ゼイノイ(ぜいの偉)問題考 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).6.5日
【芮廼偉(ゼイノイ)履歴考】 |
1963年12月28日、上海市生まれ。文化大革命の最中の小学4年生の時(11歳)、父の手ほどきで碁を覚え、めきめきと腕を上げる。74年、春上海市静安区青少年囲碁訓練班にて碁を学ぶ。尤偉良・章照原を師とする。76年上海市体育宮囲碁訓練班に入る。77年10月上海市青年体育運動学校に入学。78年12月上海棋院(上海隊)に所属。80.10.5日、北京市の国家チーム(中国国家隊)に所属する。82.2月、中国囲棋協会の専業棋士4段認定。その年の秋、5段に昇段。新体育敗戦でリーグ入りする。84年、6段に昇段。85年、7段。国手戦ベスト4に入る。86年、8段に昇段。女子個人戦で優勝。以降89年まで4連覇する。86年、日中スーパー囲碁に出場し、2-1(○楠光子、○森田道博、×今村俊也)。87年、日中スーパー囲碁出場し、0-1(×山城宏)。 88年、中国囲碁協会が第9人目の9段に認定。且つ女性初の9段となる。89.5月、「監督との確執や選手選考に男女差があった為」国家チームを去る。故郷の上海に戻って上海棋院に復帰。ところが手合いを許されず日本行きを決意する。「天安門事件をきっかけに」との記述もある。 90.9.5日、当時最強と云われていた日本棋士との対局を夢見て来日。来日から数週間後、顔見知りの女性棋士に伴われ東京・市谷の日本棋院を訪れる。「日本で碁を打たせて欲しい」と訴えたが、理事が中国囲棋協会より送られてきた通知書を見せた。そこには、「海外に滞在する中国の国家段位を持つ棋士は中国囲棋協会が派遣、権限を与えた者以外、当該国(地域)のプロ棋戦に参加してはならない」と書かれていた。来日の約1ヶ月前の日付であり、明らかにゼイノイ・パージ思惑が込められていた。あるいは善意に解釈して見て人材の国外流出を恐れる態度があった。 ゼイノイは都内に居を構え、囲碁のビデオ講座の助手を勤めるなどして過ごす身となった。やがて同じく中国出身で永らく日本囲碁界に君臨してきた重鎮である天才棋士呉清源の弟子となった。生命保険会社の嘱託として囲碁指導するなどして生計を立て、その傍ら台湾出身の現役棋士林海峰9段らの私的研究会で、いつとも知れぬ実戦に備えて腕を磨いた。「圍碁」誌上で日本の棋士と対戦している。 この間、ゼイノイを参加させる道が図られたが、「女性タイトルを総なめで取られてしまう」、「中国のプロは中国で打つのが筋」という声に阻まれた。結局、この問題が日本棋院の理事会の議題になったことはない。「今でも、『認めたら中国から大勢棋士が押しかけてくることになる』との考えもあり、中国棋士は日本棋院で打てないまま」と、大枝雄介理事のコメントが為されている。 中国囲棋協会は、数年後、「滞在国(地域)の棋院の許可があれば参加しても構わない」との取り消し文書を日本棋院に送ったと云う。しかし、該当文書は日本棋院には「見当たらない」とされており真偽不明となっている。自身も1928年に中国から来日した呉清源は、敗戦直後の1947年、知らないうちに日本棋院を除名されるという経験を持っている。その後名誉客員棋士となっているが、除名の経緯は未だに分からない。呉氏は言う。「女流の実力向上のチャンスだったのに惜しいことだ。強い者を排除するとは了見が狭い」。 この間、92年、台湾の実業家が創設した「応昌期杯」に女性で唯一人招かれ参加。小松英樹8段、李昌鎬9段、梁宰豪8段に勝って準決勝まで勝ち進み、大竹9段との三番勝負で1勝1敗の後の3局目を敗退。「負けて悔しかったわけじゃない。次の碁がないと思うと、つらくて寂しかった」との敗戦の弁を残している。92.7.8日、日本で国家チームの先輩、江鋳久(ジャン・ジュージウ)9段と結婚する。 93.12.6日、呉清源9段に正式に入門、弟子となり入門儀式を挙行。NHK教育テレビの囲碁講座にも出演し、その指導には定評があった。 「21世紀の碁」の研究助手を92年から96年まで務める。同年、初の女流世界選手権である翠宝杯世界女流選手権戦に中国代表として出場して優勝。後継棋戦の宝海杯などでも優勝を飾る。 ゼイの日本での公式戦参加の道は閉ざされ続けた。96年、「圍碁」誌で「芮廼偉九段VSプロ精鋭 」が企画され5勝6敗。内訳は、2-0(結城聡八段) 、0-2(小松英樹九段) 、0-2(山城宏九段) 、2-0(森山直棋九段) 、1-2(宮沢吾朗九段 )。 96.10.3日、一度も公式戦に参加することもなく夫の江鋳久9段と米国に向け飛び立った。サンフランシスコに住み米国プロ囲碁協会に所属。プロ組織を設立し、米国代表として世界選手権に出場するのが目的であった。ゼイは夫と共に米国で囲碁の普及に尽力した。98.9月、米国でレーザー手術を受け視力が回復、現在眼鏡は掛けていない。 99.2.10日、韓国棋院が江・ゼイノイ夫妻を客員棋士として招くと発表した。4.9日、入国。韓国棋院客員棋士となる。韓国の棋戦に参加。同年、女流国手戦で優勝。2000年には韓国で最も格式の高いタイトル「国手」戦で、曺薫鉉に挑戦し2勝1敗で勝ってタイトル獲得。この時は金大中大統領からも祝電を受けた。翌年は曺に奪い返される。01年、名人戦も含めて女流棋戦の主要タイトルを総なめにしグランドスラムを達成した。01.10月、韓国棋院正式棋士となる。 05年からの正官庄杯世界女子囲碁最強戦の団体戦では中国チームとして出場。08年、第1回ワールドマインドスポーツゲームズでは女子個人戦でベスト8。中国囲棋甲級リーグ戦では上海(01年)、乙級では平煤集団(03年)、雲南奕手冠華(云生弈手冠华、05年)などに参加。韓国囲碁リーグでは、04年韓国ヤンセン、07年全南大房ノーブルランドに参加。韓国では畏敬の念を込めて「鉄の女」と呼ばれている。「最近、肩書きから『客員』が取れました。棋士総会の表決権と月数十ウォン(約1万5千円)の研究手当てが貰えるだけですが」と云う。付け加えた言葉は、「囲碁には民族も国境もない」。 ゼイの来日から約10年、日本は棋士の層こそ厚いものの、実力では既に韓国、中国に追い越されてしまった感がある。呉は「国際棋戦も増え、他国の棋士が日本に留学する必要もなくなった」、「門戸を閉じている間に日本は世界一の座から転がり落ちた。日本の棋士は中国、韓国に比べ勉強も足りない」と云う。 囲碁と国家の隆盛の相関関係を見ようとする試みに根拠があるのかどうか分からないが、凋落激しい日本囲碁界を象徴するように次のような記事が為されている。建国記念日である02.2.11日の日経新聞に「日本の奇跡終わった」とする囲い込み記事が載っている。米誌タイム・アジア版の最新号(2.18日号)は、「日本の経済的奇跡は終わった」と題する特集記事を掲載し、「小泉政権が経済危機回避に必要な改革を断行できない」、「長らく政府の保護を受けてきた日本の企業や産業界の体質が競争に耐えられないほど脆弱(ぜいじゃく)になり、改革能力を失っている」、「日本の『奇跡』の柱だった終身雇用制は『終身失業』の幻影に脅かされ、近い将来システム崩壊の可能性が密かに語られている」、「夜が明けても必ず日が昇るとは限らない」とコメントされていることを紹介している。 10年、「碁ワールド」誌の「グリーン碁石・女流プロ交流会 芮廼偉九段×女流六華」が企画され、5勝1敗。内訳は、 ○鈴木歩四段、○奥田あや二段、○万波佳奈四段、○向井千瑛四段、○梅沢由香里五段、×謝依旻五段 。 11.11.28日、韓国棋院離脱し中国棋院へ戻ることを発表。12月、中国に帰国。12.1月、中国棋士として活動。帰国後、国際戦の第1回百霊杯世界オープン戦予選で元晟湊9段、丁偉9段を破り、唯一の女流と最年長棋士として本戦出場。6.24日、第1期谷韵吉首杯優勝。8.7日、第17回三星火災杯世界囲碁マスターズ予選(女流枠)突破、本戦出場。 |
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1990年、当時最強と云われていた日本棋士との対局を夢見て来日した芮廼偉(ゼイノイ)は結局、日本棋院に門戸を閉ざされたまま離日し、1999年、韓国棋院入りした。これにより韓国棋界は「芮廼偉(ゼイノイ)効果」の恩恵を受け、世界一の実力を備える韓国棋界への道を敷くことになった。それを思えば、日本は、あたら惜しい機会を失ったことになる。しかしながらそういう風に受け取ることは稀で、ゆで蛙の如くに眠そうな目で事象顛末をパチクリするだけの哀れな存在になり果てている。これが2010年頃の日本棋界の現状である。 |
(私論.私見)