1526 |
|
フランシスコ=ザビエル・トレス・フェルナンデス(19歳)がパリ大学に入学する。ここでルームメイトとしてイグナチオ・ロヨラと知り合う。ザビエルは宗教学と医学を学んでいる。 |
1534 |
|
ザビエル(27歳)は、パリの小さな聖堂で、イグナチオら5人と、清貧と貞節の誓いをたてる。これが、のちのイエズス会(1540年、ローマ教皇より認可)となる。この頃、ポルトガル国王ジョアン3世は植民地経営の一環としてインドでの布教活動に力を入れようとしていた。そこで、国王ジョアン3世はロヨラにインド宣教への宣教師の派遣を要請した。 |
1538 |
天文7 |
ロヨラの聖イグナチオらがパりでイエズス会を結成する。 |
1542 |
|
ザビエル(35歳)は、国王ジョアン3世の要請に応えてリスボンを出港し、インドのゴアに到着した。医学を利用してインド人の患者を診療して信頼を得ている。 |
1543 |
天文12 |
ポルトガル人 乗船のシナ・ ンヤンク船、種子島に漂着し、鉄旭が伝来する。 |
1544 |
天文13 |
改宗ユダヤ人マラノにして貿易商ピントと二人のポルトガル人の仲間が、種子島に鉄砲を伝えた。 |
1548 |
|
ザビエル(41歳)は、ポルトガル商人から、「日本と呼ばれる大きい島国が発見された」と聞かされた。その商人は、「日本人は知識欲が旺盛で、そこに行けば国中に布教することができる」とも聞かされた(イエズス会士宛にあてた手紙)。ザビエルは、マレー半島のマラッカに行き、そこでヤジロウという日本人と出会う。殺人を犯して日本を脱出していた武士のヤジロウはザビエルに会ってキリスト教に帰依し、ゴアの学院で教理を学ぶ。ザビエルはヤジロウの才能を認め、日本布教の助手役を務めさせる。 |
1549.7月 |
天文14 |
13代将軍足利義輝が三好長慶に追われて近江に逃れる。 |
1549.8月 |
|
イエズス会宣教師ザビエル(42歳)が鹿児島の山川に到着する。 |
1549.9月 |
|
ザビエルが薩摩の島津貴久と会い布教の許可を求める。ポルトガルとの貿易を望んでいた島津貴久はこれを認める。ここに1年間滞在し、その間100人が洗礼を受けた。島津貴久も受洗している。眼病の患者を診療し、新鮮な水で目を洗わせて快癒させるなどの方法で信頼を得て信者を獲得している。 |
1550 |
|
ポルトガル船が平戸に来航する。ザビエル(43歳)は鹿児島から平戸に移り、領主松浦隆信から布教の許可を得る。ここに、2ヶ月滞在し、100人が洗礼を受けている。 |
1551 |
|
ザビエル(44歳)が博多、山口、室津を通って京都に上る。京都は荒廃しており、近江にいた将軍足利義輝にも会えず、そのため日本国中の布教活動も認められなかった。 |
|
|
ザビエルは山口に戻り、そこで大内義隆から布教の許可を得た。ルイス・フロイスは、「ザビエルに対し12人が反論しても、たった1つの答えで皆なを納得させてしまった」と記録している。ここに4ヶ月滞在して500人以上が洗礼を受けた。 |
1551.11月 |
|
その後、ザビエルは豊後の府内に行き領主大友宗麟から布教の許可を得た。大友宗麟は2番目の妻ジュリアと娘キンタとともにカトリックへ改宗した。 |
|
|
この時、ポルトガル船が豊後日田に来航し、11月、ザビエルは中国へ行くように聖霊に強く促されて大友義鎮使臣を伴い豊後を出港した。広東港外のサンチャン(上川)島に到着した。 |
1552 |
|
ザビエルがインドのゴアに到着する。5月、中国渡航のためゴアを出発し、12月、上川島で病死。 |
|
|
9月、イエズス会のガーゴ神父が豊後(現在の大分県)の府内に到着する。当時、トルレス神父とフェルナンデス修道士が、大内氏が治める山口で布教を行っていた。豊後の国主・大友宗麟も自領内での布教に積極的だった。彼らは豊後と山口を行き来しながら布教の拡大に努める。 |
1552 |
|
松浦隆信がイエズス会のインド管区長に宛てた書簡には、豊後から既に二度ほど神父が来て布教を行ったと記されている。アルカセバ修道士の報告には、ガーゴ神父が十五日間ほど平戸に滞在する間に三人の主要な武士を含む多くの者が信者になり、この地の領主である松浦隆信も大いにポルトガル人と親しみ、神父の来訪を喜び、平戸にカーサと呼ばれるイエズス会員の居館を建てる土地を与える事を約束し、自分の心の中はキリスト教徒みたいなものだと言ったと記している。
「三人の主要な武士」については、1559年に書かれたガーゴ神父の報告に次のように記されている。
「この地の主要人物三人中の一人であるキリスト教徒あり。その名をドン・アントニオといい、平戸の港より二三レグワの地に三十四ヶ所の地及び小島を領す」。 |
このドン・アントニオという洗礼名を持つ人物は日本名を籠手田安経といい、当時、生月島の南半分と、度島、平戸西海岸を領有しており、松浦氏の親戚筋にもあたる最有力の重臣であった。彼がキリシタンに入信した事については、江戸時代に書かれた「三光譜録」という資料に次のように記されている。
「(前略)ハラカン(大砲)の事柄を知る人がいなかったので、ひたすらに南蛮人に太守(松浦隆信)が尋ねたところ、エキレンジャ(宣教師)が「それを知りたければ我々の宗旨になりなさい、そうでなければ教えられない」と言ったので、籠手田左衛門、一部勘解由(安経の実弟)を自分の名代としてキリシタンにした。これによってハラカンの射法が残らず伝えられた結果、日本一の火業は代々平戸へ伝わり今や第一の宝となっている」。 |
|
1555 |
|
9月、ガーゴ神父自らの報告によると、平戸に赴いたのは神父とフェルナンデス修道士の他、日本人キリシタンの説教師パウロが同行し、特に日本の宗教にも通じたパウロの説教が布教に大変役立ったと記している。報告当時の平戸の信徒数は五百人に達するとしている。 |
1556 |
弘治2 |
イエズス会イ ンド副管区長 ヌーネス・バレトが視察のためガスパル・ヴィレラ神父を伴い豊後の府内(現大分県大分市)に上陸し日本での布教活動を開始する。 |
1557 |
|
9月、平戸にポルトガル船が二隻入港するとヴィレラ神父が豊後から到着し、ガーゴ神父は入れ替わるように博多に修道院と教会を建てるため平戸を後にした。ガーゴ神父は平戸、生月の布教のいわば基礎を作る働きをした。 |
1558 |
永禄元 |
ガスパル・ヴィレラ神父がバルタザール・ガーゴ神父に代わり平戸布教を担当し約1500人に洗礼を授ける。仏教徒と対立し、領主松浦隆信 (道可)
により退去を命じられ、一時府内に戻った後、コスメ・デ・トーレスの指示を受け京を目指す。 |
1559 |
永祿2 |
ヴィレラが日本人ロレンソらと京都入りし宣教を開始する。当時京都に勢力を張る三好長慶や松永久秀と交渉している。 |
1560 |
永祿3 |
入洛から1カ月後、堺のキリシタン医師パウロが紹介した建仁寺永源庵主の手引きで、ヴィレラが苦労の末に妙覚寺で将軍足利義輝に謁見する。砂時計を献上する。将軍足利義輝がヴィレラに布教許可状を交付する。大友義鎮や伊勢貞孝の助力もあり、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、四条坊門姥柳町に定住し、教会とした。 |
1561 |
永祿4 |
京都市内に最初の礼拝堂が建設された。但し、相次ぐ戦乱で礼拝堂は荒廃、布教もなかなか好転しなかった。 |
1563 |
永祿6 |
肥前の領主大 村純忠、大和 沢城主高山厨書キリスト教に改宗、純忠イエズス会に横瀬浦を譲渡するも焼き討ちされる。 |
1563 |
|
ルイス・フロイス(31歳)が横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して日本での布教活動を開始する。
|
1564 |
永祿7 |
高山右近がキリスト教に改宗する。 |
1564 |
|
ルイス・フロイスが日本語を学んだ後、平戸から京都に向かう。
|
1565.1月 |
永祿8 |
ルイス・フロイスが京都入りを果たし、ガスパル・ヴィレラや日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布教活動を開始する。 |
1565 |
永祿8 |
将軍義輝暗殺される(永禄の変)。勅命 「だいうす(デウス)はらい」により(三好党らによって)ヴィレラ、フロイス神父らが京都から追放され摂津、堺に逃れる。以後は畿内を中心に豊後、平戸、堺などで布教する。この間、高山友照、右近父子らに洗礼を授ける。 |
1566 |
|
ヴィレラが九州に行く。ルイス・フロイスが京都地区の布教責任者となる。
|
|
|
フィリピンがスペインに占領される。以降、植民地化する。 |
1568 |
永禄11 |
4.20日、信長が、日蓮宗の僧・朝山日乗とルイス・フロイスおよびロレンソ了斎の宗議問答をさせている。面前で宗論となった。日乗がキリスト教の教えについて尋ね、1時間半ほど質問を重ねている。この宗論の中でロレンソが、日乗が比叡山で心海上人という人物に教えを受けていた事について尋ねており、日乗もこれを肯定している。また、宗論では信長もロレンソにいくつかの質問をしている。
|
1569 |
永祿12 |
ルイス・フロイスが将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面する。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可される。グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得る。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている(フロイスの著作には「信長公記」などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている)。信長は、1569(永禄12)年、フロイスとの最初の会見以来、記録に残るだけでも他の宣教師を含めて14年間に31回以上会見した。キリスト教の教義や科学知識に興味を持ち議論を好んだ。しかし帰依することはなかった。
|
1570 |
元亀元 |
イエズス会上長カブラルと オルガンティーノ来日。前上長トレス死去。 |
1570 |
|
ヴィレラがインドに渡り、翌1572年、ゴアで病没する。
|
1571 |
元亀2 |
9月、織田信長の軍勢が比叡山を焼き討ちする。信長は仏寺の勢力を抑制する意図もあってか、当時来京していたオルガンティーノら宣教師たちを厚遇する。信長の保護によって新たに教会(南蛮寺)や礼拝堂が建設され京都でのキリシタン伝道事業は絶頂期を迎える。
|
|
|
長崎開港。 |
1571 |
元亀2 |
大村純忠、長崎新町六町の地割を行う。ポルトガル船が長崎に初めて入港する。 |
1571.9月 |
|
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちする。この戦いはルイス・フロイスの書簡にも記載されている。
|
1572 |
|
信長がカブラル神父を岐阜城で引見する。 |
1576 |
天正4 |
京都に南蛮寺を建つ。 |
1579 |
天正7 |
信長が安土城を築く。 |
1579 |
天正7 |
7.25日、イエズス会東インド管区巡察師ヴァリニャーノ(50歳)が来日する。織田信長から布教の許可を得て、安土城下にセミナリオ(神学校)を設立した。今も石碑が立っている。その後、豊後府内にコレジオ(宣教師養成学校)、豊後臼杵にノビシャド(信者の修練所)も設立した。
「シナ、日本などのポルトガル国の征服に属する地域」という手紙を書いている。17世紀頃のイエズス会の記録には、「日本はポルトガルの征服に属しており…それ故、国王は、日本など東アジアの征服地にスペイン人は行ってはならないというふうな勅令を発布した」とある。 |
1580 |
天正8.4月 |
大村純忠が長崎6か町と茂木をイエズス会に寄進する。小神学校(セミナリヨ)が肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)に設立される。豊後臼杵にイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)が設置される。 |
|
|
信長が、安土城で多数の家臣を同席させ。宣教師のオルガチ−ノとその弟子ロレンソ(盲目の日本人の琵琶師)と3時間にわたり宗教論議をした。その後、二人を別室に招き、以前、宣教師が献上した地球儀を前にヨーロッパから日本に至る道程を示させ次のように述べている。
「此の如き旅は大いなる勇気と強気心あるものにあらざれば実行すること能わず。汝らがこの如く多数の危険と海洋を超えるは或は盗賊にして何かを得んと欲するか或は説かんとする所重要なるに因るか」。 |
オルガチ−ノは「ご尤もである。何故なら我らは盗賊にして、日本人の魂を心の悪魔の手より奪いて、その造主の手に渡さんが為に来れるなり」とのみ答え平伏した。 |
1581 |
天正9 |
信長が本能寺で巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを引見する。ルイス・フロイスが通訳として同行している。この時、信長は、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈り、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上された。従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し弥助と名づけられて信長の直臣になっている。
豊後府内(現:大分県大分市)に大神学校(コレジオ)が設立される。 |
1581 |
|
ヴァリニャーノが、イエズス会員のための宣教のガイドライン、「Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone」(日本の風習と流儀に関する注意と助言)を執筆した。 |
1582.2 |
天正10 |
ヴァリニャーノの進言で天正少年使節が派遣されることになった。大友宗麟、有馬晴信、大村純忠から推薦された有馬セミナリオの学生で14歳前後の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンがヴァリニャーノと共に長崎を発つ。長崎、マカオ、マラッカ海峡、ゴア(ヴァリニャーノと別かれる、喜望峰、マドリード、ローマという経路をとる。 |
1582 |
|
ヴァリニャーノが、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることを見抜き激しく対立し、カブラルを日本から去らせた。ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。
|
1582 |
天正10.6.2 |
本能寺の変で信長が死去する。 |
1583 |
天正11 |
ルイス・フロイス神父が時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に「日本史」と呼ばれることになる。
|
1583 |
天正11 |
秀吉が大阪城 を築き、イエ ズス会に教会用地を与える。 |
1584 |
天正12 |
有馬晴信が浦上村をイエズス会に寄進する。 |
1584 |
|
少年使節の4人がマドリードでスペイン国王フェリーペ2世に謁見する。 |
1585 |
天正13 |
グレゴリオ13世が、ヴァティカンにあるローマ法王庁の「帝王の間」で天正遣欧使節を引見する。法王はその後程なく死去しシスト5世が新教皇に就く。 |
1586 |
天正14 |
秀吉が大阪城で準管区長コエリョを引見する。 |
1586 |
|
少年使節の4人がリスボンを出港した。 |
1587 |
天正15 |
天正遣欧使節がリスボンよりゴアに到着する。
|
|
|
大友宗麟、大村純忠が死去する。 |
|
天正15.6.19 |
秀吉が伴天連追放令(禁教令)を出す。高山右近が改易させられる。ルイス・フロイス神父が畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着く。 |
1588 |
天正16 |
イギリス艦隊がスペイン無敵艦隊・アルマダを撃滅、世界の制海権を手中にする。 |
|
|
教皇勅令により日本司教を設置する。 |
|
天正16.4.2 |
秀吉がイエズス会知行所を没収し公領とする。 |
1590 |
天正18.6.20 |
ヴァリァリニャーノが天正遣欧少年使節と共に長崎に到着する。インド副王の使節という資格で日本入国を許可された。時に21歳になっていた。サンデ編「日本使節対話録」がマカオで刊行されている。 |
1590 |
天正18 |
帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスが同行して聚楽第で秀吉と会見する。
|
1591 |
|
秀吉がフィリ ピンに入貢を要求する。 |
1592 |
文禄元 |
秀吉が長崎奉行を置く。 |
1592 |
文禄元 |
フィリピン総督使節フアン・コーポが肥繁盛屋城で秀吉に謁見する。 |
1592 |
|
フロイスがヴァリニャーノとともに一時マカオに渡る。 |
1592 |
文禄元 |
朝鮮に出兵(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍、また明から援軍が送られてきたことで、戦況は悪化して休戦した。しかし、講和が決裂する。 |
1593 |
文禄2 |
秀吉が名護屋城でフィリピン総督使節ぺドロ・バウティスタを引見する。 |
1595 |
文禄4 |
フロイスが長崎に戻る。 |
1596 |
文禄5 |
府内司教ぺト ロ・マルチィ ンス、来日し伏見で秀吉に謁す。スペイン船サン・フェリーぺ号が土佐浦戸に漂着する。 |
1597 |
慶長元.12.19 |
カトリック教宣教師と信者26名を長崎西坂で処刑する(日本26聖人)(二六聖人殉教)。 |
|
府内司教ペト ロ・マルチィ ンスが来日し伏見で秀吉に謁す。 |
|
再び朝鮮に出兵する(慶長の役)。 |
1597 |
慶長2 |
フロイスが「二十六聖人の殉教記録」を執筆する。7.8日(旧暦5.24日)没した。享年65歳。 |
1598 |
慶長3 |
府内司教ペト ロ・マルチィ ンスが来日し伏見で秀吉に謁す。マ ラッカ近くで病没する。 |
1598.8.18 |
慶長3 |
秀吉が伏見城で死去する(享年62歳)。 |
|
|
日本司教ルイス・デ・セルケイラが日本巡察師ヴアリニヤーノと共に長崎に着く。 |
1599 |
慶長4 |
フランシスコ 会士へロニ モ・デ・ヘスース、徳川家康の許可をえて江戸に教会を建てる。 |
1600 |
慶長5 |
関ケ原の戦いで徳川軍が勝利する。 |
|
|
イギリス、オランダ、フランスが東インド会社を創立する。 |
1601 |
慶長6 |
イエズス会宣教師マテオ・リッチが北京に至る。 |
1601 |
|
伊東マンショがマカオに向かい、同地で3年近く修道士として研鑚を積む。中浦ジュリアンは伊東マンショとともにマカオに派遣され3年ほど神学などを学ぶ。千々石ミゲルは、有馬晴信の従兄弟で、大村純忠の甥という関係からか、棄教して千々石清左衛門と名乗る。 |
1603.3.24 |
慶長8.2.12 |
江戸幕府が開かれる。 |
1604 |
慶長9 |
幕府が糸割符 法を制定し生糸貿易を統制する。 |
1604 |
|
家康が伏見城でドミニコ会上長メーナを引見する。 |
1604 |
|
伊東マンショが長崎のイエズス会学院で病死した。 |
1606 |
慶長11 |
家康が伏見城で日本司教セルケイラを引見する。 |
1607 |
慶長12 |
イエズス会準管区長パシオが駿府で家康、江戸に将軍秀忠を訪ねる。 |
1608 |
慶長13 |
有馬晴信派遣の朱印船関係者らがマカオで市民と衝突し53人殺害される。 |
1608 |
|
中浦ジュリアン、原マルチノが長崎で司祭になる。 |
1609 |
慶長14 |
オランダ船が 平戸に入港し、幕府の許可をえて商館を開設する。 |
|
|
対馬宗氏の仲介で慶長条約を結ぶ。 |
1610 |
慶長15 |
ポルトガル船 ノツサ・セ ニョーラ・ダ・グラサ号が有馬晴信軍の攻撃を受け長崎沖で自爆する。ドン・ロドゴ、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が建造船でメキシコに帰還する。 |
1612.9.1 |
慶長17.8.6 |
岡本大八事件が発覚し、幕府が江戸・駿府・京都の直轄地と有馬嶺に禁教令を施行する。 |
1613 |
慶長18 |
江戸のキリシタン8名が処刑される。 |
1613 |
慶長18 |
伊達政宗が支倉常長とフランシスコ会士ソテロをスペインとローマ教皇庁に遣わす。 |
1613 |
慶長18 |
平戸にイギリス商館ができる。 |
1614.1.25 |
慶長18.12.16 |
使節がスペイン領メキシコのアカプルコ港に着く。 |
1614.2.1 |
慶長18.12.23 |
幕府が全国に キリシタン禁教令、キリシタンの国外追放令を布告する。これにより宣教師および高山右近ら300名余が国外に追放され、マカオ、マニラに落ち着く。長崎市内にある11教会が被壊された。原マルチノも、この時、マカオに追放されて、そこで亡くなる。中浦ジュリアンは踏みとどまり九州各地で決死的な布教を続けた。 |
|
|
この年の統計によれば、聖職者150名、信徒数
65万を超え,信徒の中には公卿2家及び大名55名があった。 |
|
|
大坂冬の陣始まる。 |
|
|
ニアバラ・ルイスら難破する。 |
1615 |
|
高山右近がマ ニラで病死する。 |
|
|
支倉常長がマドリードでキリスト教に改宗し、ローマで教皇パウロ五世に謁す。 |
|
|
ベトロ岐部がマニラに渡航する。 |
1616 |
|
家康死去。 |
1616 |
元和 2.8.8 |
幕府が外国船(主としてオランダ、イギリス)の入港を長崎・平戸の二港に制限し、キリスト教を厳禁する。 |
|
|
支倉常長の一行がローマを発ち帰路に着く。 |
1619 |
元和 5 |
京都大殉教。 |
1620.10.18 |
元和 6.9.23 |
政宗が使節の帰国を幕府に報告する。この月、仙台藩におけるキリスト教徒の探索迫害が激化し、領内全域に及ぶ。 |
1620 |
元和 6 |
教皇パウロ五世が重ねて大赦令を発し、日本キリシタン宛書翰を書き認める。 |
1622 |
元和82 |
イグナチオがザビエル列聖される。 |
1622 |
元和8 |
木村セバ スティアン、木村レオナルドら殉教。長崎でキリシタン55名が処刑される(長崎大殉教)。 |
1623 |
元和9 |
ベトロ岐部が リスボンから ゴアに向かう。オランダがアンポイナでイギリス人・日本人らを虐殺する。 |
1623 |
元和9 |
江戸大殉教。 |
|
|
平戸のイギリス商館が閉鎖される。 |
1624 |
元和 10 |
仙台、出羽秋 田でディエゴ・カル ヴァーリョらとキリシタン41名処刑される。 |
1624 |
元和 10 |
江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じた。 |
1624.8.25 |
元和10.7.12 |
大村で密入国のソテロ(51歳)ら4名処刑。 |
1626 |
寛永3 |
長崎の住民、 キリスト教の 信仰を禁じられる。 |
1626 |
寛永3 |
カトリック教徒を改宗させるため、踏み絵を行う。 |
1630 |
寛永7 |
ペトロ岐部、松田ミゲルらがルパング島を出航し帰国する。 |
1633 |
寛永10 |
〜34年、徳川幕府は日本鎖国令を発し、スペインとの外交を閉ざした。全国に寺請け檀家制度を設け、全国民を仏教寺所属の信徒として登録させた。これによりキリシタンを取り締まった。更に、5人組制度による相互扶助及び監視密告体制を作り上げた。イエスや聖母マリアの聖像を踏ませる「踏み絵」による摘発が続いた。これによって信仰の有無を判断するというのは日本独特の遣り方であった。 |
1633 |
|
中浦ジュリアンが筑前小倉で捕まり、逆さ吊りの刑に処せられ3日後に絶命したと云う。 |
1634 |
寛永11.5 |
長崎の商人が幕命により出島を築く(?一六三六)。 |
|
寛永11 |
眼鏡橋完成。 |
|
寛永11.9 |
長崎くんち始まる。 |
1635.7.12 |
寛永12.5.28 |
幕府が御朱印船を停止し、唐船の貿易を長崎港に制限する。日本人の海外渡航と外国からの帰国を禁止、帰国者は死罪。外国船の入港地を長崎1港に限定。 |
1636 |
寛永13 |
幕府がポルト ガル人と日本人との混血児二八七名をマカオに追放する(カスタ流し)。 |
1636 |
寛永13.5.10 |
出島が完成しポルトガル人を収容し市中雑居を禁止する。 |
1637.12.11 |
寛永14.10.25 |
島原の乱発生 (1638年まで続く)。キリシタン勢力による島原・天草の乱が起り、約4万人の農民が一
揆を起こして、「全滅」した。原城で信徒2万7千余人が殉教した。 |
1639 |
寛永16 |
ベトロ岐部が 江戸で殉教する。 |
1639.8.4 |
寛永16.7.5 |
幕府がポルトガル人(船)の日本渡航を禁止する(鎖国の完成)。オランダ、中国、朝鮮とだけの貿易が許される。正確にはバテレン勢力との絶縁と云うべきである。 |
1640 |
寛永17 |
幕府がマカオ使節六一名を西坂で処刑しポルトガル船を焼く。大目付井上政重、宗門改役に就く。 |
1640.4.21 |
寛永17.3.1 |
常長の子常頼が斬罪に処される。召使い3名と弟常道がキリシタンであったことの責任を問われたもので、召使い3名も殉教する。 |
1641.6.24 |
寛永18.5.16 |
平戸のオランダ商館を出島に移す(鎖国体制完成)。 |
1642 |
|
イエズス会日本巡察師ルビノ一 行が下甑島に渡航し捕えられてのち処刑される。 |
1643 |
|
管区長マル ケスの一行が上陸し捕えられ、ディエゴ・モラレスらが殉教する。 |
1644 |
|
ポルトガル国 王ジョアン四世がマカオ、長崎間貿易再開のため特使シケイラを日本に派遣する。 |
1647 |
|
ポルトガル国王使節シケイ ラが長崎に来航する。幕府はポルトガルとの通交を許さず同使節を帰国させる。 |
1657 |
明暦3 |
大村領のキリシタン600余人が捕らわれる(郡崩れ)。 |
1622 |
|
ローマ教皇がザビエルとロヨラを聖人とした。 |
1663 |
寛文3.3.8 |
長崎大火、66町中全焼57町、半焼6町(寛文の大火) |
1672 |
寛文12 |
寛文の大火の再建に当たり都市計画を行い、長崎の町を80か町に分く。 |
1688 |
元禄元 |
入港唐船194、史上最高記録。 |
1689 |
元禄2.4.15 |
唐人屋敷完成。 |
1715 |
正徳55 |
長崎貿易新令を発布し、輸入を制限する。 |
1927 |
|
ローマ教皇が、ザビエルに対し「東洋の使徒」という称号を授けた。 |