補足・イエスとキリストの関係考、使徒達の非イエス教徒ぶり考 |
(最新見直し2013.02.14日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
全く初級の話となるが、イエスとキリストの区別さえ出来ていない認識が一般的ではなかろうか。そこで、れんだいこがこの関係を明らかにしておく。他に知らないのでネットサイト「キリスト」、「イエスとキリスト」、「イエス・キリスト」 等を参照する。
「イエス」と「キリスト」は元々別言語である。イエスは人名であり、イエス(ギリシャ語)、イエズス(ラテン語)、ジーザス(英語)、イーサー、イーススとも言い表される。 |
【イエスの使徒の非イエス教徒考】 |
イエスは生前、イエス教徒を結集した。イエスを頂点として12使徒の幹部が取り巻き、その下に信者が列なり、更に群衆が連れ添った。そういうイエス教団が形成されていたと思われる。但し、イエスが捕縛され、処刑される過程で見せたイエス教徒の対応につき、当然ながらイエスが語ることはないが、恐らく不十分なものであった。これについては福音書が語る通りのところである。ここで云うイエス教徒とは、今日で云う信者のそれではない。イエス教団の中核をなす幹部教徒のことを指している。12使徒の全員がイエスを見すてて自己保身に走ったことが証言されている。ここでは、それは問わない。 れんだいこが問うのは、そういう使徒が、イエス死後、銘々のイエス教を立ち上げていった際の本来のイエス教との類似と差異性である。れんだいこが思うに、イエス教をイエス教のままに伝えたのではなく、使徒が己の甲羅に合わせて個々に己のイエス教を立ち上げて行くことになったのではなかろうか。これにより、イエス教がイエス教として理解されるのではなく、いわば使徒式イエス教が始まったのではなかろうか。且つ12使徒間のイエス教は余りにも隔たっていた。それもその筈で、イエス教の創始者たるイエスを見殺しにしたような使徒が説く己の甲羅に合わせて己のイエス教が生い立ちの負を刻印されたものにしかならないのもむべなるかなではなかろうか。こういう観点からの、「イエスの使徒の非イエス教徒考」を論ぜねばならぬところ、さほど為されていないのではなかろうか。 そういう観点から、以下、主たる「その後のイエス教」の流れと癖を確認しておく。俎上に乗せるのは、ペトロ、ヨハネ、ステファノ、サウロ、パウロ、ヤコブのイエス教考である。他にも**等が視野に入る。「別章【イエス伝福音書考】」の補足とする。 2013.2.14日 れんだいこ拝 |
【使徒ペテロ考】 |
ペトロについて確認する。「ウィキペディアのペトロ」その他を参照する。 |
ペトロ(本名はシモン・ペトロ。ケファともいわれる。生年不明-67年?)は、イエス・キリストに従った使徒たちのリーダーで新約聖書に登場する人物。カトリック教会はじめ多くのキリスト教派において聖人であり、その記念日は6.29日である。本名はシモンであるが、イエスにより「ケファ」(アラム語で岩という意味)というあだ名で呼ばれるようになった。パウロも書簡の中で、ペトロのことをケファと呼んでいる。後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」(主格。格変化語尾を除いて名詞幹のみにした慣用日本語訳表記で「ペトロ」となる)という呼び名で知られるようになる。この名はイエスが「私はこの岩の上に私の教会を建てる」(マタイ16:17-19)と言ったことに由来している。この一節は全ての共観福音書に見られるが、ただマタイのみが「天の国の鍵」をペテロが受けるだろうとしている。
マタイによる福音書、マルコによる福音書によればペトロはガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。ルカによる福音書ではイエスとの出会いはゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうイエスが彼の船を使った時とされる。伝承ではペトロはイエスと出会った時には既に比較的高齢であったという。共観福音書はいずれもペトロの姑がカファルナウムの自宅でイエスに癒される姿を記している。ここからペトロが結婚していたことが分かる。幾つかの伝承ではペトロに娘がいたとも伝えている。 ペトロは弟子のリストでも常に先頭にあげられており(マタイ10:2ほか)、イエスの問いかけに弟子を代表して答えていること(マタイ16:16)などから、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。また、イエスの変容(姿が変わって神性を示した出来事)をペトロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。イエスの受難においてペトロが逃走し、イエスを否認したことはすべての福音書に書かれている。またヨハネによる福音書によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている(ヨハネ20:1-10)。 使徒言行録ではペトロはエルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説教し、イエスの名によって奇跡的治癒を行っている。やがてヤコブ (イエスの兄弟)がエルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめると、ペトロはエルサレムを離れ、各地を巡回するようになる。カイサリアではコルネリウスというローマ帝国の百人隊長に教えを説いている。「コリントの信徒への手紙一」によれば、ペトロは妻を連れて各地の教会をめぐっていたようである(コリント9:4)。 外典である「ペトロ行伝」にも見られる伝承では、ペテロはローマへ宣教に出向き、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされている。次の逸話がある。ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。彼が「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「お前が布教に行かないので、もう一度十字架にかけられるためにローマへ赴く」と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。このときのペトロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クオ・ヴァディス)」(「どこへ行くのですか」の意)はよく知られるものとなり、1896年にはポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチがローマにおけるキリスト教迫害を描いた同名小説を記し、ハリウッドでも同名タイトルで映画化されている。 カトリックではペトロを初代のローマ教皇とみなす。これは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与えられ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなすからである。一方東方正教会などではペトロが初代アンティオキア主教であり、のちにローマにいきその初代主教となったとするが、全世界の教会に対する権威をペトロがもっていたとは認めていない。さらに司教ないし主教という役職は、キリスト教が発展するなかで生じたものであり、ペトロの時代にはまだそのような意識はなかったはずだとする意見もある。
一方、カトリックから分離した経緯をもつプロテスタント諸教会では、ペトロの権威は継承されるものでなく、彼一代限りのものであるという解釈を示している。また多くのプロテスタント教会ではペトロを「聖ペトロ」と呼ぶことはしない。 新約聖書の公同書簡に属する「ペトロの手紙一」と「ペトロの手紙二」はペトロの書簡という体裁をとっているが、現在では彼自身のものではないというのが通説になっている。アラマイ語を母語とする漁師出身のペトロが、書簡に現れる一定の水準をもったギリシア語をつづる能力があったと考えることは困難である。ただし第1書簡については、ギリシア語を話すペトロの同伴者のもので、比較的よくペトロの思想を反映している可能性を指摘する学者もいる。第2書簡は、2世紀以後の著作である可能性が指摘される。第2書簡が正典視されたのは4世紀半ば以後であり、シリア教会では6世紀まで第2書簡を正典には数えなかった。 また新約外典のなかにも、「ペトロの黙示録」などペトロの名を関した文書があるが、これらは初代教会の時代からペトロのものとは考えられておらず、正典におさめられることがなかった。 |
|
【使徒パウロ考】 | |
パウロについて確認する。「ウィキペディアのパウロ」その他を参照する。 | |
パウロ(希 Paulos,、英 Paul、紀元前後に誕生 ?-65年?)は、新約聖書の著者の一人である。但し、彼は、イエスの直弟子ではなく「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。ヘブライ名で「サウロ」とも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人であった。
新約聖書の「使徒行伝」で、パウロの入信経緯が記されている。それによれば、パウロの職業はテント職人で、生まれつきのローマ市民権保持者でもあった。元々は熱心なユダヤ教徒であり、パリサイ派に属し、エルサレムで高名なガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒッレルの孫)のもとで律法を学んだ。この頃キリスト教徒を迫害する側についていた。 パウロの著作には新約聖書中『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『テサロニケの信徒への手紙二』『フィレモンへの手紙』がある。『コロサイの信徒への手紙』がパウロの真正書簡であるかは議論があり、『エフェソの信徒への手紙』およびいわゆる牧会書簡(『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』、『テトスへの手紙』)はパウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日では一般的である。なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。他にもパウロの名を借りた「パウロの黙示録」「パウロ行伝」といった外典も存在し、パウロという人物の影響力の大きさを物語っている。 パウロの最後の言葉は次の通りである。
|
|
![]() |
|
パウロにつき「ローマの信徒への手紙」で確認中であるが、凡そイエス教の真意から離れたキリスト論を説き続けていることが判明する。これは、パウロが、12使徒ではなく、「元々は熱心なユダヤ教徒であり、パリサイ派に属し、イエス在世中はイエス教徒を迫害する側についていた」御仁であることと深く関係しているように思える。「パウロの回心」後、熱心なキリスト教伝道者となり、キリスト教史上のイエス後の第一人者となったが、パウロの説いたキリスト教は、パウロ式キリスト教でありイエスの御教えとはかなり隔たっているのではなかろうか。それは悪意によってか善意によってそうなったのかは分からない。少なくとも、パウロがそれまで身につけ過ぎていたユダヤ教教義の下でイエスを理解しイエスの福音と称してパウロ式キリスト教を伝道した史実が遺されている。 パウロのそうした限界を問わないとしても、その後のキリスト教に於いて、福音書の次に地位を占める書簡の筆頭にパウロ書簡が掲げられているのは歪み以外の何ものでもない。但し、イエス教とは違うキリスト教と云うことを前提とすれば、パウロ書簡が書簡の筆頭に位置するのは理屈があっている。イエス教第一とするれんだいこの観点からすれば眉を潜めざるを得ない。 但し、パウロの評価にはもう一つの視点を要する。パウロ式キリスト教が、ユダヤ教内のパリサイ派の教義と対立していることである。この点で、パウロが、イエスキリスト論教義を編み出し、これにに立脚してパリサイ派教義を批判した功績が認められる。そういう意味で、パウロがイエスキリスト論の創始者的地位を占めているとも云える。この観点から評すれば、パウロの「ローマの信徒への手紙」が福音書に次ぐ地位を占めているのも不思議ではないことになる。つまり、評する視点、視座において評価が変わると云うことである。この両面からのパウロ論こそが待ち望まれているのではなかろうか。 付言しておけば、パウロ式キリスト教は、イエス教からかなり隔たっているもののの、その教義が反パリサイ派的であるのが救いである。と云うのも、ヨハネ式キリスト教となると親パリサイ派的であり、パウロ式キリスト教とヨハネ式キリスト教の隔絶が大きい。結局、キリスト教とは、イエス教、パウロ式キリスト教、ヨハネ式キリスト教、その他式キリスト教と云うかなり容色の違う教義化で多層多重的に形成されているところに特徴があるのではなかろうか。これを、れんだいこの中間見解としておく。 2013.2.14日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)