キリシタン大名考

 更新日/2018(平成30).12.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 キリシタン大名問題は勝れて現代的問題であるように思われる。今日かっての大名は存在しないが、これを現代的になぞらえればさしづめ国会議員、上場会社の社長、研究機関の学長ということになろうか。これらの連中の為している様が、当時のキリシタン大名の為している様と変らない。違っているのは、キリシタン大名は封殺されたが、今日のシオニスタンはますます隆盛し国家権力中枢を握っていることである。俗に、これを国家簒奪、権力乗っ取りと云う。

 それはともかく、織田信長が憤死させられた本能寺の変の黒幕にバテレンの動きがあったという仮説は有効だろうか。れんだいこは然りと考える。しかしながらこれを証する資料が無さ過ぎるのでこれ以上のコメントはできない。いずれにせよ、歴史の真相はなかなか表には現われないとしたもんだ。「日本の宣教に貢献したキリシタン大名」、「
ウィキペディア日本のキリシタン一覧」その他を参照する。

 2006.2.3日 れんだいこ拝


キリシタン大名
 キリシタン大名(吉利支丹大名)とは、当時来日したキリスト教宣教師の伝道によりキリスト教を信仰するに至った大名のことを云う。聖フランシスコ・ザビエルは布教に当り、任地の大名に謁見して宣教の許可を願った。薩摩、平戸、山口と豊後ではそのようにした。その際、布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。その4人の大名の中で、大友義鎮だけが信者になった。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行った。宣教師達は、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器の援助などを提示した者もおり、大名側も宣教師を通じての利益を得ようとして、入信した者もいた。入信した大名の領地では、イエズス会の布教方針に則り領民が改宗し始め、爆発的にキリスト教が広がることになった。キリスト教が広まるにつれて、キリスト教の教義や、キリシタン大名の人徳や活躍ぶりに感化され、自ら求めて入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。

 洗礼を受けた大名は30名をこえていた。これは信憑(しんぴょう)性のある記録により判明している。主なキリシタン大名は次の通り。大村純忠(1563年洗礼)、高山右近父子(高山ダリオ飛騨守とその息子ユスト高山右近)(1564年洗礼)、大友宗麟(1578年洗礼)、有馬晴信(1580年洗礼)の九州大名。続いて、小西行長、黒田孝高(如水)父子(1585年洗礼)、蒲生氏郷、三箇伯耆守信長の孫岐阜中納言織田秀信等々。これらの大名は、程度の差はあれ熱心に宣教に協力した系譜である。他にも、宣教を迫害をしないで陰から支援した大名もいた。蜂須賀家政、豊後の佐伯の毛利高政、京極高知らがそうであった。キリシタン大名から迫害者になった大名も居る。黒田長政、有馬直純、寺沢広高がその道をとった。

 他に、大名夫人の系譜もある。細川忠興夫人ガラシャ、大村純忠の娘大村メンシア(1564ー1634)、浅井久政の娘、長政の姉マリア京極(1542ー1618.2.28)らである。マリア京極は、京極高吉の妻である。1581年、イエズス会安土住院で、高吉とともにオルガンティノから受洗。次女龍子(豊臣秀吉の側室)をのぞく子どもたちにも受洗させ、大坂の布教に助力した。その後、長男・高次の領国若狭に退き、若狭や丹後の田辺(次男・高知の領国)で布教したといわれる。晩年は、若狭の泉源寺で暮らし、ここで亡くなった。

 他方、毛利輝元、加藤清正などは最初から敵対を示していた。

 豊臣秀吉の伴天連追放令以降、キリシタン大名には政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易され、もしくは棄教した。江戸時代にはいり1613(慶長18)年には禁教令も出されたため、最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラの呂宋(ルソン)に追放され、有馬晴信は殉死し、以後キリシタン大名は絶滅した。

 ここまでは通説書でも確認できる。以下、れんだいこ説を開陳する。上述のキリシタン代表は全て傍流のそれでしかない。即ち何の端の知識を授けられていることになる。キリシタン大名の本流は京都の政権抗争に関わった人物である。これには松永久秀、荒木村重、明智光秀、これに加えて織田信長、豊臣秀吉が加わる。織田信長と豊臣秀吉は途中から反バテレン、反キリシタンに転じている。これに比して松永久秀、荒木村重、明智光秀、これに加えて高山右近が捨て駒にされている。各自の履歴は「歴史学院」の「戦国期の研究」の「戦国大名考」のそれぞれのサイトで確認しておく。


【大友宗麟】(1530.1.30−1587.6.11)
 中世・豊の国は大友氏が豊後に入国し,蒙古合戦には大友氏ら二豊武士団が活躍した。南北朝の争乱に大友軍は京都周辺まで出陣。戦国時代は大友氏は山口の大内氏と争い、そしてキリシタン大名宗麟(ソウリン)の時全盛になる。

 1530年、誕生。幼名、塩法師丸、後に新太郎、義鎮。入道して宗麟、休庵などと名乗る。1550年、父の後を継ぎ豊後(現在の大分県)の大友氏 21代当主として領主となる。大友氏は、戦国大名として豊後 を中心として九州6国を支配する戦国大名。1551年、フランシスコ・ザビエルの来訪を受け会見、彼の人格と確固たる信念、宣教への強い使命感にひかれキリスト教への関心を抱き、以後それを手厚く保護する。

 1554年、肥後の菊池氏を滅ぼす。61年、毛利氏と門司城合戦。1569年、肥前で龍造寺氏と戦い、博多にて毛利氏と再び戦う。義鎮は、イエズス会宣教師達との密接な共存を続けていたが、その間に義鎮は禅宗に帰依し、入道して宗麟と名乗り、諏訪の丘に寿林寺を創設、開山として京都大徳寺の怡雲を招いている。事故で弟が怪我をした時、優れた西洋医術を目にし直ちにそれを導入した。1557年、府内でポルトガル人医師に外科手術を行わせた。これが日本における最初の西洋外科手術となり、さらに総合病院も作らせた。

 1576年、既に48歳となっていた宗麟は自らの領土を息子の禅宗に譲り、ポルトガル人を忌み嫌っていた妻と離別。新しく洗礼を受けさせた次男、親家の妻の母にあたる女性と再婚している。ちなみに、宗麟の息子・娘は全て離婚した妻との間に生まれている。

 1578(天正6).8.28日、宗麟をキリスト教信仰へ導きたいと常に願っていたイエズス会の日本布教長・フランシスコ・ガブラルは、当時48歳の宗麟に洗礼を施した。洗礼名はドン.フランシスコ。
 概要 「自らの望みは満たされたが、時間と場所の不足により(洗礼は)臼杵の教会の中にある小さな礼拝堂で執り行うことで一致した。(中略)既に聞かされていたことは簡約し、ゆったりと説教が施された後に大きな喜びと慎みを持って洗礼を受けた。そして神父は以前から頼んでいたように宗麟にフランシスコの名を与えた」。

 豊後領主大友宗麟(ドン・フランシスコ)の他、大友宗麟の長男・大友義統(コンスタンチノ)、大友宗麟の次男・大友親家(セバスチャン)、大友宗麟の三男・大友親盛(パンタレアン)が洗礼を受けている。

 こうして、領内でのキリスト教の保護育成に努め、キリシタン戦国大名として歴史に名を残した。南蛮貿易を盛んにして、豊後の府内を国際交易の拠点とし南蛮文化も取り入れた。1578年、薩摩の島津氏との日向の高城,、耳川の合戦で敗れて衰退する。日向に理想のキリスト教王国を建設しょうとしたが、高城、耳川の合戦に大敗して幻となった。1581(天正9).11月、養子に出した子息の田原親家を大将に宇佐神宮に兵を送り7000人余の兵をもってこれを包囲し焼き討ちにした。宇佐神宮は豊前の国にあり山口の大内氏の領土であった時代も長くて、又宇佐神宮の宮司の宮成、益永、時枝氏らが毛利方の秋月氏に通じて大友から離反した。こういう政治的事情もあったが、宗麟は神社、仏閣にかなりの不遜な行為をしているので、キリシタンが故のイデオロギーに染まった宗教戦争であったと考えられる。

 1582.4月、キリシタン大名としてロ-マに伊東マンションら少年使節を送る。86年、秀吉に島津侵入の救援を大阪城で依頼して、九州征伐のきっかけを作る。
 
 大友家は朝鮮征伐の時の失態で文祿2年、秀吉から除国とされ、豊の国は小藩分立の時代となる。大友氏は千石の旗本高家、鎌倉以来の名門として幕末まで続く。

【大村純忠】(1533ー1587)
 戦国時代の武将。長崎大村藩主のキリシタン大名。1533(天文2)年、島原の城主有馬晴信(純)の二男として肥前国有馬に生まれた。母は大村純伊の娘。純忠の実兄に有馬義貞がおり、その義貞の子供にあたるのが西肥前のもう一人の使節の派遣者有馬晴信である。したがって、大村純忠と有馬晴信は、伯父・甥の関係であった。晴信は永禄10年(1567)の生まれであるから、両者には34歳の年齢のへだたりがあった。幼名は勝童丸。丹後守,民部大輔。剃髪して理仙と称し,受洗名はバルトロメオ。文書には波留登路銘と署名。

 1538(天文7)年、6歳の時、肥前の有力豪族であった大村純前の養嗣子となり、1550年、家督をつぐ。肥前国の西部を支配していた21万石という肥前最大の有力者有馬家は、勢力拡大の為に次男純忠を大村家に養子へ送ったことになる。大村家と有馬家の間には姻戚関係が成立した。純忠が養子に入った大村家には庶子嫡男として貴明がいたが、有馬家を気にした大村家は貴明を後藤家へ養子に出してしまい、この事を恨んだ貴明と純忠は長い戦いを繰り広げることになる。

 有馬家の後ろ盾があったが、有馬家は積極的な動きをせず、2万石しかない大村純忠は自力で迫りくる敵と苦しい戦いを続けることになった。当時の大村領は攻撃的な佐賀の龍造寺隆信などによる周囲の圧迫もあり、打開策を模索していた。大村家は純忠の母親の実家だが、嫡男貴明を追い払い純忠が養子に入った事を嫌った一族や重臣の多くが後藤貴明の元へ去り、大村家へ攻め寄せる状況に、自分が養子に来た事が原因の戦いに悩み続けていた純忠は、そうした時にキリスト教に出会う。キリスト教の宣教師の話を聞くうち、不思議と惹かれるものを感じると共に、家臣や領民すべてをキリスト教徒にする事で一体化をし、今後迫り来る敵に備える事を思いつく。キリスト教に改宗した大村家に対し、後藤・西郷・諫早の三氏は連合を組み、仏教を棄てた事を理由に攻めてくるが、純忠を始めとする家臣達の懸命の働きにより撃退に成功する。

 1561年、松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル人殺傷事件が起こった。ポルトガル人は新しい港を探し始め、修道士アルメイダが大村藩との交渉を始めた。純忠は、自領にある横瀬浦(長崎県西海市)の提供を申し出た。1562年、布教を認めるだけなく、教会を建てること、港の半分をイエズス会に譲ることなど破格の条件で横瀬浦の開港を約束した。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠はあわせてイエズス会員に対して住居の提供など便宜をはかった。1562年、横瀬浦(西海町)を南蛮貿易港として開港。結果として横瀬浦はにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功した。

 1563(永禄6).6月、宣教師からキリスト教について学んだ第18代領主大村純忠は、横瀬浦で25名の家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から受洗した。日本最初のキリシタン大名)となった。教名をドン・バルトロメオと名乗り、日本最初のキリシタン大名となった。大村純忠の子・大村喜前(サンチョ)も洗礼を受けている。この25人のなかに、後に長崎の領主となる長崎甚左衛門もいた。領民の殆どがキリシタンになり、信徒6万、教会70を数えた日本の小ローマと呼ばれ、キリシタン王国と云われるほどであった。キリシタンを保護して南蛮貿易にも積極的に従事している。純忠の入信についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が根強いが、記録によれば彼自身は熱心な信徒で、受洗後は妻以外の女性と関係をもたず、死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していたことも事実である。

 大村純忠とポルトガルとの交渉は、その実家である有馬氏にも強い影響を与えていった。横瀬浦港が武雄の後藤貴明の攻撃によって廃港になると、それにかわる長崎外港の福田浦を65年、天草の志岐とともに、有馬義貞によって島原半島の南端口ノ津にも南蛮貿易が誘致された。同時に宣教師アルメイダを口ノ津にまねき、教会となるべき寺を与えて布教を許した。 時に永禄6年のことである。

 純忠は頃合を計って大村に戻り三城城を築く。1568年、城の側に大村市で最初の教会を造った。 

 1570(元亀元)年、純忠夫人、長男・喜前(よしあき)(洗礼名ドン・サンチョ)、長女・自証院(じしょういん)(洗礼名ドンナ・マリイナ)が大村で洗礼を受けている。

 1570(元亀元)年、純忠はポルトガル人のために港を提供した。同地は良港として以後、大発展していく。当時100戸余りの寒村にすぎなかったこの港こそが、後の長崎である。1574年、諫早殿と他の敵の攻めのとき有名な「三城の七騎士」の戦いの後、全領土で積極的に宣教の手助けをした。その活動では後に準管区長になった。この時、ガスパル・コエリョ神父と図り、長崎開港と、少年使節の派遣を決めたと云われている。

 1571(元亀2)年、龍造寺隆信の圧迫に耐えたが、息子たちを敵の手に人質として渡し、坂口に引退させられた。1578年、長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されると純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退した。

 1572(元亀3)年、大村純忠は、深堀純賢と図った西郷純堯からの攻撃を受けた。このとき、深堀純賢は長崎港を攻撃した。この攻撃で、深堀氏は長崎港の異人館や村、教会を焼きはらった。純忠は反撃し、西郷軍は兵を引き上げた。純堯は熱心な仏教徒で、大村純忠のキリシタン政策に反感を持っていたのが真相のようである。

 1573(天正元)年、純堯は純忠の実兄にあたる有馬義貞を手中に抑えていて、義貞に命じて純忠を誘殺しようと企んでいる。純堯は、純忠のキリスト入信を咎め、キリシタンであることを止めれば純堯と敵対することもなくなると忠告した。これに対して純堯は、自分がキリシタンであることには異義を唱えないでいただきたい。自分は領国・家・家臣および生命を失っても棄教はしない、と返答している。

 7月、後藤貴明も三城に攻め寄せている。貴明の要請を受けた平戸の松浦鎮信、諌早の西郷純暁も援兵を出し、三氏連合して1500の軍勢であった。大村方は、手勢僅かで籠城した。弓、鉄砲で威嚇するひとで窮地を脱した。この合戦が、大村家で「三城七騎籠」と伝えられている。

 その後も深堀・諌早西郷氏による大村・長崎港攻撃は断続的に行われ、その都度、大村氏は援軍を純景に送り攻撃を退けた。1580(天正8)年の戦いでは、大村勢が150名で長崎氏方に来援して西郷勢を打ち破っている。

 1574(天正2元)年、大改宗運動を展開して、領内すべての偶像崇拝の礼拝施設・神社仏閣を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。全領民6万人をキリシタン化していった。入信しないものは領外へ出ていくことを強要するほど徹底したものだった。純忠のキリシタン信仰は、この天正2年を契機として一気に高まった。それまでは、改宗後も伊勢神宮の神符をうけていたり、真言僧との交渉を保っていた。改宗後約10年を経て、イデオロギー的に純化させたものと思われる。「領民をキリシタンにすることと鉄砲との交換条件で領民何人で 鉄砲1丁との交換だった」とも伝えられている。

 しかし、この行過ぎたやり方は家臣や領民の反発を招くことになる。前君の庶子後藤貴明が反乱を起こして横瀬浦を焼き払うという事件を引き起こしている。純忠は多良岳に逃れ、そこで出家して理専と言う名前を取得した。この事情を解くのは難しいが、純忠のキリシタン信仰を棄てさせようとする外圧が係り、仏教的出家を余儀なくされたのではないかと思われる。しかし、純忠は引き続き宣教師たちと連絡をとりあい、むしろ次第に攻勢に出始める。

 1579(天正7)年、巡察使ヴァリニアーノの口ノ津来訪を機に、有馬義貞の子晴信も夫人とともに改宗した。教名をドン・プロタジオといい、時に13歳であった。

 1580(天正8)年、大村氏に属した長崎氏は西郷・深堀勢の攻撃をよく撃退したが、純忠は長崎港周辺をイエズス会の耶蘇会領として寄進した(後に秀吉によってイエズス会から取り上げられ、直轄領となる)。この頃、巡察のため日本を訪問したイエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、遣欧少年使節の派遣を決めている。 大村にはそれぞれ洗礼名を持つ四人の息子、喜前(サンチョ)、純宣(リノ)、純直(セバスチャン)、純栄(ルイス)がいたが、龍造寺隆信の圧迫により、人質に出さざるを得なかった。(後に純忠の後を継いだのは大村喜前であった) 彼の名代として甥にあたる千々石ミゲルが人選された。この年、長崎港、新町6か町、茂木をイエズス会に寄進することによって長崎港をキリスト教会領とする方策を取った。

 1581(天正9).8月、純忠は、龍造寺隆信に降った。嫡子喜前を人質として佐賀に拘束された。

 1582(天正10)年、巡察使ヴァリニャーニのすすめもあって、有馬晴信、大友宗麟と図りローマ法王庁に向けて遣欧使節を派遣している。

 1583(天正11)年、次男の純宜・三男純直の二人に息子も人質として送るように要求される。三人の息子を人質にとった隆信はさらに純忠に、主だった親戚の者たちも渡すように要求してきた。この者たちはみな純忠が頼みとする者たちであった。しかし、純忠は、やむなく彼等を隆信に引き渡した。すると、隆信は、別の使者をよこして、純忠に三城を出て波佐見の地にある小さく不便な場所に蟄居するように命じてきた。ここに至り、隆信から逃れ得ないことを悟った純忠は城から出て、波佐見に向かった。このとき、家臣を伴うことは許されなかった。この隆信の仕打ちは、あまりにも屈辱的でみじめであったため、純忠は退去に際して人目につくところを避けて、遠回りをしたという。

 隆信は純忠を三城から追放したのち、人質の喜前を三城に入れた。そして、自分の家来たちを伴わせて喜前を操り、キリシタン宗団の絶滅を狙った。大村に入ってきた隆信の家来たちは、キリシタンを殺害し、家財や妻子を奪うなど狼藉の限りを尽くした。こうして、大村氏を屈服させた龍造寺隆信は、同じキリシタン大名である有馬晴信に重圧をかえるようになる。晴信は先年、隆信の嫡子政家のもとへ政略として妹を嫁がせ、両家の和に心を砕いていた。しかし、領国内では隆信の残虐な仕打ちで離反する領主が増え、晴信もまた人望のない隆信を離れて島津義久の幕下となった。

 1584(天正12).3月、隆信は、島津氏に寝返った有馬晴信を討つため、3万の大軍を率いて島原に渡り、晴信の本拠日之江城に向かった。大村純忠も島原出兵を命じられた。純忠はやむなくこの命に応じ、嫡子喜前を出陣させ、喜前は三百余の大村勢を率いて有馬攻撃に加わった。この戦いは、純忠にとって同じキリシタン同士であり、しかも甥で、実家の当主でもある有馬晴信とその家臣を討つことであり、かれの苦悩は深かった。有馬攻撃に投入された大村勢は、みな有馬の勝利を祈り、隆信の部将たちから有馬軍への攻撃を命じられたときは、弾丸を抜き、空鉄砲を撃つことを申し合わせていたという。

 竜造寺隆信は、この一戦で一挙に有馬氏とキリスト教を壊滅させようとしていた。しかし、隆信の大軍は有馬・島津連合軍の巧みな作戦によって、沖田畷の戦いにおいて敗戦、隆信は戦死した。隆信の戦死で、龍造寺軍は敗走したが、大村勢は島津軍の危害も受けず、全員が武具、馬などとともに解放された。そして、純忠は隆信の死によってかろうじて大名の地位お回復し、三城に復帰した。

 1585(天正13)年、秀吉の九州征伐が始まった。純忠は秀吉に従い、所領を安堵された。純忠の死後、子嘉前(喜前)が家督を継ぎ、二万七千石が安堵され、近世大名として続いた。

 1587(天正15).5.18日、扁桃腺炎悪化により、隠居先の坂口館で祈りのうちに死去(享年55歳)。豊臣秀吉による第1回の禁教令・バテレン追放令発布の2か月前のことであった。没後、耶蘇会は聖堂内に葬り、のち改葬している。

 純忠の死の2ヶ月後、豊臣秀吉によりバテレン追放令が出される。南蛮貿易の流れで教会領となっていた長崎を秀吉が没収した。17年間最大の収入源の長崎が大村氏の手から離れていくことになった。

 純忠が亡くなって、 長男・喜前(よしあき)が第19代藩主として大村藩を引き継いだ。この年の5月、九州の雄藩島津義久が豊臣秀吉に降伏し、これ以来九州は秀吉の支配下に入った。秀吉は、突如として「バテレン追放令」を発し、 全ての宣教師たちに20日以内に日本から立ち退くよう要求し、同時に、当時イエズス会領となっていた長崎6町、茂木などを接収し、更に大村領内の教会を破壊したり、長崎のキリスト教徒には多額の罰金を課した。キリシタンの排斥が始まった。

 1606(慶長11).1月、大村藩主・大村喜前(おおむらよしあき)も藩を守っていくためにはやむを得ず、マリイナの夫・浅田(あさだ)純盛(すみもり)と共にキリスト教を棄(す)て、日蓮宗に改宗し、大村に本経寺(ほんきょうじ)を建立した。

 長崎開港と西洋医学の輸入

 長崎の新しい港町は、元亀元(1570)年に純忠とトルレスとの交渉により、ポルトガル船のための港として建設されることになった。当時の長崎の港は長崎純景の領内であり、農家の耕作が行なわれていた。長崎が大村の配下に立っている関係で、大村家の家臣・朝長対馬を長崎町割奉行として、「六町建て」という町割が行なわれた。「六町建て」とは、大村町を中心に、東側に島原町、西側に平戸町、南側に横瀬浦町、外浦町、文知町という6つのストリート制による町割りを行なうものであった。この6町に各地から迫害され追放された出身者が入り、新しい港町が完成した。これ以外にも、五島、天草、博多、豊後、山口からキリシタン信者が来住した。

 元亀2(1571)年に6町が成立したころの長崎の人口は、1,500人程度と見られる。長崎純景の鶴城は東北の高台(城の古祉)にあったため、これを中心に城下町を拡充する方法もあった。しかし純忠は、この方法をとらず、岬の突端に新たに都市を作った。それは明らかに、それがポルトガルとの貿易を展開する上で最適と考えたことからきたと思われる。海上から望見すると、この岬が後背地から長く海中に延び鶴のように見えたので、長崎港は鶴の港とも呼ばれた。

 長崎の宣教師は、最初、ウイレラがあたったが、後にイエズス会修道士アルメイダに代わった。アルメイダは、リスボン生まれのユダヤ系新教徒の家に生まれ、青年期に商業、薬学、医学、特に、外科学の研究を進めていた。領主・長崎純景は、自分の土地をウイレラに与えており、これがトーマス・サントス教会として日本における筆頭格の教会となった。その付属地には薬草園が建設され、新しい薬草の移植が始まり、当時の植民地医学が移入される最大の基地になった。

 修道士アルメイダの医学業績の一つであるヨーロッパ医学の伝播は、豊後府内から始まったが、アルメイダの影響により長崎に結実した。1583年、アルメイダが病没した年に、日本人キリシタン・ジュスティーノ夫妻がミセルコルディア(教会付属慈恵病院で、当時は慈悲屋という)を設立。さらに付属施設として養老院、癩病院、一般病院を含む7つの文院をもった施設を作り、その名声は東南アジアにまで知られ、海外から受診にくる患者まで現れた。

 天正15(1587)年6月13日(太陽暦・7月18日)、九州の島津征伐を終えた秀吉は、博多の宿で諸将の所領を安堵した。その博多の宿に、イエズス会宣教師コエリョが長崎から訪問していた。ところが秀吉は、突然、長崎,浦上地方の宣教師に対して、6月18,19日付けで20日間の期限付による退去命令を出した。驚いたコレリョは、秀吉周辺のキリシタン大名にたより、秀吉をなだめようとしたが効果なく、かろうじて20日の期限を、6ヶ月間に延期するにとどまった。

 キリスト教宣教師追放令がはかばかしく功を奏しないことに怒った秀吉は、近畿の教会堂22箇所を破壊し、浅野長政を長崎へ派遣して長崎をイエズス会から没収し、天正16(1588)年4月21日、鍋島直茂を代官として長崎を預ける処置を取った。ここからイエズス会領時代の長崎は変容を始めることになる。同年閏5月15日、秀吉は長崎の地子銀徴収を免じるが、翌年になると秀吉は小西隆佐を長崎へ派遣して、長崎港の白糸を買い占めてしまうなど、直接干渉に乗り出した。

 天正18年のワリアーノ一行の帰国時、ワリアーノは加津佐コレジオ、セミナリオを禁教令下では危険とし、コレジオを天草河内浦へ、セミナリオを八良尾へ移すことにし、加津佐印刷所、コレジオ、修道院も天草へ移った。文禄元(1592)年から長崎奉行所が本博多町に置かれ、御朱印船貿易も始まった。このあたりから長崎は、キリシタンだけの町から仏教徒派の貿易商人もいる町に変わりつつあった。


【有馬晴信】(1567ー1612.6.5、永禄10〜慶長17.5.6日 )

 肥前有馬のキリシタン大名。肥前国有馬日之江城主有馬義貞の次男。霊名アンドレ。鎮純・鎮貴・久貴・久賢・左衛門太夫・修理太夫とも称す。

 有馬家は龍造寺家と絶え間ない抗争を続けていた。龍造寺家は龍造寺隆信の時代に徐々に失った領地を取り戻し始め、有馬家は劣勢となる。その頃の1562年、有馬義直が領内のキリスト教布教を許可している。龍造寺家の攻勢はますます強まっていた。1576(天正4).12月、劣勢の中、有馬義直が死亡した。56歳。晴信10歳。晴信は兄義純の早世に伴い有馬家の家督を相続し、日野江城に住んだ。遺領を継ぐ。肥前国日野江藩初代藩主。

 1577(天正5)年、龍造寺隆信は更に支配を広げ、隆信の支配下に服してないのは、有馬領すなわち島原半島のみとなる。1578(天正6).3月、晴信は、人質を差し出し和睦した。 

 戦国時代に有馬晴純が現われて島原半島を根拠に肥前一帯に一大勢力を広げ、さらにポルトガルとの交易で最盛期を築き上げたが、その子の有馬義貞は、龍造寺隆信の圧迫を受けて衰退する。義貞の時代から、有馬の力は衰えていたが、龍造寺隆信からの脅威が増し謀叛を起こす家臣も出た。

 1580.3月、20歳の時、巡察師ヴァリニャーノから洗礼を受け、ヴァリニャーノの食料、武器、弾薬の援助によって危機を脱した。以降、ドンプロタジョと称しキリシタン大名として名をなした(洗礼名ジョアン)。肥前日野江(島原)領主・有馬義貞(アンドレ)、有馬義直の子・有馬晴信(プロタジオ)、有馬晴信の子・有馬直純(サンセズ) が洗礼を受けている。

 1580(天正8)年、有馬城下に日本初のセミナリヨ(小神学校)を設置し西洋の合理主義教育を創造する。10歳前後の少年がここでキリスト教の教義はもちろん、日本古典・ラテン語とローマ古典に声楽・合唱・楽器演奏,絵画や銅版画・時計や楽器・天文機器などを学習・習得した。千々石ミゲルは、ポルトガル船司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として受洗後、有馬セミナリヨ入学 。前年、ローマから来た巡察師バリニャーノは日本人の高い資質に驚いている。セミナリヨやコレジョ、ノビシャドは、いずれも島原地方に開かれ、いかにこの地が日本でのキリスト教布教の拠点として重要視されていたかがわかる。永禄年間(1558〜70)には口之津港を中心に南蛮貿易が行われた。次の有馬晴信も宣教師会議を開いたり、遣欧少年使節を大村純忠,大友宗麟らと共に送ったりとキリスト教を保護した。
 
 1582年、大友義鎮(よししけ)・大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣し、領下より千々石ミゲルを配遣した。

 1582(天正10)年、有馬軍の反撃が始まる。1583(天正11).11月、肥後で島津と龍造寺の和議が成立。1584(天正12)年、龍造寺軍2万5千名が島原半島に攻め込んで来た。この中には隆信が出陣を命じた大村純忠300名も入っていた。純忠はやむなく甥の晴信を攻撃する事になる。島津勢(家久)・有馬勢連合軍は、7千。3.24日、島原の沖田畷で、戦闘となり隆信が戦死(3.28日、薩摩の川上忠堅が介錯)で龍造寺勢は敗走する。これによって大村・有馬らの大名は龍造寺隆信の重圧から解放された。フロイスの日本史の中に、この戦闘の中で晴信、直員兄弟が鉄砲の弾に当たりながらも果敢に戦っている様子が描いてあり、支援していたことを窺うことができる。1588年、龍造寺政家が実権を鍋島直茂にゆずる。

 1584年、島津義久と通じて沖田畷の戦いで龍造寺氏を撃退し滅ぼした。龍造寺隆信が島原沖田畷で戦死した。この年、有馬晴信が浦上をイエズス会に寄進する。豊臣秀吉の九州平定で本領を安堵された。

 1587年に豊臣秀吉の禁教令が出されるまで、数万を超えるキリスト教徒を保護していたという。 1587年、豊臣秀吉によりキリシタン追放令が出されるが、イエズス会士を自領にかくまった。有馬領には全国から宣教師が集まり、キリスト教文化がさらに発展した。

 1588(天正16)年、秀吉が長崎などを直轄地とする。自領長崎の浦上をイエズス会の地行に寄進する。同年コレジヨ(大神学校)を長崎より自領の千々石へさらに有家へそして加津佐へと移設した。そこへ1590(天正18)年、天正遣欧少年使節が長崎に帰る。活字印刷機が付設され,翌年日本最初の活版印刷が行われ出版活動が始まる。

 1592(文禄元)年、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、宗義智らが朝鮮に出兵する(文禄の役)。1597(慶長2)年、長崎西坂で、26聖人が殉教する。

 
有馬晴信と徳川家康との関係は豊臣秀吉より更に強固なものであった。家康はバテレン追放令発布後のキリシタン取り締まりの中、1601年、晴信の懇願により有馬に教会を建てることをあえて許可している。

 当時の日本で最も贅を尽くしたと云われる「有馬の大天主堂 」をセミナリヨの敷地内に建設した。ヨーロッパ人の神父が与えた図面を基にした最新の天主堂であった。同時期には後に島原の乱の舞台となる「原城」の増強工事も行っていたが、晴信は原城建設を中止してまで天主堂建設を優先させた。

 これはフェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集「1599−1601年、日本諸国記」に次のように報告されている。

 「その善良な国主(有馬晴信)が行った第2のことは次のようなことである。邸宅(有馬晴信が再婚した際に造った新居郡。日野江の城下町に建てられ、晴信が1年間使用したが、イエ ズス会に引き渡した。これが有馬のセミナリヨとして転用されることになる。)が譲渡され、既に(イエズス)会の 学院(有馬のセミナリヨ)になっているとはいえ、この善良な国主の熱情と良き志はこれに留まることなく、司祭 らがそこに教会を有していないことを知るとただちに教会を建てることに決めた。その教会は日本の中では最も 風格を備え、贅を尽くしたものであり、国主の願いにより、巡察師が彼に与えた図面を基にしていたが、3つの 祭壇を持ち、そのぐるりに縁側がある長崎の教会を模していた。また、その敷地は彼の居城や邸宅に面するき わめて適切な場所であり、海側には広大な空地があった。彼の家臣や側近の多くは、今はかくも大きな教会を 建設する時ではないと考えていたが、その理由は内府様(徳川家康)が司祭の復権をいまだに許していないし、 彼がその件を知れば恐らく気分を害するからであり、かつまた国主は時を同じくして、城(南有馬町の原城)をも 増強しており、これに多数の大工を働かせているから、両者に着手することは不可能と思われたからであった。

 (中略)また、それ以外の動機 としては、既に邸宅を学院のためにイエズス会の司祭らに寄進したが、デウスへの奉仕のため、たいそう必要 でありながら彼らに欠けている教会を速やかに建てることを希望し、また内府様(徳川家康)については、自らがキリシタンであることを明かしているし、内府様には宗団に対する悪意のないことがわかってもいるから、彼 を恐れる必要がない(と見なしていた)。さらには、迫害以後、信仰を大いに公然と掲げ始めた最初の者であることを殊のほか喜んでおり、それゆえ、両者の作業を共に行うことが不可能ならば、城(原城)の要所の作業を取りやめて教会の建設を行うということにあった」。


 1601.12月、有馬の大天主堂が落成した。その後反キリシタン勢力からの告発により、徳川家康が有馬と大村のすべての教会を破壊することを命じた。このとき、有馬晴信と大村の両領主は家康に仲介人を立てて、懇願し、「領内に好むままの教会を持つことを許可する」との返答を引き出した。この時の家康の発言は次の通り。
 「内府様の布告(有馬、大村の教会を取り壊すという内容)の3,4日後、有馬(殿)と大村(殿)の擁護を引き受けたかの友人である領主たちは、内府様に執り成す好機を見出した。そしてこれらの領主たち(有馬、大村)がかくも日本の習慣に反することを敢えて行おうとし、また内府様がこの執り成しに耳を傾け、仲介者たちが彼の意見を変えさせ、命令したすべてのことを撤回させたのは、実に驚くべきことと見なされた。彼が下した決定によって(有馬)ドン・プロタジオと(大村)ドン・サンチョが感じた不快と遺憾の念を聞き知った途端に、内府様は彼らに対する憐憫の情に動かされて尋ねた。『彼らは教会取り壊しを、お前たちが言うように本当にそんなに悲しんでいるのか』と。そして、(領主たちが)『死そのもの同様に悲しんでる』と答えると、(内府様は)また尋ねた。『キリシタンとして暮らし領内に教会を持つことを予が許可したら、彼らは喜び満足するであろうか』と。彼らは答えた。『殿下が日本のどの領地を与えるのにも劣らぬほど、あるいはそれ以上である。したがって、この恩義によって彼らは殿下に対して行ったすべての奉仕がきわめてよく報いられたものと思うであろう』と。(内府様はこう言った。)『すぐに彼らに伝えるがよい。全家臣と共にその(キリシタンの)教えに従って自由に生き、領内に好むままの教会を持つことを予が許可する』と。この返事を携えて、それらの領主たちは折りよく退出すると、直ちにドン・プロタジオ(有馬)のもとに行った」(「1601年度日本年報」)。 

 1603年、徳川家康征夷大将軍となり江戸幕府を開く。御朱印船貿易では晴信に大名の中では第1号の朱印状を発行し海外交易の代理人とした。アジアに近い地の利とそれまでの海外貿易の実績を認めたものと考えられる。1604年、原之城の新城を完成した。さらに有馬晴信は嫡男「直純」を家康の側近に送り込むことに成功する。15歳で駿府城において家康の近習(きんじゅう)として身近に仕え、その後家康の曾孫の国姫と結婚することになる。結果として外様大名であったにもかかわらず有馬氏は、有馬から延岡(宮崎県)、丸岡(福井県)への移封を経て幕末まで栄えることとなる。1605(慶長10)年、松浦鎮信が朱印状を受ける。

 1608年、晴信の運命を暗転させる事件が起る。晴信がチャンパに派遣した朱印船がマカオに寄航した際、乗組員がポルトガル人と紛争を起こし、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。晴信は激怒し、徳川家康に仇討ちの許可を求めた。1609年、マカオにおけるポルトガル側の責任者アンドレ・ベッソアがマーデレ・デ・デウス号に乗って長崎に入港した来た。晴信は、多数の軍船でポルトガル船を包囲し船長を捕えようとした。ところが船長は船員を逃がして船を爆沈した。これを「デウス号事件」と云う。

 続いて、「岡本大八事件」が起る。「デウス号事件」の後、家康の股肱・本多正純の臣、岡本大八が晴信に近づき、デウス号撃沈の功を幕府に上申し、有馬氏の旧領、肥前三郡の返還を斡旋しようと申し出て、口利き料として晴信から多額の金品を収賄した。これが発覚するや家康は激怒した。大八は火あぶり刑、晴信も賄の罪をとわれて連座し、1612年、甲斐国に配流預けとなった。配流地は初鹿野村(現大和村)で、鳥居土佐守成次の監視の下にこの初鹿野村(現大和村)に蟄居幽閉を命ぜられた。現在もこの旧跡が残されている。

 1612(慶長17).5.6日、板倉周防守重宗及び鳥居土佐守成次は、検使役となり150人を従えて幕府の命を伝えて晴信に自刃を迫った。晴信はキリスト教徒であったため、自殺を選ばず、妻たちの見守る中で老臣梶左エ門に命じ首を切り落とさせた。霊名・ドン・ヨハネ、仏霊名・晴信院殿迷誉宗転大禅定門。 1616年、松倉重政が新しい領主になる。一国一城令により,原城は廃城となる。松倉氏のキリシタン弾圧ときびしい年貢取り立てに対し,寛永十四年(1637)10月25日に農民が起ち上がり,天草四郎時貞を中心に原城跡にたてこもり,島原の乱が起こる。原城には12月3日から翌年2月28日まで約37,000人がたてこもったが,最後は約12万人の幕府軍に倒された。

【結城忠正】(ー)
 山城守、松永久秀の家臣。1563年久秀の命でキリスト教の取調べを行うため日本人修道士ロレンソ了斎を尋問するが、ロレンソより話を聞くうちその教義に同感し、忠正自身が堺から来たビレラにより洗礼を受ける。洗礼名:エンリケ。畿内で最も早くキリシタンとなりキリスト教を保護した。彼の改宗によって畿内のキリスト教布教は大きく進展した。

【高山右近】(1552ー1615.2.5)
 「高山右近(キリシタン武将)考」(「歴史学院」所収)に記す。

【小西行長】(1558ー1600.11.6)
 堺の薬種商小西屋寿徳(小西隆佐)の次男として、堺に生まれる。摂津守。対馬国国主、宗義智は行長の娘婿にあたる。キリシタン大名。霊名は、アウグスチィノ(アウグスティヌス)。

 備前岡山の商人の養子となり、宇喜多直家に仕える。使者として秀吉とも交渉をもったといわれる。後に豊臣秀吉に仕え、1584(天正12)年、秀吉から小豆島、塩飽島を与えられ、秀吉の船奉行を務め水軍を率いる。岸和田に進出した紀伊根来・雑賀の一揆を海岸から攻撃し、翌年には雑賀の太田城を水軍をもって攻撃した。
 この年、高山右近に導かれキリシタンとなる。 小西行長の一家はザビエルに導かれた古いキリシタンの家系であり、小西行長の父・小西隆佐(ジョウチン)、小西隆佐の長男・小西如清(ベント)、小西隆佐の次男・小西行長(アウグスティノ)、小西隆佐の子にして小西行長の異母兄・小西主殿介、小西隆佐の三男・小西行景の小西一家総出でキリシタンになっている。行長も幼児洗礼を受けアグスチノと命名されていたが自覚的信仰はなかった。父隆佐は秀吉側近。母マダレイナは北政所に仕えていた。行長は右近邸でのロレンソの説教をきき、右近と交わりを持つに従い信仰が目覚めた。傲慢な男が謙遜、柔和な人になった。

 1586年には小豆島、塩飽諸島、室津などを領していた。小豆島ではセスペデス神父を招いてキリスト教の布教を行う。1587年の九州の役にも水軍を率いる他食料輸送、補給役で従軍した。バテレン追放令の際に高山右近をしばらく島にかくまって庇護した。翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげる。 1588.7月九州征伐の功績で秀吉から肥後南半の24万石領主に任ぜられ宇土に移った。宇土城を新規に築城し、本拠とした。 

 1589(天正17)年、天草はキリシタン大名・小西行長の所領となる。その頃、天草には約60人の神父がいて、教会も30近くあったという。天草全島の人口、約3万人のうち約2万3千人の信者がいたといわれる。当時、志岐には美術アカデミアのような画学舎が置かれていた。イタリア人修道士のジョバンニ・ニコラオの指導の下、聖画や聖像の製作、賛美歌合唱用のオルガンや時計などの製作が行われていた。志岐で作られたオルガンは、竹のパイプを使って日本風にアレンジされたユニークなものだったという。

 伴天連追放令で追われた神父を自領の小豆島にかくまった。文禄の役では先鋒部隊として加藤清正、黒田長政とともに朝鮮へ進攻。釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げる。その後、李舜臣ら朝鮮水軍に制海権を握られ、兵力、補給が保てず苦戦した。この折、加藤、黒田らと対立関係になったと云われている。明との講和交渉に携わる。明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日したところ、秀吉はこれに激し、このため講和は破綻、講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、とりなしによって一命を救われる。慶長の役で、加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻する。
 秀吉の死後、1600(慶長5)年、関ヶ原の役が勃発すると、石田三成、安国寺恵瓊らと共に、関ヶ原で徳川家康に敗れ、1600.10.1日、信仰のゆえに自害を拒否し、京都の六条河原で斬首刑された。刑執行に臨んで司祭が告解の秘蹟を行おうとしたが叶わなかった。遺体は改めてキリシタンの典礼に従って葬られた。

【黒田孝高】(1546.12.22ー1604.4.19)
 キリシタン大名。姫路城に生まれる。小寺職隆の子で、はじめは小寺官兵衛と称した。1579年、黒田に姓を改めた。

 織田信長の中国出兵のとき、毛利との和平のために、秀吉を助けた。

 1585年、高山右近の影響で、大阪で洗礼を受ける。

 1586年、九州の役では、秀吉の使者として西下し、宣教師を援助した。洗礼名はシメオン。小早川秀包、黒田長政たちを洗礼に導いた(彼は最も多くの武士を導いた)。

 1600年、関ヶ原の役では徳川に与し、勝利を得て豊後を治めた。安部龍太郎「信長はなぜ葬られたのか」の「キリシタン十万の兵の根拠」p151は次のように記している。
 「豊前中津城で隠居していた官兵衛は、関ヶ原の合戦が始まると独自に兵をつのり、周辺の西方軍の城を次々と攻略していつた。これは表向きは東軍の徳川家康に味方するためと装っていたが、本当の狙いは関ゲ原で東西両軍が対峙している間に九州を制圧し、加藤清正、鍋島直茂せとともに上方に向かって進撃し、関ゲ原の勝者と決戦に及んで天下を取ることにあった。『それがしの手勢と加藤、鍋島勢を合わせて3万、それに各地の牢人どもを加えれば10万にはなろう。清正と長政を先鋒に立て、この如水が本陣にあって指揮を執れば、家康殿を足腰立たぬほどに叩き伏せることなど容易であったのだ』。如水は後にそう語ったと『古郷物語』に記されている。(中略)官兵衛は当時の日本において、高山右近に次ぐゴッドファーザーだった。それゆえ当時前田家に身を寄せていた右近と官兵衛が組んだなら、10万のキリシタン兵を動かすことができた。官兵衛が『各地の牢人どもを加えれば10万にはなろう』と豪語したのは、決して根拠のないことではなかったのである。(中略)しかし家康も、官兵衛がこうした計略をめぐらしていることを察知していた。そこで前田家や伊達家の動きを封じる策を取り、関ヶ原合戦をわずか一日で勝利に導いた。そのために官兵衛最後の大博打も不発に終り、下げ鞘ひとつで上洛して家康に頭を下げることになったのである」。

 
1601年、筑前博多の新領に移った。

 1604年に、伏見で病死。
 官兵衛(如水)の葬儀に出席したマトス神父の1604(慶長4)年の報告書が次のように記している。
 「そして臨終の際、彼は告解(こっかい)するために神父を呼ぶよう願った。ところが、彼の側近は、何故かと言って神父を呼ばなかったので、彼は死ぬ前に告解することができなかった。しかし彼は、自分のアニュス・ディ(祈祷文)とロザリヨを持って来るように願い、自分はキリシタンとして死にたいと言いながら、それを胸に置いた。(彼の遺体は遺言に従って博多の神父の許に運ばれ、キリシタンの作法によって葬儀が行われた)」。

【蒲生氏郷】(1556ー1595.3.17)(弘治2年〜文禄4年)
 キリシタン大名。会津若松城主。飛騨守。

 近江国日野城主蒲生賢秀の子。13歳の時、織田信長の人質になる。その才を買われ織田信長の三女冬姫をめとった。1582(天正10)年の本能寺の変の際に、安土城城番であった父・賢秀と共に安土城に居た信長の妻子らを、蒲生氏の居城である日野城へ避難させ保護した。光秀の誘いに乗らず秀吉の下で軍功をたてた。

 1584(天正12)年、伊勢松島城主。1585(天正13)年、茶人仲間の高山右近らの影響で大坂においてキリスト教の洗礼を受け、「レオン」というクリスチャンネームも得る。会津城下には教会やセミナリオ(神学校)が建てられ、南蛮(なんばん)文化が取り入れられていた。重臣の中にも切支丹が多かった。ユダヤ人にしてイタリア人宣教師・ロルテスを家臣とし、ローマへ使節団を送ろうともしていたという。ロルテスは蒲生の家臣として西洋の会計や測量技術をもたらした。「光秀はロルテスの影響を受けている」という推測も為されている。1590(天正18)年、巡察視のヴリニアーノが帰国する際には、「デウスが唯一の神であると言い」人々を驚かせたという。

 1587(天正15)年、秀吉の九州征伐に従軍。1590(天正18)年、小田原、奥州の平定の功績によって、陸奥の会津を拝領し若松へ転封した。この氏郷の奥州への配置換えは伊達政宗を監視するという意味合いと、氏郷を出来るだけ畿内から遠ざけたい、という秀吉の意志とされる。この転封について、氏郷は京都から余りにも遠いことを悲嘆し「これで天下を望むべくもなくなった」と落涙したと伝えられている。

 1592(文禄元)年、文禄の役が始まると、長駆、会津から肥前国名護屋城に参陣している。名護屋城滞在中に前田利家と徳川家康の配下の者同士の衝突が発生した際、氏郷はいち早く前田方に立ち、利家の親衛隊的な立場を示した。1593(文禄2).8月、秀吉の仲介で前田利家の次男・利政と娘の婚姻が成立する。

 聚楽第で諸大名との雑談の中で、秀吉の後継者についての話題が出た時に、「徳川家康」という意見を退け「前田利家である」と言い放ち、「利家がダメなら次は自分の天下である」と豪語したとも言われる。

 1595(文禄4).2.7日、伏見の蒲生屋敷で死去(享年40歳)。氏郷の最期を看取ったのは高山右近であったという。氏郷の死について「毒殺説」もある。辞世の句は、「限りあれば 吹かねと花は 散るものを 心短き 春の山風」。

 茶事を嗜み、利休七哲の一人として数えられている(茶人大系図)。千利休が、秀吉の怒りにふれ亡くなると、その子、少庵(しょうあん)を会津領内に保護し、その後の茶道三千家への道筋をつくっている。「宗及記」等に、自ら茶会を催した記録がある。黒田家では、黒田孝高(シメオン)、黒田孝高の弟にして黒田直之、黒田二十四騎の一人・黒田長政(ダミアン)が洗礼を受けている。

【吉川広家】(1561年12月7日ー1625年10月22日)(永禄4年11月1日−寛永2年9月21日)

 吉川 広家(きっかわ ひろいえ)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将。周防国岩国領初代領主。毛利氏の家臣。

 永禄4年(1561年)11月1日、吉川元春新庄局の三男として生まれ。改名は才寿丸(幼名)→ 経信 → 経言(つねのぶ) → 広家。別名は次郎五郎、又次郎、蔵人頭。父母は、父:吉川元春、母:熊谷信直娘・新庄局。兄弟は、元長毛利元氏、広家、松寿丸益田元祥室、吉見元頼室。

 元亀元年(1570年)、父と共に尼子勝久の討伐戦で初陣する。 幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っている。また、当初相続していた吉川氏一族の宮庄氏の所領が少ないことを理由として、天正8年(1580年)から天正10年(1582年)にかけて石見小笠原氏側からの養子縁組要請に乗って小笠原長旌の養子になろうとしたが、毛利輝元の猛反対を受けて破談となっている。天正9年1月14日(1581年2月17日)、兄の元長から新たに仮名を与えられ、仮名を「次郎五郎」から「又次郎」と改める。 天正11年(1583年)9月、織田信長の死後に天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の元へ、叔父・小早川元総小早川隆景の養子)と共に森重政高政兄弟との交換条件として人質として差し出された。当初、元春は隠居後の相手として広家を近くに置きたかったが、毛利家の安泰のためにと人質として大坂に向かわせた。同年10月3日(1583年11月17日)、大坂城において秀吉と謁見。小早川元総が秀吉に寵愛され豊臣家の大名として取立てられたのに対して、広家はすぐに大坂から毛利家に帰されており、同年11月には安芸へ帰国している。帰国した広家は、上洛の労をねぎらう輝元より隠岐国を与えられた。ただし、この措置は広家の石見小笠原氏入嗣問題の背景に、広家が自己の待遇に不満を抱いていることを輝元も認識していた上の対応策という側面もあった。

 天正14年(1586年)11月に九州平定従軍中の(身分上は隠居の)父・元春が、次いで翌天正15年(1587年)6月に同じく従軍中で吉川家当主である長兄の元長が相次いで死去したため、吉川氏の家督を相続し居城日野山城などの所領も継承する。さらに同年9月2日に毛利輝元から、毛利氏の祖先・大江広元の諱から「広」の一字書出を与えられ、「経言」から「広家」と改名した。また同年に秀吉の命で肥後国人一揆鎮圧のため出陣している。秀吉からも元春・元長死後の毛利氏を支えるその手腕を高く評価され、天正16年(1588年)7月25日、豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、豊臣広家として従五位下に叙され、侍従に任官。同年8月2日には従四位下に昇叙し、侍従如元。

 天正16年(1588年)10月には宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)で秀吉の養女となった容光院を正妻に迎え、形式上は秀吉の娘婿となった。しかし、僅か2年後の天正19年(1591年)春に容光院は病死し、以後、広家は正妻を迎えず側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔った。なお、人質として出された広家の娘は一度も秀吉に御目見えを許されていない。妻。正室:宇喜多直家娘・容光院。側室:若林藤兵衛娘、品川氏女、有福家経娘。子は広正毛利就頼益田就宣室。

 天正19年(1591年)に秀吉の命により、末次元康の居城であった月山富田城に入るよう命じられ、出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及ぶ14万石を支配することとなった。

 文禄・慶長の役にも出陣し、しばしば毛利家の別働隊を指揮し、碧蹄館の戦いなども参戦し功を挙げて、秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。第一次蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正の救援に赴いて蔚山倭城を包囲した明将・楊鎬率いる明・朝鮮軍を撃退する功を立てた、この戦に広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて総勢が一度に突撃した、そして明軍の一隊の逃走先に進み退路を寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向に逃げた。この戦の奮戦ぶりも立花宗茂と共に清正からの賞讃も得た。

 慶長2年(1597年)に叔父の小早川隆景が亡くなると、毛利家当主の毛利輝元から毛利秀元と共に毛利氏を支えるよう要請されている。ところが、隆景の死に伴って返上される予定となっていた三原5万石など毛利家から与えられていた所領の扱いや輝元の嫡男秀就に後継者を譲る引き換えに独立した大名として遇されることになった秀元への所領配分が問題になった。黒田孝高に代わって豊臣政権の取次になった石田三成は秀元に広家の所領を与え、広家には隆景が毛利家に持っていた所領を継がせる案を出した。これに所領を奪われる広家だけではなく、長門国を望んでいた秀元、秀元を出雲国に移すことは賛同するものの広家には替地として備中国を与えることを考えていた輝元はそれぞれの思惑で反発した。豊臣秀吉が没した直後の慶長4年(1599年)1月に豊臣政権は広家へ与える替地を先送りしたまま、秀元には広家の所領14万石を与えることだけが決定されたが、この案を推進した石田三成が豊臣七将の襲撃で失脚すると、6月になって徳川家康によって見直しが図られて秀元には長門国が与えられ、広家の所領は変更なしとされた。この騒動は秀吉死後の毛利家に少なからぬ混乱をもたらして輝元・秀元・広家の間の足並みの乱れを露呈させただけでなく、広家の三成への反発と家康への接近を招いたとする見方もある。

 関ヶ原の戦い

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が大阪城の三奉行、安国寺恵瓊、石田三成らの提案に同意して西軍の総大将を就任した。外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており、主家に背いても東軍加担を主張する広家と、一たび事を起こした以上、西軍総大将の立場を貫くべきとする恵瓊は大坂城で激論を闘わせたとされる。しかし、あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領の安堵という密約を取り付ける。一方で、安濃津城攻略戦では主力として奮戦し長政が一時顔色を失う局面もあった。

 さらに9月14日、関ヶ原決戦前日にも広家は福原・粟屋の両重臣の身内2人を人質として送り、合わせて毛利の戦闘不参加を誓う書状を長政に送っている。同日付の本多忠勝井伊直政が広家・福原広俊に宛てた連署起請文では、

  • 輝元に対して、家康は疎かにする気持ちがないこと。
  • 広家・広俊も家康に忠節を尽くしているので、同様に疎かにする気持ちのないこと。
  • 輝元が家康に忠節を誓うのであれば、家康の判物を送ること。また、輝元の分国は相違なく安堵すること。

という内容が記されている。また、同日付の福島正則・黒田長政の連署起請文では、先述の忠勝・直政の起請文に偽りがないことを重ねて証明している。 9月15日の本戦には西軍として参加したものの、家康に内通していた広家は南宮山に布陣、総大将の毛利秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した。あくまで西軍に加勢しようとする恵瓊や長宗我部盛親長束正家の使者が来訪するが、広家は霧の濃さなどを理由に出撃を拒否、秀元にも「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。 結果は家康率いる東軍勝利となり、毛利隊は戦わずに戦場を離脱せざるをえなくなった。合戦直後には長政に使者を立て書状を送っている。9月17日には長政と福島正則の連署で、「輝元は名目上の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないから本領を安堵する」旨の書状が大坂城の輝元に送付され、広家としてはこれで輝元の内意と合って毛利家も安泰と考えていた。

 10月2日になって黒田長政から以下の内容の書簡が届いた。家康からの毛利領安堵の密約は、輝元が否応なしに総大将に担ぎ上げられた場合のみである。ところが大坂城から発見された西軍の連判状の数々に輝元の花押があった。困った事だ。毛利の所領は没収のうえ改易されるであろう。貴殿の忠節は井伊直政、本多正信もよく承知しており、毛利領のうち一、二ヶ国を与えるべく、ただいま家康に対して交渉中である。直政に呼ばれたら、すぐに行って下さい。お供は数人で十分で、槍などは無用です。これは決して罠ではありません。毛利宗家の本領安堵は反故とされ、その後、広家には周防・長門の2ヶ国を与えるとの沙汰があった。広家はこの沙汰に対して、毛利本家存続のために家康に以下の内容の起請文を提出した。私に対する御恩顧は後世まで決して忘れませんが、何卒毛利家という家名を残して戴きたく御願い申し上げます。この度のことは輝元の本意ではありません。輝元が心底人間が練れてなく分別がないのは、各々ご存知のことではないですか。輝元は今後、家康様に忠節を尽くしますから、どうかどうか毛利の名字を残して下さい。輝元が処罰されて自分だけが取り立てられては面目が立たないので、私にも輝元と同じ罰を与えて下さい。もし、有り難くも毛利の家を残していただけたなら、輝元はこの御恩を決して忘れません。千が一万が一、輝元が徳川に対して弓引くようなことがあれば、たとえ本家といえども、輝元の首を取って差し出す覚悟でございます…云々。広家のこの起請文に対し家康は10月10日になって、輝元に対し広家に与えられるはずであった周防、長門の2ヶ国を毛利宗家に安堵すること、毛利輝元・秀就父子の身命の安全を保障する、旨の起請文を発行した。広家の行動そのものは合戦前の7月15日に秀元や安国寺恵瓊の方針に不安を抱く福原広俊・宍戸元続益田元祥熊谷元直ら重臣によって秘かに行われた会議の結果を受けたものであるが、移封後は毛利家の家政の第一線から退くことになる。

 毛利宗家では関ヶ原後、安芸国ほか山陽・山陰8か国112万石から防長2か国29万8千石への減封による減収を補うため、領内の徹底した検地に着手するが、山代慶長一揆吉見広長の反乱など、減封に伴う混乱が起こっている。慶長15年(1610年)に毛利宗家(長州藩)は幕府の承認を得て、36万9千石に高直しが認められた。

 防長への減封を受諾した毛利氏は、長門国の一隅萩に本拠を置いた(長州藩)。藩内を分割して長府、徳山の分家(後に清末の孫家が加わる)と岩国吉川領を置き、広家には本拠地萩からもっとも遠く東の守り、本家及び直系一門の盾の位置となる岩国3万石の所領が与えられて岩国領の初代領主となった。(毛利宗家の高直しのあとで、岩国領も6万石に高直しされる)

 長府・徳山・清末の三家は支藩として正式に諸侯に列せられたが、岩国領は藩とされず、吉川家は長州藩からは家臣として扱われた。一方、家康からは岩国築城を許され、幕府からは大名としての扱いを受け、江戸に藩邸を構え参勤交代も行われるという複雑な立場となった。この微妙な立場は岩国城破却問題や2代目から11代目までの岩国領主の肖像画が描かれないなど、吉川家に様々な苦汁をなめさせることになる。

 ちなみに、支藩筆頭の名誉を担った西の長府藩主は関ヶ原で毛利勢の総大将として布陣しながら広家の内通に戦闘参加を阻まれた毛利秀元である。秀元は幼少の藩主・毛利秀就の輔佐のため長州藩の執政となり、筆頭重臣の地位にあった福原広俊と権力を争う事になり、広俊は広家に助けを求めた。広家は関ヶ原の一件を理由に表向きには動かなかったものの、反秀元派重臣の後ろ盾として動く事になる。慶長10年(1605年)に熊谷元直粛清事件(五郎太石事件)が発生するが、広俊はこれを輝元と迅速に鎮圧すると共に、秀元・広家の両者に対して和解を強硬に申し入れて両者はこれに応じている。だが、その後も秀元と広俊(及び背後の広家)との確執は続く事になる。この間、広家は慶長6年(1601年)、同8年(1603年)、同9年(1604年)、同11年(1606年)に徳川家康・秀忠父子と謁見している。

 ところが、大坂冬の陣の際に毛利秀元が輝元・秀就らと極秘に内藤元盛(佐野道可)を豊臣方に派遣し、この事実を広家や他の重臣には一切秘密にしていた事を知った広家は激怒して慶長19年(1614年)12月22日に隠居して嫡男の広正に家督を譲り、福原広俊もこの問題の処理後の元和2年(1616年)に藩の政務から退いた。以後、藩政は秀元と益田元祥・清水景治らによって運営される事となる。

 既に豊臣政権において独立した大名として認められていた秀元は長府家の家格上昇を図りながら藩政運営を行うことになり、対立関係にあった吉川家の勢力削減を目論んだ。元和の一国一城令を理由とした岩国城を破却などもこうした秀元の政策に基づくところが大きい。こうした秀元の方針に対して広家は表立っては沈黙していたものの、福原広俊らと共に秀元への対抗姿勢を示している。秀元は徳山藩主であった秀就の弟・毛利就隆を取り込んで秀就に反抗的な態度を取り続け、それに対抗すべく秀就は広家を味方にしていた。

 もっとも、元就時代より吉川家は庶流の筆頭として家臣団を統率するのが役割であった。一方、一度は宗家の後継となった秀元の長府毛利家がその経緯を盾に、他の分家との差別化と家格の上昇を図って宗家に準じた地位を確保しようとした側面がある。実際、輝元や広家の死後の寛永8年(1631年)に秀元はその専横を非難されて長州藩執政の地位を失って失脚し、後任の執政に就いたのは広家の子・広正であり、広正の正室に輝元の娘・竹姫を娶ったのは移封後のことである。

 広家は家督を広正に譲って隠居した後も岩国領の実権は握り続け、元和3年(1617年)には188条にも及ぶ領内の統治法を制定するなど岩国の開発に力を注ぎ、実高10万石(最盛期には17万石とも)とも言われる岩国領、そして現在の岩国市の基礎を築いた。寛永2年(1625年)9月21日に死去。享年65。 戒名は全光院殿前拾随補 四品中岩如兼大居士。墓所は、山口県岩国市横山洞泉寺。京都市北区大徳寺塔頭龍光院。

 なお、広家の次男で吉見広頼の養子となっていた吉見政春が後に毛利姓を名乗ることを許され、毛利就頼と改名して長州藩一門家老の大野毛利家を創設している。

 吉川広家と官兵衛の関係につき、最安部龍太郎「信長はなぜ葬られたのか」の「我らの仲が変わることはない」p170が次のように記している。
 「東西両軍が関ヶ原で戦っている間に、官兵衛は九州を平定し、中国地方を攻め上って関ヶ原の勝者と雌雄を決する策を立てていた。それはキリスト教の布教ができる国を築くためで、計略の中核を成したのはキリシタンのネットワークだった。(中略)官兵衛は加賀の前田家、奥州の伊達家とキリシタンのネットワークで結ばれていたと書いたが、もう一人、関ヶ原合戦において、官兵衛と一身同心して不可解な動きをした武将がいる。毛利家の家老格だった吉川広家である。彼は決戦の前日に徳川家と密かに和議を結び、決戦当日は南宮山の先陣にいて動かなかったために、後方の毛利勢も関ヶ原に攻め下りることができなくなった。これは東軍優勢と見た広家が、主家を守るために独断でしたことだという解釈が一般的だが、それは違うのではないかという疑問をずっと持っていた。と云うのは、広家は、決戦の前から事あるごとに官兵衛の指示を仰ぎ、官兵衛もこれに応えて、『たとえ世の中がどのように変わろうと、我らの仲が変わることはない』という文書を与えて励ましている。また広家は他界する時、『官兵衛殿の墓の側に葬ってくれ』と遺言し、その言葉通り広家の遺骨は大徳寺龍光院の官兵衛の墓の側に葬られた。この親密さは、広家が官兵衛を洗礼親としたキリシタンだったたてめに生じたのではないか」。

【支倉常長】(1571ー1622.8.7)

 1571年、山口常成の子として生まれ後、支倉時正の養子となる。洗礼名:ドン・フィリッポ・フランシスコ。

 1609年、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がメキシコ(当時スペインの属領)への帰途難破した際救助し、日本とスペインとの交流が始まった。伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定し、遣欧使節はスペイン人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ Luis Sotelo をともない、常長は180人からの使節団を率いてローマに赴いた。

 1612年、第一回目の使節として浦賀より出航するが遭難して失敗。1613年10月28日再度サン・ファン・バウティスタ号で月ノ浦を出航。その後、一行は太平洋を渡りメキシコに上陸し陸路で大西洋岸のベラクルスに、そこから大西洋を航海し、スペイン・アンダルーシア、コリア・デル・リオに上陸した。1615年1月30日国王フェリペ3世に謁見する。さらに陸路でローマに至り、1615年11月3日にローマ教皇パウルス5世に謁見した。ローマでは日本からの使節として温かく迎えられ貴族に列せられた。帰路もマドリードに立寄り再度フェリペ3世に謁見、使節団は数年間ヨーロッパに滞在した後、1620年9月20日に7年にも及ぶ航海の末帰国した。こうして大名(の名代)として日本から初めて欧州、ローマへの特務を果たしたが、すでに国内では禁教令による厳しいキリシタン弾圧が行われていることに落胆しつつその2年後に世を去った。


【織田秀信】(1580ー1605.6.24)
 キリシタン武将。織田信長の嫡孫、信忠の長男。幼名、三法師。

 本能寺の変で、二条御所にて父・信忠と共にいたが、前田玄以とともに脱出し尾張清洲城に避難した。信長と信忠父子亡き後、羽柴秀吉の後見で信忠の嫡男三法師(当時1、2歳)を擁立しようとする動きが高まり、織田家の家督を相続した。1582(天正10)年、秀吉によって安土に置かれた後、岐阜に移され、秀信と称した。1584(天正12)年、近江坂本城に移った。1592(文禄元)年、岐阜城に移り、美濃13万石を領有する。織田家は覇王の家門ではなく秀吉麾下の一大名にすぎなかった。

 1595年、弟秀則とともにひそかに洗礼を受けたが、その後キリシタンとして振る舞った形跡はない。1600(慶長5)年、関ヶ原の役に先だって、石田三成からの誘いで西軍につき岐阜城に籠城するも、福島正則や池田輝政らの東軍先鋒隊によって攻撃され、降伏する。その後改易となり、高野山に追放された。1605.6.24(慶長10.5.8)日、同地で没した(享年26歳)。

 織田家では織田信長の弟・織田有楽斎(ジョアン、利休七哲の一人。有楽斎は号) 、織田信忠の嫡男・織田秀信(三法師)、織田信忠の次男・織田秀則(パウロ)が洗礼を受けている。

【その他のキリシタン大名、武将】
 他に宇喜多、中川秀政、市橋兵吉、瀬田佐馬之丞、吉川広家などがいる。受洗には至らなかったが、細川忠興、前田利家(洗礼名/オーギュスチン)、織田有楽斎など好意を持つものも多かった。細川忠興の妻ガラシャは、侍女清原マリヤ(ダリヨと共に入信した清原枝賢の娘)や右近の導きで入信した。






(私論.私見)