(代)来日宣教師の日本レポート考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.4.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2013.4.29日 れんだいこ拝


【宣教師ザビエルレポート】
 1551.3月、ザビエルは都を去り平戸に戻った。残していた贈り物用の品々をもって山口へ向かい、 再び領主の大内義隆に拝謁した。それまでの経験で、日本では外見が重視されることを見抜いたザビエルは一行にきれいな服を着せ、ゴア総督の国書を献じ、その他貴重な文物を献上した。大内義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのための住居まで用意し、教会を建てた。フロイスの日本史によると、概要「ザビエルはインドの総督の大使のように装い、絹の着物を着て大名を訪問し、インドからの贈り物を献上した」と記している。ミヤコの天皇の代わりに山口の大内義隆に贈物をささげたことになる。

 その時にささげられた贈物は、その数13であった。1551年に書かれた「義隆記」には次のように記されている。

 概要「十二時を司るに夜昼の長短をたがえず狭小の声」(その時までの日時計には不可能なことであった。フロイスによると「上手にできた」物であった)、楽器1台(クラビコード?)、きれいに彫り込まれた三つの筒のついた火縄銃、眼鏡(「老眼の鮮やかに見ゆる鏡のかげなれば」と書かれている)、望遠鏡(「ほど遠けれども曇りなき鏡の二面そうらえば」と書かれている)、きれいな錦織、スペイン布、ポルトガルの葡萄酒、書物、絵画、茶碗等々」。

 ザビエル自身は、ローマへの手紙で次のように書いている。

 「神の御教えを宣べ伝えるためには、ミヤコは平和でないことが分かりましたので、ふたたび山口に戻り、持ってきたインド総督と司教の親書と、親善のしるしとして持参した贈り物を山口侯にささげました。この領主は贈物や親書を受けてたいへん喜ばれました」。
 「大名は、私たちに、返礼としてたくさんの物を差し出し、金や銀をいっぱい下贈されようとしましたけれども、私たちは何も受け取ろうとしませんでした。それで、もし私たちに何か贈物をしたいとお思いならば、領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む者たちが信者となる許可を与えていただくこと以外に何も望まないと申し上げました。大名は許可ばかりではなく、学院のような一宇の寺院を私たちが住むようにと与えてくださいました」。

 ザビエルは、日本に滞在中、5通の手紙を送っている。すべて鹿児島から出した手紙である.日付は在日3ヵ月後の11.5日になっている。ゴアにいる同僚あての手紙が一番長く、日本人についての報告は驚くほど細かく正確である。日本から出した手紙は2年間の間ほかにはない。

 「日本についてこの地で私たちが経験によって知り得たことを、あなたたちにお知らせします。第一に、私たちが交際することによって知り得た限りでは、この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられないでしょう」。

 (「あらゆる民族の人々と話してきたが、日本人こそ一番良い発見であった。キリスト教以外の宗教を信仰する民族の中で、日本人に勝てる他の民族はいない」、「人々の大半が読み書きの能力を備えている」「神の法を理解するのにとても便利」)
 「私があなたがたにお知らせしたい唯一のこと、それは主なる神に大きな感謝をささげていただきたいことです。この島、日本は、聖なる信仰を大きく広めるためにきわめてよく整えられた国です」。

 1552.1月、インドへ戻ってから書いたローマの同僚あての長い手紙が残っている。鹿児島,都,豊後,そして主に山口での活動についての手紙である。

 概要「日本に行く人は困難とともに霊的な慰めも得ます。日本についてはまだたくさん書くことがあって尽きません……。私はこれほど親しく、これほど愛している神父たちや修道者たちに手紙を書いているのですし、またもっとも親しい間柄の日本の信者たちについて書いていますので、あり余るほど書くことがあるのですけれど、ここで筆をおきます」。

 ザビエルは次のような日本論、日本人論を記している。ペドロ・アルベ、井上郁二訳「聖フランシスコ・ザビエル書簡抄」を参照する。
 「そこで私は、今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識ることのできた日本のことを、貴兄等に報告したい。先ず第一に、私たちが今までの接触によって識ることのできた限りに於いては、この国の人々は、私が遭遇した国民の中では一番傑出して優れている。異教徒で、日本人より他にはかように優れている人々は見つけられないのではないかと考えられる。日本人は総体的に良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は特別に強烈で、彼らにとって名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。

 彼らにはキリスト教国民の持っていないと思われる一つの特質がある。それは武士が如何に貧困であろうと、平民が如何に富裕であろうとも、その貧乏な武士が、富裕な平民から富豪と同じように尊敬されていることである。また貧困の武士は如何なることがあろうとも、また如何なる財宝が眼前に積まれようとも、平民の者と結婚など決してしない。それによって自分の名誉が消えてしまうと思っているからである。それで金銭よりも、名誉を大切にしている。日本人同士の交際を見ていると、頗る沢山の儀式をする。武士を尊重し、武術に信頼している。武士も平民も、皆な小刀と大刀を帯びている。年齢が14歳に達すると大刀と小刀を帯びることになっている。

 彼らは恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしない。平民が武士に対して最高の敬意を捧げるのと同様に、武士はまた領主に奉仕することを非常に自慢し、領主に平身低頭している。これは主君に逆らうことが自分の名誉の否定だと考えているからであるらしい。日本人の生活には節度がある。ただ飲むことに於いて、いくらか過ぐる国民である。彼らは米から取った酒を飲む。葡萄はここにはないからである。博打は大いなる不名誉と考えているから一切しない。何故かと言えば、博打は自分の物でない物を望み、次には盗人になる危険があるからである。

 彼らは宣誓によって、自己の言葉の裏づけをすることは希である。宣誓するときには、太陽に由っている。住民の大部分は読むことも書くこともできる。これは、祈りや神のことを短時間で学ぶための頗る有利な点である。日本人は妻を一人しか持っていない。窃盗は極めて希である。死刑をもって処罰されるからである。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいる。大変心の善い国民で、交わり且つ学ぶことを好む。

 神のことを聞くとき、特にそれが解るたびに大いに喜ぶ。私は今日まで旅した国に於いてそれがキリスト教徒たると異教徒たるとを問わず、盗みに就いてこんなに信用すべき国民を見たことがない。獣類の形をした偶像などは祭られていない。大部分の日本人は、昔の人を尊敬している。私の識り得たところによれば、それは哲学者のような人であったらしい。国民の中には、太陽を拝む者が甚だ多い。月を拝む者もいる。しかし、彼らは皆な理性的な話を喜んで聞く。また、彼らの間に行われている邪悪は、自然の理性に反するが故に、罪だと断ずれば、彼らはこの判断に諸手を挙げて賛成する」。

 「私があなたがたにお知らせしたい唯一のこと,それは主なる神に大きな感謝をささげていただきたいことです。この島、日本は、聖なる信仰を大きく広めるためにきわめてよく整えられた国です」。
 2020.8.7日、山中 俊之 株式会社グローバルダイナミクス 代表取締役社長/山中俊之「宣教師・ザビエルも驚愕!江戸・寺子屋の高すぎる教育レベル」。
 ビジネスで海外の人々と関わる際、自国の歴史の知識は必須だといえます。しかし、日本人が注意しなくてはならないのが「外国人に関心の高い日本史のテーマは、日本人が好むそれとは大きく異なる」という点です。本連載は、株式会社グローバルダイナミクス代表取締役社長の山中俊之氏の著書『世界96カ国をまわった元外交官が教える 外国人にささる日本史12のツボ』(朝日新聞出版)から一部を抜粋し、著者の外交官時代の経験をもとに、外国人の興味を引くエピソードを解説します。
 庶民の「教育レベル」が高かった江戸時代

 知日派の外国人と議論すると、明治維新における改革を高く評価する人がたくさんいることがわかります。身分制の廃止、信教の自由、議会制の開始、憲法制定。確かに明治維新後の改革によって現在に繋がる近代日本が始まったと考えられる根拠はあります。 しかし、明治以降の発展の土壌は江戸時代にありました。特に、江戸時代の庶民の教育レベルの高さは特筆すべきものでした。戦国時代の1549年に日本にやってきた、カトリック教会の司祭で宣教師のフランシスコ=ザビエル。彼はインドのゴアのカトリック伝道の拠点に宛てた手紙で、自身の鹿児島での経験から、日本は読み書きのできる者が多いので伝道に有利であると述べています(大石学著『江戸の教育力』)。 以前ルワンダで「日本の経済発展」について講演をした際に、江戸時代における日本の教育レベルの高さについて話をしました。200年も前の封建時代に一般庶民の識字率が高かった事実は大変に驚きをもって受けとめられました。江戸時代には、武士が城下町に集められ、武士が居住しなくなった農村の農民とは文字によるやり取りを行うようになりました。農村にも読み書きの能力が求められるようになったのです。寺子屋が広がり、庶民も読み書き、算盤を学ぶようになりました。 「身分に囚(とら)われた封建時代」というネガティブな観点からのみ見ると、江戸時代については大きく見誤ってしまいます。

 学問によって、身分を飛び越えられるようになった

 江戸時代になると、士農工商という身分制が生まれました。誤解してはいけないのは、これらの身分は必ずしも固定化されたものではなかったことです。 女性の場合は結婚により身分が変動することがありました。また、例えば、上流武家の出身でなくても側室とは別の形で大奥に入って出世し、江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の将軍付御年寄に任じられた瀧山(たきやま)のように大名クラスの男性らと対等に話をする女性もいたのです。 男性の場合でも、例外的ではありますが、才能があれば農民から武士へ取り立てられることもありました。また、身分そのものは変わらなくても、同じ農民や商人階級の中で、個人の才覚で富裕になったり、貧困化したりすることもあったのです。 その経験をしたのが、相模国の農民から農政家・思想家となった二宮尊徳(にのみやそんとく)です。

 尊徳の生家は、現在の神奈川県小田原市の栢山(かやま)にあります。生家に隣接する尊徳記念館を訪れた際には、寸暇を惜しんで勉強する尊徳の展示に心を打たれました。 尊徳は、生まれた頃は比較的裕福だったのですが、5歳の頃、洪水のため家が流され、一気に貧困化しました。両親も相次いで亡くなり、満15歳で一家を支えなくてはならなくなるのです。その後、寝る時間も惜しむほど刻苦勉励をして得た知識と生来の才覚によって、家業の農業を再建し、一家の経済状態は大きく改善します。 この評判を聞きつけた小田原藩の家老が尊徳に火の車になった自らの家の改革を手伝ってくれるように依頼をしてきました。さらに小田原藩主から藩の飛び地であった下野国(しもつけのくに)(現栃木県)桜町の再興を託され成功に導きます。農民であっても、十分に成果を出した人には役割を与えるという柔軟性が江戸時代の日本にはありました。 さらに尊徳の評判は幕府にまで伝わり、幕政の改革にも関与します。 貧困に苦しんだ農民が、封建制の身分社会において幕府の中で指導的な立場にまで昇りつめる。限られた人数ではありましたが、優秀な人には機会が与えられるという社会の流動性があったのです。 漁師出身で幕府に取り立てられて開国について助言するまでになったジョン万次郎など、学問や才覚のある者は身分にかかわらず評価されるチャンスがありました。 もっとも尊徳は身分の低さゆえ、周りの武士から軽くみられるなど、相応の苦労はしたようです。

 寺子屋では地理・算術など理系科目を学ぶことができた

 江戸時代の教育というと、よく聞かれるのは寺子屋です。 鎌倉時代までは、教育は主として貴族や武士など支配階層のためのものであり、一部の富裕層を除き農民や町人が教育の機会を得られることは稀でした。鎌倉時代までの庶民(農民や町人)の識字率は低かったものと推定されます。 その後、室町時代になると、経済社会が発展して庶民が学ぶ機会が生まれてきました。先述のように、16世紀半ばに来訪したフランシスコ=ザビエルは、庶民を含む日本人の教育レベルの高さに感嘆しています。

 欧州では、貴族などの支配階層は別にして、庶民が文字を読めないのは当然であり、また、そもそも庶民を学校で教育しようという考えは、ほぼありませんでした。一方、かつてより、勉学は寺で、という習慣があった日本。寺院教育と寺子屋教育は直接結びつくものではないのですが、「学ぶ場所としての寺」という古くからの習慣が江戸時代になると寺子屋という形で一般庶民にまで広がりました。 江戸時代初めは都市部で発達した寺子屋は、経済発展と社会の安定化により、17世紀末には農村部にも浸透していきました。読み・書き・算盤に加えて、地理・算術など理系を含む多様な科目が教えられました。貴族や富裕層が優秀な家庭教師をつけて自宅で学ぶ習慣があった欧州と違って、日本では、学ぶ場所は外でという考え方が強かったことも、教育が広く行き渡る要因となりました。 また、全国の藩では、各藩の俊英が藩校で学びました。 藩校では、四書五経(ししよごきよう)などの儒学のほか、江戸後期になると蘭学なども教えられました。蘭学は鎖国時代にも国交のあったオランダを通じて入ってきた欧州の学術や技術、文化などを学ぶ学問で、天文学など自然科学系も含まれています。蘭学の広がりが、江戸時代の自然科学における偉人を生み出す要因にもなりました。これが、明治以降の産業の発展につながったと考えられます。 自然科学系の学問が重視された点が特徴的です。 日本には、朝廷や幕府などで科挙のような試験による官僚登用の制度はありませんでした(正確に言うと存在はしても根付きませんでした)。日本は尊徳のような例外を除き、原則的には世襲制で官僚が決まったので、その点では硬直的だったのです。試験による登用は受け入れられない社会でした。 一方で、中国の科挙では儒教が試験科目となっていました。中国の官吏は世襲制ではなかったので、新しい家系から官僚が生まれる余地はありました。この科挙の試験科目は年を経ても大きく変わらなかったため、新しい科目を学ぶことは、官僚になろうとする人の中では人気がなかったのです。 日本では、科挙のように学習分野が固定化した、人生の進路を決める試験がなかったことが一因で、学ぶ対象に自由度が生まれ、自然科学や欧州の学問など新しいものを受け入れる素地ができたのではないかと私は考えています。


【ルイス・フロイス神父レポート】
 「★阿修羅♪ > 原発・フッ素48」の taked4700 氏の2017 年 6 月 10 日付投稿「古文書と高浜」。
 たんぽぽ舎メールからの転載: 古文書と高浜 メルマガ読者からの「宮崎日日新聞」情報 青木幸雄(宮崎の自然と未来を守る会)

 宮崎日日新聞【くろしお】より/2017年6月9日
  http://www.the-miyanichi.co.jp/kuroshio/_26305.html

 古文書と高浜

 戦国時代の宣教師で信長、秀吉とも面識のあったルイス・フロイスの「フロイス日本史」に1586(天正13)年の天正地震に関して「若狭の国の長浜」という地名が出てくる。「長浜という城の城下で大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑(の)み込まれた。若狭の国には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が町に襲いかかり、ほぼ痕跡をとどめないまでに破壊した」。若狭とは福井県のことだが長浜という町はない。東大地震研編「新収日本地震史料」(1981~94年)が「長浜は高浜の誤りであろうか」としたことから地元で騒ぎになった。高浜には原発があるからだ(磯田道史著「歴史の愉しみ方」)。

 関西電力が高浜原発3号機を再稼働させた。先に再稼働した4号機はすでにフル稼働状態で発電と送電を実施している。関電の原発では高浜から約14キロ東に離れた同じ福井県にある大飯3、4号機も原子力規制委員会の審査に合格しており今秋以降に再稼働する。 現行の住民避難計画は高浜、大飯両原発が同時に事故を起こす事態を想定していない。また高浜原発の緊急時対策所は完成時期の延期が繰り返され、甲状腺被ばくを防ぐため住民に配布している安定ヨウ素剤も行き渡っていないという。古文書に端を発した騒ぎはどうなったか。関電は琵琶湖沿岸の長浜に津波が来たという別な古文書を探し出し、フロイスの長浜は滋賀県長浜のこと、とけむに巻いた。天正の宣教師が目を白黒させそうな稼働ありきの古文書活用術である。

 ルイス・フロイス神父の履歴は「来日宣教師列伝、日本人宣教師列伝」に記す。ルイス・フロイスは、1585年に「ヨーロッパ文化と日本文化」を著わしている。ここでは「ルイス・フロイス神父の日欧文化比較論」を確認する。吉田幸男氏の「ルイス・フロイスと佐賀藩内儀方」を参照する。宣教師ルイス・フロイスは、中世日本の女性とその風貌、子供の様子、習俗風習について、次のように日欧文化比較している。
 「1、ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と尊さは貞操であり、またその純潔がおかされない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる」。
 「2、ヨーロッパの子供は長い間襁褓(むつき)に包まれその中で手を拘束される。日本の子供は生れてすぐに着物を着せられ手はいつも自由になっている」。
 「7、ヨーロッパでは普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういう事は滅多に行われない。ただ言葉によって譴責するだけである」。
 「13、ヨーロッパの我々の子供はその立ち居振る舞いに落ち着きがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で全く賞賛に値する」。
 「14、ヨーロッパの子供は大抵公開の演劇や演技の中でははにかむ。日本の子供は恥ずかしからず、のびのびしていて愛敬がある。そして演ずるところは実に堂々としている」。
 「29、ヨーロッパでは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後ろ、妻が前を歩く」。
 「30、ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける」。
 「31、ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、又結婚もできる」。
 「32、ヨーロッパでは夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する」。
 「34、ヨーロッパでは娘や処女を閉じこめておく事は極めて大事なことで厳格に行われる。日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける」。
 「35、ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へでない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている」。
 「43、ヨーロッパでは尼僧の隠棲および隔離は厳重であり、厳格である。日本では比丘尼(尼)の僧院はほとんど淫売婦の町になっている」。
 「44、ヨーロッパでは尼僧はその僧院から外に出ない。日本の比丘尼は何時でも遊びに出かけ、時々陣立(じんたち、軍陣の事、戦場か)に行く」。
 「51、ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作る事を立派な事だと思っている」。
 「52、ヨーロッパでは男性が裁縫師になる。日本では女性がなる」。
 「53、ヨーロッパでは男性が高い食卓で女性が低い食卓で食事をする。日本では女性が高い食卓で、男性が低い食卓で食事をする」。
 「54、ヨーロッパでは女性が葡萄酒を飲む事は礼を失するものと考えられている。日本ではそれはごく普通の事で祭りの時にはしばしば酔っ払うまで飲む」。
 「我々においては、絵画に多くの人が描かれていればいるほど、(見る人の)目を楽しませる。日本では、それが少ないほど喜ばれる」。
 「ヨーロッパ言語は明瞭が求められるが、日本では、あいまいが喜ばれる」。

【ルイス・フロイス神父の織田信長論】
 「日本に来たポルトガル人」の「ルイス・フロイスについてフロイスと信長●宣教師の人物評」を参照する。当該サイトは「無断で複製・転載を禁じます。引用する際はメールでご連絡頂いた上、当ホームページよりの引用を明記してください」とあるが、今のところ他にない論考になっているので引用転載参照せざるをえない。

 1569(永禄12)年、ルイス・フロイスが初めて織田信長に会った。以降、フロイスは、1579(天正7)年にイエズス会の総元締の巡察師ヴァリアーノの通訳として信長に安土で面談するまでの間に18回もの面談を許されることになる。対面した場所は普請中だった二条城の現場だった。織田信長がフロイスを出迎え、1時間半から2時間ほど会話した。この時、織田信長は南蛮の風物に強い関心を示している。延暦寺や石山本願寺など反信長の戦国大名と結託した既成の仏教勢力に手を焼き、そのあり方に辟易していた信長は、キリスト教義も含めて西欧事情に対する好奇心、仏教勢力をおさえる必要、南蛮貿易による畿内の商業の活性化、鉄砲の入手の利便さ等々の理由もあってフロイスの畿内での布教を許可した。

 この時のフロイスと信長のやり取りが次のように記されている。
信長 「フロイス、お主の年齢はいくつであるか。いつ日本にやって来たのか。どのくらいの期間、日本語を学んだのか。お主の両親はポルトガルでお主に会うことを待ち望んでいるか。毎年ヨーロッパなどから手紙が届くか。ヨーロッパから日本までは、どれほどの距離があるか。お主は日本に滞在することを望んでいるか」。
信長 「もしデウスの教えがこの日本で広まらなかったら、お主はインドに戻るのか」。
フロイス 「たった一人しかキリシタンにならなくても、その者を守るために司祭が日本に留まるでしょう」。
信長 「なぜ京都でキリスト教が流行らないのか」。
フロイス 「仏僧達は身分のある者がキリシタンになることを遺憾に思い、デウスの教えが広まるのを妨げるため、司祭を追放するためのあらゆる手段を模索していました。そのため、多くの人がキリシタンになる意志を持ってはいるものの、こうした妨害を見てキリシタンになることを先延ばしにしているのです」。
信長 (仏僧達の恥ずべき生活や極めて悪い習慣について長々と述べた後)、「仏僧達は金銭を得たり、肉体を楽しませたりすることしか求めていない」。
ロレンソ 「殿下もすでに御存知に違いありませんが、私達は日本で名誉や富、名声、また世俗のものなど望んでおりません。ただ世界の創造主で救世主の教えを説き弘めることだけを求めております。殿下は今日本で最高の権力を有しており、私達の教えと日本の宗旨を比較することができますので、比叡山で最も著名な僧などに集まるよう命じて、殿下の面前で宗論を行わせるようお願いいたします。もし私が負ければ、その時はキリスト教が無益で不要のものとして、私たちを都から追放してください。反対に、仏僧側が負けた場合、彼らにデウスの教えを聴くよう命じてください。こうでもしなければ、私達の主張が正しいことを明らかにすることができず、彼らは私達に対する憎悪をつねに抱き続けることでしょう」。
信長  (信長はこれを聞いて笑いながら、家臣に向かってこう発言した)「大国からは、すぐれた才能と強固な精神が生まれるものである」、(信長がフロイスの方に振り向き)「日本の学者が宗論を受け入れるかどうか知らぬが、今後実現するかもしれないだろう」。

 同年六月一日付で書かれた彼の書翰で、信長をこのように伝えている。
 この尾張の国王[織田信長]は、三十七歳長身痩せ型で、ひげはほとんどありません。声はよく通り、たいへん勇敢にして、不撓不屈であり、軍事訓練に励んでおります。正義や慈悲を重んじ、尊大で名誉欲が強いです。秘密裏に決断し、戦略においては抜け目がありません。規律や家臣の進言にはわずかか、もしくはほとんどまったく耳を傾けず、諸人からきわめて畏敬されております。酒は飲まず、誰にも盃を与えるようなこともほとんどありません。家臣の待遇については厳格で、日本のすべての国王・領主を見下しており、自分の家人や家臣であるかのように肩の上から彼らに話をします。すべての者が絶対君主に対するかのように彼に従っております。優れた理解力と明晰な判断力によって、神仏やすべての異教的占いを軽蔑しています。名目上、法華宗徒であるように見せていますが、宇宙の創造者や霊魂の不滅はなく、死後には何も存在しないと公言しております。彼はたいへん清潔で、自身の事業の采配とその完璧さに対して思慮深くあります。話をする際には、冗漫や長い前置きを嫌い、領主であれ何人も、彼の面前では刀を携えることは決してありません。(また、)常に二千名もの小姓とそれ以上の騎馬を引き連れ、身分の低い家臣と話をし、冗談も言います。彼の父は尾張国の領主にすぎませんでしたが、彼はきわめて巧妙な策謀により、四年のうちに十七、八ヶ国を支配下におき、この五畿内及び他の隣国を七、八日で征服しました。

 「1569.7.13フロイス書翰」は次のように記している。
 信長は来世など存在せず、目に見えるもの以外は何もないと考えている。信長はたいへん財力に富んでいるため、いかなる戦国大名も自身を越えることがないよう望んでいる。信長が異常なほどの畏怖によって家臣から奉仕され、外部の者たちから崇められている。信長が手で立ち去るように合図するだけで、彼らはまるで目の前で世界の破滅を見たかのように我先にと立ち去るからだ。また、公方様の腹心であり、都で大きな権限を持つ者も皆、信長の前では両手と顔を地につけ、顔を上げる者は一人もいない。皆、信長が通る時に話をしようと通りで待っている。用務のある者は、信長が城から下の宮殿に降りる時に、認められればその道中で彼と話をする。なぜなら、誰も城に登ることを厳しく禁じられているからである。家臣であってもごくわずかの者しか城に登ることを許可されていない。

【ルイス・フロイス神父の朱印状要請の顛末】
 フロイスは、永禄十二(一五六九)年の信長との対面時に京都に自由に滞在できるための朱印状を強く求めている。その後の流れが次のようになる。都のキリシタンが集まり、朱印状を得るため和田惟政に銀の延べ棒を三本届けた。惟政はこれでは足りないと考え、自分の延べ棒七本と合わせて十本にして、信長に依頼した。すると信長は金や銀を贈る必要はなく、無償で私に与えると答えた。そして、惟政が草案を作成し、フロイスの意向を伺った上で朱印状を作成するように指示した。こうしてフロイスに信長朱印状が渡されたが、その朱印状は残念ながら現存しない。フロイス書翰(1569.6.1書翰)に記された朱印状のポルトガル語訳によると、フロイス書翰に記された朱印状の要点は以下である。
 「一、 都に滞在する許可を与える。一、 司祭の家は宿舎として取られない。一、 町の務めや義務を課さない。一、 予の領国内の何処であっても、司祭が滞在を望む所では、いかなる妨害も受けないであろう。もし道理なく害を加える者があれば、非常に周到なる裁きを行い罰するであろう。永禄という(年の)十二年四月八日、認む。真実の教えと称する礼拝堂にいるキリシタン宗団の司祭へ」。永禄3年に出された宣教師宛足利義輝禁制と照合すると「一、 寄宿事。一、 相懸非分課役事。一、 甲乙人等乱入狼藉事」。

 フロイス書翰には、信長朱印状を得た後、まもなくして足利義昭から「制札」を受け取ったと記されている。しかしながら、その内容については触れず、ただ「信長のものと意味や文言の違いはほとんどありませんでした」と書かれているだけである。一方、フロイス「日本史」には「公方様の制札」として内容が詳細に記されている。以下の通りである。信長朱印状と同内容である。
 「伴天連が、その都の住居、または彼が居住することを欲する他のいずれかの諸国、もしくは場所では、予が他の者が負っている全ての義務、および(兵士の)宿舎とすることから彼を免除する。もし彼を苦しめようとする悪人があれば、その行いに対して処罰されるであろう。永禄十二年四月十五日認む」。

 1569年夏にルイス・フロイスは織田信長のいる岐阜城を訪れた。京都で伴天連追放の綸旨が発せられたため、信長に救いを求める必要が生じたからであった。信長はフロイスが岐阜にやってきたことを知ると、すぐに岐阜城に呼び寄せて宣教師の保護を約束した。あわせて自身の居城である岐阜城を案内した。フロイスはその岐阜城の壮麗さを詳細に書き綴っている(1569.7.12フロイス書翰)。

【ルイス・フロイス神父の岐阜城レポート】
 ここでフロイスが書翰で書き記した岐阜城に関する内容は次の通り。織田信長は自身の栄華を体現するために、岐阜城を築城した。「美濃国の民は岐阜城を信長の「極楽」と呼んだという」とある。岐阜城は1567(永禄10)年に織田信長が斉藤龍興から奪取した稲葉山城のことで、金華山の麓に建つ城郭である。
 概要「ポルトガルやインド、日本で見てきた宮殿や居館のなかで、この岐阜城ほど精巧豪華ですぐれたものを見たことがない。信長の宮殿は非常に高い山の麓にあり、そこにはこの美濃国の主城が建っております。それは信長が二年前武力で奪取した城です。居館の外側には石垣があり、石はとても大きく、つなぎ合わせるのに石灰をまったく用いていない。そこ(居館)には一つの広場があり、昔はゴアの君主の宮殿で当時(書翰執筆時の16世紀)はインド総督の邸宅になっているゴアのサバヨにある広場の1.5倍の規模であった。その(広場の)入口には儀礼や演劇を行うような屋敷があった。広場の両側には大きな果樹が二本ある。長い石段を登ると、一つの部屋に入る。ゴアのサバヨの邸宅に相当するものである。また、部屋を横切る長い梁は、金華山から切り出した一本の木からなっている。一階のこの部屋には、見晴らし台と縁があり、岐阜の町が一望できる。信長の寵臣であっても、彼が命じなければこの宮殿に入ることは絶対になく、外にある最初の家で彼と話をするのが常であった。大工や石工、門番数名だけが宮殿内に入ることができた。中にある部屋はクレタの迷宮のようであり、すべて一人の人間によって精巧かつ入念に造られた。なぜなら、何もないと思われるところに座敷があったからである。他の部屋もみな目的をもって造られていた。一階には十五か二十の座敷があり、金屏風や純金製の留め金と釘で飾られていた。これらの座敷を地面に触れんばかりの高さの縁が囲んでいた。その板は鏡のように非常に輝いていた。縁の壁は日本と中国の古い物語を描いた優れた羽目板であった。縁の外には、大変洗練された庭が五つ六つあった。深さたった一パルモで、底には砂利で雪のように真っ白に敷き詰められており、さまざまな魚がそこを泳ぎ回っていた。また、さまざまな花や香りの良い草木が、池の中央にある鮮やかな石に生えていた。華山から良質の水が流れており、それをせき止めて管を通っていくつかの部屋にわき出るようにしていた。ある部屋では手を洗うためで、ある場所では宮殿の必要に応じて自由に使われていた。宮殿の二階には、信長の奥方の部屋、および侍女達の部屋があった。それらは階下よりもはるかに優れていた。すべての座敷の周囲には金欄の布が張られ、町の側にも山の側にも縁と見晴らし台があった。山の高さに達する三階には、たいへん静かなところに茶室がいくつかあった。その精巧さや完璧さはすばらしいものであった。三、四階の見晴らし台と縁からは岐阜の町が一望できた」。

【ルイス・フロイス神父と日乗の宗義論争】
 「ルイス・フロイス神父と日乗の宗義論争」が行われている。フロイスは次のように記している。天台宗の僧・日乗は、畿内のキリシタンから「アンチキリストとか悪魔の化身」と呼ばれていた。フロイス自身も概要「彼は生来身分の低い家系であり、背が低く、大変醜く、卑しい人物です。また無知で、日本の宗旨に関する学識もなければ、教養もありません。最も鋭敏で抜け目のない才能をもっていました。話すことにたいへん自由奔放で、弁舌の才では日本のデモステネスである」と記している(1569.6.1書翰)。デモステネスは、古代アテネの政治家で、彼の演説は明確で力強かったため、古典古代第一流の雄弁家にあげられる。

 フロイスは日乗の人となりを次のように記している。
 「日乗は妻帯者であったが、貧困のため離別し、その後武士となった。しかし、武士になって多くの人間を殺したため、その罪に対する不安から仏僧になった。仏僧となって地方を巡歴した後、日乗は毛利元就のところに身を寄せ、毛利の庇護を受けた。「八年か十年前彼は一片の金襴をここで購入し、他の遠く離れた国々に行きました。そして、村や町でそれは内裏が彼に与えた衣服であり、貴重な品として民衆に分けるためにやって来たのだと話しました。各々は、その小さな糸のために、財力に応じて一クルザード、二クルザードという額を彼に渡しました。これにより、彼は莫大な財を手に入れ、山口に小さな僧院を建て、そこで弟子を募りました。この時、彼は他に幾千もの悪事や虚偽を行いました。彼の邪心は一つの場所に落ち着くことはできませんでした。彼は邪心を広めるため、三好三人衆が公方を殺した松永久秀を信貴山城で包囲すると、弾正殿が裕福であり、苦境にあるので、日乗に金銭を与えるかもしれないと分かりましたので、彼は山口の毛利とともに、松永久秀宛の書翰を作らせました。それは直ちに兵を率いて加勢するので、三人衆を滅ぼすため日乗上人という仏僧と相談するようにというものでした。フロイスが堺に到着し、そこに滞在していた時、彼は三人衆の間者によって、それらの書状とともに捕らえられました。篠原長房殿がさっそく堺のある僧院で彼を激しく鞭打たせました。彼は山口から返書が来るまで書状のことを否定し、自分を自由にするように六、七千クルザードの賄賂を贈りました。しかし、篠原殿はこれを受け取らないばかりか、彼をえたに引き渡すよう命じました。摂津国の西宮という地で、日乗をこの者達に引き渡し、首には鉄製の首輪を付け、手足を縛って、堅固な牢に入れました。日乗は内裏が彼の赦免を請うよう策を弄しましたので、彼の死を強く望んでいた多くの異教徒の意に反して解放されました」(1569.6.1フロイス書翰)。

 「言継卿記」という公家の日記の永禄十一年四月十五日条に「朝山日乗上人去年以来摂州に籠者也、不慮之至也、依勅定遁今日上洛云々」とあり、日乗が摂津で囚われの身となっていたことが裏づけられる。

 信長が足利義昭を室町将軍にさせるため上洛すると、正親町天皇は朝廷の回復を信長に依頼するため、日乗を仲介者とした。フロイスの「(1969.6.1書翰」は「信長は日乗を気に入っていた」、「日乗は信長に『宣教師のいるところは騒乱が起きて破滅するので、信長が美濃に戻る前に宣教師を追放するよう』と進言した。しかし、信長は一笑に付し、『予は汝の肝がこうも小さいことに驚いている。予は宣教師を追放するつもりはない。すでに彼が都に滞在するだけでなく、何処の国にも思いのままに行くことができるための許可状を与えており、公方様も同様であるからである』と答えた」と記している。

 フロイスが永禄12年4月20日妙覚寺にいる信長のもとを訪れた時のこと。信長は「仏僧達はなぜフロイスを憎悪するのか」と尋ねた。ロレンソ「それは暑いか寒いかであるとか、徳か不徳かという論争のようなものです」。信長「フロイスらが神や仏を敬うか」。ロレンソ「神仏はどちらも私達と変わらない人間であり、妻子を持ち、生まれ死ぬ人間であるので敬いません。そして、神仏は自身を死から救い解放することができず、人間を救うことはより不可能なことです」。その時、日乗はフロイスの側にいたが、信長を前にして一言も話さなかった。フロイスもロレンソも、そこにいるのが日乗であることを知らなかった。座敷と外の縁には入りきれないほどの領主達がいた。信長は日乗に「日乗上人、お主はこれに対して何と言うか。何か尋ねてみよ」と言った。この信長の発言によって、日乗と宣教師の宗論が始まった。宗論は二時間に及んだ。

 「ルイス・フロイス神父と日乗の宗義論争」につき今のところ他にないので、「ルイス・フロイスについてフロイスと信長●宣教師の人物評」文を参照する。これによれば以下のやり取りになる。但し、次のように註釈している。
 「この宗論については、フロイス『日本史』にも書かれている。しかし、『日本史』の方は脚色を加えている部分も多く、信頼性という点ではこちらの書翰の方が上であろう。但し、宣教師の言っていることを文言通り信用できるかというと、注意が必要であろう」。

日乗 「フロイスらは誰を崇めるのか」。
フロイス等 「三位一体のデウスであり、天地唯一の創造主である」。
日乗 「私達にそれを見せてみよ」。
フロイス等 「それは見ることができない」。
日乗 「釈迦や阿弥陀よりも以前のものか」。
フロイス等 「以前のものであり、無限で永遠のものであるので、始まりもなければ終わりもない」。

 日乗は信長に「これは陰謀であります。殿下、彼等は人々を欺いている者ですので、彼等を追放し、二度と当諸国に戻らないように、すぐさま追放するよう命じてください」と述べた。信長は笑って、「お主は気後れしたか。問うてみよ。彼等は答えるであろう」と返した。日乗は尋ねなかったので、今度はロレンソが質問した。
ロレンソ 「生命の作者は誰であるかを知っているか」。
日乗 「知らぬ」。
ロレンソ 「知恵の源泉とあらゆる善の始まりは(誰で)あるか」。
日乗 「知らぬ」。

 その他の問いに対しても、日乗は知らぬと答え、お主らが答えてみよと返答するばかりであった。ロレンソが詳しく説明すると、日乗「禅宗の『本分』とデウスは同じである」と答えた。フロイスらは論拠を挙げてその違いを説明したが、日乗は信長に宣教師の追放を要求し、「彼等が都に滞在していたために足利義輝は殺された」と述べた。これに対して、信長はもともと神仏を崇めていなかったので、日乗の言うことを無視した。
信長 「デウスは善には報償を、悪には罰を与えるのか」。
ロレンソ 「その通りであるが、それには二つの形があり、一つは現世の一時的なもの、もう一つは来世の永遠なものである」。
日乗 「それならば人間の死後に報償あるいは罰を受ける物が残ることになる」と言い、人間に不滅な物があるとして大笑いした。
フロイス 「日乗の驚きは私にはおかしなことではない。なぜなら日本の宗旨は何もしないことを根本とし、日本の学者の学識と理解は四大[地、水、火、風]に含まれた見える物しか及ばないからである。またそれらのことをほとんど分かっておらず、見えない不滅の霊魂について語ればなおさらで、これを新奇なものと見なすのは何ら不思議なことではない」。
日乗 「霊魂が存在するということは、この世で最も神秘なものであるので、すぐさまここで見せてもらいたい」。
フロイス 「人間には二つの見方があって、一つは野生の動物と同じように肉体の目によって、もう一つは道理と理解力によるものである。霊魂は四大が全く混じらないものであるので、肉体の目では見ることもできないし、霊魂のことを理解していないのならば、容易には知ることもできない。だが、彼の能力に応じて、デウスを知らない哲学者や異教徒が証明する議論や論証の順序を取らず、彼自身にも霊魂が存在し、不滅であることを示そうとしたのだ。そして彼が推論したり、瞑想や悟りの業を行ったりする時に、外的な感覚がその機能を停止するのに応じて、全身の活動は少なくなり、その時霊魂はさらに演説するため、さらなる活力をもつ。これは肉体と霊魂が同一のものであれば不可能なことである。霊魂が不滅であり、肉体が滅んだ後にも残ることについても、望めば二つの道理によって理解することができる。第一に、合成物は皆その構成する物質に分解するが、霊魂は合成物ではなく、そのため分解するものがないのである。第二に、もし肉体が病んだ時、理性もまた衰え弱くなるならば、肉体が分解した後に永遠なものがないことの明白なしるしである。しかし反対に、肺の病気にかかった時、肉体の衰えによっても理性はまったく変わることがない。また、牢獄のように体の中にいる時、完全な活力があったが、その束縛から解かれた後、それよりもはるかに大きな活力をもつのであるから、死後に霊魂が存在することは明らかである」。
日乗 「お主は霊魂が存在すると言うのであるから、今私に見せるべきである。そこで、お主が存在するという知的物質を見せてもらうため、このお主の弟子、すなわち私の側にいたロレンソの首を斬ることにする」。

 日乗は激しく怒りながら、部屋の片隅に掛けてあった信長の長刀に向かって突進し、長刀の鞘を外し始めた。信長はすぐさま立ち上がり、日乗を後ろから取り押さえ、和田惟政と佐久間信盛、他の領主達は反対側から駆け寄って日乗を捕まえた。そして、力づくでその手から長刀を取り上げた。皆は日乗を大いに嘲り、信長は笑いながら「予の面前でそのようなことをするのは大変無礼である」と言った。他の領主も、日乗に対して同様のことを述べた。特に和田惟政は、「信長の前でなければ直ちに日乗の首を刎ねていたであろう」と語った云々。

【安土問答】

 1579(天正7)年5月、安土の浄厳院にて法華宗(日蓮宗)と浄土宗の間で宗論が行われた。 これを「安土宗論」(「安土問答」、「安土法論」)と云う。「信長公記」の天正7年の箇所に「五月中旬の事に候」として書き始められている。それによると、浄土宗僧侶の覚蓮が安土の町で7日間の法談(説法)をしていたところに法華宗徒の大脇伝介、建部紹智が論争を挑んできた。覚蓮が「そなたたちが帰依する僧侶を呼べばその方に答える」と述べ、これを受けて京都より僧侶を呼び寄せ、宗論を行えと迫った。この噂が信長に伝わり宗論が行われる運びとなった。信長は、審判者を出すから討論の結果と勝負を書類にして報告せよと申し付けた。「左(さ)候はば、判者(はんじゃ)を仰せ付けらるべく候間、書付を以って勝負を御目に懸け候へと、御諚候て」。これによりそれぞれの代表が宗論の場に臨むことになった。「歴々の僧衆、都鄙(とひ)の僧俗、安土へ群れ集まり候」と当時の安土周辺の模様が記録されている。

 宗論は旧暦5月27日に寺中警護の中で行われた。宗論が行われた場所は、その前年に信長が建立した浄土宗の金勝山浄厳院。この地は、もともと佐々木六角氏頼が建立し六角氏の菩提寺であった慈恩寺(天台宗)があったが、信長が、近江(八幡市多賀町)にあった興隆寺の堂舎を移し、栗田郡の金勝寺より明感という僧侶を招いて金勝山浄厳院と改称していた。信長はこの寺を、近江・伊賀両国の総本山した。「その場所の立派なこと、座席の準備、仏僧の格式、民衆の集合という点では、ヨーロッパの著名な大学で上演される公開劇の雰囲気を備えていた」と当時来日していた宣教師フロイス(「日本史」の著者)は記述している。

 浄土宗側の代表は、霊誉玉念、安土西光寺の教蓮社の聖誉定安、近江の正福寺開山想蓮社の信誉洞庫、京都知恩院内一心院の助念(記録者)の4人。法華宗側は、美濃斉藤道三の帰依僧妙覚寺(常光院)の日諦、京都頂妙寺の日珖、京都妙満寺の久遠院の日淵(日雄)、京都妙顕寺内法音院の僧大蔵坊の4人。この8人が問答することになり各4人が対座した。また判者は当時京都五山の識者として有名だった日野・正明寺の鉄叟景秀とその伴僧の華渓正稷、因果居士(華厳宗の学者?)、法隆寺の仙覚坊(法相宗の学僧)の4人。宗論の奉行衆は信長の家臣の菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一、矢部家定。また「信長殿御名代」として織田信澄も立ち会った。(油屋常由の弟妙国寺、普伝)

 問答の内容は次の通り。

浄土宗・定安 法華八軸の内に念仏はありや。
法華 念仏あり。
浄土宗・定安 念仏の義あらば、何ゆえ法華は念仏無間地獄に落ちると説くや。
法華 法華の弥陀と浄土の弥陀とは一体や、別体や。
浄土宗・定安 弥陀は何処にあろうと、弥陀一体なり。
法華 左様ならば、何ゆえ浄土門は法華の弥陀を「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」として捨てるや。(浄土宗の開祖法然の主張を纏めたもので、聖道門・雑行を捨て、閉じ、閣(さしお)き、抛(なげう)って、称名念仏に帰依すること、とある。)
浄土宗・定安 それは念仏を捨てよというにあらず。念仏をする前に念仏の外の雑行を捨てよとの意なり。
法華 念仏をする前に法華を捨てよと言う経文はありや。
浄土宗・定安 法華を捨つるとの経文あり。浄土経には善立方便顕示三乗とあり。また一向専念無量寿仏ともあり。
法華 法華の無量義経には、以方便力、四十余年未顕真実とあり。(釈尊が「40余年も修行してきたのに、いまだに真実が顕れない(悟りが開けない)」といった言葉があり、これを云っている)
浄土宗・定安 釈尊が四十余年の修行をもって以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。(釈尊が40余年もの修行をもって法華経のみを真実とし、それ以前の経典を捨てたと主張するなら、あなたは法華経以前の概念である「妙」の一字を捨てるか、捨てないか、というほどの意味)
法華 今言うは、四十余年の四妙中のいずれや。(←40年の修行のどこにある妙か?、とぼけた)
浄土宗・定安 法華の妙よ。汝知らざるか。
法華 返答なし。閉口す。
浄土宗・定安 重ねて曰く 捨てるか、捨てざるか。
法華 重ねて問いしところ、無言。
其の時、判者を始め満座一同どうと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取る。天正七年己卯年五月二十七日辰刻。(この後、霊誉長老は扇をとって立ち上がり一舞を舞ってみせた、とある)

 討論は互角の勝負とみなされたが、浄土宗側が問うた「妙」についての問いに法華宗側が答えられなかった為、不利となった。宗論の結果は、信長の事前の命令通り書付を持って信長に提出され、目を通した信長の行動はすばやく(「宗論勝負の書付上覧に備えらるるのところ、即ち、信長公時刻を移さず」)宗論の場へ往き、浄土宗側に扇や杖などを与えて賞した。8月2日、聖誉定安は、信長からあらためて感状(上官や君主が功や業績などを認め賞した旨を書いた書状)と銀子50枚を贈られ功を慰労され、一代の面目をほどこした。これは宗論を戦ったのが浄土宗側では結局彼1人であったことが認められた。これにより西光寺は名刹となった。

 法華宗側への沙汰を申し渡した。最初に不審を発した法華の信徒・大脇伝介を斬り捨てている。理由は、この者実は長老の宿を仕った者であるのに、長老の味方もせず、人にそそのかされて不審を申し懸け、「都鄙(とひ)の騒ぎ」を惹き起こしたのは不届きである、というものであった。

 僧侶普伝が打ち首にされた。また宗論の場に出席した普伝という僧は、九州出身で、昨年秋から滞京していたが、一切経のどこそこの箇所に何々の文字があるといったことを空でいえるほどの博識があり、信長と近衛前久との雑談に出てくる僧であった。彼はどこの宗派にも属していなかったが、「八宗は兼学したが、法華はよき宗派なり」とよく周囲にもらしていたのにかかわらず、常々「信長申し候はば、何れの門家にもなるべし」と言っていた。近衛殿は普伝の行動について、「ある時は紅梅の小袖、ある時は薄絵の衣装などを身に着けており、自分の着ている破れ小袖などを結縁であるといってよく人に与えている」と話していたが、調べてみれば小袖は実は借り物で、まがいものの破れ小袖であったことが判明した。法華宗徒は「かほどに物知りの普伝さえ聞き入り、法華宗となった」と評判が立てば法華も繁盛するであろうと考えて普伝に協力を頼んでいた。普伝も多額の賄賂と引換えに法華宗となることを承諾していた。信長はそれらの行状を訊いてから、理由を申しつかせて斬罪に処した。

 理由の1つは、僧としての在り様が「老後に及び虚言をかまへ、不似合」。宗論に勝った暁には終生にわたって身上を保証するとの確約をもって法華宗に招かれ、届も出さずに安土へ下ったこと、日頃の申し様と大いに異なる曲事の振舞いであるとの咎めであった。理由の2つめは、今回の事、「人に宗論いわせ、勝ち目に候はば罷り出づべしと存知、出でざる事、胸の弱き仕立、相届かざる旨」、つまりお前は自ら法問を立てることもせず、他人に宗論をまかせた。これは法華方が優勢になった時のみ自分も出ればよいと算段した上での行いであり、その性根の弱さは不届きというほかない」といったことになる。信長は、実質のない言葉で人の心を惑わす行為をひどく嫌い、また卑怯に見える態度を嫌った。

 さらに信長は残った法華僧に対し、「諸侍軍役勤め、日々迷惑仕り候に、寺庵結構仕り、活計を致し、学文をもせず、妙の一字に、ツマリ候し事、第一曲事(くせごと)に候」。つまり、侍たちが日々軍役を務めて辛酸を舐めている横で、汝ら寺庵衆は安穏として贅沢をなし、学問もせず、ついには妙の一字の解釈にも詰まる体(てい)たらくに至った、このこと曲事に尽きる、といったことになる。

 そして堺まで逃げたもう一人・建部紹智も追捕して斬罪に処している。

 信長は、その上でしかしながら法華宗は「口の過ぎたる者」ゆえに、後日、宗論に負けたとは決して申さぬであろう。「ならば本日敗れた証拠として、汝らは宗門を変えて浄土宗の弟子となるか、それとも今後決して他宗を誹謗せぬ旨の墨付を提出するか、いずれかを選ぶべし」とせまった。法華僧はこれを受けざるを得なかった。その上で信長は、法華宗側に、法華宗十三ヶ寺が連名で、下記のような3ヶ条の起請文(詫証文)を書かさせている。

 敬白 起請文の事
一、今度江州浄厳院において浄土宗と宗論し、法華の負けとなりしゆえ、京の坊主普伝ならびに塩屋伝介討ち果たされしこと、相違なし。
一、向後他宗に対し一切の法難をしかけざること(向後他宗一切不可致法難)、誓約す。
一、法華に一分の理を与えられしこと感謝の至りと心得、法華上人衆については一度その位を辞し、改めて任ぜられるべきこと、承諾す。
     天正七 五月二十七日 法華宗

 さらに法華宗に「可被立置之旨」に感謝する旨、もし違反した場合は法華宗悉く成敗されても恨みに思わない旨、も誓わせ、宗論の奉行衆へ提出させている。この詫証文(起請文)は、題目曼荼羅に書いたもので、信長へのものと浄土宗の本山京都知恩院へのものであった。またさらに京都の法華(日蓮)宗の諸寺へ罰金を科し、日珖以下の桑峯寺(桑実寺か?)籠居など厳しく処罰した。

 法華側はこれ以降、説法のあり方を、折伏(しゃくぶく)から摂受(しょうじゅ)へと変化し、畿内の法華宗も権力へ従順する姿勢を強めた。信長へ提出した詫証文は、後豊臣秀吉時代、天正13年(1584)、法華(日蓮)宗に返却され、日蓮宗はようやく複した。


 織田信長は黒人を見てその肌を洗わせた。

 ある宣教師が織田信長に謁見する為に安土城を訪れた際に、一人の黒人がその宣教師に同行していた。信長は宣教師との会話よりも、その後ろに控えていた肌の黒人に興味を覚えた。信長はなぜその様な色をしているのかを質問した。宣教師は答えた。「生まれた時からこの様な色でございます」。それを聞いても信長は半信半疑で、家来に命じて目の前でその者の背中を洗わせた。いくら洗っても肌は黒色であった。そこで初めて信長は、世界にはこの様な肌の色をした住民が居ることを理解した。信長はこの者を引き取り、名を弥助と改め信長に仕えさせたと言われている。

 イエズス会のコスメ・デ・トーレスは次のように記している。
 「彼らはとても賢く、スペイン人のように理想的に自らをおさめることができる」
 「彼らは、何でも知りたがるのである。世界中に彼らのような民族はいない」

 イタリア人宣教師、ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノは次のように記している。
 「われわれヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、彼ら日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は真実、毎日、日本人から教えられることを認めている。私には全世界中でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる」。

 日本にあまり好意的でなかったアレッサンドロ・ヴァリニャーノは次のように記している。
 「道徳と学問に必要な能力について語るならば、私は日本人以上に優れたる能力ある人々のあることを知らない」。




(私論.私見)