歴代名人、碁所、家元四家の他三家

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).5.26日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで日本囲碁史考補足として江戸時代の「歴代名人、碁所、家元四家」を確認しておく。「歴代本因坊家他」を参照する。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【歴代本因坊家】(「本因坊の系譜とその時代~算砂から秀哉まで~」)
  「本因坊の読みは、正しくは『ほんにんぼう』、『ほんいんぼうと読むようになったのは昭和以降』とのことである」云々。
1世(開祖) 算砂 (名人) 1559(永禄2)~1623(元和9)年
 1559(永禄2)年、安土桃山時代中期、京都長者町に生まれ、本姓加納、幼名與三郎。8歳で日蓮宗の京都寂光寺に入り、法名日海。師匠は当時の碁打で最強として知られていた商人の仙也。僧・日海は若くして豊かな才能を示し、20歳のときに仙也の仲介で織田信長に謁見した。信長は「日海こそまことの名人」と褒め、それが「名人」の呼称の起源だとも言われている。日海の碁芸が信長に認められ何度も碁の席に呼ばれるようになる。本能寺の変の直前、信長公御前で日海は利玄(林家の元祖といわれています)と対局して3コウ無勝負となったため、3コウは不吉の前兆という伝説がある。但しこれは出来過ぎの作り話かもしれない。信長に続いて豊臣秀吉にも従い、碁の指南役を務め、家康にも仕えている。信長・秀吉・家康の三者に仕えた政治力が大いに評価されるところである。

 日海は京都寂光寺にある本因坊という塔頭に住んだことから、その名を取って呼ばれたと云われている。天正十六(1588)年、秀吉が催した御前試合に優勝した日海に与えた朱印に本因坊と記されている。実際に日海が本因坊を名乗るのは、慶長八(1603)年家康が江戸幕府を開き、帰府するときに碁の指南役である日海を京から連れ帰った時点という説もある。いずれにしても碁を打つときは本因坊が自然と通り名となり、江戸幕府から禄を賜る時点では自ら本因坊を姓としていたようである。

 江戸時代に入ると、幕府から碁打衆として五十石五人扶持の他、一代限りで三百石を賜る厚遇を受けている。碁打衆と将棋指衆を幕府の公職として認めさせ、それぞれに扶持を賜る家元制度を確立している。その功績は世界史的に意義がある。その際、 算砂は本因坊を家元の姓とし、初代本因坊として碁打衆を束ねる"碁所"に就いている。

 将棋指衆の初代名人・大橋宗桂は、算砂の将棋の弟子であったが、算砂一人で碁将棋の両方を束ねるのは権力集中でよくないとして、将棋に関しては宗桂に委ねたという説もある。実際に、宗桂と算砂の将棋平手対局の棋譜も残されている。記録によると宗桂のほうが年長であり、実力的に算砂の弟子というのは考えにくい。名人として江戸幕府から碁打衆を束ねる碁所を賜ったという話も、最近の研究では、碁所は幕府の任命ではなく、碁打衆同士で決定した地位を勝手に名乗り、幕府ないし寺社奉行所も碁打衆を統括させるのに都合がよいので黙認していたらしい。

 算砂には残された棋譜が20局程度しかなく、対戦相手は全て利玄に限られている。しかも、最後まで記録されたものは1局だけ、あとはすべて120~130手で記録が終わっている。史上の実力評価は定まっていない。

 算砂がなくなる直前、一番弟子の中村道碩に碁所の全権を譲り、本因坊家は一時断絶。このときはまだ家元の世襲制はなかった。本因坊家は、算砂が後を託した算悦を、道碩が良く鍛え、成長したことによって復活する。享年65歳。
2世 算悦 (上手) 1611(慶長16)~1658(万治元)年
 京都生まれ、本姓杉村。法名日縁。初代算砂が没する年には13歳であったため、直ちに本因坊を相続できず、算砂の遺言を受けた中村道碩が算悦を養育し、寛永7(1630)年三十石五人扶持を賜り、本因坊の再興が認められた。ここで初めて家元名跡の世襲の先例ができた。中村道碩は、遺言状により算悦を七段上手に推薦したが、算砂から道碩に継承された碁所は、道碩がなくなるときに継承すべき実力者がいなかったため、しばらく空位となり、正保2年に算悦と二世安井算知が碁所決定の六番碁を打つ。六番碁は打ち分けとなり、算悦は名人碁所に縁がなかった。享年48歳。
 算砂には算碩という弟子がいて本因坊継がせる予定であったが算碩が亡くなったため、弟子の中村道碩(井上家開祖)に碁所としての全権を譲り、本因坊家は一時途絶えた。但し碁所を継がせるにあたって、一門のなかで有望と見られる弟子の算悦を道碩に託し、鍛えてものになるようなら本因坊家を継がせて再興させるように伝えている。道碩も師の遺言を良く守り、算悦を育てて本因坊家を復活させた。

 道碩は算砂に肩を並べる(あるいはそれ以上の)棋力であったため、名人に推され碁所となったが、道碩は碁所の後を継ぐ者を指名しなかった。突出した実力を持った者がいなかったこと、算悦も成長したとはいえ、まだ碁所につけるには若年すぎたことによると思われる。道碩が亡くなってから10年間碁所不在の時代が続いたが、空位の長さに御上から碁所承継について家元全員出席のうえ詮議がおこなわれ、当時長老格の安井家一世算哲(古算哲)が「実力はともかく、最も年長者である自分に任せてほしい」と申し入れたところ、露骨な自薦に不快感を覚えたものと思われるが「実力がないものを碁所に就けることはできない」と退けられた。そこで、本因坊算悦と井上因碩で勝負するよう打診されたが、因碩は「算悦は道碩師の同門弟子であり、さらに大師匠算砂の跡継ぎ。勝負は辞退する」と断り、若い算悦も勝負を強く求めなかったため、さらにしばらく碁所の空位が続いた。その4年後、算悦と安井算知の六番碁により碁所を決定するように沙汰が下り、年に1度の御城碁の勝負で九年(途中3年間御城碁の休止がありました)というゆっくりとしたペースで行われた。が、互いに先番を勝って決着がつかなかったため、またも碁所は持ち越しとなった。

 年に1回の勝負碁という悠長な対局には異説がある。それは、本来御上としては、算砂と道碩の系列である本因坊を碁所に就けたかったが、天海僧正が算知の贔屓であったためになかなか進めることができず、天海が亡くなってからいよいよ算悦を碁所に就けようとしたが、算知とその後援者である老中保科正之らの反対にあった。「ならば一番勝負をしてみよ」と命じ、算知が勝利したために、翌年、また翌年、と算悦がなんとか勝ち越せないか、と繰り返すことになってしまった、というもの。このままでは逆に算知に打ち込まれてしまうと心配して、5局目と6局目の間に休止期間を作り、最後に算悦が勝った時点で碁所の話はなし、ということにしたというもの。このときの算知の反対がこんどは本因坊家に遺恨を残すことになつた。
3世 道悦 (名人格)
 1636~1727、寛永13~享保12年。伊勢松坂生まれ、本姓丹羽。法名日勝。万治元年、二世算悦が没し、本因坊家を継ぐ。その10年後寛文8年、安井算知が突然名人碁所に任命されたことについて、自分との対局が一度もなく、各家元の承認もないことから公儀の任命に異を唱え、負ければ遠島を覚悟して算知と60番碁を打つ。道悦の先で始められた争碁は、16局を終えたところで道悦の六番勝ち越し、手合直りとなって勝敗が決着し、延宝4(1676)年20番まで打ち終えたところで、算知の碁所返上で決着する。そこで、本来なら道悦が交代で碁所に就くべきところを、算知を碁所にという公儀に反したことから、自らもその翌年潔く退隠し、本因坊家を四世道策に譲る。但し、退隠はしたが、道策が壮年であることから幕府は引き続き道悦の御城碁出仕を命じ、貞亨3年まで9年間これを勤めた後、京都に閑居しながら、92歳の長寿を全うした。道悦の没年は、五世本因坊道知と同年である。享年92歳。
 算悦と算知の九年に渡る勝負の後、碁所についても沙汰止みとなり、跡を継いだ道悦は、新たに碁所を目指していました。しかし、あるとき突然安井算知が幕府の下命により名人碁所になると知らされます。確かに算知は当時の実力最高位ではありました。道悦も算知を破らなければ碁所への道は無いと認識していましたが、道悦が御城碁に出仕しても算知との対局はなく、道悦の相手はずっと算知の弟子算哲が務めていました。算知との対局も適わず、本因坊家当主と安井家跡目が対局するのでは、常に本因坊家が一段下に見られているような不満を感じていました。

 その算知が今度は自分と対局しないまま名人になることは道悦には認め難く、お上の決定に異議を唱えます。「勝負をさせて欲しい。負ければ幕命に背いたとして流刑になってもよい」との覚悟を示して願いは受け入れられます。今回は、前のような1年1番などというゆっくりしたものではなく、1年に20番ずつ、3年60番碁にて勝負をつけるよう命じられます。算知はいったん名人格に命ぜられているので手合は道悦の先。道悦の目標は、六番勝ち越して先互先に手合を直し、「上手の向先を維持できないのであれば名人を退くべし」と主張することにありました。

 しかし、定先ならすぐに打ち込んでみせるという意気込みと裏腹に、初めのうちは算知が善戦して最初の年の12番が終わったところで(1年20番のペースは無理があり進行が遅れました)、道悦5勝算知3勝4ジコと、大きな差はつきませんでした。両者とも最初の20番が一区切りだと考えており、そこまでに手合が直せなければ「後は打たなくても算知に碁所を任せればよいではないか」という雰囲気に成りかねないと道悦は焦りを覚えます。

 そこで道悦は、自分よりも才能があると素直に認めている本因坊跡目道策と相談し、道策の手法を採用するようになってから4連勝、9勝3敗4ジゴとなり先相先に打ち込みがなりました。芸道上の意地を通すことができた道悦は、遺恨も消え、無理に算知の名人碁所を引きずり降ろさずに、打ち込んだ後は毎年の御城碁の1局ずつのペースになり、一区切りの二十番を打ち終えたところで中断して、あとは算知が自然と退隠するのを待つことになりました。算知が碁所を退いたあとも、道悦は御上に逆らったことに遠慮して自らも代わって名人になろうとはしませんでした。道悦のあとには道策がおり、本因坊家の安泰が約束されていたこともあったでしょう。争碁についての評価は、老齢の算知が打ち盛りの道悦の定先を16番までもよく持ち堪えたことにより、算知のほうに一日の長があったといわれます。まして、道悦の後ろに道策がついては、算知も太刀打ちできなかったでしょう。
4世 道策 (名人)
 1645~1702、正保2~元禄15年。名人碁所。元禄年間に活躍。実力十三段といわれた怪物。石見国山崎村の生まれ、本姓山崎。法名日忠。幼名を三次郎と言う。碁界不世出の大天才であり、棋理の研究と深い読みは現代をも凌ぎ、碁聖と讃えられている。道策は初め安井算知への弟子入りを薦められたが、本因坊道悦が碁界の宗家である本因坊門の発展のために熱心に道策を誘った。師の道悦と算知が碁所をめぐる争碁を打っていたころには、道策の実力はすでに道悦と肩を並べるほどであり、師の対局に対して度々批評を加え、道悦も素直に道策の手段を取り入れたために、算知との争碁に勝利したと言われている。道悦は、争碁のあと、1677(延宝5)年、道策に家督を譲って引退。同時に道策は名人碁所に推薦された。その推薦状には他家の主だったものとの対戦成績を記し、寺社奉行は他家に道策碁所の異議あるものを問うたが、誰一人として反対できるものがなかった。このような抜群の成績は後世『実力十三段』とまでいわれることもある。実際、天和2年に琉球からの使節に随行した親雲上濱比賀に四子置かせて対局し1勝1敗となったが、濱比賀には『上手に対して二子(四段格)』の免状を与えている。これによると、七段上手さえ道策には2子置くということになり、道策自身十一段は自負していたことになる。道策には、五人の優秀な弟子がいたが、最年長で道策と1歳違いの道節には井上家を継がせ、最も実力の高かった道的を跡目に据えた。しかし、道的は早逝。再度跡目とした策元、及び他の高弟である本碩、八碩までをすべて二十歳代で亡くしてしまう。その後、本因坊家の跡目を定めなかった道策は、元禄15年、死の間際になって井上家を継がせた道節を呼び、『本因坊家を神谷道知に継がせたい。まだ13歳だが、将来必ず本因坊家を支えるだけの才能がある。道節は道知の後見人となって鍛え上げてほしい。道知は将来必ず名人碁所となる器であるので、道節自身は碁所を望んではならない』と遺言し、道節には他家、将棋家を含めた家元衆の前で約束させられた。(後に、事情によって遺言は破られることになる。道節を参照) 享年58歳。墓所は本妙寺。
 「手割」の理論的な基礎は道策から始まったと言われます。道策の布石理論、捨石、中盤戦略は、当時どの碁打ちにも見えていなかったものをただ一人理解していたとまで言っても過言ではありません。その読みの深遠さは現代の一流棋士が観賞しても即座には理解できないほど高度な手筋であふれています。

 道策がいよいよ名人を願い出るときに、他家との手合成績を添えましたが、ほとんどの相手を定先から先二に打ち下げていましたので、他家から文句のつけようがありませんでした。道策が名人碁所となってからの期間は、御城碁以外でも家元間の交流対局が盛んになり、道策流とそれに対抗する各家の研鑽によって、碁界全体がレベルアップしたといえるでしょう。

 ある年に、琉球使節の来訪により手合を求められ、道策は向4子で粉砕しますが、帰国に際して免状を求められて、上手(七段)に二子、すなわち三段格の免状を発行しました。これによれば道策自身は七段上手に二子置かせる計算になり十一段格ということになってしまいます。多少は甘い段位をつけたのかもしれませんが、もしかしたら、道策は自分の力を実際にそのくらいに見ていたのでしょうか。そういっても差し支えないほど実力は抜きん出ていました。

 道策には「五虎」と呼ばれ、実力的には道策に迫る5人の弟子(道的・道節・策元・本碩・八碩)がいました。この中で、道節は道策と1歳違いであったため、本因坊家の跡目には据えずに井上家を継がせ、道的を坊門の跡目としました。しかし、道的は早逝し、次に再跡目とした策元も同様に早逝。他の本碩、八碩も20代で亡くなり、道策は有望な弟子をすべて失ってしまいます。

 晩年、死の直前まで本因坊家の跡継ぎを選びませんでしたが、病床で一門と他家の当主を集めて、最後の秘蔵弟子(実子、隠し子とも伝えられる)道知に本因坊家の全てを託し、井上家を継がせた道節には「道知を名人碁所に就かせるよう鍛錬してほしい。また、道節自身は碁所を望まぬように」と命じました。
 吉和道玄、熊谷本碩、星合八碩、秋山仙朴
 道策跡目/道的
 1669~1690、寛文9~元禄3年。大いに嘱望され、本因坊家第四世道策の跡目となるも夭折。享年22歳。伊勢松坂の生まれ、本姓小川。法名日勇。幼くして道策の門下となり、13歳のころすでに六段格に達していたと言われている。道策の五弟子といわれる五人の高弟の筆頭格であった。14歳のとき師の道策と互先で白黒2局を打ちどちらも黒の1目勝ちと互角の内容であったと永くその天才が伝えられてきたが、実は道策黒番の碁のほうは貞享4年道的19歳のときものであった。しかし、それでも道的はまぎれもない天才であり、16歳で本因坊家跡目となり、その折に「段位が低い」と寺社奉行を通して他家から苦情があったほどであった。将来を大きく期待されながら、22歳の若さで他界する。墓所は本妙寺。
 13歳で四段、16歳にして既に師の道策に迫る実力のあった史上最高の天才棋士。残された棋譜は多くありませんが、道策と互先2番を打ち、共に黒番1目勝ちとなるなど、その実力評価は高いものがあります。

 跡目となり御城碁を打つことになったとき、他家から「段が低すぎる。実力はもっと上だ」と異例のクレームをつけられることもありました。本来、他家のものが昇段することに敏感になるものですが、低すぎるといわれるなど、まず考えられないことでした。将来は、道策を越えてどこまで強くなるかと期待されましたが、残念ながら胸を患って22歳の若さで早逝しました。
 道策跡目/策元
 1675~1699、延宝3~元禄12年。享年25歳。 江戸の生まれ、本姓佐山。道策の五弟子の一人。四世本因坊道策は、跡目と定めた道的と、星合八碩が続けて没した後、策元の素質を見込んで本因坊家の再跡目に立てた。18歳五段格で御城碁に出仕、安井知哲に先番13目勝ちを収め、以後7局の御城碁を勤めるが、策元も兄弟子たちと同じ結核によって25歳で没した。道策は、2度跡目が早逝した後は、新たに跡目を建てようとしなかった。後に五世となる道知が10歳になり、その才能を見てこれに望みを託したものか。
5世 道知 (名人)
 1690~1727、元禄3~享保12年。名人碁所。江戸の生まれ、本姓神谷。道知は8歳で碁を覚え、9歳で道策の門下となり、13歳のとき道策の臨終に当たって五世本因坊を継ぐこととなった。道知の早熟、突然の跡目指名、因碩(道節)に後見を託すなどの優遇は、実は道知は道策の実子であり、本因坊家は僧籍のために神谷家の戸籍に書き換えたという有力な説がある。道策が2度跡目を失ったあと、改めて跡目を立てなかったのは、道知の成長に期待したと考えられること、因碩(道節)に後見を頼み、因碩(道節)自身に碁所を望まないように命令し、因碩が黙って従ったことなどを考え合わせると、実子説は信憑性がある。13歳四段で御城碁に出仕した道知は以降3連勝し、次の御城碁のときには、実力の上がったのをみた後見人因碩から対戦相手の四世安井仙角に互先での対局を申し入れ、騒動が起きる。「確かに前回負けてはいるが、道知は四段、自分は六段であり、1局だけでいきなり互先はないだろう」と。仙角の意見は正論ではあるが、決着は争碁でつけることとなり、道知仙角の20番碁が行われる。その第1局で、道知は前日からの食あたりで体調を崩し大苦戦となるも、ヨセの妙手で逆転の1目勝ち。その後、3局めまで連勝し仙角が降参したことによって六段に上った。安心した因碩(道節)は、後見と解き、道知は名人碁所をめざすものとなったが、来日した琉球棋士への免状発行問題から、因碩(道節)が碁所に就くこととなった(詳細は四世井上因碩の項を参照)。この時代、御城碁で道知は申し合わせによる手加減をし、黒番は5目勝ち、その翌年の白番は2目か3目の負けとすべて同じ結果であり、碁界全体が衰退していた。その上、因碩が約束を破って、本人が亡くなるまで碁所を退任しなかったので、因碩亡き後、道知は他家の家元に不満をぶつける。「先の碁所が亡くなったのに自分を碁所に推薦しないのはなぜか。約束を破るなら、これからの御城碁は本気で打つ」そのように言われて他家は慌てて道知を名人碁所に推薦することになります。そのとき道知31歳。「因碩(道節)が退任しないので自分の名人碁所が10年遅れた」と言った。事実、それほどの力はあったと推測されている。名人就任が遅いとはいえ、31歳。因碩は60代になってからであるし、決して遅い就任とはいえないが、碁界を改めて発展させる間もなく没する。享年38歳。墓所は本妙寺。
 道策は、優秀な弟子を全て失い、その後は跡目を定めないままでしたが、死の直前になってから、本因坊家に入門したばかりの13歳の道知に後を継がせます。道知は本因坊家に入門する以前の出自が不明で、一説には道策の実子(隠し子)だったとも言われています。道策の遺言により、井上(道節)因碩により鍛えられ、名人碁所を目指しますが、同世代に好敵手と呼ぶことのできる相手がおらず、力を入れて打った碁は師の道節と打ったもの、あるいは20歳代の若い時期までで、晩年は力を加減して打たなければならなかった、ある意味不遇な棋士といえるでしょう。

 道知は本因坊家を継いだ最初の年、13歳から御城碁に出仕します。最初四段格として対局し3年間の御城碁を無事に勝利します。道知の成長を見た道節は、次の年の御城碁で対戦することになる安井仙角に対して「道知は非常に腕を上げたので、御城碁では同じ六段格として互先で打ってもらいたい」と申し入れます。仙角は、「以前に道知の先で1局打ち、負けはしたが、その1局だけで次は互先など承服できない」と断ります。ならば、と十番碁を以って決着することになり、手合は道知を1段進めて五段格とし先互先で、その年の御城碁を第1局として始められました。しかし、道知は前日に食あたりに遭い、体調を崩したままでの対局となりました。中盤では必敗の形勢でしたが、これに仙角が緩んだため道知ががんばり抜き、ついにヨセの妙手で逆転1目勝ちしました。仙角は負けが信じられずに3度並べなおして確認した、と言われています。その後、2局目道知先番15目勝ち、3局目道知白番3目勝ちと3連勝したところで仙角は降参して争碁を取り下げることになりました。

 道知が七段上手に昇り当主として一人前になったと見た道節は、このころに後見を解きます。このときに道知は自分を育ててくれた恩に報いることから道節を名人に推挙します。道節は「師から名人碁所を望むなと命じられている」と辞退しますが、「碁所を望むなと言ったのであって、名人になるなとは言わなかった」という道知の言葉に従い、名人井上因碩が誕生します。

 因碩が名人となってから、道策以来の琉球からの来訪があり道知が対局しましたが、帰国にあたって免状の発行を求められて困ったことになります。先例では道策が官賜碁所として公式の免状を出しましたが、現在は碁所不在のため、井上家または本因坊家の一門の免状しか発行することができません。誰かが碁所に就く必要があるとしたら、実力も、年齢人格からいっても道節がなることが自然でしたが、やはり道策の遺言に引っ掛かりがあったので、まず林門入に頼んで道知の了解を取り付けてもらうように頼みます。道知は、大恩のある道節が碁所に就いて免状を発行するのが最良の方法でしょうと、道策と違約することにも理解を示します。道節は、約束についての当事者の一人である道知が推薦してくれる形をとり、円満に碁所に就任し、また免状発行と授与の手続きが終われば碁所をすぐに退任すると約束して、いよいよ碁所となります。

 しかし、現実には免状発行後も道節は碁所を退任せず、その後の御城碁の差配や碁打衆の統率など、碁所としての職務を続け、亡くなるまでの約10年間碁所でい続けます。本来なら道策の遺言さえなければ道節が碁所であることはむしろ当然でしたので、道知も道節の存命中には何も言いませんでしたが、道節の没後1年になるころには、碁所について何の動きもない他家元にはついに怒りを爆発させます。

 「先代碁所道節の存命中はたとえ約束を違えても恩があったので何も言わなかった。しかし、亡くなって1年も経つのに自分への碁所推薦の約束について何もしないのはなぜか。もしこのまま放置するのであれば、これからの御城碁は本気で打つことにするので、そう心得よ」。実際にこの当時の御城碁で道知の対局は、黒番は全部5目勝ち。白番は1回毎に2目負けと3目負けが交互、とすべて結果が揃っていました。談合による対局であることは明らかで、道知が「本気で打つ」と脅すからには道知のほうで自由に手加減をしていたことは明らかです。

 道知に本気で打たれて実力の差が歴然とすることは、他家にとって存続が危ぶまれるほどの問題であったようです。三家は慌てて相談し、急いでその年のうちに道知を八段準名人にすすめ、その翌年名人碁所に推挙しました。しかし、道知は祝福する門弟に向かって「師(道節)のせいで、10年遅れた」と言いました。最盛期に本気で打った対局が残っておらず、好敵手不在の悲運の棋士でしたが、いったいどこでどう手加減しているのかもわからせずに勝敗・目数差まで自由自在に操作する技芸は、当時のほかの棋士たちと大差の実力であったと思われます。

 また、道知は将棋の実力も高かったようです。将棋所大橋宗桂の跡目宗銀と道知は碁将棋の違いはあっても年齢も近く交友がありました。しかし、宗銀は専門の将棋で道知とは平手で五分、いずれ名人となるべきものがこのままでは居れないと、道知に何局も対戦を挑んでいました。あるとき、師・宗桂の旅行中に宗銀は相手を求めて道知宅まで出掛けて何番も将棋を指しました。しかし、いつも同じ手順でいつの間にか形勢を損じてしまいます。意地になって何番も同じ戦型で挑みますが、まったく歯が立たないまま帰宅すると、ちょうど宗桂が旅行から帰ります。事情を話して、「どんな将棋だったか並べて見せよ」と言われるままに手順を進めると、ある局面で止めさせて正着を諭されます。なるほどと膝を打った宗銀、直ちに本因坊家に取って返し、道知にもう一番!と挑みます。件の局面で一呼吸置き、伝授の1手を繰り出すと、道知は意外な顔をしてしばらく考え、顔を上げて「父宗桂殿は旅行から帰られましたか?」と尋ねます。宗銀は知らん顔で「いえ、まだ帰りません」と答えますが、続けて道知「それはおかしい。失礼ながら、この手は宗銀殿には指せない。父上の手と思われる。宗桂殿が相手では平手ではとても、、、」と盤面を崩して終局したといいます。盤上で宗桂の帰宅を知る道知は、また当時流行った中将棋では第一人者であり、「盤上の聖」と渾名されました。
6世 知伯 (六段)
 1710~1733、宝永7~享保18年。武蔵の生まれ、本姓井口。五世道知の甥であり、道知が名人碁所となった翌年に跡目と定められた。そのとき、知伯は13歳二段。18歳のとき道知が急逝し、家督を継ぎ六世本因坊となり、六段にすすむ。しかし、23歳のとき知伯は突然死し、急ぎ他家とも協議し、門下の佐藤秀伯に後を継がせることになる。知伯からの三代は、本因坊家の最も衰退した時期ではあるが、これは才能の不足というより、五世道知が名人となってから7年、37歳で死去。続いて知伯の夭折に起因するものと言える。享年24歳。本妙寺。
 この時代は、碁界全体が完全な衰退期にありました。道知の時代に行われた談合で互いに勝ったり負けたりする御城碁は、各家元の競争意識と向上心を失わせ、また、他家の昇段には妨害が常の足の引っ張り合いの時代でした。

 道知は、碁所に就任したころ、知伯を跡目に定めます。知伯は道知の甥であったといいます。道知は38歳の若さで突然亡くなり知伯が17歳で跡を継ぎますが、24歳の若さで急死します。在位7年で、最終の段位は六段とまり。実績的には特に見るものがありませんでした。
7世 秀伯 (六段)
 1716~1741、享保元~元文6年。奥州信夫郡の生まれ、本姓佐藤。法名日宥本因坊六世知伯の門下。知伯の突然死のため、本因坊家は相続人が定められていなかった。このような場合は、他三家の協議によって相続者を定めることになるが、かつての道策、道知の弟子で高段に上っている者を本因坊家に呼ぶか、知伯の直門の弟子を選ぶかが争点となった。高段者を充てたいという意見に対して、本因坊家だけは初代以来非直門が相続されたことはないとして、知伯の弟子の筆頭と目される秀伯が選ばれることになった。このとき、秀伯は18歳五段。享保20年、秀伯が六段、若く将来のある高段者は、他に相原可碩が七段にいるくらいであった。その年には五世井上因碩が没し、2年後には四世安井仙角も没したため、碁界の長老は林家隠居の四世門入(朴入)と五世門入(因長)だけとなっていた。そんなときに、碁方将棋方の席次見直しを請求する事件がおきる。(碁打将棋指衆の席次は常に碁打が上位となっていたものを、両家元の段位、昇給順の席次にしてほしいと、将棋方が請求し、退けられた)事件の後、秀伯は地位向上のために、元文4年七段昇段を求めたが、林家五世門入が準名人になっており六世井上因碩を味方につけて碁所を狙っており、本因坊家の要望を容れなかった。従って、秀伯は安井仙角を添願人として門入に20番の争碁を申し込む。しかし、門入は病気を理由に六世因碩を代理にたてて争碁が開始される。秀伯と因碩は、元文4年の御城碁から争碁を開始し、翌年6月までに8局を消化したが、第9局を前に秀伯は吐血して倒れる。秀伯は病に倒れた後も争碁を心配し、病状は悪化するばかりであったので、それを見かねた安井仙角が争碁を和解し中止することで、精神的負担を取り除こうとしたが、その翌年、自ら再起できないことを悟った秀伯は、他三家に、自門下の小崎伯元の跡目を願い、承認されると、安心したかのごとく、その1週間後に没した。享年26歳。本妙寺。
 知伯の急死で、跡目が定められていなかった本因坊家の次の当主は、家元の合同会議により秀伯が指名されました。碁会全体の実力が衰退しているこの時期、秀伯は大きな事件にまきこまれます。

 まず、将棋界から序列見直し請求騒動が起きます。この時期、衰退しきった碁界に比べて、将棋界は史上最年少で名人将棋所となった伊藤宗看を筆頭に大いに盛り上がっていました。その勢いに乗じて、ひとつの古慣習を破ろうとしたのです。寺社奉行直轄の碁打将棋指衆が出仕するときの席次は、常に碁方が上、すなわち①碁所②将棋所③碁方家元④将棋方家元の順でした。さらに、碁所が不在になるときは碁所の席に本因坊家当主が着くことになっていました。名人将棋所が碁方の家元六段の下席となることに不満が大きかったと思われます。将棋方は「碁所将棋所を上席におき、各家元は碁将棋を問わず就任の順」とすることを上訴し、碁方は「席順は算砂以来の格式として決まっている」と反論します。幸い、上訴の直後に寺社奉行が交代し、先例・格式を重んじる大岡忠相が奉行となり席次は従来通りと沙汰が下され、事なきを得ます。

 席次騒動が治まったその翌年、五世林門入が名人碁所を望み、運動を起こします。当時ただ一人の準名人であり、年齢的にも家元四家の長老格として自信をもって自薦します。井上因碩は同意したものの、秀伯と安井仙角は納得しなかったため、門入は一旦は碁所をあきらめます。

 しかし、今度は秀伯が七段上手への昇段を望んだとき、門入と因碩が以前の恨みというだけで反対をします。そこで、秀伯は、門入を相手に二十番碁を願い出て、実力で昇段を果たそうとします。門入は高齢でもあり、二十番の勝負碁に体力的な不安を感じ因碩に代打ちを頼みます。争碁は八番を打ったところで、秀伯が病に倒れたため中止されます。秀伯もまた、六段止まりで亡くなってしまいます。
8世 伯元 (六段)
 1726~1754、享保11~宝暦4年。享年29歳。武州幸手郡の生まれ、本姓小崎。法名日浄15歳で、本因坊七世秀伯の門下に入ったが、翌年秀伯が危篤状態となり、本因坊を相続する。宝暦元年に六段に上った。享保3年には、五世林門入の碁所願いに対し、名人碁所は勝負にて決するべきとの正論を述べ、門入の碁所就任を阻止した。宝暦4年、病気を患い、門下の間宮察元を相続人とするよう願い出るが、ときの寺社奉行は『伯元はまだ若いので、回復を待て』と一旦は差し戻される。しかし、その数ヵ月後には重体に陥り、察元の相続が聞き入れられると、同年、29歳で没した。本妙寺。
 秀伯が病に倒れ、死の直前に他家元を通じて伯元に跡を継がせるよう頼みました。伯元は16歳の若さで本因坊を継ぎます。

 このとき林門入は、自分の碁所に反対する秀伯が亡くなったことと、伯元の襲位に助力したことで、機は熟したと考え、改めて碁所願いを出します。しかし、伯元は自分が本因坊に就くときに世話になったことよりも、師であった秀伯の七段昇段を反対されたことを恨む気持ちが強く、門入の碁所については、安井仙角とともに相変わらず反対の立場をとり、奉行所に「名人碁所は、勝負によって決するべき」と願い出て、これを了承されたため、ついに門入の碁所は実現しませんでした。

 この時代にも、琉球から棋士の来日がありました、名人碁所となるべきもののいない時期、対局者の人選では、長老格七段の井上因碩があたることになりました。かっての道策、道知に比べると明らかに力の劣るものが、国の威信をかけて打った2人と同じ手合で打とうということに無理がありました。
結果は因碩の惨敗となりますが、先例に倣い免状を求められ、因碩は自らを「日本大国手」と称したため、以後は琉球側に「日本の名人はこの程度か」と見くびられることになり、この先琉球棋士が来日することはなくなりました。

 伯元は、華やかな表舞台にたつような事柄もなく、重病に罹り、二十八才でなくなります。これで本因坊家は、三代続けて20代六段止まりとなり、跡を継ぐ察元に大きな期待が寄せられます。
9世 察元 (名人)
 (1733~1788)。名人碁所。享年55歳。本妙寺
 三代続いて六段止まりと停滞した本因坊家を継いだ察元は、自らの使命は名人碁所になることと、衰退しきった碁界を再び盛り上げることと考えました。そのためには、家元間の競争意識を復活させ、積極的に対局する姿勢を示して、自分の昇段のために猛烈な運動を展開します。

 まず、七段への昇段を望んだときは、最初「本因坊家は三代続いて不幸続きであり、段位もいずれも六段にとどまっている。是非昇段に同意してもらえないか。」と家元会議に持ちかけます。しかし、井上家の跡目春達や林家の新しい当主も五段から六段に昇段させて欲しいなどと交換条件を出されます。察元にしてみれば、門入などは大差で勝ち越しており、春達は自分との対局逃げているので、一緒にされてはかなわないと逆に断ります。

 難癖をつけて察元の昇段を認めない因碩に、ついに争碁を申し込むしかないと迫り、ようやく七段へ昇段を認めさせます。七段昇段後は、順調な成績によって7年後に、因碩とともに八段準名人に昇格します。このときも、因碩は自分が古参であることを楯にとって、同時昇段を承服したくないふうであったが、察元が「実力順では何も問題はない」と押し切ってしまいます。

 準名人となってから僅か1年おいて、察元は念願であった名人碁所を望みます。これは、さすがに時期尚早として、他家全てに反対されます。実力は認める、しかしまだ若い、という反対の理由に対して、「待つつもりはない。これ以上反対するなら争碁を願い出る」という察元。協議は決裂し、因碩を相手に争碁二十番が行われることになります。因碩は、先の秀伯に続いて、自身2度目の争碁となります。

 察元は、端から5連勝し、もう一番勝って打ち込むことができれば勝利宣言をするつもりでしたが、因碩は次の一番を何かと理由をつけて打とうとしません。業を煮やした察元は因碩に負けを認めるように伝えますが、因碩は「まだ六番負け越して打ち込まれたわけではない」と応えます。察元はさらに「古くから四連勝した場合は打ち込みとなった例がある」と追求しますが、「ならばどうして四連勝の時点でそう言わなかったのか。五局目を打ったのは六番手直りを承知したのではないか」と、因碩にあれこれと難癖をつけられます。しかし、結局は因碩が逃げていることは明らかであり、最後の一番を打たないまま勝利宣言が認められて、察元は名人位に昇りました。但し、力に訴えるやり方が強引過ぎたために、碁所への就任は約3年の調整期間を置いた後になりました。

 道知以来の碁所の誕生に、碁界は再び活気を取り戻すきっかけとなった点で察元は「碁界中興の祖」として評価されますが、実際に他家を圧倒的に打ち込んだ実力はもっと見直されるべきだという説もあります。察元は、碁所就任を本因坊先祖に墓参して報告するため、江戸から京都寂光寺まで東海道を大名行列並みの豪華さを以って行い、このとき本因坊家の財産の大半を使い果たしてしまったといいます。
10世 烈元 (準名人)
 (1750~1808)。享年59歳。本妙寺
 察元によって碁界は活気を取り戻した後は、本因坊の跡を継いだ烈元とその同時代の安井仙知、外家(家元と姻戚等の関係のある系列)から河野元虎、服部因淑など、いずれも華やかな戦いの棋風を持つ棋士が多く、各家ごとにも贔屓筋、後援者の碁会が増えるなど、対局の機会が非常に多くなりました。烈元は、御城碁の対局数が史上最多の46局あり、毎年「お好み」(正規の御城碁の後に、もう1局指名により対局を組まれる)が行われたことからも、御上のほうも熱心な愛好者が多くなってきたと思われます。察元から烈元までのおよそ30年間のうちに、全御城碁240年約500局のうちの120局が打たれたほどの盛んな時代でした。

 烈元は、59歳で重病に罹り、家督を元丈に譲って隠居しようと考えました。しかし、察元・烈元と2代続けて本因坊家の格式をあげるための出費が多く、お上からもらえる禄はすべてもらっておくという態度だったので、「禄は元丈に渡すが、隠居料を賜りたい」と申し出たのです。その態度が癇に障ったか、烈元の隠居がなかなか認められず、実際に隠居の手続きが行われるまで、5ヶ月間烈元の病死が伏せられるということがありました。その反発か、後の元丈は非常な倹約家であったといいます。
 河野元虎
11世 元丈 (準名人)
 (1775~1832)。好敵手として安井仙知あり、あえて名人碁所を望まず生涯を終えた。享年58歳。本妙寺
 烈元の跡を継いだ元丈は、歴代の名人にも劣らない実力者でした。しかし、まったくの同世代に、元丈と共に名人級と並び称される安井知得(仙知)がいました。活躍した時代さえ異なれば、どちらも当然名人になってもおかしくない実力を持っていましたが、2人は好敵手として80番以上戦いまったくの互角の成績を残しました。その内容も後世から見て「悪手の見当たらない名局」にあふれています。
互いに人格も優れていたため、「名人は一時代中に抜きん出た第一人者が、自然に推挙されるものでなくてはならない」との考えから、どちらも名人になろうという意欲を見せることがありませんでした。

 名人になれなかった不運よりも、終生好敵手と呼ばれて同じ時代を生きたことで数々の名局を残すことができたことを喜んだことでしょう。元丈の華やかで力強い棋風と、知得の渋く地を重視する棋風のぶつかり合いは、好対照を見せながら多くの名局、好局を産みました。

 元丈は、本因坊家当主を20年勤めた後、家督をあっさりと丈和に譲り隠居します。酒だけを楽しみに、碁界との関わりあいを一切持ちませんでした。後に述べるように、丈和は名人碁所となるために策略をめぐらせ、知得を巻き込んでいきます。知得と終生のライバルであった元丈ですが、弟子の丈和との争いに何ら口出しをせず、丈和の自由にやらせたようです。丈和が念願の名人に就いたことを見届けた翌年、世を去りました。
 水谷琢元奥貫智策、外山算節
12世 丈和 (名人)
 (1787~1847)。文政・天保年間に活躍。幻庵因碩との名人碁所を巡っての権謀術策は、幕末の囲碁史を彩っている。享年61歳。本妙寺。生地不詳で、信濃、武蔵国、伊豆、江戸などの説がある。
 江戸時代には棋聖と呼ばれる者が2人いる。前聖が道策、後聖を丈和と云う。名人碁所を巡る策略や陰謀により、人格高潔で人気のあった秀策に人気を奪われているが、「碁は戦いである」を地で行く力戦家としての丈和の棋風はもっと見直されるべきであると評価するプロ棋士が多い。

 丈和は晩成型の棋士であり、元丈門下には丈和の1歳上に奥貫智策という天才型の棋士がおり、元丈の跡目に目されていた。しかし、跡目に指名される直前、智策は病で没し、丈和に跡目がまわってきた。29歳でようやく五段、32歳で跡目となると同時に六段に進み、ようやく遅咲き桜の才能が開花する。丈和のライバルは、同時代に名人の地位を狙っていた11歳年下の井上因碩(幻庵)。2人の対局は丈和が36歳、まだ跡目のうちの対局を最後として、それ以後はまったく行われていない。丈和41歳の年初、元丈は丈和を七段に進め、その年のうちに隠居届けを出して本因坊家の家督を譲る。翌年の正月に八段準名人にすすむ。実力的には何ら問題がなかったので他家の異論を挟む余地がなかった。自分の昇段に先立って、数ヶ月前に林元美と井上因碩を七段に推薦していたので、いっそう文句を挟まれるようなことはなかった。

 丈和が八段への昇段を果たすと、因碩が、自分も八段に上り追いつこうとする。まず、因碩は実父服部因淑を通して丈和に話を持ちかけ、「丈和殿は名門本因坊家の頭領で八段、年齢も脂の乗り切ったところで、いずれ名人碁所を狙うでしょう。林元美はもともと同門なので問題ない。しかし安井家は異議を唱えるでしょう。その均衡をなんとかするのは井上家の胸三寸。貴方の地位の足固めとして、因碩の協力を取り付けるために八段にすすめてほしい」。丈和は、仙知(知得)の出方がわからなかったが、井上家を敵にまわすよりは良いと考えあいまいに承諾した。因淑は、次に仙知を訪ねて因碩の八段昇段の同意を求める。しかし、仙知は「七段に上ってまだ数ヶ月、その間手合らしい手合は1局も打っていないので賛成しかねる」と返答する。因淑は、「反対されると思ったので争碁の願い書を用意してあります。署名をいただいて、奉行所に提出しましょう」とけしかけたが、これがさらに仙知の逆鱗に触れ、追い帰される。

 丈和は、仙知と因碩が争碁を打って共倒れになればよいと思ったが、因碩の思惑を探ってみると、因碩は仙知と争碁を打つことで勉強をし、老齢な仙知が争碁を打ち切る前に体が参ってしまえば、最高位、最長老の仙知とすすんで争った実績で名人碁所を望もうというものだった。そこで、丈和は仙知と因碩の争碁の前に、林元美を添願人として名人碁所就任願いを提出した。仙知は突然の展開に驚くが、機を見るに敏であった因碩は仙知に相談を持ちかける。「丈和の名人を阻止するには争碁しかない。今、段位で対抗できるのは仙知先生のみ。実力ではまだまだ負けないでしょうが、長い勝負になれば若い丈和の体力にやられてしまうかもしれません。そこで、私が勝負を受けて立って丈和の名人を止めたいと思います。ただ、対抗するためには七段では具合が悪い。対等の八段に昇段させてもらえませんか」。こうして、仙知をうまく話に乗せた因碩は、七段としてほとんど対局もせずに八段に昇段する。

 いよいよ丈和が碁所就任願いについて碁打衆の会合が行われる。長老格の仙知が、碁打衆全員に丈和の碁所についての意見を求め、内心では因碩が異議を唱えるのを待っていた。しかし因碩は何も言わずにいたため、立腹した仙知は「自分は丈和の名人碁所に承服しかねる。望むなら自分と勝負を打つように」と宣言する。因碩の狙いは、丈和と仙知が身を削る争いで疲れたところで、勝者に勝負を挑み、漁夫の利を得ることでした。寺社奉行から、仙知と丈和の勝ったほうが碁所になることに依存はないかと問われ、因碩は勝ち残ったほうと手合を望むと申し出た。

 しかし、仙知と丈和の対局は凡そ1年間対局日程も決まらずにいた。そこで丈和は因碩に策略の手紙を送る。「このままの状態では、元丈知得時代のようにどちらも名人になれずに終わる。碁界安定のためにも碁所の長期不在を避けようではないか。まず、年長である自分が名人となり碁所に就任し、6年後に因碩殿に譲るという話はどうだろうか。条件としては、自分の名人を推薦する一文を書くこと、名人碁所を譲るときに因碩殿から金二百両を差し出すこと。約束実行のために互いに実子を人質として預けること」。因碩は、二百両の支出は痛いし、6年待つことは自分にとって不利な条件ではあるが、11歳の年齢さはあるし、6年目以降は自分がずっと名人でいられると考え、丈和の申し出を受ける。

 書面による因碩の推薦状を添えて名人碁所を願い出た後、丈和は因碩との人質交換の約束を無視する。丈和に騙されたと気づいた因碩は改めて勝負を挑むが、推薦状を書いたことから丈和に取り合ってもらえなかった。因碩は「推薦状は書いたが、その後自分は腕をあげ、肩を並べる実力をつけた」と主張する。奉行所は長老仙知を呼んで相談する。「2人とも腕は十分といっているのだから、争碁を打たせて決めたらよいでしょう」と、2人にささやかな仕返しをした。丈和は、せっかく名人になると思ったところ、また先延ばしにされ、しかも因碩と争碁を打つことになるのは並の苦労ではない、と元美に相談する。元美は、「自分は水戸藩の出身で、藩には相当顔がききます。隠居翠翁に頼んで、口利きをしてもらいましょう。その代わり、名人となったときは自分を八段に昇段させてほしい」と約束し、丈和は争碁を打つことなく名人碁所に就任する。

 丈和が名人となってからも、因碩はだまされた悔しさもあり、なんとか丈和を引き摺り下ろす機会を狙っていた。そこで因碩が一計を案じたのが、碁好きの大名を動かして、各家元総動員で大きな碁会を開催してもらい、その席上で世間の注目する組み合わせとして丈和との対局を組んでもらうことだった。こうして「松平家の碁会」が催される。因徹吐血の局として有名な対局が組まれることになる。

 因碩は松平家の大碁会を前にして、一番弟子の赤星因徹と練習対局をした、因徹の成長が著しく因碩が白を持って大苦戦をするようになっていた。そこで因碩は、今度の碁会で丈和に当たるのは自分ではなく因徹にしようと考えた。おそらく丈和も苦戦するに違いない。八段の自分より七段の因徹に敗れれば「七段の先に完敗するとは名人の資格が問われる」と話を持って行きやすい。こうして、松平の碁会では丈和に因徹があたり、序盤は井上家秘伝の大斜の奇手により丈和が苦戦するが、中盤になって「丈和の三妙手」といわれる好手で逆転。因徹は師の頼みを果たすために難局打開策を練り続け、遂にそれもかなわぬ無念さから盤上に吐血して倒れ、命を落とす。

 因碩を退けたものの、数年して丈和にもうひとつの問題が持ち上がった。自分が名人碁所となったら元美を八段に昇らせるという約束を実行しなかったために、元美は口利きをした水戸藩に面目を失った。元美は碁打衆とはいえ武家の出であり、武士としての恥をそそぐべく、丈和に争碁を申し込む事態となった。丈和は無視を決め込みますが、元美から命に代えてもと争碁を申し込まれたり、もともとの強引な名人就任が影響して、早いうちに碁所隠居をしなければならない状況に追い込まれることになった。
 水谷琢順、伊藤松和、水谷琢廉
13世 丈策 (上手)
 (1803~1847)。享年45歳。本妙寺
 丈策は、十一世元丈の実子です。十二世丈和は歴代の本因坊家の中でも晩成型であり、跡目候補でありながら早逝した奥貫智策の後、多くの弟子の中から自分を見出してくれた元丈に恩を感じていました。それ故に、丈策に自分の後を継がせ、その後に秀和を跡目として据えたのは、本因坊家としての公と、恩返しの私を両立させた最善策であったといえます。丈策は、当時の碁界で人格者として知られていましたが、段位は六段程度、本因坊家当主としてお情けで七段に上げられたということのようです。丈和が隠居したあと、因碩が名人碁所を願い出ることは予想されていましたが、そのときに反対して争碁に持ち込むのが当主である自分ではなく、跡目、部屋住みの秀和を当てようとしたところ、秀和の実力を知り、争碁を避けたい因碩に「当然当主が出るべき」と反論され、その重責からか病気と称して引きこもってしまいました。後、秀和に全てを託し引退します。
 宮重策全、勝田栄輔
14世 秀和 (準名人)
 (1820~1873)。享年54歳。本妙寺
 秀和は、因碩の名人願いを阻止し、幕末のあわただしい時期に碁界を維持し、明治になってからは碁打衆の生き残りのために奔走しなければなりませんでした。そのために、十分な力量がありながら名人となるべき時期を逸してしまいます。名人に比肩する力量を持ちながら、名人となるべき時を得なかった、元丈・知得・幻庵因碩・秀和は、後年『囲碁四哲』と呼ばれるようになりました。

 丈和の隠居後、因碩は直ちに名人願いを提出、誰か一人を指名して因碩と争碁を打たせるよう命じられ、秀和が2ヶ月間に4局の対局が命ぜられます。この争碁第1局は秀和の完勝。因碩は秀和の成長に驚き、また自身も高齢による体力の衰えを感じます。このまま争碁を続けることは得策ではないと思った因碩は、病気を理由にいったんは碁所願いを取り下げ、争碁を中止します。

 その2年後、因碩は体調を回復し再び碁所を狙います。しかし、前回自分から取り下げた願いを簡単に再度出すわけにいきません。親交のある旗本に頼んで碁会を催してもらい、そこで再び秀和と対局します。秀和としても、もしこの碁を負けると、因碩が再び名人就任を申し出ることを予感して対局に臨みます。この碁は因碩が秀和に白を持っての名局でしたが、1目及ばないと読んだ因碩が勝負手を放ち、秀和はこれを良く凌いで勝利を収め、2度目の因碩名人願いを阻止します。

 そして、同じ年の御城碁で因碩と秀和は3度目の勝負を行います。因碩は最近7年御城碁を勤めていませんでしたが、突如復帰し、正規の対局で算知と打った後、お好みで秀和との対局を望みました。しかし、この碁も秀和の完勝に終わり、ついに秀和は、3度因碩の名人願いを、ことごとく阻止したのでした。名人となる時を得なかった因碩は、晩年本因坊家と和解し、跡継ぎのいない井上家のために、丈和の実子を養子にもらいうけて自分の跡継ぎとしました。

 因碩(幻庵)が没し、秀和はいよいよ名人碁所を願い出ます。しかし、そのときの老中が井上家の旧主筋であったため、結論を先延ばしされ、ついに却下されます。その年、秀和は御城碁で十四世因碩(松本因碩、幻庵の二代後)と対局することになり、井上家の反対を沈黙させる絶好の機会を得ました。これまでの実績から考えれば秀和が白でも負けるなど考えられない相手でしたが、この1局に限って「幻庵が秀和の名人を阻止せんと乗り移ったのではないか」と言われるほどに因碩の出来が良く、ついに1目及ばず、秀和の名人は実現しませんでした。

 以降は、幕末の政情不安定な時期に入り、コレラの流行で跡目秀策を亡くし、御城碁も中止となります。秀策を失った痛手は大きかったが、その後には秀甫がいました。秀甫の成長は著しく、これで本因坊家も安泰かと思った矢先、丈和の後妻の口出しにあい、秀甫は本因坊家をでてしまいます。有望な後継者を失い、秀和は本因坊家の跡目に実子の秀悦をたてます。

 明治維新後、幕府の禄を失った棋院四家は、俄かに窮乏状態となり、本因坊家より出火して周囲数十戸が類焼。失意の秀和は明治6年に没しました。
 秀和跡目/秀策
 (1829~1862)。本因坊秀和の跡目となる。秀策流布石を始める。秀和より先に夭折したため本因坊にはなれなかった。享年34歳。本妙寺
 秀和の跡目となりながら、34歳で病死し本因坊を継ぐことができなかったにも関わらず、秀策は歴代本因坊の中で最も著名な棋士と言えるでしょう。幼少から碁に関する逸話も多く、泣いても碁石を与えれば泣き止んだとか、折檻で押入れに閉じ込めたら中にあった盤石で棋譜を並べていたというような話が伝わっていますが、その天才は事実であったらしく幼くして藩の有力者の後ろ盾を得て本因坊家に入門。隠居していた丈和と入門の3子局を打ちます。この碁は打ちかけとなりましたが、丈和は秀策の才能を見て「これぞ150年来の天才。坊門の勢いは大いに増すだろう」と語ったといわれます。150年来というのは、道策以来だという最大級の賛辞でした。

 期待の通り成長した秀策は、秀和が当主に就いた直後に跡目となり、いよいよ御城碁への出仕を果たします。秀策は、13年間に19局の御城碁を打ち、全勝するという快挙を成し遂げたことは良く知られています。但し、途中林家跡目柏栄との3子局が組まれそうになったときは、柏栄が林家を継いでからにしたいと断るなど、本人も全勝を意識して置碁を避けたフシもあります。

 当時秀策が愛用した黒番で堅実な勝ちを目指す布石は秀策流と呼ばれ、庶民にも愛されましたが、江戸の大火とコレラの流行によって御城碁は中断、直後に生母を亡くし、失望感を紛らわすかのごとくコレラ患者の看病にあたり、自身も感染して命を落とすことになったのでした。
 小澤三五郎
 15世/秀悦
 享年41歳。
 秀和は、跡目秀策が亡くなったことを大いに悲しみますが、そのころ既に秀甫が著しい成長を見せていましたので、改めて秀甫を跡目としようと決めていました。しかし、丈和の未亡人で秀策の義母でもある勢子が秀甫を嫌っており、秀和は秀甫跡目をあきらめざるを得なくなりました。代わって、跡目に付いたのは、秀和の長男で14歳三段の秀悦でした。秀悦は、名門本因坊家の存続のために精進をつづけましたが、十五世を継いでから5年、ついに重圧に耐え切れずに精神に異常をきたし、退隠せざるを得なくなりました。
 16世/秀元
 (1857~1917)。幕末から明治維新の混乱期に遭遇。囲碁はあまり強くなかったようだが、混乱期に二度のお勤めで本因坊家を守る。享年64歳。本妙寺
 秀悦が急に隠居することになり、秀和の次男で林家養子となっていた秀栄と、三男の百三郎(秀元)が話し合った結果、次の本因坊は秀甫しかいないということになりました。そこで、坊門の中で丈和の三男である中川亀三郎を通して秀甫に襲位を打診するように頼みますが、亀三郎は、「まだ秀悦が回復しないとは限らない。もしものことがあれば百三郎に継がせればよい」と言って了解しませんでした。秀栄は、百三郎をたてて跡目とすることに決めましたが、それを推薦した亀三郎が、実は、自分がいずれ本因坊の跡を継ぐ野心を持って秀甫に話を持って行ったと聞いたために憤慨します。亀三郎は前言を翻して、秀甫を跡目にしようと言い訳をしますが、それがいっそう秀栄を怒らせます。

 秀甫は、周囲に振り回されて結局は本因坊家を去ることになり、百三郎が秀元を名乗り十六世を継ぎます。しかし、秀元は兄弟のなかでもっとも才能に恵まれず、本因坊となったときは三段でした。碁会においても、他家の高段者に「お茶を入れてくれ、煙草盆を頼む」と用事をいいつけられて、それを憤慨しても「いや、昔からの癖がでただけだ」などとあしらわれる始末でした。

 四段から上がることがなかった秀元には、本因坊家当主の席は相当の重圧であったでしょう。低段の本因坊を見かねた秀栄は、林家を断絶させて本因坊家に戻り、弟の秀元を強的に隠居させて、自分が十七世を継ぐことになります。秀元は、無理に本因坊に据えられたかと思うと、急に剥奪されたようで、兄の秀栄の身勝手に怒り、兄弟はずっと不仲であったといいます。
 17世/秀栄
 享年56歳。
 秀和の3人の息子がいました。幼少時代、3人が並んで対局しているのを後ろで見ていた秀和に、ある人が問いかけました。「3人の息子の中で誰が一番才能がありますか?」すると、秀和は黙って次男の秀栄を指差したといいます。しかし、本因坊家には、秀和の9歳下の跡目秀策、さらにもう9歳下には弥吉(秀甫)がいて、長期安定と思われたため、秀栄を跡継ぎのいない林家に養子に出し、林家十三世を継がせました。

 本因坊秀悦の時代に、秀甫が囲碁の研究会を行う組織である「方円社」を設立。研究会という性格から棋院四家も利害関係なく、これに参加しました。方円社参加と時期を同じくして、秀悦の精神病により、本因坊交代の必要が生じましたが、秀栄が考えたのは、ここで自分が本因坊家に戻ると林家は断絶、家元の減少によって勢力が弱まり方円社に飲み込まれかねないとして、弟の秀元に継がせることでした。しかし、棋力三段の本因坊は他家元から軽んじられ、秀元本人も上昇志向がなく、秀栄に対しては無理に本因坊に就かされた恨みを持っていました。

 秀栄は、いくつかの運動をおこし、江戸時代からの序列に従い、方円社での席次も本因坊を最上席とさせたり、段位の発行は家元の独占とし、方円社には認めないなどを徹底しました。秀甫をはじめ方円社の幹部がそれにおとなしく従ったのは、家元の窮乏状態に比べ、方円社は後援者も多く財政的にひじょうに豊かであったため、名を捨てても実を取ったからです。しかし、方円社の手合において段位制、昇段制が表せないことは実際に弊害が多く、後に方円社は免状発行に踏み切ります。それも方円社と家元間の仲を裂く一因となりました。

 しかし、方円社が多くの後援者を得て発展するにつれ、その運営資金の活用の一切が秀甫が取り仕切ることなどに不満を抱き、両者は分裂します。現実に分裂してみると、本因坊家の窮乏をはじめ、各家元の存亡の危機が迫ります。また、林家では先代柏栄の未亡人が財源の一切を押さえており、財産を使い果たしてしまったため、秀栄は林家の断絶を決断して本因坊家に戻り、秀元を半ば強制的に若隠居させて十七世を継ぎます。

 本因坊家を継いだといっても、特に復興の手段もない秀栄に、明治維新の影の実力者であった後藤象次郎は、本因坊を再興し存続を目指すなら、実力において時の第一人者に委ねるのが最善であると説得します。さらに井上毅、金玉均らの説得によって、5年ぶりに方円社の手合に参加し、秀甫と和解して対局することになりました。

 それから、方円社の定例会で連続して対局(最終的に10番続けられたので、後に「和解の十番碁」などといわれます)。8局めを打ったあと、秀栄はしばし期間をあけて、本因坊の座を、実力第一位でる秀甫に譲ることを真剣に検討します。秀栄秀甫の対局は8局目まで秀甫の5勝3敗。このまま秀栄が連敗すると手合直りとなってしまう心配がありました。手合を直されたうえに本因坊が移動すると、あたかも力で奪われたかのような印象を与えかねません。秀栄必死に第9局を勝ち、なんとか打ち込みを逃れます。

 秀栄は、ついに本因坊の禅譲を決意しますが、本因坊家の存続と権威の維持を求めて条件をつけます。
1、家元協議による段位制度を、方円社に適用すること
2、方円社の発行する段位免状に、本因坊の署名を必要とすること
3、秀甫の後、本因坊継承者は、血族やしがらみなく、実力において決定すること
また、この3項以外にも、本因坊当主は方円社社長を兼任することを約束し、本因坊家の存続を秀甫に託すことになりました。

 秀栄はまず、秀甫の方円社段位である八段を本因坊の名で正式に認め、そのうえで本因坊を譲ります。それを受けた秀甫は直ちに秀栄を七段にすすめました。こうして、第10局が打たれますが、互いの襲位と昇段の立場を公に披露する形となりました。しかし、秀甫が本因坊として対局した碁はこの1局のみで、襲名披露などの会を催す間もなく、3ヵ月後に急逝し、秀栄は再び本因坊家再興に立ち上がらなければならなくなるのでした。
 18世秀甫
 (1838~1886)。享年49歳。本妙寺
 江戸末期、本因坊家に入門し、当主秀和、兄弟子秀策というこれ以上ない環境で秀甫の才能は開花しました。秀和の円熟期に白を持って打ったのは秀甫ただ一人(秀策は先互先の手合となっても白を持つことはなかった)であり、晩年の秀和も「もし、秀策が生き永らえたとしても、今の秀甫にはかなわないのではないか」と認めていたといいます。

 秀策の急死で、坊門を継ぐのは秀甫しかいないと自他共に認められるだけの実力をも持ちながら、丈和の後妻で秀策の義母でもある勢子が秀甫を嫌っていたために、跡目となることを了解されませんでした。秀和はせめて秀甫の不満を和らげようようと、秀悦を跡目に立てるのと前後して秀甫を七段に昇段させます。七段となれば剃髪して御城碁出仕に備えることになりますが、御城碁は秀策の存命中を最後に、ついに再開されることはありませんでした。失意の秀甫は、明治維新以後まで何度か放浪の旅にでます。

 明治11年、秀和の跡を継いだ秀悦が精神の病で退隠せざるを得なくなったとき、秀悦の兄弟である秀栄、百三郎(秀元)の間では、改めて秀甫に本因坊を継いでもらうという話が持ち上がりました。そのとき秀甫に話を持っていく使者となった丈和の三男中川亀三郎は、自らも本因坊家を狙う野心を持って秀甫に接触したため、これを知った秀栄は百三郎を立てて本因坊を継がせてしまいます。

 本因坊の後継の話がありながら、それを反故にされた形になり、秀甫は失望と不信感から本因坊家を出てしまいます。秀甫は当時の第一人者としていう自負があり人脈も豊富だったので、後援者を得て囲碁研究会の組織として方円社を設立し、その力をふるう場を得ます。毎月、定例手合を行い、その棋譜を秀甫の解説付きで、機関紙「方円新報」に発表するなど、一般大衆に広く受け入れられました。

 棋界第一人者である秀甫を中心とした研究会に、棋院四家も利害関係を超えて参加します。しかし、方円社の定例手合を機関紙「囲碁新報」に発表するときになって旧来の席次が守られないことに家元側が難色を示します。序列は江戸時代からの慣習に従い、本因坊家当主を最上席、次に各家元が襲位の早い順、各家元の跡目とするよう要求を呑ませます。また、段位は家元のみが発行権を持ち、方円社がかってに段位を決定することを許しませんでした。

 秀甫にしてみれば、江戸幕府の後ろ盾を失った格式には何のこだわりもありませんでしたし、方円社の経営は自分の手にあったので、あっさりとこれに従い、序列の訂正、方円新報には段位を掲載しないこととしました。ところが、段位については手合の都合上問題があったため、「段がだめなら、独自に級位制としよう。海外普及をするにも、ナンバーワンというように1が上位とするほうがわかりやすい」と良い、従来の初段を9級、名人(九段)を1級とする、級位制度を打ち立てました。

 経営の実権を持つ秀甫の自由な振る舞いに、秀栄を中心とした家元側はついに方円社から離脱することを決めます。しかし、方円社には既に秀甫の下で学びたいという俊英が集まっていました。政財界の有力な後援者も得て、家元側の離脱は何の問題にもなりませんでした。しかし、本因坊家の名を惜しむものから、過去の功績とその延長上に現在の碁界があることを説かれ、家元側との和解を決意します。5年ぶりに方円社の定例碁界に出席した秀栄に、「しばらくぶりであるし、第一人者同士として、10番ほど続けて打たないか。」と持ちかけ、世に言う「秀甫秀栄の和解の十番碁」が打たれることになります。しかし、この十番碁の途中、秀栄は秀甫に定先で勝ち越すことができず、いろいろと悩んだ結果、周囲の勧めもあって、本因坊家を存続させるためには碁界の第一人者を充てるべきであるとして、秀甫に本因坊を継いでもらうことを決意します。

 秀甫は、喜んでこの話を受け、秀栄の提示した条件「方円社の級位制を段位制に戻すこと」「方円社の発行する免状は本因坊の連名とすること」「以後、本因坊の継承者は、血縁や私情をなくし、実力第一位のものとすること」を快諾します。もうひとつ、非公式の条件として「本因坊が方円社の社長を兼任する」ことも了解して、秀甫は晴れて十八世本因坊となります。

 本因坊襲位に先立ち、秀栄は十七世本因坊として、秀甫の八段を正式に認めます。十八世本因坊となった秀甫、秀栄を五段から六段を飛ばして七段に昇段させます。こうして、本因坊の立場が入れ替わって、十番碁の最終局が打たれました。しかし、秀甫が本因坊に就いてから3ヵ月後、盛大な襲位式の準備までしていながら秀甫が急死します。秀甫が本因坊として対局したのは結局秀栄との十番碁最終局のみであり、これが秀甫の絶局となりました。この急展開に、秀栄は混乱のなか再び本因坊家を支えなければならなくなってしまいます。
 19世/秀栄
 (1852~1907)。名人の中の名人といわれた。56歳。本妙寺
 (再襲) 秀甫の死によって、再度本因坊となった当時の秀栄は、再襲ではなく、十七世本因坊として事態を収拾して後継者を定める心積もりがありました。碁界の第一人者が本因坊、また方円社社長となることを秀甫と約束したことから、秀栄は方円社の次席である中川亀三郎と勝負碁を打つことを希望しました。しかし、中川と方円社側は、勝負碁を打たずに中川亀三郎に全て相続させるべきといい、秀栄と秀甫の和解の労を取った後藤象次郎も方円社の側につきて秀栄の説得に回りました。秀栄はあくまでも勝負によって決めることにこだわり、中川は勝ち味の薄い勝負を避けて方円社社長の地位だけは守ろうとして、自分は本因坊家を継ぐつもりがないと勝負を辞退し、直ちに方円社の2代目社長に就いてしまいます。これによって、秀甫と約束した本因坊と方円社の関係は永久に失われることになりました。そして正式に秀栄が本因坊を再襲、十九世となりました。

 秀栄は秀甫との十番碁を経て才能が開花し、同志と「囲碁奨励会」を発足。その組織を発展させて月例手合と後進の指導を目的とした「四象会」を立ち上げます。すでにこのころは第一人者となった秀栄の下には多くの弟子が集まっていました。その中にはかっては方円社の塾生であったもの多く、後に21世秀哉となる田村保寿もいました。秀栄は、明治38年に周囲の後援筋の薦めにより名人に推挙されます。江戸幕府の碁所と関係のない初めての名人が誕生し、「日本囲棋会」を設立して碁界の統一を目指します。しかし、秀栄も秀甫の死と同じように「これから」というときになって世を去ってしまいます。名人就位から7ヶ月後のことでした。晩年は後継者選びに苦慮し、芸の上では田村保寿(後の秀哉)が自分に最も近いと認めながらも、人格面で相容れないものがあり、一番に目を掛けていた雁金準一が、なんとか田村を追い抜いてくれないかと期待していました。後継者を指名しないまま亡くなったことで、また継承者問題が発生することになります。
 20世/秀元
 (1857~1917)。享年64歳。
 (再襲)秀栄が亡くなると、本因坊一門は、秀栄が後を継がせたいと思っていた雁金準一を擁立する「秀栄未亡人まき子派」と、それに反発し実力第一位の「田村保寿派」に分裂する事態となりました。収拾がつかなくなった一門を収拾するために、田村に「隠居秀元がいったん跡を継ぎ、本因坊当主の資格をもって田村に譲ればよい」と提案し、納得させます。このとき、雁金は段位の上で六段、田村には及ばないために、すぐに本因坊を継がせること自体に無理があったため、秀元が立てば、秀栄の弟でもあるしだれも反論することができません。
秀元自身は、第一人者でないものが本因坊家の当主につくことの不都合を身をもって知っていました。こうして、事態を落ち着かせた後、秀元は改めて自分の意思として、実力の通り田村を次の本因坊に指名しました。
 21世/秀哉
 (1874~1940)。名人。彼は本因坊の名跡を日本棋院に寄付し、それ以降、本因坊の称号はタイトルとなった。享年66歳。本妙寺。
 秀哉は、秀栄があらゆる棋士を先二以下の打ち込んだなか、唯一定先を維持し、本因坊となってからは勝負碁にことごとく勝ちを収め、不敗の名人といわれながら、歴代の名人に比べて評価がいまひとつなのは、かつての秀栄が玄人好みの手厚く落ち着いた芸風であるのに対して、力戦派で泥臭い印象があり、孤高の棋士として人当たりが悪かった面があるためかもしれません。

 田村保寿(秀哉)は、初めは秀甫の方円社の塾生となりました。しかし、方円社ではさしたる実績もなく、免状さえ発行されませんでした。秀甫が亡くなり、2代目社長中川亀三郎の時代になっても、田村は入段も許されず、方円社と家元側の段位(方円社は級位)の食い違いなどを見ていた田村は、棋士としての生活に嫌悪感を抱いて方円社を出てしまいます。とはいえ、子供のころから囲碁一本の生活をしてきた田村が、いまさら別の生き方ができるわけもなく、かといって飛び出した方円社に戻ることもできませんでした。自力で囲碁指南の稽古場を開いたものの、19歳無段の少年棋士に習いにくることもなく、方円社時代に顔見知りとなった金玉均に頼んで秀栄に引き合わせてもらいました。秀栄は田村と3子で3番打ち、3連勝。手合を直した2子番も勝ちを収めました。秀栄は田村に「何段が欲しいか」と聞かれて、田村は五段が欲しいと言いかけて不遜と思われてはいけないと、四段を願い、直ちに許されます。

 秀栄の晩年、周囲の全てを二子から先二まで打ち込んだなか、田村ひとり先で拮抗していました。しかし、秀栄の他の弟子に比べて田村は秀栄との対局が少ないのは、実力的にただ一人自分を追うものだけに、だんだんと気軽に打てるような相手ではなくなってしまったということと思います。田村は秀栄との対局はなくとも、他の棋士を秀栄と同じように打ち込んでいましたので、秀栄が八段となるときに田村を六段に進め、さらに七段にすすめて「田村七段の先を維持できる自分は九段すなわち名人である」と無言の主張をする布石を敷いたと言えます。

 最初は、秀栄に目をかけられていた田村は、その性格的な面から次第に疎んじられるようになります。田村は己の利害に正直に従い、自分の力のみを信じ、秀栄の生き方と正反対でしたので、実際にその棋力が秀栄に近づいたときに、ときおり見られるようになった驕慢な態度が秀栄には受け入れられませんでした。秀栄の目は将来性に期待していた雁金準一に向けられるようになっていきます。雁金は実力で田村に及ばないものの、律儀な態度と礼儀正しさが気に入られました。また、田村の行動は何かと秀栄と衝突します。特に、田村が安井家の養女目当てに頻繁に安井算英の自宅に出入りすることで、田村は本因坊家の跡継ぎとして当てにはできないのではないかと考えるようにもなりました。

 秀栄は名人となった年の秋から結核にかかり、跡目の問題が現実味をおびてきました。雁金がなんども見舞いに訪れるのに対して、田村は見舞いも拒否され、秀栄あてに手紙で不満をぶつけます。「実力順なら自分が跡目に定められないのはなぜか。自分を見限って、方円社から転じて2年ていどの雁金に鞍替えするつもりか」。秀栄自身も、雁金の才能を信じているものの、現状の実力ではまだ田村に及ばないことはわかっていました。死の直前、雁金を六段にまで進めますが、跡目の指名までは躊躇したものか、まもなく秀栄は世を去ります。

 ここで跡継ぎについて、秀栄の意向であるとする雁金派と、実力順でなるべきという田村派に分かれ、前述の二十世本因坊秀元を経て、二十一世秀哉が誕生します。秀哉は八段準名人に上り、大正期の碁界で敵するものはすでにありませんでした。しかし、秀哉の最終目標は、名人とともに碁界の統一にありました。秀哉に定先を保っていたものは、広瀬平治郎、雁金、内垣末吉の3名。広瀬は健康上の理由で手合を避け、雁金は対局が実現しません。内垣一人ががんばって入るけれど、芸で対等に立ち向かえるものがいない以上は、秀哉の名人はだれも妨げることはできませんでした。

 秀哉が名人となった当時、林、安井家はすでに断絶し、井上家は関西に移住してかろうじて存続していました。井上家では十五世因碩の没後の跡目に、本因坊を継げず手合から遠ざかっていた雁金を立てようとしますが、井上一門の恵下田栄芳が強く十六世を望んでいることを知ると、跡目争いから降りてしまいます。しかし、この1件から雁金は手合に戻る気持ちがわいてきました。広瀬平治郎が5代目社長を務める方円社に復帰し、16年ぶりに秀哉と3局の手合が組まれ、1勝1敗1打ち掛けとなりました。

 秀哉にしてみると、自分を含め修行時代のライバルたちも、すでにうち盛りを過ぎたものの手合よりも、これからのスター候補、鈴木為次郎、瀬越憲作らが後から迫ってくるのをかわすのに苦労、秀哉としては、必然彼らとの対局を避けるようになりました。

 鈴木、瀬越に続いて、方円社の広瀬が参加し、彼らが中心となって交流手合は一般的になってきました。若手の彼らは、過去のいきさつにこだわって閉鎖的になっている状態を憂慮し、碁界統一へ橋渡しをしたいと考えていました。刺激を受けて、本因坊家、方円社の若手合同による研究会「六華会」が発足。最初6人から始まりましたが、最後に日本棋院に参集するさいには22名からなる研究会になっていました。

 大正10年には、秀哉名人を中心に具体的な碁界再統一運動として「日本囲碁協会」案が持ち上がりました。しかし、秀哉は別格として、その他のものは手合の成績に関わらず同段は同格という不当に平等な扱いを強いられていたので、一部の棋士が独自の研究会である「裨聖会」が組織されます。最初の会員は、雁金、鈴木為次郎、高部道平、瀬越憲作の4名でした。裨聖会は、総互先制、白番打掛特権の廃止、点数制の採用など、革新的な会とし、秀哉に「逃げずに勝負しろ」と迫ったのでした。

 裨聖会に設立は、日本囲碁協会の発足に水を差しましたが、代わって、裨聖会によって有力会員を失った方円社と秀哉が合同して、「中央棋院」を設立します。しかし、わずが3ヶ月で仲間割れ、方円社側の脱退によって、碁界は本因坊家、方円社、裨聖会の三派に分裂しました。

 そこに大正12年関東大震災が起こり、各派は全ての基盤失ってしまいます。これを機に、碁を打つことしか知らぬ棋士が生活するためは大きな一つの組織に集合するしかないと、財閥大倉喜七郎男爵に援助を頼み、日本棋院が創立します。

 しかし、創立の直後、規約違反により雁金、鈴木、高部の元裨聖会、それに加藤信、小野田千代太郎が除名されます。理由は、日本棋院の棋譜は各新聞者と契約して抽選で配給することにしたのに、そういう統制を不満に思っていた報知新聞社と、積極的に棋譜掲載を望む棋士が合同したのでした。彼らは、報知新聞の後援を得て「棋正社」を立ち上げます。のちに、加藤、小野田が復帰し、3人となった棋正社は、読売新聞社長正力松太郎を介して、棋正社と日本棋院の対抗戦主催を持ちかけます。正力は、新聞の購読部数を伸ばすために一発当てようと思っていたところ、この企画に飛びつき、棋院と棋正社の対抗戦を実現させます。

 院社対抗戦として名高いその緒戦は、いきなりの大将決戦。秀哉と雁金から始められます。秀哉の石取り碁として著名な1局は、専門棋士の碁ではめったに見られない大攻め合いとなりました。大一番で秀哉は安全で息の長い勝負を選ばす、猛然と雁金の黒を取りに行き、互いに20目以上の大石が攻め合いとなり、この棋譜を見るために掲載新聞は発行部数を伸ばし、どちらが勝つかが社会的な関心事にまでなりました。結果は、攻め合いを制した秀哉が雁金の時間切れで勝利(盤面でも優勢だった)し、2戦目以降は、秀哉は退いて棋院の精鋭代表と棋正社の勝ち抜き戦が行われ、しかも段割りの手合であったために、あきらかに棋院側の若手に分があって、結果は棋正社の惨敗。途中、小野田も棋院に復帰して、棋正社は、雁金一門と高部だけになってしまいました。

 棋正社を退けて、日本棋院は囲碁の総本山としての基盤が徐々に安定してきました。昭和2年、従来の定式手合を廃し、朝日新聞をスポンサーとする大手合が始まります。棋士の成績や、誰が昇段するかなど、一般の囲碁ファンに広く目に触れるようになり、木谷、呉清源の新布石や、読売の選手権戦で優勝した呉清源と、秀哉の記念碁(呉が1手目三々、3手目星、5手目天元に打ったことで有名)などをきっかけに、各新聞社は囲碁欄にスペースを割くようになりました。

 東京日日新聞は、碁と将棋の両方について名人戦を企画しましたが、将棋の十三世名人関根金次郎はすぐに時代の流れを感じて納得しましたが、囲碁界は段位と手合割の格式が厳しく、総互先の選手権には最初納得しませんでした。そこで、故意に段割りによる選手権戦を2度開催して、四段と六段の優勝者が出るという現実を見ることによって、「実力第一位を決めるのに、段割りでは上のものが損だ」ということを納得させました。

 しかし、なおも優勝者の称号について秀哉は「名人」ではなく「本因坊」の名跡にこだわりました。日本棋院の創立間もないころ、秀哉は跡目にと期待していた小岸壮二を病気で失っていました。小岸亡き後、本因坊の跡目に悩んでいたところに名人戦の話があり、是非、本因坊の名跡を選手権で勝ち抜いた最高実力者に継がせたい。日本棋院の若い棋士はみんな自分の弟子のようなものだ、と考えました。こうして、本因坊の名跡を新聞社が買取り、日本棋院に寄贈しこれを争奪する選手権戦を開催することになり「本因坊名跡争奪全日本専門棋士選手権大手合」と名づけられます。

 選手権戦に先立って世襲制最後の本因坊、秀哉の引退式として記念碁が行われます。引退碁の対局者は選抜戦を勝ち抜いた木谷實七段。持ち時間各40時間、初めて封じ手制度が用いられました。打ち継ぎ15回、途中秀哉の病気入院による3ヶ月の中断もあって、6ヶ月にわたる長期対局は、高齢の秀哉は体力的に無理がありました。秀哉は木谷七段の先を向こうにまわして中盤までは形勢不明でしたが、病気中断の影響もあって、次第に十分な体調では打てなくなります。そんな中で木谷の封じ手を「時間ツナギの命令手を打って、休みの間に研究しようとした」と決め付け、冷静さを欠いた1手の失着によって形勢を損ねてしまいます。後に、この碁の解説をしたときには、秀哉はその手を「今が打つ時期である」と認めたように、体調がままならない秀哉が短気を起こしてしまったのでした。昭和13年6月に開始された引退碁は、同年12月、木谷七段の5目勝ちに終わります。木谷の消費時間は34時間。秀哉も約20時間を使い、最後の勝負碁で精根尽き果ててしまい、その約1年後、新しい選手権戦による本因坊の誕生を見ることなく、世を去りました。

【井上家】 
 井上家は、幻庵の世系書き換えによって中村道碩を元祖とし、以下一世ずつ繰り下げられた。
1世 中村道碩 (名人)
 1582-1630、48、名人碁所。天正10~寛永7年。京都に生まれる。一世井上因碩(玄覚)の師であったことから、幻庵の時代に井上家の元祖一世として世系に追加された。本因坊算砂の弟子であるが、慶長17年の記録では、31歳の道碩は、師の算砂(52歳)、利玄、将棋所宗桂と同じ五十石取りとなっており、棋力は相当のものであったと思われる。残された棋譜からも、中盤以降の力は現代でも通用すると評価される。算砂は晩年碁所としての家督の全てを道碩に譲り、道碩は二代めの名人碁所となる。また、算砂の遺言により、算悦を鍛え本因坊家再興にも尽力する。
2世 因碩 (***)
 1605-1673、69、上手七段。慶長10~延寶元年。古因碩または、玄覚因碩という。山城出身。中村道碩の弟子として、道碩の跡を継いで井上家を興す。坊門の記録に山城の出身とあるだけで、当時井上家本因坊家とも火災があり大半の書類が焼失し、詳細は不明である。
3世 因碩(道砂) (準名人)
 生没年不詳(1650-1696、46、準名人八段)。石見出身。本姓山崎、幼名千松。本因坊道策の弟。本因坊道悦の門下で道砂を名乗る。二世井上因碩の没後、相続人のなかった井上家について、道悦が道砂の相続を願い出て、井上因碩となる。(以来、井上家は代々因碩を名乗ることになる)退隠後は休山と名乗った。
4世 因碩(道節) (名人)
 1646-1719、74、 名人碁所。正保3~享保4年。美濃国大垣の生まれ、本姓桑原。本因坊道策の五弟子の一人であるが、他の4人とは年齢が離れており、道策の1歳年少であったため、他の弟子とは立場の異なるものであった。貞享元年、本因坊道策は小川道的を本因坊家の跡目と定めるにあたって、道節の処遇について苦慮することとなった。道節は道的に劣らぬ実力であったが、年齢的に道策の後を継ぐには無理があったので16歳の道的の将来性に託すこととした。これにあたり、道節から不服が出て争碁を求めることが予想された。かといって本因坊家の味方として留め置かなければならないと考慮した結果、道策は道節を井上家三世因碩(道砂)の相続人とした。元禄3年、井上家の跡目となり、元禄10年三世因碩が没して四世因碩を名乗る。元禄15年、師の本因坊道策は臨終の間際、道節を初め各家元を呼び、本因坊五世道知の後見となって本因坊家の繁栄に助力するように依頼した。このとき、道知を名人碁所に就けるよう託し、道節自身は碁所を望まないことを約束させられた。このとき、道節は八段準名人に勧められている。道知の後見となってからは、御城碁の対局もなく、師の遺命の通り道知の養育に専念。道知が無事に御城碁を勤めるようになって4年後、その実力を試す十番碁が打たれ、このとき道知定先の手合で道節因碩の6勝3敗1持碁。その翌年にはさらに七番打たれた。後の七番碁は棋譜もなく、結果も不明だが、おそらく道知の進歩が著しかったものか、道節は後見を解くことを決めた。このとき、道知から道節の長年の指導に報いるために、名人に推挙したいと考えたと思われる。道節は、師の遺言で名人碁所とならないことを約束していると断ったが、道知は「碁所を望むなと言ったのであって、名人の地位には上れる」と言い納得させるのであった。その後、宝永7年琉球からの棋士が来訪し手合を望み、本因坊道知が対局。帰国にあたって免状の発行を求められたが、碁所不在であった。道知は21歳の若年でまだ七段であったため、長老格で名人の地位にある道節が免状発行の目的のみで一時的に碁所に就くこととなった。師の遺言には反するが、適当な対応であると他家も了承し、この免状発行が終わったら直ちに碁所を退隠して道知に譲ると約束して、実際に碁所として免状をしたが、退任の約束を果たさず、没するまでの9年間碁所であり続けた。元来、名人碁所は本因坊家の独占でもなく、道策の遺言こそが無理なことであり、道節の実力からして、また、道知が年齢的に21歳と若すぎたことから考えても、道策と道知をつなぐ道節因碩の名人碁所時代があっても不都合はなく、碁所を退任しなかったことを責めるにはあたらないだろう。
5世 因碩(策雲) (準名人)
 1627-1735、63、準名人八段。寛文12~享保20年。越前の生まれ、初めの名を三崎策雲。本因坊道策の弟子。元禄15年四世井上因碩の跡目となり、名を因節と改める。享保4年四世因碩の逝去により五世因碩を継ぐ。本因坊道知が名人碁所となったのち、安井仙角、林門入とともに八段準名人にすすんだ。
 相原可碩
5世跡目 友碩 (六段)
 1681~1726、天和元~享保11年。美濃の生まれ、本姓高橋 (高橋友碩) 。初め本因坊道策の門下となり五段まで進む。後、四世井上因碩の門に入り六段を許された。享保5年、五世井上因碩の跡目となり、御城碁に出仕したが、家督にはいたらず没する。尚、同じ道策門下で友碩の名は、菊川友碩があるが、別人。
6世 因碩(春碩) (準名人)
 1707-1772、66、準名人八段。宝永4~安永元年。下総の生まれ、最初の名を伊藤春碩。五世因碩(策雲)の門下で、跡目友碩の物故により再跡目となる。このとき21歳六段。その年から42年間御城碁に出仕し、40局を勤めた。享保19年には5五世因碩の隠居により六世因碩を継ぎ、その翌年七段。六世因碩は、生涯に本因坊家と2度にわたって争碁を打った。元文4年、本因坊秀伯の七段昇段申し立てに、五世林門入と共に異議を唱え、秀伯と争碁を開始するが、これは途中秀伯の病気によって預かりとなる。さらに後年、明和3年には本因坊九世察元が碁所を望むのに対抗して争碁となる。これは、因碩5連敗となり、その後打ち込まれるのを恐れた因碩が次の対局を避け、察元の名人昇格を以って終了となった。寛延元年には、琉球棋士の来日に対して前例に倣って3子置かせて対局したがこれに惨敗し、免状を求められて「日本国大国手」と揮毫したため、日本の碁界全体が低く見られることになってしまったことがある。
7世 因碩(春達) (上手)
 1738-1784、57、上手七段。(岡田春達、常陸)    
8世 因碩(因達) (上手)
 1746-1805、59、上手七段。(吉益因達、安芸)
9世 因碩(春策) (上手)
 1774-1810、37、上手七段。(佐藤春策、備後)
10世 因碩(因砂) (六段)
 1784-1829、45、六段。(山崎因砂、石見)
11世 因碩(幻庵) (準名人)
 1798-1859、61、準名人八段。(橋本安節、幻庵、江戸)
12世 因碩(秀徹) (六段)
 1820-1856、36、六段。(橋本安節、秀徹、江戸、戸田秀徹=本因坊丈和の子)
13世 因碩(錦四郎) (上手)
 1831-1891、60、上手七段。(松本錦四郎、江戸)
服部因淑 (***)
 京都の仁王門通の寂光寺には、山崎外記が建立した歴代本因坊家と井上因碩家の墓石がある。春策の墓石もある。

【安井家】
 安井家は、最初、算哲の家系を保井、算知の家系を安井と書いた。
1世 算哲 (準名人)
 1590~1652、天正18~慶安5年。後の算哲と区別するために古算哲ともいう。六蔵の名で、11歳のとき伏見城家康御前で対局。慶長11(1606)年16歳のときにすでに算砂、利玄、道碩に続いて三十石を賜っている。道碩を目標として120番碁を挑み40番負け越し、道碩から「碁には勝っても命を取られる」と皮肉られた。正保元(1644)年、道碩の次の碁所を詮議したとき、当時最長老であった算哲は「碁は力不足だが、功労あるので」と自薦するが、碁所は一番碁の強いものをとの命令だと、退けられてしまい、恥をかいたことが後の碁所騒動に遺恨を残す。長男は二代目算哲、三男は後の三世安井知哲。
2世 算知 (名人)
 1617~1703、元和3~元禄16年。山城国の生まれ。一世算哲の門下ではあるが、天海僧正の知遇を受けて12歳で家光に召出され、算哲とは異なる安井家を興す(算哲家は「保井」が本来の字)。以後明治まで続く安井家は算知の系統。算哲は実子の二代目算哲三男知哲が幼少のため、算知に跡を継がせた。算知は一世算哲の意志を継いで名人碁所を目指し、正保2(1645)年以降9年間6局の御城碁で本因坊算悦と勝負碁を行ったが、勝負がつかず碁所は預かりとなった。しかし、算悦が死去し道悦が本因坊家を継いでから10年、算知は道悦との対局もないまま、役人への取入りによって、寛文8(1668)年名人碁所を命ぜられる。これを他家の了承を得ていないということを理由に道悦が反対し、3年間60番の勝負碁が行われる。道悦の先で始められた争碁は、実際には20番まで行われ、16局目に道悦六番勝越しにより先互先に手合が直り勝負は決した。20番を打ち終えた翌年、延宝4(1676)年算知は碁所を返上、元禄10(1697)年に知哲に家督を譲ったことになっているが、この20年ほどの間について何も伝わっていない。
2代目 算哲 (***)
 1639~1715、寛永16~正徳5年。一世算哲の長子。一世算哲の没したときに14歳。"安井"姓の算知の後見によって21歳のとき保井の家督を継ぎ、御城碁に出仕する。御城碁14局中11局が四世本因坊道策との対戦では全敗。それでも、道策は算哲の実力を決して低くは見ていなかった。しかし、道策との対局で囲碁に対する限界を感じ、幼少から学んでいた天文への道に転ずる。貞享元(1684)年幕命により天文方として改暦に従事、正式に天文方・渋川助左衛門春海 (渋川春海) と名を改め250石を賜り、碁家としての保井家は途絶えた。
3世 知哲 (上手)
 1644~1700、正保元~元禄13年。一世算哲の次男。二世安井算知の養子となり寛文4(1664)年に扶持を拝領し、寛文7年から御城碁に出仕するところから、この時期に跡目待遇になったのだろう。元禄9年安井算知の退隠により安井家の家督を相続するが、わずか4年で亡くなった。
3世(跡目?) 春知 (***)
 生没年不詳。跡目と記載しない文書もある。また、春知は俊知とも書かれている。二世算知の弟とも実子とも言われ、出生について確かではない。天和3年の御城碁で本因坊道策に二子で対局して1目勝ちを収め、道策に「春知は当代の逸物。2子置かせて、また春知に1手の悪手もないのに、手順を尽くして1目負けとしたのは、生涯の傑作である」と言わせたのは有名。
4世 仙角 (準名人)
 1673~1737、延宝元~元文2年。会津の生まれ。二世算知、三世知哲の弟子。安井家は後に仙角を名乗るものがあるため、区別する意味で古仙角と称することもある。元禄13年知哲が亡くなり四世を継ぐ。本因坊道知の六段昇段を巡り、争碁を打つが、3連敗して苦汁をなめる。道知が碁所に就任した1ヵ月後、これまで敵対していた道知を訪ねて自分を八段準名人に昇格させて欲しいと頼む。道知は井上家林家にも諮り、三家当主をそれぞれ八段に昇段させることとなった。ただし、仙角のみは先輩格として半月ほど早く昇段を果たしている。
4世跡目 知仙 (***)
 ?~1728、?~享保13年。豊前小倉の生まれ、本姓長谷川 (長谷川知仙) 。初め四世井上因碩の門下となり、後に、本因坊道知の教えを受け、道知が名人となった後、六段に昇段。知仙は四世安井仙角の手配によって宮家のお相手を努めることとなり、宮家の推薦によって七段上手となされた。そのとき、安井家に適当な跡目がなかったため、今度は宮家の手配で知仙を安井家の養子にするよう本因坊家の了解をとり、知仙は安井家の跡目となった。しかし、跡目となった年、御城碁を1度努めたのみで早逝した。
5世 仙角(春哲) (準名人)
 1711~1789、正徳元~寛政元年。近江の生まれ、本姓田中。最初の名を田中春哲。安井家は3代にわたり仙角を名乗るので、四世仙角を古仙角と称したり、五世を春哲仙角と呼ぶこともある。跡目知仙が家督せずに没した後、享保20年跡目となり、元文2年四世仙角の没後家督する。仙角は、五世本因坊秀伯の昇段願いの介添え、五世林門入の碁所願いの反対のいずれも本因坊側に加担し、また囲碁将棋方の席順争いの事件で先頭にたつなど、当時の碁界に影響力のある人物ではあった。晩年は準名人に上り、安永4年に家督を跡目仙哲に譲り隠居した。
6世 仙哲 (上手)
 ?~1780、?~安永9年。会津藩士の子であり、当時東北地方は碁が盛んであり会津藩は碁と縁が深かった。寛延元年五世仙角の跡目となり、以来御城碁39局を勤める。安永4年五世仙角の隠居により家督を継ぐ。安永9年に没するが、仙哲は先代以来の門下である外家の阪口仙徳の子を跡目に定めた。
坂口仙徳
7世 仙角仙知 (準名人)
8世 知得仙知 (準名人)
9世 算知 (上手)
10世 算英 (上手)

 【林家】 
 代々"門入"を名乗る場合が多かったので区別のため襲名前または隠居後の名を併記する習慣がある。
1世 門入斎 (***)
 1583~1667、天正11~寛文7年。伊賀の生まれ、初めの名を門三郎。鹿塩利玄に碁を学び、幼少から利玄と共に家康に召出され、家康が林門入を名乗るよう命じたといわれる。退隠後に門入斎と号する。
2世 門入 (***)
 ?~1685、?~貞享2年。安井算知の門下で、一世門入斎の家を相続する。安井派として本因坊家に対抗したが、病に倒れた後は、本因坊道策を信頼に足る人物と見込んで、実子長太郎が将来林家を相続するように託す。
3世 門入(玄悦) (***)
 1678~1719、延宝6~享保4年。二世門入の実子。幼名長太郎。父は安井算知の門下であったが、病に倒れたときに、8歳の息子、長太郎を本因坊道策の人物を見込んで預け、林家相続を託した。貞享2年二世門入の没後、三世門入を継ぎ、道策及び、道策の没後は四世井上因碩(道節)の教育を受けたが、弱気な「性格が災いして初めて御城碁に出場したときは18歳、このときは初段であった。その後、宝永元年まで御城碁7局を勤めたが、自ら才能の限界を感じて、家禄を本因坊道策の門下・片岡因的に譲り、隠居して玄悦を名乗った。
4世 門入(朴入) (***)
 1670~1740、寛文10~元文5年。本姓片岡。最初本因坊道策の門下となり、名を因的と言った。宝永2年三世林門入(玄悦)の養子となり、名を因竹と改め、上手となる。この年から御城碁に出仕。翌年家督を継いで四世林門入となる。本因坊道知の碁所就任ののち、安井仙角、井上因碩(因節)とともに、準名人に上る。享保11年隠居して、朴入を名乗った。
5世 門入(因長) (***)
 1690~1745、元禄3~延亨2年。本姓井家。土佐の出身。本因坊道知の門下。享保5年31歳のとき林家の養子となり、名を因長と改める。享保11年、37歳で七段で四世門入(朴入)隠居に伴い家督する。後に八段準名人に上り、林家歴代中最も名人に近づいた。寛保初年に門入は、林家のみが名人碁所を輩出していないことを考え、時期も碁界全体が衰退して本因坊七世秀伯の没するに乗じ、絶好の機会と考えて碁所就任運動を起こす。まず、井上家の賛同を得て、井上因碩を通して本因坊伯元、安井仙角(春哲)に承認を求めた。しかし、両家は七世本因坊秀伯の昇段の折に反対された恨みと、名人碁所は勝負のうえで決すべきとして賛成しなかった。相談によって推薦を受けられないとみた門入は、寛保3年井上因碩を添願人として碁所出願をするが、同時に本因坊、安井両家の異議申し立てが差し出された。当時の寺社奉行大岡越前守は、まず先例を報告させ、このような場合には勝負にて決するものという本因坊側の主張を受け入れた。また、長老ゆえにという情に訴える林家の主張は、家元として分別のある年齢でもある者の申し立てと思えないときつく叱責されたという。門入は、争碁の命令は受けたが、当時54歳の高齢であり、相手となる本因坊伯元は18歳新進の五段。これに先ないし先二では成算なしと見て、対局を避けて、跡目門利に家督を譲り隠居してしまった。
門入(門利) (***)
 ?~1746、?~延享3年。六世井上因碩の縁者であり、常陸の出身。五世林門入の門下となって元文元年跡目。寛保3年五世門入の退隠により家督して七段に進んだ。
7世 門入(転入) (***)
 ?~1757、?~宝暦7年。六世門入の実子。井上家の門下として七段にまで進む。延享3年父・六世門入の死去により家督を継いだ。宝暦4年、本因坊九世察元の七段昇段に対して、井上家とともに終始反対している。
8世 門入祐元 (***)
9世 門悦 (***)
10世 鐵元門入 (***)
11世 元美 (***)
12世 柏栄門入 (***)
 日置源次郎
 林有美

 【四家外】 
 
牧野成貞
小松快禅
鈴木順清
山本源吉
長坂猪之助
四宮米蔵
関山仙太夫





(私論.私見)

本 因 坊 
本因坊算悦(二世)
ほんいんぼうさんえつ
1611(慶長16)~1658(万治元)
京都生まれ、本姓杉村。法名日縁。
初代算砂が没する年には13歳であったため、直ちに本因坊を相続できず、
算砂の遺言を受けた中村道碩が算悦を養育し、寛永7(1630)年三十石五人扶持を賜り、本因坊の再興が認められた。ここで初めて家元名跡の世襲の先例ができたことになる。
中村道碩は、遺言状により算悦を七段上手に推薦したが、算砂から道碩に継承された碁所は、道碩がなくなるときに継承すべき実力者がいなかったため、しばらく空位となり、正保2年に算悦と
二世安井算知が碁所決定の六番碁を打つ。
六番碁は打ち分けとなり、算悦は名人碁所に縁がなかった。
本因坊道悦(三世)
ほんいんぼうどうえつ
1636(寛永13)~1727(享保12)
伊勢松坂生まれ、本姓丹羽。法名日勝。
万治元年、
二世算悦が没し、本因坊家を継ぐ。その10年後寛文8年、安井算知が突然名人碁所に任命されたことについて、自分との対局が一度もなく、各家元の承認もないことから公儀の任命に異を唱え、負ければ遠島を覚悟して算知と60番碁を打つ。
道悦の先で始められた争碁は、16局を終えたところで道悦の六番勝ち越し、手合直りとなって勝敗が決着し、延宝4(1676)年20番まで打ち終えたところで、算知の碁所返上で決着する。
そこで、本来なら道悦が交代で碁所に就くべきところを、算知を碁所にという公儀に反したことから、自らもその翌年潔く退隠し、本因坊家を
四世道策に譲る。
但し、退隠はしたが、道策が壮年であることから幕府は引き続き道悦の御城碁出仕を命じ、貞亨3年まで9年間これを勤めた後、京都に閑居しながら、92歳の長寿を全うした。
道悦の没年は、
五世本因坊道知と同年である。
本因坊道策(四世)
ほんいんぼうどうさく
1645(正保2)~1702(元禄15)
石見国山崎村の生まれ、本姓山崎。法名日忠。

幼名を三次郎と言う。
碁界不世出の大天才であり、棋理の研究と深い読みは現代をも凌ぎ、碁聖と讃えられている。
道策は初め
安井算知への弟子入りを薦められたが、本因坊道悦が碁界の宗家である本因坊門の発展のために熱心に道策を誘った。
師の道悦と算知が碁所をめぐる争碁を打っていたころには、道策の実力はすでに道悦と肩を並べるほどであり、師の対局に対して度々批評を加え、道悦も素直に道策の手段を取り入れたために、算知との争碁に勝利したと言われている。
道悦は、争碁のあと、1677(延宝5)年、道策に家督を譲って引退。同時に道策は名人碁所に推薦された。その推薦状には他家の主だったものとの対戦成績を記し、寺社奉行は他家に道策碁所の異議あるものを問うたが、誰一人として反対できるものがなかった。このような抜群の成績は後世『実力十三段』とまでいわれることもある。
実際、天和2年に琉球からの使節に随行した
親雲上濱比賀に四子置かせて対局し1勝1敗となったが、濱比賀には『上手に対して二子(四段格)』の免状を与えている。これによると、七段上手さえ道策には2子置くということになり、道策自身十一段は自負していたことになる。
道策には、五人の優秀な弟子がいたが、最年長で道策と1歳違いの道節には井上家を継がせ、最も実力の高かった道的を跡目に据えた。しかし、道的は早逝。再度跡目とした策元、及び他の高弟である本碩、八碩までをすべて二十歳代で亡くしてしまう。
その後、本因坊家の跡目を定めなかった道策は、元禄15年、死の間際になって井上家を継がせた道節を呼び、『本因坊家を神谷道知に継がせたい。まだ13歳だが、将来必ず本因坊家を支えるだけの才能がある。道節は道知の後見人となって鍛え上げてほしい。道知は将来必ず名人碁所となる器であるので、道節自身は碁所を望んではならない』と遺言し、道節には他家、将棋家を含めた家元衆の前で約束させられた。(後に、事情によって遺言は破られることになる。道節を参照)
本因坊道的(跡目)
ほんいんぼうどうてき
1669(寛文9)~1690(元禄3)
伊勢松坂の生まれ、本姓小川。法名日勇。
幼くして
道策の門下となり、13歳のころすでに六段格に達していたと言われている。
道策の五弟子といわれる五人の高弟の筆頭格であった。
14歳のとき師の道策と互先で白黒2局を打ちどちらも黒の1目勝ちと互角の内容であったと永くその天才が伝えられてきたが、実は道策黒番の碁のほうは貞享4年道的19歳のときものであった。
しかし、それでも道的はまぎれもない天才であり、16歳で本因坊家跡目となり、その折に「段位が低い」と寺社奉行を通して他家から苦情があったほどであった。
将来を大きく期待されながら、22歳の若さで他界する。
本因坊策元(跡目)
ほんいんぼうさくげん
1675(延宝3)~1699(元禄12)
江戸の生まれ、本姓佐山。道策の五弟子の一人。
四世本因坊道策は、跡目と定めた道的と、星合八碩が続けて没した後、策元の素質を見込んで本因坊家の再跡目に立てた。
18歳五段格で御城碁に出仕、
安井知哲に先番13目勝ちを収め、以後7局の御城碁を勤めるが、策元も兄弟子たちと同じ結核によって25歳で没した。
道策は、2度跡目が早逝した後は、新たに跡目を建てようとしなかった。後に五世となる
道知が10歳になり、その才能を見てこれに望みを託したものか。
本因坊道知(五世)
ほんいんぼうどうち
1690(元禄3)~1727(享保12)
江戸の生まれ、本姓神谷。
道知は8歳で碁を覚え、9歳で
道策の門下となり、13歳のとき道策の臨終に当たって五世本因坊を継ぐこととなった。
道知の早熟、突然の跡目指名、因碩(道節)に後見を託すなどの優遇は、実は道知は道策の実子であり、本因坊家は僧籍のために神谷家の戸籍に書き換えたという有力な説がある。道策が2度跡目を失ったあと、改めて跡目を立てなかったのは、道知の成長に期待したと考えられること、因碩(道節)に後見を頼み、因碩(道節)自身に碁所を望まないように命令し、因碩が黙って従ったことなどを考え合わせると、実子説は信憑性がある。
13歳四段で御城碁に出仕した道知は以降3連勝し、次の御城碁のときには、実力の上がったのをみた後見人因碩から対戦相手の
四世安井仙角に互先での対局を申し入れ、騒動が起きる。「確かに前回負けてはいるが、道知は四段、自分は六段であり、1局だけでいきなり互先はないだろう」と。
仙角の意見は正論ではあるが、決着は争碁でつけることとなり、道知仙角の20番碁が行われる。
その第1局で、道知は前日からの食あたりで体調を崩し大苦戦となるも、ヨセの妙手で逆転の1目勝ち。その後、3局めまで連勝し仙角が降参したことによって六段に上った。
安心した
因碩(道節)は、後見と解き、道知は名人碁所をめざすものとなったが、来日した琉球棋士への免状発行問題から、因碩(道節)が碁所に就くこととなった(詳細は四世井上因碩の項を参照)。
この時代、御城碁で道知は申し合わせによる手加減をし、黒番は5目勝ち、その翌年の白番は2目か3目の負けとすべて同じ結果であり、碁界全体が衰退していた。その上、因碩が約束を破って、本人が亡くなるまで碁所を退任しなかったので、因碩亡き後、道知は他家の家元に不満をぶつける。
「先の碁所が亡くなったのに自分を碁所に推薦しないのはなぜか。約束を破るなら、これからの御城碁は本気で打つ」そのように言われて他家は慌てて道知を名人碁所に推薦することになります。そのとき道知31歳。「因碩(道節)が退任しないので自分の名人碁所が10年遅れた」と言った。事実、それほどの力はあったと推測されている。
名人就任が遅いとはいえ、31歳。因碩は60代になってからであるし、決して遅い就任とはいえないが、碁界を改めて発展させる間もなく、37歳で没する。
本因坊知伯(六世)
ほんいんぼうちはく
1710(宝永7)~1733(享保18)
武蔵の生まれ、本姓井口。
五世道知の甥であり、道知が名人碁所となった翌年に跡目と定められた。そのとき、知伯は13歳二段。
18歳のとき道知が急逝し、家督を継ぎ六世本因坊となり、六段にすすむ。
しかし、23歳のとき知伯は突然死し、急ぎ他家とも協議し、門下の佐藤秀伯に後を継がせることになる。知伯からの三代は、本因坊家の最も衰退した時期ではあるが、これは才能の不足というより、五世道知が名人となってから7年、37歳で死去。続いて知伯の夭折に起因するものと言える。
本因坊秀伯(七世)
ほんいんぼうしゅうはく
1716(享保元)~1741(元文6)
奥州信夫郡の生まれ、本姓佐藤。法名日宥
本因坊六世知伯の門下。知伯の突然死のため、本因坊家は相続人が定められていなかった。このような場合は、他三家の協議によって相続者を定めることになるが、かつての道策、道知の弟子で高段に上っている者を本因坊家に呼ぶか、知伯の直門の弟子を選ぶかが争点となった。
高段者を充てたいという意見に対して、本因坊家だけは初代以来非直門が相続されたことはないとして、知伯の弟子の筆頭と目される秀伯が選ばれることになった。このとき、秀伯は18歳五段。
享保20年、秀伯が六段、若く将来のある高段者は、他に相原可碩が七段にいるくらいであった。その年には五世井上因碩が没し、2年後には
四世安井仙角も没したため、碁界の長老は林家隠居の四世門入(朴入)五世門入(因長)だけとなっていた。
そんなときに、碁方将棋方の席次見直しを請求する事件がおきる。(碁打将棋指衆の席次は常に碁打が上位となっていたものを、両家元の段位、昇給順の席次にしてほしいと、将棋方が請求し、退けられた)
事件の後、秀伯は地位向上のために、元文4年七段昇段を求めたが、林家五世門入が準名人になっており六世井上因碩を味方につけて碁所を狙っており、本因坊家の要望を容れなかった。従って、秀伯は安井仙角を添願人として門入に20番の争碁を申し込む。
しかし、門入は病気を理由に六世因碩を代理にたてて争碁が開始される。秀伯と因碩は、元文4年の御城碁から争碁を開始し、翌年6月までに8局を消化したが、第9局を前に秀伯は吐血して倒れる。秀伯は病に倒れた後も争碁を心配し、病状は悪化するばかりであったので、それを見かねた安井仙角が争碁を和解し中止することで、精神的負担を取り除こうとしたが、その翌年、自ら再起できないことを悟った秀伯は、他三家に、自門下の小崎伯元の跡目を願い、承認されると、安心したかのごとく、その1週間後に没した。
本因坊伯元(八世)
ほんいんぼうはくげん
1726(享保11)~1754(宝暦4)
武州幸手郡の生まれ、本姓小崎。法名日浄
15歳で、
本因坊七世秀伯の門下に入ったが、翌年秀伯が危篤状態となり、本因坊を相続する。宝暦元年に六段に上った。
享保3年には、五世林門入の碁所願いに対し、名人碁所は勝負にて決するべきとの正論を述べ、門入の碁所就任を阻止した。
宝暦4年、病気を患い、門下の間宮察元を相続人とするよう願い出るが、ときの寺社奉行は『伯元はまだ若いので、回復を待て』と一旦は差し戻される。しかし、その数ヵ月後には重体に陥り、察元の相続が聞き入れられると、同年、29歳で没した。
井  上  井上家は、幻庵の世系書き換えによって中村道碩を元祖とし、以下一世ずつ繰り下げられた
中村道碩(一世)
なかむらどうせき
1582(天正10)~1630(寛永7)
京都に生まれる。一世井上因碩(玄覚)の師であったことから、幻庵の時代に井上家の元祖一世として世系に追加された。
本因坊算砂の弟子であるが、慶長17年の記録では、31歳の道碩は、師の算砂(52歳)、利玄、将棋所宗桂と同じ五十石取りとなっており、棋力は相当のものであったと思われる。
残された棋譜からも、中盤以降の力は現代でも通用すると評価される。
算砂は晩年碁所としての家督の全てを道碩に譲り、道碩は二代めの名人碁所となる。
また、算砂の遺言により、算悦を鍛え本因坊家再興にも尽力する。
井上因碩(二世)
いのうえいんせき
1605(慶長10)~1673(延寶元)
古因碩または、玄覚因碩という。
中村道碩の弟子として、道碩の跡を継いで井上家を興す。
坊門の記録に山城の出身とあるだけで、当時井上家本因坊家とも火災があり大半の書類が焼失し、詳細は不明である。
井上因碩(三世)・道砂
いのうえいんせき・どうさ
生没年不詳。
本姓山崎、幼名千松。
本因坊道策の弟。
本因坊道悦の門下で道砂を名乗る。
二世井上因碩の没後、相続人のなかった井上家について、道悦が道砂の相続を願い出て、井上因碩となる。
(以来、井上家は代々因碩を名乗ることになる)
退隠後は休山と名乗った。
井上因碩(四世)・道節
いのうえいんせき・どうせつ
1646(正保3)~1719(享保4)
美濃大垣の生まれ、本姓桑原。本因坊道策の五弟子の一人であるが、他の4人とは年齢が離れており、道策の1歳年少であったため、他の弟子とは立場の異なるものであった。
貞享元年、本因坊道策は
小川道的を本因坊家の跡目と定めるにあたって、道節の処遇について苦慮することとなった。道節は道的に劣らぬ実力であったが、年齢的に道策の後を継ぐには無理があったので16歳の道的の将来性に託すこととした。
これにあたり、道節から不服が出て争碁を求めることが予想された。かといって本因坊家の味方として留め置かなければならないと考慮した結果、道策は道節を井上家
三世因碩(道砂)の相続人とした。
元禄3年、井上家の跡目となり、元禄10年三世因碩が没して四世因碩を名乗る。
元禄15年、師の本因坊道策は臨終の間際、道節を初め各家元を呼び、
本因坊五世道知の後見となって本因坊家の繁栄に助力するように依頼した。このとき、道知を名人碁所に就けるよう託し、道節自身は碁所を望まないことを約束させられた。このとき、道節は八段準名人に勧められている。
道知の後見となってからは、御城碁の対局もなく、師の遺命の通り道知の養育に専念。道知が無事に御城碁を勤めるようになって4年後、その実力を試す十番碁が打たれ、このとき道知定先の手合で道節因碩の6勝3敗1持碁。その翌年にはさらに七番打たれた。後の七番碁は棋譜もなく、結果も不明だが、おそらく道知の進歩が著しかったものか、道節は後見を解くことを決めた。
このとき、道知から道節の長年の指導に報いるために、名人に推挙したいと考えたと思われる。道節は、師の遺言で名人碁所とならないことを約束していると断ったが、道知は「碁所を望むなと言ったのであって、名人の地位には上れる」と言い納得させるのであった。
その後、宝永7年琉球からの棋士が来訪し手合を望み、本因坊道知が対局。帰国にあたって免状の発行を求められたが、碁所不在であった。道知は21歳の若年でまだ七段であったため、長老格で名人の地位にある道節が免状発行の目的のみで一時的に碁所に就くこととなった。
師の遺言には反するが、適当な対応であると他家も了承し、この免状発行が終わったら直ちに碁所を退隠して道知に譲ると約束して、実際に碁所として免状をしたが、退任の約束を果たさず、没するまでの9年間碁所であり続けた。
元来、名人碁所は本因坊家の独占でもなく、道策の遺言こそが無理なことであり、道節の実力からして、また、道知が年齢的に21歳と若すぎたことから考えても、道策と道知をつなぐ道節因碩の名人碁所時代があっても不都合はなく、碁所を退任しなかったことを責めるにはあたらないだろう。
井上因碩(五世)・策雲
いのうえいんせき・さくうん
1627(寛文12)~1735(享保20)
越前の生まれ、初めの名を三崎策雲。
本因坊道策の弟子。
元禄15年四世井上因碩の跡目となり、名を因節と改める。
享保4年四世因碩の逝去により五世因碩を継ぐ。
本因坊道知が名人碁所となったのち、安井仙角、林門入とともに八段準名人にすすんだ。
井上友碩(跡目)
いのうえゆうせき
1681(天和元)~1726(享保11)
美濃の生まれ、本姓高橋。
初め
本因坊道策の門下となり五段まで進む。後、四世井上因碩の門に入り六段を許された。
享保5年、
五世井上因碩の跡目となり、御城碁に出仕したが、家督にはいたらず没する。
尚、同じ道策門下で友碩の名は、菊川友碩があるが、別人。
井上因碩(六世)・春碩
いのうえいんせき・しゅんせき
1707(宝永4)~1772(安永元)
下総の生まれ、最初の名を伊藤春碩。
五世因碩(策雲)の門下で、跡目友碩の物故により再跡目となる。このとき21歳六段。
その年から42年間御城碁に出仕し、40局を勤めた。
享保19年には5五世因碩の隠居により六世因碩を継ぎ、その翌年七段。
六世因碩は、生涯に本因坊家と2度にわたって争碁を打った。元文4年、
本因坊秀伯の七段昇段申し立てに、五世林門入と共に異議を唱え、秀伯と争碁を開始するが、これは途中秀伯の病気によって預かりとなる。さらに後年、明和3年には本因坊九世察元が碁所を望むのに対抗して争碁となる。これは、因碩5連敗となり、その後打ち込まれるのを恐れた因碩が次の対局を避け、察元の名人昇格を以って終了となった。
寛延元年には、琉球棋士の来日に対して前例に倣って3子置かせて対局したがこれに惨敗し、免状を求められて「日本国大国手」と揮毫したため、日本の碁界全体が低く見られることになってしまったことがある。
安  井  安井家は、最初、算哲の家系を保井、算知の家系を安井と書いた。
安井算哲(一世)
やすいさんてつ
1590(天正18)~1652(慶安5)
後の算哲と区別するために古算哲ともいう。
六蔵の名で、11歳のとき伏見城家康御前で対局。慶長11(1606)年16歳のときにすでに算砂、利玄、道碩に続いて三十石を賜っている。
道碩を目標として120番碁を挑み40番負け越し、道碩から「碁には勝っても命を取られる」と皮肉られた。
正保元(1644)年、道碩の次の碁所を詮議したとき、当時最長老であった算哲は「碁は力不足だが、功労あるので」と自薦するが、碁所は一番碁の強いものをとの命令だと、退けられてしまい、恥をかいたことが後の碁所騒動に遺恨を残す。
長男は二代目算哲、三男は後の三世安井知哲
安井算知(二世)
やすいさんち
1617(元和3)~1703(元禄16)
山城の生まれ。一世算哲の門下ではあるが、天海僧正の知遇を受けて12歳で家光に召出され、算哲とは異なる安井家を興す(算哲家は「保井」が本来の字)。以後明治まで続く安井家は算知の系統。
算哲は実子の二代目
算哲三男知哲が幼少のため、算知に跡を継がせた。
算知は一世算哲の意志を継いで名人碁所を目指し、正保2(1645)年以降9年間6局の御城碁で
本因坊算悦と勝負碁を行ったが、勝負がつかず碁所は預かりとなった。
しかし、算悦が死去し
道悦が本因坊家を継いでから10年、算知は道悦との対局もないまま、役人への取入りによって、寛文8(1668)年名人碁所を命ぜられる。
これを他家の了承を得ていないということを理由に道悦が反対し、3年間60番の勝負碁が行われる。
道悦の先で始められた争碁は、実際には20番まで行われ、16局目に道悦六番勝越しにより先互先に手合が直り勝負は決した。20番を打ち終えた翌年、延宝4(1676)年算知は碁所を返上、元禄10(1697)年に知哲に家督を譲ったことになっているが、この20年ほどの間について何も伝わっていない。
保井算哲(二代目)
やすいさんてつ
1639(寛永16)~1715(正徳5)
一世算哲の長子。一世算哲の没したときに14歳。"安井"姓の算知の後見によって21歳のとき保井の家督を継ぎ、御城碁に出仕する。
御城碁14局中11局が
四世本因坊道策との対戦では全敗。それでも、道策は算哲の実力を決して低くは見ていなかった。
しかし、道策との対局で囲碁に対する限界を感じ、幼少から学んでいた天文への道に転ずる。
貞享元(1684)年幕命により天文方として改暦に従事、正式に天文方・渋川助左衛門春海と名を改め250石を賜り、碁家としての保井家は途絶えた。
安井知哲(三世)
やすいちてつ
1644(正保元)~1700(元禄13)
一世
算哲の次男。二世安井算知の養子となり寛文4(1664)年に扶持を拝領し、寛文7年から御城碁に出仕するところから、この時期に跡目待遇になったのだろう。
元禄9年安井算知の退隠により安井家の家督を相続するが、わずか4年で亡くなった。
安井春知(跡目?)
やすいしゅんち
生没年不詳。
跡目と記載しない文書もある。また、春知は俊知とも書かれている。
二世算知の弟とも実子とも言われ、出生について確かではない。
天和3年の御城碁で
本因坊道策に二子で対局して1目勝ちを収め、道策に「春知は当代の逸物。2子置かせて、また春知に1手の悪手もないのに、手順を尽くして1目負けとしたのは、生涯の傑作である」と言わせたのは有名。
安井仙角(四世)
やすいせんかく
1673(延宝元)~1737(元文2)
会津の生まれ。
二世算知三世知哲の弟子。安井家は後に仙角を名乗るものがあるため、区別する意味で古仙角と称することもある。元禄13年知哲が亡くなり四世を継ぐ。
本因坊道知の六段昇段を巡り、争碁を打つが、3連敗して苦汁をなめる。
道知が碁所に就任した1ヵ月後、これまで敵対していた道知を訪ねて自分を八段準名人に昇格させて欲しいと頼む。
道知は井上家林家にも諮り、三家当主をそれぞれ八段に昇段させることとなった。ただし、仙角のみは先輩格として半月ほど早く昇段を果たしている。
安井知仙(跡目)
やすいちせん
?~1728(享保13)
豊前小倉の生まれ、本姓長谷川。
初め
四世井上因碩の門下となり、後に、本因坊道知の教えを受け、道知が名人となった後、六段に昇段。
知仙は
四世安井仙角の手配によって宮家のお相手を努めることとなり、宮家の推薦によって七段上手となされた。そのとき、安井家に適当な跡目がなかったため、今度は宮家の手配で知仙を安井家の養子にするよう本因坊家の了解をとり、知仙は安井家の跡目となった。しかし、跡目となった年、御城碁を1度努めたのみで早逝した。
安井仙角(五世)・春哲
やすいせんかく(しゅんてつ)
1711(正徳)~1789(寛政)
近江の生まれ、本姓田中。
最初の名を田中春哲。安井家は3代にわたり仙角を名乗るので、
四世仙角を古仙角と称したり、五世を春哲仙角と呼ぶこともある。
跡目知仙が家督せずに没した後、享保20年跡目となり、元文2年四世仙角の没後家督する。
仙角は、
五世本因坊秀伯の昇段願いの介添え、五世林門入の碁所願いの反対のいずれも本因坊側に加担し、また囲碁将棋方の席順争いの事件で先頭にたつなど、当時の碁界に影響力のある人物ではあった。
晩年は準名人に上り、安永4年に家督を跡目仙哲に譲り隠居した
安井仙哲(六世)
やすいせんてつ
?~1780(安永9)
会津藩士の子であり、当時東北地方は碁が盛んであり会津藩は碁と縁が深かった。
寛延元年五世仙角の跡目となり、以来御城碁39局を勤める。
安永4年五世仙角の隠居により家督を継ぐ。
安永9年に没するが、仙哲は先代以来の門下である外家の阪口仙徳の子を跡目に定めた。
    代々"門入"を名乗る場合が多かったので区別のため襲名前または隠居後の名を併記する習慣
林門入斎(一世)
はやしもんにゅうさい
1583(天正11)~1667(寛文7)
伊賀の生まれ、初めの名を門三郎。
鹿塩利玄に碁を学び、幼少から利玄と共に家康に召出され、家康が林門入を名乗るよう命じたといわれる。
退隠後に門入斎と号する。
林門入(二世)
はやしもんにゅう
?~1685(貞享2)
安井算知の門下で、一世門入斎の家を相続する。
安井派として本因坊家に対抗したが、病に倒れた後は
、本因坊道策を信頼に足る人物と見込んで、実子長太郎が将来林家を相続するように託す。
林門入(三世)・玄悦
はやしもんにゅう・げんえつ
1678(延宝6)~1719(享保4)
二世門入の実子。幼名長太郎。父は安井算知の門下であったが、病に倒れたときに、8歳の息子、長太郎を本因坊道策の人物を見込んで預け、林家相続を託した。
貞享2年二世門入の没後、三世門入を継ぎ、道策及び、道策の没後は
四世井上因碩(道節)の教育を受けたが、弱気な「性格が災いして初めて御城碁に出場したときは18歳、このときは初段であった。その後、宝永元年まで御城碁7局を勤めたが、自ら才能の限界を感じて、家禄を本因坊道策の門下・片岡因的に譲り、隠居して玄悦を名乗った。
林門入(四世)・朴入
はやしもんにゅう・ぼくにゅう
1670(寛文10)~1740(元文5)
本姓片岡。最初本因坊道策の門下となり、名を因的と言った。
宝永2年
三世林門入(玄悦)の養子となり、名を因竹と改め、上手となる。この年から御城碁に出仕
翌年家督を継いで四世林門入となる。
本因坊道知の碁所就任ののち、
安井仙角井上因碩(因節)とともに、準名人に上る。
享保11年隠居して、朴入を名乗った。
林門入(五世)・因長
はやしもんにゅう・いんちょう
1690(元禄3)~1745(延亨2)
本姓井家。土佐の出身。
本因坊道知の門下。享保5年31歳のとき林家の養子となり、名を因長と改める。
享保11年、37歳で七段で
四世門入(朴入)隠居に伴い家督する。後に八段準名人に上り、林家歴代中最も名人に近づいた。
寛保初年に門入は、林家のみが名人碁所を輩出していないことを考え、時期も碁界全体が衰退して
本因坊七世秀伯の没するに乗じ、絶好の機会と考えて碁所就任運動を起こす。
まず、井上家の賛同を得て、井上因碩を通して本因坊伯元、安井仙角(春哲)に承認を求めた。しかし、両家は七世本因坊秀伯の昇段の折に反対された恨みと、名人碁所は勝負のうえで決すべきとして賛成しなかった。
相談によって推薦を受けられないとみた門入は、寛保3年井上因碩を添願人として碁所出願をするが、同時に本因坊、安井両家の異議申し立てが差し出された。
当時の寺社奉行大岡越前守は、まず先例を報告させ、このような場合には勝負にて決するものという本因坊側の主張を受け入れた。また、長老ゆえにという情に訴える林家の主張は、家元として分別のある年齢でもある者の申し立てと思えないときつく叱責されたという。
門入は、争碁の命令は受けたが、当時54歳の高齢であり、相手となる本因坊伯元は18歳新進の五段。これに先ないし先二では成算なしと見て、対局を避けて、跡目門利に家督を譲り隠居してしまった。
林門入(六世)・門利
はやしもんにゅう・もんり
?~1746(延享3)
六世井上因碩の縁者であり、常陸の出身。
五世林門入の門下となって元文元年跡目。寛保3年五世門入の退隠により家督して七段に進んだ。
林門入(七世)・転入
はやしもんにゅう・てんにゅう
?~1757(宝暦7)
六世門入の実子。井上家の門下として七段にまで進む。延享3年父・六世門入の死去により家督を継いだ。
宝暦4年、
本因坊九世察元の七段昇段に対して、井上家とともに終始反対している。
    あ
相原可碩
あいはらかせき
1698(元禄11)~?
伊予の出身。
幼くして四世井上因碩の門下となり、12歳のときに「技量優秀な少年の育成のため、百五十俵を下賜し御家人とする」と記録されている。
数え13歳のとき、琉球人屋良里之子来日の折り、本因坊道知との対局に続いて可碩が互先で戦い勝利収める。
後年、上手にまで進み、宝暦13(1763)年に坂口仙徳との棋譜があり、このとき66歳。没年は不明だが、当時としては長命を保ち、本因坊五世知伯、七世秀伯、八世伯元とも対局しており、その時代の碁界に貢献したものと思われる。
青木愚碩
あおきぐせき
加賀の出身。算悦、道悦、道策との対局があるが、内弟子ではないとの記録が見られる。
秋山仙朴
あきやませんぼく
年齢、出身地不詳。
初めの名を小倉道喜といった。
本因坊道悦に入門し、後に道策の弟子となった。道知の時代に本因坊家でも古参のはずであったが、酒を好み品行に問題があったため、当時道知の後見人として本因坊家に入っていた井上因碩(道節)が、素行を責めることとなり本因坊家を出て大阪に移り住んだ。
それから10年ほど後、名を、秋山仙朴と改め、「古今当流新碁経」という道策とその門下の打碁集を出版した。当時、京都に隠居していた三世道悦から道知にあてた手紙で、「勝手にこのような書物を出版している。なんとかせよ」と指摘されたが、道知は先輩である仙朴のこと、黙殺した。
すると、仙朴は再び「当流碁経大全」を出版し、その序文で「今の家元は秘密主義で、研究を外にださないため、世にある書物は見る価値がない。この実情を憂えて道策直伝を著す。今、道策流を知るのはじぶんだけである」と書いてしまった。
道策流を知るのは自分だけ、という文章は、さすがに本因坊家としても黙殺はできず、訴えにより書物は絶版。仙朴は10日間の戸締めに処せられた。
    か
鹿塩利玄
かしおりげん
1565(永禄8)~?
林利玄とも称し、林家の元祖であるとも言う。一世林門入斎は利玄の弟子である。また、鹿塩、利玄は別の人間であるとする説もあり、確実なことは不明。
本因坊算砂に当時唯一対抗できる棋力の持ち主であり、両者は上様御前で374局対局し、算砂の39番勝ち越しという記録が残されている。
寛蓮
かんれん
874~?
平安時代に碁聖として讃えられた。「碁式」という日本初の棋書を著し、醍醐天皇に献上したと言われる。
    き
吉備真備
きびのまきび
692~775
遣唐使
吉備真備は、囲碁を日本に伝えたという伝説がある。もちろん事実とは考えられないが、碁を知らなかった真備に在唐中碁の対局を持ちかけられ、幽霊となった阿部仲麻呂に1日の指導を受けて対局したという話がある。
その対局は、持碁になるところ、真備が隙を見てアゲハマを飲み込んで1目勝ちになったという。
菊川友碩
きくかわゆうせき
美濃の出身。
最初本因坊道策の門下であったが、後に四世井上因碩(道節)の門下となって名を因節と改める。
さらに、5世因碩(策雲)の養子となって井上友信と称した。
上手に進み、御城碁にも出仕したが、井上家の家督には至らなかった。
    
熊谷本碩
くまがいほんせき
生没年不詳。
武州熊谷の生まれ。
道策の五弟子の一人。
御城碁への出仕もなかったため、身上の資料に乏しい。
しかし、道策の五弟子の中では道策との対局が残されている数が最も多い。
7局対戦して、うち6局までは序盤16手まではまったく同一の布石で、道策の研究手合の相手を務めたものと思われる。この対局のあった元禄10年頃までは本碩も元気であったようだが、道策の没する数年前に先立ったようである。
    け
玄尊
げんそん
生没年不詳。鎌倉時代の人。
1199年、「囲碁式」という棋書を著す。碁盤の正式な大きさ、礼儀、心構えに始まり、定石、手筋などの解説書であり、当時すでに相当に碁の技術があがっていたと思われる。
    さ
算碩
さんせき
生没年不詳。
経歴等は不明だが、慶長17(1612)年家康が碁将棋衆に禄を与えたという記録のなかで末席に登場する。
算砂の弟子のうち、中村道碩を独立させ、算碩を本因坊の後継と考えていたが、早逝したために、算砂は本因坊家を断絶させることになった。
    せ
仙也
せんや
生没年不詳。
経歴その他、ほとんど伝承されていないが堺の商人であり、算砂の囲碁の師匠であったという。
天正16年、秀吉が算砂に出した朱印状の中に、「各碁打は、算砂に先の手合。但し、仙也は師匠たる故、互先」と記されたらしい。(写しのみで朱印状現存せず)
    
伴小勝雄
とものこかつお
詳細は不詳。平安時代の伝説の人。
遣唐使の一員として唐に渡り、天覧試合を行ったが、唐の国手に鎮神頭の妙手を打たれて敗れた、という話の主人公。
なお
その話は、日本国王子と唐の国手・顧師言の対局として伝わっている書物もある。
鎮神頭の名がついた手順は、中国の古棋書「亡憂清楽集」に記録されているが、これが小勝雄の対局と同じ手であるかは定かではない。
    
親雲上濱比嘉
ぺいちんはまひか
江戸初期、琉球王国は薩摩藩の支配下にあり、島津光久の手配により当時琉球第一の打ち手であった親雲上濱比嘉は名人碁所であった本因坊道策と対局する。
四子置いたが、道策のあざやかな捨石作戦に大敗を喫した。
その後、もう1局打ちこれは濱比嘉の3目勝ちとなったが、こちらは道策が勝ちを譲ったようでもある。
この2局によって濱比嘉は三段格の免状を授与された。
    
星合八碩
ほしあいはっせき
1666(寛文6)~1692(元禄5)
伊勢国、津の生まれ。
道策の五弟子の1人。
八碩は津藩主藤堂家からの預かり弟子であり、碁方として御城碁に出仕する際は、本因坊の跡目ではなく、江戸中期に誕生する外家(家元四家以外で碁方を輩出する家系を指す)でもなかった。当時はまだ、家元制度が完全ではなく、個人的に出仕して扶持を賜るほうが主だった。
14歳のときに碁方として認められたが、年齢が若すぎたせいか、御城碁へはその3年後17歳から8年間7局を勤めた。
八碩は、その後、藤堂家のお抱え棋士となり帰藩を許されたが、わずか1年後に27歳で没した。
    
牧野成貞
まきのしげさだ
牧野備後守成貞は、徳川綱吉時代の幕府御用人でありながら、本因坊の正式な門下生となるほどの碁好きであった。
その実力は、本因坊道悦・道策のいずれに対しても二子。五段を許された。
牧野は、あるとき道悦に『お稽古の二子ではなく、自分の本当を教えて欲しい』と尋ねたが、道悦は二子の手合であることを曲げなかった。牧野は一計を案じ、本因坊家を敵対関係にある安井算知に同じく二子で指導を受けることにした。
算知なら本気で負かしに来るだろうと思ったところ、その碁にも2目勝ちし、自信を深めたという。
反目していても碁打同士の結束は固く、算知も本因坊の顔をつぶさなかったのだろうという説もあるが、牧野はその後、道悦と先で打った碁もあり、実力は決して低いものではなかった。
    
南里与兵衛
みなみさとよへい
与兵衛の詳細は不明ながら、算悦・道悦・道策との棋譜が残されており、本因坊門と縁のある人物と思われる。
坐隠談叢によれば、「寛文時代、
杉村三郎右衛門と称し、明暦の間山崎源左衛門と改名、万治年間になると山家無三坊と号す。」とある。
杉村三郎右衛門も同じように算悦・道悦・道策と対局しており、同一人物であるかどうか定かではない。
杉村は、算悦の本姓でもあり、何かの関係があるかもしれない。晩年、やや手合違いと思われるが道策に白を持って打った碁もあり、坊門の長老であったのではないか。
    
屋良里之子
やらのさとのし
宝永7(1710)年、琉球からの朝貢使節に同行した棋士。
当時14歳ながら、琉球では第一の打ち手として、滞在した九州の島津屋敷では、藩お抱え棋士の斉藤道暦(六段格)の指導を受け、第一人者との対局を望み本因坊道知に3子置いて対局した。
3子なら容易に負けないと思っていたが、道知の下手ごなしに粉砕され、その力に大いに驚いたという。また、もう1局同年代の井上家門人相原可碩とも互先で対局し、これも敗れている。
    
横関伊保
よこぜきいほ
1762? ~?
おそらく日本で始めて棋譜の記録が残された女流棋士。
13歳のとき、当時の賭け碁打として知られた安岡周平との2子局がある。安岡は、二、三段くらいの力があった(当時はプロアマの区別はない)。
坐隠談叢にも棋譜が残されており、17歳で初段に上っている。
吉和道玄
よしわどうげん
生没年不詳
初め三世
本因坊道悦の門下となり、道悦の隠居によって道策門下に移る。
道策の五弟子に、道玄を加えて六天王とも称する。
筑後の生まれで、六段となってから久留米藩に300石で召抱えられる。
久留米藩有馬家は、道玄の七段上手への昇格を願い、道策はこれを許した。棋院四家以外のものが七段に昇段した最初の例となった(星合八碩の場合は死後七段を追贈されている)。
    
李約史
り・やくし
朝鮮通信使として来日し、本因坊算砂と対局。これに破れる。算砂の実力に感心して帰国後「乾坤窟」と書いた扁額と磁器製の碁石を送ったとされる。
額と碁石は実際に京都寂光寺に保存されている。

2007.9.15 52名