マルコ・ポーロと東方見聞録

 (最新見直し2013.10.26日)

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 2013.10.26日 れんだいこ拝


マルコ・ポーロと東方見聞録
 「ウィキペディア・マルコポーロ」、「24.歴史はミステリー(その19) -キリスト教伝来」を参照する。

 1254年9月15日、マルコ・ポーロ(Marco Polo)はベニスの貿易商人ニコロ・ポーロの子としてヴェネツィア共和国で生まれた。11-12世紀頃における世界商業の中心地はイタリアにあった。13世紀頃におけるイタリアの商業都市では、ベニス、ピサ、ジェノアの3都市が最も活躍していた。これら中世の諸都市は、十数回に及ぶ十字軍の遠征により発展し、それ以前に東ローマ帝国が持っていた東西貿易の商圏を奪ってしまった。その筆頭をなしたのがベニスであった。そのことはシェイクスピアの「ベニスの商人」からも分かる。

 マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっていない。父はニコーロ・ポーロ、母は不明。家系について詳しいことはわからないがヨーロッパからシルク・ロードを経て中国にいたる広域で活動する貿易商であった。父のニコロと叔父のマフエオは、マルコが生まれる前に貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着いている。1260年、政変が起こると予測した彼らは財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かっている。その後、アジアを東へ向かい、モンゴル王・フビライ・ハーンに謁見している。この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された。マルコ・ポーロは、商取引を父と叔父であるニコーロとマフェオ・ポーロ (英語: Niccolò and Maffeo Polo)に学んだ。

 1269年、ニコロとマフエオは、フビライ・ハーンの使節としてローマ法王への伝達を任務としてベニスへ帰ってきた。この時、フビライ・ハーンは、ローマ法王にキリスト教の宣教師を100人、モンゴルに派遣してほしいと要請してきたといわれる。1270年末、ニコロとマフエオは、青年マルコ・ポーロをつれてベニスを出発し再び中国へ向った。以降24年間にわたりアジア各地を旅する。1271年、ローマ法王のグレゴリオ10世が即位。中国ではフビライが国号をモンゴルから元に改めている。マルコ・ポーロは、元帝国において世祖フビライ・ハーンに11年のあいだ仕えた。マルコはイタリア語の他に、フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語の4言語に通じ、クビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていたこともあり元の政治官に任命され、中国南西部の雲南や蘇州・楊州で徴税実務に就いたり、また使節として帝国の南部や東部、また南の遠方やビルマ、スリランカやチャンパ王国(現在のベトナム)など各所を訪れ、それを記録した。

 17年間中国に滞在した マルコら一行は元の政治腐敗を危惧し、中国を去りたいという申し出をしたがクビライは認めなかった。 しかし彼らは、もしクビライが亡くなれば重用された自分たちは政敵に狙われ無事にヨーロッパに戻れなくなるのではと危惧していた。1292年、イル・ハン国のアルグン・ハンの妃に内定したコカチンを迎えに来た使節団が、ハイドゥの乱のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらに同行を求めた。この許可を得た一行は同年に泉州市から14隻のジャンク船団を組んで南へ出航した。彼らはシンガポールに寄港し、スマトラ島では5ヶ月風待ちして過ごし、セイロン島を経由してインド南岸を通過し、マラバールやアラビア海を通って1293年2月頃にオルムス(Ormus, ホルムズとも)に至った。2年間にわたる船旅は決して平穏ではなく、水夫を除くと600人いた乗組員は到着時には18人にまで減ったが、コカチンやマルコら3人は無事に生き残った。 オルムスに到着し行われた結婚の祝賀会が終わると、マルコらは出発し、陸路で山を超え黒海の現在ではトラブゾンに当たる港へ向かった。マルコらがヴェネツィアに戻ったのは1295年、通算24年間、全行程15,000kmの旅を終えた。

 彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた。その獄中でマルコ・ポーロが口述した内容を、同じ捕虜仲間でピサの物語作家であったルスティケロ・ダ・ピサが筆記したものが、有名な「東方見聞録」(The Travels of Marco Polo) である。中国、インド、日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらした。


 その内容は2部にわかれており、第1部はニコロとマフエオの東方旅行の概要であり、第2部は旅行中の見聞を旅行の順序に従って記述した地理書からなる。この「東方見聞録」において、マルコ・ポーロが特に力を入れて紹介しているのは、次のようなものである。1・フビライ・ハーンの関係事項 -豪華な宮廷生活や狩猟。2・首都ハンバリク(=元代の大都:北京?)の状況。3・元帝国の制度。4・ハーンの領土のカタイとマンジの巨大な富。5・黄金の島・日本。

 1299.8月、マルコは釈放され、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷「contrada San Giovanni Crisostomo」に戻れた。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はベネツィアを離れなかった。1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれた。

 1323年、病気になったマルコ・ポーロは枕も上がらなくなった。翌年1月8日、医師の努力も空しく死期が迫ったマルコは財産分与を認め、亡くなった。遺言の公認を聖プロコロ教会の司祭ジョバンニ・ジュスティニアーニから得た妻と娘たちは正式に共同遺言執行者 (en) となった。1324年1月8日、ヴェネツィア共和国、ヴェネツィアで死す。墓地はサン・ロレンツォ教会(ベネツィア) (イタリア語: Chiesa di San Lorenzo (Venezia))。

 遺言に基づいて教会も一部の地権を受け、さらに多くの遺産分与をサン・ロレンツォ教会に行なって遺体を埋葬された。 また、遺言にはマルコがアジアから連れてきたタタール人の奴隷を解放するよう指示されていた。マルコは残りの遺産についても、個人や宗教団体、彼が属したギルドや組織などへの配分を決めていた。さらに、彼は義理の姉妹が負っていた300リラの借金や、サン・ジョバンニ修道院、聖ドミニコ修道会のサン・パウロ教会または托鉢修道士 (en) のベンヴェヌートら聖職者が持つ負債の肩代わりもした。ジョバンニ・ジュスティニアーニには公証人役への報酬、また信者からとして200ソリドゥスが贈られた。マルコの署名はなかったが、「signum manus」の規則が適用され有効なものとされた遺言状は、日付が1324年1月9日になっていた。規則により遺言状に触れる者は遺言者だけと決められていたため、マルコの没日は9日ではないかとの疑問も生じたが、当時の1日は日没で日付が変わっていたため、現在で言う8日深夜であった可能性もある。

 マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ、140種類を超える写本間にも有意な差が見られる。初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年にドイツ語で初めて活字化され、1488年にはラテン語およびイタリア語で出版された。しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、ヘンリー・ユールによる英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがある。同じ英語翻訳でもA.C.ムールとポール・ペリオが訳し1938年に出版された本では、1932年にトレド大聖堂で発見されたラテン語本を元にしているが、他の版よりも5割も長い。 このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られている。印刷機(en)の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多い。これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われている。

 日本のモンゴル史学者の杉山正明はマルコ・ポーロの実在そのものに疑問を投げかけている。その理由として、『東方見聞録』の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げている。但しモンゴル宮廷についての記述が他の資料と一致する、つまり宮廷内に出入りした人物で無いと描けないということから、マルコ・ポーロらしき人がいたことは否定していない。(杉山正明「世界史を変貌させたモンゴル」、「クビライの挑戦」など参照)

 本は、ニコーロとマフィオがキプチャク・ハン国のベルケ王子が住むボルガール (en)へ向かう旅の記述から始まる。1年後、彼らはウケク (en) に行き、さらにブハラへ向かった。そこでレバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがないクビライと面会する機会を設けた。 これは1266年に大都(現在の北京)で実現した。クビライは兄弟を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げ、またローマの教皇や教会についても聞いた。兄弟が質問に答えるとクビライは、リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた教皇に宛てた書簡を託した。さらにクリスム(Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプの油)も持ってくるよう求めた。

 ローマ教会では1268年にクレメンス4世が没して以来、使徒座空位にあり、クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。ニコーロとマフェオはテオバルド・ヴィスコンティ、次いでエジプト駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにした。彼らがヴェネツィアに着いたのは1269年もしくは1270年であり、ここで当時16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになった。次期教皇はなかなか決まらず、1271年にニコーロとマフィオそしてマルコの3人はクビライへの説明のために旅に出発した。彼らが小アルメニアのライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いた。彼らに、2人の宣教師ニコロ・ディ・ヴィツェンツァとグリエルモ・ディ・トリボリが同行することになったが、宣教師らは旅の困難さに直面し早々に逃亡してしまう。

 マルコ一行はまずアッコまで船で往き、ペルシャのホルモズガーン州でラクダに乗り換えた。彼らは船で中国まで行きたかったが当地の船は航海に適さず、パミール高原やゴビ砂漠を越える陸路でクビライの夏の都・上都(現在の張家口市近郊)を目指した。ヴェネツィアを出て3年半後、21歳前後まで成長したマルコを含む一行は目的地に到着し、カーンは彼らを歓迎した。マルコらが到着した正確な日付は不明だが、研究者によると1271年から1275年の間だと見なされている。 宮廷にて、一行はエルサレムから持参した神聖なる油と、教皇からの手紙をクビライに渡した。

 黄金の国ジパング

 マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、自らは渡航しなかったが 日本のことをジパング (Zipangu)の名でヨーロッパに初めて紹介した。現在の中国語では、日本国を「ジ・パン・クオ」というから、マルコ・ポーロの日本は、将に「日本国」を中国的に発音したものであった。バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介している。日本には黄金が無尽蔵にある。しかし、国王が輸出を禁じており、大陸から遠いため商人もあまりこの国を訪れない、そのため黄金は想像できぬほど豊富である。この島の支配者の豪華な宮殿では、ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛で葺かれているように、宮殿の屋根がすべて黄金で葺かれている。その価格はとても評価できないほどである。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように厚さ4センチの純金の板が敷きつめられている。その上、窓さえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは全く想像の範囲を超えている。バラ色の真珠も大量に取れる。それは美しくて大きく、丸くて白真珠と同様に、高価なものである。この国では死体は土葬もしくは火葬にされ、土葬にするときは、真珠を口にいれる習慣になっている。その他の宝石も多い云々と記述している。

 マルコ・ポーロは東方見聞録のなかで、大フビライ・ハーンが、マルコ・ポーロからこの島の極めて富裕な事を聞いて日本の占領計画をたてたこと、そのため、大艦隊と歩兵、騎兵の大軍を授けて、アラハンと范文虎という2人の貴族を派遣し、弘安4(1281)年の元の日本攻撃になったと述べている。1274年、1281年の元寇について、史実を反映した部分もあれば、元軍が日本の首都である京都まで攻め込んだという記述や日本兵が武器にしていた奇跡の石など、空想的な箇所もある。

 「黄金の国」伝説は、奥州平泉の中尊寺金色堂についての話や遣唐使時代の留学生の持参金および日宋貿易の日本側支払いに金が使われていた事によって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられる。また、イスラム社会にはやはり黄金の国を指す「ワクワク伝説」があり、これも倭国「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられる。

 日本の習俗についても、偶像崇拝や食人の風習に触れているが、これはジパングと周辺の島々について概説的に述べられており、その範囲は中国の南北地域から東南アジアおよびインドまでに及ぶ。また、これらはフリーセックス的な性風俗ともども十字軍遠征以来ヨーロッパ人が持っていた「富」および「グロテスク」という言葉で彩られるアジア観の典型をなぞったものと考えられる。

 当時の日中貿易は杭州を拠点に行われていた。しかし1500海里という表現は泉州から九州北部までの距離と符合し、ここからマルコは日本の情報を泉州で得たと想像される。「ジパング」の呼称も中国南部の「日本国」の発音「ji-pen-quo」が由来と思われる点がこれを裏付ける。この泉州は一方でインド航路の起点でもあり、マルコの日本情報はイスラム商人らから聞いたものである可能性が高い。

 ユーラシア情報

 マルコ・ポーロは旅の往復路や元の使節として訪れた土地の情報を多く記録し、『東方見聞録』は元代の中国に止まらず東方世界の情報を豊富に含み、近代以前のユーラシア大陸の姿を現在に伝える。 それらは異文化の風習を記した単なる見聞に止まらず、重さや寸法または貨幣などの単位、道路や橋などの交通、さらには言語等にも及び、それは社会科学や民俗学的観察に比される。 その中で、マルコはアジアの「富と繁栄」を多く伝えた。世界最大の海港と称賛した泉州や杭州の繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市計画の整然さや庭園なども美しさを記している。また、ヨーロッパには無かった紙幣に驚き、クビライを「錬金術師」と評した。 なお、彼は元の成立をプレスター・ジョンと関連づけた記述を残している。

 往路ではシルクロードを通り、伝えた中央アジアの情報について探険家のスヴェン・ヘディンは、その正確さに感嘆した。1271年にパミール高原(かつてはImeon山と呼ばれた)を通過した際に見た大柄なヒツジについても詳細な報告を残しており、この羊には彼の名を取りマルコポーロヒツジとの名称がついた。復路の船旅についても、南海航路の詳細や東南アジアやインドなどの地方やイスラム文化等の詳細を伝え、さらに中国やアラブの船の構造についても詳細を記した。 1292年にインドを通った時の記録には、聖トマスの墓が当地にあると記している。 また、イスラムの楽器についても記録した。

 マルコは宝石の産地を初めて具体的にヨーロッパに知らせた。セイロン島では良質なルビーやサファイアが採れ、またコロマンデル海岸の川では雨の後でダイヤモンドが拾えるが、渓谷に登って採掘するには毒蛇を避けねばならないと記した。

 中国を目指した他の人々

 マルコ・ポーロ以前にヨーロッパ人が中国を旅した他の例にはプラノ・カルピニがいる。しかし、彼の旅行の詳細は一般に広く知られることは無く、この点からマルコが先陣を切ったと思われている。クリストファー・コロンブスはマルコが描写した極東の情報に強く影響を受け、航海に乗り出す動機となった。コロンブスが所蔵した『東方見聞録』が残っており、ここには彼の手書き注釈が加えられている。彼が発見したのはジパングではなく、アメリカ大陸であった。そしてジパング発見の栄光はポルトガルの上に輝くことになった。ベント・デ・ゴイス(en)も「東洋で君臨するキリスト教の王」についてマルコが口述した部分に影響され、中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をした。彼は王国を見つけられなかったが、1605年には万里の長城に至り、マテオ・リッチ(1552年 - 1610年)が呼んだ「China」が、「Cathay」と同一の国家を指していることを立証した。


れんだいこの「マルコ・ポーロと東方見聞録」考
 れんだいこは、マルコ・ポーロの国際ユダ屋性と東方見聞録の敵情視察文書性を見て取る。マルコ・ポーロの履歴全体が滑稽なほど国際ユダ屋性を証している。この観点からの「マルコ・ポーロと東方見聞録」論でなければピンボケするであろう。これについては機会があれば詳論したい。今はスケッチのみにとどめておく。

 2013.10.25日 れんだいこ拝

(参考文献)
青木富太郎「黄金の国ジパング -マルコ・ポーロ伝」(国土社)
         同氏訳「マルコ・ポーロ東方見聞録」(社会思想社)







(私論.私見)