【趙治勲のエピソード】 |
2020.12.9日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲 64<1>名人 新たな旅の始発駅」。
半世紀にわたって、趙治勲名誉名人(64)は囲碁界のフロントランナーであり続けてきた。日本のトップ棋士とタイトルを争い、中国、韓国の強豪としのぎを削った。残された棋譜には、昭和・平成・令和の激動の時代が刻まれている。(編集委員 田中聡)
1980年11月6日。第5期名人戦七番勝負第6局で、大竹英雄名誉碁聖からボクは名人位を奪取しました。来日して18年、24歳での名人位獲得でした。
《名人戦は1961年、読売新聞社主催で始まった。14期を重ねた後、朝日新聞に主催を移し、76年を第1期として始まったのが現行の名人戦だ。名人は棋聖、本因坊と並んで価値が高く、棋界ではこの3タイトルを同時に持つことを「大三冠」と呼ぶ》
名人、その道で最高峰となった人。日本だけでなく、中国でも韓国でも意味は変わりません。だからこそボクは、6歳で韓国から日本へ来た時から「名人」を意識し続けてきました。対戦相手の大竹名誉碁聖は、同じ木谷実九段門下で14歳年上。ボクが来日した時にはすでに一家をなしていた大先輩でしたが、絶対に勝てない相手だとは思っていませんでした。それよりも、初めて2日制のタイトル戦を戦うことがプレッシャーでした。「1日目で潰れるような碁は打てない」と思いましたね。「せめて7局目までは行かなければ。0―4では(関係者に)申し訳ない」。だから、第1局(白番・趙名誉名人の中押し勝ち)で内容がよかったことが自信になりました。タイトル奪取後のインタビューの時も落ち着いていたと思います。韓国から報道陣が大勢来ていましたね。何をしゃべったのか今となっては忘れてしまいましたが、「感無量です」ぐらいのことを言ったのでしょう。しばらくして思ったことがあります。「想像していたよりも(名人奪取は)大したことではなかったのかもしれない」って。子供の頃からの夢、「名人にならないと故郷の土を踏めない」と思っていた目標を達成して、ドラマや映画だったらここでエンドマークが出るのでしょうが、ボクの囲碁人生はまだまだ続くのです。タイトルは棋聖も本因坊もあるし、戦う相手もたくさんいる。「名人になることが終着駅」と思い込んでいたのに、実際は「名人は新たな旅路への始発駅」だったことに気づいたのです。一つの夢がかなった。でも一つの夢が壊れた――。ただ一つ、「名人」という言葉の呪縛からは解き放たれることができました。「これからは自分の人生を生きられるかもしれない」。解放感と喜びを感じました。(囲碁棋士)
ちょう・ちくん 1956年、韓国釜山市生まれ。木谷実門下。62年に来日し、68年、当時史上最年少の11歳9か月で入段。73年、新鋭トーナメントで初戴冠(たいかん)後、棋聖8期、名人9期(名誉名人)、本因坊12期(二十五世本因坊)など、史上最多のタイトル75期を獲得。 |
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2020.12.10日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<2>前代未聞の「無勝負」」。
大竹英雄名誉碁聖から名人位を奪った第5期名人戦では、囲碁史に残る「事件」も起きました。1980年10月8、9日の第4局が前代未聞の「無勝負」になったのです。問題の場面が図1です。序盤から難しい戦いが続きましたが、ここでは黒のボクが勝勢。焦点は中央でのコウ争いです。白の大竹名誉碁聖は白1(210手目)と「コウダテ」を打ち、黒2の後、白3と▲の1子を取りました。当時の観戦記にはこう書いてあります。〈ホオを紅潮させた趙が、盤上をさまよっていた目を彦坂(筆者注・この対局の記録係)に向けた。「ボク、コウ取る番?」、「ハイ」。この確認に安心して、趙は3の点(筆者注・▲の地点)にコウを取り返した。コウダテの手続きが抜けていた。「アレ?」。大竹が声を発した。盤側ではコウ取り番ではなかったことが確認された。〉(朝日新聞社学芸部編「第5期囲碁名人戦」) この行為が反則かどうかが問題になったのです。
《囲碁のルールでは、特定の石の四方を囲むとその石を取ることができる。つまり図2の右上、黒がAの地点に石を打てば、△が取れる。だが、黒Aも△の白石で三方を囲まれているため、白は△に打てば、黒Aを取り返せる。このとき、黒A、白△が続けて打てると、双方が延々と石を取り合ってゲームが進まなくなるため、黒Aの後、白は他の地点にいったん打たなければならない。例えば白が左下に1と打ち、黒がイと受ければそこで△と取り返すことができる。黒はイよりも△の地点が重要だと思えば、そこに石を埋める(ツグ)こともできる。このルールを「コウ」といい、白1を「コウダテ」という》
反則であれば負けになりますが、ボクの方にも言いたいことがありました。60秒の秒読みの中で、いろいろ考えていると、コウの取り番を忘れることがあります。そこで、記録係に聞くことは当時、習慣として許容されていました。僕も一瞬わからなくなり、記録係に聞いてしまいましたが軽率のそしりは免れません。関係者が協議した結果、以下の見解が示されました。
〈対局者が記録係にコウ取り番を聞くことはルールに違反していない。記録係がハイと答えたのは事実であり、従って趙八段は失格ではなく、第四局は無勝負とする〉(同)
第5局以降、日本棋院は「記録係は対局者の着手について責を負わない」と明文化し、「記録係に聞く」習慣をやめさせました。それにしても思うのは、「ボクの勝ちは、いつもギリギリだな」ということです。対戦相手を圧倒できない。幸せな時と不幸な時の差が激しい。そして、ボクの人生もそうなのでした。(囲碁棋士) |
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2020.12.12日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<3>僧のすすめ 名前変え」。
1956年6月、ボクは韓国の釜山市で生まれました。父は趙南錫、母は金玉順といいます。兄3人、姉3人の7人兄弟の7番目。実は弟もいたのですが、幼くして亡くなったので、ボクはほぼ末っ子という感じでした。育ったのは、ソウル市です。細かいことはよく知らないのですが、父方の祖父はかなりの資産家だったようです。母方も名門だったようで、「箱入り娘」として母は育てられたと聞いています。父は3人兄弟の次男で、祖父の仕事は伯父が継ぎました。叔父の趙南哲九段は50~60年代、韓国で一番強かった囲碁棋士でした。
《趙南哲(チョ・ナムチョル、1923~2006年)は現代の韓国囲碁界の基礎を築いた棋士。太平洋戦争前の37年、趙治勲の師匠でもある木谷実九段に入門し、41年、日本棋院では初めて韓国人のプロ棋士となった。戦後は韓国棋院の前身である漢城棋院を設立するなど、韓国棋界の発展に尽力し、同国の棋戦・国手戦で9連覇するなど、トップ棋士としても活躍した。2019年、日本棋院の囲碁殿堂入り》
父も財産を祖父から相続して、結構な資産家だったはずなのですが、ボクが生まれたときはすっかり貧乏になっていました。15歳年上の長兄、祥衍(日本棋院七段)の時代はまだ裕福だったようですが。どうも朝鮮戦争が関係しているようです。父は強くはなかったけど碁が好きで、日本で薬科大学に通っていた次兄の祺衍も75年の学生囲碁十傑戦で1位になりました。ここで「あれ?」っと思った方もいらっしゃるかもしれません。昔の韓国では、兄弟で同じ字を使うことが普通でしたから。実はボクも生まれた時は、「衍」の字が名前についていて、「豊衍」といったそうなのです。ところが1歳か2歳か、とにかくまだ小さかった頃、屋外で姉がボクをあやしているときに通りかかった若いお坊さんが「名前を変えた方がいい」と言ったそうなのです。「豊衍はよくない。名前を変えたらこの子は出世する」と。それで「治勲」という名前になったのです。事情を知らない韓国の人は、兄弟の名前とボクの名前を比べて不思議そうな顔をしたものです。「どこからか養子にでも来られたのですか」。そう尋ねられたこともあるぐらいです。「治勲」は韓国語読みでは「チフン」になりますが、木谷道場に来た6歳の頃から、「チクン、チクン」と呼ばれて育ちました。だから「チクン」の呼び名には愛着もあるし、大竹英雄名誉碁聖や石田芳夫二十四世本因坊といった道場の先輩にそう呼ばれると、木谷道場で修業していた少年時代に戻ったような気分になります。(囲碁棋士) |
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2020.12.15日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<4>兄の勧め 来日決まる」。
囲碁を覚えたのは4歳の頃だと聞いています。囲碁が好きだった父が、教えてくれたのでしょう。その父ですが、働いている姿をボクは見たことがありません。どうやって生計を立てていたのでしょうかね。ボクに碁を教えたのも、自分自身の暇潰しを兼ねていたのではないのかな、と思います。父と一緒だったのか、兄と一緒だったのかは分かりませんが、近所の碁会所に、子供ながらに通うようになりました。当時のことですから、きっとそんなに強い人もいなかったことでしょう。近所のおじさん、おじいさんを相手に、勝ったら「天才だね」とおだてられながら、碁を始めて1年ぐらいでアマ五段程度になりました。その後、しばらくして木谷道場への入門話が持ち上がったのです。
《木谷実九段が初めて弟子を取ったのは1933年だった。37年には神奈川県平塚市の自宅に棋士養成のための「平塚木谷道場」を開設。62年には東京・四谷に場所を移し(「四谷木谷道場」)、木谷九段が3度目の脳出血に見舞われた後の74年6月3日、道場を閉鎖した。生み出した棋士は50人以上になる》
「日本に行かないか」と言い出したのは、兄の祥衍(日本棋院七段)です。韓国の囲碁界で活躍していた兄ですが、叔父の趙南哲(九段、韓国棋院名誉理事長、故人)にはどうしても勝てなかった。もう一回り強くなろうと、1961年に来日して、木谷九段の門下になったのです。ところが、兄は日本に来てレベルの差を実感してしまったんですね。当時の日本囲碁界の実力は群を抜いて世界一でした。叔父よりもずっと強い棋士がゴロゴロいた。兄は賢い人だから、「自分が今から勉強しても、追いつけるものではない」と気がついて、家に手紙を書いたんです。「ぼくはもう遅かった。治勲なら間に合うかもしれない。日本に呼んで鍛えてもらうべきだ」という内容の。両親は最初、猛反対していたようですが、兄の粘り強い説得に最後は承知したようです。前回話しましたが、そのころの我が家は貧しかった。兄だって別に生活に余裕があるわけではなかった。今でこそ「銭湯に行ってくる」ぐらいの気軽な感じで日韓を往復できるようになったのですが、当時はボク一人、日本に連れてくることだけで大変だったのではないでしょうか。そして1962年8月1日、6歳のボクは羽田空港に降り立ちました。木谷先生やおかあさま(木谷夫人の美春さん)たちが空港で出迎えてくれた写真が残っています。正直いうとボク自身は、このころのことをほとんど覚えていません。後で他人に「こうだった」と言われて「そうだったんだな」と思うだけです。ただ一つ、日本に来る前に、辛い韓国料理を腹いっぱい食べたことは、はっきり今も覚えています。(囲碁棋士) |
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2020.12.16日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<5>天才児 負け続け悲観」。
日本に着いた翌日の1962年8月2日、東京・大手町のサンケイホールで、「木谷一門百段突破記念大会」が開かれました。木谷(実九段)先生の門下生のプロとしての段位が合計で100を超えたというお祝いの会です。その日のアトラクションとして行われたのが、ボクと林海峰名誉天元(当時は六段)との五子局でした=棋譜=。
《林名誉天元(78)は中国・上海生まれで台湾で育った。10歳の時に台湾を訪れた呉清源九段に才能を認められ来日、12歳で入段した。1965年に23歳で名人(当時史上最年少)になった後、長年にわたって第一線で活躍。タイトル獲得数は歴代9位の35に上る。弟子に張栩九段、林漢傑八段ら》
当時の写真が残っていますが、対局しているボクは腕組みをして考えています。これは早打ちだったボクがミスをしないようにという、兄・祥衍の助言なのだそうです。慌てて石を持たず、一呼吸置いて考えて打ちなさい、ということなのでしょう。この時の碁は、今のボクが見ても「プロの鑑賞に堪える」内容の碁になっています。「ソウルからの天才児」という評判で来日したボクが内弟子になってすぐ、これだけの力を見せた。喜んでくれたのは木谷先生でした。「これなら10歳までにプロの初段になれるだろう」。その時は、軽い気持ちで周りに話したのでしょうが、その言葉が後々、ボクに重くのしかかってくるのでした。
さて、木谷道場で内弟子生活を始めたボクですが、いきなりカルチャーショックを味わうことになりました。加藤正夫名誉王座、石田芳夫二十四世本因坊、佐藤昌晴九段、久島国夫九段……とにかく周りの兄弟子たちが強すぎたのです。韓国にいたころは、近所の碁会所でおじさん、おじいさん相手に連勝して、少しは腕に自信を持っていたのに、何子置いても勝負にならない。「ボクは一体、何をしに日本に来たのだろう」。そこで心が折れたのではないか。今にしてみると思います。というのも、それからしばらく、10歳ぐらいまで、木谷道場で一体何をしていたのか、ボクはまったく覚えていないのです。心が折れたまま、勉強もせず、ただただ遊んでいたのでしょう。強烈な先輩たちと出会い、天狗の鼻をへし折られた。囲碁も人生も、ボクは「悲観派」なのですが、そうなった原点は、この時にあるのではないか、と思っています。(囲碁棋士) |
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2020.12.17日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<6>「10歳プロ」夢のまた夢」。
ボクが木谷門に入った頃、道場は東京・四谷にありました。木谷(実九段)先生は最初の脳出血をされた後。口数が少なくて弟子たちに直接指導されることもほとんどありませんでしたが、囲碁に対する情熱はひしひしと伝わってきました。生活面などでの面倒は奥様の美春おかあさまが親身になって見てくださいましたね。10歳にも満たないボクから20歳近い石田(芳夫二十四世本因坊)さん、加藤(正夫名誉王座)さんまで、10人の男の子が内弟子なのですから、まあ毎日大変だったでしょう。夜中まで大声で騒いでいる。だれかがいたずらをして何かを壊す。そんな時には全員が「集合」です。生活態度から勉強の仕方まで、1時間も2時間もおかあさまから「説教」される。ボクにはそれがちょっとつらかったですね。学校に通う年齢になったボクは、新宿区の若松町にある東京韓国学校に入学したのですが、サボってばかりいました。四谷の道場から学校まで歩いて約30分。ちょうど中間あたりに兄(趙祥衍七段)の住んでいたアパートがあって、「行ってきます」と出たボクはそこに直行していたのです。兄だってその時間は仕事に出かけています。辞書を片手に吉川英治の歴史小説を読んでみたり、大家さんの家でテレビを見せてもらったり。夕方まで一人で時を潰すのが通例でした。学校の勉強はしない。碁の勉強にも力が入らない。木谷道場のあまりのレベルの高さに心がくじかれたボクは、今考えると全く無為な生活を送っていました。道場の庭でのチャンバラごっこや年上の女性の弟子に対する数々のいたずらなど、周りからは元気いっぱいに過ごしているように見えたようですが、少なくとも囲碁に関しては来日したころからほとんど進歩しなかったのです。そんな状況で「10歳までにプロの初段」という目標が達成できるはずがありません。8歳の時も9歳の時も、そして10歳の時さえも、プロテストの前の予選すら勝ち上がることができませんでした。 1965年に道場にやってきた4歳年上の(小林)光一(名誉棋聖)さんは、「来たての頃は治勲さんの方が強くてショックだった」と話されていますが、ボク自身は覚えていません。勉強熱心な彼のことですから、きっとすぐに追い抜かれてしまったのでしょう。実際、光一さんはボクの1年前にプロになっています。目標が達成できないことがはっきりして、「これじゃダメだから、韓国に帰したらどうか」という話まで出るようになりました。おかあさまから呼び出された兄から「今度(入段が)ダメだったら、一緒に帰ろう」と言われて、ようやくボクは「死ぬ気で勉強しなければ」と思うようになりました。(囲碁棋士) |
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2020.12.19日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<7>猛勉強 最年少で入段」。
「10歳でプロ」の目標を達成できず、「今年ダメなら(韓国へ)帰ろう」とまで兄(趙祥衍七段)に言われたボクは、ようやく本気で囲碁の勉強を始めました。もともと木谷道場は放任主義で、「あれをしなさい」「これをしなさい」と勉強方法を押しつけられることはありませんでした。弟子たちの自主性に任せられていたのです。今にしてみれば、8歳ぐらいの時からしかってくれた方がよかったのですが……。ボクが選んだ勉強法は、呉清源先生の本で布石を勉強すること、あとは実戦で読みを鍛えることでした。
《呉清源九段(1914~2014年)は中国福建省出身。瀬越憲作門下。7歳で囲碁を覚え、14歳で来日。翌年、日本棋院から三段が認められた。戦前、戦後に行われた「十番碁」のシリーズで当時の一流棋士をすべて一段下の「先相先」以下に打ち込み、第一人者の地位を確立。その実力は囲碁史上屈指との評価を受けている。戦前、盟友だった木谷実九段とともに「新布石」を考案したことでも知られる。門下に林海峰名誉天元、ゼイ廼偉九段》
まあ、6歳から10歳まで「勉強しなかった」と言いましたが、周りに加藤(正夫名誉王座)さんや石田(芳夫二十四世本因坊)さんら強い兄弟子たちがいて、ボクも道場で同じ空気を吸っていたわけです。「門前の小僧」ではないですが、体に囲碁のエキスがしみこんでいたのでしょう。1年間の猛勉強で見違えるように力が付きました。「先」でも勝てなかった人に、同格の「互先」で勝てるようになりました。
11歳の時の入段手合。ボクは初めて予選を突破して本戦に臨みました。その日打った碁の棋譜を書き、対局後、兄のアパートで、どこがよかったか悪かったかの検討をする。そういう生活が約2か月間続きました。結果は12勝4敗の好成績。11歳9か月でのプロ入りは、当時の最年少記録でした。
プロになって人生は一変しました。「碁が打ちたい」「戦いたい」と思っていても、その場所に到達できず悶々としていたボクに「戦う場所」ができたのです。木谷道場の先輩たちも、一人前扱いしてくれるようになりました。例えば兄弟子たちとソフトボールをしていても、それまではボクの打席では「アウト」を取ってくれなかったのです。バッターボックスには立たせてくれるけど、子供扱いで試合の中には入れてくれなかった。プロになったら、ちゃんと「三振、ワンアウト」と言ってくれるようになった。それが嬉しかったのです。囲碁の世界に居場所ができた。みんな真剣勝負をしてくれるようになった。「10歳でプロ」の目標に「1年遅れた」という思いはその後もずっと残りましたが、囲碁に対する思いはますます強くなっていったのです。(囲碁棋士) |
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2020.12.21日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<8>平塚時代 「親分」務め成長」。
プロになったボクは、子供時代とは打って変わって囲碁に精進しました。大手合で33連勝、毎年のように昇段し、若手対象の新鋭トーナメント戦でも優勝するなど、順調な棋士生活を送っていました。
《「大手合」は囲碁の棋士の昇段を決めるため、日本棋院や関西棋院が行ってきた対局制度。1924年の日本棋院設立時に「定式手合」として始まり、27年に「大手合」となった。戦前は囲碁の「本場所」として人気があったが、タイトル戦が主流になった戦後は徐々に時流に合わなくなり、日本棋院では2003年、関西棋院では04年に廃止された》
木谷(実九段)先生が3度目の脳出血で倒れられたのは、1973年7月でした。それで東京・四谷にあった木谷道場をたたみ、元々のお宅があった神奈川県平塚市に戻られることになりました。それを機に兄弟子たちは独立していったのですが、ボクは弟弟子の信田成仁(六段)さんと園田泰隆(九段)さんとともに、平塚に行くことにしました。これがボクの大きな転機になりました。それまで道場ではいつも「末っ子」みたいな存在だったのに、この時初めて「親分」になったのです。おかあさま(木谷実夫人の美春さん)は先生のいる病院に行きっぱなしなので、家には木谷先生の長女の和子ねえさんとボクら弟子3人しかいない。和子ねえさんは家のことで忙しいから、弟弟子の面倒はボクが見なければいけない。自分が一番上だから、碁の勉強も余計にしなければいけない。時間を見つけて交代で、病院の木谷先生のところにも行きました。車いすを押して散歩したり、将棋を指したり。先生はアマチュア五段格で元々将棋は強かったのですが、病気もあってだいぶ棋力が落ちていた。将棋を覚えたばかりのボクと勝ったり負けたり、いい勝負だったんです。たまに来る石田(芳夫二十四世本因坊)さんや加藤(正夫名誉王座)さんといった兄弟子は将棋も強いから、先生と指すと忖度して負けてあげるわけですよ。だけどボクは弱いから、勝ち負けを調整するような「腕」がない。事情を知らない木谷先生は「治勲が一番(将棋の)筋がいい」っておっしゃっていたようですけど。74年の12月に独立するまで、そんな日々が続きました。当時40歳ぐらいだった和子ねえさんはボクのことを子供のように思ってくれて、とてもよくしてもらったし、師弟とはいえ、それまであまり話をすることもなかった木谷先生ともじっくりとふれあうことができました。6歳で故郷を離れたボクにとって、平塚での日々は、10歳代半ばで「家族の愛」を感じることができた日々だったのです。「10歳でプロ」を果たせず、がむしゃらに勉強した1年が悲壮感の中での成長とするならば、もっと人間らしいゆったりした環境の中での成長。今でもあの時代のことは、懐かしく楽しく思い出します。(囲碁棋士) |
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2020.12.22日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<9>シノギの坂田に苦杯」。
1974年12月、日本棋院選手権戦に挑戦しました。木谷道場から独立して、独り暮らしを始めたころ。平塚で過ごした日々の集大成という気持ちで五番勝負に臨みました。ボクにとっては初のビッグタイトルへの挑戦です。新聞三社連合が主催していた日本棋院選手権戦は翌年、関西棋院選手権戦と統合されて天元戦となり、現在へと続いています。この年まで、坂田栄男先生が2連覇中でした。
《坂田栄男二十三世本因坊(1920~2010年)は東京都出身で増淵辰子八段門下。1935年のプロ入り時から大才をうたわれ、タイトル獲得通算64期(歴代2位)、本因坊戦7連覇などの記録を打ち立てた。64年の年間勝率9割3分7厘5毛(30勝2敗)は現在も破られていない。92年、囲碁界初の文化功労者にもなっている》
充実していたんでしょうね。平塚に行く前よりは、80%ぐらい強くなっていたような気がします。内容的にも第1局、第2局は坂田先生を圧倒しています。連勝して、タイトル奪取にあと一歩と迫りました。韓国からの報道陣も大挙して訪れて、ボクの周りも賑やかになっていました。ところが坂田先生はここからが強かった。第3局で1勝を返すと一気に3連勝。逆転でタイトルを防衛されてしまいました。第4局、第5局と内容的にはいい碁を打っているのですが、肝心な所でボクにあり得ないミスが出てしまったのです。
思えば前年も坂田先生は木谷門の先輩の加藤(正夫名誉王座)さん相手に2連敗3連勝で防衛していたのです。この時の3連敗を含め、ボクはそれから坂田先生に12連敗をしてしまいます。「シノギの坂田」として知られる接近戦の強さ、読みの深さ。ボクと棋風が似ていますが、ボクよりもすべての面で強いのが、坂田先生。その実力を思い知らされることになるのでした。
第5局が終わった打ち上げのとき、「趙君は負けてよかったんだよ」と坂田先生はおっしゃいました。後になって兄(趙祥衍七段)にも同じようなことを言われました。思えば、坂田先生自身、初めての本因坊挑戦の時、橋本宇太郎(九段)先生に3勝1敗から3連敗して苦汁をなめた経験があったのです。
才能はあるが本当の実力はまだ付いていない。坂田先生は若い頃の自分と当時のボクを二重写しに見てくれていたのかもしれません。「負けて覚える相撲かな」という言葉がありますが、そういう経験も必要なのでしょう。それから坂田先生はずいぶんボクをかわいがってくれましたし、ボクも、歯に衣着せぬ言動で裏表のない坂田先生の性格が大好きでした。逆転負けをしたことはショックでしたが、翌年には八強戦で優勝し、初の名人リーグ入りを果たします。76年には王座戦で初のビッグタイトルを獲得できました。ボクの充実と好調は続きます。背景には、「大切な人」との出会いがありました。(囲碁棋士) |
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2020.12.23日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<10>道場が縁 鎌倉で結婚」。
「その人」と知り合ったのは、1974年の秋頃でした。北海道旭川市出身の「その人」は、間に入る人があって、木谷(実九段)先生のお宅に「行儀見習い」に来たのです。1か月程度の滞在でしたが、生活面などで苦労したようで、色々話をしているうちに、距離が縮まっていったのでした。彼女が田舎に帰っても、電話をかけたり会いに行ったり、交際は続いていたのですが、しばらくして、女優志望だった彼女の妹が、東京に演劇の勉強に来ることになりました。東京の短大を卒業し、土地鑑があった「その人」も、妹に付き添って再び上京し、OL生活を始めたのです。彼女が家に食事を作りに来てくれたり、一緒に映画を見に行ったり。毎日のように会いました。「寅さん」の映画は、ほとんど2人で見ましたね。6歳年上の「その人」は明るくて前向きで、「悲観派」のボクとは正反対でした。
《俳優・渥美清がテキ屋の車寅次郎を演じる映画「男はつらいよ」シリーズは1969年から95年にかけて48本が作られ、96年に渥美が亡くなった後、特別編が2本作られた。風来坊の「寅さん」が起こす騒動の数々を涙と笑いでつづる人情喜劇で、現在でも高い人気を誇っている》
いい人でしたね。誠実で100%信頼できる人でした。文学が好きで、おそばが好きで――。東京・中野に2年ばかり住んで、千駄ヶ谷に移って、その次に引っ越した神奈川県鎌倉市で、ボクは「その人」、曽川京子さんと結婚したのでした。結婚の前に旭川のご両親にごあいさつに行ったのですが、大変に喜んでくれました。ご両親とも囲碁界には詳しくないようでしたが、娘の決断を大切にしてくれました。結婚式は、鎌倉の鶴岡八幡宮でごくごく内輪に行いました。ボクの方からの出席者は、木谷道場で一緒に内弟子生活を送った浅野(英昭八段)さんだけ。浅野さんが「よかったね、よかったね」と言いながら、ボロボロ涙をこぼしてくれたのを覚えています。
鎌倉に住んだのは、彼女が好きだったからです。浄明寺というところで、いかにも古都らしい、ちょっとしゃれた感じのところでした。2階建ての小さな家を借りて、囲碁教室も開きました。自分でチラシを作って「折り込みで入れてくれ」と新聞販売店に頼みに行き、10人ばかり生徒さんが集まりました。
結婚したのは1977年11月8日、21歳の時です。早く結婚したおかげで、飲んだくれもせず、ボクは囲碁に専念することができました。妻と出会わず、独り暮らしを続けていたら、遊びほうけてしまっていたかもしれません。そういう意味では、早く結婚できてよかったな、と思っています。(囲碁棋士) |
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