イエス・キリスト伝の予備知識、当時の政治及び宗教界の情勢 |
(最新見直し2007.2.27日)
【キリスト誕生前の社会情勢】 |
イエス登場前の歴史的状況は「パレスチナの歴史(古代史篇)」で考察している。ここではユダヤ史について見ていくことにする。それによると次のように寸描できる。 元々パレスチナ地方には様々な民族が群居していた。記録が為されているのは紀元前17世紀頃からである。この頃、ユダヤの民はパレスチナの地を追われ、エジプトへ逃亡する。紀元前13世紀、モーゼが「出エジプト」を指導し、ユダヤの民をパレスチナへ連れ戻す。モーゼはいわゆる「モーゼ律法」を定め、その後のユダヤの民の民族的掟として指針させる。ユダヤの民は、「モーゼ律法」を遵守することによって民族的結束に成功する。そういう意味で、モーゼは、偉大な預言者であり民族の父となる。 ユダヤの民は次第に頭角を現し、紀元前10世紀、古代イスラエル王国を建国を建国する。ソロモン王の時代に栄耀栄華を創出する。しかし、そのソロモン王没、紀元前9世紀、北王国のイスラエルとユダ王国(南王国)に分裂する。紀元前7世紀、その王国も順次滅び、ユダヤの民は「バビロン捕囚」の身となる。その半世紀後、バビロニア捕囚ユダヤ人はエルサレム(カナン)に帰還する。 この間パレスチナでは政治権力が興亡する。バビロニア、ペルシア、マケドニア、エジプト、シリア、ローマがパレスチナの地を支配する。ユダヤの民にとって異民族に支配される鬱屈した時代となるが、この時代に民族的宗教としてユダヤ教を整え始める。「旧約聖書」が成立したのはこの時期であると云われている。紀元前5世紀、第二神殿が建設される。紀元前4世紀、各種立法が編纂される。こうしてユダヤの民は、いわゆるプレ・ユダヤ教を整備しつつあった。 紀元前63年、ローマ軍総司令官ポンペイウスがユダヤを支配し、エルサレムはローマ帝国の支配する時代に入った。ユダヤに王は存在したものの、ローマの支配下にある属国となった。ローマの支配はAD313年まで続くことになる。紀元前29年、オクタビアヌスがローマ初代皇帝となり、ここに帝政ローマが始まる。ローマ帝国は、植民地支配に当たって、ユダヤ人の自治を認め、ユダヤ教の信仰を許した。 同紀元前37年、ローマ帝国から派遣されたエドム人(非ユダヤ人)にしてアンティパトロスのヘロデが、ヒルカヌス2世に代わってユダヤ王となった。ヘロデ王は、歴代のローマ皇帝に巧みに取り入りつつ、伝統的なユダヤ教的祭司支配によるユダヤ人自治を操作した。経済を発展させ、城壁都市エルサレムを復興し、ダビデ時代の優る神殿を再建した。 このヘロデの時代の紀元前4年、イエスが生まれる。この年、ヘロデが死亡し、3人の息子が後を継いだ。イエスの時代、パレスチナは、北からガリラヤ、サマリア、ユダヤ等に分かれていた。その全体がユダヤと呼ばれたかどうかは不明である。アルケラオがユダヤとサマリアとイドメアを、アンティパスがガリラヤとペレアを、フィリポがその他の北の地方の統治権を相続した。その後、紀元6年、アルケラオが追放され、ローマ領総督としてポンティオ・ピラトが赴任してきた。このピラトが、イエス処刑を命ずることになる。ローマ帝国の第2代皇帝ティベリウス帝の時代のことであった。 |
【ハベリムとアムメ・ハアレズについて】 | |
イエス在世中の1世紀頃、パレスチナ・ユダヤ社会は富める者と貧乏な者という二大階級に分裂していた。ハベリムが前者であり、諸々の儀式に参与し、律法を遵守し10分の1税を納める者であった。アムメ・ハアレズは後者で、「土地の人」を語源としており後に一般民衆という意味となった。彼らは、生計にあくせくする人たちであり、律法に無知であったか守ろうとしないどちらかであった。ラビ文献に拠れば、アムメ・ハアレズは無学粗野な不信仰で礼儀知らずの人たちであった。但し、ヒーズン(異教徒)同様に能力次第で律法学者になる道は残されていた。 イエス在世中のパレスチナ・ユダヤ社会はかく階層分裂していた。記録に拠れば、或るラビの次のような言葉が残されている。
この問題を採りあげる理由は、イエスが、アムメ・ハアレズと親しく交わり、為にハベリムから嫌悪されていた様子があるからである。これを逆に云えば、イエスは特権階層を忌避し、下層民の仲間入りしていたことになる。あるいはイエスも又アムメ・ハアレズの出自かも知れない。 この時期、社会の嫌われ者は取税人で、落伍者は罪人、売春婦遊女であった。既成宗教はこれらの者達を卑下し、逆に特権層を崇めた。その頂点に神職、律法学者を位置せしめていた。イエスが、そうした教義を激しく批判していくサマを追って見て行くことになろう。 |
【エルサレム神殿での儀式について】 |
エルサレム神殿は、7枝の燭台に絶えず火がともされ、神殿の聖所では日に2回香がたかれた。そこには祭司専用の12個のパンが供えられ、安息日ごとに取り替えられた。「日ごとの献げ物」として朝晩1匹ずつ子羊が献げられた。子羊は焼き尽くされて供えられた。このほかに、信徒による資産に相応しい「献げ物」として子羊、きじ鳩、牛などが献ぜられた。個人的な誓願、贖罪、感謝など様々な動機で供えられた。 7200名の祭司が2組に分かれ、年2回1週間にわたって神殿の務めを行った。大祭として過越祭、五旬節、仮庵祭(かりいおさい)があり、全員が参加した。大祭司が最も重要な儀式を司った。9600名のレビ人が儀式に参加し、主に音楽と歌唱を担当した。他にも、大贖罪日と神殿奉献記念祭ががあり、盛大に営まれた。 |
【旧約聖書世界観の共有事情について】 |
イエス誕生時の宗教事情を見ておく。この当時、プレ・ユダヤ教とでも称すべき教義形成が進みつつある最中であり、いわゆるユダヤ人のみならずパレスチナ地域一体が宗教革命期に突入していたと思われる。ガリラヤのナザレ人イエスも、この革命に参加した一人ではなかったか。れんだいこはそのように解釈している。 プレ・ユダヤ教は、旧約聖書に基づいていた。特に1・創世記伝、2・ノアの箱舟伝、3・バベルの塔伝、4・「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神」信仰、5・モーセの教え、6・預言者エリヤ(ソロモン王朝の後、王国が南北に分裂した時代の代表的な預言者)、7・預言者イザヤ、8・ダビデの教えを教条としていた。更に、9・メシア(キリストとも呼ばれる)思想を唱え、10・メシアの再臨思想、11・ハルマゲドン思想を共有していた。 |
【旧約聖書神学を廻る対立について】 |
しかし、これらの諸教義の解釈と実践を廻って、パレスチナの民の内部で激しい対立を惹起させていた。イエス誕生前の時代において、この流れの中心的勢力であったユダヤの民に於いては、その社会は既に富める者と貧しい者の階層分化が進みつつあり、祭司及び長老会、律法学者、その他イデオローグ達はこぞって富める者の側に立ってユダヤ教を説いていた。 ユダヤの地はローマの支配下にあったが、ローマ人総督の下、ユダヤ王が支配するという二重統治構造になっていた。ユダヤ社会には、神殿とその司祭、律法学者、議会(「サンヘドリン」)と裁判所が形成されており、これらの決定は格別重視された。 それら機関への影響力を廻って、主としてパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派の三派が対立していた。この三派が、伝来のユダヤ教の教義の受容の仕方、解釈、実践手法を廻って激しく対立していた。他にもボエトゥス派、ザドク派、カライ派等々の対立で論争が繰り返されていた。いずれも、「我々はモーセの弟子だ」とする立場から宗教的権威と政治権力を掌握せんとして抗争していた。この様子に対し、イエスは立教後、「支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」と活写している。この抗争に勝利を収めていったのがパリサイ派であった。イエスの活動期、パリサイ派の影響力がますます強まりつつあった。 この流れを概略すると次のように整理できるようである。今日のユダヤ教のラビの前身として、この頃ユダヤ教の教義学者が発生していた。彼らはユダヤの民の頭脳であり、権力及び民衆への影響力を持っていた。但し、ユダヤ教の教義学は非常に複雑で、大祭司職の座を廻る権力闘争が凄まじかった。当初、ザドク派とボエトゥス派が対立した。ボエトゥス派がザドク派を駆逐し、ザドク派の流れを汲むサドカイ派がボエトゥス派を駆逐した。このサドカイ派が今度はパリサイ派に駆逐される。他にもヒレル学派とシャンマイ学派の対立が発生していた。 こうして、当時のユダヤの民の内部では、民族宗教の教義的確立を廻って、祭司を頂点とした「サドカイ派」や「パリサイ派」、「エッセネ派」といった宗派が対立しつつ世界史上稀なる宗教革命を遂行しつつあった。 この間、ユダヤ社会における祭司権力と政治権力と裁判所の機能分離が促進されており、長老会、議会、律法学者が創出される等いわば人類未踏の社会革命が進行していた。イエス誕生前の社会はこうした革命期の只中の百家争鳴期であったことがもっと注目されて良いように思われる。 |
【古ユダヤ教内の主流三派の抗争について】 |
ユダヤ教学及びエルサレム神殿の宗教儀式執行権を廻って、主としてエッセネ派、サドカイ派、パリサイ派が権力闘争していた。いわば、「古ユダヤ教内の主流三派の宗儀闘争」と理解することが出来る。ここで、三派の教義的違いを確認しておく。その違いは次のことに認められる。 エッセネ派は、紀元前250年にインド皇帝アショカ王が派遣した宣教師によって伝えられた仏教と思想的に親交している面があり、サドカイ派とパリサイ派の権力闘争から離れたところに位置し、俗界からの分離を極限まで押し進めた。紀元前100年頃から荒れ野に住み、死海のほとりのクムランと呼ばれる洞窟僧院を拠点にして、モーゼの律法を厳格に守って生活していた。エルサレム神殿を支配する聖職者達を堕落し汚れた人々と批判し、私有財産否定の共同生活の中で厳格な窮乏生活をしていた。グノーシス(知識)を温故知新させ、律法を特殊共同体的環境の中で遵守しようとしたグループであった。 清め、汚れの掟に忠実だった彼らは、一日に何回も水浴を儀礼的に行っていた。「動物の犠牲」の代わりに「唇の犠牲」を唱え、祈り、瞑想、聖書の学習を重視していた。後のクムラン洞窟に隠遁したクムラン教団がこの派に属する。星を読み、未来を予測し、医術に長け治療を行ったともされ、近い終末に備えようとしていたとされる。紀元68年、対ローマ反乱に加わり、鎮圧された。その後離散を余儀なくされるという悲劇的終末を迎える。現在、クムランの修道院に近い洞窟に隠されていた壷の底から、「死海文書」が発見されている。 このエッセネ派に比べれば、サドカイ派、パリサイ派はより権力的であった。その現世的権力的に於いても、サドカイ派、パリサイ派間には違いがあった。サドカイ派は、伝統的な宗教儀式を継承している祭司の一族であり、レビ族のサドクを祖としている。モーセを始めとする過去の預言者たちの残した教典のみを重視する学究派であり、概略「復活とか天使とか霊とかは一切存在しない」とする教義学を形成していたようである。分かり易く云えば、伝統墨守型の頑迷な保守派、仏教学的に云えば彼岸主義に位置していたことになる。イエスの時代、大祭司のカヤバがサドカイ派を主宰しており、ローマ帝国との二元支配により権勢を振るっていた。 これに対して、パリサイ派は、ユダヤ人の口伝律法の集成であるタルムードを重視し、ラビの言葉を重視した。サドカイ派に対して、「復活も天使も霊もそれらのいずれをも認めていた」。分かり易く云えば、教義を徐々に変化する世の中に合わせて改変創造する改革派、仏教学的に云えば此岸主義(現世主義)に位置していたことになる。故に、パリサイ派にあっては「口伝律法の集成であるタルムード集成」が重要になり、事実パリサイ派によってタルムードが熱心に編纂されていくことになる。 ちなみに、パリサイとは、分離を意味しており、それはペルシャ、ギリシャの相次ぐ異邦人支配に抗して同化拒否の姿勢を意味している。彼らは、ユダヤ民族の威厳を護りつつユダヤ人独特の伝統的作法を維持しつつ移り行く世の中に親和させようと営為していた。その限りで民衆的支持を受けていた。 サドカイ派とパリサイ派は、律法や教義を廻るこうした様々な相違のほかにも、占領者ローマに対する態度の違いによっても対立していた。具体的には不明であるが、サドカイ派はエルサレムを支配していた祭司長勢力であるからして既得権保護の為にローマ支配と妥協傾向があった。パリサイ派は新興勢力であり、ローマ支配と経済的に協力しつつも抵抗地下運動を助長していた。そういう違いではなかったか。 ヨハネ、イエスは、この三派とは一線を画す新派として登場することになる。結果的に、フェチ的とも云えるユダヤ民族優越式教義により台頭しつつあったパリサイ派に対して、ヨハネ続いてイエスがこれを厳しく批判していくことになる。それは、パリサイ派が時の権力者、富める者の側に立ってユダヤ教義を改変しつつあり、しかも聖なる宗教を俗の論理で席巻しつつあったことによる、と拝察し得るように思われる。これに就いてはイエス伝各章が順次明らかにしていくであろう。 |
【ヨハネ派、イエス派と神殿教義派の対立について】 |
これらの対立を前提にして、ヨハネが福音活動を開始する。続いてイエスが新たに参入する。ヨハネもイエスも旧約聖書を前提にしている。この限りにおいて、旧約聖書的世界観の受容という面では、ヨハネもイエスもユダヤ教神殿教義派と信仰基盤を一にしている。イエスがユダヤ人なのか非ユダヤ人(ガリレア人)なのかはっきりしないが、ヨハネもイエスも旧約聖書に精通していることは確かで、むしろ、旧約聖書教義の正統的理解及び実践を廻って当時の神殿本部教理派と鋭く対立していた。この限りにおいて、ヨハネやイエスはユダヤ教原理派として立ち現れていることになる。 もっとも、イエス教義になると、ユダヤ教のいわゆる選民思想に対してこれを排斥し、神の前での諸民族の一列平等思想を掲げており、ユダヤ教の根幹にアンチテーゼしている。イエスは、「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう』」の言に注目し、既成の教義を肥やしにして新たなる博愛主義的福音を宣べた。その限りで、ユダヤ教を否定していた。 つまり、イエス教義、これが後のキリスト教義となるのであるが、キリスト教義が必ずしもイエス教義を正確に踏まえていない面もあるので、敢えてイエス教義とするが、そのイエス教義は、ユダヤ教をベースにしてそれを食い破った新教義であるともみなせよう。この限りで既に似て非なるものになっている。従って、キリスト教原理派というものが存在するとして、ユダヤ教との差別化こそがより原理的ということになろう。 ところが、昨今のキリスト教原理は、ユダヤ教との混交に向っているように見える。果たしてそれがキリスト教なりしや、それが原理主義なりしや、そういう疑問が発生する。 甚だ簡単ではあるが(ここは後日、より正確に記すことにする)、イエスを論述する時、最低限上述の政治事情、宗教事情を踏まえていなければ、時代が見えない。 |
【シャムマイ学派とヒレル学派の論争と抗争について】 |
エッセネ派、サドカイ派、パリサイ派が権力闘争に併行してシャムマイ学派とヒレル学派の論争と抗争が続いていた。両派の論争は、律法の遵守と実際的な適用を廻ってのもので、どんな世界にも立ち現われる形式主義と適応主義の闘いでもあった。 例えば、律法に拠れば、夫の判断で妻を捨てることができたが、その際の基準となる「妻の恥ずべきこと」をどの範囲で認定するのかが論争となっていた。シャムマイ学派は「不品行」と狭く解し、ヒレル学派は「何事でも夫に不快なこと」と広く解釈した。当時、婦人は男子の財産と考えられており、離縁されれば哀れな存在であった。これをどう処遇するのかを含めて古来より頭を悩ましていた。これについて、イエスがどのような立場を執ったのか追って見て行くことになろう。 |
【ローマ支配を廻る対立と抗争について、熱心(ゼイロット)党について】 |
この頃、選民としての誇り高いユダヤ人たちの多くは、統治者であるローマ帝国に従おうとしなかった。ユダヤ人は、ローマ施政に対してどんな態度を執るべきかが問われていた。この問題を廻って、ユダヤ人社会でローマ帝国支持者と不支持者との争いが絶えなかった。ユダヤ教義に於けるメシア出現による救済を廻って、座してその日を待つべきか、謀反を起こして勝利を得るべきかが論争になっていた。特に、熱心(ゼイロット)党と云われる反ローマ抵抗運動が高まりつつあった。熱心(ゼイロット)党はパリサイ派左派を出自としており、武力的反乱志向の戦闘的愛国者であった。配下に、刺客党(シカリ、スカイリ)と称する短剣党員テロリストグループを抱えていた。熱心(ゼイロット)党は、エッセネ派、サドカイ派、パリサイ派に続く第4勢力として台頭し、イエスの死後数年してローマに反乱し敗北することになる。 |
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(私論.私見)