中国囲碁史 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.18日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、中国囲碁史を確認しておく。「2011.8.26日、朱 新林(浙江大学哲学系 助理研究員)「黒白の碁石に古くからの情を思う」その他を参照する。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
【前田陳爾9段の「四百年の記録」】 | |
前田陳爾9段の「四百年の記録」が次のように記している。
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【「三皇」】 |
囲碁は中国で始まったとされており、それによると、古代中国最初の夏王朝が始まる前の三皇五帝時代に、聖人と称えられた堯、舜が囲碁を創ったという伝承が残されている。「堯造囲棊、丹朱善之」(「博物誌」)、「堯、舜教兎子也」(中興書)。但し、夏王朝も三皇五帝も神話、伝説の類のものなので、実際のところは実はよく分かっていない。 |
「五帝」】 |
【「兎」】 |
【「夏」】 |
夏の時、「*王の臣、賭博囲碁を作る」(和漢三才図絵)。 |
【「殷」王朝】 |
【「周」王朝】 |
【「春秋時代」】 |
前770年、春秋時代に入る。 中国の古書に囲碁が登場するのは、紀元前770~前221年頃の春秋・戦国時代である。山海経、坐隠談叢、博物誌、史記、論語、孟子など古い文献に囲碁のことや故事などが記されている。周末期頃から幅広く親しまれるようになったと考えられている。 |
春秋戦国時代、囲碁は社会に広く伝わった。「左伝・襄公二十五年」には「挙棋不定」のことが記載されている。「挙棋不定」のような囲碁用語で政治上の優柔不断を比喩していることは、囲碁が当時すでに登場していたことを物語っている。 |
「史記」に春秋時代の宋の君主・閔公(びんこう)が部下の南宮万と対局していたときに、閔公が負けそうになったときに悔し紛れで南宮万を侮辱し、怒った南宮万により碁盤で殴られて殺されたと言う。しかし閔公と南宮万がしていた遊戯が囲碁だったかははっきりせず、別の博打・双六のようなものだったとも考えられている。 |
【「戦国時代」】 |
前403年、戦国時代に入る。 |
?「呂不イ―公孫乾の対局」(「棋友」)。 |
陸*「新語」で、碁技=兵法論を説く。 |
漢宮廷にて「北戸竹下」の碁会慣行(「西京雑記」)。 |
【世界最古の棋書考】 | |
囲碁は戦略、政治、人生のシミュレーションゲームとして広まっていた。古くから中国では、士大夫の学ぶべき四芸のひとつに数えられ、知識人の嗜みとして「琴棋書画」(きんきしょが)を習わせた。琴(きん)は音楽、棋(き)は囲碁、書(しょ)は書道、画(が)は絵のことを指す。 シルクロードの要衝として有名な敦煌は、490余の石窟群の存在やシルクロードの要衝として著名である。1899年頃、第16石窟からおびただしい経典や古文書が発見され一躍世界中の注目を浴びた。一万点を超える文物の中に、ほぼ完全な「碁経」が一巻含まれていた。 巻物は北周時代の写本といわれ、「世界最古の棋書」となる。長い間大英博物館に眠っていたが、1934年に中国の張萌麟(元清華大教授)が「碁経」を見出して「國聞週報」ではじめて紹介した。 現在最古の棋書(碁書)は、北宋徽宗(在位1100-1125)の時代に 成立した「忘憂清楽(ぼうゆうせいらく)集」と相場が決まっていた。 編者は不明だが、木こりの王質と仙人の対局譜から後漢の呉の武将・孫策と呂範の局、晋の武帝(司馬炎)と王済の局、唐の玄宗と鄭観音の局などが収録されている中国の棋書である。かなり古い時代の碁を取り上げているが、碁譜の信憑性について は大いに疑問の残る本といわれている。例えば、「坐隠談叢」の改補者であり、「中国古棋譜散歩」の編者でもある渡辺英夫プロは、次のように述べている。
孫策と呂範の棋譜は1700年以前であり、晋の武帝の棋譜も1690年前の話になる。20世紀に入ってから出土した古代の基盤を見る限りでは、この当時には19路盤を使用した形跡が少なく、第 一、これほど古い時代から棋譜を残す習慣があったのか、という疑問が浮かぶ。 北宋期以降の棋譜は本書の成立時期と同時代で、登場人物も実在とみなされるので本物と見てもよくその他は"作り物"ないし"遊び心"の発露 と見るのが無難である。渡辺説を尊重して従来の「孫策・呂範局」を作り物と判定し、閻景実・顧師言局ないし賈玄・希燦局を便宜的に最古の棋譜とする。 |
【「秦」王朝】 |
前221年、秦が中国統一。 秦漢代、囲碁は遊戯道具の一つとして存在し続けたが、盛んにはならなかった。 |
【「前・漢」王朝】 |
前202年、前漢興る。 「西京雑記」巻三に前漢元年の「杜陵の杜夫子は碁に秀で、天下第一人である」との記述があるが、この種の文献はこま切れの記録に過ぎない。 |
【前漢時代の囲碁】 |
2002年、中国陝西省の考古学者が、前漢の景帝陽陵で、前漢時代(206 BC - 24 AD)のものと思われる陶製碁盤を発見した。碁盤は17路盤で、出土時に破損していて最長の部分で縦およそ28.5cm、横19.7cm、高さ3.6cm。皇帝の陵墓から出土したとはいえ碁盤の造作が粗雑であり、この碁盤は皇帝の陵墓から出土したとはいえ、皇族が使用したものではなく、陵墓の墓守達の遊戯のために使用されていた、当時の使い捨て的なものだったと推定されている。初期の碁石は唐宋期のものが残っている。 |
【「新」王朝】 |
【「後漢」王朝】 | |
前25年、後漢興る。後漢元年に至っても、依然として「六博 は世に流行するも、囲碁は打つ者がほとんどない」状況であったが、後漢の中期から晩期にかけて囲碁は再び流行し始めた。1952年に河北省の望都一号漢墓から出土した石造の碁盤は、高さ14cm、縦横各69cmであった。盤面は正方形で縦横各17路からなり、底面には4本の足がつけられている。これは、漢魏代の碁盤の形状に関する象徴的な実物資料である。 | |
76年、班固「奕旨」を著す。
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【魏、蜀、呉の三国志時代】 |
220年、三国時代始まる。239年、卑弥呼の使者が魏に至る。 漢魏年間は戦争が頻発したため、囲碁の対局も兵法の才能を養うための重要な手段とされた。107年頃、後漢の馬融が「囲棋賦」を著す。その中で囲碁を小戦場と見なし、対局を戦の作戦に見立て、「三尺の局を、戦闘の場と為す。士卒を陳し聚めて、両敵相当る」と記した。三国時代の曹操、孫策、陸遜など、当時の有名な兵法家は誰もが戦場と碁盤という二つの争いの場におけるつわものであった。 |
李尤「囲碁銘」を著す。 |
魏の応*(「建安の七子」)が「*勢」を著す。 |
「竹林の七賢」に王粲、孔融、玩籍など碁の上手輩出。そ一人として有名な王粲は卓越した記憶力の持ち主と伝えられ、碁盤や着手を熟知し、自分が観戦した「敗着」 について、後に改めて優れた一手を考え出すことができた。 |
196年、「孫策―呂範の対局」(「忘憂清楽集」)。 |
200年頃、邯鄲淳が「芸経」を著し、碁は古くは各十七道と記す。 |
229年頃、イ曜が「博奕論」を著す。 |
杜夫子現れる。「杜陵の杜夫子は博奕を善くし、天下第一たり」(「西京雑記」) |
【魏、蜀、呉の三国志時代の囲碁】 | |||||||
後漢末期から魏、蜀、呉の三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180~280頃)の興亡史「三国志」の中に登場する英雄、賢者たちと囲碁の関係が深く囲碁を楽しんでいる。「太祖紀注」が魏の曹操につき次のように記述している。
これによると、玄徳、孔明の宿敵にして魏の太祖である曹操は有名な兵法家であり詩人であり書家であり且つ囲碁の腕前も一流だったことになる。当時の囲碁の名手・山子道王の郭凱と肩を並べる国際的高手だったとは驚きである。次のように評されている。
「三国史演義」に、蜀の劉備玄徳、諸葛亮孔明に関する次のような記述がある。
碁にことよせて、移り行く天下のありさまをかく歌っている。これによると、孔明も相当な打ち手であったことになる。孔明に関する次のような記述もある。
孔明は、孔明の後を囲碁の名手費褘(ひい)に後を託した。三国志には、費褘の囲碁にまつわる武勇伝が記録されている。 蜀の豪傑の関羽も囲碁好きで有名な武将で、特に三国志演義での次の場面はあまりにも有名である。
呉でも囲碁が盛んだったようで、「朝廷、群臣のあいだに碁が盛んで、政務を怠りがちなものもあったようだ。これを訓戒する文章なども出ている」(「古代囲碁の世界」)ほどだったという。当時の書物「葦曜傳」に、「一面の碁盤と国の政治とどちらをとるか。三百の碁石と万人の将兵とどちらをとるか」とある。 呉の国は孫権が建国したが、孫権の兄の孫策が囲碁の愛好家で、同じ愛好家である臣下の呂範(りょはん)と打ったとされる棋譜が残っている(「忘憂清楽集」)。 これが中国最古の棋譜として今に伝えられている。「忘憂清楽集」は北宋代に編纂され、現存する中で最古の棋書(囲碁に関する書物)である。「忘憂清楽集」の巻頭に掲載されている。この棋譜では、黒2個、白2個を互いに対角線の星に置き合ってから白から打ち始めている。残念であるがこの棋譜の原本には43手止めとなっている。但し、孫策と呂範が囲碁愛好家であったことは種々の書物に載っているが、 この頃に「19路盤の対局譜」が存在したことについては、後世において疑問視されている。
武将ではなく、文人、墨客、詩人らの知識人らも、乱世を憂いつつ、詩を吟じ、文学を論じ、そして囲碁に興じていた。 建安年中(196-220年)に輩出した孔融・陳琳・王粲・徐幹・阮う (王偏に禹)・応とう(王偏に昜)・劉?驍轤?「建安七子」といい、特に王粲は博覧強記、囲碁の名手として後世に知られている。自分の打った碁に 限らず、人の碁を見ていて、始めから終わりまでの手順を復元することは朝飯前だったという。 西晋時代に入ると、戦塵を逃れて奥深い竹林で清談に明け暮れたのが、よく 屏風に囲碁を打っているさまを描かれている、有名な「竹林七賢」である。 阮うの子の阮籍はその中の一人で、たまたま碁を囲んでいるときに母親の死を知らされたが、阮籍は対局を止めようとせず、そのまま打ち続けて勝ちを収めたというエピソードの持ち主である。「親の死に目に会えない」という日本の諺の"元祖"のような人物となっている。 |
【当時の碁盤17路、19路】 |
河北省望都県の後漢の墓から出土した棋具と魏の邯鄲淳の『芸経』の記載から、この時代の碁盤は17路だったと考えられる。碁石については、安徽省亳州市の元宝坑一号墓から後漢末の四角い碁石が出土しているという。山東省鄒城市の劉宝墓から出土した西晋の碁石は卵型である。
中国に現存する最古の棋譜と言われているものに三国時代の「孫策詔呂範弈棋図」があるが、19路である。19路の碁盤の現物は隋の時代のものが河南省安陽市張盛墓から出土している。 |
中国の囲碁のルールは、これまでの歴史で2回の大きな変化を経ており、主に路の増加であった。魏晋時代前後が1回目の変化が生じた時期である。魏の邯鄲淳が記した「芸経」によれば、魏晋時代及びそれ以前は「棊局縦横各十七道、合わせて二八九道、白黒の碁石それぞれ百五十枚」であった。これは、先に紹介した河北省望都県で発見された後漢の碁盤に完全に一致する。一方、莫高窟の石室で発見された南北朝時代の「棋経」では当時の碁盤について、「三百六十一路、あたかも一年の日数である」との記載があり、19路の囲碁が流行していたことを表している。これは現在の碁盤と全く同じであり、当時の囲碁ではすでに現代のルールの大枠が整えられていたことを反映している。 |
【「西・晋」時代】 |
280年、晋が中国統一。 |
晋の武帝が、対局中に呉攻略を決定する(「晋書」)。 |
清談家輩出で、忘憂、坐隠、手談の雑称が生まれる。王*、江彪ら上手現れる(「世説新語」)。王抗、*思荘、夏赤松など名手輩出。 |
【「五胡十六国」時代】 |
【六朝時代の囲碁】 |
後漢から三国時代、更に六朝では碁は隆盛を極め、梁の武帝(AD 6世紀)のとき最盛期を迎えている。因みに香港の蝋人形の館に武帝の打碁の姿がある。「四芸の中に囲碁ありぬ 古き諸人夢を得て 奥山海辺端座せば 」(中山典之 「囲碁いろは歌)。 |
【南北朝時代の囲碁】 |
420年、南北朝時代始まる。この時期に囲碁は、南方の文人や雅士の間で流行した。
南朝では棋品制度と圍棋州邑制度が設けられ、専業の棋士をそれぞれ異なる級に分け、一定の待遇を与えた。梁の武帝は自ら『圍棋賦』を作って、囲碁を唱導し、囲碁は黄金時代を迎えた。 武帝はまた全国的な囲碁の大会を開催した。これは証拠がある最初の全国大会である。参加者は夥しかった。大会後、上品級と入品を確定した棋士は278人であった。 |
南北朝時代には玄学が起こり、文人学士の間で清談 が盛んになったことから囲碁もさらに栄え、囲碁は別名「手談」と呼ばれた。この頃、19路の碁盤がかつての17路に代わり主流となった。また、隋帝国の対外政策により、遣隋使の手で囲碁が日本にもたらされた。 1959年5月、中国の考古学者が河南省安陽豫北紗廠の付近で隋開皇十五年(西暦595年)の張盛墓を発掘したところ、磁器製の碁盤(下図)が出土した。この碁盤は正方形で高さは4cm、縦横各10.2cmで盤上にはたくさんの格子縞が刻まれ、縦横各19路あった。これが現在までに発見されている最も古い19路の碁盤であり、河南博物院に所蔵されている。 |
魏晋南北朝時代、統治者たちは例外なく碁を好み、碁を以って官位を置き、「棋品」制度を確立して一定の水準に達した「棋士」にその腕前に相当する「品格」を与えた。当時の「品格」は九品に分かれていた。日本の現代囲碁が「九段」に分かれるゆえんはここにある。「南史・柳惲伝」には「梁武帝は弈を好み、惲をして棋譜を品定めさせ、登格者は二百七十八人とした」とある。 |
475年、朝鮮の僧道淋が、碁を通じて百済王に近づき、百済滅亡の手引きをする(「朝鮮史略」)。
540年頃、梁の武帝が「囲碁賦」を著し、勅命をもって「碁品」の校定を実施(南史)。
【「隋」時代】 |
589年、隋が中国統一。 |
【「唐」時代】 |
唐宋代は、囲碁の歴史で二回目の大きな変化が生じた時期と言える。この時代、歴代の王たちは、翰林院において専ら皇帝の囲碁の相手をする専業の棋士として、棋待詔という囲碁専門官職を設置して囲碁を監督し流布した。現代風に表現すれば、囲碁部(日本の省庁に当たる)長官くらいになる。日本では徳川幕府の頃から囲碁を国技として制定し、専門の棋士には俸禄を与えながら育成した。これが本因坊など四大家門の競争につながり囲碁ルネサンスの基礎となった。 唐代の「棋待詔」(きたいしょう)制度の実施は、中国囲碁発展史における新たなシンボルと言える。当時、内廷に仕えた棋待詔は、いずれも大勢の棋士の中から厳しい試験を経て選ばれ「国手」と呼ばれた。唐代の有名な棋待詔は、玄宗期の王積薪、徳宗期の王叔文、宣宗期の顧師言、信宗期の滑能らである。棋待詔制度の実施により囲碁の影響力は大きくなり、棋士の社会的地位も高まった。この制度は唐代初期から南宋まで500年余り続き、中国の囲碁の発展を大きく後押しした。新疆ウイグル自治区トルファンのアスターナ古墳群の第187号唐墓から出土した「奕棋仕女図絹画」(えききしじょずけんが)は、当時の貴族女性が囲碁を指す様子を描いた象徴的な作品である。当時の碁盤は19路を主な体裁としており、碁石もかつての四角形から円形に変化している。このほか、周文矩の「重屏会棋図」も残されており、アスターナ古墳群から出土した「奕棋仕女図絹画」とともに唐代の囲碁の特徴をよく反映しており、この頃に囲碁が変化し、発達したことを示している。 |
【唐時代の囲碁】 | |
618年、高祖・季淵が隋王朝を滅ぼし唐王朝を創始した。高祖・季淵は囲碁の愛棋家だった。唐代は618年から907年まで約290年間続く。唐の都・長安は西方の国々と中国を結ぶシルクロードを通して国際都市として発展し大いに栄えた。 | |
唐代は囲碁の世界において急速に隆盛した。宮中には棋待詔(きたいしょう)という職が設けられ、皇帝と囲碁をする棋士を専門に養成した。当時、内廷に仕えた棋待詔は、いずれも大勢の棋士の中から厳しい試験を経て選ばれ、「国手」と呼ばれた。唐代の有名な棋待詔は、玄宗期の王積薪、徳宗期の王叔文、宣宗期の顧師言、信宗期の滑能らである。棋待詔制度の実施により囲碁の影響力は大きくなり、棋士の社会的地位も高まった。この制度は唐代初期から南宋まで500年余り続き、中国の囲碁の発展を大きく後押しした。新疆ウイグル自治区トルファンのアスターナ古墳群の第187号唐墓から出土した「奕棋仕女図絹画」(えききしじょずけんが)は、当時の貴族女性が囲碁を指す様子を描いた象徴的な作品である。当時の碁盤は19路を主な体裁としており、碁石もかつての四角形から円形に変化している。 王積薪は開元年間の名人であり、圍棋十訣をまとめた。「不得貪勝,入界宜緩,攻彼顧我,棄子争先,捨小就大,逢危須棄,慎勿軽速,動須相応,彼強自保,勢孤取和」というこの秘訣は囲碁の古典理論とされる。伝説では王積薪は夢のなかで青龍が棋経九部を吐いて己に授け、この時からその芸が進んだという。唐の天宝年間、安史の乱を避けて王積薪は蜀州に行き、驪山の老婆の嫁姑の対局を見たという伝説がある。宋代の「忘憂清楽集」には、王積薪の「一子解二征」の棋譜が載っている(一説には顧師言と日本国王子の対局という)。 特に唐の第六代目の皇帝・玄宗(在位712-756年)は囲碁好きが抜きんでている。 壮年期は「開元の治」と呼ばれ英主の名をほしいままにしていた。太平の治世にあって学芸、 文化、仏教などを大いに栄えさせ、その勢威は東アジア全域にとどろいたという。 晩年にいたり政治を顧みることを放棄して楊貴妃を溺愛、ついに安史の乱によって長安を追われ、乱が収まり長安に帰って悲運のうちに生涯を終えた。 玄宗の時代は特に日本からの遣唐使は四回あり、養老一年(717)には阿部 仲麻呂、吉備真備らが入唐している。玄宗が帝位につく前の名を李隆基といい、日本の留学僧・弁正とよく対局していたことが、日本側の書物によって次のように記録されている。
玄宗の時代には特に、囲碁の波は周辺諸国にも広がっていた。新羅の聖徳王が亡くなられた時、特使節として??を派遣し、碁に堪能な楊季膺を副使として随行させていたことが、朝鮮の現存最古の歴史書「三国 史記」(新羅本紀、朝鮮史略)に載っている。 新羅の皇太子も囲碁を好んでいたので、副使に相手をさせるためだった という。 チベット、古代ベトナムでも囲碁が打たれていたという。 玄宗と楊貴妃と囲碁が絡む次のような囲碁逸話がある。「ある夏の日、帝が親王と碁を打たれていた。賀懐智に琵琶を独奏させていた。楊貴妃(玄宗の後宮)が局側に立って観戦していた。帝が地合いを数えて負けそうになると、楊貴妃が康国(サマルカンド)産の子犬を座席の側に放し、子犬は碁盤に上がり盤面をめちゃめちゃにした。玄宗は大いに喜んだ」(今村与志雄訳注「東洋文庫382 西陽雑俎」)。 唐代の玄宗時代に有名な棋士は王積薪である。若い時、山中の小屋で不思議な老婆に碁を教えられ、突然棋理を覚り、龍が碁経を吐き出す夢を見て急に上達したと云う。済科会「西陽雑*」によると、王積薪は総理大臣(正式な官名張説)の家に住んでいた時、一行和尚と対局している。その後、翰林院の試験を受けて合格し、玄宗皇帝に碁で仕える棋待詔の棋士になる。宮廷で玄宗と対局していることが多かったと記録されている。この王積薪が「囲碁十訣」を遺している。 737年(開元25)年、棋士の楊季鷹が特使とともに新羅に使者として赴いた。楊季鷹に新羅棋士で敵うものは居なかった。約百年後、長安で顧師言と日本王子高岳親王が対局した。初めての正式な日中対抗戦と言えよう。顧師言はこの対局で「神来之筆」と後に呼ばれた「三十三招鎮神頭」で、一挙に勝ちを決めた。この時期に囲碁が日本に伝来したとの説がある。 顧師言は宣宗時代の名棋士である。「旧唐書・宣宗本記」によると、853年、日本から来た王子と対局している。宣宗季*(815-859年)の時、中国の囲碁史上最も古い囲碁国際大会で顧師言が優勝している。 |
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880年頃、滑能が碁の待詔として活躍する。「手談の賭け物」、「囲碁の賭け物」が三代実録に表れる(貞観―天慶年間)。 | |
907年、唐滅ぶ。 |
【「(北)宋」時代】 |
【「(北)宋」時代宋の囲碁】 |
980年頃、潘慎修が棋説を作って大宗に献ず。 |
宋の張擬は孫子の兵法を真似て『棋経十三篇』を書き、後世の囲碁理論と実践に深い影響を及ぼした。北宋(960-1127)時期の劉仲甫は囲碁に関する著作が多く、「忘憂清楽集」(現存するもので世界最古といわれている囲碁の解説書で、徽宗(きそう)御製の詩のうちの「忘憂清楽在枰棊(憂いを忘れる清い楽しみは囲碁である)」という句からタイトルがつけられている)、『棋勢』、『造微』、『精理』、『棋訣』等がある。北宋時期の范仲淹、欧陽脩、司馬光、王安石、蘇軾、黄庭堅といった文人や忠臣も高い囲碁の造詣を持っていた。 |
1101年頃、徴宗帝の碁の待詔/李逸民が、北宗時代、張擬囲碁の名手の名を挙げる(玄玄碁経)。 |
1104年、「忘憂清楽集」編纂される。 |
【「(南)宋」時代宋の囲碁】 |
1185年頃、陸象山が、河図洛書の理を囲碁のうちに発見する(玄玄碁経)。 |
【「元」時代】 |
【元時代の囲碁】 |
AD13世紀の頃、宋の文天祥と劉沐は、ちょうど日本の真田父子のような義臣であった。この二人は江生省吉水の人で幼友達であり、碁仇だった。「少なきより与に狎れ昵み究め(幼少の時からお互いに遠慮が無く)日夜を忘れ以て常となす」というような間柄だった。宋は元に滅ぼされたが、滅亡の際に最も活躍したのは文官・文天祥であった。元の大軍が首都に迫った時、彼は勤王の兵を挙げ、首都防衛の第一線についたが、運悪く捉えられ、獄中にあるうちに宋は滅んでしまった。劉沐も文天祥に応じ、一軍の将として戦い、子息もろとも玉砕して果てた。文天祥は元朝への仕官の勧めをことわり続け、決然として宋朝に殉じた。彼が獄中で詠んだ詩は、幕末の勤王の志士達の愛唱歌となった。「正気の歌」である。注:これに因んで日本の軍隊で、「正気の歌」は軍歌以上に一世を風靡した。 |
1349(至正9)年、晏天章が、元朝の厳徳甫師と共編し「玄玄碁経」を著す。囲碁の哲学が語られる序文、前人の大量の理論の著述や囲碁の死活や定石を集めている二番目に古いといわれている碁書である。「玄玄碁経」は日本でも改編されながらたびたび翻訳出版された。 |
【「明」時代】 |
明清代に囲碁の水準はめざましい発達を遂げた。その表れの一つが数多くの流派の出現である。明代正徳・嘉靖年間に3つの有名な流派が形成された。その一つ目は鮑一中(浙江省永嘉出身)を代表として、李冲、周源、徐希聖らにより形成された永嘉派、二つ目は程汝亮(安徽省新安出身)を代表として、汪曙、方子謙により形成された新安派、三つ目は顔倫、李釜(北京出身)を代表とする京師派である。彼らがけん引役になって、長きにわたり士大夫が独占してきた囲碁が市民の間でも広まり始め、一部の「市井出身の棋士」が登場するまでになった。彼らは民間の対戦試合を頻繁に行うことによって、囲碁をさらに普及させた。囲碁が盛んになるにつれて一部の民間愛好家の手による棋書が大量に出版され、林応竜「適情録」20巻、「石室仙機」、「三才図会棋譜」、「仙機武庫」、「奕史」、「奕問」など、20種類余りの明代の棋書からは、当時の高度に発達した囲碁技巧や理論をうかがい知ることができる。清康熙年間末期から嘉慶年間初期にかけて奕学はさらに盛んになり、囲碁界には大勢の批評家が現れた。なかでも梁魏今、程蘭如、範西屏、施襄夏の4人を合わせて「四大家」と呼ばれた。 |
【明時代の囲碁】 |
明末の名人の過百齢が『官子譜』を書き、各種の手を収録した。民間では囲碁を使った賭け事が盛んになり、朱元璋が「禁棋令」を出すほどだった。 |
【「清」時代】 |
【清時代の囲碁】 |
明から清の時代に入る。18世紀頃、清朝六代皇帝・乾隆帝時代、中国の国力充実し、文化が最も栄え天下太平の世を迎えた。碁も貴族富豪が保護奨励した。黄月天という当代随一の打ち手が出、少し後に施定庵と氾西屏の二人が輩出した。その後、国力が衰退し、同じくして碁界も衰えていった。 |
清朝の時代も、囲碁の名手は続々と出た。康熙年間、黄龍士が徐星友に三子譲った対局の十番の棋譜「血涙篇」は著名である。 1739(乾隆4)年、施襄夏と范西屏は浙江平湖で有名な「当湖十局」を打った。 公的な地位の低下は、明清時期の民間の棋士の経済収入を長く不安定な状態にした。棋士の収入は、囲碁の指導や弟子への伝授のほか、主に観客(主に顕官、富裕な商人、上層文人)の「賞金」や「賭け金」に依存していた。これは明らかに運まかせであった。もし太平の世であれば、貴顕たちにも余裕があって、民間の囲碁活動も盛んになり、棋士の生活も安定する。「諸子争雄競覇,累局不啻千盤」、「海内国手幾十数輩,往来江淮之間」と、王燮は「『弈墨』・序」で清初の棋壇の盛况ぶりを描写した。しかしいったん民生が苦しくなると、棋士の生活も苦しくなった。囲碁のレベルも自然と段々下がり、後継者も減った。このような賞金にたよった生活方式は、棋士に独特の勝負観と社会的地位を形成した。囲碁は依然として高尚な芸術であったが、棋士は役者や占い師のように低く見られた。 |
【植民地化時代の中国の囲碁】 |
【中華人民共和国時代の囲碁】 |
近代に入ると、囲碁は日本で急速に普及して中国は徐々に逆転されるまでになり、清代後期には中国の棋士はすでに日本の棋士に一定の差をつけられていた。一方、中華人民共和国の成立後に中国では囲碁が大いに促進され、新たな世代の名人がめきめきと力をつけた。代表的な棋士は陳祖徳、聶衛平、馬暁春、常昊などである。また、多くの対戦が行われるようになり、中国天元戦、中国名人戦、全国小中学校戦、圍乙リーグ戦、全国個人戦、中国新人王戦、招商銀行杯、理光杯、倡棋杯、爛柯杯、西南王戦、中国圍棋甲級リーグ戦、中国圍棋乙級リーグ戦、NEC杯(廃止)、圍丙リーグ戦などは、囲碁の発展と普及に大きな役割を果たした。 |
【李克強首相の囲碁政論】 | ||
2016.3.17日、「(朝鮮日報日本語版) 囲碁好き中国首相、李世ドル対アルファ碁に言及」。
3.16日、中国政府首脳で最強クラスの囲碁愛棋家と評されている李克強首相が、北京の人民大会堂で全国人民代表大会(全人代、国会に相当)の閉幕を受けた内外記者会見を開き、日本人記者から韓中日首脳会談と中日関係について問われた際、韓国のイ・セドル9段と人工知能「アルファ碁」が繰り広げた囲碁対決について次のように言及し話題を呼んでいる。
李首相は、しばしば懸案を囲碁にたとえて説明してきた。昨年3月の全人代閉幕記者会見でも「囲碁で石が生きるためには2つの眼が必要だが、(中国経済で)安定成長と構造調整はすなわち2つの眼に相当する」と発言。昨年11月の韓国訪問時には韓国の李昌鎬(イ・チャンホ)9段のライバル、常昊9段が同行した。李首相は当時、囲碁の終盤戦で局面を転換する李昌鎬9段の実力に触れ、「韓中の青年も最後には優位に立てると思って努力すれば、明るい未来を創造できるはずだ」と語った。
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2016.3.17日、 [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]「李克強「韓中日、アルファ碁のようなスマート製造業で協力を」(1)」、「李克強「韓中日、アルファ碁のようなスマート製造業で協力を」(2)」。
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2011年8.26日、朱 新林(浙江大学哲学系 助理研究員)「黒白の碁石に古くからの情を思う」の「一、中国と囲碁」。
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(私論.私見)