2016年3月8日から15日にかけて争われた、グーグルのAlphaGoと囲碁韓国チャンピオン、イ・セドルの戦いを現地で実況を行った棋士、マイケル・レドモンドはこう言った。そして、セドル本人は「この試合でまた強くなった」と語った。あの試合で一体何が起こり、これから人類はどこに向かうのか。『 WIRED』US版の密着取材から見えてきたのは、囲碁だけの問題に限らない人類の「オルタナティヴな未来」だった。
アジャ・ホアンは木の碁笥(編註:碁石入れ)から磨き込まれた黒石を手に取った。手元を確認もせず、石を中指と人差し指の間に持ち替え、細いメタルフレームの眼鏡ごしに覗き込みながら、碁盤の隙間の多い場所に置く。右辺中央にポツンと置かれていた白石の左斜め下。囲碁の専門用語では「カタツキ」と呼ばれる手だが、打った場所は局面の主要な動きからは遠く離れた思いもよらないところだった。
向かいに座る韓国のイ・セドルは動きを止めた。過去10年の囲碁界で最強といわれるセドルは碁盤のあちこちに置かれた37個の石を見つめてから席を立ち、その場を離れた。
対局場所から15mほど離れたところにある控え室では、マイケル・レドモンドがスクリーンで試合を観戦している。欧米人では唯一、囲碁の最高段位9段をもつレドモンドは、文字通り喫驚した。彼はセドルと同じくらいショックを受けていた。レドモンドはオンラインで試合を観戦している200万人に向かって、「わたしにはこれが良手か悪手か、本当にわかりません」と言った。
アメリカ囲碁協会の副会長で英語での解説をしていたクリス・ガーロックは、「AIがミスをしたんだと思った」と語った。
数分後、セドルは対局室に戻ってきた。再び席に着いたが、碁笥に手を伸ばすことはしない。1分、また1分と時間が過ぎていく。2時間の持ち時間のうち15分を費やした末、セドルは石を手にし、アジャが打った手のすぐ上にそれを置いた。
アジャは対局で37番目となる手を打ったにすぎなかったが、セドルがその1手の衝撃から回復することはなかった。4時間20分後、セドルは投了した。世界最強の棋士が敗れたのだ。
AlphaGoの育ての親
しかし、この対決の真の勝者はアジャではない。彼は左手のスクリーンに出される指示に従っていただけだ。このモニター画面は対局会場となったソウルのフォーシーズンズホテルに設けられたコントロールルームにつながり、そこからさらに、世界のあちこちに散らばるグーグルのデータセンターに置かれた数百台のコンピューターにネットワークを通じて接続されている。アジャはただの「手先」にすぎない。試合の背後にいたのは、「 AlphaGo」 と名付けられた人工知能だった。
AlphaGoは人間がこれまでに考え出したなかでおそらく最も複雑なゲームで、最も優れたプレーヤーの1人を打ち負かしつつあった。 同じ部屋でもう1人のプロ棋士が試合を観ていた。欧州チャンピオンに3度輝いたファン・フイだ。彼も初めは「黒37手」に混乱した。ただ、ファンはAlphaGoと特別な関係にあった。彼はAIのスパーリングの相手だったのだ。
人類でファンほどコンピューターと多くの試合をした者はいない。彼は過去5カ月間にわたりコンピューターと何百回も対局し、その過程で開発者たちはAIがどこで行き詰まるのかを調べた。ファンはAIに負け続けたが、誰よりも深くAlphaGoを理解するようになった。彼はあのカタツキは人間の打つ手ではないと思ったが、10秒ほど考え込んでからわかった。ファンは「素晴らしい」とつぶやいた。「 本当に美しい」。
AlphaGoはこの5番勝負で2連勝して、セドルをリードしていた。つまり、人類より優位に立ったことになる。
黒37手は、AlphaGoが何年にもおよんだプログラミングを単に反復したり、力ずくの予測アルゴリズムを用いたわけではないことを示している。それはAlphaGoが学習した、また少なくとも、本物と見分けがつかないようなやり方で学習している振りをしてみせたようにみえた瞬間だった。セドルからみれば、AlphaGoは棋士が直感と説明するもの、つまり人間のように素晴らしい試合をするだけでなく、誰にもできないようなやり方で碁を打つ能力を発揮してみせた。
それでも、セドルや人類のために嘆き悲しまないでほしい。セドルは殉教者ではないし、黒37手はコンピューターがわたしたちの劣った頭脳を支配するために情け容赦のない攻勢をかけてきた瞬間でもない。反対に、これは人類と機械がともに進化を始めた瞬間なのだ。
神童はゲームがお好き
イングランド東岸サフォーク出身のデヴィッド・シルバーが15歳でチェスのトーナメントに出ていたころ、デミス・ハサビスは無敗の少年だった。中華系シンガポール人の母親とギリシャ系キプロス人の父親をもつロンドン生まれのハサビスは正真正銘の神童で、一時はチェスの14歳以下の世界ランキングで2位になったこともある。
彼は頭の体操と小遣い稼ぎを兼ねて、地方大会に出場していた。「 デミスがわたしを知る前から、わたしは彼のことを知っていた」と、AlphaGoの開発を指揮したシルバーは言う。「 わたしの町にやってきて大会で優勝して、そのまま去っていったんだ」。
2人が正式に知り合ったのは、ケンブリッジ大学で学部生として計算論的神経科学を学んでいるときだった。計算論的神経科学は人類の知性がどのようなものか学び、どうやって知的なコンピューターをつくるか研究する学問だ。
AlphaGoの開発チームを率いるデヴィッド・シルバー。
ハサビスとシルバーの出会いは1998年で、2人は卒業後、ゲーム会社を立ち上げた。ハサビスはよく同僚と碁を打っていて、シルバーもつられて碁の勉強を始めた。「 なんでもいいからデミスを打ち負かせば自慢になったんだ」とシルバーは言う。「 それに、彼が碁に興味をもち始めていることを知っていたからね」
彼らは地元の囲碁クラブに入り、2段や3段の棋士と対戦した。空手でいえば、黒帯くらいのプレイヤーだ。ハサビスとシルバーは、なぜコンピューターがこの思考ゲームを解読できないのか考え続けていた。
95年、「 Chinook」と呼ばれるコンピュータープログラムがチェッカーの一流プレイヤーの1人を倒した。2年後には、IBMのスーパーコンピューター「Deep
Blue」がチェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフを打ち負かしている。これに続く数年の間に、コンピューターはスクラブル、オセロ、有名クイズ番組の「ジェパディ!」で勝利を手にした。
宇宙より複雑なゲーム
ゲーム理論の観点からいえば、碁はチェスやチェッカーのように「完全情報ゲーム」だ。偶然的な要素はなく、全情報が開示されている。コンピューターが簡単に習得できる典型例だ。しかし、碁はいまだ征服されていなかった。
確かに碁は非常にシンプルにみえる。3,000年の昔、中国でつくられたこのゲームでは、縦横19マスの盤上で2人のプレイヤーが対戦する。碁盤に引かれた線の交点に交互に黒白の石を置いて自分の陣地を囲い、敵の陣地を切り崩していく。
チェスは戦争のメタファーだといわれるが、局地戦に近い。碁はグローバルな戦場、または地政学のようだ。盤上の一隅での動きがあらゆるところへ広がっていく。戦況は刻々と変化する。チェスでは一般的に、どの局面でも約35通りの打ち方がある。碁では可能な手数は200通りに近い。ゲーム全体を通じてみれば、その複雑さは全く別のレヴェルに達する。ハサビスとシルバーがよく言うように、碁では石の配置の可能性は宇宙に存在する原子の数より多い。
結論をいえば、人間であれ機械であれプレイヤーはそれぞれの手について、最終的な結果を予測することができない。一流棋士は計算ではなく直感で打つ。「よい盤面は実際によく見える」とハサビスは言う。「ある種の美学に沿っているみたいだ。だから何千年にもわたって人間を魅了してきたんだろう」 。
ハサビスとシルバーは2005年にゲーム会社をたたみ、別々の道を歩み始めた。シルバーはアルバータ大学で「強化学習」と呼ばれるAIの派生形を学んだ。機械があるタスクを繰り返し実行し、どの決定が最大の報酬をもたらしたかを追跡することで、自ら学習していく方法だ。一方、ハサビスはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で認知神経科学の博士号を取得した。
2人は2010年に再び出会った。ハサビスはDeepMindと呼ばれるAI開発企業の共同創業者になり、シルバーもこれに参加した。彼らの野心は壮大だった。それは思考するAI、汎用人工知能(AGI:Artificial
General Intelligence)をつくり出すこと。プロジェクトはいかに壮大であっても、どこからか取り掛からなければならない。
出発点はもちろんゲームだった。AIにとっては実際に優れたテストになる。
当然のごとく、ゲームは人工的だ。瓶の中の小さな宇宙のようなもので、現実世界とは異なり、成功と失敗、勝利と敗北を客観的に判定できる。DeepMindは強化学習とディープラーニングを結び付けようとした。大量のデータにパターンを見つけるための、やや新しめなアプローチだ。自分たちの取り組みが成功しているか調べるために、研究者たちは生まれたばかりのAIに「スペースインベーダー」と「ブレイクアウト」をプレイさせた。
最強の投資家との駆け引き
アタリ社のブロック崩しゲーム・ブレイクアウトは大きな挑戦だった。これはやはりアタリが手がけた卓球ゲームの「ポン」と似たゲームで、ポンが対戦相手とボールを打ち合うのに対し、ブレイクアウトではカラフルなブロックの壁にボールを当てていく。ボールがブロックに当たるとブロックが消える。跳ね返ってきたボールを受け損なったり、壁以外の部分にボールを当ててしまうとアウトだ。
DeepMindのシステムはゲームを500回プレイしてから、ボールを特別な角度で壁の後ろに送り込み、そこでバウンドさせ続けるという方法を学んだ。こうすれば、ボールを手元に戻すことなく、ブロックを消し続けることができる。ブレイクアウトでは古典的な戦術だが、DeepMindは毎回、人間の反射神経による操作をはるかに超えるスピードで正確無比にこれをやってのけた。
ハサビスは出資者を探しているとき、あるディナーパーティでペイパルの共同創業者でフェイスブックにも出資するピーター・ティール と話をするチャンスにめぐまれた。時間はほんの数分だったが、ハサビスはティールが無類のチェス好きであることを知っていた。そこで、このゲームがずっと昔からプレイされ続けてきたのは、ナイトとビショップの長所と弱点の創造的な緊張関係のおかげだという話題で攻めてみた。ティールはハサビスに翌日また話をしにくるようもちかけた。
シリコンヴァレーでは1人の億万長者の目に止まれば、ほかの人たちにもすぐ知られるようになる。ハサビスはティールを通じてイーロン・マスクに会い、マスクはグーグルのCEO、ラリー・ペイジにDeepMindの話をした。グーグルはすぐにDeepMindを買収した。買収額は6億5,000万ドルと報じられている。
検索エンジン大手の傘下に入ったのち、グーグルの共同創業者セルゲイ・ブリンが同席したミーティングで、ハサビスはブレイクアウトのデモを見せた。ブリンとハサビスは、共通の情熱をもっていることを発見した。ブリンはスタンフォード大学在学中に碁に取り憑かれ、一時はペイジがグーグルの設立を危ぶんだほどにこのゲームに入れ込んでいた。
このため、ブリンがハサビスに会ったとき、2人は碁について話をした。ハサビスは「DeepMindはたぶん数年で碁の世界チャンピオンを倒せますよ」と言った。「本気で取り組めばの話ですが」 。「そんなことは不可能だと思っているけどね」とブリンは応えたという。
2016年3月、5番勝負の第2局が終わってから、シルバーは対局が行われたホールのそばにあるAplhaGoのコントロールルームに赴いた。AlphaGoの頭脳はここにはなく、世界中にある多くのコンピューターに分散されたかたちで存在しているが、シルバーは多数のコンピューターディスプレイを使ってAlphaGoの頭のなかを覗き見ることができる。AlphaGoの状態を監視し、それが導き出すゲーム結果の予測をトラッキングするためだ。
シルバーはキーボードを数回叩いて、AlphaGoが対局中に下した決断の記録を呼び出した。そして、黒37手の直前に起こっていたことにフォーカスする。
DeepMindとAlphaGo以前から、AI研究者は試合の時間内にシステマティックな方法でそれぞれの手の結果を予測することを目指したマシンを使って、碁に挑戦してきた。これはコンピューターの総当たり方式で生じる問題への取り組みでもあり、IBMのDeep
Blueが1997年にチェスでカスパロフを倒したやり方に近い。
碁では総当たり法式は通用しない。コンピューターにとってすら、それぞれの結果を検討すべき選択肢が多すぎるのだ。
当時、わたしは『PCマガジン』の記者としてこのチェスの試合を取材した。セドルとAlphaGoの対決と同様に、人々はこれがAIにとって記念すべき瞬間になると考えていた。奇妙なことに、Deep
Blueもカスパロフとの勝負の第2戦で、人間なら決して選ばないような手を打った。チェスチャンピオンもセドルと同じくらい困惑した。しかし彼は、セドルと同じだけのガッツをもっていなかった。カスパロフはすぐに試合を投げた。プレッシャーに押しつぶされたのだ。
しかし、碁では総当たり方式は通用しない。コンピューターにとってすら、それぞれの結果を検討すべき選択肢が多すぎるのだ。シルバーのチームは異なるアプローチを取った。実際に碁を打つ経験がまったくない段階で、すでにそこそこの試合運びができるように学習するマシーンをつくり上げるのだ。
ロンドンのキングスクロス駅のそばにあるDeepMindのオフィスで、開発チームはコンピューターのニューラルネットワークに3,000万種類の碁の手を学ばせた。このハードウェアとソフトウェアのネットワークは、人間の脳の神経網をおおまかに模倣したものだ。
ニューラルネットワーク自体は珍しいものではなく、例えばフェイスブックは写真から人間の顔を識別するのにこれを利用しているほか、グーグルはAndroidスマートフォンでの音声コマンド認識に使っている。あなたがニューラルネットワークに母親の写真を必要なだけ見せれば、その特徴を学習する。十分な量の会話を聞かせれば、人間の言うことがわかるようになる。3,000万の碁の手を教えれば、碁が打てるようになるというわけだ。
ただ、ゲームのルールを覚えることと一流プレイヤーになることは違う。黒37手は3,000万手のなかには含まれていなかった。では、AlphaGoはどうやってあの1手を学んだのだろう?
無数の試合から生み出された「直観」
「AlphaGoは自分が知る限り範囲において、黒37手が賭けだと『知って』いた。AlphaGoは、『あの手はプロ棋士が選ぶようなものではない』ということを理解していた。それでもより深く探究した結果、『プロならあんな手は打たない』という自らの最初の指針を覆してみせた」と、シルバーは言う。
AlphaGoは実際に、一流棋士が黒37手を打つ確率は1万分の1だという計算をしていた。それでも、黒37手を打つことを選んだ。
ある意味では、AlphaGoは自分で考え始めていた。開発者からデジタルな「DNA」に刷り込まれた碁の打ち方からではなく、自身で学習したアルゴリズムにもとづいて決断を下した。「内省と分析というプロセスを通して、自分自身でそれを発見したんだ」 。
AlphaGoは実際に、一流棋士が黒37手を打つ確率は1万分の1だという計算をしていた。それでも、黒37手を打つことを選んだ。
棋士の手から碁の打ち方を学んだあと、シルバーはコンピューターをお互いに対戦させた。AlphaGoは自分のニューラルネットワークとわずかに異なる亜種と繰り返し試合を行った。AIは試合ごとに、自分にとって最大の「報酬」を生み出し続けた。人間の言葉にすれば、盤上で最大の陣地を獲得することができた手を記録したのだ。これがシルバーが大学で学んだ強化学習の手法である。こうして、AlphaGoはその非人間的な才能を開花させていった。
これはまだAlpfaGoの秘密の一部でしかない。開発チームはその後、AIが打った非人間的な碁の手を第2のニューラルネットワークにインプットし、カスパロフ(もしくはDeep Blue)がチェスの試合で先を読むやり方で、碁の試合の結果を予測することを教えた。このネットワークは、チェスでやってのけたようにあらゆる手を計算することはできなかった。それはやはり不可能だ。
しかし、AlphaGoは無数の試合をすることにより集めた知識を総動員して、碁の対局の進行を徐々に予測し始めていた。見たことのない試合の序盤を眺めるだけで、結果を予測することが可能なものだろうか? それは直感と呼ばれるものだ。そしてAlphaGoが第2局で直感したのが黒37手だった。それは、超一流の棋士の目に見えるものを超えていた。AlphaGoの開発者たちでさえ、その1手が打たれることを想像しなかったのだ。
シルバーはコントロールルームから戻ってきてから、「対局がどれだけ緊迫したものか、とても言い表せませんよ」とわたしに話した。「次に何が起こるか本当にわからないんです」。
人工知能が驚かされた
ボードゲームをプレイできるコンピューターをつくり上げただけの会社に、6億5,000万ドルを払う人間はいない。ディープラーニングとニューラルネットワークは、全能の検索エンジンを含め、多くのグーグルのサーヴィスを支えている。AlphaGoのよく知られた武器の1つである強化学習は、グーグルの研究施設のロボットにあらゆる種類の物体を持ち上げて動かすことを教えるのに利用されている。グーグル幹部にとって、この対戦がいかに重要か理解できるだろう。
会長兼前CEOのエリック・シュミットは、5番勝負が始まる前に韓国入りした。同社を代表するエンジニアのジェフ・ディーンも、現地で第1局を見守っている。セルゲイ・ブリンは第3局と4局を観戦するために韓国を訪れ、自らの碁盤をつかって戦況を追った。
5番勝負の期間中に、わたしはハサビスと600年の歴史をもつソウルの政治と文化の中心である鍾路区を散歩した。しゃべりながら歩いていると、若い女性が目を皿のように丸くしている。韓国中のテレビや新聞に写真が出ているハサビスに気づいたようで、彼女はまるでテイラー・スイフトかジャスティン・ビーバーでも見かけたかのように、胸に手を当てて卒倒するような素振りをしてみせた。
AlphaGoの恐るべき優越性は、コンピューターは世界の一流棋士たちを一流たらしめている人間の直感を模倣し、そして実にそれを上回ることができることを示した。
「いまの、見ました?」とわたしは聞いた。
ハサビスは無表情に「ええ」と答えた。「よくあるんですよ」。
あながち冗談でもなさそうだった。一般的に、コンピューターエンジニアにはファンなどいない。ただ韓国の囲碁人口は800万人に上り、セドルは国民的なヒーローだ。中国では280万人以上が対局をライブで観戦していた。
だから、セドルが第1局に次いで第2局にも敗れたとき、彼のファンが感じていた目の回るような高揚感が、何か不穏なものによって取って代わられたのも当然かもしれない。第2局が終わったあと、フレッド・ジョウと名乗る中国のレポーターがわたしを呼び止めた。彼はAlphaGoを単なる囲碁マシーンではなく、テクノロジーの偉業と捉えている人と話したがっていた。
わたしは彼に、セドルの敗北についてどう感じているか聞いてみた。ジョウは心臓を指差して「悲しいですね」と言った。
わたしも悲しかった。人間だけに属していた何かが失われたのだ。公開試合を観戦した者の多くが気づいたのは、コンピューターはある点を越え、新しい領域に入ったということだった。機械は人類ができることを超越したのだ。
もちろん、コンピューターはまだ本物の会話をすることはできない。面白いジョークを考えるのも無理だ。ジェスチャー当てクイズはできないし、人間なら誰でも知っている常識もわからない。しかし、AlphaGoの恐るべき優越性は、コンピューターは世界の一流棋士たちを一流たらしめている人間の直感を模倣し、そしてそれを上回ることができるということを示した。
セドルは第3局も敗れ、AlphaGoは5番勝負での勝利を掴んだ。対局後のプレスカンファレンスでハサビスの隣に座ったセドルは、人類を失望させたことについて詫びた。「もっとよい結果を残すべきでした」と彼は話した。
セドルが言葉を進めていくにつれ、予期しない感情がハサビスを苦しめ始めた。ハサビスはAlphaGoの開発者として、多くの人が不可能だと考えていたことを成し遂げて非常に満足していた。有頂天だったといってもいい。しかしそんな彼でさえ、自身の人間性がうずくのを感じた。ハサビスはセドルが1勝してくれるよう願い始めた。
また放たれた不可解な1手
第4局の開始から2時間後、セドルは再び大きな穴にはまった。彼は広い盤面の一角を集中的に攻め、攻撃的に試合を進めていた。一方、AlphaGoは盤面全体の動きを重視する、より大局的なアプローチで打っていた。第2局のターニングポイントとなった黒37手では、AlphaGoは重要な局面の流れから離れた、石がポツンと1つしかない場所に打った。そしてコンピューターはまた、試合運びをコントロールするための不可解なアプローチをとった。
AlphaGoはすでに勝負を制していた。セドルは勝利のためではなく、人類のために打っていた。77手目が打たれたあとで、セドルは躊躇しているように見えた。右手で頬杖をつき、椅子の上で体を前後に揺らしたりひねったりして、首の後ろをさする。2分が経った。4分、6分と時間が過ぎていく。
セドルはそれから、左手で首の後ろに触れたまま次の手を打った。右手の指2本で白石を盤の中央近く、2つの黒石のちょうど間に置いたのだ。白78手は盤上の左右に広がる混み合った領域の間に打たれた「ワリコミ」で、AlphaGoの防御を効果的に分断する妙手だった。
コンピューターは驚きを隠せなかった。もちろん目をパチクリさせたわけではないが、次の1手はひどいものだった。セドルは無数の電気回路の集積ではなくアジャその人が対戦相手であるかのように、彼を鋭く一瞥した。
ハサビスは勝利に非常に満足していた。そんな彼でさえ、自身の人間性がうずくのを感じた。ハサビスはセドルが1勝してくれるよう願い始めた。
AlphaGoのコントロールルームでは、コンピューターを稼働させていた人々が動きを止め、食い入るようにモニターを見つめた。白78手の前は、AlphaGoは自らの勝利の確率を70パーセントと計算していた。8手後には、その数字は消えてしまった。AlphaGoは突然、Deep
Blueではなくカスパロフの側の後継者になってしまった。AIには人間があんな手を打ったという事実が信じられなかった。人間があの手を打つ確率は第2局の黒37手と同じ、1万分の1だ。
AlphaGoは人間のように驚きに支配された。試合開始後4時間45分で、AIは投了した。人間と同じように、コンピューターも負けるのだ。
ハサビスは「AlphaGoがこれまでにやってきた計算は、いうなれば無意味なものになってしまった」と言う。「 やり直さなくならなければいけなくなった」 。
神の1手は誰が放つ?
第5局が始まった。わたしはハサビスや彼のチームと共に観戦する予定だったが、彼らのところに向かう直前に、グーグルのスタッフがプレスルームでわたしを見つけた。「 大変申し訳ないんですが、チームの方針が変更になったんです。最終戦は記者の方はここから離れていただきたいんですが」と彼女は言った。
彼女が立ち去ってから、わたしは同行していたフォトグラファーのジョーディー・ウッドに話しかけた。「 どういうことなんだろう? AlphaGoが負けると思っているのかな」。
実際にそうなった。AlphaGoは序盤で初歩的なミスを犯した。盤面の下半分の石が混んだところでセドルが築いた線に近すぎる場所に打ち、地をすべて失った。AlphaGoは自らの直感に裏切られた。コンピューターにも人間のように盲点があるのだ。
ただ対局時間が3時間に突入すると、AIはもち直してきた。3時間半の時点で、セドルは持ち時間を使い果たした。このため、ここからは1手を1分以内に打たなければならない。1分を超えてしまえば、自動的に負けが決まる。右上の広い帯状のスペースには、どちらも手を出していなかった。セドルは何度も1手を打つのに制限時間ギリギリまで考え込んだ。
そしてAlphaGoも持ち時間がなくなった。両者は互いに、周囲からは不可能に思えるペースで打っていく。盤は石で埋め尽くされた。5番勝負で初めてどちらも投了せずに最後まで打ち、終局するかのように思われたが、5時間が過ぎたところで、セドルとAlphaGoの差は広がりすぎた。そして、セドルが投了した。AlphaGoはミスをしたが、試合には勝った。
敗北は、絶望ではない
世界広しといえども、セドルがどう感じたかきちんと説明できるのは本人を除けば1人しかいないだろう。3度の欧州チャンピオンでAlphaGoの事実上のトレーナーでもあるファン・フイだ。ファンは昨年10月に非公開で行われたAlphaGoとの対決で5連敗した。今回の試合の前哨戦とも位置付けられていたこの試合の後、ファンは「雇われ棋士」としてDeepMindの開発チームに加わり、コンピューターと繰り返し対局した。彼はAIに負け続けた。
ただ敗北が積み重なっていくにつれ、奇妙なことが起きた。ファンは碁をまったく新しい視点で眺めるようになり、人間相手では勝つようになったのだ。一流棋士に4連勝し、ランキングも上昇した。AlphaGoとの対局がファンを鍛えていた。そこでわたしは試合中、彼にセドルとコンピューターとの対決についてどう考えるべきか聞いてみた。
「 セドルを責めないでください」とファンは言った。「 負けたからといって、彼に腹を立てないでほしい」。
近年では、世界の巨大テック企業は他社より優位に立つために、AlphaGoと同種のテクノロジーを用いている。画像認識を改善したり、音声認識を実装するためだ。近い将来、こうしたシステムの派生形が、ロボットが人間のように現実世界に対応していくのに役立つだろう。
両腕に彫られたそれぞれの刺青
しかし、AlphaGoの非人間的な人間性と比べると、こうした活用例は陳腐に見える。AlphaGoをめぐっては、例えば『Google Photo』のようなアプリでは起こらなかったようなかたちで、さまざまなサブカルチャーが誕生している。
ドイツのデュッセルドルフでは、地元の大学でコミュニケーション、メディア、ゲームデザインを教える教授が黒37手に特化したTwitterのアカウント を開設した。ジョルディ・エンサインというフロリダに住む45歳のプログラマーは、ソウルでの対局についてわたしが書いたオンライン記事を読んでから、右腕の内側に黒37手のタトゥーを入れたとメールで知らせてくれた。左腕の内側には、囲碁界で「神の1手」と賞賛されたセドルの白78手を彫り込んだという。
第4局の終了後、セドルはハサビスと話をしていた。かつてのチェスの神童は天才棋士に、彼の感じているプレッシャーはよくわかると伝えた。ハサビスはセドルの独創性と彼を突き動かすものを理解していた。「 わたしもボードゲームをやっていました」とハサビスは言った。「 もしわたしが違う人生を歩んでいたら…。棋士としてこれだけのレヴェルに達するためにどれだけ熱心に取り組んで来られたか、どれだけの犠牲を払ったか、よくわかります」 。
右腕の内側に黒37手のタトゥーを入れたとメールで知らせてくれた。左腕の内側には、囲碁界で「神の1手」と賞賛されたセドルの白78手を彫り込んだという。
セドルは、コンピューターと対決することで碁への情熱が再燃したと返事をした。ファン・フイの場合、AlphaGoはゲームの新しい側面に目を向けるきっかけになった。セドルは「もう前より強くなりましたよ」と話す。「 コンピューターから新しいアイデアをもらったんです」 。AlphaGoとの対戦以来、セドルはまだ負けを記録していない(訳注:原文初出の2016年5月19日時点) 。
ハサビスは5番勝負の前に、AlphaGoのAI技術は新しい科学研究の原動力になり得ると話していた。コンピューターが人類に、研究を前に進める大きなブレークスルーを教えてくれるという。そのときは、彼の発言は何の根拠もない絵空事のように聞こえた。典型的なテック業界のから騒ぎだ。
しかしいまは違う。コンピューターはとても人間らしい行動を人間より上手にやってみせた。そしてその過程で、人間の挑戦について人類を鍛えてくれたのだ。黒37手はコンピューターがその創造主に対して自分たちの優位性を主張したサインだと捉えることもできる。しかし、それを1粒の種と見ることも可能だ。黒37手がなければ、白78手は生まれなかった。