ユダヤ教、イエス教、キリスト教、イスラム教の教義的差異と対立考

 (最新見直し2011.01.01日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ユダヤ教、イエス教、キリスト教、イスラム教の教義的差異と対立について愚考しておく。

 2011.1.1日再編集 れんだいこ拝


 「ユダヤ教、イエス教、キリスト教、イスラム教の教義的差異と対立即ち違い」について確認しておきたい。知られているようで案外と無知な気がするからである。その理由として、日本宗教即ち神道と仏教の教義的差異と対立即ち違い程度に考えて当て嵌めようとするからであるように思われる。仮にこれを日本的基準と命名すると、日本的基準では決して掴めない。このことを確認することが肝要である。

 ユダヤ教は、最も重要な聖典として聖書に依拠する。ここで云う聖書とは、キリスト教の旧約聖書のことを云う。キリスト教から見て旧約聖書であるが、ユダヤ教にとっては新約聖書なる者は存在せぬので、キリスト教の云う旧約聖書が唯一の聖書となる。まず、このことが確認されなければならない。ユダヤ教では、聖書のうちヘブライ語で「トーラ」と呼ばれるモーセの五書が最重要視される。これによれば、宇宙世界の創造主であり絶対神であるエホバ(ヤハヴェ)は、人類誕生後の諸民族への分化に於いて、神と契約(Testament)したユダヤ人にのみ恩寵と保護を約束した。これにより、ユダヤの民は、神を敬いそして十戒(戒律)を守ることにより「選ばれた民」の地位を獲得している。この「選良故の選民意識」を結束の絆とするのがユダヤ教である。ユダヤ教の種々の教えは、この選民意識に基づくユダヤの民の特権化の為のものであり、その方策を授けるものである。これがユダヤ教の宗教的構図である。

 但し、留意せねばならないことは、この正統的ユダヤ教に対抗する革新的ユダヤ教なるものが創出されており、ユダヤ教内部は、この二派間の根深い教義的対立のまま共にユダヤ教として流布されていることである。どこに違いがあるのかと云えば、正統的ユダヤ教がモーゼ五書を重視するのに対し、革新的ユダヤ教がモーゼ五書よりもタルムードを重視するところに認められる。モーゼ五書がユダヤの民の選民意識を良識化させているのに対し、タルムードはユダヤの民の選民意識を強権化させており、これにより、革新的ユダヤ教タルムード派のユダヤ教は戦闘性を強めることになる。両者のどちらがユダヤ教であるかは、ン千年来未だ決着がついていない。かく認識する必要がある。

 このユダヤ教の宗教的構図のうち、革新的ユダヤ教タルムード派のユダヤ教を徹底的に批判して形成されているのがイエス教である。イエス教の具体的内容は「イエス伝」に記すが、これを要約すると、ユダヤ教的選民意識に対して万民共同意識に基づく方策を授けており、同じ神の義の信仰を説きながら、エホバ(ヤハヴェ)信仰と云う点で共通のものを持つが、その他のことごとくに於いて齟齬している。イエスの御教えは、閉鎖的独善的に陥りやすい「選良故の選民意識」から脱却し、国際主義的な世界観社会観民族観へ規範拡大したところに意義が認められる。この御教えを墨守するのがイエス教であるが、実際にはイエス教なるものは存在せず、いきなりキリスト教へ転化している。

 キリスト教は、ユダヤ教とイエス教を折衷しているところに特徴がある。具体的にどう折衷しているのかと云うと、宗教的構図に於いてはユダヤ教的信仰観を基礎にして且つ随所にイエスの御教えを掲げるところから成り立っている。これがキリスト教的宗教的構図である。これは福音書執筆者の観点により形成されたものであり、福音書執筆者が元ユダヤ教出自と云う事情に負っている。これにより、元々水と油的関係のユダヤ教とイエス教を折衷させ、ユダヤ教を基礎にしたイエス教と云う独特の教義を確立していることになる。これが、ユダヤ教聖書を旧約聖書として冒頭に配置し、次にイエス教伝を新約聖書にすると云う仕掛けの由来であり、これによりキリスト教に於いては旧訳新訳の二つの聖書から教義が形成されていることになる。

 キリスト教のこのユダヤ教との親和性が、ユダヤ教からのキリスト教侵略の道を開いている。次のように記されている。
 「カトリックこそはユダヤ教によってキリスト教撲滅の陰謀として作り出されたものだからだ。ザビエルが来日した本当の理由も、キリスト教布教は表向きであって、本当は、失われた十支族と契約の箱を探しての旅だったともいわれる。カトリックがユダヤ教というのがウソだと思うなら、カトリックの枢機卿の出生を見てみればいい。8割がユダヤなのだ。そして神学校の牧師生の8割もユダヤ人である。その理由は、「シオンの議定書」のなかに書かれている。すなわち、ユダヤ教徒はキリスト教徒の内側に入り込み、医者や牧師となってキリスト教徒を殺害せよとする陰謀が指令されている。ユダヤ教徒は、キリストとその影響を地上から抹殺するために2000年にわたって、壮大な陰謀を仕掛けていたのだ。その証拠に、カトリックこそは、人類史上最大の侵略者であり、最大級の虐殺者であった。それをキリストの名で行うことで、キリストの滅亡を意図したのだ。ちなみに、日本からも戦国時代に、カトリック神父によって数十万人の娘たちが洗脳拉致され、奴隷として外国に売られた。キリストを信仰した娘たちは、やがて、西欧に奴隷として売り飛ばれ、カトリックは莫大な利益を上げたのだ」(「イルミナリティ。」)。

 (以下、後日に研鑽するものとする)

 「一般には、ユダヤ教は律法や儀式など外面的なことを強調し、他方キリスト教は愛とか信仰などの内面的なことを強調しているように見られている」が、「ユダヤ教の一派には、形式的宗教慣習よりも内面的宗教体験を重視するハシディズムという敬虔主義運動もあり」、事はそう単純には仕分けできない。

 2011.01.01日再編集 れんだいこ拝
 

 カトリックの神父、プロテスタントの牧師、ギリシャ正教会の司祭、ユダヤ教の律法教師(ラビ)

 西欧史に於ける三角形の三すくみ戦闘図、アジアの盟主を混ぜれば四角形の四すくみ戦闘図となる。





(私論.私見)


 ◆なぜエホバと呼ばれるのか


エホバはもともとYHWHの母音を除いた、4文字をその様に読んだだけですが、YHWHの意味は

出エジプト記 3/14に、神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

とあるように「ある」がヘブライ語でヤーハーで、YHWHと書かれているものです。しかし、ユダヤ人はモーセの十戒の為に、この言葉をみだりに口にすることが許されず

出エジプト記 20/7
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

この4文字を読んで、「アドナイ」と口にしていた為に、この4文字の正確な表現が出来なくなり、ヨッロッパの学者がこの4文字を見て、YEHOWHAと母音を入れた為に「エホバ」が一般的な呼び名になった様です。

「私はある」の意味を考えたら「ヤーウェ」か「ヤーヴェ」の方が、ユダヤ人の表現近いかもしれません


◆もともと唯一の神だったのか


申命記 32/8−9
いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い国々の境を設けられた。
主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。
詩篇 82/1−
神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。
................................

などクリスチャンにとっては、奇異な文章が見受けられるでしょう、旧約聖書が編纂される前のユダヤ人達は、オリエント世界に広く普及していた神々への信仰、すなわち多神教の思想を持っていた、これは否定できない事実であります。
旧約聖書で「神」を意味する、ヘブライ語の「エル」は、ユダヤ神話ではカナンの天上の大会議において神々を裁く「至高神」の名前です。

聖書の中で邪神として忌み嫌われたカナンの地方神バアルは、エルの行政官であり、エルの息子たちの中で最も力強い神々の主だった。かつてのユダヤ人たちはヤ−ヴェを唯一神としてではなく、こうした神々の宮廷、神々の家族の中で大きな力を持った「エルの息子の一人」として捉えていた様です。
先の申命記や詩篇は、その残存であり、詩篇ではその後神々の会議を非難し、ヤーヴェ以外の神々が人間に成り下がって死ぬと書いてあるが、かえってその神々が存在を示した事になります。

創世記のE伝承による文章では、神を「エロイヒム」と書いてあるが、「エロイヒム」は「エル」の複数形で「神々」と訳すべきなのでしょうか、先の出エジプト記の「わたしはある」についても、モーセがエジプトから帰還するときに、それぞれの部族で神の名前が違うので、モーセが神に尋ねた事になっています。

出エジプト記 3/13
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

創世記に「アブラハムの神」・「イサクの神」・「ナホルの神」と殊更、誰々の神と人の名前を入れるのは、部族毎に違う神がいたことを示しています。
実は出エジプト記 3/14は、ユダヤ教の成立過程を示している。
つまり、それまで部族毎に違う神だったのが、それはすべてYHWHの神と同質の物で、みんな同じ物だと言う教義でYHWHに一神化したのでしょう。

こういう教義のまとめ方は、キリスト教の三位一体論(イエス・キリストと神と聖霊とが同質の物とする教義)と似てますが、キリスト教の神学者はこの辺を参考にしたのでしょうか


◆キリスト教の功罪


キリスト教では、ヤーヴェを唯一なる絶対神としている。キリスト教会はさかんに聖書を書き換えているが、先の申命記についても、新共同訳だけが「神の子らの数に従い」であり、他の訳本では「イスラエルの子らの数に従い」になっている。最初のギリシャ語への訳本の時、書き換えたらしいのですが、何らかの教義を打ち立てた時、不都合な場所を書き換えたり表現を変えたり、一般信者に説法しない業は、古今東西のキリスト教会がやってきた事なので、あらためて文句も言う気はしませんが


この文章にご意見のある方は、私宛にメールしてください。

とりあえず終わりです