事故後30年。日航123便はなぜ墜落したのか。私を含め、この疑問を持ち続けている人たちがいる。それは、現場で歯型から身元確認を行った群馬県警察医で歯科医師の大國勉氏、拙著を読み、ぜひ話をしたいと出版社に直接いらしたご遺族の吉備素子氏、事故機で亡くなった客室乗務員のご親戚の方や事故時の関係者、元自衛隊員、詳細に調べた読者の方々、御巣鷹の尾根に今もなお残っている飛行機の残骸を送って下さった方もいた。皆さんの本心から湧き出る怒りの言葉には、いまだに数多くの疑問が残る事故原因をなぜマスコミは追及しないのか、という憤りが満ちている。
事故原因については、一部の過激な陰謀説、根拠の薄い推理や憶測も多く、それがかえってこの事故原因の再調査や追及を妨げていることは本当に残念である。私自身、出版の際に膨大な一次資料を読み込んでいる過程において、これは本当に事故なのか、何かおかしいのではないか、と疑念を持つようになっていったのだが、それを語ると、はなから陰謀説だと烙印を押されてしまう困難に遭うのである。おそらく一般の方々には、圧力隔壁修理ミスが事故原因である、という報道しか届いておらず、それも無理もないことではある。しかし、30年も経ち、今もなお、遺族のみならず、墜落現場となった群馬県上野村の救助にあたった消防団員や警察関係者、さらに医師であっても、事故時の様々な状況に疑問を持ち続けている人が、実際にいるのである。それを知る以上、私は一つの使命として、この5年間、地道にこの疑問と向き合い調査を続けてきた。
そしてさらに多くの方々に出会い、たくさんの資料を送って頂いた。その中で、当時の群馬県上野村の小学校、中学校の生徒が書いた文集を読んだ時、もっとも大きな衝撃を受けたのである。群馬県上野村立上野小学校148名の日航機墜落事故についての文集「小さな目は見た」(1985年9月30日発行)と、群馬県上野村立上野中学校87名の日航123便上野村墜落事故特集「かんな川5」(1985年10月1日発行)である。約53%の子供たちが、事故当日について詳細に書いていた。当時の小学校の校長先生に、先日内容の確認をとったが、事故直後にこの証言集を書かせた理由は、「事故時に見聞きしたことを書き記すことで、520名の人々の真の供養になる、さらに、この事故について、曖昧にすればいずれ忘却の彼方に追いやられることは必至であり、この子供たちの未来のために書かせた」との思いからであった。
特に、「18時45分」という具体的な時刻を書いた小学生H君の目撃情報は次の通りである。
「8月12日の夕方、6時45分ごろ南の空の方から、ジェット機2機ともう1機大きい飛行機が飛んで来たから、あわてて外に出て見た。そうしたら神社のある山の上を何周もまわっているからおじさんと『どうしたんだんべ。』と言って見ていた。おじさんは、『きっとあの飛行機が降りられなくなったからガソリンを減らしているんだんべ。』と言った。ぼくは、『そうかなあ。』と思った。それからまた見ていたら、ジェット機2機は、埼玉県の方へ行ってしまいました。それから、おれんちのお客が出てきて『飛行機がレーダーから消えたんだって』と言った。おじさんが『これは飛行機が落ちたぞ』といいました(ママ)」。
これに似た内容は中学生によっても記されているのだが、大きな飛行機1機が日航機だとすると、ジェット機2機はなんだろうか。その疑問を抱えたまま、私は、群馬県警が発行した当時の日航機事故特集記事の中に、非番の自衛隊員K氏が書いた文章を見つけた。
「8月12日私は、実家に不幸があり、吾妻郡○村に帰省していた。午後6時40分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム2機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。『何か事故でもあっただろうか』と兄と話をした。午後7時20分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。」
午後6時40分という時間に、非番の自衛隊員が、航空自衛隊ファントム2機を目撃している。群馬県上野村の子供たちと同じように、日航機の墜落前の時刻である。
当時、航空自衛隊中部航空方面隊司令官だった松永貞昭氏は、機影消失(墜落)の1分後に出動命令を出して、ファントム2機を飛ばしたと語っている。その時刻は、公式記録によると、日航機墜落後の19時01分。空自百里F4EJ、2機緊急事態と認識して発進。それ以前には自衛隊機は一機たりとも飛んでいない、ということになっている(『読売新聞』2000年8月11日付)。それでは、墜落現場の子供たちや、非番の自衛隊員が見たファントム2機は、何だったのだろうか。これが最大の疑問である。なお、これ以外に静岡県内での目撃者もいる(詳しくは『週刊金曜日』8月7日号6頁の拙稿参照)。
これらの目撃情報から推測できることは、次の通りである。墜落前の日航機を追尾していたファントム2機は、公式発表には出てこないが、実際に目撃されている。その2機は、日航機の垂直尾翼付近の状況や飛行状況を把握しながらこれを追尾し、最後の墜落地点まで見届けた可能性がある。とすれば、少なくともまだ明るいうちに、墜落現場を特定出来たのではないか。
2010年11月10日、当時の運輸大臣だった故山下徳夫氏にお会いした際、「遺族が事故原因に疑問に持つならば、必ず再調査をすべきだ」とおっしゃっていたのを思い出す。御巣鷹山頂に建つ石碑(冒頭の写真)も、そのことを問い続けている。
戦争でもない「平時」の1985年に、故意過失を問わず、事故原因に関して何等かの関与が自衛隊にあったとするならば、それは重大な問題であり、それを明らかにせずして、そのような自衛隊を海外に行かすわけにはいかない。520名の天空の星たちが、この行方を注視している。
|