元日航客室乗務員/青山透子氏の告発 |
更新日/2024(平成31→5.1栄和元/栄和6).6.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「元日航客室乗務員/青山透子氏の告発」を確認しておく。 2015.08.11日 れんだいこ拝 |
【元日航客室乗務員/青山透子氏の告発】 | ||||
青山 透子 (アオヤマ トウコ)元日本航空国際線客室乗務員。国内線時代に事故機のクルーと同じグループで乗務。日本航空サービス関連子会社設立時には人材育成プログラムの開発や講師。その後、官公庁、各種企業等の接遇教育に携わり、専門学校、大学講師として活動。東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程修了、博士号取得。 |
||||
以後、日航123便墜落事件で亡くなった同僚への追悼の念から事故調査を開始。あらゆる文献を収集し、全国から目撃証言を集め、また自身の勤務経験から得た日本航空の内情を分析しつつ、墜落事件の真相究明に取り組む。また研究者、弁護士、有識者たちと立ち上げた「日航123便墜落の真相を明らかにする会」(会長はご遺族の吉備素子氏)の事務局も勤める。こうした調査・研究の成果が『日航123便 墜落の新事実――目撃証言から真相に迫る』(河出文庫)等にまとめられ全国学校図書館協議会選定図書となる。 |
||||
元日航客室乗務員/青山透子氏の告発本「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」(河出書房新社(代表取締役社長:小野寺優)、2017.7.17)。青山氏の事件との関りが次のように明かされている。
|
||||
三十三回忌を前に真相究明に一石を投じる渾身のノンフィクション。著者は、生存者の一人である日航客室乗務員落合由美さんの同僚。その後、東大大学院に進み、博士号を取得、ノンフィクション作家として、日航123便「事故」に疑問を抱き数々の証言をもとに真相に迫っていった。現地の再調査を繰り返す中で、次のような推理に至っている。
|
【助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された告発】 | |
「JAL123便墜落事故の真相① 助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された」
|
【合計8人の生存者の行方告発】 | |
|
☆日航123便墜落事故群馬県医師会記録 救助がもっと早ければ……空白の15時間。 |
|
【「明らかに素人でも分かる嘘」について】 |
上空8,000mで機体に大きな穴が空けば、他の航空機事故に見られるように、機内に急減圧が発生。機内の物は人間を含み外へ吸い出される。また上空のマイナス40度という低温の空気が室内に入り込み、室温の急低下が起こる。空気が薄くなることから、実験では5分くらいで一般人なら意識を失う危険な状態に陥る。しかし、生存者の落合由美さんの証言ではそんな事態は起こらなかった。 http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-ochiai.htm また、長女の美紀子さんと共に助かった吉崎博子さんも、急減圧に関して、「子供の世話をしていてマスクが外れることもありましたが、それでも苦しいとは感じませんでした。」と証言。また、機内の室温急低下に関しては、「私は半袖のブラウスと長めのキュロットスカートという服装でしたが、特に寒いということはありませんでした。」と証言。 一方、当時の航空事故調査委員会委員長、武田峻氏は「何故操縦室の3名はマスクを付けなかったのか?」という問に対し、「(トラブル発生後)やることがいっぱいあって、どれからやって良いかよくわからなかった。必ずしもマスクを一番先につけないといけないことは無かった。結果として」と答えている。彼の説明だと、人間は忙しさにかまけていれば、上空8,000mという酸素が非常に薄く気温マイナス40度という過酷な環境でも、30数分間耐えられるということだ。酸素マスクを必要としなかったのは操縦室だけでなく、客室の乗員乗客も同様だった。事故調査委員会の結論が正しいのなら、524名の乗員、乗客全員がヒマラヤ山脈の最高峰エベレスト山(8,848m)に酸素マスク無し、夏服の軽装で登頂できる、世界トップクラス(?)の登山家集団ということになる。という訳で、事故調査委員会の公式発表「圧力隔壁破壊」は子供でも「嘘」とすぐ分かる。 18:24:35 ドーンという衝撃音と共に何かが123便の尾翼部に激突。座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)はその飛行物体を接近段階から撮影、後に事故現場で発見され現像。デジタル解析の結果、オレンジ色の物体と判明。 「11時生存者発見、12時仮設ヘリポートへ、ヘリポートで1時間30分以上待たされ14時15分ごろやっと病院へ搬入」(元日航パイロット藤田日出男著「隠された証言・日航123便墜落事故p.55、2行目)…せっかく発見され一刻を争う救命処置が求められる生存者を現場に2時間近く放置、病院搬入まで3時間以上も費やしている。まるで生き延びてもらっては困るかのように。
何と酷い!これが人間のすることか?恥を知れ!救助隊にはわざと遅く現場に着くよう、或いは違う場所に行くように、NHKにはわざとウソの墜落地点を報道するように命令が出ていた!(元日航客室乗務員:青山透子氏ブログ) *災害派遣待機命令が発令されたが、その後出動ではなく中止命令が出たのはなぜか? *8月12日、夜23時頃、一番先に捜索のため到着した機動隊員32名の案内を頼まれた地元民たちに対して、道案内を頼んでおきながら機動隊員から 「その場所は違う、こっちだ」と根拠のない主張をされた。墜落現場はスゲノ沢だと言うと 「いいやそこではない、中ノ沢だ、上官の命令だ」と強く言われた。人にものを頼んでおきながら命令とはどういうことか?なぜ地元の土地に詳しい人の意見をわざと無視したのか? *なぜ一番先に到着した機動隊員は、わざと足が遅く、ゆっくり歩くのか、おかげで、倍の時間がかかり、夜明けまで墜落現場にたどり着けなかった。 *夜中、ヘリが墜落現場上空にずっとホバリングして、モノの上げ下げをしていたが、何をそんなに急いで上げ下げしていたのか? *後からの幹部の発表では、一機たりとも危なくてヘリを飛ばしていないというが、事故当夜、私たちが目撃した墜落現場上空にいた多数のヘリは、亡霊か? *自衛隊ヘリの合図を頼りに墜落現場まで行けると(信じて)歩いたら、結局全く違った場所に連れていかれたのはなぜか? *自衛隊による墜落現場特定が遅くなったことについて、山下運輸大臣や自衛隊幹部が、「夜間用照明がなかった」とか「険しい山に仰天した、危ないから」とか、夜に救助出来なかった理由をテレビや雑誌で反論した。しかし、敵の侵略や戦闘は夜行うもので、その為に山奥で過酷な訓練をしてきた。夜にヘリを出せないならば、いつ自衛するのか?自分たちは夜に十分動けるための訓練を行ってきたのだから、プロとしての自衛官を馬鹿にするような発言するとは情けない。それでも幹部か? *なぜ墜落場所を地元民や黒澤村長が伝えても報道は聞き入れなかったのか?特に13日早朝、地元では当然御巣鷹の尾根とわかっているのに、まだNHKでは、小倉山と報道し続けていて、呆れた地元民が、NHKの記者を怒鳴りつけた。 *なぜ一生懸命生存者を救助したのに、山頂に4時間近く生存者が放置されたのか? *なぜ生存者を収容したヘリで、5分もかからない救急病院に行くのに、無線が故障と言って30分以上、上空を旋回し続けたのか? *4人も救助したと美談になっていたが、遺体状況からみて、つい先ほどまで生存していたと思われる人たちが100名ぐらいはいたはずである。 *自分はゼロ戦の指導教官だったが、戦時中でさえ場所は特定できた。あの程度の山で、ましてや1985年に、墜落場所を測定出来ないわけがない。パイロットを馬鹿にするな。 |
【核兵器使用の痕跡】 |
核兵器使用の痕跡。ピカッと雷光のように走った閃光、黒いキノコ雲が目撃されている。
墜落現場に残るイエローケーキ(核兵器に使用される軍用の濃縮ウラン、錬度が高く、レンガ色をしている。墜落現場で収集した方が123便事件講演会会場に持ち込んだところ、多くの人が体調に異変を来たす。その症状から放射性物質と判明したという。) 骨が約3cm刻みの破片になって飛び散るほどの、広島原爆の30倍以上と推定される衝撃。これらは小型の核爆弾使用を示唆している。決して不時着態勢に入っていた速度の航空機のものではない。 |
【メディアによる撹乱】 |
NHKを始め、民放各局は事故直後からわざと偽の墜落地点情報を流して、救助隊の到着を遅らせた。墜落現場には米軍ヘリが既に飛来していた。以下「JAL123便墜落の真相」から引用。
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/ 「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」(落合由美さんの証言)。 元日航客室乗務員青山透子氏ブログ(前述):なぜ墜落場所を地元民や黒澤村長が伝えても報道は聞き入れなかったのか?特に13日早朝、地元では当然御巣鷹の尾根とわかっているのに、まだNHKでは、小倉山と報道し続けていて、呆れた地元民が、NHKの記者を怒鳴りつけた。 |
【世界に起こった変化】 |
日航123便墜落事故の翌月22日、歴史的なプラザ合意から円ドル為替レートが250円/ドル台から1年後には一気に120円/ドル台に円が急騰。 急激な円高を受けて、以降日本経済は輸出企業を中心に大打撃を被る。そして日銀の窓口指導による、バブル創出、崩壊、金融ビッグバンによるM&A等で外資ハゲタカファンドの進出、郵政民営化、莫大な国富の喪失と続いて行く。これらは決して偶然では無い。全ては仕組まれたことだった。ある闇の勢力によって。 |
【中曽根官邸告発】 |
Goodbye! よらしむべし、知らしむべからずさんより http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2010/08/ post_1819.html音注意 <引用開始> この”重大事件”を隠蔽しようと画策し、123便の横田基地への着陸を拒否し、2機の自衛隊機を発進させ、遠く御巣鷹(=地元)の尾根まで同機を誘導させた、その命令権者としての中曽根元総理は、当日、一体、何を考え、何を命令したのか? 2機の自衛隊機が、ミサイルで123便を撃墜したという説(池田昌昭氏)もある。また、二つの原爆の様な「きのこ雲」が湧き立つのを見たという、多くの目撃証言もある。さらには、墜落した123便の機体後部(尾翼付近)に、ミサイルAIM4(オレンジ色の機体)が突き刺さっていたという証言(佐宗邦皇氏の言)さえもある。実際、ご遺体の識別や鑑識に関わった医師や歯科医師が、「単なる墜落事故の遺体とは思えない」と語っているのを、われわれは、すでに聞いている。 それゆえ、私は、正直に問いたい。 中曽根元総理、あなたは、あの日、防衛庁、とりわけ航空自衛隊に対して、一体、如何なる命令を下されたのか?! 何故、あなたは、墜落後の乗客の早期救出を命じられなかったのか? 事実、墜落直後、数十名の生存者がいたというではないか。そればかりか、早期救出に向かおうとした数名の自衛隊員が、待機命令違反というだけで、なぜ、射殺されなければなかったのか?!加藤紘一氏(当時の防衛庁長官)、当日、あなたは、当時の中曽根総理から、一体、如何なる命令を受けられたのか?! 第一、あなたは、事故当夜、現場の上空まで行っていたというではないか!一体、何をしに行ったのか? 遭難者を救助する前に、自衛隊が、「大事件」の証拠物件を搬出するのを見届けに行ったとでも言うのか?! (中略) 実は、この時、操縦桿を握っていた佐々木副操縦士こそ、少年の頃、私が、心から憧れていた先輩である。まさに、「事実は、小説よりも奇なり」である。 佐々木先輩のご母堂は、彼の没後、私の母に、こう語られた。「息子は、戦死しました」と。今、私には、この言葉の意味が、よく分かる。今日、そのお母様も、もう、この世におられない。 『日航123便はなぜ墜落したのか 2010年8月9日』 –> こちらから引用 (抜粋引用終了) |
【日航ジャンボ機墜落と横田基地】 |
「1985年墜落救助のぶざま、元エアマン証言」
「日本は現場到着に12時間もかけた」 http://www004.upp.so-net.ne.jp/imaginenosekai/ 横田基地所属のC-130機が墜落現場を発見し、座間基地所属の陸軍ヘリUH-1が救助活動のため現場に入ろうとしたが、どうした訳か(日本政府から協力を拒まれ?)、墜落現場の真上でロープ降下しようとしていた救助ヘリと上空で待機していたC-130を引き返させるという不可解な命令が出た。 運輸省航空事故調査委員会の最終報告書には、C-130が墜落現場を発見し位置を知らせてきたことが記載されていながら、その後の米軍の救出行動は一切記述されていない。その事実が明らかになったのは事故から10年後、1995年8月27日付の米軍準機関紙「スターズ・アンド ・ ストライプス」パシフィック版が「1985年墜落救助のぶざま、元エアマン証言」「日本は現場到着に12時間もかけた」の見出しでカリフォルニアの地域紙「サクラメント・ビー」の記事を転載したことによる。記事を書いたのはC-130のナビゲーターだったマイケル・アントヌッチ中尉(当時)。その記事には、いち早く現場に到着した同機から見た米軍ヘリの活動、不可解な帰還命令などが詳しく書かれている。 日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言) MichaelAntonucci 彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。 |
【JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの】 |
「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4)」 http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d 「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」(落合由美さんの証言)。 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。(抜粋引用終了) 最重要証拠となるボイスレコーダーには、数々の編集跡がみられる。さらに大事な部分がカットされている模様だ。 日航機墜落の真実を求めて 「1985年8月12日発生の日本航空123便墜落事故」はネット上でも真実が解き明かされ始めた http://nvc.halsnet.com/jhattori/nikkou123/ |
|
(私論.私見)