囲碁吉の天下六段の道、定石論

 更新日/2018(平成30).3.16日

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで、囲碁吉の「囲碁吉の天下六段の道、定石論」を記しておく。


【囲碁吉の定石論その1、「定石は覚えて忘れろ」の正しい理解の仕方】
 碁は本来「見合いの芸」を楽しむものであり、その際、定石がものをいう。定石は手筋と石の形を集大成した宝庫となっているので、これに通じておくに越したことはない。実際の定石は無限の枝分かれをしているが、知られているのはその一部である。その一部の定石を知り局面に対応するのは無理なところ、ここはこう打つものとして習った定石を鵜呑みにして墨守的に打つ傾向が生まれる。しかしそれは却って碁を窮屈なものにしてしまう。そのような打ち方では碁の幅を狭くさせ、碁を楽しむことから遠ざけてしまう。囲碁は「和戦両様、臨機応変、変幻自在」の手を良しとする。金科玉条式に「定石はこうである。ここに打つべきである」と不自由を強いられることがあってはならない。定石を覚えることによって着手の自由自在を増さねばならない。これが定石論の原則である。その上で、「定石は覚えて忘れろ」と言い聞かされている。その真意は、配石に応じて局面に応じて打つ以上、型通りの定石が通用せぬのは当たり前で、或るプロ曰く「私はあまり定石を知りません。打った手が結果的に定石の図のようになるのです」を目指すことにある。知りあいのアマ四段の方が感動をもって教えてくれた言であるが、定石と云うものの受け取りようとして案外そうなのではないかと思う。

 「定石は覚えて忘れろ」の格言の理解を正確にする必要がある。この言を定石軽視論で受け取ってはならない。ここを強調したい。正しい理解は、「定石は覚えて、なお且つ忘れろ」であり、「定石を覚える必要はない」とする定石軽視論ではない。「定石は覚えて忘れろ」を「定石を忘れろ」と早飲み込みして定石軽視論的受取りをしてはいけない。正しくはこうである。即ち、まずは定石を習得すべきである。留意すべきは、定石の際の選択肢の広さを知りながら学ぶことである。同じ局面で定石は幾通りもある。書籍本は編集の都合上、代表的な定石を挙げているだけで、実際には「或る一手」に対して考えられる限りの通りがあり、そのそれぞれが更に枝分かれして膨大になっていることを知らねばならない。そのうちの一つか二つの代表的な定石しか知らされていないのが現実である。そういう僅かしか知らされていない定石を金科玉条式に当て嵌めようとするから定石を覚えて却って窮屈なことになる訳である。そういう定石定規がダメと心得ねばならない。

 幅広く奥行きのある定石体系の中から最も相応しいと思われる定石を主体的に選ぶのが囲碁の楽しみであり、どれを選ぶかがその人の感性である。その定石は昔からの定石と今現に新たに生まれつつある新手定石から成り立っている。そういう定石であることを分別する必要がある。定石は束縛されるものではなく、詳しく知れば知るほど寧ろ着手の自由を得る手段のものである。そうでなければならない。これが、「定石は覚えて忘れろ」の真意である。

 ところで、定石修得を疎かにしたままでの定石軽視論は上達スピードを遅くする。もっともネット上では今のところ網羅的な格好の定石集が公開されていないので定石修得が難しい状況にある。そこで、囲碁吉が自習用定石集を作成し公開しようとしている。今構想しつつある囲碁吉式自習用定石集がありせば囲碁吉は今頃は少なくとも県代表クラスにはなっていたと思う。惜しいことをしたと思う。

 ちなみに、囲碁吉は、上級者に対する置碁でも、せめて心掛けだけは互い先の気分で打って参ろうと願っている。常に囲碁吉式の大局観に従って打とうとしてきたつもりである。この心がけが崩され、エイヤートゥーになってしまうことがしょっちゅうではあるが、この心構えがまがりなりにも今日の棋力に導いてくれたと自覚している。

 ところが大局観だけではうまくいかない。既に述べたように修身論がしっかりしていなければならない。次に技術論がしっかりしていなければならない。なぜなら寄せを上手にしないとズルズルと損を重ねてしまうからである。そういう意味で寄せの手を覚えねばならない。俗に「アマの場合には寄せで二十目は変わる。つまり損する」と云われる。更に隅の手味を知っておかなければならない。隅に手が要るのか要らないのかを知って打たなければ厳しさの足りない大味なものになってしまう。攻めるにせよ守るにせよ隅の手味を見て打たないと損をする。そういう意味で死活を覚えておかねばならない。

 そうやって、寄せと死活を学ぶと次に定石、手筋、手順、死活、詰め碁に明るくなければならない。囲碁吉はこれまで感覚だけで打って参ったが、そろそろこれらの「最低限の棋理」に通じておかねばならないと考え始めている。それにより石に粘りが出てくるように思う。石の急所が分かれば痛快である。次に、攻め合いの勝ち負けを見抜き、賢く応じたいと考えている。この読みを杜撰にするばかりに、これまで何度あたら惜しい勝ち機会を逃したことでせう。あるいは余計なあらぬ方向での闘いに消耗したことであろうか。  

 2013.6.3日 囲碁吉拝

囲碁吉の棋道論その1、定石譜共有化へ向けての提言】
 囲碁吉は囲碁が大好きです。子供の頃将棋を覚えましたが、囲碁は19歳の時覚えたての人から教わりました。不思議なことにコウも含め直ぐに理解しました。但し、覚えたての人から教わったので生き死にと地取りの勝負ゲームとして夢中になったものの、囲碁の奥深さに気づくまでには至りませんでした。その頃の棋力は恐らく15級ぐらいだったと思います。学生時代は他のことで忙しくほとんど打ててません。社会人になってからの30歳頃にふとした機縁で三段くらいの人に手ほどきしていただきました。5子から始め忽ち先の手合いになりました。上達の早かったその頃の或る日、通いつめていた碁会所で、高校生の子供が私以上のスピードでグングン強くなっていくのを目の当たりにし、ショックで囲碁から遠ざかってしまいました。以来、麻雀に没頭する身になりました。独身でしたので家に早く帰ってもつまらないので麻雀に明け暮れました。勢い徹夜徹夜でよくぞ命が持ったものだと感心しております。十年くらい続けましたが、人には素質として元々の牌運の強い人がいることに気づき、その頃不意に囲碁をもう一度習い直そうと思い立ちました。

 40過ぎの頃、これまた機縁で碁会所を開設しました。あれから二十余年、囲碁の腕前は五段辺りになりました。当初の抱負と向上心に比して上達の歩みは遅いです。上達を早める良い方法はないかなと思ううちの或る時、インターネットの活用を思いつきました。ネットゲームに興じるだけでなく、サイトに囲碁の上達法を記し、私自身も含め皆様に役立つようにしたらどうだろうと思いつきました。そういう気持ちからネット公開されているものに目を通しましたが今いち使い勝手が悪い気がしております。と云うか著作権がらみの防壁を張ってわざわざ学びにくくしているような気がします。

 そこで、そういう覆いを取り払い囲碁吉向けに編集してみようと思い立ちました。それはひとり囲碁吉のみならず他の方にも資すると思うからです。ただ囲碁吉は囲碁ソフトが扱えませんので、ネット上に出ているのを借用させて貰うことにしました。時間が大幅に短縮でき感謝しております。ここに御礼申し上げておきます。著作権がうるさい頃なので、これにクレームが来るようなら自前のもので創り直したいと思います。いずれにせよ早かれ遅かれ囲碁ソフトを活用して自前のものを作りたいと思っています。現在、ソフトの使い方が分からず困っております。どなたか操作できる方が協力していただけたら一緒に作りたいと思います。あるいは囲碁吉に操作の仕方を教えてくだされば後は自力でやります。(念ずれば通ずで、パソコン塾の先生と知り合い、相談したところ、まずまずのソフトができました。長年の夢が叶ってうれしいです)

 要するに、囲碁吉に分かり易いオリジナルの定石譜を作図したいのです。「ネットで見られる囲碁吉式オリジナル囲碁定石集」を市井に提供したいと思っております。これを最低限習っておけば棋力上達間違いなしを請けあいます。今の我々は圧倒的に知識が不足しており、これが為に万年初段、万年低段の域を超えられないと思っております。せっかく覚えた碁ですから、せめて天下六段、要するにアマの最高峰ぐらいまでにはなりたいと思います。

 最近、スカパー登録し囲碁将棋チャンネルを見続けております。或る時、中国棋院の対局解説を聞き感心しました。日本式上品さとはひと味違う本音式の解説に目からうろこが落ちる思いをしました。女性アシスタントの突っ込みも素晴しく日本式の相槌打つだけの大人しいものではありません。男女それぞれの解説者が対局者の手を時に厳しく時に称賛しつつ遣り取りしておりました。解説つうものはこうでなくては面白くないなと思いました。この様子では対局は無論のこと解説まで日本囲碁は中国囲碁に勝てないなと思いました。

 情けないことに日本棋界は中国、韓国に勝てなくなりつつあると云うのに、この現状打開に真剣に向き合わず、逆に著作権囲いに熱心な傾向を帯びつつあります。誰が智恵をつけたのか分かりませんが、囲碁の著作権囲いなぞはっきり邪道でせう。むしろ逆です。もっともっと情報公開することが望まれているのではないでせうか。旧定石から新定石まで学び易くしておき、棋譜の閲覧を自由にさせ、不断に棋界愛好者のレベルを上げ裾野を広げる必要があるのではないでせうか。囲碁吉は、日本棋界を侵食しつつあるこの病気を弾劾します。今どきの著作権は悪しきユダ邪商法です。チンケなユダ邪商法に馴染むなかれ。それは歴史に見慣れた滅びの道と警告しておきます。そういう思いから「ネットで見られる囲碁吉式オリジナル囲碁定石図」を一刻も早くサイトアップしようと思っております。共鳴された方の協力を求めます。

 ここでは、シニアー向け並びに囲碁吉の自習用として整理しておきたいと思います。「シニア用」と銘打つのは、内容が上級者向けという意味ではありません。囲碁とは何かを説明するのに、わざわざジュニア向けにやさしく表現するのではなく、物事を表現するのに最も的確な言葉を探し、その限りで難しい表現をすることもあるという意味で名づけております。誤解なきようあらかじめお断り申し上げておきます。思えば、本サイトのようなものがあれば、囲碁吉の上達も見る見る早かったのではないかと考えております。そういう意味で早く囲碁吉定石集を作りたいと思っております。

 囲碁は今や国際的なものになっておりますが、かっての王者・日本は苦戦しております。口惜しいです。我々レベルの裾野のレベルを上げないとプロの腕も上がらないと考えます。プロに対する質問をもっと高度なところでやるべきだと考えます。このやり取りが回り回ってプロの水準を鍛えると思っております。プロとは、アマの肩車に乗って闘う騎馬戦のようなものではないかと思っています。気になって今、日本棋院、関西棋院のホームページを確認したところ、定石に関する解説がありません。何を考えているのか、まずは手本を示すのが筋でせうに。仮に著作権料狙いで伏せているとしたら何と器量の狭いことよと呆れてしまいます。何事も須らく裾野を広げる努力があってこそ栄える筈です。目先の僅かの著作権収入をあてにして根を枯らす愚に染まらないように願います。

 と、ここまで書いたところ、「ほわいとの囲碁のページ 」、「定石館」、「
定石のススメ」、「日本メール碁会」、「大淀囲碁クラブ」、「囲碁定石シミレーション」、「★星の定石★」、「しげちゃんのホームページ」、「囲碁定石・布石まとめ」を見つけました。それぞれにすばらしい出来映えですが、膨大な定石集をどう纏めるのかで苦労しているようです。如何に系統づけ、これを分かり易くするのかが問われております。これらを参考にしながら、囲碁吉も定石集づくりに参戦しようと思います。

 囲碁吉定石集の眼目は、定石の着手の分かれ道に於いて、一手一手の意味を確認しながら追跡する構成にしたところにあります。従来のそれは一括して定石図を掲載していますので、読む側には暗記用になってしまいます。そうではなく一手毎の意味に頷きながら結果的に定石図になる経緯を確認したいと思います。定石の一手一手の意味の解説は恐らく従来の書籍型では膨大な紙数になるのでできなかったのではないかと思います。紙数の心配のないネットの登場時代に於いては、それに合わせた解析方法があると思います。ここでは徹底的に系統立てつつ一手毎定石図の作成に向かおうと思います。これが囲碁吉定石集の特徴になります。

 2013.6.3日 囲碁吉拝

【囲碁吉の棋道論その2、囲碁吉定石集のスタイル】
 さて、こうやって囲碁吉の定石集を手掛け始めたのだが、実に骨の折れること。恐らく係りきりの三年、今のままでは十年がかりの作業になることと思われます。やらなければよかったと思う反面、囲碁吉がやらないと誰がやると云う思いもあり、結局やり続けることになるでせう。途中でできなくなったとしても、誰かがこのスタイルを継承してくれるはずと思っております。

 ここで、囲碁吉定石集のスタイルを確認しておきます。
 碁盤を13路盤、15路盤、19路盤の使い分けにしました。これにより適宜な使い分けができるようになったと思います。
 定石系統を星、小ゲイマ、高目、目はずし、三三の5系にし、それぞれを1・カカリ方、2・その応じ方に分類し、その系ごとの定石集にしました。
 それぞれの定石につき、道中変化を確認し、その分岐のそれぞれの系を追う形でタイプ化しました。その際、何故に分岐するのかの理由も確認したいと思います。
 その適宜に必要と思われる実践的なコメントを付しました。
 以上を効率的に為すために囲碁吉初の記号(&、-)、用語を開拓しました。

 恐らく、以上の確認事項に基づく定石集は今のところ他にないオリジナルなものであると自負しています。書籍と違ってネットでは紙数を気にする必要がありませんので、こういうスタイルのものが生まれることになったと思っております。そういう意味でネットが生み出したネット能力活用型の新定石集の試み足り得ているのではないでせうか。今のところ記すばかりですが、追々にさらに見易く理解し易い形で再整理するつもりです。囲碁吉の自習用として及び意欲する者に喜ばれるプレゼントになれば良いと思っています。

 やり始めて気づいたことがあります。やはり、こういう定石集は誰かが編集してサイトアップしておかねばならないと思いました。それにより囲碁熟達のスピードが違うと思います。プロは低い次元で指導ばかりしていてはいけません。アマのレベルをプロ並みに上げて、プロはその上で飯を食わねばならないと思います。加えて次のような気づきを得ました。定石は詰碁同様、難しいものではあるが楽しい面もあります。むしろ定石の方が石の運びが闊達で、定石を習うことにより手が縮こまるのではなく、より自由に選択肢が広がり楽しめるのではないかと。定石を習うことにより手が縮こまるとするならば、教えられている定石の数と幅が狭すぎることに起因しており、実際の定石は百花繚乱であり、定石がこんなに自由に打てるのかと目を洗われるでせう。このことが云いたかったのです。

 この理屈は将棋でも同じと思います。ちなみに囲碁は定石、将棋は定跡と云う。読みは同じ「じょうせき」と読む。漢字表記が違うところがまことにツボを得ていると思います。

 2013.6.16日 囲碁吉拝

【「囲碁定石論 定石を覚えると強くなる?」転載】
 定石論に関して「囲碁定石論 定石を覚えると強くなる?」という小エッセイがサイトアップされています。興味深い一文なので、これを転載しておく。
 級位者時代の定石学習について

 私(当サイト管理人)が最初に買った棋書は基本定石の解説本でした。3級時代に、実戦だけでは強くなれないと悟って勉強しようとしたものです。定石については、「定石を覚えて二目弱くなり」という定石信奉者を皮肉った句が有名ですが、私の場合は幸い、弱くなることはなく、少しは効果があったようです。それは、その頃の私があまりにも石の形が悪く、しかも実利に偏った打ち方をしていたからです。地を囲ったつもりでもあちこちが味悪で、そこを相手にねらわれます。すると突如、戦いの碁に豹変し、敵の石を無理やり取ろうとして自滅することも少なくありませんでした。当時、基本定石から学んだのは、部分の正しい形を知ったことと、碁は交互に打っているので一方的にうまくいくことはない、適度な相場というものがある、ということです。

 とはいえ、「正しい形」の本当の意味を理解したのは有段者になってからのことです。また、定石は実利と厚みに分かれることが多いのですが、初段くらいまではどうしても実利を取ったほうが有利に見えたものです。時には、「白の厚みが強大で白よし」と書かれた変化図でも、隅の実利を取った黒のほうが得しているように感じ、納得がいきませんでした。厚みの価値がわからない段階では、定石学習の効果はかなり限定されるということです。

 ところで、初めて教わる定石といえば、たいていの方は隅の星に対してケイマにカカってきたときのツケノビ定石ではないでしょうか。「ツケにはハネ」「ハネにはノビ」…というような一連の筋・形は辺や中央でも応用ができます。最初は「馬鹿の一つ覚え」のように覚えたての筋を使いたがる傾向が初・中級者には見られますが、それでいいのです。実戦でうまくいかないことに気がついた段階で、また別の打ち方を覚える。そうして碁が強くなるのですから…。

星のツケノビ定石からの参考図
白1、3の出切りは無謀で、黒は4とアテてから、6とサガるのが手筋です。
 星のツケノビ定石では図のように、白が出切ってきたときの対策がないと黒は安心して打てません。定石は完成された型の手順を覚えることよりも、こうした枝葉の変化を学習することのほうが大切です。この図は白が無理で取られてしまうのですが、白のあらゆる抵抗にも対応できる対策を身につければ、おのずと手筋と読みの力がついてくるでしょう。

 定石は、古今の一流プロ棋士がしのぎを削って生み出した、部分の最善手です。定石の中には燦然と輝く手筋がたくさん詰まっています。これが学べることが定石学習の最大のメリットです。


 定石は局面に応じた選択が重要

 定石を覚えても、あまり強くなれない。定石よりも死活の勉強のほうが大切だと気がついたのは、私が初段になってからです。死活や攻め合いなどの力がついてくると、厚みの意味がだんだんわかってきます。そして、実利と厚みに分かれる定石評価の解説にようやく合点がいくようになります。そのレベルになるとだいたい三段です。碁の才能に関係なく、実戦と勉強を重ねれば誰でもこの辺までは強くなれるはずです。

 私が再び定石に関する勉強をしたのは、三、四段の頃です。といっても定石の手順や変化を学ぶためではありません。定石選択の問題集に取り組んだのです。

 定石の選択では、相手がカカってきたときに、受ける、ハサむ、ツケる、の3通りの対応があります。他の隅や辺などの石の配置を見ながら、自分の構図を描くわけですが、途中でも双方にいくつかの分岐点があります。しかも同じハサむ手でも、時には一路の違いで好手にも悪手にもなったりします。「定石を覚えて2目弱くなる」のは、定石という道具の使い方を誤ったからです。その定石がどんな場合に使われるのかという布石理論を学んでこそ、定石学習が生きてくるのです。その意味で、定石選択問題によるトレーニングはかなりの効果が期待できます。

 「定石は覚えて忘れよ」は高段者向け

 私が定石の細かい変化を研究したのは高目です。四段頃から厚みや模様の碁に憧れを抱くようになったからです。目ハズシ定石に比べて変化が少ないという計算もありました。高目作戦は、自分の棋風を厚みの碁に変え、力をつけるということに役立ちました。実際、互先以下の相手に高目は大いに効果を発揮しました。でも、自分が二子置く相手には軽くいなされ、三子置く相手には逆に高目を打たれて苦戦をしました。

 その後、高目に飽きてきた私は中国流に魅力を感じました。中国流には通常の意味での定石はないに等しいといってよいでしょう。中国流に対するカカリは打ち込みの感覚に近く、それを避けての逆方向からのカカリも、辺から中央への戦いとなります。中国流は私の定石離れのきっかけとなった作戦で、全局的な視野を徐々に獲得していくスタートラインにようやく立ちました。

 定石についてプロに尋ねると、「覚える必要がない」という答えが多いようです。宇宙流でおなじみの武宮正樹九段はテレビで、自分が定石を知らないことを自慢するがごとく語ったことがあります。小林覚九段の解説会でも私は同様の場面に遭遇しました。覚九段が実戦解説の変化図を並べているとき、聞き手の女流棋士にこれは定石かと尋ねたのです。女流棋士「定石になっているようです」。小林九段「僕は定石をあまり知らないので…」。そのときの九段の顔が、気のせいか私には「定石は覚えてもあまり意味がない」と言っているように見えました。最前列で見ていたのでよく覚えています。

 「定石は覚えて忘れよ」

 この囲碁格言は、数ある中でもトップクラスのレベルの高い教えです。「忘れろ」といっても、もちろん完全に忘れ去れといっているのではありません。ただし、中途半端に覚えているよりは、忘れてしまったほうがよいかもしれません。

 この格言の真意は、着手の選択において、定石などの先入観を持たず、白紙の状態で盤面全体を見つめて考えよ常識を疑え、ということです。そんなことを言われても、高段者でもなかなかできる芸当ではありません。しかしそれでも、いったん知識を棚上げにしておいて、自分の考えや感覚で着手を発見し、自分の碁を打ってみることは棋力の飛躍のために必要です。たとえそれが悪手であったとしても、失敗から学ぶものは大きいはずです。借り物の知識で打った碁では、失敗から学ぶものは少ないでしょう。

 中山典之著「囲碁の魅力」が次のように述べている。これを採録しておく。
 「定石を知らぬ者は、定石を知る者に如かず。定石を知る者は定石を忘れる者に如かず。定石を忘れて聖目強くなり」。

【棋道論】

【Camellia氏の囲碁効用論】
 「Camelliaの囲碁観」を転載しておく。
 序文

 子供にとって遊びは仕事である.私は,大人になっても遊びの感覚を持っているといい仕事ができると思っている.その遊びの中でも最高のものと考えられているものの一つが囲碁である.囲碁という遊びを知ったことで,楽しみが増え,人生の中での読みを覚え,完ぺきがあることを知り,さらに言えば囲碁を通して仲間,ライバルとの信頼関係,コミュニケーションが深まった.私は,子供の遊びの感覚,好奇心を一生持ち続けたいと思っている.たかが遊び,されど遊びである.
 囲碁の楽しみ方

 プロを目指していた元院生のあてこみさんは,「修行時代,アマチュアの方々が楽しそうに打ってるのが凄くうらやましかったのを覚えている.年中常に真剣な対局なので,「打っていて楽しい」と感じることがほとんど無かった…院生などで誰かと仲良くすると,その子と対局するときは辛かったりした.誰であろうと蹴落とす気でないと,生き残っていけない.」と私の掲示板に書き込みをしてくれた.囲碁は楽しいものと思っていた私にはショックでした.

 私は,DNAの分析も行う科学者の端くれでもあるが,江戸を中心に発達した園芸文化の研究をライフワークにしている.江戸の初期にはいろんな道があった.鎖がま道や百姓道など今では考えられないものに対し,道(道とは何か書くと長くなるが)を究めようと努力をしたようである.強くないと,あるいは,強くならないと囲碁道は極められないと言うものではないと思う.岡倉天心が,決して本人に芸術家としての才能,技術があったわけではないように,スポーツの名コーチが必ずしも名選手ではなかったように,アマチュアでも天石流のような理論を組み立てる人がいてもいいと思う.天石流では,2003年7月に誠文堂新興社から「新手法」(上・中・下巻)を出している.天石流の囲碁史概観の中に「天石流は種を蒔く,育てるのは若い人だ」と書いてあるが,天石流の様な感覚・理論を発展させてトッププロで活躍される方が出てくると面白いだろう.

 囲碁は強ければいいというものではない.それでは,囲碁は何かというと第一義的には遊びである.かけがえのない遊びである.まずは楽しめばよいのであるが,遊びを超えて学べるものがあるので夢中になっている人が多いのではないかと思う.囲碁で学んだ「論理性」や「諦めないこと」などなどは,私の人生の中で役に立っているし,これから囲碁を知る人にも役に立つと思っている.囲碁は強ければいいというものではない.まずは,楽しむことで,楽しみながら人それぞれに何かを学べる.

 囲碁では,大部分の着手が読みからではなく,打つ人の構想を実現させるために経験から選ばれる.相手は,直接的にそれを阻止したりすることは少なく,逆に相手の構想を実現させてあげるのを認めてあげる代わりに自分の地を増やすという構想を成立させて優位に立ったり,相手の構想を値切ったり,する所が他のボードゲームにない囲碁の特徴である.読みは最後の最後に必要になってくる.従って,囲碁を打つと知らず知らずのうちに,構想力が生まれ,それを実現するための相手との上手な交渉力が養われ,最後の詰めができるようになり,経験として身に付いて行く.

 最後に,この「囲碁観」は,あくまで私の「囲碁観」である.このページで応援している大矢九段が朝日新聞での「柳―武宮」戦の解説で武宮九段の碁は定石が通用しない旨書いておられたが,定石が通用するかどうかは,囲碁のタイプにもよる.武宮九段も当然定石を知り尽くし,その上で定石にない手を,神のみぞ知る中央に夢を求める手を打っていると思う.私の場合は,「下手でもよい」,縛られない自由な発想でオリジナルな碁を打ちたい,と思っているだけである.上にも書いたが,定石とは,「才能のある先人が長い年月をかけ,苦労して作ったすばらしいもの」で,強くなるためには勉強しなければならないものだとは知っている.また,勉強をしたことのない私でも相手が打ってくるので独りでに定石を勉強していることになっていると思う.ただし,定石を勉強しなくても囲碁を楽しむことはできる!囲碁は自由で,色んな楽しみ方があるから楽しいのである。

 囲碁から学ぶ人生観

 以下,囲碁を勉強することの効用について,一般に言われていることも含め私が思っていることを英語でまとめたものを日本語に翻訳した.

 囲碁は中国,朝鮮および日本で発展した古代からのボードゲームで,19路の盤と,黒および白の2種類の石だけを使用して行う世界で最も単純なゲームの1つである.昔から,頭がいいから囲碁が強いのか,囲碁を打つと頭が良くなるのかと言う議論がなされ,囲碁が強くても学校の成績は悪かった,学校の成績は良かったとしても囲碁は弱い,ということもよく話題になる.しかし,学校の成績とは別にして囲碁は頭の訓練にはなると思う.詰め碁からは,筋道を立てて考える能力,ミスを心配することによる完全主義が鍛えられるし,より良い手を探すことによって,発想力,先を読む透察力が鍛えられ,そして何より良い手を見つける喜びが考えることを好きにしてくれる.さらに,囲碁は頭の訓練とは別に,他のゲーム以上に,囲碁を打つ人の個性が現れてくるゲームであるし,人生に例えられるゲームでもある.私は,このゲームから感性や論理性の発育だけでなく,発想の大切さ,生きていく上での何かを学ぶことができると考えている.

 1) 囲碁にとっても人の生き方にとってもバランスは非常に重要である.私たちが相手の石をすべて殺そうとすれば,往々にして逆に私たちの石が殺されてしまう.囲碁では49を与えて,51を得ることが勝利への最良の道である.人との付き合いの中でも相手のことを考えず,すべてを得ようとすると逆にすべてを失いがちである.私たちは,欲張りがいけないことを囲碁から学ぶことができる.

 2) 囲碁では,1つの隅を失っても,長いゲームの残りの中でそれを挽回できる.私たちは,人生の窮地の時でさえ諦めないことをゲームから学ぶことができる.勝とうと努力しないと何も得られないが,勝った碁より負けた碁から多くのことを学ぶことができる.

 3) 囲碁で,私たちは,敵と戦うわけではなく,大切なパートナーと遊ぶ.私たちはお互い楽しいやり方で振る舞わなければならず,時によっては早めの投了が必要であること,人との付き合いにおいては我慢も,挫折も必要であることを学ぶことができる.

 4) 囲碁は,もともと駆け引きであるが,ずるい手は不愉快に感じるときがある.強さと上手さとは異なる.勝つためには,強くなるためには,勉強し,努力しなければいけない.私たちは,囲碁から正直であることの大切さ,努力の重要性を学ぶことができる.

 5) 囲碁は複雑なので,一人一人の人生がすべて異なる様に人間の歴史においても全く同じゲームはできないと考えられている.理想とする勝利のためには地や厚みのような人それぞれのやり方が許され,終局までには多くの重要な選択あるいは決定がある.私たちは,理想の,あるいは最良の人生などあり得ないが,よりよい人生を送るためには深い考察が役に立つことをゲームから 学ぶことができる.

 6) 囲碁の強さは, プレーヤーの社会的立場,見た目あるいは年齢などに依存しない.実社会でも正しい,あるいは,客観的な判断は,年上の上司あるいは押しの強い人間によって必ずしもなされるとは限らない. 私たちは,囲碁の世界で正しいものは正しいことを知ることができ,独善的な決定がよくないことを学ぶことができる.

 7) 私達の人生の中で夢の多くは叶わない.しかし,夢に向かって努力すれば,たとえ夢は叶わなくても何かが残る.夢はどうせ叶わないだろうと最初から諦めている若者,ちょっとした挫折で人生を投げる若者が増えているが,最初から諦めて努力をしなければその人の人生はますますつまらないものになる.囲碁の世界では,壁に当たらない人はいない.最初から壁に当たり,やる気をもたない人もいるだろうし,日本でトップになって世界戦の壁に当たる人もいるだろう.その壁を破る努力をする人だけが強くなれる.囲碁は勝ち続けることはできない.プロを目指す子供でもいつか挫折する.その中には全てにやる気を無くす子供もいると思うが,例えプロになれなくてもプロを目指した子供は高段者にはなり,周りのフォローで立ち直りさえすれば仕事などでの人間関係に役立つかも知れない.囲碁ファンは,囲碁で壁にぶつかり,挫折を知ることで逞しく,強く,そして優しくなれると思う.囲碁から学んだ教訓で,私は,どんな夢でもいいから,叶わなくてもめげずに,死ぬまで夢を持ち続けたいと思っている. 叶う夢もある!


 1934年に刊行された木谷実、呉清源、安永一共著「囲碁革命・新布石法」の「新布石・星・三三・天元の運用」より。「本書の特色として、眼から頭へ、盤石要らず・・」。「天元は平均における最優位」。「星は平均の極致」。






(私論.私見)