棋士による碁打ち寸評

 (最新見直し2015.1.9日)

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで「棋士による碁打ち寸評」を記しておく。「エッセイ」その他参照。

 2015.1.9日 囲碁吉拝


 藤沢秀行「八方破れ人生」による「藤沢秀行先生による一流棋士の棋風評」。
坂田栄男  例を坂田さんにとりますと、これは切れ味を非常に感じさせるんですね。ということは、ひじょうにゴチャゴチャした複雑なところを、正確に読んでいるってことですよ。快刀乱麻を断つっていうんですかね。
藤沢朋斎  朋斎さんは棋士のなかでも代表的な長考型なんですけれど、朋斎さんの場合は、つまり自分のこと----相手にこうこられたら困るんじゃないかなってことも、ひじょうに考えてるように思うんですがね。たとえばまァ、敵にこう攻められたら困るんじゃないかっていうふうに、防御的なところに重点をおいてモノごとを考える人と、敵をどう攻め崩したらいいかと、攻撃を主にする人と、同じ考えるんでも、そのふた通りがあるわけですよ。そりゃ坂田さんだって、自分のことを考えないわけじゃないけど、どちらに重点をおく性向があるかっていうと、これは切りこんでゆくほうなんです。
橋本昌二  橋本昌二さんは、相当に先のほうまで読むタイプなんです。これはまぁ、ぼくが打ってて、そういう感じをうけたんですけれども、とにかく、ホントの、変化の変化の先ぐらいまでを読んでるんですね。
梶原武雄  ちょっと特異なのは、梶原武雄さんですね。この人は石の命とか形とかをひじょうに重んじて、そこから出発して、いわゆるまァ、これまでにない新工夫的な考え方をするんです。たとえば----碁に限らず、どの道にしても、職業にしても、それぞれに考える基礎ってものはあるわけですよ。過去何十年か何百年かの積み重ねっていいますか、伝統っていいますか、既成のものがあるわけです。ところが梶原さんは、そういう過去からある基礎を打破しちゃって、むしろ白紙としての考え方で出発してゆくというやりかたなんですよ。
呉 清源  全盛のころの呉清源さんの碁をみますと、決め方がじつにうまかったですね。”風林火山”というのがありますが、あのなかの ”疾きこと風のごとし”、あれなんですよ。ほんのちょっとした相手のスキをみると、サーッと切り込んでいって、その早さが、まさに疾風迅雷なんですね。他の人にはちょっとないところで、これはまァ、古今随一だと思いました。
木谷實  木谷先生の碁風というのは、”動かざること山のごとし”といいますか、ひじょうに力強くてね、なにかこう、打ってても鋼鉄にぶつかっていくような感じのする碁ですよ。だからひっぱたいても、こっちの手が痛くなっちゃうような、ね。ただ、昔、安永一さんが、こんなことをいってました。「木谷君は早見えがする。しかしそれでいて、迷いがひじょうに多いんじゃないか」と。ぼくなんかの場合、迷ったときはある程度、切り捨てちゃって、さきにもいったように感覚でゆくわけなんで、そういう意味では決断が早すぎるきらいがあるんですけれども、木谷先生はそうじゃないって、安永さんはいってましたね。しかしこれは持ち時間のながい場合の話で、やっぱり木谷先生の一分碁なんてのは、そりゃ強かったですよ。
橋本宇太郎  橋本宇太郎さんには、昔から ”天才宇太郎”って称があるんですが、これは私も、そう思います。というのは、碁のアヤですね。つまり、碁にはいろんな組み合わせがあるんですが、そのうまさですよ。これは当代随一に数えられていいんじゃないでしょうか。ところがその宇太郎さんが、木谷先生にはうまくゆかないんです。ぼくの知ってる範囲じゃ、うまくいったのを見たことが少ない。そこがその、いわゆる木谷流の鋼鉄たるゆえんで、その鋼鉄のような陣形がふくれあがってきたやつには、なかなかサバキが通用しないんですね。ふくれあがってくるというのは、木谷先生の場合は、相手にスキを与えない陣形でもって、それがだんだん地を広げてくるんですよ。そしてそれが基礎になって、こっちが崩されてくるわけです。これは宇太郎さんに限らず、だれでも、ぼくなんかでも、えらい苦い経験、もってるんですよ。
高川 格  高川さんというのは、ぬるそうにみえて、じつはぬるくないという、ちょっと変わったタイプなんです。”非力の高川”なんて評があったりして、ぼくも若い時分、高川さんの強さというものをよく知らないで、いつでも勝てるんだなんて思ってましたけど、とんでもない話でね。高川さんの碁風というのは、まァ学校でいうと、優等生タイプなんです。これは林海峰君にもいえることであって、まァ早い話が、布石も95点、中盤も95点、寄せも98点というふうに、力がこう、全体に平均してるんですね。だから、論語でいえば中庸というんですかね、可もなし不可もなしで、自然に、いつのまにか、細かい碁になっている。一見、ぬるそうにみえてぬるくないというのはこれですね。ただし、あまり仕掛ける碁じゃないです。

杉内雅男による一流棋士の執念評価論
 現代囲碁大系・第24巻、杉内雅男による一流棋士の執念評価論
呉清源  いうまでもなく、昭和囲碁界のもっともすぐれた才能の一人。しかし天性の才能だけが強調され過ぎて、精神面、碁に対する心構えが指摘されないのは片手落ちではないか。究極には坂田栄男にも共通する執念を、呉は持っている。ねばり強く、勝負を投げない。逆転の可能性を少しでも残しておく。同じ中国人である弟子の林海峰と、二枚腰という点で共通している。奇異に聞こえるが、呉清源はまれにみる勝負師なのである。碁は形にとらわれない。着手の自由奔放さ、融通無礙こそ注目に値する。局面局面における、未来の沃野がもっとも広い。
坂田栄男  昭和30年頃、互いに日本棋院選手権戦を争った時代の坂田は、まだ数えるほどしかタイトルを握っていなかった。スタートは並んでいた。それが二十数年経過してみると、坂田は60個以上のタイトルを獲得し、杉内はわずかに2個。この差はどこから生じたのか、と杉内は考える。そしてこういう結論が出る。才能の問題はむろんあるが、結局は執念の違いではないのかと。一例をあげよう。

 昭和33年から34年にかけての第4期最高位戦リーグで、坂田、岩本、杉内の3者が6勝2敗の同率となった。このリーグ戦は前年度の成績、つまり順位尊重で、それに従えば、坂田、岩本、杉内の順になる。挑戦権は坂田にある。しかし坂田6勝のうちに対島村戦の不戦勝が1局あり、不戦勝は実際に戦い取った勝星に及ばない。これは順位よりも優先する。したがって岩本が上になり、当然岩本が挑戦者になる。そしてそれに従うのが普通の感覚である。ところが坂田はこう主張した。島村さんの病気が癒るまで待つと。規定は規定として、坂田にはこう主張する権利はたしかにあるのだが、この一件に当時の杉内は驚いている。結局話は平行線を辿り、外部理事に計った。岩本・坂田の決戦という折衷案が出され、そして坂田はこの決戦に勝った。木谷最高位に挑戦し、タイトルを奪取した。勝負師坂田の面目躍如といってしまえばそれまでだが、杉内がこのエピソードをあえて指摘するのは、自分に欠けるものを坂田の中に見たからであろう。勝負の一点に関しては、徹底的に自己中心的、勝利に対するハングリーな精神、「力は正義なり」の哲学。これらはみな、坂田栄男の執念を土台から支えるものである。

橋本宇太郎先生による人物評
 「橋本宇太郎の世界」。
呉 清源  石の運びは一見平明に見えるが、状況によっては疾風迅雷、一刀両断のすごみがある。一局のうちこちらのヨミにない手を必ず打ってくる。彼の宗教にうちこむはげしさとともに碁に対する執念が神仏のように迫力があった。彼こそ昭和の棋聖であり、名人である。もう一度十番碁を打ってみたい気がする。
木谷 實  正確無比のヨミでしかもねばりづよかった。私とはまったく正反対の棋風。名人になれなかったのが不思議なくらい。もっと時流にあわせてさらさら打てばタイトルくらい楽にとっていたと思う。碁の癖があり凝りすぎるところがあった。しかしそれが囲碁三昧かもしれない。
関山 利一  父君の盛利氏が熱心で私も可愛がられた。その縁で私が二段の時、盛利氏のたのみで利一氏と七子で打ったが、翌年は三子になり、さらに一年後には二子で打った。大変な棋才の持主だった。はじめは守勢一辺倒の碁だったが、四段の時から攻めに重点をおくようになり、一挙に超一流の域に達した。彗星のごとく現れ消えていった天才。
岩本 薫  小川のせせらぎのようにさらさらと打ち、また大地にぱらぱらと種をまくように打つといった調子でつかみどころがない。そうかといって安心しているとぱっと襲ってくる。飄々としていて油断のならぬ碁である。私の苦手である木谷九段には、めっぽう強かったようである。
高川 格  平明流というか水の流れるような決して無理のない碁。形勢判断に明るく自分から仕掛けないから私には調子のあわないところがあった。コミ碁というものに新境地を開拓したように思う。
藤沢 朋斎  山を抜くような剛力。ツボにはいると手がつけられない。私もよくおしつぶされたが、強いだけにちょっとリズムが狂うとすきができる。碁はヨミと力だけでは制しきれないほど広く深いのである。
坂田 栄男  カミソリといわれるくらい鋭い切れ味は比類がない。私とは波長が合い、打っていて碁の琴線にふれるようで楽しかった。昇仙峡の一局は、敗色が濃かったが、相手にあせりのようなものがでて助けられた。七局目の賢島で私に勝運が傾いたが、坂田九段が局後帰りぎわにあいさつにみえ、その姿にさわやかな印象を受けた。
半田 道玄  柔軟性にあふれた碁で盤上を宇宙とみて思考をこらすといった具合に、高僧の風格があった。ふわふわとしているかと思えばどこまでもくねくねしているところがあり、石の流れの裏に粘着力があった。もう少し長生きをしてほしかったが、碁に燃焼しつくしたという感じで、すばらしい棋士であった。
山部 俊郎  才気煥発型で変幻の妙という点では注目に価するが、時にむら気があり損をしているように思う。この人に執念とねばりというものが加わっていたらと惜しまれる。
藤沢 秀行  独創性にあふれ棋才という点では古今比類のない大天才だと思う。彼より強い人はいっぱいいるが、作品という見方からすると彼に及ぶものはめったにいないのではないか。要するにひらめくのである。
林 海峰  勝つための条件であるヨミ、粘着力、形勢判断などどれをとってもバランスがとれている。碁盤全体で打ってくるという感じで、スケールが大きい。
大竹 英雄  名人中の名人である。どこから突いてもスキがない。ただ気になるのは大竹美学とかいわれているが、碁に美学などあるはずがない。盤上には勝負があるだけである。もっと鬼気というものがほしい気がする。

【本因坊秀哉像あれこれ】
 日本棋院編『囲碁雑学ものしり百科』の中で、秀哉像のあれこれが三堀将さんによってまとめられている云々。当時の棋士たちは和服だった。ハオリ・ハカマで大概が扇子を持っていた。代表的な棋士像は、大正から昭和初期にわたって君臨した、本因坊秀哉名人であろう。本名は田村保寿、明治七年生まれ。文人たちの描く秀哉像を確認しておく。
川端康成  「秀哉名人が立ち上がった。扇子を握って、それがおのずから古武士の小刀をたづさえて行く姿だ。盤の前に坐った。左の手先をハカマに入れ、右手を軽く握って、真向きに首をあげた。静かに癖の右肩を落としている。その小さい膝の薄さよ、扇子が大きく見える」。
河東碧梧桐  「痩躯いよいよやせて鶴のごとく、頭髪すでに半白以上の霜をいただき、円熟老成をその眉宇の間にただよわせている。局に向かって端坐すると、泰然として山岳の重きをなすのである」。
村松梢風  「本因坊秀哉は体重が八百何百目(30キロ)しかないと言う。小柄で非常に痩せている。頭髪は七分通り白く、レンズの大きな近眼鏡をかけ、いかつい口ヒゲを置いている。手にしている扇子は漢詩を物した白扇。黒絽の羽織に縞の衣服、ハカマをさばいて紅いメリンスの座布団の上に端坐している。肥前唐津の藩士の子だという。そういう厳格さが容貌にも態度にも現われている。秀哉名人が考え出すと、眉と眉の間に深いシワが三筋現われる。そうして口をキッと結び、腕組みをして、微動だにもせず盤面を見つめている。扇子を取っても風を入れるでなく、時々パチリと鳴らす。静寂林のごとしという観がある」。
三上於菟吉  「秀哉名人は黒顔長面、やや神経質でその癖揚々として迫らざるものあり、伝説の孔明を思わしめる。争気覇気は発達した下顎骨によって象徴されているものの、それが一種の修養によって和められ自ずと天命を楽しむような調子がある。一語も吐かず、黙々として想をつくす、かたわら人なきがごとし」。
児玉花外  「もし人あって刀を振い、秀哉本因坊に棋側から不意に斬りつけたとせよ。即座に敵を叱咤の一声もろともに斬り捨てる妙手は、必ず秋霜のような秀哉本因坊で、不意打ちの敵の眉間めがけて、本因坊の碁石がたちまち飛ぶだろう」。
寺尾幸夫  「秀哉名人はちょっと小首を左に傾けて敷島に火をつけた。右手で左膝に扇子を立て、その上に左のヒジを乗せ、煙草の煙が左頬をなでる。一ぷく大きく喫ったが煙は吐かず、碁盤を見つめる鼻から自然に煙がもれて出た。本因坊は息をつめて考えているのだ」。
【すばる補足】  「小柄で痩躯....非力を連想しがちですが、そうではなく、がっちりした筋肉質の身体を持ち、人の引き絞れない弓をひきしぼっていたということで、力の人でした。気難しい感じを受けますが、日本棋院の院生師範役として、小僧供の練習対局の相手役を繰り返しやってあげている。また、名人として御止め流でもいいところを、生涯現役として、真剣勝負を受けて立っていた。日本棋院の創設の頃には、私財の提供もしており、最後には本因坊派内部での世襲を廃して、毎日新聞社に「本因坊の名跡」を譲るという、客観かつ公正なる見識の人でした。秀栄先生との対立を、芸術派と世俗実利派の対立として説明する場合もありますが、雁金準一との世紀の勝負碁の回想の中で、「勝敗の次元を離れて、碁そのものの中に没入しなければ、真の碁はできないものである」を読んだ時、ああ、秀哉師こそは、達人名人の境地の人だったと、深く感銘を受けました」。








(私論.私見)