徳川幕府のキリスト教禁教史

更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).8.7日

 この前の経緯は豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令に記す。

【徳川家康の対バテレン教初期政策】
 「ウィリアム・アダムスとカトリック教会の対立」その他を参照する。
 秀吉亡き後、キリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれていくことになる。

 1600(慶長5)年、豊臣政権の五大老を努めていた家康は、豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長で、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)を家臣として召し抱えた。しかし、これは相当な厄介を招いた。即ち、当時のオランダ、イギリスはプロテスタントの国で、スペインなどカトリック国と敵対していた。家康に召抱えられたアダムスらは、家康に西欧の宗教事情を吹き込み、カトリック系の世界植民地化構想を暴露する惧れがあった。そういう予見から、在日カトリック系宣教師達は、アダムス以下 リーフデ号の乗組員を処刑するように家康に申し出たり、一人の神父を派遣して彼に日本を去るように説得したりした。さらに最終手段として、プロテスタントからカトリックへと改宗するように迫っている。ヨーロッパの宗教対立がそのまま極東の島国に持ち込まれた図式であった。しかし、家康から見れば、ポルトガル、スペイン以外の貿易相手が出現したことになる。それを良しとした家康の決断により、在日カトリック系宣教師達の試みはいずれも失敗に終わった。

  政権を握った徳川家康は、初期の頃、宣教師の布教活動を許可・黙認した。それは、ポルトガルやスペインとの貿易の利点の方が優った為であった。以前から活動していたイエズス会をはじめ、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師が来日するようになった。家康は、外交上の必要からこれらの活動を黙認したが、秀吉の禁教令を取り消すことはせず、キリスト教を受け入れる意向は全く持っていなかった。

 長崎では、1601(慶長6)年、イエズス会の教会が再建された。この教会で、日本で最初の2名の司祭が叙階されている。1583年に創設されていたミゼリコルディアの組”は病院のほか施設も経営し、活性化しつつあった。大村、有馬、天草等は南蛮国のようになった。教会が聳え立ち、セミナリヨの生徒も増えていった。京都の教会には日本で最初の修道女会が出来た。キリシタン比丘尼(びくに)と呼ばれたこの修道女たちは、宣教師たちの入り込めない上流婦人のあいだに入って宣教した。

 1609(慶長13)年、長崎で「マードレ・デ・デウス号事件」が勃発した。これは、前年にキリシタン大名として知られる有馬晴信の朱印船が、マカオに寄港した際、晴信の家臣である朱印船乗務員とポルトガル人が争い、60余名の日本人が殺害される事件に端を発している。翌年、この事件に関与したアンドレ・ペッソアが、通称マードレ・デ・デウス号に乗って長崎に来航し、家康に釈明した。朱印船の生き残った乗組員から事件の顛末を聞いた長崎奉行・長谷川左兵衛は、家康の前で彼らの弁護者となった。家康は、有馬晴信に命じてペッソアを召喚させようとしたが、ペッソアはこれに応ぜずデウス号に乗り込み出帆しようとした。これに対し、有馬晴信は、長谷川左兵衛らとデウス号を包囲攻撃し、4日目にデウス号は沈没した。これを「マードレ・デ・デウス号事件」と云う。

 この事件をきっかけに、家康はキリシタン弾圧へと傾斜していく。キリシタンの春は終わりを告げ、一足飛びに厳しい冬を迎えていくことになった。  

 1611(慶長11)年、に来日したスペイン使節が、諸港を測量した。その目的を家康から訪ねられたアダムスは、「エスパーニャ(スペイン)は、まず托鉢修道士たちを派遣し、彼らの後で兵士たちを送り込みます。このようなやり方で外国を支配下に入れていきます。そのために各港にどの船が入港できるか知るためです」と述べ、すべての宣教師を国外に追放すべきであると進言した。

 家康が、アダムスを重用し、オランダ、イギリスとの通商、国交を閉ざす意志を明確にするや、カトリック側は、ついに、日本全国を、親カトリック陣営と、反カトリック=親プロテスタント陣営と、真二つに分裂させ、反カトリックの徳川幕府政権を武力で転覆する大作戦構想を立てた。

 「マードレ・デ・デウス号事件」は、「岡本大八事件」を生む。同事件とは、家康の側近・本多正純(ほんだまさずみ)の与力にしてキリシタンの岡本大八が、有馬晴信に対し、家康が、デウス号を沈没せしめた事件の恩賞として、豊臣時代に失った有馬氏の旧領を戻す意向があると伝えたことにより、晴信がその斡旋として多額の金品を賄賂(わいろ)として渡したところ着服された。その後不審を抱いた晴信が直接、本多正純に問い合わせたところ、大八の虚偽が発覚し、贈収賄事件が露見した。逆恨みした大八が晴信の長崎奉行暗殺計画を暴露し、1612(慶長17)年、大八は処刑され、有馬晴信は甲斐(かい)国に流され、後に処刑されたという事件である。

 家康は、「岡本大八事件」の後、キリスト教禁止を表明し、その摘発を行った。家康は貿易のために、はじめはキリシタンを黙認していたが、ここに至って禁教の方針をとった。その結果、旗本のジョアン原主水(はら もんど)や、大奥の侍女ジュリアおたあなどが改易(かいえき)・追放処分となった。

 信者に信仰を捨てるよう に命じ、従わない者は死刑にした。家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリシタンびいきで、大阪城にこもって、スペインの支援を受けて徳川と戦うという事態であった。当時の大阪城内には、宣教師までいた。

【徳川家康の「キリシタン禁令」と、「宣教師の国外追放令」から鎖国まで】 
 1614(慶長18)年、家康は大阪攻めに先立って、全国に「キリシタン禁令」と、「宣教師の国外追放令」が発布された。これにより、幕末さらに明治政府までに引き継がれる長く厳しい迫害の幕が切って落とされた。

 日本各地にいた外国人宣教師、高山右近などの有力なキリシタン、日本修道女たちは長崎へ送られ、400名あまりが数隻の船に分乗して、マニラ・マカオに追放された。この中の何人かの宣教師は、日本に潜伏、または再潜入し命を懸けて宣教活動を行ったが、そのほとんどは殉教した。

 1614年以降、全国各地で潜伏キリシタンの摘発、拷問、死刑が続いた。主なものは次の通りである。1619.10月、京都大殉教。ヨハネ橋本太兵衛ほか幼児を含む52名が鴨川の六条河原で処刑された。同10.15~、小倉・豊後日出・熊本でディエゴ加賀山隼人ら18名が殉教。1922年、長崎大殉教。1623.12.4日、江戸大殉教。ヨハネ原取水が殉教。

 
1624年、江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じた。次のように指弾している。
 「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」。

 同2.16~、広島で、フランシスコ遠山甚太郎他2名が殉教。1927.2.21日~、島原・雲仙でバルタザル内堀他28名が殉教。1929.1.12日、米沢でルイス甘糟右衛門他52名が殉教。

 1633~34年、徳川幕府は日本鎖国令を発し、スペインとの外交を閉ざした。

 全国に寺請け檀家制度を設け、全国民を仏教寺所属の信徒として登録させた。これによりキリシタンを取り締まった。更に、5人組制度による相互扶助及び監視密告体制を作り上げた。イエスや聖母マリアの聖像を踏ませる「踏み絵」による摘発が続いた。これによって信仰の有無を判断するというのは日本独特の遣り方であった。家光は、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなどして、キリシタンを完全になくさせようとした」。

 1633.7.28日~、長崎西坂でジュリアン中浦(司祭)他2名が殉教。1936.2.25日、大坂でディオゴ結城了雪(司祭)が殉教・1637.11.6日、長崎西坂でトマス金鍔次兵衛(司祭)が殉教。

 1637~38年、キリシタン勢力による島原・天草の乱が起り、約4万人の農民が一 揆を起こして、「全滅」した。原城で信徒2万7千余人が殉教した。これをようやく平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは鎖国と言うより、 朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、正確には キリシタン勢力との絶縁と言うべきである。

 1639.7月、江戸でペトロ岐部(司祭)が殉教。
(私論.私見) 【「伴天連(ばてれん)追放令」から鎖国へ至る諸政策の歴史的意義】
 これを野蛮な宗教弾圧と思うべきか。今日判明することは、危険な世界征服勢力から 国の独立を守ろうとする英明な防衛政策だったのではなかろうか。同時代の他の諸国例えばメキシコやフィリピンを見よ、彼らの固有の文化・文明そのものがスペイン人に破壊されてしまった(「JOG(003) 悲しいメキシコ人」)。日本も戦国時代に同じ運命に陥る危険があった。世界の諸国が次々と篭絡されていく中で、一人日本の支配者は賢明に対処した。秀吉や家康の反キリシタン政策は国家の独立を守る戦いとして貫徹され、これが成功したからこそ今日に至る日本があったのではあるまいか。

 願うらくは、引き続いての西欧事情の動向調査であったであろうが、この方面は怠りその後泰平の世を謳歌させていくことになった。特に新奇創造の芽を潰していくことになったことが惜しまれることであった。しかし、彼我の力関係を考えると当時の鎖国体制化は賢明な措置であったと充分に考えられよう。

 2006.3.7日 れんだいこ拝

【徳川家康の対バテレン政策事情考】
 2020.9.5日、大村 大次郎 : 元国税調査官 著者フォロー徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情」。
 日本がスペイン植民地になった可能性もある
 江戸幕府260年の基礎を築き上げた初代将軍・徳川家康。彼はなぜキリスト教が日本に普及することを恐れたのか? 元国税調査官で、作家の大村大次郎氏による新刊『家康の経営戦略』より一部抜粋・再構成してお届けする。
 豊臣秀吉の後を継いだ徳川家康は、当初キリスト教の布教に寛容だった。家康は、征夷大将軍になったとき、イエズス会やキリスト教勢力と和解している。「秀吉が壊した外交関係は一旦、修復させてみる」というのが家康の方針だったようだ。が、あるときを境に、キリスト教を全面的に禁止することになる。しかも、それは秀吉のときの「バテレン追放令」のように「自発的にキリスト教を信仰する分には構わない」というような緩いものではなく、キリスト教を完全に禁教にしてしまうのだ。
 家康がキリスト教を「禁教」にした理由

 家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となった。この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたのである。

 戦国時代当時、キリスト教は、我々が思っている以上に普及していた。キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2〜4%がキリスト教徒だったことになる。長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100〜200人程度いて、教会は200か所あった。長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあった。

 このキリスト教の広がりは、じつは大きな利権が絡んでいた。天下人や戦国武将たちにとって、ポルトガルやスペインとの交易は、大きな旨みをもたらしていた。が、それには必ずキリスト教の布教が付随していたのである。 15世紀から16世紀にかけ、ポルトガルとスペインは、世界各地への航路を開拓し、手広く貿易をおこなったが、この貿易には、キリスト教の布教がセットになっていた。

 なぜキリスト教が世界を席巻したか?

 ローマ教皇は、ポルトガルとスペインに対し、キリスト教を布教することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた。この命により、両国は世界中に植民地を持つ代償として、各地に宣教師を派遣し、教会を建設する義務を負ったのである。ポルトガルとスペインの交易船には、宣教師も乗っており、新しく交易を始める土地では、必ず布教の許可を求めた。布教を許可した土地のみと、交易を開始したのである。彼らが日本に来たときも、取引をおこなう条件として、キリスト教の布教許可を求めた。諸大名たちは、南蛮船と交易をするために、キリスト教の布教を認めた。そのため、戦国時代にキリスト教が爆発的に広がるのである。当時の南蛮貿易は、西洋の珍しい文物を運んでくるだけのものではなかった。というのも、日本に来る南蛮船のほとんどは、マカオや中国の港で積んだ物資を持ってきていたからだ。すでに鉄砲の製造は日本でもおこなわれていたが、鉄砲の弾丸に使われる鉛や、弾薬の原料となる硝石などは、当時の日本では生産できず、海外からの輸入に頼るしかなかった。南蛮貿易を介さなければ、鉄砲の弾薬や火薬の原料などは手に入らなかったのだ。つまり、南蛮貿易の隆盛やキリスト教の普及というのは、諸大名の軍需物資輸入がいかに大きかったかを裏づけるものでもあったのだ。

 家康は、天下人になって以降、諸大名の軍事力を削減させようとしてきた。築城や城の改築などは原則禁止で、特別な理由があるときだけ幕府が許可した。また、慶長14(1609)年には、500石積以上の大船建造が禁止され、諸藩が所有している大船は没収された。このように、諸藩の軍事力を削減させようとしているなか、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は害が大きかった。

 しかも、ポルトガルやスペインは、軍事的にも不穏な動きがあった。長崎はイエズス会の領地のようになってしまっていた。またキリスト教徒たちが、日本各地の寺社を破壊することもたびたび起こっていたのである。スペインにいたっては、日本への武力侵攻を検討したこともあった。当時の日本は戦国時代で、大名たちの戦力が充実していたために、侵攻を断念しただけだったのだ。もし、日本が戦国時代ではなかったら、ほかの東南アジア諸国のように、ポルトガルやスペインから侵攻されていた可能性もあるのだ。それらのことを総合的に判断し、キリスト教全面禁止に踏み切ったものと考えられる。

 家康はなぜ「オランダびいき」なのか?

 家康が、キリスト教を完全に禁じたのは「キリスト教の危険性」のほかに、もう1つ大きな理由があった。幕府が独占的にオランダと交易するためである。

 家康は、オランダと奇妙な縁があった。家康がまだ征夷大将軍になる前の慶長5(1600)年4月、大分の臼杵(うすき)にオランダ船のリーフデ号が漂着した。臼杵藩の藩主・太田一吉は、乗組員を保護し、長崎奉行に報告した。リーフデ号は大坂に回航されることになった。「関ヶ原の戦い」の少し前であり、まだ豊臣政権だったときのことである。この時期、豊臣政権の番頭格だった石田三成は、失脚して領国に戻っており、事実上、家康が政務を取り仕切っていた。そのため、家康が、リーフデ号の検査、尋問などをすることになった。日本にいたスペインのイエズス会の宣教師たちは、リーフデ号のことを聞きつけ、家康に処刑するように注進した。イエズス会は、カトリック・キリスト教の修道会であり、当時はプロテスタント・キリスト教と激しく対立していた。

 リーフデ号の母国オランダは、プロテスタントの国である。だから、日本在住のイエズス会としては、プロテスタントの勢力が日本に及ぶことを非常に恐れていたのだ。しかし、家康は、イエズス会の宣教師たちの注進は聞き入れず、リーフデ号を浦賀に回航し、乗組員を江戸に招いた。

 家康は、リーフデ号の乗組員から海外情報などを仕入れ、一部の乗組員は家臣として取り立てた。幕府の要人となったオランダ人のヤン・ヨーステンや、三浦按針の日本名で知られるイギリス人のウィリアム・アダムスは、このリーフデ号の乗組員だった。このヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスから、家康は当時の西洋の国情や宗教事情などを詳しく聞いたようである。

 当時のキリスト教世界では、ルターの宗教改革から生まれたプロテスタントが、急激に勢力を拡大している時期だった。プロテスタントは、免罪符に象徴されるような教会の権威主義、金権主義を批判し、純粋な信仰に戻ろうという宗派である。そのため、旧来の教会であるカトリックと、新興宗派であるプロテスタントは、激しく対立していたのである。

 ポルトガルやスペインは、カトリックの国だった。彼らが、大航海をして世界中に侵攻していたのも、じつはカトリックとプロテスタントの対立が影響していたのである。プロテスタントに押されていたカトリックは、少しでも多くの信者を獲得するために、積極的に世界布教に乗り出したのだ。戦国時代に日本にやってきたポルトガル、スペインの宣教師たちは、皆この流れに沿ったものなのである。

 オランダとの貿易をやめなかった理由

 が、一方、オランダはプロテスタントの国だった。オランダは、新興海洋国でもあり、ポルトガルやスペインに続いて、世界中に進出し、貿易や侵攻をおこなっていた。オランダも、キリスト教の布教もおこなっていたが、それはメインの目的ではなく、金儲けが最大の目的だった。日本に対しても、キリスト教の布教を強く求めることはなく、貿易だけを求めてきた。つまり、オランダは、キリスト教の布教をしなくても貿易をしてくれるというわけである。

 家康はこの事情を知り、オランダとだけ貿易をすることにしたのだ。しかも、幕府が独占的にオランダと交易をおこなえば、貿易における旨みを幕府だけが享受することができる。そのため、江戸時代を通じて、オランダが唯一の西洋文明の窓口となった。オランダからの文物を学ぶ「蘭学」は、日本の最先端の学問となったのである。


 政治顧問としての天海。金地院崇伝(京都南禅寺の僧)


【東インド会社考】
 「」。
 1600年、貿易会社「東インド会社」設立。1602年、オランダにも東インド会社設立。
http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm

 18世紀中頃、イギリス国王から貿易独占権を与えられていたイギリス東インド会社は、インド東部においてムガール帝国から徴税権や行政権を獲得し、インド東部を実質的に支配し始め、19世紀中頃になると、インド領土のほぼ全部がイギリス東インド会社の支配下になった。キリスト教の宣教師たちが、実は江戸時代に日本人を奴隷として売買する手引者であった。その肉体の奴隷制度そのものに対する批判は、自由主義革命の思想として、行われたとあります。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/30-syokumin3.html

 17〜19世紀(18世紀がピーク)にかけてアフリカから新大陸に運ばれた黒人奴隷の数は1000万人前後と推定されている。彼らは暴動を防ぐために船底に鎖につながれて、身動きできないほどのすし詰め状態で運ばれた。途中で約3分の1が船中で死亡したといわれ、その数を加えると1000万人以上の黒人奴隷がアフリカから輸出されたと推定されている。{黒人奴隷の多くはアフリカ西海岸、特にギニア湾岸の地域(現在のナイジェリア・ベナン・トーゴ共和国の辺りは奴隷海岸と呼ばれた)の地域から連れ去られた。当時この地域では部族間の抗争が続いていたので、ヨーロッパ諸国の商人は武器を輸出し、部族同士を戦わせ、その戦争捕虜を奴隷とした。そのため部族間の抗争に敗れれば奴隷とされるので、抗争に勝つためにより多くの武器を手に入れようとした。しかし、ヨーロッパの商人は奴隷との交換でないと武器を売らなかったので、奴隷狩りも盛んに行われた。こうして、ヨーロッパからアフリカへ武器・雑貨を輸出して黒人奴隷と交換し、アフリカの黒人奴隷を西インド諸島に運んで砂糖と交換するヨーロッパ・アフリカ・新大陸間の三角貿易が盛んとなり、イギリスなどのヨーロッパ列強はこれによって莫大な利益を得た。

 {労働力としての黒人奴隷の対象になったのは若い男女の黒人であったので、黒人奴隷を連れ去られたアフリカ西海岸を中心とする地域では、人口が減少し、貴重な労働力を失って社会の発展は阻害され、次第に後進地域に陥っていった。この非人道的な黒人奴隷貿易は19世紀の初めまで続いた。黒人奴隷貿易に対する反対運動はフランス革命の中から起こり、イギリスでは1807年にまず奴隷貿易が禁止され、1833年には植民地での奴隷制が廃止された。

【人吉城跡敷地内地下室のユダヤ教施設「ミクヴェ」遺構】
 1997年から98年にかけて、熊本県人吉市の人吉城跡敷地内に、江戸時代の築造とされる「謎の地下室」が発見された。その構造や伝承などから、郷土史家の間では「隠れキリシタンの遺構」との説が出ている。人吉市教育委員会は「証拠がない」と慎重な姿勢をとり続けている。

 地下室は、人吉・球磨地域を約700年にわたって治めた相良(さがら)家の家老職、相良清兵衛(せいべえ、1568~1655)の屋敷跡で、見つかった。南北8・5メートル、東西9メートル、高さ3メートル以上の大規模なもので、石積みの壁に囲まれていた。国指定史跡の人吉城跡を整備するため85年度に始まった発掘調査がきっかけだった。2001年度には、そこから約120メートル離れた清兵衛の息子の屋敷跡で、似た構造の地下室が発見された。どちらも床へと続く階段状の通路があり、床には地下水をためる長方形の貯水池が掘り下げられていた。貯水池には底まで下りられる水中階段があった。似たような地下室遺構は国内でほかに見つかっていないといい、人吉市は、清兵衛の屋敷跡で05年に開館した人吉城歴史館に地下室を復元し展示。息子の屋敷跡の地下室も、見つかった場所で展示している。これらの地下室について、人吉市文化財保護委員長を務めた郷土史家の原田正史さん(91)=岡山県倉敷市=が6年前、自費出版した「驚愕(きょうがく)の九州相良隠れキリシタン」(人吉中央出版社)で、キリスト教の洗礼などに使われた秘密の礼拝施設だった可能性に言及した。今年2月には人吉・球磨地域で発行されている月刊誌で、キリスト教と関係の深いユダヤ教徒が身を清める施設「ミクヴェ」の遺構によく似ていることを初めて指摘し、強調した。
 2022年9月20日、(本紙関西研究室研究員・波勢邦生)「人吉城跡敷地内の地下室はユダヤ教関連か?」。
 ユダヤ思想・文献学者の手島勲矢氏(京都大学非常勤講師)は「ミクヴェ」認定には構造が必要だと語る。
 「ミクヴェには決まった構造があります。一般的な浴槽や水浴び場では駄目です。たとえばイスラエルで発見された遺構がミクヴェとして認定されるためには、いくつか条件があります。まず必ず、自然水の流れ込みでなくてはなりません。次に、その自然水を引く溜池があります。さらに、その溜池から沐浴用プールに水が注ぐようになっています。この構造が室内で確認されると、ミクヴェとして認定されます。いわゆる生活用水の溜池と、聖性のためのミクヴェは構造において区別されているんです。もちろん幾通りかの作り方があります。歴史的な可能性として、キリシタンの洗礼プールだという意見にはロマンを感じますが、ユダヤ教ミクヴェであるためには、これらの構造が確認されなくてはなりません。イスラエルから考古学者を招けば、より確実な検証ができるかもしれません。死海文書の発見地クムラン洞窟のミクヴェにも同様の構造が確認されています」。

 また旧約聖書の研究者、山森みか氏(テルアビブ大学東アジア学科日本語主任)は、「ミクヴェ」の宗教的意味と機能について指摘する。
 「沐浴といえば、風呂のように思うかもしれません。しかしミクヴェは祭儀的清めに必要な場所です。主として女性が月経、出産後に夫との性関係に戻る前、あるいは結婚前に全身で水に浸かり、清める目的で使う場所です。または異教徒がユダヤ人に改宗した際に、または異教徒より購入した食器の清めのために、ミクヴェは使用されました。つまり、ミクヴェには、ユダヤ教にとって明確な意味と機能がありました。したがってユダヤ人の家族共同体の存在が前提されていなくてはなりません。類似だけでは何とも言えませんし、ユダヤ人にロマンを見出す心性は問題があると言わざるを得ません。しかし、もし人吉城下にもユダヤ人共同体があったなら、それは興味深い話ですね」。

 人々の耳目を集める熊本の遺構「謎の地下室」は、人吉城歴史館にて見学できる。観光サイトには、スペイン・ジローナ県のユダヤ教博物館展示の中世ユダヤ教ミクヴェと酷似との書き込みも確認できる。またインターネット上では、青森県新郷村の観光資源「キリストの墓」や都市伝説「日ユ同祖論」と重ねて語る向きも見られた。日ユ同祖論とは、イスラエルの失われた十支族に日本人の起源があるという珍説だ。同説は、16世紀のペドロ・ホレモン著『日本中国見聞録』にて「そんなことは断じてあり得ない」と言及されており、古くから人々の興味とロマンを刺激したことで知られる。現在でも「カタカナとヘブライ語が酷似しているから、日本人とユダヤ人は同一起源だ」という奇抜な意見がネット上で散見される。また青森県の「キリストの墓」は戦前に偽書「竹内文書」を元にして造られたもので、後に観光資源となった。関連書籍によれば、キリストの妻の名は「ユミ子」だという。

 なお、人吉・球磨地方は歴史的には仏教文化圏として知られている。また肥後人吉藩主・相良氏はキリシタン大名ではない。同地方は、むしろ浄土真宗と日蓮宗への禁制と「隠れ念仏」のあった土地として知られる。はたして人吉城跡「謎の地下室」は、ユダヤ教ミクヴェなのか。または単なる貯水槽なのか。
 2023.1.21日付け朝日新聞デジタル、村上伸一「謎の地下室遺構をユダヤ教ラビが視察」。
 日本に滞在するユダヤ教のラビ(宗教指導者)のメンディ・スダケヴィッチさん(48)が昨年末、ユダヤ教の身を清める沐浴(もくよく)施設「ミクヴェ」ではないかとの見方がある人吉城跡(熊本県人吉市)敷地内の地下室遺構を視察した。ラビの訪問は初めてで、同市が水害からの修復を待つため閉鎖している遺構の施設を特別公開した。スダケヴィッチさんが現地を訪れたのは昨年12月28日。地下室遺構に関する朝日新聞デジタルの記事を読んで「自分の目で確かめたかった」という。「わき水など自然の流水を使っており、石造りで、ミクヴェの要件を備えている」とした上で、「決定づけるには、実際に何というユダヤ人が住んでいたのか、ほかにも証拠を見つける必要がある」と語った。また、「日本でこれほどユダヤと関係のあるものを初めて見た。正式に公開されれば、多くのユダヤ人観光客を連れて来たい」と話した。スダケヴィッチさんによると、歴史上「離散の民」といわれるユダヤ人は、どこへ行っても「まずミクヴェを造ることが一番大事だった。それから周辺にシナゴーグ(ユダヤ教会)や墓地などができていくことがある」。ただ、15世紀以降にポルトガルスペインキリスト教に強制改宗された「改宗ユダヤ人」(コンベルソ)は、「ミクヴェだけを造っておしまいにすることがある」という。スダケヴィッチさんは戒律を厳格に守るユダヤ教超正統派で、豊かなあごひげをはやして黒の上着、コート、帽子を身につけている。1997年に来日してから、東京などでユダヤ人が戒律を守って心の安息を保てるように支援する「ハバッド・ジャパン・センター」を運営している。




(私論.私見)


釜蓋城周辺における動きの詳細