15センチ×15センチくらいの肉塊をはがすように精査してみると2つの頭部が合体したもので,歯型,歯根の照合によって夫婦であることが確認される。顔の骨がぐしゃぐしゃに粉砕されてむくんだようになった少年の顔を担当の警察官が両手ではさみ,粘土で型をつくるように寄せると「あっ,うちの子です」と棺の中の遺体を抱き起こす父親。目が3つあるように見えるので調べてみると,他の人の頭部が顔面に,つまり頭の中に頭が入ったような遺体であった。前頭部が飛び,両手の前腕部,両下肢がちぎれた黒焦げの父の遺体の前で唇をかむ14歳の長男。素手で手首のない子どもの腕をさすり,片側半分だけが残った頭部に頬ずりをする母親。
 御巣鷹山に災害派遣出動した陸曹長の話」。
 「この事故の中で一番に辛かったのは、後の遺体の捜索だったと曹長はその時の事を語ってくれました。遺体の捜索は、まさに惨事だったらしく、細かく砕け散った遺体を集める時、何度も吐いてしまったと曹長は語り、防護マスクやそんなものは無く、タオルを巻いて匂いを遮断しながら、ただ遺体を回収していた曹長達。途中強面の上官が涙を流しているのを見て、複雑な心境を抱いたと話してくれました。夏の炎天下に腐敗していく遺体の数はただ多く、幾ら回収しても、次から次へと見つかるそれらは、本当に全てを見つける事が出来るのかと不安に駆られてしまい、見つからなければ帰れないのかと、憂鬱な事を考えてしまう一方、遺族の気持ちを考えると、どうしようもない葛藤の中で曹長達は作業を進め、ようやくにして帰還したのが、三日目の朝だったらしいです。ヘリで小学校まで移動し、また騒然としていた現場を見ながら、その災害地を後にした曹長達。この派遣は一生忘れることのできない事だと語ってくれました」。

【機長の遺体の焼失考】
 機長の遺体で確認されたのは上顎の一部だけである。これに歯(5本)がついていた。これが歯医者にかかったときの記録と一致し機長本人と確認できた。

 当時はDNA鑑定などなかったので、断片化した遺体の身元確認は困難を極めた。同時に機体前部や中部では激しい衝撃で遺体は断片化し、火災などで着ていた衣類は焼け、遺体は炭化するなど遺体確認は困難を極めている。

 2015年08月16日「心霊ちゃんねる
 乗客が集まっているところの焦げかたが酷かった。黒焦げの死体写真を見ると、哀願のポーズや逃げようとして焼かれたようにも見える。
 機外に投げ出された遺体が焼け焦げている。
 木々がたいして焼けてないのに遺体と機体だけが黒焦げの不思議。
 最大の誤算は、不審な動きに気づいた長野県警が割り込んできたことだな。中曽根の息がかかった自衛隊と群馬県警だけだったらどうなったかわからないな。
 生存者が出たのは、単なる見落としだろう。夜だったからね。
 123便は頭から突っ込んだのでなく、背中から墜ちて2つに割れた。当然エンジン付近の乗客は全滅だろうが、前部と後部には生存者が多数いたはず。前部は焼かれ、破壊されたのだ。
 エンジンも燃料もない前部が黒焦げっておかしくないか?しかも墜落直後に米軍が撮影した写真だと前部は全く燃えてなかった。 しかし朝に撮影された写真は前部が黒焦げ。
逆に後部は燃えてないのに光っていた。後部が光ってたのは劣化ウランか?
 事故現場の急斜面でなぜか墓標がいくつもまとまっている。あの急斜面だとバラバラになるはず。これは生存者を救助すると騙して、一ヶ所に集めて焼き殺すということを何度もやった証拠なのではないだろうか。

 「「あんなの人間の遺体やない!」日航機事故で娘3人を失った夫妻の怒り」。
 あの悲劇の大事故から今年で30年。3人の娘を奪われた田淵夫妻が初めて明かしてくれた事故後の凄絶な日々。それは想像をはるかに超えるものだった――。

* * *

 そのとき、親吾さん(当時56歳)は父の代から続く町場の石鹸工場で働いていた。輝子さん(同51歳)は、旅行から帰宅する3人の娘たちの夕食の準備に追われていた。ふだんと変わらぬ日常だった。田淵さん一家は、夫妻と長女の陽子さん(当時24歳)、次女満さん(同19歳)、3女純子さん(同14歳)の5人家族。実直な人柄の親吾さんは、子どもたちの学校で役員を務めるなど社交的な面ももつ。一方、輝子さんは夫の工場を手伝いながらも、子どもと過ごす時間を最優先に考え、娘たちが外出した際はどんなときでも眠らずに帰りを待つような、情愛の深い母親だった。そんな夫妻のもとで3人の娘はのびのびと育っていく。長女の陽子さんは親吾さんの会社名「山陽油脂」から一文字をとって名づけられた。仕事や家事で忙しい両親に代わって、妹たちの面倒をよくみるしっかり者である。次女の満さんは予定より1ヵ月も早く生まれた子だった。満さんがお腹のなかにいるとき、母親の輝子さんは妊娠中毒症で、医師からは「お子さんの命はあきらめてください」と告げられている。「せめて名前だけは満期に」という願いを込めて「満」という名前をつけた。控えめな大人しい性格で、飼っていた猫が一番懐くほど優しかった。3女の純子さんは「純粋に物事を考えるように」という意味で名づけられ、その名の通り真っ直ぐ育っていく。「純ちゃんは愛嬌がいいから、私の代わりにお使いにいくと、商店街のおじちゃんやおばちゃんがよく割り引きしてくれたんや。だから私もよう重宝したわ。学校や近所でもえらい人気者やった」。娘たちの話になると輝子さんは夢中になって止まらない。

 遊びにいくときはいつも一緒だったという3姉妹。御巣鷹の尾根の墓標には、そんな3人の写真が陶板に加工され貼り付けられている。日付は1985年8月9日。事故機の残骸から燃えずに見つかったフィルムを現像したもので、3人が一緒に写った最後の写真だ。私は輝子さんがこの写真をじっと見つめながら放心したような状態でつぶやいた一言が忘れられない。「どこに行くのも3人一緒。天国に行くのも3人一緒や」。事故の3日前の8月9日。3人は旅行のため、大阪の伊丹空港を出発する。茨城県で開催中だったつくば科学万博や東京ディズニーランドなどを回る3泊4日の予定だった。毎年夏休みに行われる3姉妹の恒例行事。当時、司法書士事務所に勤めていた陽子さんは夏のボーナスが出ると、そのほとんどを旅行費用に充てた。忙しい両親を気遣い、長女の陽子さんが妹たちを誘っていたのである。当初は尾瀬に行く予定だったが、親吾さんは、何気なく、科学万博に行くよう勧めた。「尾瀬にはいつでも行けるけど、万博は今年限りやからそっちに行ってきたらどうやと口を挟んでしもうて……。それで予定を変更して123便に乗ってしまったんや」。目をつぶって額を押さえ、悔しさを隠しきれない。親吾さんは事故後、ずっと自分を責め続けていたのである。墓標に置かれた備前焼の3体の、かわいらしい地蔵をさすりながらつぶやいた。「わしが余計なことを言わなければ……悔やんでも悔やみきれん」。

 機体の残骸から見つかったフィルムにより娘たちの最後の足取りがわかった。3人は出発した9日に羽田空港から科学万博会場に向かっている。3人一緒の最後の写真は、9日の夜、万博からの帰りの電車内で撮影したものとみられる。純子さんが身につけているイヤリングとネックレスは、姉の陽子さんから借りたものだ。翌日の10日も万博に寄っている。古代遺跡の彫刻を模ったパビリオンの前で陽子さんと純子さんが2ショットで写っていた。満さんはタイムカプセルにハガキを投函する姿が写真に収められている。これは「ポストカプセル2001」という企画で、このポストに投函すると16年後の2001年正月、つまり21世紀の元旦に自分宛てに配達してくれるというものだった(満さんが投函したハガキは、その後、田淵夫妻が大阪から兵庫県に引っ越ししたため、2人のもとに届くことはなかった。後日調べたところ、住所不明のため、すでに廃棄されていたことがわかっている)。万博を楽しんだあと、10日夜には千葉県で花火を見ている。たくさんの花火がフィルムに収められていた。翌11日はディズニーランドに行っている。そして最終日の12日、3人は東京タワーを訪れたのを最後に、午後6時12分発の日本航空123便に乗り込んだ。羽田から大阪・伊丹空港へ向かうはずの機体は、離陸から12分後に操縦不能となり、約32分間ダッチロールを続けた後、6時56分に御巣鷹の尾根に墜落したのだった。

 田淵夫妻が最初に事故を知ったのは、テレビで搭乗者名簿に3人の名前が載っているのを見た、輝子さんの妹からの連絡だった。「あの子たちはいつも最終便で帰ってくる。だからその便には乗ってへんから大丈夫よ」。輝子さんはそう妹に答えるとともに、自分にも言い聞かせた。だが次第に明らかになってくる情報はどれも悲観的な内容ばかり。親吾さんは当時を振り返る。「頭からすべてが吹き飛んだ。不時着をただ祈るだけだった」。一方の輝子さんは、娘たちが亡くなっているとは想像だにしなかったという。「きっと山の中でけがをしているから、早く助けてあげなければと思ってた。死んでいるなんて夢にも思わへんかった」。

 残酷すぎる現実

 田淵夫妻は事故当日、日航が手配した大阪のホテルに駆けつけ、翌朝の臨時便で羽田空港に飛び立った。到着後、すぐにバスで群馬県藤岡市に向かう。一刻も早く娘たちに会いたいと登山靴や雨具を用意してきたが、なぜか一行が到着したのは学校の体育館だった。墜落現場での捜索ではなく、ここに運ばれてくる遺体の中から肉親を確認する作業が待っていた。生存を信じている人々にはあまりにも残酷な作業だった。山中に突っ込んだ機体は大破して炎上。奇跡的に4人が救助されたが、亡くなった520人の遺体の損傷は激しかった。首と胴体がつながっている完全遺体はわずかで、大半が部分遺体。当然ながら、身元の確認作業は難航した。しかも、真夏に起きた事故であるため、遺体の腐乱は早い。クーラーもない体育館のなかは暑さと激しい臭いが充満している。多くの遺族は肉親を失った苦痛を背負いながらも、なんとか身体の一部だけでも戻ってほしいとの思いから、遺体との対面を繰り返していた。田淵夫妻が初めて遺体の確認のために体育館に入ったのは、事故から3日経過した15日。それまでは別の体育館で遺体の検視を待っていた。ずらりと並べられた柩に入っていたものは誰のものともわからない身元不明の遺体。一つ一つ確認しても手がかりは見つからない。体育館を出た瞬間、輝子さんは叫び声をあげながら、日航職員におしぼりを投げつけてつめ寄っていた。「うちの娘とは違う!あんなの人間の遺体やない!」。

 「初めて体育館で遺体に会わせてもらったときは……忘れられへん」。御巣鷹の尾根にある墓標の前で、輝子さんが当時の様子を話してくれたことがある。その場で力なく腰を下ろし、首を振りながら言葉に詰まった。「これは遺体やない、山の木を焼いたんやろって。声がひとりでに出たんよ。そのあとは私あまり意識ないね」。輝子さんの沈痛な表情を見て親吾さんが代わった。「あまりにも酷い状況下で感覚が麻痺し、臭いも気にならない。涙も一滴も出なかった。ただ娘たちを確認することだけに無我夢中やった」。3人の娘は燃料タンクの近くに座っていたため、火災による遺体の損傷が激しかった。親吾さんの弟で現地に駆けつけた田淵友一さんは当時、大阪府警の警察官を務めており、仕事柄遺体と向き合う機会が多かった。だが、遺体のあまりの損傷の激しさに「兄夫婦には絶対に見せられない」と思ったという。結局、輝子さんは満さんの手の一部だけは自分で確認した。満さんの手にあった傷の特徴を知っていたのは輝子さんだけだったからである。確認する箇所以外は全身が包帯で巻かれていたが、それでも変わり果てた姿が目に焼きついて離れない。「バカにするのもいいかげんにせえって言ったんや。人間の遺体というよりは炭のようやった」。3人の遺体の最終確認を終え、大阪の自宅に戻ったのは20日。2日後の22日に葬儀が行われた。輝子さんは、陽子さんの柩に、白地に赤い花柄模様の振り袖を入れた。長女のために自分で仕立てたお気に入りのものだ。満さんの柩には、成人式のために用意していた反物を急いで仕立てて入れる。純子さんには、陽子さんが成人式で着た赤地の振り袖を分けて入れてあげた。葬儀の様子を撮影した写真が残されている。祭壇には陽子さんの遺影を中央に左手に満さん、右手に純子さんの写真が並んだ。位牌をもつ親吾さんはうな垂れ、その傍らに立つ輝子さんは憔悴しきった表情をしている。中学生だった純子さんの同級生をはじめ、歩道から溢れ出そうなほど多くの参列者が3台の霊柩車を見送っていた。本当に大変だったのは葬儀が終わった後だった。輝子さんが錯乱状態に陥ったのである。

 『悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機墜落事故の30年』
 著者=西村匡史
 講談社/定価890円(税別価格)

 「うさしびより」より「2006/10/20」。「墜落遺体」(著者:飯塚訓、出版:講談社(文庫))
 痛く、つらく、恐ろしい本でした。自分のブログにも書きましたが、私の想像をはるかに越えた惨劇だったことがよくわかります。あの「日航機墜落事故」。坂本九さん、北原瑶子さん、阪神の社長さんだかも乗っておられたあの、123便が、群馬の御巣鷹山に落ちたのは、私が15才の時。夏の暑い頃でした。ニュースをみて驚いているところに、連絡網が回ってきて「〇ちゃんのお父さんがあの飛行機に乗ってたんだって!」。数日後、お葬式に参列しましたが、もちろん声をかけることなどできませんでした。でも、その時は、私は彼女のお父さんが、棺の中で静かに横たわっているのだと思っていました。昨夜、この本を読んで、愕然としました。まともな体で戻ってきた遺体などないことに。作者は、当時、群馬の警察に勤務していた方で、遺体検死担当をされていたとのこと。その方のかくリアルな描写。事故の一報が入ったあと、すぐに山の中に入り、村の体育館にビニールシートを敷き詰め、遺体が届いたらすぐに検死できるように準備をされたのですが、慣れている飯塚さんや検死官、医師たちですら想像できなかったほどの地獄のような現実がその後次々とおそってきます。40度を越える、しめきった体育館の中での検死。それも、ある程度人間の形をしていれば分かりやすく早くすむところを、「これはなんだ、木切れか?」・・・中の肉がすべて吹っ飛び、焼けた皮膚だけの状態で木に巻きついていた人間の手でした。「このドッジボールはなんだ?」・・・丁寧に広げていくと、頭部の皮膚が丸まったものでした。スッパリと切断された首。機体に挟まれたままの髪の毛と頭皮。頭部上部が飛ばされ、中の脳髄がすべて外に出た状態のぺたんこの顔。下半身が180度ねじれ、皮1枚でつながっている少女。顔面に眼球が3つあり、よく調べると別の人の顔がクビの後ろからめりこんで重なっていたというものもあったそうです。1体だと思っていた縮こまった死体をひらいていくと2体がくっついたものだったり、お母さんが恐らく子どもを抱きしめた状態で落ちたのか、子どもの顔が母親のお腹にめりこんでいるものもあったとか。指だけのもの。足首だけのもの。頭部のない遺体。皮だけの遺体(あまりにもすごい力がかかると、人間の体はポンと皮だけ残して中身が外へ出るのだそうです・・・)。血液型を調べたくても、落ちた時に体液は流れ出てしまっており、骨などからしか血液成分がとれないため時間がかかる。遺族は怒る。警察・医師・看護婦さんたちは不眠不休で次から次へと運ばれてくる「かつては人間だった」体の一部を検死したり、きれいに拭いてあげたり、縫合したりされている・・・読めば読むほどそのすさまじさに絶句です。遺体と線香と汗の混ざった臭気もすごく(なんと換気扇が壊れていたそうです!)、蛆は通常の2倍に太り、蛆殺しをふりかけてもふりかけても足をはいのぼってくる、遺体からぞろぞろと出てくる・・・中には顔だけの幼児の遺体が、引き取り手のないまま何日も置いておかれ、著者が毎晩その子を撫でながら泣いたというエピソードもありまし(泣)。赤十字などの看護婦さんたちが、現場では一番冷静でテキパキと対処してくれたという話も紹介されていました。ニュースに名前がなくとも、誰よりも尽くした人たちのおかげで、多くの体が家に帰ることができたのだなあと思います。

 遺族の方たちの苦しみ、衝撃も、目の前で見ているような感じで伝わってきました。誰もが知っている事故なのに、これほど悲惨な現実をほとんどの人が知らないでいると思います。この本、文庫で手軽なので、ぜひ、読んでほしいと思います。息子にももう少ししたら読ませたいと思います。今、いろいろとゆがんだ日本社会の中で、甘えた自分勝手な人生を送り、簡単に人を殴ったり殺す人たち、仕事もせずブラブラしていたりする大人たち、老人を敬わず子どもの命に優しい目を向けられない人たち、大人をバカにして自分は何も努力しない若者・子ども、自分だけが不幸だと思っている人たち、自分の利益のことしか考えずいばっている人たち、これらすべてを招集してこういう現場を見せたいですし、それを見ても「自分は不幸」だと思い、「生かされている幸せ」に気付けないかと問いたいです。

 学校の生活科や道徳の時間に、少しだけでいいから先生の言葉に言い直して、紹介したりしてほしいですね。風化させてほしくない気がします。ネットで現場写真も見ましたが・・・皮だけで木にぶらさがっていたり、血だらけの足だけが言葉もなくころがっていたり・・・これらの前で呆然としている捜査員の姿に心動かされました。足の踏み場もないほどの凄惨な場所です。しかし、あの険しい山奥で、歩くのも危なく困難なところで、4人の生存者を見つけたことは、すばらしい奇跡です。また、遺体か木切れかどうかもわからないようなものを一つひとつ拾われた人たちの努力もすごくて頭がさがりました。「家に、遺族に、帰して(返して)あげたい」という一心だったのだと思います。他にも、日航機事故関係の本を探してこれからいろいろ読んでみたいと思っています。

【多量のベンゼン環発見考】
 日航123便墜落時、日航スチュワーデスだった青山透子氏は、その後、東大大学院に進み、博士号を取得、ノンフィクション作家として、日航123便事故追求に生涯を捧げてきている。その著作「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る 」(2017/7/17)が次のように記している。
 概要「墜落現場の遺物をたくさん持ち帰り、精密検査をしたところ、多量のベンゼン環が発見された。 ベンゼン環は、123便ジェット燃料には決して含まれないものである。捜索隊が現地に到着したとき、ガソリンとタールが混合したような激しい臭気に満ちていたとの証言がある。遺体の炭化度の凄まじさから、これは墜落時に漏洩したジェット燃料火災によるものでなく、人為的に火炎放射器によって、遺体と現場が焼かれていたことの非常に明瞭な証拠である」。

 「★阿修羅♪ > 日本の事件32」のてんさい(い)氏の2018 年 8 月 17 日付投稿「日航123便、墜落原因の続報 森永卓郎・青山透子・ベンゼン環(東海アマ)生存者を虐殺してまで隠蔽したこと」。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-445.html

 大竹交遊録、森永卓郎のラジオ番組で、1985年、御巣鷹山に墜落して五百数十名の命を奪った、日航123便事故について、驚異的な新証拠が発見されたとの続報が話された。

  https://www.youtube.com/watch?v=fwhvLdZrMHk

  先の、日航123便の森永報告は

https://www.youtube.com/watch?v=H7MVF14ir8Q&t=10s

  これについての私のブログは

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-339.html


  日航123便墜落時、日航スチュワーデスだった青山透子氏は、その後、東大大学院に進み、博士号を取得、ノンフィクション作家として、日航123便事故追求に生涯を捧げてきた。

 日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る 単行本
  2017/7/17 http://amazon.jp/o/ASIN/4309025943/asyuracom-22

  彼女は、1985年に墜落し、すでに33年を経て風化した現地の再調査を繰り返す中で、驚異的な新証拠を発見した。墜落現場の遺物をたくさん持ち帰り、精密検査をしたところ、多量のベンゼン環が発見されたのである。ベンゼン環は、123便ジェット燃料には決して含まれないもので、これは青山氏が、最初の現地調査で、捜索隊が現地に到着したとき、「ガソリンとタールが混合したような激しい臭気に満ちていた」との証言と、遺体の炭化度の凄まじさから、これは墜落時に漏洩したジェット燃料火災によるものでなく、人為的に「火炎放射器」によって、遺体と現場が焼かれていたことの非常に明瞭な証拠である。

  また、墜落時に、米軍は墜落機を追尾して、現地を確認し、即座に救助隊を送り込んだのだが、日本政府が、これを阻止し、米軍による救助を拒否し、さらに自衛隊の先遣隊が、その日のうちに現地に到着していた証拠があった。これらの事実について、公的資料から明らかにされているにもかかわらず、政府もマスコミも、まるで統制されているように、一様に口をつぐんでいるのは、フクイチ事故の被曝障害の実態を絶対に報道しないことと同じである。この先遣自衛隊が、火炎放射器を使って、まだ生きていた遺体ごと現場を焼却し、証拠隠滅を図ったとみて間違いない物証が出てきたわけである。そして、後発自衛隊員が、現地に近づくと、これを銃撃したことがNHKの実況中継から示された。後発隊の数名は、先遣隊が生存者を殺害している現場を目撃したことで、自殺に見せかけて殺害された。

  いったいなぜ、現場を完全に焼却して証拠隠滅する必要があったのか? 中曽根康弘は、123便事故について、「墓場まで秘密を持って行く」と語った。

  http://rapt-neo.com/?p=28575
 https://anincline.com/nakasone-yasuhiro/

  中曽根康弘が墓場に持って行く秘密とは、いったい何なのか?

  青山透子の現地調査と証言採集から、123便を、追うようにオレンジ色の物体が追尾していたという証言が得られている。註、青山が採集した証言では、オレンジ色の物体が、尾翼に張り付くようにしていたと、たくさんの証言があり、相模湾上空で尾翼を破壊した模擬ミサイルが、そのまま水平尾翼に乗っかるようにして、御巣鷹山まで飛んだと考えられる。これを目撃した、機体後部の乗客を皆殺しにしたのである。火炎放射器を使った理由は、おそらく乗客のカメラを完全に焼いてフィルム証拠を隠滅するためだっただろう。

  これは、証言から、自衛隊が訓練用に使用している模擬ミサイルの破片であると考えてほぼ間違いない。日航123便を、異常飛行を起こす前に、二機の自衛隊戦闘機が、追尾していたと報告が多数あり、この機が装備していた模擬ミサイルの破片が墜落現場から発見されているのである。この模擬ミサイルが、123便の尾翼、圧力隔壁を破壊したのは、ほぼ確実といえよう。そうすれば、落合客室乗務員の証言と完全に一致した経過が明らかになる。

  http://www.link-21.com/JAL123/011.html

  自衛隊は、おそらく訓練として自衛隊機が模擬ミサイルを123便に発射し、それが尾翼を破壊して五百数十名の死者を出した事実を、墜落生存者を虐殺してまで隠蔽したかったのである。墜落時に多数の生存者がいたことも、たくさんの証言から明らかになっている。そして、たまたま、機体が分裂して前部が遠いスゲノ沢中に落ちて、後部の現場から見えなかったことで、落合さんや川上さんたちが殺害されずに救助されたのである。先遣自衛隊に発見された機体後部の生存者は、その場で火炎放射器によって激しく焼かれて殺害された。


 自衛隊は、なぜ、ここまで人道上の致命的な極悪判断をしてまで、証拠を隠滅したかたのか?  おそらく、当時、防衛予算枠の1%枠問題があり、自衛隊に問題があることを知られたくなかったという強い意志が中曽根政権に働いた可能性があるが、詳細は分からない。中曽根は、「強い日本」の標語を掲げ、防衛費の大幅増大により、三木内閣が設定した1%枠を廃棄しようとしていたのであり、123便を自衛隊が墜落させたということになれば、おそらく巨大な問題になると同時に、中曽根政権の存続さえ危うくなると考えたのであろう。

  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E8%B2%
BB1%25%E6%9E%A0


  中曽根が墓場に入るのは時間の問題だが、日航123便事故について、「墓場に持って行く」と語った秘密は、身の毛もよだつほどの恐ろしい内容であることは間違いないだろう。これほどの巨大な事件と残酷な証拠隠滅行為を、例え防衛庁長官であっても命令することなどできない。乗客をカメラごと火炎放射器で焼くよう命令できるのは、中曽根康弘総理大臣、ただ一人である。

  森永卓郎は、翌年、中曽根政権がプラザ合意によって、日本側が致命的に不利になり、その後の、数十年にわたる日本経済低迷の原因となった奇っ怪な経済協定について、なぜ、日本側が極端に不利な合意を飲まされたかについて、おそらく、この事故の隠蔽をネタにアメリカに脅されたのだろうと示唆している。これは十分にありうる話で、墜落時、米軍は完全にレーダー追尾していて、戦闘機も飛ばして墜落現場を確認して、救助ヘリまで送り込んでいながら、日本政府の要請によって撤退している。おそらく、アメリカ側は、この事件の真相を知っており、これを取引材料に使って中曽根政権を脅し、後々、日本経済を崩壊させるほどの不公平協定を結ばせたと考えるのには、十分すぎるほどの根拠がある。  

【助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された 】
 助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4121599.html より(抜粋引用) 墜落は単なる事故ではなく、驚天動地、世界規模の大事件だった!
 8月13日04:00頃 墜落翌日まだ夜も明けぬ早朝、白バイを振り切って、長野県からオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者達2人。生存者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのをはっきりと聴いた。およそ50人と推測。指が欠損しただけの、比較的軽症の人も。この人は助かる、と確信。既に到着していた100名くらいの自衛隊員。片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴は急峻な山での作業に適した短靴。1時間後、次の部隊が続々と到着。後から来た部隊は山で歩きにくいブーツ着用。 しかし、彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。何故だ!? 何故この部隊は救助をしない!? 目の前で多くの人々が手当を待っているというのに!!人命より優先される回収物とは、一体何だ!?以下にその件についてのウェブサイトを紹介する。
 ☆世界の真実の姿を求めて!TV新聞報道では、助かった4人以外に少なくとも生存者が3人、合計7人の生存者がいた(この日本経済新聞の記事は日航パーサー落合由美さんを忘れている。従って8人が正しい。)。しかし、4人は報道直後突然失踪!彼らは一体どこへ消えたのか!? さらに最低50人くらいの生存者が墜落現場にいた、指先が1本ちぎれただけの男の人もいた、と、まだ夜も明けやらぬ現場に駆けつけた若者は証言!生存者達も同様、墜落現場では多くの人達が助けを呼んでいたと証言。

 ☆川上慶子さん(当時12歳)は、同乗の両親と妹が亡くなるも奇跡的に生還。病院を退院後、島根の実家に帰った際に証言:墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近づいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。(慶子さんは意識が無くなって幸運だった。もしその時懐中電灯の人物に助けを呼んでいたら、彼女の今日は無かっただろう。近くに居た、落合由美さんや吉崎さん母子の今日も…理由は後述。)

 この墜落現場で「生き残った罪も無い乗客、乗務員にとどめを刺した者達」は恐らく国籍が日本では無い、と信じたい。来るべき極東有事を演出するために特別訓練された、日本の自衛隊を偽装した部隊の可能性が高いのでは? 任務遂行のみに全神経を集中する訓練と共に、部隊を編成するに当たって「日本人を嫌悪する教育」を受けた者達が選ばれたのではないか? 123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか? 『お前達は何者だ!?乗客乗員の救助に来たんじゃないのか?』 現場で何が起こっているのか、理解している人はほとんどいなかったであろう。彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた。


 原発問題さんより
 http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/a1a847e042b50e4899e8cc57750e87d1
 一部画像など追加してます<転送開始>

 彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれていた
 【JAL123便墜落事故】

 国家機密を守るため、特殊部隊が編成され事故処理にあたった。123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか?彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた。待機命令に反し、人命救助に急いだ隊員は射殺された。精神状態がおかしくなる隊員も少なくなかったという。口外すれば家族にまで危害が及ぶと言う事を暗にほのめかされ・・・・

 日航ジャンボ機JAL123便墜落事故(M氏の証言箇条書き完全版) 2011/1/8 
・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に自衛隊員が既に100名程度は来ていた。
・自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた。
・4~50名の生存者の声が聞こえた。
・1時間後には生存者の声が全く聞こえなくなった。

 (事故概略)

 1985年8月12日18時12分に羽田を大阪に向け離陸した日航123便(ボーイング747型ジャンボ機・乗員15人、乗客509人、計524人)は離陸してまもなく大島西方上空付近で機体の異常を訴え、数十分間ダッチロールと呼ばれる異常飛行の後、18時56分すぎ、群馬県上野村の三国山の北北西約2.5キロメートル、標高1,565メートルの通称・御巣鷹の尾根に激突し炎上した。4名の重傷生存者と520名死亡の犠牲を出した。このとき、横田基地所属のC-130機が墜落現場を発見し、座間基地所属の陸軍ヘリUH-1が救助活動のため現場に入ろうとしたが、どうした訳か(日本政府から協力を拒まれ?)、墜落現場の真上でロープ降下しようとしていた救助ヘリと上空で待機していたC-130を引き返させるという不可解な命令が出た。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせている。

 自衛隊は、当日から明け方まで墜落場所の誤報を意図的に繰り返していた。 朝になって長野県警のヘリが正確に位置を確認、 生存者を発見したのも長野県レスキュー隊。 自衛隊はそれまで何かを運び出すのに精一杯だった。(意図的誤報についての引用元) 実際の事故機墜落現場は早くからわかっていたが、訓練中の標的機(オレンジ色)が123便にぶつかった残骸の回収を優先。


 My First JUGEM! 平和立国さんより
 http://heiwarikkoku.jugem.jp/?day=20100601
 <転送開始>

 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。ナゾの自衛隊のチームのナゾの10時間の行動。かれらは何をしていたのか。狭い空間に三人もいて高浜(機長)さんだけ木っ端微塵になったのはなぜですか。コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。

 当時、突然垂直尾翼が大破し、不可解な「攻撃されているというSOS信号」が発信され(JAL123便の「スコーク77」の発信) 自衛隊機2機がスクランブル発信しました(自衛隊のマッチ・ポンプ?)。そのあと墜落までの数十分間 管制塔との交信がされていて、レーダーでも捕捉されています。そして空中でナゾの爆発が2回起こり(前後に付き添う2機の自衛隊機が目撃されています)とうとう御巣鷹山に墜落。

 「奇跡的四人の生存」の件だが、これは現場自衛隊員による、上官命令に逆らった「名誉ある反乱」の結果だろう。軍事隠蔽からすれば「全員死亡」がシナリオだった筈だ。御巣鷹山墜落現場に辿り着いた消防・救命救急及びアメリカ軍・救命救急まで「軍事拒否」している訳だし。

 自衛隊員の告白

 本当の話です。事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)…と言って話してくれた事は、「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と。

 実際の事故機墜落現場は早くからわかっており、地元民らは救出に向かおうとしていたのに、わざと違う事故現場を報道させ、また地元民らにも救出に向かうことを禁止した。

 日本自衛隊・人命救助に急ぐ隊員を射殺!JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨、当日のNHKニュースで発表。

 これもまた鋭い資料だ!!! 2007年08月27日 ●衝突6分前から気付いていた操縦クルー(EJ第1056号)JAL123便の操縦クルーは、謎の飛行物体にぶつかる少し前に気がついていたの ではないかと思われるフシがあります。JAL123便が羽田空港を離陸したのは、午後6時12分のことです。そのまま順調に飛行を続け、水平飛行に移行した午後6時18分過ぎ、右側に富士山と江ノ島が見えます。高度は約3500メートル。富士山と眼下の相模湾が一望できる風光明媚な場所で、この場所を飛行するパイロットたちがホッと息をつく瞬間だそうです。そのとき、右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたのです。あり得ないことであるだけに、操縦クルーに緊張がはしります。「危ない!衝突する!」 。それとほぼ同時に、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)も、その飛行物体に気がつき、それをカメラに収めているのです。この写真は、JAL123便事件の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになるのです。


 加藤紘一氏(当時 の防衛庁長官)

 事故当夜、現場の上空まで行っていた!!遭難者を救助する前に、自衛隊が「大事件」証拠物件を搬出するのを見届けに行ったのか?





(私論.私見)