万年コウロード |
「万年コウ」を黒側から見た場合 |
白がdにつなぐとセキなので両者共に生きている。つまり黒か
ら何もしなくてよい状態になっている。黒は、セキ生きよりも利益がある場合のみ、その必要があるかどうかを自問しつつ白を取りに行くことになる。実際に内側の白を取りに行くには、先に内側の白とのダメを詰めると白にdと接がれてと五目中手で黒死になるので、まずはdとコウを取り返す必要がある。しかし黒はこのコウを接げない。ツグと隅の白3子を取っても中手の自殺手になっているので黒からツグ手段がない。そこで普通は暫くコウの応酬になる。黒は、白にdと継がれるとセキにされるので白にdツギの余裕を与えないコウ立てをし続ける必要がある。その間、損コウを重ねる可能性がある。黒がコウに勝っていよいよcに打ってダメ詰めすると本コウになる。cは「清水の舞台からの飛び下り手」と云えよう。しかしこうなると白も必死であるから厳しいコウ争いになる。黒は二段構えのコウに勝って、最終的に白のコウ立てを無視してコウ勝ちする必要がある。結果的に黒はこの間のコウ争いで相当の代償を払わされている。この難儀なやりとりを評して「万年コウ」と命名されているように思われるる。思えば、元々がセキなのに、生死が問われる本コウ局面に黒側から誘導して行く必要があっただろうか。黒の方からは何もする必要がなく白がセキにするか取り掛けにくるか見守るのが賢明だったのではなかろうか、と云うことになる。これが黒から見た万年コウである。 |
「万年コウ」を白側から見た場合 |
白が、dのところへ接ぐとセキなので、セキにしたければ接げばよいが一手をかけてセキにする必要があるだろうかと問い、黒からの仕掛けが相当難儀な事を察知してツギを保留し他の好点に着手し続け、黒からの仕掛けを待てば良い。白の事情としては、いつでもセキ生きにできる「白のセキ権利付き万年コウ」なので本コウに持っていく必要はない。黒がコウを取り返した時にのみ反応すれば能く、セキ生きよりも利益がある場合のみ黒を取りに行けば良い。敢えて白から取りに行くとしたら、黒の仕掛け同様に白もかなり難儀なことになっている。まずはa、bと外ダメの数だけダメ詰めせねばならない。この間、黒は他所の好点を打つことができるのでかなりな代償となる。次にコウに勝った状態でcにダメ詰めして本コウに持ち込み、このコウにも勝たねばならない。白からもa、b、cのダメ詰めに加えてコウに勝たねばならないと云う「万年かかる」道中になっている。思えば、いつでもセキにできるのに、生死が問われる本コウ局面に白側から誘導して行く必要があっただろうか。白は何もしないのが賢こかったのではなかろうか。これが白から見た万年コウであるので、そのセキを放棄してまで黒の取り掛けに向かう必要があるのかと云うことになる。 |
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「万年コウ」は、互いの接点の最後のダメ詰めになるcに打つことで本コウになる。本コウに持ち込んだ方は、持ち込んだ責任で、損コウ覚悟のコウ立てをしてでもコウに勝たねばならない宿命にある。しかしながら取り掛けに向かった方が不利な本コウになっている。本コウになる前も無理を重ねており、本コウに持ち込んでからも無理を強いられる。仕かけた方が自ら招いた禍(わざわい)のコウ立てを続けざるを得ない。仕かけた方が相手のコウ立てに応じればエンドレスのコウになる。最終的に仕掛けた方がコウ勝ちに向かうことになるが、外ダメ詰め、コウ争い、cの詰め、コウ争い、相手石の取り上げまでに得策ではない相当の手数を要している。この苦労を評して「コウを解消するまで万年ほどかかる万年ロードになっている」という意味で「万年コウ」と命名されている。両者とも、セキの形のものを敢えてわざわざコウに持ち込み、コウ勝ちする必要がないのに膨大な手間暇掛けて「万年コウ」解消に向かう功罪が問われることになる。 |
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万年コウは昭和3年の大手合で、瀬越憲作(白)七段と高橋重行三段(共に当時)との二子局に生じている。 |