「みちのくのキリストの墓」考

 (最新見直し2009.1.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「みちのくのキリストの墓」を検証する。

 2009.1.11日 れんだいこ拝


 青森県三戸郡新郷村大字戸来にキリストの墓なるものがある。「竹内文書」を世に公開した武内巨磨が、昭和10年古代史研究家鳥谷幡山なる者他数名とこの地を訪れ、「竹内文書にキリストがこの村に住んでいたと書いてある」と訴え、当時の村長の案内で小高い丘の上にあった土まんじゅう型の墓を二つ見つけ、右側の「十来塚」をキリストの墓、左側をキリストの弟イスキリの墓「十代塚」とした。竹内文書の信奉者だった山根キクなる人物が、昭和13年に「光は東方より」を著してキリストが日本で 死んだと唱え、キリストの墓伝説をさらに補強し注目を浴びることになった。

 以来この村では「キリストの墓と弟の墓」として観光喧伝している。直径5メートル、高さ1メート位の盛土の上に十字架を立て周囲を柵で囲っている。「キリスト伝承館」という資料館が建ち、墓の周辺はキリストの里公園として整備されている。墓は村でも2番目の旧家 である沢口家のもので、その沢口家の家紋はダビデの星と云うのも興味深い。地名の戸来(へらい)はヘブライから来ているとも云う。

 その説によれば、遠くユダヤの地のゴルゴダの丘で磔にあったのはキリストではなく弟イスキリだと云う。キリストはユダヤの地を離れ、シベリアを横断し、アラスカから船に乗って青森県八戸に上陸したと云う。キリストは21歳の時にも日本に来ており、12年間神学について修行を重ね33才のとき、ユダヤに 帰って神の教えについて伝道を行った。その当時のユダヤ人達は、キリストの教えを容れず、かえってキリストを捕 らえて十字架に磔刑に処さんと致しました。しかし偶々イエスの弟イスキリが兄の身代わりとなって十字架の露と果てた。他方、十字架の磔刑からのがれたキリストは、艱難辛苦の旅をつづけて、再び、日本の土を踏みこの戸来村に住居を定めて、ミユ子と称する日本人の妻をめとり、新郷村で3人の娘を育て、106 歳で没するまで青森の戸来(へらい)村に住んでいたとも云う。

 これを荒唐無稽とみなすことは簡単であろう。問題は、「竹内文書にキリストがこの村に住んでいたと書いてある」と云う記述の実際を知ることから始めねばなるまい。残念ながら、武内巨磨をしてそう云わしめた根拠が開陳されていない。れんだいこには、そちらの方が気に掛かる。






(私論.私見)