元日航客室乗務員/青山透子氏の告発

 更新日/2024(平成31→5.1栄和元/栄和6).6.8日

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 2015.08.11日 れんだいこ拝


【元日航客室乗務員/青山透子氏の告発】

 青山 透子 (アオヤマ トウコ)


 元日本航空国際線客室乗務員。国内線時代に事故機のクルーと同じグループで乗務。日本航空サービス関連子会社設立時には人材育成プログラムの開発や講師。その後、官公庁、各種企業等の接遇教育に携わり、専門学校、大学講師として活動。東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程修了、博士号取得。

 以後、日航123便墜落事件で亡くなった同僚への追悼の念から事故調査を開始。あらゆる文献を収集し、全国から目撃証言を集め、また自身の勤務経験から得た日本航空の内情を分析しつつ、墜落事件の真相究明に取り組む。また研究者、弁護士、有識者たちと立ち上げた「日航123便墜落の真相を明らかにする会」(会長はご遺族の吉備素子氏)の事務局も勤める。こうした調査・研究の成果が『日航123便 墜落の新事実――目撃証言から真相に迫る』(河出文庫)等にまとめられ全国学校図書館協議会選定図書となる。

 元日航客室乗務員/青山透子氏の告発本「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」(河出書房新社(代表取締役社長:小野寺優)、2017.7.17)。青山氏の事件との関りが次のように明かされている。
 思い出してほしい、あの日の夜を……。暗い夜空を眺めてほしい、そこに何が見えるのか……。そして未来のためにともに考えてほしい。今から三十二年前の八月十二日に何が起きたのかを。

 群馬県多野郡上野村―。あの夜は、山々の稜線が漆黒の夜空に隠れ、ペルセウス座流星群の星たちが次々と流れては消えて、まるで死者の魂が飛び交うようであった。ガーガーガーンと強い衝撃の後、様々な固形物や砂が次々と頭にぶつかり、体が宙に投げ出された。左目は砂にまみれて目が飛び出したように痛い。口は乾き、砂でいっぱいだ。シートベルトが体に食い込んでお腹がちぎれそうに苦しい。「はあ、はあはあ」と荒い息遣いをしながら、つい先ほどまでの身の毛もよだつ恐怖がよみがえる。「ああ、墜落したのだ。大変な事故を起こしたのだ」。周辺からも、はあはあと、荒い息遣いが聞こえてくる。「おかあさん」、「早くきて」、「ようし、僕は頑張るぞ」。そんな声も聞こえてくる。

すると、闇の中からヘリコプターの音が近づいてきた。夏山特有の湿り気のあるもったりとした空気が、一瞬にしてかき乱される。バリバリバリと爆音をたてて、木々の葉を大きく揺らしながらゴーゴー、バババーとホバリングを始めた。辺り一面、埃や砂、機械の臭いが舞い上がる。「ああ、私は生きている、これで助かる」。全身の痛みをこらえ、かろうじて動くほうの右手を必死に空に向かって伸ばした。「助けてください、私は…ここに…」と、夢中で手を振る。「助けて」、「帰っちゃいや」、「誰か来て」。そのような何人もの声をかき消すように、ヘリコプターは爆音と共に段々と遠くへ去っていった。周りでは、はあはあと何人もの荒い息遣いだけが聞こえてきた。

 一九八五年八月十二日(月)。日航ジャンボ機123便(ボーイング747、登録機体番号JA8119)が、東京羽田空港を離陸して、大阪伊丹空港へ向かう途中、突発的非常事態に陥り、「群馬県上野村の御巣鷹の尾根」と後に命名された高天原山系無名の地に墜落した。前述は、乗客乗員五百二十四名のうち、四名の生存者の一人、非番で乗客として乗り合わせた客室乗務員の落合由美さん(二十六歳)が発表した「落合証言」に基づく記述である。当時、墜落後に遺体を検死した医師によると、落合さんが救出された場所の周辺には、つい先ほどまで生きていた痕跡のある生温かい遺体があり、早急に救助がなされていれば命が助かっていたのではないだろうかと思われる遺体が百体ぐらいはあった、ということであった。

 墜落現場が不明のまま夜が明け、翌日の十三日、落合さんは地元の消防団員によって十時五十四分に発見されたが、それから灼熱の夏山の山頂で放置状態となった。生存者発見の通知をうけた日赤の医師二名と看護婦二名は、警視庁のヘリコプターで十二時十三分に現場上空に到着し、救命用綱で降下した。医師と看護婦による応急処置をしたのだが、その後まったく救護のヘリが来なかった。山頂で生存者を見守る地元の消防団からも、「せっかく救助したのだから早く搬送してくれ、自衛隊のヘリに連絡してくれ」という声が次々上がる。医師も声を荒げながら「物資や自衛隊員の降下よりも、救助された生存者を搬送することを優先させてくれ」とその場にいた自衛隊員に詰め寄り、直接交渉をした。

 やっと救護用ヘリが到着し、十三時五分にようやく生存者のヘリへの収容が始まり、子どもから先にヘリコプターで機体に吊り上げられた。落合さんは最後に担架ごとクルクルと回転しながら十三時二十八分に無事収容された。生存者四名を収容した自衛隊ヘリのパイロットは十五分で到着するはずの上野村の本部の場所がわからないという。そこで医師が必死に地図や地上の風景を見ながら場所を指示し、十三時五十分にようやく到着した。結局、「生存者発見から猛暑の炎天下で三時間以上もかかってしまった」と述べていたのは、四名を救出した前橋赤十字病院外科部長の饗場庄一医師である。

 さらに上野村役場から救急車で二時間近くも揺れるのは大変危険だと判断をした饗場医師は、子ども二名を再度別のヘリに乗せた。最終的に生存者四名が藤岡の多野病院に着いたのは十四時二十分と記録されている。前日の十八時五十六分二十八秒に墜落してから、すでに二十時間が経過していた。なお、生存者は川上慶子さん(十二歳)、吉崎美紀子さん(八歳)、吉崎博子さん(三十五歳)、落合由美さん(二十六歳)の四名である。
 当時、スチュワーデスと呼ばれていた客室乗務員だった私は、日本航空株式会社客室乗務員女子寮、通称スカイハウス(品川区港南)に住んでおり、生存者の一人、落合由美さんと同じフロアに部屋があった。私の同期と落合さんが同じグループで親しかったこともあって、仲間と部屋で開く鍋パーティーにひょっこり顔を出してくれたこともあった。陽気でカラカラと明るい声で笑う親しみやすい先輩であった。

 一九八五年八月十二日のこの日、私は明日からのヨーロッパフライトに備えて寮の食堂で夕食を取っていた。食堂のテレビでは、NHKの七時のニュースが流れていたが、突然、緊急放送が入った。日航羽田発大阪行きの飛行機が行方不明という報道であった。その時、食事をしていた全員の箸が一斉に止まった。私も背筋がひやっとしたのを覚えている。そのままテレビを見つめていた直後、スカイハウスのすべての部屋にひかれていた三百三十六台のダイヤル式黒電話のベルの音が一斉に響き渡った。それぞれの家族や友人、知人たちが心配して電話をかけてきたのである。

 ジリリリリーン、ジリリリリーン……。怒りにも聞こえるものすごい音で、外を歩く人々が建物を見上げるほどであった。一晩中電話が鳴り止まない部屋は、落合さんの部屋であった。そして事故機に乗っていた客室乗務員は、私が新人時代に仕事を教えてもらった同じグループの先輩たちだった。

 二十五年経った二〇一〇年四月、私は、乗客を励ましながら最後までプロとして行動をした先輩方のこと、当時の新聞報道や資料を読み込むうちに湧き出てきた事故原因への疑問をまとめて『天空の星たちへ―日航123便あの日の記憶』(マガジンランド)を出版した」。
 圧力隔壁修理ミスが事故原因だと公式発表されているが、現場でこの事故に関わった人たちの中には、腑に落ちない出来事が多数あり、それが今なお心の奥底に大きな疑問となって渦巻いていることにも気付かされた。

 事故原因については一部の過激な陰謀説、根拠の薄い憶測も多々あり、それがかえって再調査への道を妨げていることもある。私自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた。しかしながら、現場を知る人たちへのインタビューや膨大な新聞等の資料を読み込み、目撃情報や現場の証言をもとに考察を深めると、公式発表に対して違和感を覚えるようになっていった。そして、それを語るとすぐに陰謀説と烙印を押されかねない状況を感じた。もっとも、一般の人々には圧力隔壁修理ミス説が事故原因という報道しか届いていないこともあってしかたがないが、三十二年前の事故時の情報や状況にいまだに疑問を持ち続けている人たちがいることを知った以上、私の果たすべき役割はなにかを考えてきた。

 逆に事実を一つずつ積み重ねていけば、新たな真実が見えてくるのではないだろうか。そう思い、墜落現場となった上野村へ行き、当時の村長や消防団の方から話を聞いた。当時の上野村の村長・黒澤丈夫氏には、取材時にあの日の記憶を語っていただいたが、十二日の晩にすぐ墜落現場は自分たちの村だとわかり、村民にも村内放送をして情報提供を呼び掛けていたという。上野村に落ちたと政府関係者や県に連絡してもまったくテレビに反映されず、長野県やら小倉山やら偽の情報が流れていたことに怒っておられた。

 また、川上慶子さんら生存者を最初に発見して救出した地元消防団の方や、歯型から遺体の身元を確定して検死を行った群馬県警察医の大國勉氏にもお会いして、たくさんの資料を見せていただき、話を聞かせていただいた。大國氏も遺体の状況に大きな疑問をお持ちだった。このように詳細に調べていくと、ますます事故調査委員会発表の事故原因は違うのかもしれないと大きな疑念を抱いた。ちょうどその頃、日本航空が経営破たんし、負債総額二兆三千二百二十一億円というとてつもない金額で、会社更生法を申請したのである。
 続きは『日航123便墜落の新事実』で!
 三十三回忌を前に真相究明に一石を投じる渾身のノンフィクション。著者は、生存者の一人である日航客室乗務員落合由美さんの同僚。その後、東大大学院に進み、博士号を取得、ノンフィクション作家として、日航123便「事故」に疑問を抱き数々の証言をもとに真相に迫っていった。現地の再調査を繰り返す中で、次のような推理に至っている。
 概要「墜落現場の遺物を持ち帰り精密検査をしたところ、多量のベンゼン環が発見された。ベンゼン環は、123便ジェット燃料には含まれないもので、これは事故時の捜索隊が現地に到着したとき、『ガソリンとタールが混合したような激しい臭気に満ちていた』との証言、遺体の炭化度の凄まじさと符合する。ベンゼン環は墜落時に漏洩したジェット燃料火災によるものでない。火炎放射器によって遺体と現場が焼かれていたことによる証拠物ではなかろうか。先遣自衛隊が、まだ生きていた遺体を火炎放射器で現場焼却し証拠隠滅を図ったのではないのか。後発自衛隊員が現地に近づくと、これを銃撃したことがNHKの実況中継から示されている。後発隊の数名は、先遣隊が生存者を殺害している現場を目撃したことで、自殺に見せかけて殺害された節がある」。

【助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された告発】
 
 真実は当初から超国家権力によって隠蔽され続け、20数年間深い闇の中にあった。しかし、近年になってようやく、新たな証言者が現れ、この問題を長年追い続けて来た人達と結びつき、遂に闇の核心部分に光が当たるようになった。墜落は単なる事故ではなく、驚天動地、世界規模の大事件だった!

 故高濱雅己機長の遺族は、妻の淑子さんを始め執拗なイヤガラセを受けた。最愛の人を亡くした悲しみに加え、加害者扱いという二重の苦しみが、高濱機長の遺族を襲った。何度電話番号を変えてもイヤガラセ電話が絶えなかったという。しかし高濱機長を始め、日航乗務員15名は、最悪の条件下、最後の瞬間まで命を懸けて闘った。加害者等では断じてない!真の英雄達だ!極限下で示された彼らの勇気ある行動とその気高き精神は讃えられ、彼らの名誉は何としても恢復されなければならない。

 元日本航空スチュワーデス(青山透子氏)が描く、日航ジャンボ機墜落事故の記憶。操縦不能になった機内。「墜落」という逃れられない現実、突然目の前に「死」という恐怖が迫る。飛行機に異常が発生して、酸素マスクが落下し、大きく揺れ動く機内。恐怖にさらされた中で、最後の最後まで冷静に働いたスチュワーデスたち。乗客に不安を与えず、冷静にエマージェンシー対応を行った。「死」を覚悟して遺書を残した乗客がいたことも知られているが、最後まで望みを捨てず、「不時着」に備えてメモを残したスチュワーデスがいた。飛行機を立て直すコックピットの懸命な努力。極限状態の中で懸命にプロの仕事をまっとうした乗務員の姿がそこにあった。

 青山透子氏(元日航客室乗務員)ブログ:「あの事件をうまく隠ぺいした人は異例の昇進をし、それを追及した人は辞職を強要されたそうです。正直な人が辞めさせられて、ずるい人が残るとすると、本当にひどいですね」。

 あの日1985年(昭和60年)8月12日JAL123便に、一体何が起こったのか?事件の背景は?それを知ることは、大きな目覚めになる。「我々は高度にマインドコントロールされ、慣れ親しんだ現実は、全て幻想だったのだ」と。

 この世界の現実について予備知識の全く無い人が、このJAL123便事件の真実をいきなり知ってしまうと、一時的に精神のバランスを失うかもしれない。価値観はひっくり返り、後生大事に持っていた常識は崩壊する。コメント欄にはそんな人達からのdesperate comment が山ほど寄せられる。中には工作員らしき人物からの撹乱メッセージも。(彼らのコメントを公開することは益々混乱を招くと思われるので、現在は公開を控えている。)

 
今まで通り「自身の『常識』という殻の中で幸せに生きて行きたい」という人はここから先は読まない方が良い。ご自身に人生がひっくり返るような事件が起きたとき初めて、このJAL123便事件の真実を受け入れられるかもしれない。そして『自身の殻を打ち破る大きな努力』の後、本当に幸福な人生とは?この世界から争いが消え、真の平和を築くにはどうすれば良いのか?その答えが見つかる。途中で『気分が悪くなった。とてもついて行けない。』と思った方、或いは『どうも自分には予備知識が不足しているようだ』と感じられた方は、他の記事を読まれて基本知識を得てから、再度読み進めて頂きたい。『いや、大丈夫。心の準備はできている。』という方は、どうぞこのサインを無視して、その先に進まれたい。


【合計8人の生存者の行方告発】
 「あの日を忘れないで」           
 日航機墜落 家族の動揺と悲痛 (9分35秒)   
 20年目の誓い~天国にいる我が子へ~ (12分20秒) (12分17秒) (12分20秒)
 里帰りの娘を失った母の想い:520の夢桜 (9分49秒)
 日航ジャンボ機墜落事故から25年      
 助かったのは僅か4名の女性達:生存者救出場面 (2分34秒)
 ☆世界の真実の姿を求めて!TV新聞報道では、助かった4人以外に少なくとも生存者が3人、合計7人の生存者がいた(この日本経済新聞の記事は日航パーサー落合由美さんを忘れている。従って8人が正しい。)。しかし、4人は報道直後突然失踪!彼らは一体どこへ消えたのか!?

 さらに最低50人くらいの生存者が墜落現場にいた、指先が1本ちぎれただけの男の人もいた、と、まだ夜も明けやらぬ現場に駆けつけた若者は証言!生存者達も同様、墜落現場では多くの人達が助けを呼んでいたと証言。

 ☆日航123便墜落事故群馬県医師会記録 救助がもっと早ければ……空白の15時間。

 ☆JAL123便撃墜の証拠が写真誌フォーカスに!!第3エンジンから突き出る不発弾と思しきファルコンミサイル!  JAL123便墜落事故-真相を追う-そしてミサイルは発射された(2)  http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/66f90662378566829
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 軍事専門家談:これは大型機撃墜のため開発されたファルコンミサイル。1985年当時における空対空ミサイルの起爆タイミングは、命中直撃を無理に狙わず、敵機近傍で爆発し、確実にダメージを与える「近接爆発方式」が主流。ただし、ファルコン系列ミサイルは、「直撃」が可能なら自律的にそちらを選択する。(「ミサイルは近接信管(きんせつしんかん)だから123便に命中する前に爆発するはずだ。このサイトの筆者はそんなことも知らないのか!?」等という馬鹿にしたような書き込みが時々ある。この方は自衛隊関係者なのかもしれないが、ファルコンミサイルの実際を知らないようだ。軍事専門家によれば、ミサイルはセンサーが敏感過ぎてちょっとの振動で爆発しても危険なので、敏感すぎないよう調整されており、その理由からおよそ50%は不発弾になってしまうという。)

 ☆墜落現場123便第3エンジン付近に散乱する米国レイセオン社製空対空ミサイルの部品!
ブログ主:これまで私が書いてきたことに対して、色々なご意見やご批判があるようですが、お願いしたいのは、人生、たかだか数10年のご経験やそこから得てきた常識だけで物事を判断するのを止めていただきたいことです。読者の皆様に限らず、この調査に協力していただいているメンバー全てが、最初は目の前に突きつけられた現実に対し拒絶の念を覚えながらも、自身の経験と常識を乗り越える選択をし、このブログでの発表を決意したのです。(中略)批判を行う方は、少なくとも現地を訪れ、群馬県上野村、および事故現場周辺のあの独特の雰囲気を肌で感じてください。また、土の採集や放射線測定器で調べればより多くのことがわかってくるでしょう。ただし、くどいようですが、現地は最高レベルの監視体制下に置かれていることだけは、初めにご忠告申し上げます。

 ☆墜落現場に残るイエローケーキ(核兵器に使用される軍用の濃縮ウラン、錬度が高く、レンガ色をしている。墜落現場で収集した方が123便事件講演会会場に持ち込んだところ、多くの人が体調に異変を来たす。その症状から放射性物質と判明したという。)

 ☆(新)日本の黒い霧-現場に散乱する破片を収集、軍事専門家による分析の結果驚愕の結論に至る  

 ☆田村珠芳-軍事使用目的プルトニウム運搬、目撃者殺害/誘拐による隠蔽工作  

 ☆NEWS U.S.- 戦後日本最大級の事件、日米露を巻き込んだ軍事衝突 

 ☆犠牲者の霊に導かれ…現場に小型中性子核ミサイル使用の痕跡を見る

 日本と世界の闇の権力者間で起こった核兵器開発を巡る軍事衝突。その背景には為替レートを円高誘導せよという国際金融寡頭勢力と、それを拒否する日本経済界の壮絶なしのぎ合いがあった。
 今年も8月12日、日航123便墜落事故の日が巡って来る。この事件は16年後に起こる、911事件と似通っている。列挙してみると。
明らかに素人でも分かる嘘をつき、国家ぐるみで真実を隠蔽しようとする。例:圧力隔壁破壊の嘘。
軍事演習の最中で起こった、核兵器使用の痕跡を残す、尋常ならざる破壊の跡と情け容赦ない乗客殺害部隊。
メディア総動員による撹乱。大衆を真実から遠ざけようとする、超国家的権力の存在。
以後の世界的変化。

【「明らかに素人でも分かる嘘」について】
 上空8,000mで機体に大きな穴が空けば、他の航空機事故に見られるように、機内に急減圧が発生。機内の物は人間を含み外へ吸い出される。また上空のマイナス40度という低温の空気が室内に入り込み、室温の急低下が起こる。空気が薄くなることから、実験では5分くらいで一般人なら意識を失う危険な状態に陥る。しかし、生存者の落合由美さんの証言ではそんな事態は起こらなかった。
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-ochiai.htm 

 また、長女の美紀子さんと共に助かった吉崎博子さんも、急減圧に関して、「子供の世話をしていてマスクが外れることもありましたが、それでも苦しいとは感じませんでした。」と証言。また、機内の室温急低下に関しては、「私は半袖のブラウスと長めのキュロットスカートという服装でしたが、特に寒いということはありませんでした。」と証言。

 一方、当時の航空事故調査委員会委員長、武田峻氏は「何故操縦室の3名はマスクを付けなかったのか?」という問に対し、「(トラブル発生後)やることがいっぱいあって、どれからやって良いかよくわからなかった。必ずしもマスクを一番先につけないといけないことは無かった。結果として」と答えている。彼の説明だと、人間は忙しさにかまけていれば、上空8,000mという酸素が非常に薄く気温マイナス40度という過酷な環境でも、30数分間耐えられるということだ。酸素マスクを必要としなかったのは操縦室だけでなく、客室の乗員乗客も同様だった。事故調査委員会の結論が正しいのなら、524名の乗員、乗客全員がヒマラヤ山脈の最高峰エベレスト山(8,848m)に酸素マスク無し、夏服の軽装で登頂できる、世界トップクラス(?)の登山家集団ということになる。という訳で、事故調査委員会の公式発表「圧力隔壁破壊」は子供でも「嘘」とすぐ分かる。

 事件の日、日米合同軍事演習が行われた。海では、相模湾。伊豆沖で当時の最新鋭護衛艦「まつゆき」を中心に艦船、潜水艦が出動。空では、茨城県百里基地所属の航空自衛隊戦闘機、また航空自衛隊や在日米軍の電子戦機が待機。はるか上空では米軍の軍事衛星が演習を監視。陸では、ゲリラ訓練場となっている御巣鷹山とその周辺に、特殊部隊が集結。

 18:12 JAL123便は羽田を離陸。12分近く経過したとき、相模湾上空で123便のクルーは、右前方から接近する奇怪な飛行物体を発見。コックピットに緊張感が走る。乗客も気付いていた。

 18:24:35 ドーンという衝撃音と共に何かが123便の尾翼部に激突。座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)はその飛行物体を接近段階から撮影、後に事故現場で発見され現像。デジタル解析の結果、オレンジ色の物体と判明。

 18:56過ぎ、123便はレーダーから消える。しかし、場所についての報道は二転三転し、123便の行方は特定されない。翌日明け方になるまで救助活動が開始されず搭乗者の家族は焦燥感が募る。

 8月13日の午前5時10分、航空自衛隊救難隊による「機体発見」、続く陸上自衛隊偵察ヘリによる機体確認、5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認と、各自衛隊や警察のヘリによって次々と墜落現場の状況が確認される。群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断。土地勘のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請。

 墜落からおよそ14時間が過ぎた午前8時半、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下。その後陸上自衛隊第一空挺団の隊員が現場に降下して救難活動を開始。陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着。ようやく本格的な救難活動が開始される。

 しかし驚いたことに、当局には最初からJAL123便の乗員乗客を救助する気はさらさらなかった!

 縦割り組織警察の常識を無視して「全員死亡による救助打ち切り命令」で動けない群馬県警管轄地域へ越境進入したのは長野県警レスキュー隊。また、早々と現場で「全員即死宣言」をした自衛隊幹部に「まだ生存者がいるぞ!!」と怒鳴って救助活動を促した報道関係者や消防団員の人達。彼等がいなければ、落合由美さん達女性4人も助かっていなかっただろう。

 「現場にいたある消防団員は『最初は医師・看護婦は現地に送り込まれていなかった。生存者が発見されてから急にあわてた。生存者に対する準備ができていなかったような気がする』と話していた。はじめから生存者がいないと決めてかかっていたのではないかと私も感じた」(元日航パイロット藤田日出男著「隠された証言・日航123便墜落事故」p.56、8行目)

 「11時生存者発見、12時仮設ヘリポートへ、ヘリポートで1時間30分以上待たされ14時15分ごろやっと病院へ搬入」(元日航パイロット藤田日出男著「隠された証言・日航123便墜落事故p.55、2行目)…せっかく発見され一刻を争う救命処置が求められる生存者を現場に2時間近く放置、病院搬入まで3時間以上も費やしている。まるで生き延びてもらっては困るかのように。

 何と酷い!これが人間のすることか?恥を知れ!救助隊にはわざと遅く現場に着くよう、或いは違う場所に行くように、NHKにはわざとウソの墜落地点を報道するように命令が出ていた!(元日航客室乗務員:青山透子氏ブログ

*災害派遣待機命令が発令されたが、その後出動ではなく中止命令が出たのはなぜか?

*8月12日、夜23時頃、一番先に捜索のため到着した機動隊員32名の案内を頼まれた地元民たちに対して、道案内を頼んでおきながら機動隊員から 「その場所は違う、こっちだ」と根拠のない主張をされた。墜落現場はスゲノ沢だと言うと 「いいやそこではない、中ノ沢だ、上官の命令だ」と強く言われた。人にものを頼んでおきながら命令とはどういうことか?なぜ地元の土地に詳しい人の意見をわざと無視したのか?

*なぜ一番先に到着した機動隊員は、わざと足が遅く、ゆっくり歩くのか、おかげで、倍の時間がかかり、夜明けまで墜落現場にたどり着けなかった。

*夜中、ヘリが墜落現場上空にずっとホバリングして、モノの上げ下げをしていたが、何をそんなに急いで上げ下げしていたのか? 

*後からの幹部の発表では、一機たりとも危なくてヘリを飛ばしていないというが、事故当夜、私たちが目撃した墜落現場上空にいた多数のヘリは、亡霊か?

*自衛隊ヘリの合図を頼りに墜落現場まで行けると(信じて)歩いたら、結局全く違った場所に連れていかれたのはなぜか?

*自衛隊による墜落現場特定が遅くなったことについて、山下運輸大臣や自衛隊幹部が、「夜間用照明がなかった」とか「険しい山に仰天した、危ないから」とか、夜に救助出来なかった理由をテレビや雑誌で反論した。しかし、敵の侵略や戦闘は夜行うもので、その為に山奥で過酷な訓練をしてきた。夜にヘリを出せないならば、いつ自衛するのか?自分たちは夜に十分動けるための訓練を行ってきたのだから、プロとしての自衛官を馬鹿にするような発言するとは情けない。それでも幹部か?

*なぜ墜落場所を地元民や黒澤村長が伝えても報道は聞き入れなかったのか?特に13日早朝、地元では当然御巣鷹の尾根とわかっているのに、まだNHKでは、小倉山と報道し続けていて、呆れた地元民が、NHKの記者を怒鳴りつけた。

*なぜ一生懸命生存者を救助したのに、山頂に4時間近く生存者が放置されたのか?

*なぜ生存者を収容したヘリで、5分もかからない救急病院に行くのに、無線が故障と言って30分以上、上空を旋回し続けたのか?

*4人も救助したと美談になっていたが、遺体状況からみて、つい先ほどまで生存していたと思われる人たちが100名ぐらいはいたはずである。

*自分はゼロ戦の指導教官だったが、戦時中でさえ場所は特定できた。あの程度の山で、ましてや1985年に、墜落場所を測定出来ないわけがない。パイロットを馬鹿にするな。

【核兵器使用の痕跡】
 核兵器使用の痕跡。ピカッと雷光のように走った閃光、黒いキノコ雲が目撃されている。

 墜落現場に残るイエローケーキ(核兵器に使用される軍用の濃縮ウラン、錬度が高く、レンガ色をしている。墜落現場で収集した方が123便事件講演会会場に持ち込んだところ、多くの人が体調に異変を来たす。その症状から放射性物質と判明したという。)

 骨が約3cm刻みの破片になって飛び散るほどの、広島原爆の30倍以上と推定される衝撃。これらは小型の核爆弾使用を示唆している。決して不時着態勢に入っていた速度の航空機のものではない。 

 元日航職員佐宗邦皇(さそう・くにお)氏の証言(動画開始後2分10秒辺りから):JAL123は小型中性子核ミサイルによって撃墜された
 東大地震研究所の微小地震計が、墜落時刻に異常振動を観測、記録している。第一波は18:56:26、第二波は3秒後。これら二つの波は極めて微小な物。墜落の衝撃だ。しかし18:56:31から観測された第三波は、約5秒間揺れ、その後も10秒近く揺れる大きなものだった。最初の二つの波は航空機の地面衝突によるものだろう。しかし、第三波は一体何だったのか?広島原爆の30倍を超える小型核爆弾の衝撃ではなかったのか?(池田昌昭「完全犯罪JAL123便撃墜事件」)

 ミサイル使用の痕跡。この遺体散乱状況写真を見ると、123便の進行方向に対し、右側からミサイルと思しき爆発物が命中し、乗客・乗務員を左前方に吹っ飛ばしたことが分かる。


【メディアによる撹乱
 NHKを始め、民放各局は事故直後からわざと偽の墜落地点情報を流して、救助隊の到着を遅らせた。墜落現場には米軍ヘリが既に飛来していた。以下「JAL123便墜落の真相」から引用。

 http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/
JAL123Sinsou.htm#S10
 

 「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」(落合由美さんの証言)。
 
 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。

 元日航客室乗務員青山透子氏ブログ(前述):なぜ墜落場所を地元民や黒澤村長が伝えても報道は聞き入れなかったのか?特に13日早朝、地元では当然御巣鷹の尾根とわかっているのに、まだNHKでは、小倉山と報道し続けていて、呆れた地元民が、NHKの記者を怒鳴りつけた。


【世界に起こった変化】
 日航123便墜落事故の翌月22日、歴史的なプラザ合意から円ドル為替レートが250円/ドル台から1年後には一気に120円/ドル台に円が急騰。

 急激な円高を受けて、以降日本経済は輸出企業を中心に大打撃を被る。そして日銀の窓口指導による、バブル創出、崩壊、金融ビッグバンによるM&A等で外資ハゲタカファンドの進出、郵政民営化、莫大な国富の喪失と続いて行く。これらは決して偶然では無い。全ては仕組まれたことだった。ある闇の勢力によって。

【中曽根官邸告発】
 Goodbye! よらしむべし、知らしむべからずさんより
 http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2010/08/
post_1819.html
音注意
 <引用開始>

 この”重大事件”を隠蔽しようと画策し、123便の横田基地への着陸を拒否し、2機の自衛隊機を発進させ、遠く御巣鷹(=地元)の尾根まで同機を誘導させた、その命令権者としての中曽根元総理は、当日、一体、何を考え、何を命令したのか? 2機の自衛隊機が、ミサイルで123便を撃墜したという説(池田昌昭氏)もある。また、二つの原爆の様な「きのこ雲」が湧き立つのを見たという、多くの目撃証言もある。さらには、墜落した123便の機体後部(尾翼付近)に、ミサイルAIM4(オレンジ色の機体)が突き刺さっていたという証言(佐宗邦皇氏の言)さえもある。実際、ご遺体の識別や鑑識に関わった医師や歯科医師が、「単なる墜落事故の遺体とは思えない」と語っているのを、われわれは、すでに聞いている。 

 それゆえ、私は、正直に問いたい。 中曽根元総理、あなたは、あの日、防衛庁、とりわけ航空自衛隊に対して、一体、如何なる命令を下されたのか?! 何故、あなたは、墜落後の乗客の早期救出を命じられなかったのか? 事実、墜落直後、数十名の生存者がいたというではないか。そればかりか、早期救出に向かおうとした数名の自衛隊員が、待機命令違反というだけで、なぜ、射殺されなければなかったのか?!

 加藤紘一氏(当時の防衛庁長官)、当日、あなたは、当時の中曽根総理から、一体、如何なる命令を受けられたのか?! 第一、あなたは、事故当夜、現場の上空まで行っていたというではないか!一体、何をしに行ったのか? 遭難者を救助する前に、自衛隊が、「大事件」の証拠物件を搬出するのを見届けに行ったとでも言うのか?! (中略)

 実は、この時、操縦桿を握っていた佐々木副操縦士こそ、少年の頃、私が、心から憧れていた先輩である。まさに、「事実は、小説よりも奇なり」である。 佐々木先輩のご母堂は、彼の没後、私の母に、こう語られた。「息子は、戦死しました」と。今、私には、この言葉の意味が、よく分かる。今日、そのお母様も、もう、この世におられない。 『日航123便はなぜ墜落したのか 2010年8月9日』 –> こちらから引用 (抜粋引用終了)


【日航ジャンボ機墜落と横田基地】
 「1985年墜落救助のぶざま、元エアマン証言」

 「日本は現場到着に12時間もかけた」

 http://www004.upp.so-net.ne.jp/imaginenosekai/
yokota-haijack.html

 横田基地所属のC-130機が墜落現場を発見し、座間基地所属の陸軍ヘリUH-1が救助活動のため現場に入ろうとしたが、どうした訳か(日本政府から協力を拒まれ?)、墜落現場の真上でロープ降下しようとしていた救助ヘリと上空で待機していたC-130を引き返させるという不可解な命令が出た。

 運輸省航空事故調査委員会の最終報告書には、C-130が墜落現場を発見し位置を知らせてきたことが記載されていながら、その後の米軍の救出行動は一切記述されていない。その事実が明らかになったのは事故から10年後、1995年8月27日付の米軍準機関紙「スターズ・アンド ・ ストライプス」パシフィック版が「1985年墜落救助のぶざま、元エアマン証言」「日本は現場到着に12時間もかけた」の見出しでカリフォルニアの地域紙「サクラメント・ビー」の記事を転載したことによる。記事を書いたのはC-130のナビゲーターだったマイケル・アントヌッチ中尉(当時)。その記事には、いち早く現場に到着した同機から見た米軍ヘリの活動、不可解な帰還命令などが詳しく書かれている。

 日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言) MichaelAntonucci

 彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。


【JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの】

 「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4)」      http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d
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 このオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会が無かったが、2010年5月16日、江戸東京博物館にて、その日目撃したことの証言を依頼される。ところが、講演の2週間前、アクシデント発生。車の後輪がバースト。あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の運転テクニックで回避する。損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない、熱戦銃によるものと判明。「123便事件の真実について、これ以上語るのを止めよ」というメッセージが彼に送られる。幸いにも、かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、証言することができた。

 「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」(落合由美さんの証言)。  このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。(抜粋引用終了)

 最重要証拠となるボイスレコーダーには、数々の編集跡がみられる。さらに大事な部分がカットされている模様だ。

 日航機墜落の真実を求めて 「1985年8月12日発生の日本航空123便墜落事故」はネット上でも真実が解き明かされ始めた  http://nvc.halsnet.com/jhattori/nikkou123/

 ★★御巣鷹山日航ジャンボ機事件から23年目、特にボイスレコーダの編集疑惑や当時の加藤防衛庁長官の行動にも疑惑が。最重要な証拠となるボイスレコーダーを一切公開しなかった。10年ほど経ってから、その一部を公開したものの専門家の分析ではその音声には数々の編集跡がみられるとのこと、さらに大事な部分がカットされてる模様だ。おそらく自衛隊機との交信部分をカットされてるんじゃないかという気がする。(実際、スクランブルした自衛隊機が平行して飛んでいるにもかかわらず、両機が全く交信すらしないというのは考えられないこと。)

・ジャンボ機のあとを、戦闘機みたいなのが2機追いかけていった(『疑惑/JAL123便墜落事故』早稲田出版刊の筆者:角田四郎氏)
・マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。―浦和市に住む住民の目撃証言
・飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。―長野県南相木村中島地区の住人3人


 一等陸曹、M・K氏>「 午後6時40分頃、突如として、実家の上空を航空自衛 隊のファントム2機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。・・・明確にしておかなければいけないことは、まだ明るい墜落前に航空自衛隊では日航機を追尾して飛行状況を確認した。さらに墜落するその時までしっかりと見ていた、という事実である」
 青山氏の、悪意はないが、狭い知見から国民をミスリードした罪は大きいよ。2機のファントムについて、飛び方から自衛隊機でないと見破った人が只1人いるよ、高浜機長だ。流石に空自パイロット出身だけあって、直ぐに気づいた。ボイスレコーダーが隠蔽の状況で、何らかの方法でその事実が外部に漏れたらしい。あとは、エンジンに突き刺さったオレンジ色の物体等ついて、自衛隊ではオレンジ色の模擬誘導弾を使用してたことから、相模湾で演習中の海自艦艇発射のそれが外れてJAL機に向かったとかの説あるが、青山氏の説か不明だが、噴飯だな。国軍がそげんな悪さやミスやる筈ねえよ。日本駐留のUSAFはオレンジ色の飛行体持ってたよ、AIMー4Fとかのフアルコン中性子ミサイルだ。更に、現場で救助や捜査にあたったもんの中から、ガンなど相当に多いよ。捜査の指揮した群馬県警のSM氏とか、一早く現場に駆け付けたM君とか、みんなてえへんだよ。この件は、あんまりにもオッ!恐ろしんで、ヨーケ書けんが、単純な視点だけで速断する愚は避けるべきだし、世論をミスリードだけは避けるべきだ。下山事件なんかだって、情報は単純でなく、複雑に混線して出されてきた、まあ諜報のイロハといえば言えるが。
 数年前のこの8月に阿修羅サイトが本件取り上げた際に、コメを載せたので、関連で再掲する。

 <真相は、政府も自衛隊も上野村々長も、群馬県警も前橋地検も県警鑑識官も、その他関係者はミーンナ知っちょるよ。上野村消防団員だって、いの一番に駆け付けたM君だって、ミーンナ知っちょるよ。アメリカ国民に聞いてみな、こっちも皆―んなヨーケ知りおるよ。ただ本件が情報封鎖的状況となり、日本国民だけに真相が伝わらないのは、関係者や物書きが随分と関連本を書きよるが、調査能力の視野狭窄的状況だけでなく、恐怖から真実に迫れないためであろう。池田昌昭・森永卓・安倍譲二・青山透子等々綿密な調査に基づく仮説は迫力あるが、最後の結論がNDAへ収斂してしまうのが、惜しいとこである。真犯人からみれば、これでは全く怖くないわけだ。

 当時の日米経済戦争の状況は、その激しさは、現今の米中経済対立の比ではなかった。この状況の中で、アメリカ側はあるいは軍部は、動くときは動くと明言してる。たとえばワインバーガーは前年1984年11月に、ワシントンのNPCで有名なスピーチしおるが、その中で米軍の軍事力行使の条件・環境等について“新しい軍事力が構築された場合、多くの人々はそれを活用してみたいという気持ちにかりたてられるものである。しかし私は、はっきりとした目的があり、またそれが達成できる場合にのみ、できるだけ迅速に目的を果たすのに必要なだけの規模で活用することが重要だ、と感じてきた。軍事的な行動に出るのは、他の全ての努力が尽くされ、それらが全て失敗したときにのみに行使される最終手段でなくてはならない。また軍事力は、国家の重要問題に関わる時以外には絶対に使用してはならない”(出所:長岡大学 研究論叢 第10 号 2012 年7 月、広田秀樹論文)と、述べている。1984年11月という、この時期に注目してほしい。ここでの“新しい軍事力”とは具体的に何を指すか、実質被占領状態の我が国でP旅団などの存在を考えると、恐怖でこれ以上は書けないが、一歩踏み込んだのが佐宗さんだが、とにかく恐ろしいんで口を噤んでしまうが、真実へのアクセツは未だ未だ遠いつうんが、現状である。最近ユーチューバーなどで、19850812の真実について、ついに解明してる著作があったと、青山本などを嬉しそうに掲げちょる御仁がおるが、まあ噴飯ものだな。とにかく本件の情報封鎖的状況は、未だ未だ続きそうだ。コロナ武漢野生動物説は、ネット情報で瞬殺されたんに、こっちの本件は・・・。





(私論.私見)