1988(昭和63).8月~ 宮崎勉事件(東京・埼玉連続幼女誘拐
殺人事件

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 2015.04.14日 れんだいこ拝


 「ウィキペディア(Wikipedia)東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」。
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
正式名称 警察庁広域重要指定117号事件
場所 日本の旗 日本東京都北西部、埼玉県南西部
日付 1988年 - 1989年
死亡者 幼女4人
犯人 宮崎勤
容疑 誘拐・殺人・死体遺棄
対処 逮捕・起訴
謝罪 なし
刑事訴訟 死刑執行済み
 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件とは、1988年(昭和63年)から翌1989年(平成元年)にかけて日本の関東地方(埼玉県・東京都)で相次いで発生した4件の誘拐殺人事件。警察庁により、広域重要事件117号に指定された。

 1988年8月 - 1988年12月にかけ、埼玉県西部の入間川流域(入間市・飯能市・川越市)でA(事件当時4歳)、B(同7歳〈小学1年生〉)、C(同4歳)の女児3人が相次いで行方不明になり、Cは行方不明になってから数日後に山中で他殺体となって発見された。その後、1989年2月にはAの遺族に遺骨が送りつけられ、同年6月には東京都江東区の女児D(同5歳)が行方不明となり、埼玉県飯能市でバラバラ死体となって発見された。同年8月に一連の事件の犯人である宮崎勤がD事件の被疑者として警視庁に逮捕され、彼の自供により行方不明のままだったBも遺体で発見された。宮崎は2006年(平成18年)2月に死刑判決が確定、2008年(平成20年)6月17日に東京拘置所で死刑を執行されている。


 被害者の遺骨を遺族に送りつける、犯行声明を新聞社に送りつけるなど、不可解な行動を犯人がとったことで、マスメディアによる報道が過熱。犯人逮捕後も、犯人の趣味嗜好などが大きく取り上げられ、「おたく」という呼称・言葉が広く周知されるきっかけとなった。当時としては異例の2度の正式な精神鑑定が行われた事件でもある。

 犯人の名前から、「宮崎事件」「宮崎勤事件」「M君事件」などと呼ばれる。犯人だけでなく、被害者の名前も実名で報道された事件であるが、本項では被害者を事件発生順にA・B・C・Dと表記する。


 1988年8月22日、埼玉県入間市春日町で女児A(当時4歳)が行方不明になり、両親が「娘が帰ってこない」と埼玉県警察に通報した[1]。翌23日以降、所轄の狭山警察署や入間市消防本部などによる大規模な捜索が行われ[1]、周辺の聞き込みから県警は誘拐事件も視野に捜査を進めたが、犯人からの連絡はなく、Aの生死・行方は不明のままだった。その後、同年10月3日に同県飯能市下赤工で市立原市場小学校1年生の女児B(当時7歳)が行方不明になり[2]12月9日には同県川越市古谷上で女児C(当時4歳)が相次いで行方不明になった[3]。3事件の現場はいずれも半径10キロメートル圏内の入間川沿いで、失踪した時間が夕方であることなど共通点が多かったため、埼玉県警は3件連続の幼女誘拐事件の可能性があるとみて捜査した[3]。同月15日、同県入間郡名栗村上名栗新田1289-2の「県立名栗少年自然の家」に近い杉林[注釈 1]でCの他殺体が発見された[4]。同事件を捜査していた県警捜査一課と飯能川越の両警察署は誘拐殺人・死体遺棄事件と断定[5]、県警刑事部長・友川清中を本部長とする「Cちゃん誘拐・殺人事件合同捜査本部」を設置した[4]

翌1989年2月6日、女児Aの自宅玄関前に段ボール箱が置かれており、中には焼かれた人骨片と歯が入っていた。埼玉県警は箱に入っていた歯の鑑定を東京歯科大学に依頼し、一度は女児Aのものではないと発表したが、後に女児A本人のものと断定した。同月10日と11日に「今田勇子」[注釈 2]の名で、朝日新聞東京本社と女児A宅に犯行声明と女児Aが写ったインスタント写真が郵送された。犯人は犯行声明の中で女性であると称しており、内容は段ボール箱に入った骨は全て女児Aの骨である、と主張するものだった。朝日新聞社に添付された写真が女児A本人と確認され、当時女児Aが履いていたサンダルの絵柄など犯人しか知りえない事実が記載されていることから、同県警は声明文を犯人が書いたものと断定した。

同年6月6日、東京都江東区東雲二丁目で保育園児の女児D(当時5歳)が行方不明になった[6]警視庁捜査一課と深川警察署が事件・事故の両面で捜査したが[6]、同月11日、飯能市宮沢170-1にある宮沢湖霊園の駐車場北西側にあった簡易トイレ裏で、頭部と両手足首が切断された女児の遺体が発見され[7]、同月12日に埼玉県警は発見された遺体が女児Dのものと断定した[8]。警察庁によればバラバラ殺人事件は1949年(昭和24年)以降、それまでに全国で77件が発生していたが、死体の持ち運びのために切断した事例が多く、被害者はほとんどが大人だったという特徴があるため
[注釈 3]、Dはバラバラ殺人の被害者としては最年少でもあった[9]。また1984年(昭和59年)以降、12歳以下の児童が犠牲となった誘拐殺人事件はD事件が14件目だった
[10]。同日、警察庁は一連の誘拐事件を広域重要事件捜査要綱に基づき、警察庁広域重要指定事件広域重要指定事件に次ぐ重要事件として同庁が捜査の指導・調整に乗り出す「準指定第4号事件」に指定した[10]

犯人の逮捕[編集]

1989年7月23日宮崎勤が、東京都八王子市美山町で、幼い姉妹を標的として妹の方の全裸写真を撮るというわいせつ事件を起こしているところを被害女児の父親に見つかり偶然近くをパトロールしていた警官に引き渡され(私人逮捕[注釈 4]八王子警察署現行犯逮捕された。東京地検八王子支部は8月7日、宮崎をわいせつ誘拐、強制わいせつ罪で起訴し、同月9日に宮崎は女児Dの殺害を自供[11]。翌10日、自供通り奥多摩町梅沢地区の山中[注釈 5]で女児Dの頭蓋骨が発見され[13]、11日に宮崎を未成年者誘拐殺人死体遺棄の容疑で再逮捕した[14]。この後、唯一被害者の安否が不明だったB事件についても宮﨑は自身がBを誘拐・殺害したことを自供し、その自供通り9月6日、五日市町戸倉の小峰峠付近の山中(東京電力新多摩変電所の裏)[注釈 6]でBの白骨化した遺体が発見された[15]

宮崎が自室に所有していた「5,763本もの実写ドラマなどを撮影したビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、これらを分析するために74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。2週間の捜査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像が発見された。

宮崎は当初、埼玉県で起きた3つの誘拐事件の関連については否定していたが、9月にかけて4つの事件への関与を自供し、9月2日に東京地検は宮崎を誘拐、殺人、死体損壊・遺棄罪で起訴した[16]

 動機 「宮崎勤#精神鑑定」も参照

 事件の奇異さからさまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。

 鑑定にあたった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。「成人を諦めて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず…幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。

 宮崎は、1989年8月24日に東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。その結果「精神分裂病(当時の呼称で、現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まる」と診断されたことから、これを受けて検察は起訴に踏み切っている。

 公判開始後の1992年12月18日より、弁護側の依頼で3人の鑑定医による3度目(公判開始後は2回目)の再鑑定が始まる。1994年12月に鑑定書が提出される。その鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害と異なる鑑定結果を出している。


裁判から死刑執行まで[編集]

第一審
1997年4月14日東京地方裁判所死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。責任能力に関しては、逮捕時の彼にそのような多重人格や統合失調症を疑わせるような異常な反応は見受けられず、逮捕による拘禁反応とみなした場合にもっともうまく説明できることを理由に第2回鑑定は採用されず、責任能力は完全に保たれていたとされた。即日控訴
控訴審
2001年6月28日東京高等裁判所で一審支持・控訴棄却の判決。同年7月10日上告
2004年には奈良小1女児殺害事件が起こるが、同事件の容疑者が「第二の宮崎勤」の発言を行ったことに対し「精神鑑定も受けずに、『第二の宮崎勤』は名乗らせません」(雑誌『』2006年1月号)と宮崎の名を使ったことに対し痛烈に批判した。
上告審
2006年1月17日最高裁判所が弁護側の上告を棄却。弁護側は判決訂正を求めたが、2006年2月1日に棄却[17]

死刑執行[編集]

2008年6月17日東京拘置所で死刑が執行された[18]。宮崎は冷静に執行を受け入れ、また宮崎の母親は遺体との対面後に、処置については拘置所に任せたという[19]


影響

オタクバッシング[編集]

宮崎がいわゆるおたくロリコンホラーマニアとして報道されたことから、同様の趣味を持つ者に対して強い偏見が生じた。宮崎が殺害後の幼女をビデオカメラで撮影し、膨大なコレクションのビデオテープの中に隠し持っていたことから、おたくは現実と空想・妄想と犯罪行為の境界が曖昧で、明確な規範意識の欠落が犯罪に及んだなどとされた。

この事件により「有害コミック騒動」が活発化してアニメ・漫画・ゲームなどが青少年に悪影響を及ぼすとする風潮が高まり、マスコミやPTAなどでの議論となった。これら議論では、事件の代表格である「幼女連続誘拐事件」が槍玉に挙げられた。

宮崎勤が第1の事件を供述して以降、NHKや民放のテレビの報道・ワイドショー番組は連日、連続幼女誘拐殺人事件関連の報道を大々的に伝えた。その直前、海部俊樹が第76代内閣総理大臣に就任し、第1次海部内閣が発足したばかりだったが、宮崎が第2・第3の事件の供述をしたことから、事件の経緯を検証する形で誘拐殺人事件報道を優先していた。民放各局のワイドショーは8月下旬まで、連日30分〜1時間(場合により2時間も)程度で誘拐殺人事件関連の話題を優先していた。

当時の報道では、後のオウム真理教事件以降顕著になった報道のワイドショー化、マス・ヒステリーが激化。これらは80年代サブカル文化人にとっての「連合赤軍事件」となり、これ以降大塚英志などのサブカル文化人が「社会派」に転じる動きが起きた[20]

8月26日礼宮文仁親王(現・秋篠宮)が川嶋紀子との婚約を発表してからは、事件報道の扱いが次第に縮小されていった。

「10万人の宮崎勤」デマ[編集]

コミケ会場を取材したあるテレビ番組のレポーターが来場者を前に「ここに10万人の宮崎勤がいます!」と言った、という噂が2000年代にWikipediaを含むネット空間で真偽不明のまま広まった。ライターの石動竜仁が2017年に行った調査によると、事件発覚当時、新聞や週刊誌などで似たような記述は多くみられたが、「10万人の宮崎勤」という文言は使われていなかった[21]。また「10万人の宮崎勤」をテレビで見たという証言は多数あり、中には発言者が東海林のり子であると名指しするものもあった(東海林のり子#「10万人の宮崎勤」デマ被害を参照)が、報じた局、レポーターの名前・性別、状況がみなバラバラであり、噂と一致する映像は確認できなかったという。石動によれば、2004年9月に発売されたとある雑誌に掲載されていた漫画の中で「10万人の宮崎勤」発言をネタにしたシーンがあり、これ以降、ネットで噂が大きく広がったとしている[21]

ホラー作品[編集]

宮崎の部屋から押収された大量のビデオテープの中に、『ギニーピッグ2 血肉の華』が含まれていたと報道されると、この作品に影響されて犯行に至ったという解釈が世間に広まり『ギニーピッグ』シリーズは全作品が廃盤となった。しかし実際に部屋から押収されたのは全編コメディ調の『ギニーピッグ4 ピーターの悪魔の女医さん』であり、宮崎は『ギニーピッグ2』を見ていないと供述している。しかしながらこの影響で宮崎の逮捕後しばらく、ホラー映画のテレビ放送が自粛された。

ポルノ作品[編集]

この事件後、1989年あたりから創作物における性的描写に規制が強まった。少年漫画などで女性の裸体を表現する場面で乳首が見えないように修正を施されたのもこのころからである。青年誌では『ANGEL』などの人気作品が連載中止となった。

当時この事件の取材をしていた木村透は、偏向報道があったと「読売ウイークリー」のブログ2005年11月21日)にて主張している(当該エントリーはすぐに削除された。関連記事)。削除されたエントリーで木村は、民放カメラマンが部屋の隅に数十冊あった雑誌のうち、成人向け書籍を一番上に乗せて撮影するという行為があったと主張している[注釈 7]。5,787本という膨大なビデオテープの大半は『男どアホウ甲子園』や『ドカベン』など大量のアニメ作品の録画テープが占めており、いかがわしいビデオや幼女関連のビデオ作品は44本に過ぎなかった。

これらのテープのほとんどは一般のテレビ放送を録画したものや、そのテレビ録画がマニアによってダビングされたもので、これらは文通などの方法で交換されたものという話がある。当時の報道によれば、こういったマニア間でのテレビ録画したダビングビデオの交換は方々で行われていたが、宮崎はこの交換で望みのテープを入手する際に、相手への返礼が十分でなく、遅延するトラブルもあったという。また宮崎が自分の欲しい作品をどんどん入手する反面、相手の頼みはできるだけ断るという態度を取ったため、宮崎を除名したサークルもあった。またサークルのメンバーからは、宮崎は「完録マニア」(全話を録画しないと気がすまないタイプ)であり子どもっぽいとの印象も持たれていた。

小児児童への影響[編集]

この事件をきっかけに、年端もいかない小児に性衝動を覚えるペドフィリア嗜好の存在が広く知られることとなり、保護者が子どもをめぐる性犯罪に対して強い恐怖感を抱くようになった。

テレビの幼児番組などでも、児童(女児)の裸・下着が画面に映ることを避けるようになった。さらに、宮崎が年少のころより動物に対して残虐な行為を行っていたという報告もあり、動物虐待行為がこれらの犯罪行為の予兆であると考える向きもある。

その他の影響[編集]

事件当時、フジテレビで放送中のアニメ『らんま1/2』において、8月19日放送予定だった 第14話「さらわれたPちゃん 奪われたらんま」が誘拐を連想させるとして急遽放送内容を差し替え、後日放送予定だったアニメオリジナルエピソードの回を放送したが、その話の回想シーンにまだ未放送回のシーンがあったため、話がつながらない部分が発生する影響があった。また、この回は放送枠移動後に放送されたが、移動後の放送枠がローカルセールス枠であったことから一部の局では移動の際に打ち切られたため、再放送かソフト化まで見られない地域もあった。

日本のロックバンドARBの楽曲「MURDER GAME」の歌詞の内容が本事件に酷似しているとNHKから指摘があり[要出典]、放送禁止となった。また同楽曲の歌詞の内容は、テレビゲーム狂の男が遊び相手の子供を殺したというもので、宮崎の起こした事件の概要とは異なる。


 冤罪説

 この事件について冤罪説を唱える者が集まり、「M君裁判を考える会」という市民団体を組織した。代表者の木下信男応用数学者、明治大学名誉教授)は1994年、『明治大学教養論集』に『裁判と論理学─幼女連続誘拐殺人事件に見る冤罪の軌跡』と題する論文を載せ、冤罪論を説いた。 また、「M君裁判を考える会」会員である小笠原和彦は冤罪説の立場から『宮崎勤事件 夢の中:彼はどこへいくのか』(現代人文社、1997年)を執筆している。

その他[編集]

宮崎勤が1989年3月11日に「今田勇子」名義で第2の書簡「告白文」を朝日新聞東京本社と殺害された女児の家に送っているが、その告白文では、前年1988年に利根川河川敷で白骨化した遺体が発見された群馬小2女児殺害事件について触れられている。群馬小2女児殺害事件は、遺体の発見現場が河川敷だったこと、遺体の両腕のひじから先と両脚の膝がなかったことなど、宮崎の事件との共通点があった。そのため、この事件も宮崎の犯行と疑うメディアもあったが、殺害時期が宮崎の第1の殺害事件から1年近く前であること、事件現場がやや離れていたこと、宮崎と結びつける証拠が見つからなかったこともあり、宮崎の犯行としては立件されず、2002年9月15日公訴時効が成立して未解決事件となった。

女児Dの切断遺体が遺棄された宮沢湖霊園(埼玉県飯能市)には事件後、遺体発見者の一人である元霊園管理人がDのための小さい祠を建設し、1997年5月にはその祠に代わって被害者4人のための慰霊碑が建設された[22]

神奈川県横須賀市にある「久里浜霊園」には、被害者4人を慰霊するため地蔵菩薩などの石像群が建立されているが、これは同霊園を管理する横浜市の寺「聖徳寺」の檀家(事件当時、被害者の1人の近所に住んでいた)が寄贈したものである[23]


参考文献[編集]

刑事裁判の判決文[編集]

書籍[編集]

関連文献[編集]

  • 安永英樹『肉声 宮﨑勤 30年目の取調室』文藝春秋、2019年1月。ISBN 978-4163908687
    • 下記テレビ番組『土曜プレミアム』取材内容の書籍化。

テレビ番組[編集]

  • 『報道スクープSP 激動!世紀の大事件II』(フジテレビ)- 2014年12月13日 演:曇天三男坊
  • 土曜プレミアム・衝撃スクープSP 30年目の真実 ~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件』(フジテレビ) - 2017年10月7日 演:坂本真 宮崎本人の肉声が放送され、大きな反響があった。
  • みんなのニュース』(フジテレビ) - 2017年10月9日 特報
  • 『平成ニッポンの瞬間映像30』(日本テレビ) - 2018年12月28日 演:長坂一哲
  • ザ!世界仰天ニュース』(日本テレビ) - 2023年3月28日

映画[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 現場は「少年自然の家」の建物から下に約30 m下った場所、かつ斜面の下を通っている県道青梅秩父線から約10 m登った場所である。同地点は飯能市街から県道青梅秩父線を秩父市方面に向かった約20 kmの山中(標高約600 m)で、飯能市と横瀬町の境付近にある「正丸峠」から南西に約1 km下った地点だが、周囲には少年自然の家以外に大きな施設はなく、冬季は通行車両も比較的少なかった[4]
  2. ^ 今田勇子とは、「『勇子・今田』=“Yuuko Imada”→“Yuuka Imada”=『誘拐魔だ』のアナグラム」という説や、「今だから言う」などという説が、当時の犯罪分析専門家などのコメントとして報道された。
  3. ^ それ以前に発生したバラバラ殺人事件で最年少の被害者は、1957年(昭和32年)4月2日に東京都中野区で殺害された中学1年生の男子生徒(当時12歳)である[9]。この被害者は犯人の事務員(当時31歳)宅に誘い込まれ、いたずらされて殺害され、ナタなどで遺体をバラバラに切断され、床下に遺棄されていた[9]。子供が犠牲になったバラバラ殺人事件は、D事件が同事件以来だった[10]
  4. ^ この時宮崎は被害女児の父親に威嚇されて怯えながら何度も謝ったが許してもらえなかった。
  5. ^ 現場は多摩川に並行する「吉野街道」から約30 m入った杉林で、付近は夏になると多摩川近くのキャンプ客で賑わうが、夜になると真っ暗で車はほとんど通らない場所である[12]
  6. ^ 現場は変電所端のハイキングコースから徒歩30分ほどの場所にある、林道から沢へ向かって約50 m下った場所[15]
  7. ^ 月刊ニュータイプ1989年11月号でも、とり・みきが、こうした「TVの人間」による雑誌の位置を動かすなどの「演出」があったということを主張している
  8. ^ 劇中では名前の表記は「宮島ツトム」に変更されている。
  9. ^ 劇中では同事件以外にも、オウム真理教による一連の事件や和歌山毒物カレー事件に関連する人物などもモデルとなって登場する。

関連項目

女性を標的にした連続殺人犯

 2023.9.18日、「宮崎勤によって人生を狂わされた人々の“その後”。「あの事件以来、家族関係がゴタゴタして…。こうなったのは誰のせいですか?」。
 昭和・平成 闇の事件簿1~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件発生から35年~

 昭和から平成にかけて日本中を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の発生から35年が経った。4人の幼い少女の命を奪い、“日本犯罪史上最悪の殺人鬼”とも言われた宮崎勤・元死刑囚とは何者だったのか? 本稿では、公判での宮崎勤の言動、死刑執行までの被害者家族の苦悩などを、写真週刊誌記者として事件を追い続けた小林俊之氏が振り返る。(全3回の第3回)

 初公判で繰り返した不可解な言動

 1990年3月30日、東京地裁で初公判が開かれた。注目の裁判は毎回、一般傍聴席を求めて長蛇の列となる。わたしは親交のある週刊誌や地方紙の記者から余った券を譲り受け、宮崎勤の公判を何度か傍聴した。 勤は初公判で捜査段階での供述を一転させ、不可解な言動を繰り返した。 「覚めない夢の中にいた気がする」 「ネズミ人間が現れて何がなんだかわからなくなり、気がついたらマネキンのようなものが落ちていた」 小太りの青年は突然、「ネズミ人間」の出現を語った。わたしの頭は混乱した。公判中、勤は鉛筆をくるくる回し、時には居眠りをしているようにも見えた。 ――遺体にシーツを掛けた理由は。 「おじいさんの復活の儀式をやった。周りをゆっくり歩いて、じいさんを蘇らせたかった」 ――現場で遺骨を舐めたか。 「ええ」 ――添い寝したか。 「はい」 ――どのように。 「脇に仰向けになった」 ――時間は。 「3分」 ――なぜしたのか。 「わからない」 小声のロボットと対話をしているような単調な繰り返しで、リアリティが欠落していた。

 「『お父さん、私の絵を描いて』と夢の中で懇願されました」

公判は2度目の精神鑑定のため中断されたが、1995年2月2日、1年11か月ぶりに再開された。 その頃、被害女児Aちゃんの父親が心中をわたしに語ってくれた。 父親は若い頃は銀座で油絵の個展を開くほどの才能の持ち主だったが、プロにはならずに設計士の道を歩んだ。その彼を十数年ぶりにキャンバスへと向かわせたのは、夢の中のAちゃんだった。 「平成元年1989年の暮れ、Aの誕生日前後に『お父さん、私の絵を描いて』と夢の中で懇願されました。初めは4歳当時の肖像でしたが、その後、絵を描くたびに娘はどんどん成長していくのです。叶うなら、亡くなった4人の子供たちの写真を借りて、『四姉妹』というタイトルで大きなキャンバスに絵を描いてみたい」 。それまで淡々と心情を吐露していた父親は、荒ぶる心を抑えきれなくなったのか、語気を強めた。 「宮崎は逃げていると思う。あれだけの文章が書けるんですよ、1から10まで狂っているということはない。原因はやはり家庭なのです。当時は死刑を願っていたが、今はなんとも言えない。もちろん宮崎を許すわけではないし、対面したら私はどうなるかわかりません。しかし、私も歳をとって白髪頭になってしまいました」。

  1997年4月14日、東京地裁は第一審で死刑判決を言い渡した。勤は月刊誌に心情を綴った手紙を送った。 「(死刑は)何かの間違い。(4人の幼女は)今でも夢に出てきて『ありがとう』と言って喜んでいる」 。

 死刑判決が出た後、わたしは事件関係者を訪ね、彼らの“その後”を取材した。被害女児Bちゃんの父親が心境を語ってくれた。 「死刑の判決は出たが、まだ調べることがあると聞いていたので、長くなるのは覚悟している。世間は事件を忘れているかもしれないが、当事者にとっては(宮崎勤が)死ぬまで終わらないのです。来年は娘の十三回忌。生きていれば成人式を迎える歳になるのです。 あの事件以来、家族関係がゴタゴタして3年前から女房とは別居しています。こうなったのは誰のせいですか。家庭が壊れても誰も補償してくれないでしょう。あれ以来、新聞(購読)もやめて事件を忘れようとしているのです」 もうそっとしておいてほしい――。父親の心の叫びだった。
 周囲の人間が語る“その後”の宮崎家

 勤が住んでいた西多摩郡五日市町は事件後、あきる野市に名称が変わったが、勤の実家の裏を流れる秋川は変わらず清く澄んでいた。近所の主婦の話。 「(宮崎勤の)お母さんは事件後、2、3年はここに来て、『迷惑をかけた』と近所を一軒ずつ回っていました。いつだったか、(宮崎勤の)お父さんが家に来て、いきなり玄関のたたきに土下座して、『申し訳ない』と泣いていました」。宮崎家と親しかったという男性が取材に応じてくれた。 「宮崎さんの噂はここ数年まったく聞かないね。事件から2年が経った頃に老人ホームに入っていたおばあさんが亡くなったし、お父さんは自殺。その弟(宮崎勤の叔父)も五日市町で印刷業を営んでいて、事件後に勤の家族を支えていたが、数年後に亡くなった」。勤の父親は1994年11月、地上32メートルの青梅市の橋から多摩川に身を投げて自殺した。享年65歳。働き者と評判だった母親は病気で倒れ、体が不自由になったが、勤に面会するため東京拘置所に通っていたという。 2000年から翌年3月まで東京拘置所で雑役係をしていた上地勝彦さん(仮名)が塀の中の勤を語ってくれた。 「私の仕事は食事の配膳や掃除が主ですが、頼まれた本なども運んでいました。宮崎はロリコン雑誌が多かった。舎房で読める本は何冊か決まりがあるが、宮崎は優遇されていたと思う」。 勤はぶくぶく太り、頭は禿げ上がって、残っていた髪もボサボサだったという。 「メガネをかけていて、いつもトレーナーを着ていました。毎日牛乳が差し入れされていたから、週に一度はお母さんが面会に来ていたと思います」 。死刑確定から2年4か月が経った2008年6月17日、刑が執行された。 精神鑑定で多重人格と判断された勤の言動を“詐病”だという識者もいる。勤は逮捕後、2冊の本を上梓しているが、それらは責任逃れの遁辞かもしれない。 しかし、その言葉は犯罪解明の第一級の資料ではなかったか。“宮崎勤事件”以後に起きた神戸連続児童殺傷事件、京都小学生殺害事件、秋葉原通り魔事件など、“理解困難な殺人”を解明するための原資――勤が次に語る言葉を抹殺する死刑執行は、少し早すぎたのではとわたしは思う。 2023年8月、わたしは10年ぶりに旧・五日市町を訪ねた。勤の実家の跡地は、以前は川遊びに来る人たちの車の駐車場として1日1000円で近所の住民が管理していた。現在、駐車場はきれいに整地され、「和み広場」の看板が立てられていた。近所の住民に話を聞いた。 「3、4年前に勤のお母さんが税金を払えなくなって、あきる野市に物納したんだ。今は老人のゲートボール場だよ。墓も荒れ放題で、いずれは墓じまいになるのでは。勤の遺骨をお母さんが引き取ったという話は聞いたことがない」 勤の逮捕直後、母屋での囲み取材に対応したのは父親で、母親は下を向いたまま何も語らなかった。最後に消え入るような声でぽつりとつぶやいた母親の言葉が、今も忘れられない。 「早く結婚してほしかった」 。終わり
 『前略、殺人者たち 週刊誌事件記者の取材ノート』(小林俊之、ミリオン出版) 小林俊之  2015/11/9
  殺人現場を東へ西へ 事件一筋30余年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。 報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔をいま明かす!
 大阪教育大附属池田小事件:宅間守
 秋葉原通り魔事件:加藤智大
 松山ホステス殺人事件:福田和子
 東京・埼玉連続幼女殺人事件:宮崎勤
 奈良小1女児殺害事件:小林薫
 本庄保険金殺人事件:八木茂
 愛知・新城JC資産家殺害事件:五味真之(仮名)
 首都圏連続不審死事件:木嶋佳苗
 熊谷男女4人拉致殺傷事件:尾形英紀 少女A
 帝銀事件:平沢貞通
 奈良母姉殺傷事件:畑山俊彦(仮名)

 「宮崎勤が奪った幼い命…被害者家族が明かした悲痛な胸の内。「行方不明になったAちゃんのポスターを見た娘は『かわいそうだね』と言っていました。まさか、その子が同じようにいなくなるなんて…」」。
 昭和から平成にかけて日本中を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の発生から35年が経った。4人の幼い少女の命を奪い、“日本犯罪史上最悪の殺人鬼”とも言われた宮崎勤・元死刑囚とは何者だったのか? 本稿では、事件の経緯、被害者家族の悲痛な胸の内を、当時、写真週刊誌記者として事件を追い続けた小林俊之氏が振り返る。

 街の公園から、子供たちの歓声が消えた


 昭和が終わろうとする1988年8月22日、午後6時23分。4歳(当時)の女児Aちゃんの母親(当時44歳)から、埼玉県警に電話が入った。

「本日午後3時ころ、近所に遊びに行く、と言って外出した次女が未だに帰宅しない」

県警が駆けつける前には、すでにマンション自治会の方々がAちゃんの捜索を行っていた。そこに父親(当時47歳)の姿がなかったことで、のちにあらぬ詮索を受けた。父親が娘の失踪を知ったのは翌朝、経営する都内の設備設計会社にかかってきた県警からの連絡によってだった。

自宅は埼玉県入間市。マンションの裏には入間川が流れている。この日、仕事に忙殺されていた父親は、終電前に仕事が終わらなかった。

「あの日は、いつものホテルに泊まる予定だったが満室で、以前一度だけ世話になった旅館に宿を取ったのです。いつもならすぐに熟睡するのに、胸がドキドキして眠れなくて。体の具合が悪いのかなと思うほどでした」

この想定外の行動で、奥さんからの連絡は途絶え、娘の失踪を知る由もなかった。父親は、帰宅してからはAちゃんの足跡を求め、奔走した。

「Aを連れ歩いた場所や、西武線沿線を一駅一駅下車して、手がかりを求めて探しました。もしかして山の中の水溜まりにはまっていないか、と80日間歩き回りました。5年でも10年でも娘を探そうと覚悟を決めたのです」

そうした地獄のような日々が続くなか、同年10月3日、今度は隣町の飯能市に住む7歳(当時)の女児Bちゃんが行方不明になった。

さらに2か月後の12月9日、川越市に住む4歳(当時)の女児Cちゃんが自宅近くで忽然と姿を消した。5日後、「C かぜ せき のど 楽 死」と書かれた謎解きのようなハガキが、川越市のCちゃんの自宅に届く。翌日、全裸にされたCちゃんの遺体が入間郡名栗村(現・飯能市)の山林で発見された。

小さな女の子を持つ親たちは、震え上がった。街の公園から、子供たちの歓声が消えた。
 Aちゃんの葬儀当日に届いた「告白文」

 このCちゃん殺害事件から、当時写真誌の記者だったわたしは取材に関わった。写真誌記者の宿命で、少女たちの顔写真を入手するため奔走した。

川越署は情報提供のため積極的にメディアに対応した。今では考えられないが、Cちゃんの写真提供を依頼すると「親御さんの了解があれば」と、その場で母親に電話を入れてくれたのだ。この週の誌面には、笑顔のAちゃん、Bちゃん、Cちゃんが並んだ。

確たる情報があったわけではないが、このころからメディアは連続誘拐事件を匂わせた。この時期、捜査線上に、のちに逮捕される宮崎勤に繋がる情報は皆無だった。

元号が平成に変わった1989年2月6日、Aちゃんの自宅玄関前に段ボール箱が1個置かれていた。Aちゃんの父親がそのときの状況を語ってくれた。

「あの日は、午前5時半に会社に行こうとドアを開けたらズズーと何かに当たった感触がありました。近所の子供の忘れ物かなと思って中を見ると、これはまずいと直感しました。Aが穿いていたパンツの写真、遺骨らしいものや暗号のようなコピー用紙が入っていた。とても女房には見せられないと思いました」

拡大されたコピー文字には「A 遺骨 焼 証明 鑑定」と書かれていた。送られてきた子供の歯を見た瞬間、父親は娘の死を確信したという。

しかし、捜査本部が置かれていた狭山署は「発見された歯牙は、Aちゃんの治療時のカルテとは異なるものと認められる」ため、別人の歯牙と断定した。

だが、3月1日、狭山署は段ボールの人骨はAちゃんのものであると発表し、死亡が確定。3月11日には葬儀が執り行われた。

宮崎勤・元死刑囚の父親が経営していた印刷工場

遺骨が入った段ボールが届いた直後、「今田勇子」の名で朝日新聞東京本社とAちゃんの自宅に「犯行声明」が郵送された。捜査の攪乱を狙ったのか、「子供を産めない女」を演じていた。

「私は、神に斗(たたか)いを挑まなくてはなりません」

Aちゃんの葬儀当日には、今田勇子からの「告白文」が届いた。犯行声明と同様に、朝日新聞社にも郵送されたことが葬儀会場内に広がり、騒然となった。ワイドショーは連日、「子供を亡くした中年女性」などと、今田勇子像を分析、解説した。

「娘はまだ元気で、子供の好きな人に育てられていると信じているのです」

3人の幼女失踪事件のなかで、まったく手がかりがなかった飯能市の小学1年生Bちゃんの母親(当時39歳)が、愛娘の写真を前につらい胸のうちを、切々とわたしに訴えた。

「昨年の12月にCちゃんが遺体で発見されたとき、一瞬でうちの娘だと思いました。Aちゃんの家に骨が送られて、歯型がAちゃんのものでないと発表されたときは、目の前が真っ暗になりました。

残された親御さんの気持ちが痛いほどわかるし、本当につらい毎日だったと思います。心のどこかで、もしかしたら同じ犯人では、との思いもあります。でも娘はまだ元気で、子供の好きな人に育てられていると信じているのです」

Bちゃんが行方不明になったのは1988年10月3日、Aちゃん失踪の約2か月後である。Bちゃんは午後1時50分すぎに友達と学校を出て、欠席した男の子の家に連絡帳を届けて帰宅。その後、外に出たまま足取りが途絶えた。有力な目撃者はいなかった。

宮崎勤・元死刑囚の自室

Bちゃん一家は、飯能市に越してくる4年前まで、入間市のAちゃん宅から数百メートルのところに居住していた。だが、面識はなかったという。

「近所に住んでいたことが、今回の事件と関連があるとは思えないし、思いたくないです。街で行方不明になったAちゃんのポスターを見た娘は『かわいそうだね』と言っていました。まさか、その子が同じようにいなくなるなんて……。

お姉ちゃんは、今でも毎朝、Bのランドセルにその日の授業の教科書を揃えてやっています。私は夜、パジャマを着ません。いつでも飛び出せるように洋服のまま床に入っています。見る夢は、娘の元気な姿。かくれんぼをしていて、あの子がワッと笑顔で出てくるのです。つかまえようとしても手が届かない……やっぱり夢だったのか……。
誘拐した方にお願いいたします。どうか一言でも、一言だけでも元気な声を聞かせてください」

この母親の悲痛な願いは、悲しいかな、届くことはなかった。

6歳女児の全裸写真を撮り、現行犯逮捕された宮崎勤

わたしがBちゃんの母親にインタビューした3か月後の1989年6月6日。都内江東区の団地に住む5歳(当時)の女児Dちゃんが、近所で遊んでいるうちに行方不明になった。

5日後の11日午前11時ころ、飯能市の霊園で頭部や両手、両足が切断された幼女の遺体が発見された。その後の捜査で遺体はDちゃんと判明。想像を超えた猟奇ぶりに、列島は震撼した。

その翌月の7月23日、日曜日の午後4時35分ころ。東京都八王子市の郊外で、幼いふたりの姉妹に「写真を撮らせて」と若い男が声をかけた。不審に思った姉は、父親に助けを求めた。

近くの沢に妹を連れ出した男は、買ったばかりの一眼レフのカメラを構え、全裸になった6歳(当時)の妹にレンズを向けた。駆けつけた父親が偶然近くをパトロールしていた警官に身柄を引き渡し、強制わいせつの現行犯で逮捕された。

男は、26歳(当時)の宮崎勤。

8月7日、宮崎勤はわいせつ目的・強制わいせつで起訴された。9日、八王子署に派遣された特別捜査部員の追及に、宮崎勤はのらりくらりとあいまいな供述を繰り返していたが、夕食後にDちゃんの殺害を自供した。

8月10日、快晴。この日から所属していた写真誌編集部の夏休みが始まった。わたしは家族を車に乗せ、奥多摩湖に向かった。奇妙な縁だが、4人目の被害者Dちゃんの頭部が発見された吉野街道を走行していた。

「八王子市内でわいせつ事件を起こした五日市町の男が、Dちゃん殺害を自供」

カーラジオから臨時ニュースが流れた。心臓がばくついた。わたしは車を急転回させ、西多摩郡五日市町(現・あきる野市)へ向かった。

昭和から平成にかけて日本中を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の発生から35年が経った。4人の幼い少女の命を奪い、“日本犯罪史上最悪の殺人鬼”とも言われた宮崎勤・元死刑囚とは何者だったのか? 本稿では、逮捕直後に訪れた宮崎勤の部屋、宮崎家の歪んだ家族関係について、写真週刊誌記者として事件を追い続けた小林俊之氏が振り返る。

「息子はあんな事件を起こすような男ではない」

「八王子市内でわいせつ事件を起こした五日市町の男が、Dちゃん殺害を自供」

平成元年、1989年8月10日。この日から所属していた編集部の夏休みが始まり、わたしは家族を車に乗せて奥多摩湖に向かっていた。

奇妙な縁だが、4人目の被害者Dちゃんの頭部が発見された杉林脇の吉野街道を走行していたときに、カーラジオから臨時ニュースが流れた。心臓がばくついた。わたしは車を急転回させて、西多摩郡五日市町(現・あきる野市)へ急いだ。

自供した男の名前も住所もわからない。とりあえず五日市警察署へ向かうと、署員全員がテレビの画面を見つめていた。名刺を出すと、「うちの署は事件とは関係がないので何もわからないが、自宅はあそこだよ」と清流・秋川の対岸を指した。

Dちゃん殺害を自供した宮崎勤の実家は週刊「秋川新聞」を発行している印刷会社だった。 炎天下の昼すぎ、すでに数人の報道陣が勤の両親を囲んでいた。

家族旅行中だったわたしはランニングに短パン、サンダル姿だった。裏口から入ると、「こいつは誰だ」という視線が一斉に飛んできた。旧知の新聞記者が手招きしてくれたお陰で、なんとかマスコミと認知された。

宮崎勤・元死刑囚の自宅

印刷機が並ぶ工場奥の居間で、頭髪をポマードで固めた艶っぽい父親(当時59歳)と小柄な老婦人がちょこんと座って、記者からの質問に答えていた。わたしが勤のおばあさんだと思ったその女性は、母親(当時55歳)だった。それほど夫妻の見た目には差があった。

「子供のころはコツコツやるタイプで努力家だった。他人との付き合いに欠けていたので町の消防団を勧めたのだが……。息子は物静かで大人しい性格。あんな事件を起こすような男ではない。夜、出歩くこともないし外泊もない」

父親は勤の人柄を語った。記者たちは“今田勇子”が被害者宅に送ったメモについて質問した。

「私のワープロ、コンピューターに勤は手をつけていない。インスタントカメラやビデオカメラもない」

わたしは「家族で幼女殺害事件が話題にならなかったのか」と聞いた。

「一切ない」

苛立った表情の父親は、きっぱり答えた。

「趣味はアニメのビデオ収集。勤の部屋を見てくれればわかる」

マスコミ的に“おいしいブツ”がまったくなかった

母屋の裏に、渡り廊下でつながった子供部屋があった。部屋は3室あり、西側の角部屋が勤の部屋だった。父親の了解を得た記者たちは、勤の部屋に足を踏み入れた。続々と取材陣が集まっていた。

大型テレビと4台のビデオデッキ。8畳の部屋の窓と壁がビデオテープで覆いつくされていて薄暗い。『リボンの騎士』『ゲゲゲの鬼太郎』など、さまざまなジャンルのアニメ作品が並んでいた。

記者たちのあいだでビデオテープの数を「2000本ぐらい」と見積もったが、その後、6000本近くあったことが判明した。

敷きっぱなしの布団の甘酸っぱい臭気が鼻をついた。積み重ねられた段ボール箱には「メンコ」「カード」と書かれていた。のちに「オタク」と表現されたが、わたしは26歳にもなる男の収集の子供っぽさに唖然とした。床には少女雑誌やビデオ雑誌などが多数散乱し、その下にエロ漫画『若奥様のナマ下着』があった。それをひょいと抜き出したテレビカメラマンは、散乱した雑誌の上に乗せ撮影した。

性犯罪者の“いい画”を撮るための演出である。マスコミ的に“おいしいブツ”が、ほかにはまったくと言っていいほど部屋にはなかったのだ。

唯一、幼稚園の入園案内パンフレットがロリコンを連想させたが、部屋の中には女性が写っているテニスクラブのパンフレットもあった。この男は幼女だけでなく、“オンナ”に興味があるのだ、とわたしは確信した。

工場にはドイツ製ハイデルベルクの印刷機や活版印刷機があり、インクの油っぽいにおいが漂っていた。勤が生まれる前から働いているという工場長に話を聞いた。

「仕事中に『この事件の犯人は極刑だな』と勤くんに話しかけたら、なんの反応もなく聞き流していた。彼が関係あるのが、信じられない」

わたしは「このなかに勤が写っているか」と宮崎家の家族写真を工場長に確認したが、「いない」と言下に否定された。

「勤のおじいさんは女工さんに手を付け……」

宮崎勤・元死刑囚の父親が経営していた印刷工場

「おまえたち、何をやっているんだ!」

ほどなくして駆けつけた警視庁の捜査官に報道陣全員が追い出されるまでの60分間は、重大事件の容疑者の自宅を捜査前に取材するという奇跡に近い体験だった。

家族旅行中だったわたしは、何度か利用したことのあったバンガローに家族を押し込め、ランニングと短パン姿で2日間にわたって五日市町を駆け回った。偶然だが、そのバンガローのオーナーの長男は勤の中学の同級生だった。バンガローの目と鼻の先には、勤の母親の実家もあった。

宮崎勤・元死刑囚の自宅に詰めかける報道陣

取材で浮かび上がったのは、宮崎家の歪んだ家族関係だった。祖父の代から宮崎家は絹織物業を営み、最盛期には女性従業員が十数名働いていたという。近所の主婦が内情を語ってくれた。

「勤のおじいさんは女工さんに手を付け、孕ませた子が何人もいました。おばあさんはおじいさんの悪口を近所に触れ回り、いがみ合うふたりの仲は有名でした。PTA会長をやっていた勤のお父さんも役員の女性と噂になっていて、奥さんと喧嘩が絶えなかった」

印刷業が忙しくなった両親は、従業員や祖父に勤を預け、生まれつき障害があった勤の手の治療も行わなかった。

慕っていた祖父が1988年5月に他界すると、勤は祖父の愛犬ぺスの鳴き声を録音したテープレコーダーを祖父の遺体の耳元に近づけ、スイッチを入れた。のちに勤はこう供述している。

「眠っている感じなので目を覚まそうと思った。おじいさんは見えなくなっただけで、姿を隠しているのだ」

火葬場から持ち帰った祖父の遺骨を、勤は食べた。逮捕後の取り調べでDちゃんだけでなく、Aちゃん、Bちゃん、Cちゃんの殺害も自供した勤は、最初の被害者Aちゃんの遺骨を食べた理由を「焼いて食べて、おじいさんに送って、蘇らせたい」と語っている。

骨を食べる行為は蘇生の儀式だったのだろうか。大好きな祖父の死によってスイッチが入った、とわたしは見る。一連の幼女殺害事件が始まるのは、祖父の死から3か月後のことである。

取材・文・撮影/小林俊之






(私論.私見)