呉 清源 |
石の運びは一見平明に見えるが、状況によっては疾風迅雷、一刀両断のすごみがある。一局のうちこちらのヨミにない手を必ず打ってくる。彼の宗教にうちこむはげしさとともに碁に対する執念が神仏のように迫力があった。彼こそ昭和の棋聖であり、名人である。もう一度十番碁を打ってみたい気がする。 |
木谷 實 |
正確無比のヨミでしかもねばりづよかった。私とはまったく正反対の棋風。名人になれなかったのが不思議なくらい。もっと時流にあわせてさらさら打てばタイトルくらい楽にとっていたと思う。碁の癖があり凝りすぎるところがあった。しかしそれが囲碁三昧かもしれない。 |
関山 利一 |
父君の盛利氏が熱心で私も可愛がられた。その縁で私が二段の時、盛利氏のたのみで利一氏と七子で打ったが、翌年は三子になり、さらに一年後には二子で打った。大変な棋才の持主だった。はじめは守勢一辺倒の碁だったが、四段の時から攻めに重点をおくようになり、一挙に超一流の域に達した。彗星のごとく現れ消えていった天才。 |
岩本 薫 |
小川のせせらぎのようにさらさらと打ち、また大地にぱらぱらと種をまくように打つといった調子でつかみどころがない。そうかといって安心しているとぱっと襲ってくる。飄々としていて油断のならぬ碁である。私の苦手である木谷九段には、めっぽう強かったようである。 |
高川 格 |
平明流というか水の流れるような決して無理のない碁。形勢判断に明るく自分から仕掛けないから私には調子のあわないところがあった。コミ碁というものに新境地を開拓したように思う。 |
藤沢 朋斎 |
山を抜くような剛力。ツボにはいると手がつけられない。私もよくおしつぶされたが、強いだけにちょっとリズムが狂うとすきができる。碁はヨミと力だけでは制しきれないほど広く深いのである。 |
坂田 栄男 |
カミソリといわれるくらい鋭い切れ味は比類がない。私とは波長が合い、打っていて碁の琴線にふれるようで楽しかった。昇仙峡の一局は、敗色が濃かったが、相手にあせりのようなものがでて助けられた。七局目の賢島で私に勝運が傾いたが、坂田九段が局後帰りぎわにあいさつにみえ、その姿にさわやかな印象を受けた。 |
半田 道玄 |
柔軟性にあふれた碁で盤上を宇宙とみて思考をこらすといった具合に、高僧の風格があった。ふわふわとしているかと思えばどこまでもくねくねしているところがあり、石の流れの裏に粘着力があった。もう少し長生きをしてほしかったが、碁に燃焼しつくしたという感じで、すばらしい棋士であった。 |
山部 俊郎 |
才気煥発型で変幻の妙という点では注目に価するが、時にむら気があり損をしているように思う。この人に執念とねばりというものが加わっていたらと惜しまれる。 |
藤沢 秀行 |
独創性にあふれ棋才という点では古今比類のない大天才だと思う。彼より強い人はいっぱいいるが、作品という見方からすると彼に及ぶものはめったにいないのではないか。要するにひらめくのである。 |
林 海峰 |
勝つための条件であるヨミ、粘着力、形勢判断などどれをとってもバランスがとれている。碁盤全体で打ってくるという感じで、スケールが大きい。 |
大竹 英雄 |
名人中の名人である。どこから突いてもスキがない。ただ気になるのは大竹美学とかいわれているが、碁に美学などあるはずがない。盤上には勝負があるだけである。もっと鬼気というものがほしい気がする。 |