イエス非実在説考 |
(最新見直し2008.6.10日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「イエス伝説は、当時ユダヤの混乱や人々の願望から生まれたので、その実体は存在しなかった」、「イエス伝説は創作された神話ではないのか?」とする「イエス非実在説」なるものがある。この説は、1・信徒制作の福音書以外に、支配者ローマ側や正統ユダヤ側にはまったくイエス実在の記録がない。2・福音書中の地理や社会描写イエスの誕生年等が不正確すぎるという主に2つの論拠から成り立っている。 イエス実在の物的証拠とされてきたのが、フラウィウス・ヨセフス(1Cのユダヤ歴史家)の書き残した「イエス記事」だが、この下りは教会僧の手によって加筆された後世の捏造であるとする通説がある。福音書中のイエスの誕生年について、マタイ伝2−1はヘロデ大王はBC4年に没しているはずなのに在世中と書いており、ルカ伝2−2はクィリニウス総督はAD6年以後の赴任のはずなのに在任中としている等、史実と齟齬する記述が多い。こうしたことから、「イエス非存在説」が生まれている。これをどう考えるべきであろうか、以下検証する。 |
【イエス非実在説考】 | |
デーヴィッド・アイクは、「竜であり蛇であるわれらが神々(上)」(徳間書店、2007年初版)の中で「歴史的人物としてのイエスはいなかった!」との見出しで、次のように述べている(p458)。
デーヴィッド・アイク氏が「イエス非実在説」を唱える趣旨が不明であるが、れんだいこは、この問題に関して「複合イエス実在説」を唱えて対抗したい。れんだいこが観るところ、イエス伝承は史実性が濃厚で、但し一人のイエスの事跡と見るよりは、核となるイエスが居て他のイエスが複合していると見ればよいのではなかろうか。かく了解して、「イエス実在説」を唱えた方がより史実に近いのではないかと思っている。 というのも、「イエス非実在説」に立てば、イエスの逞しい弁論の功績を評する視座が失われてしまう事に成りはし無いか。「イエス非実在説」の罪はここにあると思う。我々に今必要なのはイエスの弁論の再検証であり、再興すべきなところ、「イエス非実在説」はこれに水を浴びせることになりはしまいか。 実際には、イエスが実在であろうが非実在であろうがそう意味は無く、イエスの弁論が引き立てられれば良い。しかながら、「イエス非実在説」はイエスの弁論を戯言(たわごと)とする水路に道を開きはし無いか。これが「イエス非実在説」の帰着するところとすれば、れんだいこはこれに異議を唱えざるを得ない。 2008.6.10日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの複数イエス複合実在説】 |
イエスの実像は杳として知れないのは事実である。生年も定かでない。そういうイエスの幼年、少年、青年前期の時代は全くと云ってもいいぐらい分からない。考えてみれば、イエス自身の自伝がある訳ではない。このことは、文字通り不詳という意味と、ひょっとして複数の原イエスが束ねられて一人のイエスに表象された故に記せないという二通りの可能性がある事を示唆する。れんだいこは、後者の可能性さえあると思っている。漏れ伝わるのは、それぞれの原イエスの逸話ではなかろうかと拝察している。これを仮に「複数イエス複合実在説」と命名する。この観点は既に出されているのかどうか分からないが、有り得ることではあると思われる。 問題は、4福音書はそれぞれ別像のイエスを描いていることである。これをどう受け止めるべきだろうか。イエスのそれぞれの面の記述と受け取るべきであろうか。そう受け取る者は凡庸過ぎよう。れんだいこは、イエス像が書き手の器に影響されて、その器に合わせたイエス像が書かれているに過ぎず、本当のイエスは依然公然化されていないと推定している。 2006.10.31日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)