囲碁吉の手筋&詰碁&生き碁&最善手論

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6).1.31日

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで、「囲碁吉の手筋&詰碁&生き碁&最善手論」を述べておく。

 2005.6.4日 囲碁吉拝


【囲碁吉の詰碁&手筋&最善手論】
 「詰碁&手筋&最善手」をなぜ学ぶべきなのか、これに対する囲碁吉見解を披瀝しておく。手筋的なものは、実際には「詰め碁、手筋、最善手」の3種に分かれているのであろうが、ここでは詰め碁に絞って説く。
 将棋の詰めは王を取る(殺す)ゲームである。このゲームのどこに意味があるのだろうか。思うに、詰めの結果ではなく詰めの道中にこそ値打ちがある。まずは全体を俯瞰する。互いの陣形を確認し、相手と自分の傷を認め、その傷を咎めたり補強する手順を探す。次の一手の好適着手点を探し出し着手する、この道筋を練磨するところに意味がある。「読みと直感を鍛える」と云われているが、このプロセスが大事なのではなかろうか。

 
囲碁の「詰め」は将棋のそれに比べてどう似ていてどう違うのだろうか。似ているところは双方に同じように詰めがあることである。違いは、囲碁には将棋の王がいなくて代わりに課題石が与えられ、それを生きるなり殺すなりの手立てが要求されている。その詰め碁には法理がある。その一はハネ。その二は置き。その三はキリ。その四がその他の手筋と云うことになるのではなかろうか。そのそれぞれに扉があり、さらに分岐する構造になっている。

 
気づきにくいが、詰碁ワールドがあたかも一局の碁になっている。そういう意味で、詰碁が実戦のミニチュア演習になっている。故に、この演習を疎かにする者は実戦で泣かされる。このことを肝に銘じて知るが故に「院生もプロも常に詰碁を研究している。アマチュアで強い人は詰碁にも強い」。興味深いことに、囲碁の対戦をしなくとも詰め碁を解かせてみれば棋力が分かる。これを逆に云えば、詰め碁を解かせてみれば、人は棋力通りに解く、あるいは解けない。詰め碁が如何に大事か分かろう。

 詰碁に強くなると、対局で、守りでは石が死ななくなる。攻めでは相手の石の弱点を突いて攻めることができるようになり、それが勝ちに繋がる。そういう意味で詰碁が大事、こういう理屈ではなかろうか。しかもそれを趙治勲の「一目で分かるシリーズ」で教えられるように、「一目で分かる」ところまで能力を鍛えることが肝腎である。

 付言しておけば、詰碁の中には予想外の好手による逆転勝ちのような出題もある。手幅の広さに感服させられる。詰碁に習熟することによって、そういう奇手が実戦で自然に出てくるようになるのではないかと思う。詰碁にはこういう値打ちもある。

 もう一つ、課題詰め碁に於いて、解ける解けないを知ることにより、そこへ至る流れの良し悪しを逆に知ることができると云う余得がある。解ける詰め碁が解けないと、実戦でそこへ至る過程の手に萎縮することになる。その詰め碁が解けると、そこへ至る過程の手を自信をもって打つことができるようになる。詰め碁と実戦対局碁にはそういう関係がある。このことを知れば自ずと詰め碁が疎かにできまい。
 3段から4段に向かう頃、囲碁吉がようやく詰め碁に興味を覚えるようになった。今まで苦手中の苦手でまじめに取り組もう、習おうとしたことはなかった。今にして思うに、結局は自力学習以外にはないのであるが、囲碁を指導する側の教習システムが疎かにされているからではなかろうか。

 腕が上がるにつれて実際の対局に詰め碁的な問題に出くわすことが多くなった。つまり詰め碁に習熟しておかねば丁々発止の碁が打てないことに気づくようになった。手入れを要するところ、要させるところの駆け引きの味を覚え、この味を知って打つのと知らずに打つのとでは大違いと思うようになった。

 それらは全体の流れに関してのことであるが、部分的な局面でも常時詰め碁問題が起る。知らぬ故に、あるいは分からぬ故に手を入れずに殺されたり、手を入れなくても良いところに入れて局勢に遅れてみたりする。勝ち碁の局勢のところ、終盤の見損じ逆転劇で負かされたりしたら目も当てられない。これを負け碁の局勢の側から云えば、手残りがあるのにそれを的確に咎めずそのまま負け碁にするのは勿体ない。

 詰め碁には詰め碁用の菜切り包丁で切れば良いのに、知らぬ故に出刃包丁でやり取りするのは損だろう。そういうことでは碁全体が大味になってしまうだろう、菜切り包丁で手作りに挑まねばなるまい。要するに手筋、最善手、詰め碁の芸を磨かねばならない。これを脳で覚え目で見極めねばならない。両者の一致のスピードを訓練せねばならない。これに習熟しておくことで石全体に粘りとキレが出る。石の粘り、キレが手応えであり棋力である。

 考えてみれば、プロとアマの差はこの詰め碁能力の差でもある。義務教育時代の幼少期に学校へ行くのも惜しむようにして古典棋譜、詰碁を習うのがプロの道である。プロはこの古典棋譜、詰碁に習熟した上で個性を乗せて盤上の戦いを繰り広げている。その詰め碁の醍醐味は、単に生き死にの分別にあるのではない。それに至る手順の妙を知ることも大事である。その知識の宝庫が古典棋譜、詰碁である。これに未熟なのがアマであり、古典棋譜、詰碁を知らぬままに盤上の戦いを繰り広げる。アマはアマ同士で闘うので面白いことは面白いのだが、何とも大味なやり取りになるのは避けられない。この差がプロとアマの差である。こう理解すべきだろう。

 問題は、そういうプロ登竜門の古典棋譜、詰碁の公開が遅れていることにある。下手に公開することが飯の食い上げになると恐れての非公開かも知れぬ。かっての家元にそういう例がある。もしそうだとしたら何と卑怯卑屈姑息なことだろう。そういうプロは早晩掃き清められてしまわねば日本棋界がますます韓国、中国に遅れをとり、さては台湾と肩を並べ、はては北朝鮮の後塵を拝するようになるだろう。元へ戻って言わせてもらえば、囲碁人口の裾野を広くし、強いアマを育て、それらの者の御輿に乗って活躍するのがプロに課せられた期待であり、プロはそういう期待に応えるリ-ダ-であるべきだろう。そういう位置づけから「囲碁の知識8(手筋&詰碁&最善手篇)」を立ち上げておく。 

 ここで基礎詰め碁集を確認しておく。詰碁の要諦は、隅と辺、更にそれぞれ生きの詰め碁と殺しの詰め碁に分け、詰め碁パターンを知り習得するのが良い。道中の「ひらめきの手」が肝心である。1・それぞれ急所を捜し初手とする。急所の手を捜すのは、殺す側にも守る側にも肝要の箇所を見つければよい。詰め碁には、その一手を打てば正解の詰め碁(仮に「一手詰め碁」と名づける)と、その一手を打つ為の手順を要する数手詰め碁(仮に「数手詰め碁」と名づける)の二通りある。この識別で詰め碁を整理する必要があろう。2・手筋を使うのが肝腎である。いわゆる「せばめて殺す、広げて生きる」が筋となる。

 手筋と詰碁は重複する部分があるが基本的に異なる。詰碁は、攻めている相手の石の生死そのものを局所的に問題にしている。実戦では「大石頓死」の場合もあるし、敢えて取らない場合もある。この点の注意を要する。詰碁を習熟していないと、手戻しの要不要、相手の一団の弱石の攻め方殺し方が分からず損をすることになる。これに対して、手筋は、石の折衝戦に於ける相手よりも有利な形を構築するための手段のことを云う。基本的に「整形」(石の形を良くして強化する)、「分断」(相手の石を分断して弱くする)、「連結」(自分の石を連結して強くする)、「捕獲」(相手の石を捕獲する)の4種類がある。

 2014.10.28日 囲碁吉拝

【5年後に一気に伸びる青竹の話】
 「思わず涙する感動秘話」の「5年後に一気に伸びる青竹の話」が棋力向上に参考になるので確認しておく。
 竹ってどんなイメージがありますか?  「強い」... そんな青竹ですが、こんな風に成長するみたいです。4年間は全然伸びていないのに、5年後に一気に伸びるんです。じゃあ最初の4年間は何も変わっていないのでしょうか。そんなことはないんです。では、いったいどこが成長しているんでしょうか。実は4年間は「根」が成長しているんです。まず、しっかりと根を張ることで、太く長い幹を支える基盤をつくっているんですね。そして、しっかりとした基盤が出来たとたん、一気に伸びていく。根がしっかりしているから、あれだけ長くても大丈夫なのです。竹やぶがあるところの地盤がしっかりしているというのは、地中に張り巡らされた「根」によるものなんですね。

 人はともすると目に見える部分で判断してしまいがちです。・見える部分がなかなか成長しない(変わらない)から、諦める。・見える部分だけを気にするあまり、見えない部分をおろそかにする。でも、諦めるのは、ちょっとまだ早いのではないですか? 見えない部分を意識していますか? 今は「根」が成長している時じゃないんでしょうか? 見えない部分の成長が、見える部分を変えていくからです。





(私論.私見)