木谷道場物語

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).6.5日

木谷道場物語
 「ウィキペディア(Wikipedia)木谷道場」その他参照。

 木谷道場(きたにどうじょう)とは、木谷實九段が平塚四谷で主催した囲碁棋士養成所である。多数の棋士を輩出し、道場出身棋士が1985年から1998年まで三大タイトルを、1985年から1988年まで七大タイトルを一門で独占するなど多くの活躍を残したことで知られる。

 1933年(昭和8年)に初弟子が入門して以来全国から棋士を集め育成し続け、70名以上が弟子入りし50名以上がプロ棋士となった。門下生以外に、木谷の七人の子(三人の男子、四人の女子)、木谷の師匠の久保松勝喜代の母・娘、居候の「谷先生」、突然訪ねてきた行き場のない老人の「山羊のおじいさん」らが一緒に暮らしていた

 1937年、 神奈川県平塚市桃浜町にプロ棋士養成のため「平塚木谷道場」を開設。1961年からは四谷三栄町にの自宅に道場を開設し碁に集中できる環境を整えた。門下の七大タイトル合計獲得数は146、名誉称号獲得者は5人と囲碁界に大きな足跡を残した。1970年代から2000年代の約30年間で三大タイトルを獲得したのは9人だけだがそのうち7人が木谷道場出身者である

 院生では木谷門下はあっという間にプロになるので「木谷のロケット集団」と呼ばれていた。院生より木谷道場のほうがレベルが高かったので院生で打つほうが気が楽だったという。四谷の木谷道場は囲碁のメッカともいうべき場所だった。アマ十傑戦やアマ本因坊戦の全国大会に出場した地方の選手が訪ねてきたり、腕自慢の大学生が住み込んで勉強していた。プロになるかどうかではなく碁に情熱があれば来る者は拒まずだった。

 1944年7月3日、木谷實白紙招集。赤羽工兵隊・京城朝鮮第二十二部隊に配属。同年9月29日帰還。

 1955年10月、木谷一家、疎開先から平塚に戻る。

 1956年、木谷全国各地へ指導碁に出向く。以後手合の合間を塗って地方で囲碁巡業を行う旅が続く。

 1962年5月、東京都四谷三栄町に「四谷木谷道場」を開設。

 1962年8月、「木谷一門百段突破記念祝賀会」が産経ホールで開催。林海峰六段と趙治勲(当時6歳)との五子局が公開対局される。

 1963年12月 木谷2度目の脳溢血で倒れる。その後は、木谷の研究会の師範役は、同じ鈴木為次郎名誉九段一門の梶原武雄九段になった。また、1969年から、藤沢秀行が代々木に事務所を開いたが、ここでも若手棋士が集まっての研究会が行われ、木谷道場から石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、趙治勲らが参加した(その他に、林海峰曺薫鉉らが参加)。

 1969年、大竹英雄が門下初七大タイトル(十段)を獲得。

 1970年3月、「木谷一門二百段突破記念大会」がサンケイホールで開催。

 1971年、石田芳夫が木谷悲願の本因坊を獲得する。

 1974年6月3日限り、「四谷木谷道場」を閉鎖。道場を解散して平塚に戻る。石田が名人位を取る。

 1975年、木谷の死後後も、「土曜木谷会」は妻・美春によって続けられ16年間行われた。ここに通った子どもたちの中から大矢浩一(現九段)、梅沢由香里武宮陽光桑原陽子らを輩出した

 1975年、石田が門下初名誉称号を獲得。

 1975年12月19日、木谷實逝去。同日、従四位、勲二等瑞宝章を受章。

 1983年、門下七大タイトル獲得合計数50突破。

 1991年6月3日、木谷實夫人美春逝去。

 美春が死去した後は、木谷の娘の小林禮子が「仁風会」(じんぷうかい)と名称を変えて継続した。仁風会では「鳳雛戦」という若手棋士と院生によるトーナメントが企画された。また一般公開されファンの拡大を図った。この棋戦では張栩河野臨らが優勝しその後も活躍している

 土曜木谷会の弟子たちは、禮子と結婚した小林光一があとを引き継ぐことになった。さらに「小林研究会」を始め弟子以外にも門戸を開いた。当時小林はまだ26歳と現役バリバリで自身の対局と弟子の育成の両立はかなり過酷だった。現在、道場跡地である 神奈川県平塚市桃浜町11には記念石碑が建てられている。

 1991年、門下七大タイトル獲得合計数100突破。


木谷道場門下生
 背景黄色は七大タイトル獲得者。
棋士 段位 出身 生年 入門年 実績など
1 武久勢士 六段 神戸市 1916 1933年3月 一番弟子
2 梶和為 九段 東京都 1922 1933年
3 松本篤二 八段 光市 1921 1935年 大倉喜七郎賞
4 芦葉勝美 七段 東京都 1922 1934年3月 普及功労賞
5 中山繁行 五段 東京都 1921 1934年
6 趙南哲 九段 韓国 1923 1937年12月 韓国棋院設立者
7 本田幸子 七段 伊東市 1930 1938年 女流選手権優勝7回
8 小山嘉代 三段 仙台市 1926 1939年12月 大平修三の姉
9 筒井勝美 六段 前橋市 1930 1940年3月 大倉喜七郎賞
10 石毛嘉久夫 九段 銚子市 1925 1941年8月 中国囲碁使節
11 岩田達明 九段 名古屋市 1926 1941年10月 元棋士会長
12 大平修三 九段 岐阜市 1930 1941年11月 棋院選手権4連覇
13 尾崎春美 八段 京都市 1927 1942年12月 松原賞
14 加田克司 九段 別府市 1931 1946年11月 名人・本因坊リーグ
15 小林禮子 七段 平塚市 1939 木谷の実子 女流戦優勝多数
16 小林祐子 初段 神戸市 1939 1950年
17 戸沢昭宣 九段 函館市 1940 1951年11月 勝率第1位賞・連勝賞
18 大竹英雄 九段 北九州市 1942 1951年12月 名誉碁聖名人4期など多数
19 尚司和子 三段 豊橋市 1938 1954年1月 普及功労賞
20 金島忠 九段 海老名市 1945 1955年3月 首相杯準優勝
21 石榑郁郎 九段 岐阜市 1942 1955年10月 首相杯準優勝
22 春山勇 九段 岐阜市 1946 1956年6月 首相杯優勝
『布石のベスポジ』
23 柴田寛二 初段 前橋市 1941 1956年8月
24 上村邦夫 九段 北見市 1946 1957年4月 名人戦リーグ
25 土田正光 九段 岐阜市 1944 1957年4月 連勝賞・勝率第一位賞
26 石田芳夫 九段 愛知県 1948 1957年7月 二十四世本因坊・名人など多数
27 久島国夫 九段 福井市 1946 1957年7月 大手合第1部全勝優勝
28 加藤正夫 九段 福岡市 1947 1959年4月 名誉王座、名人・本因坊ほか多数
29 佐藤昌晴 九段 高田市 1947 1959年7月 優秀棋士賞、名人リーグ2期
30 額謙 六段 東京都 1940 1959年9月 『高段をめざすうわての置碁』
31 伊藤誠 九段 彦根市 1945 1960年1月 六段戦準優勝
32 小林千寿 五段 松本市 1954 1960年4月 女流選手権戦優勝3連覇など
33 宮沢吾朗 九段 帯広市 1949 1961年12月 三大リーグ所属経験
34 趙祥衍 七段 韓国 1941 1961年3月 趙治勲の兄
35 金寅 九段 韓国 1943 1962年3月 国手6連覇
36 趙治勲 九段 韓国 1956 1962年8月 名誉名人・二十五世本因坊
タイトル獲得数歴代1位
37 浅野英昭 八段 東京都 1945 1962年10月 NHK杯出場
38 河燦錫 九段 韓国 1948 1964年1月 国手2連覇
39 小林光一 九段 旭川市 1952 1965年3月 名誉称号三冠
タイトル獲得数歴代3位
40 武宮正樹 九段 東京都 1951 1965年4月 本因坊4連覇・名人など
41 石榑まき子 三段 東京都 1949 1965年1月 石榑郁郎夫人
42 小川誠子 六段 名古屋市 1951 1966年1月 女流史上2人目の500勝
43 井上国夫 八段 東京都 1948 1966年3月 七段戦準優勝
44 大戸省三 六段 東京都 1948 1966年7月
45 尾越一郎 八段 臼杵市 1954 1966年12月 本因坊戦三次決勝
46 佐藤真知子 三段 東京都 1949 1967年4月 佐藤昌晴九段夫人
47 小林孝之 三段 松本市 1956 1967年4月 小林4兄弟
48 小林健二 七段 松本市 1958 1967年4月 新鋭トーナメント準優勝
49 小林覚 九段 松本市 1959 1967年4月 棋聖・碁聖など
50 信田成仁 六段 東京都 1951 1968年2月 棋士会副会長
51 園田泰隆 九段 日向市 1957 1970年6月 新鋭トーナメント優勝
52 小山秀雄 五段 東京都 1951 1970年10月 三段戦準優勝
53 日高敏之 七段 鹿児島県 1959
[52] 尹奇鉉 九段 韓国 1942 国手2回

 全70名以上。50名以上がプロ入り


木谷一門の七大タイトル戦歴
 色付きのマスは勝利(奪取または防衛)。濃い色付きのマス目は名誉称号獲得。色付きは門下同士の番碁(上段が勝者)。青色は挑戦者または失冠。他の棋士との比較は、囲碁のタイトル在位者一覧 を参照。
棋聖 十段 本因坊 碁聖 名人 王座 天元 備   考
棋聖戦
1-3月
十段戦
3-4月
本因坊戦
5-7月
碁聖戦
6-8月
名人戦
9-11月
王座戦
10-12月
天元戦
10-12月
1969年
(昭和44)
大竹英雄 加藤正夫 大竹英雄 門下初タイトル
1970年
(昭和45)
十段戦行われず
1971年
(昭和46)
大竹英雄 石田芳夫 石田新本因坊
1972年
(昭和47)
石田芳夫
1973年
(昭和48)
石田芳夫 石田芳夫
1974年
(昭和49)
石田芳夫
武宮正樹
石田芳夫 石田芳夫
1975年
(昭和50)
石田芳夫 大竹英雄
石田芳夫
大竹英雄
石田芳夫
天元戦創設石田芳夫二十四世本因坊資格
1976年
(昭和51)
加藤正夫 武宮正樹
石田芳夫
加藤正夫
大竹英雄
大竹英雄
石田芳夫
趙治勲
大竹英雄
小林光一 加藤新十段、武宮新本因坊
、趙治新王座、小林光新天元、碁聖戦創設
1977年
(昭和52)
加藤正夫 加藤正夫
武宮正樹
加藤正夫
武宮正樹
大竹英雄 趙治勲 棋聖戦創設
1978年
(昭和53)
加藤正夫 加藤正夫 加藤正夫
石田芳夫
大竹英雄
加藤正夫
大竹英雄 石田芳夫 加藤正夫 すべてのタイトル戦に出場。
1979年
(昭和54)
石田芳夫 加藤正夫 加藤正夫 趙治勲
大竹英雄
大竹英雄 加藤正夫
石田芳夫
四冠達成
加藤正夫 加藤史上初の四冠、十段4連覇
1980年
(昭和55)
大竹英雄
加藤正夫
武宮正樹
加藤正夫
四冠終了
大竹英雄
趙治勲
趙治勲
大竹英雄
加藤正夫
石田芳夫
加藤正夫 天元戦挑戦手合に移行
1981年
(昭和56)
大竹英雄 大竹英雄 趙治勲
武宮正樹
大竹英雄
加藤正夫
趙治勲
加藤正夫
加藤正夫 加藤正夫
小林光一
加藤天元4連覇
1982年
(昭和57)
趙治勲
大竹英雄
趙治勲
小林光一
大竹英雄
趙治勲
趙治勲
大竹英雄
加藤正夫 加藤正夫
1983年
(昭和58)
趙治勲
四冠達成
加藤正夫
趙治勲
四冠終了
趙治勲 大竹英雄 趙治勲
大竹英雄
加藤正夫
大竹英雄
趙治史上初の大三冠、四冠
1984年
(昭和59)
趙治勲 小林光一
加藤正夫
大竹英雄
加藤正夫
趙治勲
大竹英雄
加藤正夫 石田芳夫 王座戦三番勝負から五番勝負に移行
趙治勲名誉名人資格大竹英雄名誉碁聖資格
1985年
(昭和60)
趙治勲
武宮正樹
小林光一
大竹英雄
武宮正樹 大竹英雄 小林光一
趙治勲
加藤正夫
小林光一
小林光一
石田芳夫
木谷一門全冠制覇、大竹碁聖6連覇
1986年
(昭和61)
小林光一
趙治勲
四冠達成
小林光一
武宮正樹
武宮正樹 趙治勲
大竹英雄
加藤正夫
小林光一
四冠終了
加藤正夫 小林光一 加藤正夫名誉王座資格、小林四冠
1987年
(昭和62)
小林光一
武宮正樹
加藤正夫
小林光一
武宮正樹 加藤正夫
趙治勲
四冠達成
加藤正夫 加藤正夫
趙治勲
趙治勲
小林光一
趙治史上初のグランドスラム、加藤四冠
1988年
(昭和63)
小林光一
加藤正夫
趙治勲
加藤正夫
四冠終了
武宮正樹
大竹英雄
小林光一
加藤正夫
小林光一
加藤正夫
加藤正夫 趙治勲 4年連続全冠制覇、武宮本因坊4連覇
1989年
(平成元)
小林光一
武宮正樹
趙治勲 趙治勲
武宮正樹
小林光一 小林光一 加藤正夫 趙治勲 加藤王座8連覇
1990年
(平成2)
小林光一
大竹英雄
武宮正樹
趙治勲
趙治勲
小林光一
小林光一
小林覚
小林光一
大竹英雄
加藤正夫 小林光一 小林光一名誉棋聖資格
1991年
(平成3)
小林光一
加藤正夫
武宮正樹
趙治勲
趙治勲
小林光一
小林光一
小林覚
小林光一
1992年
(平成4)
小林光一 武宮正樹
小林光一
趙治勲
小林光一
小林光一
小林覚
小林光一
大竹英雄
小林光一 小林光名誉名人・名誉碁聖資格
1993年
(平成5)
小林光一
加藤正夫
大竹英雄
武宮正樹
趙治勲 小林光一 小林光一
大竹英雄
加藤正夫 趙治二十五世本因坊資格
小林光棋聖8連覇、碁聖6連覇
1994年
(平成6)
趙治勲
小林光一
大竹英雄
小林光一
趙治勲 小林光一 小林光一 趙治勲
加藤正夫
小林光名人7連覇
1995年
(平成7)
小林覚
趙治勲
大竹英雄 趙治勲
加藤正夫
小林覚 武宮正樹
小林光一
趙治勲 小林光一 小林覚新棋聖・碁聖
1996年
(平成8)
趙治勲
小林覚
趙治勲 小林覚 趙治勲
武宮正樹
1997年
(平成9)
趙治勲
小林覚
加藤正夫 趙治勲
加藤正夫
趙治勲
小林光一
1998年
(平成10)
趙治勲 加藤正夫 趙治勲 趙治勲 小林光一 14年連続3冠独占。
趙治本因坊10連覇(同一タイトル連覇新記録)、
大三冠3連覇(史上唯一)
1999年
(平成11)
趙治勲
小林光一
小林光一 趙治勲 小林光一 趙治勲 趙治勲 小林光一 趙治棋聖4連覇、名人4連覇
2000年
(平成12)
趙治勲 小林光一 小林光一 趙治勲 趙治勲 小林光一
2001年
(平成13)
小林光一 小林光一 趙治勲
2002年
(平成14)
武宮正樹 加藤正夫 小林光一 趙治勲 趙治勲
2003年
(平成15)
加藤正夫 小林光一
2004年
(平成16)
2005年
(平成17)
趙治勲 小林覚
2006年
(平成18)
趙治勲
2007年
(平成19)
趙治勲 趙初のタイトル獲得から最新のタイトル獲得までの
年数最長記録(31年間)
2008年
(平成20)
趙治勲
棋聖 十段 本因坊 碁聖 名人 王座 天元 備   考
棋聖戦
1-3月
十段戦
3-4月
本因坊戦
5-7月
碁聖戦
6-8月
名人戦
9-11月
王座戦
10-12月
天元戦
10-12月
木谷一門棋士別の獲得七大タイトル
氏名 タイトル 合計
大竹英雄 名人4期 十段5期 碁聖7期 王座1期  17期
加藤正夫 名人2期 本因坊4期 十段7期 天元2期 王座11期 碁聖3期 31期
石田芳夫 名人1期 本因坊5期、天元1期、王座2期 9期
武宮正樹 名人1期 本因坊6期 十段3期 10期
趙治勲 棋聖8期、名人9期、本因坊12期、十段6期、天元2期、王座3期、碁聖2期 42期
小林光一 棋聖8期、名人8期、十段5期、天元5期、碁聖9期 35期
小林覚 棋聖1期、碁聖1期 2期

【木谷一門の日々の生活エピソード】
 勉強は早碁の一番手直り(一局負けると置き石が増え、勝つと置き石が減る方式)で、一か月に三百局以上打っていて各自が成績ノートを持ち、木谷先生の前へ持参し見ていた。入段試験の最中は、一人ずつ先生の待つ応接室に入り、時間が長ければ好局、短ければ不出来が目安になっていた。木谷先生と打てるのは、入門時に一局、独立祝いに一局の計二局だった。また「初対面の相手には負けてはいけない」と言われていた。基本的に内弟子の数に対して碁盤が足りていないという事情があり、皆前日の夜に布団へ入るとき碁盤を抱えるようにして寝ていて、朝起きたらその碁盤で勉強した。朝の日課としては起きたらまず碁を一局並べ、それからラジオ体操、朝食、もう一局並べてから学校へ行くという流れになっていた。 午前6時起床→棋譜並べ→7時ラジオ体操→7時半朝食→8時学校→午後3時帰宅、おやつ、ソフトボール→5時夕食、あとかたづけ→6時~9時対局、検討 →10時就寝弟子たちは先生を囲み、自分が打った碁を並べるが基本的に先生は何も言わずただ一局の中で何回か「ん?」という声を発するだけであった。並べている当人としては「あ、ここが大事なところだったのだ」ということを察知した。

 木谷はあまり喋らずたまにしか家におらずいても一人で黙々と碁を並べていて検討も一言二言あればいいほうだった。弟子の碁を見ることはあったがだいたいは弟子同士で切磋琢磨した。木谷はああしろ、こうしろとは言わず子供の個性を尊重した。自分の考えを押し付けず、弟子とともに研究しようという姿勢だった。日本棋院では毎週土曜日に「木谷会」が開催されていた。弟子は同時に最大16人いて家族や居候を含めると30人以上が同時に住まう状況もあった。木谷は「私自身が久保松、鈴木の両先生ほか、たくさんの師や先輩のお世話になり、ことに鈴木先生のところでは、十年も内弟子をさせていただいた。私が弟子の面倒を見るのは、恩返しをする気持ちなのです」が口ぐせだったという。


 一番弟子は武久勢士(現・地方棋士七段 大正5年生)。新婚二年目の24歳の木谷が内弟子として引き取った。門下最後の内弟子は園田泰隆である。10人ほどいた内弟子でリーグ戦を行っており毎月その成績で昇級・降級があった。道場では毎週土曜日の1時から6時に「土曜木谷会」というアマチュアも参加できる碁会を開いていた。運動も奨励されており、公園で野球をやっていた

 梶原武雄師範の時の研究会は「三栄会」(住んでいた町名から)と名付けられた。週に一度の三栄会はひとりひとりが梶原九段の前に出て自分の碁を並べ好評を受けるスタイルで、ひとつひとつの手に理由があるか聞かれていた

 大竹英雄

 大竹英雄が内弟子となったのは、昭和26年12月9歳の時。大竹は多くの木谷門下生にあって、常にリーダー格であり続けた。戦後、木谷家の最も弟子たちの多かった時代、大竹を中心に碁だけでなく、相撲やソフトボールを通してまとまり、大竹のさまざまなアイディアの中で育った弟弟子たちも多い。

 加藤正夫

 加藤正夫が木谷道場に入門するきっかけは、同じ九州出身で戦後の木谷道場入門者の第一号である故加田克司九段の紹介であった。小学校を卒業し、平塚に来たのは、昭和34年4月4日である。当日は、先に入門を果たしていた春山勇(現九段)、久島国夫(九段)の浜岳中学校の入学式にあたり、加藤も着いたその足で入学式に臨んだ。道場での生活を加藤は15年間過ごした。

 石田芳夫

 石田芳夫は、昭和32年7月、名古屋で行なわれた木谷の九段昇段祝賀会に招かれ、この時、大竹英雄初段と六子で指導碁を打ち、夏休みの一ヶ月間を木谷家で生活する。正式の入門は、その年の11月である。小学校3年生9歳であった。当時、石田は内弟子の中で最年少でよく泣かされた。4年後の一歳年下の宮沢吾朗が入門するまで、この状態が続いた。

 趙治勲
 小林光一

 小林光一の内弟子時、木谷の家には小林を含めて8人の内弟子がいた。木谷が体調を崩して以降に入門したため打つ機会は無かった。内弟子になった最初の日に、腰におもちゃのピストルをぶら下げた子供が部屋や廊下あたりを走り回っていた。小林は近所の子が紛れ込んだと思っていたが、これが当時8歳だった趙治勲だった。小林とは定先くらいの手合で1、2歳年上の小林より8歳の趙治勲のほうが強いことに小林はショックをうけた。小林は毎日朝5時半にはもう勉強を始めていた。そして10歳でプロになれると言われていた趙治勲を追い越し、小林光一が先に入段を果たした。小林光一の入段を見て、今度は趙治勲が奮起し、11歳でプロ入りする。お互いがいい刺激を与え合った。また加藤正夫によく打ってもらっていて、最大6子まで打ち込まれていた。

 信田成仁

 木谷道場ではエリートばかりを集めていたわけではなく入門時中学生で級位者だった信田成仁を見事入段に導いた。これは後年木谷門下でも語り草になっている。一流棋士の多くが中学卒業までにプロになる中、信田成仁(のぶた しげひと 1951年9月-)は中学3年生の時に碁を覚えた。武宮正樹の対局の観戦記に四谷の木谷道場の紹介があったのをみて12月に門を叩く。信田は137cmと小さくランニング、短パン姿だったので「3年生」と言ったら小学3年生と間違われ中に入ることが出来た(当時棋力は3級ほどで中学3年なら遅すぎるが小学3年なら遅くはない)。中に入り宮沢吾郎や小林覚と打ちボロボロに負かされ7子置いても負かされた。その後木谷に土曜木谷会に遊びに来るように言われ、受験勉強そっちのけで碁に没頭した。そのまま高校浪人し新聞配達をしながら碁会所に入り浸った。16歳の時に通い弟子になることを許された。18歳から内弟子になった。そして研修棋士(当時の制度)として院生と一緒に勉強するようになった。そして1973年入段を決めた。プロ試験の最後の相手は小林覚だった。覚は信田に勝てば合格だったが緊張のあまりガチガチになっており信田は勝利することが出来た。覚はこの年合格できなかったが、これに発奮して翌年合格した。「信田さんを入段させたのが、木谷道場の一番といっていい奇跡では」と覚は述べている


【趙治勲のエピソード】
 2020.12.9日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲 64<1>名人 新たな旅の始発駅」。
 半世紀にわたって、趙治勲名誉名人(64)は囲碁界のフロントランナーであり続けてきた。日本のトップ棋士とタイトルを争い、中国、韓国の強豪としのぎを削った。残された棋譜には、昭和・平成・令和の激動の時代が刻まれている。(編集委員 田中聡)

 1980年11月6日。第5期名人戦七番勝負第6局で、大竹英雄名誉碁聖からボクは名人位を奪取しました。来日して18年、24歳での名人位獲得でした。

 《名人戦は1961年、読売新聞社主催で始まった。14期を重ねた後、朝日新聞に主催を移し、76年を第1期として始まったのが現行の名人戦だ。名人は棋聖、本因坊と並んで価値が高く、棋界ではこの3タイトルを同時に持つことを「大三冠」と呼ぶ》

 名人、その道で最高峰となった人。日本だけでなく、中国でも韓国でも意味は変わりません。だからこそボクは、6歳で韓国から日本へ来た時から「名人」を意識し続けてきました。対戦相手の大竹名誉碁聖は、同じ木谷実九段門下で14歳年上。ボクが来日した時にはすでに一家をなしていた大先輩でしたが、絶対に勝てない相手だとは思っていませんでした。それよりも、初めて2日制のタイトル戦を戦うことがプレッシャーでした。「1日目で潰れるような碁は打てない」と思いましたね。「せめて7局目までは行かなければ。0―4では(関係者に)申し訳ない」。だから、第1局(白番・趙名誉名人の中押し勝ち)で内容がよかったことが自信になりました。タイトル奪取後のインタビューの時も落ち着いていたと思います。韓国から報道陣が大勢来ていましたね。何をしゃべったのか今となっては忘れてしまいましたが、「感無量です」ぐらいのことを言ったのでしょう。しばらくして思ったことがあります。「想像していたよりも(名人奪取は)大したことではなかったのかもしれない」って。子供の頃からの夢、「名人にならないと故郷の土を踏めない」と思っていた目標を達成して、ドラマや映画だったらここでエンドマークが出るのでしょうが、ボクの囲碁人生はまだまだ続くのです。タイトルは棋聖も本因坊もあるし、戦う相手もたくさんいる。「名人になることが終着駅」と思い込んでいたのに、実際は「名人は新たな旅路への始発駅」だったことに気づいたのです。一つの夢がかなった。でも一つの夢が壊れた――。ただ一つ、「名人」という言葉の呪縛からは解き放たれることができました。「これからは自分の人生を生きられるかもしれない」。解放感と喜びを感じました。(囲碁棋士)

 ちょう・ちくん 1956年、韓国釜山市生まれ。木谷実門下。62年に来日し、68年、当時史上最年少の11歳9か月で入段。73年、新鋭トーナメントで初戴冠(たいかん)後、棋聖8期、名人9期(名誉名人)、本因坊12期(二十五世本因坊)など、史上最多のタイトル75期を獲得。
 2020.12.10日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<2>前代未聞の「無勝負」」。
 大竹英雄名誉碁聖から名人位を奪った第5期名人戦では、囲碁史に残る「事件」も起きました。1980年10月8、9日の第4局が前代未聞の「無勝負」になったのです。問題の場面が図1です。序盤から難しい戦いが続きましたが、ここでは黒のボクが勝勢。焦点は中央でのコウ争いです。白の大竹名誉碁聖は白1(210手目)と「コウダテ」を打ち、黒2の後、白3と▲の1子を取りました。当時の観戦記にはこう書いてあります。〈ホオを紅潮させた趙が、盤上をさまよっていた目を彦坂(筆者注・この対局の記録係)に向けた。「ボク、コウ取る番?」、「ハイ」。この確認に安心して、趙は3の点(筆者注・▲の地点)にコウを取り返した。コウダテの手続きが抜けていた。「アレ?」。大竹が声を発した。盤側ではコウ取り番ではなかったことが確認された。〉(朝日新聞社学芸部編「第5期囲碁名人戦」) この行為が反則かどうかが問題になったのです。

 《囲碁のルールでは、特定の石の四方を囲むとその石を取ることができる。つまり図2の右上、黒がAの地点に石を打てば、△が取れる。だが、黒Aも△の白石で三方を囲まれているため、白は△に打てば、黒Aを取り返せる。このとき、黒A、白△が続けて打てると、双方が延々と石を取り合ってゲームが進まなくなるため、黒Aの後、白は他の地点にいったん打たなければならない。例えば白が左下に1と打ち、黒がイと受ければそこで△と取り返すことができる。黒はイよりも△の地点が重要だと思えば、そこに石を埋める(ツグ)こともできる。このルールを「コウ」といい、白1を「コウダテ」という》

 反則であれば負けになりますが、ボクの方にも言いたいことがありました。60秒の秒読みの中で、いろいろ考えていると、コウの取り番を忘れることがあります。そこで、記録係に聞くことは当時、習慣として許容されていました。僕も一瞬わからなくなり、記録係に聞いてしまいましたが軽率のそしりは免れません。関係者が協議した結果、以下の見解が示されました。

 〈対局者が記録係にコウ取り番を聞くことはルールに違反していない。記録係がハイと答えたのは事実であり、従って趙八段は失格ではなく、第四局は無勝負とする〉(同)

 第5局以降、日本棋院は「記録係は対局者の着手について責を負わない」と明文化し、「記録係に聞く」習慣をやめさせました。それにしても思うのは、「ボクの勝ちは、いつもギリギリだな」ということです。対戦相手を圧倒できない。幸せな時と不幸な時の差が激しい。そして、ボクの人生もそうなのでした。(囲碁棋士)
 2020.12.12日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<3>僧のすすめ 名前変え」。
 1956年6月、ボクは韓国の釜山市で生まれました。父は趙南錫、母は金玉順といいます。兄3人、姉3人の7人兄弟の7番目。実は弟もいたのですが、幼くして亡くなったので、ボクはほぼ末っ子という感じでした。育ったのは、ソウル市です。細かいことはよく知らないのですが、父方の祖父はかなりの資産家だったようです。母方も名門だったようで、「箱入り娘」として母は育てられたと聞いています。父は3人兄弟の次男で、祖父の仕事は伯父が継ぎました。叔父の趙南哲九段は50~60年代、韓国で一番強かった囲碁棋士でした。

 《趙南哲(チョ・ナムチョル、1923~2006年)は現代の韓国囲碁界の基礎を築いた棋士。太平洋戦争前の37年、趙治勲の師匠でもある木谷実九段に入門し、41年、日本棋院では初めて韓国人のプロ棋士となった。戦後は韓国棋院の前身である漢城棋院を設立するなど、韓国棋界の発展に尽力し、同国の棋戦・国手戦で9連覇するなど、トップ棋士としても活躍した。2019年、日本棋院の囲碁殿堂入り》

 父も財産を祖父から相続して、結構な資産家だったはずなのですが、ボクが生まれたときはすっかり貧乏になっていました。15歳年上の長兄、祥衍(日本棋院七段)の時代はまだ裕福だったようですが。どうも朝鮮戦争が関係しているようです。父は強くはなかったけど碁が好きで、日本で薬科大学に通っていた次兄の祺衍も75年の学生囲碁十傑戦で1位になりました。ここで「あれ?」っと思った方もいらっしゃるかもしれません。昔の韓国では、兄弟で同じ字を使うことが普通でしたから。実はボクも生まれた時は、「衍」の字が名前についていて、「豊衍」といったそうなのです。ところが1歳か2歳か、とにかくまだ小さかった頃、屋外で姉がボクをあやしているときに通りかかった若いお坊さんが「名前を変えた方がいい」と言ったそうなのです。「豊衍はよくない。名前を変えたらこの子は出世する」と。それで「治勲」という名前になったのです。事情を知らない韓国の人は、兄弟の名前とボクの名前を比べて不思議そうな顔をしたものです。「どこからか養子にでも来られたのですか」。そう尋ねられたこともあるぐらいです。「治勲」は韓国語読みでは「チフン」になりますが、木谷道場に来た6歳の頃から、「チクン、チクン」と呼ばれて育ちました。だから「チクン」の呼び名には愛着もあるし、大竹英雄名誉碁聖や石田芳夫二十四世本因坊といった道場の先輩にそう呼ばれると、木谷道場で修業していた少年時代に戻ったような気分になります。(囲碁棋士)
 2020.12.15日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<4>兄の勧め 来日決まる」。
 囲碁を覚えたのは4歳の頃だと聞いています。囲碁が好きだった父が、教えてくれたのでしょう。その父ですが、働いている姿をボクは見たことがありません。どうやって生計を立てていたのでしょうかね。ボクに碁を教えたのも、自分自身の暇潰しを兼ねていたのではないのかな、と思います。父と一緒だったのか、兄と一緒だったのかは分かりませんが、近所の碁会所に、子供ながらに通うようになりました。当時のことですから、きっとそんなに強い人もいなかったことでしょう。近所のおじさん、おじいさんを相手に、勝ったら「天才だね」とおだてられながら、碁を始めて1年ぐらいでアマ五段程度になりました。その後、しばらくして木谷道場への入門話が持ち上がったのです。

 《木谷実九段が初めて弟子を取ったのは1933年だった。37年には神奈川県平塚市の自宅に棋士養成のための「平塚木谷道場」を開設。62年には東京・四谷に場所を移し(「四谷木谷道場」)、木谷九段が3度目の脳出血に見舞われた後の74年6月3日、道場を閉鎖した。生み出した棋士は50人以上になる》

 「日本に行かないか」と言い出したのは、兄の祥衍(日本棋院七段)です。韓国の囲碁界で活躍していた兄ですが、叔父の趙南哲(九段、韓国棋院名誉理事長、故人)にはどうしても勝てなかった。もう一回り強くなろうと、1961年に来日して、木谷九段の門下になったのです。ところが、兄は日本に来てレベルの差を実感してしまったんですね。当時の日本囲碁界の実力は群を抜いて世界一でした。叔父よりもずっと強い棋士がゴロゴロいた。兄は賢い人だから、「自分が今から勉強しても、追いつけるものではない」と気がついて、家に手紙を書いたんです。「ぼくはもう遅かった。治勲なら間に合うかもしれない。日本に呼んで鍛えてもらうべきだ」という内容の。両親は最初、猛反対していたようですが、兄の粘り強い説得に最後は承知したようです。前回話しましたが、そのころの我が家は貧しかった。兄だって別に生活に余裕があるわけではなかった。今でこそ「銭湯に行ってくる」ぐらいの気軽な感じで日韓を往復できるようになったのですが、当時はボク一人、日本に連れてくることだけで大変だったのではないでしょうか。そして1962年8月1日、6歳のボクは羽田空港に降り立ちました。木谷先生やおかあさま(木谷夫人の美春さん)たちが空港で出迎えてくれた写真が残っています。正直いうとボク自身は、このころのことをほとんど覚えていません。後で他人に「こうだった」と言われて「そうだったんだな」と思うだけです。ただ一つ、日本に来る前に、辛い韓国料理を腹いっぱい食べたことは、はっきり今も覚えています。(囲碁棋士)
 2020.12.16日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<5>天才児 負け続け悲観」。
 日本に着いた翌日の1962年8月2日、東京・大手町のサンケイホールで、「木谷一門百段突破記念大会」が開かれました。木谷(実九段)先生の門下生のプロとしての段位が合計で100を超えたというお祝いの会です。その日のアトラクションとして行われたのが、ボクと林海峰名誉天元(当時は六段)との五子局でした=棋譜=。

 《林名誉天元(78)は中国・上海生まれで台湾で育った。10歳の時に台湾を訪れた呉清源九段に才能を認められ来日、12歳で入段した。1965年に23歳で名人(当時史上最年少)になった後、長年にわたって第一線で活躍。タイトル獲得数は歴代9位の35に上る。弟子に張栩九段、林漢傑八段ら》

 当時の写真が残っていますが、対局しているボクは腕組みをして考えています。これは早打ちだったボクがミスをしないようにという、兄・祥衍の助言なのだそうです。慌てて石を持たず、一呼吸置いて考えて打ちなさい、ということなのでしょう。この時の碁は、今のボクが見ても「プロの鑑賞に堪える」内容の碁になっています。「ソウルからの天才児」という評判で来日したボクが内弟子になってすぐ、これだけの力を見せた。喜んでくれたのは木谷先生でした。「これなら10歳までにプロの初段になれるだろう」。その時は、軽い気持ちで周りに話したのでしょうが、その言葉が後々、ボクに重くのしかかってくるのでした。

 さて、木谷道場で内弟子生活を始めたボクですが、いきなりカルチャーショックを味わうことになりました。加藤正夫名誉王座、石田芳夫二十四世本因坊、佐藤昌晴九段、久島国夫九段……とにかく周りの兄弟子たちが強すぎたのです。韓国にいたころは、近所の碁会所でおじさん、おじいさん相手に連勝して、少しは腕に自信を持っていたのに、何子置いても勝負にならない。「ボクは一体、何をしに日本に来たのだろう」。そこで心が折れたのではないか。今にしてみると思います。というのも、それからしばらく、10歳ぐらいまで、木谷道場で一体何をしていたのか、ボクはまったく覚えていないのです。心が折れたまま、勉強もせず、ただただ遊んでいたのでしょう。強烈な先輩たちと出会い、天狗てんぐの鼻をへし折られた。囲碁も人生も、ボクは「悲観派」なのですが、そうなった原点は、この時にあるのではないか、と思っています。(囲碁棋士)
 2020.12.17日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<6>「10歳プロ」夢のまた夢」。
 ボクが木谷門に入った頃、道場は東京・四谷にありました。木谷(実九段)先生は最初の脳出血をされた後。口数が少なくて弟子たちに直接指導されることもほとんどありませんでしたが、囲碁に対する情熱はひしひしと伝わってきました。生活面などでの面倒は奥様の美春おかあさまが親身になって見てくださいましたね。10歳にも満たないボクから20歳近い石田(芳夫二十四世本因坊)さん、加藤(正夫名誉王座)さんまで、10人の男の子が内弟子なのですから、まあ毎日大変だったでしょう。夜中まで大声で騒いでいる。だれかがいたずらをして何かを壊す。そんな時には全員が「集合」です。生活態度から勉強の仕方まで、1時間も2時間もおかあさまから「説教」される。ボクにはそれがちょっとつらかったですね。学校に通う年齢になったボクは、新宿区の若松町にある東京韓国学校に入学したのですが、サボってばかりいました。四谷の道場から学校まで歩いて約30分。ちょうど中間あたりに兄(趙祥衍七段)の住んでいたアパートがあって、「行ってきます」と出たボクはそこに直行していたのです。兄だってその時間は仕事に出かけています。辞書を片手に吉川英治の歴史小説を読んでみたり、大家さんの家でテレビを見せてもらったり。夕方まで一人で時を潰すのが通例でした。学校の勉強はしない。碁の勉強にも力が入らない。木谷道場のあまりのレベルの高さに心がくじかれたボクは、今考えると全く無為な生活を送っていました。道場の庭でのチャンバラごっこや年上の女性の弟子に対する数々のいたずらなど、周りからは元気いっぱいに過ごしているように見えたようですが、少なくとも囲碁に関しては来日したころからほとんど進歩しなかったのです。そんな状況で「10歳までにプロの初段」という目標が達成できるはずがありません。8歳の時も9歳の時も、そして10歳の時さえも、プロテストの前の予選すら勝ち上がることができませんでした。 1965年に道場にやってきた4歳年上の(小林)光一(名誉棋聖)さんは、「来たての頃は治勲さんの方が強くてショックだった」と話されていますが、ボク自身は覚えていません。勉強熱心な彼のことですから、きっとすぐに追い抜かれてしまったのでしょう。実際、光一さんはボクの1年前にプロになっています。目標が達成できないことがはっきりして、「これじゃダメだから、韓国に帰したらどうか」という話まで出るようになりました。おかあさまから呼び出された兄から「今度(入段が)ダメだったら、一緒に帰ろう」と言われて、ようやくボクは「死ぬ気で勉強しなければ」と思うようになりました。(囲碁棋士)
 2020.12.19日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<7>猛勉強 最年少で入段」。
 「10歳でプロ」の目標を達成できず、「今年ダメなら(韓国へ)帰ろう」とまで兄(趙祥衍七段)に言われたボクは、ようやく本気で囲碁の勉強を始めました。もともと木谷道場は放任主義で、「あれをしなさい」「これをしなさい」と勉強方法を押しつけられることはありませんでした。弟子たちの自主性に任せられていたのです。今にしてみれば、8歳ぐらいの時からしかってくれた方がよかったのですが……。ボクが選んだ勉強法は、呉清源先生の本で布石を勉強すること、あとは実戦で読みを鍛えることでした。

 《呉清源九段(1914~2014年)は中国福建省出身。瀬越憲作門下。7歳で囲碁を覚え、14歳で来日。翌年、日本棋院から三段が認められた。戦前、戦後に行われた「十番碁」のシリーズで当時の一流棋士をすべて一段下の「先相先せんあいせん」以下に打ち込み、第一人者の地位を確立。その実力は囲碁史上屈指との評価を受けている。戦前、盟友だった木谷実九段とともに「新布石」を考案したことでも知られる。門下に林海峰名誉天元、ゼイ廼偉九段》

 まあ、6歳から10歳まで「勉強しなかった」と言いましたが、周りに加藤(正夫名誉王座)さんや石田(芳夫二十四世本因坊)さんら強い兄弟子たちがいて、ボクも道場で同じ空気を吸っていたわけです。「門前の小僧」ではないですが、体に囲碁のエキスがしみこんでいたのでしょう。1年間の猛勉強で見違えるように力が付きました。「先」でも勝てなかった人に、同格の「互先」で勝てるようになりました。

 11歳の時の入段手合。ボクは初めて予選を突破して本戦に臨みました。その日打った碁の棋譜を書き、対局後、兄のアパートで、どこがよかったか悪かったかの検討をする。そういう生活が約2か月間続きました。結果は12勝4敗の好成績。11歳9か月でのプロ入りは、当時の最年少記録でした。

 プロになって人生は一変しました。「碁が打ちたい」「戦いたい」と思っていても、その場所に到達できず悶々もんもんとしていたボクに「戦う場所」ができたのです。木谷道場の先輩たちも、一人前扱いしてくれるようになりました。例えば兄弟子たちとソフトボールをしていても、それまではボクの打席では「アウト」を取ってくれなかったのです。バッターボックスには立たせてくれるけど、子供扱いで試合の中には入れてくれなかった。プロになったら、ちゃんと「三振、ワンアウト」と言ってくれるようになった。それがうれしかったのです。囲碁の世界に居場所ができた。みんな真剣勝負をしてくれるようになった。「10歳でプロ」の目標に「1年遅れた」という思いはその後もずっと残りましたが、囲碁に対する思いはますます強くなっていったのです。(囲碁棋士)
 2020.12.21日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<8>平塚時代 「親分」務め成長」。
 プロになったボクは、子供時代とは打って変わって囲碁に精進しました。大手合おおてあいで33連勝、毎年のように昇段し、若手対象の新鋭トーナメント戦でも優勝するなど、順調な棋士生活を送っていました。

 《「大手合」は囲碁の棋士の昇段を決めるため、日本棋院や関西棋院が行ってきた対局制度。1924年の日本棋院設立時に「定式手合」として始まり、27年に「大手合」となった。戦前は囲碁の「本場所」として人気があったが、タイトル戦が主流になった戦後は徐々に時流に合わなくなり、日本棋院では2003年、関西棋院では04年に廃止された》

 木谷(実九段)先生が3度目の脳出血で倒れられたのは、1973年7月でした。それで東京・四谷にあった木谷道場をたたみ、元々のお宅があった神奈川県平塚市に戻られることになりました。それを機に兄弟子たちは独立していったのですが、ボクは弟弟子の信田成仁(六段)さんと園田泰隆(九段)さんとともに、平塚に行くことにしました。これがボクの大きな転機になりました。それまで道場ではいつも「末っ子」みたいな存在だったのに、この時初めて「親分」になったのです。おかあさま(木谷実夫人の美春さん)は先生のいる病院に行きっぱなしなので、家には木谷先生の長女の和子ねえさんとボクら弟子3人しかいない。和子ねえさんは家のことで忙しいから、弟弟子の面倒はボクが見なければいけない。自分が一番上だから、碁の勉強も余計にしなければいけない。時間を見つけて交代で、病院の木谷先生のところにも行きました。車いすを押して散歩したり、将棋を指したり。先生はアマチュア五段格で元々将棋は強かったのですが、病気もあってだいぶ棋力が落ちていた。将棋を覚えたばかりのボクと勝ったり負けたり、いい勝負だったんです。たまに来る石田(芳夫二十四世本因坊)さんや加藤(正夫名誉王座)さんといった兄弟子は将棋も強いから、先生と指すと忖度そんたくして負けてあげるわけですよ。だけどボクは弱いから、勝ち負けを調整するような「腕」がない。事情を知らない木谷先生は「治勲が一番(将棋の)筋がいい」っておっしゃっていたようですけど。74年の12月に独立するまで、そんな日々が続きました。当時40歳ぐらいだった和子ねえさんはボクのことを子供のように思ってくれて、とてもよくしてもらったし、師弟とはいえ、それまであまり話をすることもなかった木谷先生ともじっくりとふれあうことができました。6歳で故郷を離れたボクにとって、平塚での日々は、10歳代半ばで「家族の愛」を感じることができた日々だったのです。「10歳でプロ」を果たせず、がむしゃらに勉強した1年が悲壮感の中での成長とするならば、もっと人間らしいゆったりした環境の中での成長。今でもあの時代のことは、懐かしく楽しく思い出します。(囲碁棋士)
 2020.12.22日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<9>シノギの坂田に苦杯」。
 1974年12月、日本棋院選手権戦に挑戦しました。木谷道場から独立して、独り暮らしを始めたころ。平塚で過ごした日々の集大成という気持ちで五番勝負に臨みました。ボクにとっては初のビッグタイトルへの挑戦です。新聞三社連合が主催していた日本棋院選手権戦は翌年、関西棋院選手権戦と統合されて天元戦となり、現在へと続いています。この年まで、坂田栄男先生が2連覇中でした。

 《坂田栄男二十三世本因坊(1920~2010年)は東京都出身で増淵辰子八段門下。1935年のプロ入り時から大才をうたわれ、タイトル獲得通算64期(歴代2位)、本因坊戦7連覇などの記録を打ち立てた。64年の年間勝率9割3分7厘5毛(30勝2敗)は現在も破られていない。92年、囲碁界初の文化功労者にもなっている》

 充実していたんでしょうね。平塚に行く前よりは、80%ぐらい強くなっていたような気がします。内容的にも第1局、第2局は坂田先生を圧倒しています。連勝して、タイトル奪取にあと一歩と迫りました。韓国からの報道陣も大挙して訪れて、ボクの周りもにぎやかになっていました。ところが坂田先生はここからが強かった。第3局で1勝を返すと一気に3連勝。逆転でタイトルを防衛されてしまいました。第4局、第5局と内容的にはいい碁を打っているのですが、肝心な所でボクにあり得ないミスが出てしまったのです。

 思えば前年も坂田先生は木谷門の先輩の加藤(正夫名誉王座)さん相手に2連敗3連勝で防衛していたのです。この時の3連敗を含め、ボクはそれから坂田先生に12連敗をしてしまいます。「シノギの坂田」として知られる接近戦の強さ、読みの深さ。ボクと棋風が似ていますが、ボクよりもすべての面で強いのが、坂田先生。その実力を思い知らされることになるのでした。

 第5局が終わった打ち上げのとき、「趙君は負けてよかったんだよ」と坂田先生はおっしゃいました。後になって兄(趙祥衍七段)にも同じようなことを言われました。思えば、坂田先生自身、初めての本因坊挑戦の時、橋本宇太郎(九段)先生に3勝1敗から3連敗して苦汁をなめた経験があったのです。

 才能はあるが本当の実力はまだ付いていない。坂田先生は若い頃の自分と当時のボクを二重写しに見てくれていたのかもしれません。「負けて覚える相撲かな」という言葉がありますが、そういう経験も必要なのでしょう。それから坂田先生はずいぶんボクをかわいがってくれましたし、ボクも、歯にきぬ着せぬ言動で裏表のない坂田先生の性格が大好きでした。逆転負けをしたことはショックでしたが、翌年には八強戦で優勝し、初の名人リーグ入りを果たします。76年には王座戦で初のビッグタイトルを獲得できました。ボクの充実と好調は続きます。背景には、「大切な人」との出会いがありました。(囲碁棋士)
 2020.12.23日、「[時代の証言者]囲碁と生きる 趙治勲<10>道場が縁 鎌倉で結婚」。
 「その人」と知り合ったのは、1974年の秋頃でした。北海道旭川市出身の「その人」は、間に入る人があって、木谷(実九段)先生のお宅に「行儀見習い」に来たのです。1か月程度の滞在でしたが、生活面などで苦労したようで、色々話をしているうちに、距離が縮まっていったのでした。彼女が田舎に帰っても、電話をかけたり会いに行ったり、交際は続いていたのですが、しばらくして、女優志望だった彼女の妹が、東京に演劇の勉強に来ることになりました。東京の短大を卒業し、土地鑑があった「その人」も、妹に付き添って再び上京し、OL生活を始めたのです。彼女が家に食事を作りに来てくれたり、一緒に映画を見に行ったり。毎日のように会いました。「寅さん」の映画は、ほとんど2人で見ましたね。6歳年上の「その人」は明るくて前向きで、「悲観派」のボクとは正反対でした。

 《俳優・渥美清がテキ屋の車寅次郎を演じる映画「男はつらいよ」シリーズは1969年から95年にかけて48本が作られ、96年に渥美が亡くなった後、特別編が2本作られた。風来坊の「寅さん」が起こす騒動の数々を涙と笑いでつづる人情喜劇で、現在でも高い人気を誇っている》

 いい人でしたね。誠実で100%信頼できる人でした。文学が好きで、おそばが好きで――。東京・中野に2年ばかり住んで、千駄ヶ谷に移って、その次に引っ越した神奈川県鎌倉市で、ボクは「その人」、曽川京子さんと結婚したのでした。結婚の前に旭川のご両親にごあいさつに行ったのですが、大変に喜んでくれました。ご両親とも囲碁界には詳しくないようでしたが、娘の決断を大切にしてくれました。結婚式は、鎌倉の鶴岡八幡宮でごくごく内輪に行いました。ボクの方からの出席者は、木谷道場で一緒に内弟子生活を送った浅野(英昭八段)さんだけ。浅野さんが「よかったね、よかったね」と言いながら、ボロボロ涙をこぼしてくれたのを覚えています。

 鎌倉に住んだのは、彼女が好きだったからです。浄明寺というところで、いかにも古都らしい、ちょっとしゃれた感じのところでした。2階建ての小さな家を借りて、囲碁教室も開きました。自分でチラシを作って「折り込みで入れてくれ」と新聞販売店に頼みに行き、10人ばかり生徒さんが集まりました。

 結婚したのは1977年11月8日、21歳の時です。早く結婚したおかげで、飲んだくれもせず、ボクは囲碁に専念することができました。妻と出会わず、独り暮らしを続けていたら、遊びほうけてしまっていたかもしれません。そういう意味では、早く結婚できてよかったな、と思っています。(囲碁棋士)




(私論.私見)