安井家

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).5.26日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで日本囲碁史考補足として江戸時代の「歴代名人、碁所、家元四家」を確認しておく。「歴代本因坊家他」を参照する。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【安井家】
 安井家は、最初、算哲の家系を保井、算知の家系を安井と書いた。安井家は1世安井算哲から 10世安井算英の10代と跡目の安井知仙を合わせて11名で、2世安井算知が名人になっている。
 大阪歴史博物館(大阪歴史博物館:大阪市中央区大手前4丁目1-32)の常設展示室に囲碁史にとっても興味深い展示物がありました。江戸時代の囲碁家元の一つ「安井家」のルーツが分かる文書が安井家の子孫より寄贈され展示されているのです。

 安井家初代の安井算哲の息子で初代天文方に就任した渋川春海(二代目安井算哲)が神道を学んだ京都の山崎闇斎を介して大阪の安井九兵衛家へ安井家の系図の調査を行ったやり取りの手紙が展示されています。安井九兵衛家とは初代算哲の叔父で安井道頓の跡を継ぎ大阪の道頓堀を造った安井道卜の家なのです。また、安井家の歴史を調査した渋川春海が作成した家系図も展示されています。安井氏は清和天皇の流れを汲む河内守護の畠山氏一族で、河内国渋川郡を領有し渋川氏を名乗ります。つまり、二代目安井算哲が渋川春海と名前を変えたのは先祖の姓に戻したという事なのです。その後、渋川氏は播磨国の安井郷に移封されたため、安井氏へと姓を変えます。数代後の安井定重の時に、先祖の居城であった河内国久宝寺城へ移り織田信長に誼を通じますが、信長と対立していた石山本願寺・一向一揆衆によって久宝寺城は陥落。定重も討ち死にします。この定重の弟・定次は信長、そして豊臣秀吉に仕えますが定次の息子が秀吉の命により道頓堀を開削した安井道頓だと言われています。また、安井定重にはもう一人の弟・定正がいて、その息子の一人が安井道卜といって道頓堀開削の道半ばで亡くなった道頓の跡を継ぎ堀を完成させた人物です。そして、安井道卜の甥こそが初代安井算哲なのです。
 (「烏鷺光一の『囲碁と歴史』」の「大阪歴史博物館 安井家のルーツ」)
 安井家の菩提寺 浄心寺 
1世/算哲(算砂の弟子)
2世/算知
3世/知哲
4世/仙角(古仙角)
5世/仙角(春哲)
6世/仙哲
7世/仙知(仙角、大仙知)
8世/仙知(仙得、知得)
9世/算知
10世/算英
 安井家傍流に鈴木家がある。

1世 算哲 (準名人) 1590(天正18)~1652(慶安5)年()
 後の算哲と区別するために古算哲ともいう。六蔵の名で、11歳のとき伏見城家康御前で対局。1606(慶長11)年、16歳のとき、算砂、利玄、道碩に続いて三十石を賜っている。道碩を目標として120番碁を挑み40番負け越し、道碩から「碁には勝っても命を取られる」と皮肉られた。1644(正保元)年、道碩の次の碁所を詮議したとき、当時最長老であった算哲は「碁は力不足だが、功労あるので」と自薦するが、碁所は一番碁の強いものをとの命令だと退けられ、恥をかいたことが後の碁所騒動に遺恨を残す。長男は二代目算哲、三男は後の三世安井知哲。

2世 算知 (名人) 1617(元和3)~1703(元禄16)年()
 山城国の生まれ。一世算哲の門下ではあるが、天海僧正の知遇を受けて12歳で家光に召出され、算哲とは異なる安井家を興す(算哲家は「保井」が本来の字)。以後明治まで続く安井家は算知の系統。算哲は実子の二代目算哲三男知哲が幼少のため、算知に跡を継がせた。算知は一世算哲の意志を継いで名人碁所を目指し、1645(正保2)年以降9年間6局の御城碁で本因坊算悦と勝負碁を行ったが、勝負がつかず碁所は預かりとなった。しかし、算悦が死去し道悦が本因坊家を継いでから10年、算知は道悦との対局もないまま役人への取入りによって、1668(寛文8)年、名人碁所を命ぜられる。これを他家の了承を得ていないということを理由に道悦が反対し、3年間60番の勝負碁が行われる。道悦の先で始められた争碁は、実際には20番まで行われ、16局目に道悦六番勝越しにより先互先に手合が直り勝負は決した。20番を打ち終えた翌年、1676(延宝4)年、算知は碁所を返上、1697(元禄10)年に知哲に家督を譲ったことになっているが、この20年ほどの間について何も伝わっていない。

2代目 保井算哲 (***) 1639(寛永16)~1715(正徳5)年()
 一世算哲の長子。一世算哲の没したときに14歳。"安井"姓の算知の後見によって21歳のとき保井の家督を継ぎ、御城碁に出仕する。御城碁14局中11局が四世本因坊道策との対戦では全敗。それでも、道策は算哲の実力を決して低くは見ていなかった。しかし、道策との対局で囲碁に対する限界を感じ、幼少から学んでいた天文への道に転ずる。貞享元(1684)年幕命により天文方として改暦に従事、正式に天文方・渋川助左衛門春海 (渋川春海) と名を改め250石を賜り、碁家としての保井家は途絶えた。

3世 安井知哲 (上手) 1644(正保元)~1700(元禄13)年()
 一世算哲の次男。二世安井算知の養子となり寛文4(1664)年に扶持を拝領し、寛文7年から御城碁に出仕するところから、この時期に跡目待遇になったのだろう。元禄9年安井算知の退隠により安井家の家督を相続するが、わずか4年で亡くなった。

3世(跡目?) 安井春知 (***)
 生没年不詳。跡目と記載しない文書もある。また、春知は俊知とも書かれている。二世算知の弟とも実子とも言われ、出生について確かではない。天和3年の御城碁で本因坊道策に二子で対局して1目勝ちを収め、道策に「春知は当代の逸物。2子置かせて、また春知に1手の悪手もないのに、手順を尽くして1目負けとしたのは、生涯の傑作である」と言わせたのは有名。

4世 安井仙角 (準名人) 1673(延宝元)~1737(元文2)年()
 会津の生まれ。二世算知、三世知哲の弟子。安井家は後に仙角を名乗るものがあるため、区別する意味で古仙角と称することもある。元禄13年知哲が亡くなり四世を継ぐ。本因坊道知の六段昇段を巡り、争碁を打つが、3連敗して苦汁をなめる。道知が碁所に就任した1ヵ月後、これまで敵対していた道知を訪ねて自分を八段準名人に昇格させて欲しいと頼む。道知は井上家林家にも諮り、三家当主をそれぞれ八段に昇段させることとなった。ただし、仙角のみは先輩格として半月ほど早く昇段を果たしている。

4世跡目 安井知仙 (***) ?~1728(享保13)年()
 豊前小倉の生まれ、本姓長谷川 (長谷川知仙) 。初め四世井上因碩の門下となり、後に、本因坊道知の教えを受け、道知が名人となった後、六段に昇段。知仙は四世安井仙角の手配によって宮家のお相手を努めることとなり、宮家の推薦によって七段上手となされた。そのとき、安井家に適当な跡目がなかったため、今度は宮家の手配で知仙を安井家の養子にするよう本因坊家の了解をとり、知仙は安井家の跡目となった。しかし、跡目となった年、御城碁を1度努めたのみで早逝した。

5世 安井仙角(春哲) (準名人) 1711(正徳元)~1789(寛政元)年()
 近江の生まれ、本姓田中。最初の名を田中春哲。安井家は3代にわたり仙角を名乗るので、四世仙角を古仙角と称したり、五世を春哲仙角と呼ぶこともある。跡目知仙が家督せずに没した後、享保20年跡目となり、元文2年四世仙角の没後家督する。仙角は、五世本因坊秀伯の昇段願いの介添え、五世林門入の碁所願いの反対のいずれも本因坊側に加担し、また囲碁将棋方の席順争いの事件で先頭にたつなど、当時の碁界に影響力のある人物ではあった。晩年は準名人に上り、安永4年に家督を跡目仙哲に譲り隠居した。

6世 安井仙哲 (上手) ?~1780(安永9)年()
 会津藩士の子であり、当時東北地方は碁が盛んであり会津藩は碁と縁が深かった。寛延元年五世仙角の跡目となり、以来御城碁39局を勤める。安永4年五世仙角の隠居により家督を継ぐ。安永9年に没するが、仙哲は先代以来の門下である外家の阪口仙徳の子を跡目に定めた。
坂口仙徳

7世 仙角仙知 (準名人)

8世 知得仙知 (準名人)

9世 算知 (上手)

10世 算英 (上手)





(私論.私見)