補足・イエス処刑事由と処刑経緯考 |
(最新見直し2010.07.22日)
イエスの処刑を廻って二つの対立する議論がある。主犯をローマとするのか、ユダヤ教長老派とするのかで見解が分かれている。これをどう窺うべきであろうか。その前に一言しておきたい。イエスを実在とみるのか比喩的な象徴人物とみるのか、単数と見るのか複数の複合人物とみるのか、福音書の記述をそれぞれ正確無比とみて絶対視するのか福音者のみたイエス論として相対的にみるのか。本来はこの辺りから論を説き起こさねばならないだろうが、ここでははしょることにする。いわゆる新約聖書を通じて捉えられるイエス像を元にして、イエス処刑の主犯を探り当てることにする。 最近、一部でか大手を振ってかどうかまでは分からないが、「イエス処刑主犯=ローマ帝国説」が登場しつつある。その文意には、「イエス処刑主犯=ユダヤ人説による不幸なユダヤ人迫害史即ちありもしない罪が捏造され十字架贖罪論となり、その後の二千年に及ぶユダヤ人迫害の土台を形作ることになった」として、この「負のユダヤ史」からの転換を企図しているように見える。その主張は大凡(おおよそ)、イエスはローマの植民地支配への反逆者にして祖国ユダヤ解放の旗手としての革命家であったと見立てる。それが証拠に、イエスは「ユダヤ人の王」を僭称しており、ローマ支配をくつがえして聖書記述の「神の国」を招き、「ユダヤ人王国」を建設しようとしていたとする。このセンテンスで、イエスを黙示録的な政治的メシアと位置づける。イエスのこの性質故に、イエスはローマ帝国によって処刑されねばならなかった云々とする。実際、ローマ兵に捕らえられ、ローマ総督ピラトからローマ法に則る罪名の死刑宣告を受け、ローマの処刑法である十字架に掛けられ、ローマ兵によって刑殺されたではないかと云う。 かく立論する当人は至極真面目に主張しているのかも知れない。だがしかし、れんだいこは採用しない。福音書の記述を透かして見えてくるイエス受難物語は、ローマと闘うイエスではない。当時のユダヤ教内の教義的正統を争う諸セクト間の抗争に割り込んで、彼らと論争するイエスこそ浮き出てくるイエスである。これをもう少し述べれば、イエスは、ユダヤ教内の守旧派に対して革新的急進主義的に登場しつつあったパリサイ派を強敵とみなし、このパリサイ派の教義と生態に生涯を賭けた理論闘争を挑んだ形跡が認められる。何となれば、パリサイ派の論こそ神の名を語って神をないがしろにし、神殿を冒涜し、金貨を掻き集める二律背反信仰であり、いわば「信仰の自己否定教」であったからに他ならない。 イエスは、パリサイ派が次第にユダヤ教−ユダヤ社会を席巻し、その結果として富の偏在が生まれ、富の力による神の利用と云う不義が罷り通る社会の到来を見抜いていた。であるが故にイエスは、パリサイ派的教義の二枚舌を論難し、信仰の義の正邪を賭けて争った。ここに、イエスの宗教史的歴史的地位の高みがある。イエスは、パリサイ派をも含む当時のユダヤ教界の腐敗堕落を厳しく批判し続けた。そのイエスの説法を聞いた当時の人民大衆は、イエスの御教えこそ本来の宗教ではないかと覚醒し、イエスを救世主と仰ぎ従う動きを強めていった。ここを認めるのがイエス−キリスト教の原点であり、ここを曖昧模糊にすることはイエス−キリスト教の自己否定であろう。 当時のユダヤ教界は、そのようにして台頭し始めて来たイエス派を恐れ、双葉の芽を摘むかの如くに早急な対応策を講じた。但し、ローマ帝国の植民地であったので処罰権を持たなかった。そこで、イエスがローマ法により裁かれるように誘導し、様々な事由を付けてイエスをローマ当局に引き渡した。総督ピラトは当初、ユダヤ教内部の争い事であるとして内政不干渉的態度で様子見していた。しかしながら、イエスを十字架刑にせよとの執拗な要求と圧力によって最終的にイエス処刑を決断した。そしてイエスは最も辱められながら刑場に赴かせられ露と消えた。これが実相ではなかろうか。この観点を揺るがす必要はないのではなかろうか。現在、イエス−キリスト教の骨格的な重要構図がいろんな角度から歪曲させられつつある。これを危ぶむべきではなかろうか。 イエスの処刑論の観点を修正するとすれば、「イエス処刑主犯=ユダヤ人説」ではなく「イエス処刑主犯=パリサイ派説」としてより精緻にすることであろう。これが為すべき理論的営為方向であるところ、「イエス処刑主犯=ローマ帝国説」に向かわしめるのは寧ろ反動的ではなかろうか。イエスを反ローマ主義の独立運動革命家として描き出し、イエス処刑の責任をローマに押し付ける論は、「イエス処刑主犯=ユダヤ人説」がユダヤ人に迷惑だったように今度はローマ人に迷惑な話でしかなかろう。それを敢えて「イエス処刑主犯=ローマ帝国説」に向かわしめるのは、イエスの御教え、生きざまを隠蔽し、ユダヤ教界の悪だくみを免責する悪質な理論ではなかろうか。のみならず、イエス死してなおイエスを冒涜する二重の詐術ではなかろうか。れんだいこはキリスト教徒ではないが、これぐらいは云わせて貰おうと思う。 2010.7.22日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)