石好み(6)、囲碁上達法4、元院生の思い出話(橘諒

 (最新見直し2016.1.22日)

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここにサイト「元院生の思い出話 橘諒」を転載しておく。何やらとても斬新にして為になる囲碁談義が綴られているように思うから。「何やら」と曖昧に書いたが、「何やら」の含意は正確にはこうである。即ち「アマから見れば元院生と云うプロ並みの棋力の持主にして且つ現在は文筆家と云う文章能力に秀でた人物による貴重な囲碁論」と云う意味である。この両者が噛み合うのが難しいところ成功させているように見える。棋力的にはプロが上なのだから、そのプロが囲碁論を書けばもっと深い囲碁論が開陳されるのだろうが書く人が居ない、又は少ない。囲碁には滅法強いが文章は苦手と云うことによるのだろうと思う。これに反して、ごく一部の例外を除いて棋力的には元院生氏よりはるかに劣る文筆家による囲碁論なら相当数開陳されている。しかしながらプロ級の目線ではない囲碁論である点が物足りない。そういう意味で、「元院生の思い出話 橘諒」は囲碁の上手さと文章能力の高さが塩梅の良い貴重な囲碁論になっているのではなかろうか。

 2014.11.30日 囲碁吉拝


【元院生の思い出話 橘諒】
 【目次】

第1話 化け物どもとの邂逅
第2話 院生時代の友人
第3話 思考法と鼎談法
第4話 自分言語による理解
第5話 囲碁訓と人生訓
第6話 陳腐化する戦術
第7話 第一次創造力
第8話 囲碁とフロー
第9話 大局観
第10話 碁石と時間
第11話 後書きに代えて
 【著者経歴】

 文筆家。幼少期に祖母の読み聞かせで読書を始め、思春期には囲碁を習って思索を覚える。小六の冬に始めた囲碁は一年後にアマ5段まで上達、中一の冬に日本棋院の院生となる。そこまではよかったが、当時院生上位に君臨していた碁の化身たちを見てプロを断念。「上には上がいる」ことを囲碁で叩きこまれた。 囲碁の上達に比例して学業放棄を進めた結果見事に落ちこぼれ、すべての時間を"これ幸い"と囲碁と読書に投入。高三次に全国四位に入賞したのを機に囲碁は離れる。都内の私立文系大学に進学後、憑かれたように読書に没頭し、四年間でおよそ千冊を読了。その後一年の空白と一年の海外生活を経て文筆活動を開始。24歳。
 【第1話 化け物どもとの邂逅】

 僕は中一の一月に院生に入った。西暦でいえば、2001年の年明けだ。 当時はヒカルの碁の全盛期で、それをきっかけで囲碁を始めた人がたくさんいた。僕もその中の一人で、院生という漫画の世界に自分が身を置くことに、何とも言えず昂奮していたのを覚えている。その後続々と増える院生にもヒカルの碁がきっかけで囲碁を始めた人間がたくさんいて、当時の院生は、漫画の世界を大きく超えた大所帯になっていた。

 ただ先に現実を言ってしまえば、そういう「ヒカル院生」のなかからプロになれた人間はほとんどいない。僕の知る限り関達也さんという方一人だけで、確率としては何百分の一とか何千分の一とかそういうレベルだろう。要するに有象無象から抜きん出て「ヒカル院生」になったところで、元々囲碁の世界に身を置いていた化け物どもにはまったく歯が立たなかったのだ。

 当時の院生はAクラスからFクラスまであった。ヒカルの碁には一組と二組、つまりAクラスとBクラスしか出てこない。それがFまで増えたのだからヒカルの碁の人気ぶりがわかる。けれど今言ったように、そういう「ヒカル院生」からプロになれたのは関達也さん一人しかいなかった。 「化け物ども」は、Aクラスにいる。僕は囲碁を始めて一年で5段になったから、自分の碁の才能に子供らしい無邪気な幻想を抱いていたけど、それは彼らと接したときに根底から覆された。
囲碁というのは不思議なもので、対局していると自分と相手との力量差が何となくわかるのだ。それは多分に感覚的だから、別に力量差があったところで"揺らぎ"の中から勝利を掴みにいければそれでいいのだけど、彼らと対局したときのそれは「何となく」どころではなかった。隔絶の差、一生埋まらない大きな溝が自分と相手のあいだにあるのをハッキリと感じた。院生として同じクラスで打っているのだから、外野からは大した差がないように見えたかもしれない。けれど当事者からすれば、その差はプロを諦めるのに充分すぎるほどのものだった。彼らは、今プロとして八面六臂の活躍をしている。内田修平さんや謝依旻(しぇい いみん)さんなどはほとんどAクラスから落ちなかったので、自分とは対局する機会が無かったと記憶している。今や二人とも説明の要がないトップ棋士だ。ちなみに僕はBクラスとCクラスをうろうろしていて、たまにBクラスにあがったときだけ、Aクラスから落ちてくるそういう「化け物」たちに踏みつけられる僥倖を得ていた。

 
そうではない、つまりAクラスに籠りきりではない化け物もいた。例えば寺山怜さんというプロは、僕より後から院生に入ってきてあっという間にAまで駆け上がっていった。その道中で僕を踏みつけていったわけだけど、それは今ではいい思い出だ。彼と対局したときの、正座しながら少し丸めた背筋、碁盤を睨みつける眼光の鋭さ、これらはもはや肉食動物の域にあった。僕は狩られる側の草食動物であった。なるほど草食動物がこんな恐怖を感じているとしたら、これは一生拭い切れない常しえの恐怖だな、と思ったのを覚えている。まだある。大淵浩太郎さんというプロは僕より三つ年下で、当時結構同じクラスで対局したりしていた。彼は僕がプロをあきらめることになった直接の原因だ。地元では、囲碁を始めて一年で5段というのは神童扱いをされる。僕はそういう「田舎の囲碁天狗」で、自分より強い年下の人間などそれまで見たことがなかった。だから彼と初めて手合わせしたときも、いつも通り捻じり伏せてやるつもりでいた。 結果はお察しの通り、僕の完敗だった。「対局していると不思議と力量差がわかる」と書いたが、彼との初対局では30手も打たずにそのときがきた。ご想像いただけるだろうか、同じクラスの3歳年下の人間が、たった30手で圧倒的な差を見せつけて自分の前から去っていく。そのとき彼の背中に注がれた、僕の絶望の込もった眼差しを。天狗の鼻はこうして折られ、今は普通の長さになって顔の真ん中に収まっている。これはめでたしめでたしの話だ。上には上がいることを肌で感じられたのは、今となってはとてもよかった。
 【第2話 院生時代の友人】

 僕は院生時代、あまり囲碁の勉強をしていなかった。 と書くと「おまえは一体何だったんだ」と言われそうなので、詳しく述べる。そもそも僕は「ヒカルの碁」を読んで院生に憧れ囲碁を始めた。この"憧れ"というのが厄介で、ヒカルの碁に描かれている院生世界は、みんなでわいわいときには真摯に囲碁の宇宙を探究していく、実に「少年漫画的」な世界なのである。院生だったころの僕も、かなりそれに近かった。一人で黙々と勉強するよりはみんなで対局したり検討を重ねていくほうが好きだったし、盤外でも研修所の外でサッカーをしたり連れだってカラオケに行ったりするほうが多かった。要するに、囲碁よりも囲碁友達と一緒にいるほうが楽しかったのだ。その証拠といっては何だけど、僕は近年ほとんど囲碁を打っていない。高校卒業以来まともに囲碁を勉強した記憶はない。試しに登録しているネット対局場の記録を見てみたら、最後の対局は2013年の5月だった。ちょうど一年間打っていないことになる。けれどつい最近も、当時の院生友達とは何人も会っているのだ。囲碁は打っていない。あの頃のように、みんなでわいわい騒いでそれで終わりだ。でもそれがすごく楽しいのだ。

 
僕ら一般人にとって、囲碁の魅力は結局そこに収斂する。何というか、囲碁は人と人のあいだの一番根底に近い何かを繋いでいて、他のステータス(例えば年齢や職業)を雲散霧消させる力を持っている。だから院生友達とは、小中高の友達とは違い、ステータスや住む場所に関係なくこれからも一生会い続けるのだろうという確信がある。 田坂広志さんの「仕事の思想」という本があって、僕はその中で定義されていた10の言葉に、物凄く感銘を受けたことがある。例えば"思想"という言葉は「現実に流されないための錨」、"地位"なら「部下の人生に責任を持つ覚悟」といったふうに、そのほか"成長""目標""顧客""未来"などの言葉に対して、田坂氏の新しい定義が述べられているのだ。 そのうちの一つに、"友人"がある。田坂氏の定義は「頂上での再会を約束した人々」だ。 僕にとっての院生時代の友達というのは、まさにそれなのだ。「頂上での再会を約束した人々」。それぞれの現在のステータスはどうでもよくて、結局どこかで再会するし、そうなることを期待している。院生時代の僕も現在の僕も、そういう友達を得られたことが何より嬉しかったし、楽しかった。だから(?)、当時から囲碁そのものの勉強はあまりしていなかった。

 そもそも、師匠がいない。院生は普通、どこかのプロの弟子になって勉強会に参加したり碁を見てもらったりするのだけど、僕は誰の弟子にもなったことがない。それから、囲碁の勉強というのは基本的に棋譜並べや詰め碁がメインになるが、僕はそれらをまともにやったこともなかった。退屈ですぐ飽きてしまうのだ。勉強らしきものといえば、囲碁友達とネット対局場でしていた対局と検討くらい。でもチャットと勉強の比率が8:2なのである。囲碁にかこつけた只のおしゃべり会だ。 だけど、それが無性に楽しかった。本当に楽しくてたまらなかった。学校の勉強どころではなかった(コッソリ)。そして今思うと、あの頃自分がしていた「囲碁勉強法」は、実は「思考法」そのものを僕に教えてくれていた。
 【第3話 思考法と鼎談法】

 
基本的な思考法は、大きく三種類に分かれる。帰納と演繹と二分だ。 帰納は「原則を探す」思考法である。例えばA・B・Cの情報があったとき、それら三つに共通している原則「D」を探そうとする。対して演繹は「前提から積み重ねる」思考法で、「A」という前提を設定したのちに、「AならばB,BならばC・・・」と論理的整合を積み重ねていく。二分は単純な「二者択一」で、「AかBか」の思考法である。 囲碁には、全部ある。

 まず帰納法から見てみよう。例えば"棋譜並べ"という囲碁の勉強をしながら考えなければならないのは、「この人(対局者)は何を考えてこの手を打っているのか」ということだ。囲碁は平均して200手強で終わるゲームだが、そのうちの約100手が一方の対局者によって打たれることになる。だから、僕らはそういう100の情報から「1」の原則、つまり「対局者の考えていること」を理解しようと努める。対局者は一局につき二名いるから、理想的には一局並べるごとに「200」の情報から「2」の原則を導き出すこともできる。もちろん現実はそうはいかず、百局や二百局並べても何もわからないことすらある(それは僕だけか)。 これは自分が対局者になったときも変わらない。
囲碁には格言と呼ばれるものがいくつかあって、そういう「原則」が自分の頭の中に眠っている。対局中に意識するのは、その原則をいかに着手に反映させるかということだ。勝負の最中に精神を昂ぶらせずにいるのはとても難しくて、着手してから30分後に「あれはひどい手だった」と考えて動揺し始めることもしばしばある。だから、「自分の原則」を常に意識しておくことが、勝利に際して非常に重要になる。次に演繹法だ。演繹でいう「前提」は、囲碁では「所与の盤面」になる。具体的には、対局者は「今はこういう盤面だから、自分がこう打つと相手はこう打つ、そしたら自分はこう打つ・・・」といった思考を延々繰り返している。これは「読み」と呼ばれるもので、囲碁では「3手先まで読めれば立派」と云われる。演繹法のAからDまでたどり着ければ、初心者の域は遙かに超えているということだ。ちなみにプロは「一目千手」だそうで、これは演繹法におけるAからの積み重ねが一瞬で千を超えるということだ。僕が「化け物」と呼んだ理由がお分かりだろう。ともあれ、このような囲碁の「読み」を符号に置き換えてみると、「今はAだから、自分がBとすると相手はCときて、次に自分がDとやって・・」というふうになる。これは演繹法の思考訓練そのものだ。

 
最後に二分法である。前述の帰納法と演繹法を組み合わせて実際に対局者が悩んでいることは何かというと、実は「AとBどちらがいいのか」という二者択一であることがほとんどだ。というのも、無数にある着手候補を様々な事情に鑑みつつ絞りこんでいくことはそれほど難しくなくて、最も難しいのは「選べない二者択一」でどちらを選ぶかなのである。ちなみに大抵第一感が正しいらしく、そのため「囲碁の勉強は第一感の精度を高めるためだけにある」と公言して憚らない不届き者も存在する(僕)。

 これは余談だが、人間にとっては「無数にある着手候補を様々な事情に鑑みつつ絞りこんでいく」のはごく簡単なことなのだけど、コンピュータにとっては恐ろしく難しいらしい。だから将棋やチェスと違って、コンピュータが囲碁で人間を負かしたことはまだない。いま一番強いコンピュータがせいぜいアマ3段くらいで、これはトッププロが鼻くそをほじりながら一瞬で殲滅できるレベルだ。余談終わり。

 帰納法・演繹法・二分法に加えて、「鼎談法(ていだんほう)」とでも呼ぶべき思考法が囲碁にはある。 鼎談法は僕の造語だ。鼎談の語義は「三人が向かい合って話し合うこと」で、"発話"の第二人称が対話なら、鼎談は第三人称だとでも思ってもらえればいい。囲碁で鼎談が現れるのは、対局後、つまり検討のときだ。その際盤外には、以下のような鼎談が頻繁に出現する。 (A・B・Cは人物) A「ここでこう打ってたらどうしてた?」 B「こう」 A「そうするとこうなるよね」 B「うんうん」 C「え、ちょっとまって、それこっちじゃないの?」 B「うわまじだ」 A「だめじゃんこれ。じゃあこれがこっち?」 C「ていうかそもそもあれがあっちじゃね?」 B「でもそうしたらここでこうくるよ」 C「げっ。じゃあこっち?」 A「のほうがまだマシかも」 C「あ、なら先にここでここ打っとけばいいんじゃん」 A「おおーなるほど」 B「エロい」 A「これは変態だ」・・・・。言いたいことはよくわかる。しかし我々の名誉のために付け加えておくと、これはれっきとした囲碁の勉強法なのだ。普通の人からすれば怪しすぎる会話だけど、囲碁をやったことがある人なら聞き覚え(というか身に覚え)があるだろう。

 
なぜ、これが思考法になるのか。それは、こういう鼎談が「対局中にも」よく浮かんでくるからだ。着手を思案しているとき、対局者の脳内ではこんな登場人物たちが「ああでもないこうでもない」と意見を言い合っている。それは帰納・演繹・二分どの方法であろうと、またどの段階であろうとお構いなしだ。つまり、帰納・演繹・二分すべてにおいて繰り広げられる思考過程を、「鼎談」によって洗いざらい確認していく。あえて言語化するならそういう情景が、対局者の頭の中には広がっている。僕は今、アマの7段だ。けれどプロの初段と打てば、100回打って100回負ける。プロとアマにはそのくらいの差がある。そしてその一番の違いは、実は「鼎談法」における登場人物にこそあるのではないか、と僕はみている。 まず、数が違う。僕が使える登場人物はせいぜい三人だが、プロの初段ならその倍はいるだろう。トッププロともなれば十人を超えるかもしれない。そして、一人ひとりの質もまったく違う。僕の"三人"が出した文殊の知恵でも、トッププロの"一人"が出した知恵にすら敵わない。そんなのを、十人も飼っている。

 
彼ら囲碁のプロは、そういう登場人物による"脳内会議"をいやというほど繰り返し、情報を集め意見を募り、それらを総合して大枠を作り、リスクとリターンを勘案しながら少しずつ候補を絞っていき、ようやく「これが最善だ」と結論付けられたものだけを、盤上にピシリと打ち下ろしている。100戦100敗の理由がお分かりいただけるだろう。 ただ、これは盤上の調律に特化したプロならではの話だ。普段の生活でも彼らがそんな脳内会議を繰り広げているとは、僕は切実に思いたくない。 まとめに入ろう。これまでに述べてきた帰納・演繹・二分・鼎談すべての思考法を統合したものを、僕は「思索法」と呼んで区別している。これは囲碁に限らない「方法」の名前だから、使おうと思えばどの場面でも使うことができる。僕は基本的に読書をするときに使っているけど、例えばビジネスマンの方なら「一人ブレスト」ができるかもしれないし、学生さんなら「脳内議事録」がそのままレポートとして提出できるかもしれない。あるいは全ての人にとっても、仕事や人生そのものについて考えるときなどに有効なのではないかと思う。

 もちろん、囲碁のおかげで自分が"思索法"を身に付けていたことは、院生時代には全くわからなかった。ただがむしゃらに囲碁に没頭して、最近になってふとそれを思い出してみたとき、「ああ、そういうことだったのか」と合点がいっただけだ。 結局、囲碁が僕に授けてくれたものは、「友人」と「思索法」の二つに集約される。もし僕が真面目に学業に取り組んでいたとしても、この二つは決して得られなかっただろう。そういう"囲碁への感謝"は、きっとどの院生友達にも共通する。僕らはその"感謝"を示そうとして、あれから10年以上経った今でも頻繁に膝を寄せ集めては、「囲碁談議」に大輪の花を咲かせて続けているのかもしれない。
 【第4話 自分言語による理解】

 第3話で出てきた"鼎談法"で話されるのは、すべて「自分言語」だ。 僕の場合、読書をするときにこれが非常に役立っている。順を追って説明していこう。囲碁における鼎談法は、その原型が対局後の検討にあるとはいえ、実際にはすべて自分の頭の中で生じるものだ。そのため鼎談の参加者は、別々の主体でありながらみな「自分言語」で会議をする。つまり、前稿に出てきた「A・B・C」の三人が、みな「自分・自分・自分」になって話を始めるということだ。 囲碁における鼎談法の定義が「検討での鼎談を、脳内に自分言語で再現すること」だとすれば、読書におけるそれは「著者達の主張を、脳内に自分言語で再現すること」となる。読書をしていると、凄まじく巧みな表現や洞察に満ちた文言に出会うことがよくある。けれど僕はそれらを丸暗記することがどうしてもできなくて、折に触れてそれらの表現や文言を思い返そうとするたび、その中に少しずつ「自分言語」が混ざってきてしまう。最初は10:0だった「著者言語対自分言語」の割合が、徐々に9:1になり8:2になり、いつの間にか5:5を過ぎて0:10へと向かっていく。

 この進行速度は、思い返しの頻度に完全に比例する。 例えば、最近読んだ本に「乱読のセレンディピティ」がある。そこには"忘却が記憶を純化させる"という主旨のことが述べられているのだけど、これはお察しの通り"著者言語"ではない。外山滋比古(とやましげひこ)氏の洞察を、僕が勝手に"自分言語"にしただけだ。良かれ悪しかれ、外山氏の洞察を覚えておける方法がこれしかないのである。 このようにして溜め込まれる"自分言語"は、僕の脳内で徐々に闘いを始める。 (※以下は前掲書には関係しない。)

 例えば A「この著者は、こう言っている」 B「しかしあの著者はこう言っていた」 C「そもそもこの主張には、こういう前提が抜けてるんじゃないか」という鼎談が、実際には「ここにはこう書いてあるけどあちらにはこう書いてあった、けれどあの本の主張に基づけば何か前提が足りていないんじゃないか」 という形で僕の脳内に出現してくる。すべての参加者が自分言語で話をしているから、全部で何人いるのか自分でもわからないのだけど、この「会議」の原型が囲碁にあることだけは、僕はしっかりと把握している。 こういう「自分言語化」は、囲碁以外の様々な場面で役に立つ。というよりも、ある人が「理解するとは、それを自分の言葉で言えるようになるということだ」と達見しているように、物事の理解の要はいつも自分言語化にこそある。それさえできれば、後はいくらでも鼎談法や思索法で応用が効く。だから例えば読書なら、その本はとりあえず「読み終えた」として本棚に戻すことができる。しかし「著者言語対自分言語」が0:10になると、両者の主張がいつの間にか齟齬しかねないので、それを調整するための機を見た読み返しは必要となる。 そのため「本を読み終えた」というのは、実は長期的な視座からでなければ言えない言葉だ。そして囲碁でも、「一局を打ち終えた」というのは終局したときのことではない。自分と相手の思索を盤上で詳細に分解し分析し、それぞれの着手が奏でていた旋律をすべて聴き取ることができた瞬間のことだ。もちろんそんな瞬間は滅多に来ないから、僕らはまた新しい一局を打ち始めて、次の「自分言語」を蓄える旅へと出発していくのだ。
 【第5話 囲碁訓と人生訓】

 囲碁には100点の手がない。これを、人生訓に繋げることができる。 "100点がない"とするためには、まず"100点"が何なのかを知らなければいけない。この稿での「100点の手」の定義は、「所与の盤面における最高の手」だ。 第3話で述べたように、所与の盤面は演繹法の"A"にあたる。その状態での最高手は、演繹法の"B"だ。しかし演繹法のBが最高であるためには、そもそもの前提たるAが最高でなければならない。Aが最高でないなら、そこから演繹されるBも最高にはならないからだ。 だから"所与の盤面"が最高であるためには、まず最新手の「A'」が最高でなければならない。そしてその「A'」が最高であるためには、その一つ前の着手「A''」が最高でなければならない。さらにその「A"」が……と、「最高の前提」を遡及する旅は、着手をどんどん巻き戻しながら進行していく。この小旅行は、ゲームが始まる前の状態、つまり「まだ何も打たれていない碁盤」に至り終息する。"まだ何も打たれていない碁盤が最高か否か"を問いはじめると話が変わってしまうので、ここで考えるのは「第一手が最高手たり得るか否か」だ。その答えが是なら、「所与の盤面における最高の手」は、論理的にその存在を認められる。しかし否なら、そこから導かれるどの着手も、論理的には最高にならない。そのため、最高手の存在を認めることもできなくなる。 そしてお察しの通り、答えは否である。「最高の第一手」は囲碁に存在しない。もし存在するなら、猫も杓子もそれを第一手に選ぶはずだが、ご存じの通りそうなってはいない。

 囲碁の第一手は、盤上361箇所のどこに打とうと完全に自由である。しかしその中でも、「最善手」に近いものならある。囲碁というゲームを一言でいうと「陣取り合戦」になるのだけど、この合戦では、土地の四方すべてを囲わなければ自軍の陣地と認めてもらえない。しかし海や山を背にするところなら、本来割くべき人手を他の場所に回せる分、合戦全体が有利になる。だから囲碁の第一手は、最初から二方を囲われた「隅」にそのほとんどが打ち下ろされる。仮にそういう手を最善手とすれば、第二手もまた最善手になり得る。そして第二手が最善手なら、第三手もまた最善手に・・・と、「最善手」であればその存在を論理的に想定することは可能だ。しかし「最高手」だと、そもそもの前提すら想定不能になってしまう。

 囲碁は、「最善手」を打ち続けたほうが勝つゲームだ。「最高手は絶対に打てない」、と僕ら碁打ちはよくわかっている。だから少しでも自分の手を「最善手」に近づけようと、実に健気な努力を重ねることになるのだが、その努力も報われないこと甚だしい。昔とある高名なプロが、「碁の神様が100知っているなら、俺は4か5しか知らないだろう」と嘆息したほどだ。仮に最高の存在を認めるなら、最善の質はその20分の1程度でしかないようである。 これら悲劇的(?)な事情により、碁打ちの心中には、いつしか「自分自身も絶対に最高ではない」という戒めが生じる。自分の着手が最高ではないなら、それを打っている自分も最高ではない。

 そしてこの戒めは、人生にも適用できる。つまり、自分の行動が完全でないなら、その主体たる自分も完全ではないという自戒が生じる。両者に共通して重要なのは、「最善を求める」というその姿勢だ。 最善手に近づこうとする努力「だけ」が報われるさまを、僕は院生時代、いやというほど目にしてきた。人生には囲碁のような勝ち負けはつかないが、最善に向けた努力は同じように重要だろう。それはつまり、自分自身との戦い、克己(こっき)という合戦の準備にあたるのかもしれない。人生には碁盤がないから、陣地の制限はないけれど、自分で四方を囲わなければいけない分だけ大変だ。それでも、19路という枠に人生を限定されてしまうよりはずっとマシだろう。 今の僕は、そんなふうに囲碁と人生を繋げながら生きている。そうすると、自分が院生時代に得てきた「囲碁訓」が、そのまま「人生訓」に置き換わってくれるからだ。その意味では、囲碁訓は僕にとって"宝の山"みたいなところがある。この「思い出話」は、それを掘り起こす掘削機のようなものなのだ。
 【第6話 陳腐化する戦術】

 囲碁の戦術は、いとも簡単に陳腐化する。 かつて「三連星」という戦術があって、その雄大さとわかりやすさから非常な人気を博したことがある。かくいう僕も、とあるネット対局場のハンドルネームを「三連星勉強中」にするくらいこの戦術に心酔していた。しかし碁界全体での使用頻度に比例して研究が深まった結果、今日ではこの戦術が用いられることはほとんどなくなってしまった。 現在では、三連星から派生するほぼ全ての局面が研究され尽くしている。それを互いが熟知している場合、三連星を使う側が不利になることはあっても、有利になることはまずない。つまり、三連星という戦術が陳腐化したのだ。そのためアマ有段者ならまだしも、プロが三連星を打つことは非常に少ない。かつての愛好者としては、さみしい限りである。

 この現象は三連星以外にも起こる。プロの世界では、「定石」と呼ばれる一連の石の動きすら日々陳腐化していく。定石を辞書で引くと「ある局面において双方にとって最善とされる一定の打ち方」とあるのだけど、それが陳腐化していくとは、つまり「最善」が日々変わっていくということだ。 かつての碁界では、お互いが充分に陣幕を張り、「すわ開戦」の掛け声で合戦が始まるのが普通だった。しかし今日では、戦法の主眼が「いかに相手に陣幕を張らせないか」に置かれている。それゆえ"定石"とされていた手順のうちの「陣幕を張る隙を与える手」が徹底的に糾弾され、「その隙を与えない手」こそが"最善"と云われるようになっている。

 比較対照のために、人類の戦争史を紐解いてみる。そこには、かつて専門職だった"傭兵"が武器の発達に従って一般化し、それゆえに戦争が「国家の総力戦」となっていく様子が描かれている。今日の碁界で起こっているのは、それに非常に近い。つまり全ての石を動員する「盤上の総力戦」でなければ、研究の発達した陣取り合戦に勝利することができなくなってしまったのだ。 陳腐化は、このような鳥瞰に限らない。例えばよく手を合わせる碁敵(ごがたき)にいつも同じ戦術を用いれば、相手はその対策を自然と覚え、こちらの思惑を外すようになっていくだろう。これは実際、院生時代によくあったことだ。前述の通り、そのころ僕は三連星という戦術に心酔していたのだけど、同じクラスの碁敵は皆その研究を終えてから僕との対局に臨んでいた。上のクラスの"化け物"ともなると、そもそもの土台から圧倒的に違うため、「勉強中」の僕では手も足も出なかった(同じ戦術ばかり使う僕が悪いのだけど)。

 戦術の移り変わりは斯様に早まっている。どれだけ特定の戦術を好きだろうと、それが陳腐化するのは碁の必然なのだ。それを乗り越えるために様々な研究努力が必要なわけで、仮にその努力を怠れば、「強い人」ではあっても「勝てる人」ではなくなってしまうだろう。 この点において、プロとアマには隔絶の差がある。僕らアマは「楽しければそれでいい」と後ろ十五度にもたれかかれるけれど、プロは前に十五度傾いて勝利を掴まえにいかなければならない。「この三十度は越えられない」とは、ネットとテレビの違いを評した元ソニー会長出井伸之(いでいのぶゆき)氏の言葉だが、囲碁にも当てはまるところがあると僕は思う。 とはいえ、その三十度にこそ"勝負の世界"の面白さが詰まっている。最高手は存在せず、最善手への接近も難しい。さらに、戦術が日々陳腐化する中で勝利を積み重ね続けなければならない。言語に絶する苦労と推察するが、それを平気の平左でこなすプロの方々は、やはり僕には「化け物」としか思えないのだ。
 【第7話 第一次創造力】

 
「全てのものは二度創られる。一度目は想像で、二度目は現実で」、という言葉がある。 一つめの「想像による創造」に必要な力を、ここでは"第一次創造力"と呼ぼう。だから二つめの「現実における創造」に必要なのは、ここでは"第二次創造力"だ。具体的には、第一次創造力は「企画力」や「想像力」、第二次創造力は「実行力」や「実現力」などを指す。 囲碁によって、このうちの"第一次創造力"が非常に高まる可能性がある。

 囲碁は非常に抽象的なゲームだ。将棋のように特定の動きをする駒があるわけでもなく、王を分捕るという具体的な目標もない。あるのは同じ色と形の碁石だけ、それらを使って目指すのも「相手より多くの地」という抽象的な概念だ。要するに囲碁というのは、「抽象手段による抽象目標の達成という、何とも抽象的な目的を持ったゲーム」なのである。 この抽象性ゆえ、囲碁に忌避感を持つ方も多いだろう。しかし、ここにこそ囲碁の魅力が詰まっている。先ほど「全てのものは二度創られる」という言葉を紹介したが、これは「全ての創造は"抽象→具体"の順番で進む」と言い換えることもできる。しかし囲碁には"具体"がないから、後者が"抽象"に置き換わってしまう。そのため"抽象→具体"という創造の順番が、囲碁では"観念→抽象"になる。これが、非常に大きい。 "観念"の定義は、「思考の対象となる心的形象」である。読みの最中、当人の脳内には現実世界にはない「もう一つの碁盤」が浮かんでいる。この碁盤が「心的形象」だ。つまり囲碁に要求される最大のものは、「心的形象に読みを加え、その結果を抽象次元に実現する」という、実に"第一次的"な創造力なのである。

 
囲碁における第一次創造力は「読みの力」、第二次創造力は「着手の力」である。しかし着手それ自体に能力を問われることはないから、「着手力」という言葉は囲碁にはない。そのため、問題となるのはいつも第一次創造力だけだ。 現実社会の創造は"抽象→具体"の順で行われるが、囲碁では"観念→抽象"の順で行われる。このことが、「現実社会における第一次創造力」を鍛える役割を果たし得る。囲碁を打つ人は「抽象→具体」という本来の創造範疇を「観念→抽象→具体」にまで拡げられるから、"その人が囲碁を知らなかった場合"よりも、第一次創造力がずっと高まっていると考えられるのだ。

 これは客観的評価ではなく主観的な実感だから、綿密な検証を行うのは難しい。しかし長年囲碁に没頭していた僕からすれば、この"可能性"は既に"必然性"に近い。あとは、「Q.E.D./証明終わり」に繋がるデータを集めればいいだけだ。 これからもし誰かに「囲碁ばかり打ってないで仕事しろ」と言われたら、「今第一次創造力を鍛えているところです」と返せばいい。ここまでで論証したように、それはあながち間違ってはいない。しかしもちろん、いくら第一次創造力が高まろうと、それが第二次創造に直結するとは限らない。この点すべての碁打ちに共通するのは、「第一次創造力を鍛えていると(囲碁)、第二次創造力を発揮する暇がない(仕事)」という相克だろう。とはいえ、質の低い第一次創造からは質の高い第二次創造は産まれないから、「鍛える順番」としては全くもって正鵠を射ている。その後当人がどういう経緯を辿るかは、盤外におけるまた別の努力の問題だ。
 【第8話 囲碁とフロー】

 「フロー」という概念がある。定義は、「人間がそのときしていることに完全に浸り、精力的に集中している精神的な状態」だ。嘘である。本当は「人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的状態」なのだけど、実に長いので注釈させていただいた。 この概念は、心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱したものだ。スポーツなら"ゾーン"、ビジネスなら"ピークエクスペリエンス"とも呼ばれているので、聞き覚えのある方も多いだろう。単純に日本語に訳すと「没頭」、禅用語を使えば「三昧」ともなる。 ミハイ・チクセントミハイの主張は、「フローを追求することが、人生の満足度に強く影響を及ぼす」という点に収束する。けれどもちろん、何にフローを感じるかは人それぞれ違う。彼はそれを見越して「構成条件」を7つ挙げ、「それを満たす活動に注力する」ことを方策として提示している。

 フローの構成条件は、次の7つだ(こちらにも多少の注釈を加えている)。 ①明確な目的→時間の経過と共に自分が何をしたいのかをわかっている ②即座の反応→ただちにフィードバックを得られる ③専念と集中→何をすべきで何をすべきでないかを理解している ④能力と難易度のバランス→活動が易しすぎず難しすぎない ⑤時間感覚のゆがみ→体感時間の消失や歪み ⑥自己意識の低下→日頃の現実から離れて忘我を感じる ⑦大きな何かとの一体感→活動に本質的な価値があるという確信 現在少年マガジンに「ベイビーステップ」というテニス漫画が連載されているのだけど、その中にもこの概念が「ゾーン」として登場する。主人公はコーチから「意識的に無意識になれ」という示唆を受け、その矛盾に混乱をきたす。けれど極限状態の試合中、その言葉の意味に気が付き、それによって次のショットに明らかな"変容"が生まれる。… 続きは当該書に譲ろう。フローを始めとした物事の「上達」に関する概念が非常にわかりやすくまとめられているので、僕はこの漫画が大好きだ。(※2014年5月現在、30巻まで単行本発売中。)

 このフローが、囲碁の中にも登場する。 登場するというより、フローを具現化すれば囲碁というゲームになると思わせるほどに、両者の親和性が高いのだ。そのことを、「7つの条件」と「対局中の心象風景」を対比させながら論証してみよう。まず、①の「明確な目的」からである。囲碁には相手がいるから「相手に勝つこと」がそれに思える。しかし実体は少し違って、「負けないこと」が囲碁における真の目的である。 第5話で述べたように、囲碁には最高手が存在しないから、勝つ方法は「最善手を打ち続けること」以外にない。言葉を換えると、このゲームは「先に綱から落ちたら負け」なのだ。"所与の盤面に最善手を打ち続ける"というのは本当に細い一本の綱を渡るようなもので、落ちるのは簡単でも、落ちないのは非常に難しい。 あるプロは、これを「囲碁は相手に負けてもらうゲーム」と表現している。また別のプロは、「勝ちは偶然、負けは必然」と述べ、勝負の世界の厳しさを我々に教えてくれている。「相手が先に落ちる」のは相手のせいだから偶然、「自分が先に落ちる」のは自分のせいだから必然、というわけだ。 囲碁における「勝ち」は、相手より長く綱に残っていた状態への消極的な形容に過ぎない。だから構成条件①の「明確な目的」は、囲碁では「綱から落ちないこと」となる。

 フローは精神的な概念だから、目的の明確さは当事者の感覚に依る。そのことが、構成条件②の「即座の反応」に繋がっていく。つまり対局者のレベルが上がるほど、「綱から落ちる可能性」への感覚が鋭敏になるのだ。これは自他双方において然りである。僕程度のレベルなら、どちらかが綱から落ちても気付かないことすらあるけれど、プロレベルではそうはいかない。体が「一度」傾いただけでも敏感にそれを察知し、即座に糾弾あるいは修正を図る。 言葉を換えれば、「自分の着手に対して"即座の反応"がある」ということだ。反応の厳しさは対局者のレベルが上がるほど増す。さらにこれは、構成条件④の「能力と難易度のバランス」にも繋がっている。相手と自分の能力が拮抗するほど、"綱渡り"の難易度も絶妙な均衡を保ち静止する。これは、アマでも変わらない。互角同士の対局なら勿論、実力差があっても「置き石」というハンデでそれを調整できるから、論理的には誰とでも綱渡り勝負を楽しむことができるのだ。

 
第5話で「克己(こっき)合戦」とも表現したように、囲碁というゲームは「自分との闘い」の側面が非常に強い。問われるのはいつも、「"自分の最善”という綱をいかに渡るか」だ。その難易度は、易しすぎず難しすぎない。「自分の最善という綱」は囲碁以外でも至るところに存在するから、首肯される方も多いと思う。中でも囲碁は、ゲームそれ自体が「綱」の構造を持っているために、構成条件④「能力と難易度のバランス」が欠ける心配はない。

 以上、①明確な目的/②即座の反応/④能力と難易度のバランスと囲碁の親和性について述べてきた。ここまでを一言でまとめると、「即座の反応の中、絶妙なバランスの上を、明確な目的を持ち進むのが囲碁というゲームだ」、ということになる。 そしてこの一言の中に、③専念と集中/⑤時間感覚のゆがみ/⑥自己意識の低下という三つの構成条件が詰まっている。 “最善の綱渡り”には極度の緊張を要求されるため、まず自然と自己意識が低下する (⑥)。これは"何も考えていない"のではなく、"碁盤に取り込まれている"状態だ。対局者の全神経は自己を離れて碁盤に宿る。対局中に「ぼやく」プロはとても多いけれど、何を言っていたのか思い出せる人はほとんどいないそうだ。"代弁者"と化した肉体が、勝手に"碁石の気持ち"を喋っているようなものなのだろう。 そのような状態になると、時間感覚も大きくゆがむ(⑤)。一局あたりの対局時間は、アマの場合一時間から一時間半ほどだ。その時間は、僕程度の棋力でも「矢のように過ぎる」。さらに時間のかかるプロともなれば、盤上の一時間は盤外の一分間にも等しいだろう。 これらの心象風景は、自分がすべきことの明確な理解から生まれる(③)。同時にこれは、何をすべきでないか理解していることでもある。ここまで述べたように囲碁を「最善の綱渡り」だと捉えれば、”すべきこと”と”すべきでないこと”はとても明確だ。前者は綱にしがみつくこと、後者は綱から滑り落ちることである。 7つの構成条件のうちもっとも難しいのは、最後の「大きな何かとの一体感」だろう。囲碁でこれを感じられるのは、対局者双方の死力を振り絞った着手が、碁盤全体を一つの「作品」にしていくときだけだ。 囲碁では、対局の記録を「棋譜」と呼ぶ。それを作品にしようと思えば、自分のみならず相手の力量も勘案されなければならない。両者阿吽の呼吸が見事に一致し、碁盤全体が"綱渡り"の様相を呈したときだけ、「大きな何かとの一体感」が双方に生まれる。

 
これは対局者だけでなく、棋譜を見るもの全員において然りだ。江戸時代に活躍した本因坊秀策は、この"綱渡り"における史上最高とも評される一人だが、彼の棋譜を並べていると、自分では邂逅すらできない「大きな何か」の片鱗を垣間見ることができる。 当時の対局には制限時間がなかったから、秀策の棋譜は文字通り考え尽くされた末に生まれている。彼は史上最も「大きな何か」に近づいた棋士の一人だが、その境地を棋譜並べだけで追体験できるのはとても幸せなことだ。

 事程左様に、囲碁とフローの親和性は高い。ただし重要なのは、「囲碁を打っていればフローになれる」ということではない。「囲碁によって、フローの感覚が徐々に細胞に焼き付けられていく」ということだ。 実は「ベイビーステップ」がゾーンの話に差し掛かったとき、僕はそれほど主人公に感情移入できなかった。囲碁によるフローを、院生時代からずっと体験し続けていたせいだ。 例えば「意識的に無意識になる」というコーチのアドバイスは、構成条件⑥の自己意識低下を意図的に行うことだ、と推察できた。そういう意識は囲碁を打つ人なら当たり前のように持っている。その意識を失った状態は「頭に血が昇る」と形容され、悪手乱発の引き金として碁打ち全員に忌避される。 それ以外のどの条件も、囲碁の中で何度も体験していた。どういう対局ならフローになれるか、という感覚的な条件も蓄積されていて、それを勝負に際し再現する試みを繰り返してもいた。フローの知識に照らし合わせれば、その試みは7つの構成条件を満たす試みと全く合致する。だからフローを一から習得しようとする「ベイビーステップ」の主人公には、どうしてもうまく感情移入できなかったのだ。

 とはいえ僕にとっては、囲碁が手段でフローが結果である。囲碁で得られたフローの感覚は、別の分野に応用されてこそ威力を発揮する。例えば読書なら、冊数を重ねると「フローになれる本」と「そうでない本」を見分けられるようになっていく。読書中のフローの有無は学習効率に大きく影響するから、僕はいつも「フローになれる本」だけを読むように心がけている。事後的に感じたフローが、活動の指針になることもある。僕の場合、「執筆」に対してフローを感じたのは事後的だった。ある時たまたま、まとまった量の文章を執筆する機会があって、その合間にふと"深いフロー"が自分に訪れていることを自覚したのだ。

 執筆を終えてから、7つの構成条件がどこに潜んでいたのかを分析してみた。その結果、ある特定の条件を満たす執筆作業は、囲碁より遙かに深いフローを自分にもたらすことがわかった。 そして、その作業をチクセントミハイの提言(フローを追求することが人生の満足度に強く影響を及ぼす)に基づいて生活の中心に敷設した。それに合わせて周囲の環境も調整したことが、僕の文筆活動の始まりとなっている。実は深いフローに気付くまで、文筆家を志すつもりなど全くなかったのだ。しかし、その「方向転換」は大正解だった。チクセントミハイの慧眼がなければ、今ほどの満足感は決して得られていないだろう。 囲碁によるフローを媒介に、僕の人生は文筆活動と繋がった。人生と囲碁が直接繋がっているわけではないけれど、囲碁が「フローを具現化したゲーム」ならば、人生に与える影響は斯様に強い(経験者談)。もしフローの実体験だけが目的だったとしても、囲碁はその時間効率に非常に優れる。食指を動かす理由としては、充分すぎるほどだろう。
 【第9話 大局観】

 「大局観」という言葉は、囲碁に由来している。その定義は、「物事の全体の動き・形勢についての見方・判断」だ。 「大局」を辞書で引くと、一つ目の定義が「囲碁で、盤面全体の情勢」、二つ目の定義が「物事全体の成り行き/全体の状況・動き」とある。大局の対義語は「局所」で、こちらの定義は「全体の内のある限られた一部分」だ。 囲碁の局所は、常に大局の中にある。当たり前のようだけど、これを本当の意味で理解するのが、実は囲碁上達の最大の鍵となる。

 僕は下手と対局するとき、この一点のみを凝視する。つまり、「この人は大局を見られるかどうか」だ。そうでない人、局所にこだわって大局を見られない人というのは、上手からすると非常にやりやすい。 囲碁では、「局所の有利が大局の不利になる」ことも「局所の不利が大局の有利になる」こともざらにある。だから局所しか見られない人が相手の場合、上手はそれを逆手にとれば、いとも簡単に大局を有利に導くことができるのだ。 この戦法の面白さは、下手に不利の自覚がない点にある。局所で有利になり続けているうちに、全体でも有利だと思い込んでくれるのだ。しかし上手からすれば、「どうぞどうぞ」と譲った局所の有利に相手が貪りついているうちに、どんどん大局を有利に進めてしまえばいいだけだ。そしてこちらの思惑に相手が気付いたときには、既に手遅れの場合が多い。盤上ことごとく上手の石が配置され、有利を取り戻せる「局所」はもはやどこにも存在しない。

 
こう書くと、「上手というのは何て性格の悪いやつだ」と思うかもしれない。だけど囲碁が強い人というのは大体こんなものだ。要するに「大局観の能力格差」が、囲碁ではそのまま「棋力格差」となって表れてしまうのだ。 僕が上手と打つときも、いつも「性格の悪い人だなぁ」と思う。これは囲碁においては褒め言葉なのだ。下手を良い気分にさせながら、上手は重要なところだけをしっかりと奪っていく。下手に見えないものが、上手にははっきりと見えている。その「大局格差」に対して、僕らはそういう言葉を悔し紛れに投げつける。盤上で弄ばれる下手の、盤外におけるせめてもの反抗である。

 
とはいえ、局所における絶対的不利は、大局においても絶対的に不利だ。だから囲碁の上達は、「局所の均衡を保つ知識」と、「局所を大局に繋げる感覚」の二つを養うことで達成される。実はそこらの碁会所でブイブイいわせている人というのは、ほとんどの場合前者で相手を負かしているに過ぎない。知識格差によって、局所有利を積み重ねて勝つというやり方だ。 僕は院生時代、碁会所でそういう人と何度も打った。彼等は知識を蓄えこそすれ、感覚の養成を全く怠っているように思えた。僕の要らない大局不利の局所有利を、喜々として掻き集めていくのだ。そして彼等の対局後の検討文句は、いつも「部分的には良かったのに」という嘆息で占められていた。 僕ら院生は、大局観の差によって、プロやそれに準ずる棋力の人たちに何度も痛めつけられてきている。その痛みから、軸足が大局から離れれば絶対に勝てないことを、いやというほど教えられている。碁会所にいたのは、両足を局所有利に突っ込んでしまった人ばかりだった。大局有利に全体重をかける僕らに勝てる人は、その中にはほとんどいなかった。

 いまの僕の表現を使えば、「知識」は足し算の力、「感覚」は掛け算の力だ。彼等は足し算で掛け算に挑み、「式の長さ」で勝っているのに「計算の結果」で負けることを、いつも不思議そうに見つめていた。何のことはない、ただ演算記号が違うだけのことだったのだ。 そして、そういう「感覚」は囲碁以外にもある。例えば人生における大局観は、「いまの自分の演算記号」を意識する姿勢のことかもしれない。囲碁でも人生でも、「式の長さ」より「計算の結果」に重点が置かれることに変わりはないだろう。ビジネスにも、同じことが言える。経営資源を「足す」か「掛ける」かの違いは、囲碁よりも顕著に結果に表れてくるはずだ。 結局、囲碁も人生もビジネスも、演算記号への意識が大局観の差となって現れ、大局観の差が結果の差として現れてくる。演算記号を含めた「式全体への意識」が、表現を換えれば「物事の全体の動き・形勢についての見方・判断」という大局観の定義になるのだろう。
 【第10話 碁石と時間】

 囲碁と人生の共通点は様々に語られる。実利と厚みの関係、欲張れば必ず付けが回って来る構造、あるいは呉清源氏が、それらを総括して"碁の真髄は調和にある"と述べたこと等々。 だけど、実はもっと直接的な共通点がある。「碁石」と「時間」の特性だ。 将棋の駒は、それぞれに特有の動きを持っている。飛車と桂馬は違うし、香車と角行も違う。そして王将を捕られれば、他の状況がどうあろうとゲームは終わりだ。 碁石にはそれがない。形も色も全て単一で、打たれた場所によってのみ価値が決まる。将棋でいう王将もないから、全ての碁石が一兵卒として陣取り合戦に参加するのだけど、働き方や役割はその配置によって大きく変わってくる。 もうお気付きと思うが、これは人生における「時間」の特性そのものだ。「形も色も全て単一で、打たれた場所によってのみ価値が決まる」。一日二十四時間は万人に共通で、それ自体に量や質の違いはない。使われる前は完全に平等だが、その価値は使われ方によって大きく変わる。 これは一個人においてもそうだし、他者との比較においてもそうだ。例えば「一時間」の価値は、テレビより読書に使ったほうがずっと高まる。囲碁でいうなら、同じ「一手」を馬草場に打つか大場に打つかの違いだ。 他人との違いも、時間の使い方で決まってくる。碁笥(ごけ)に入っているときは平等な碁石を、盤上において急所に打ち続けるか駄目に打ち続けるかの違いは、手数が進むほど顕著になる。同じように、使われる前は平等な時間を急所に使うか駄目に使うかの違いは、年齢を重ねるほど周りとの差を顕著にする。 碁石と時間の最大の違いは、「残数」を確認できるかどうかだ。碁石の残数を知りたければ、ただ碁笥をのぞき込めばいい。もし足りなくても、周りの碁笥からいくらでも拝借できる。時間はそれができない。残数を知ることもできないし、周りから拝借することもできない。全ての人が完全に固有の「時間碁笥」を持ち、そこから一手ずつを人生に打ち下ろしている。一旦打ったら変更が利かないのは囲碁と同じだけど、時間は碁石と違って強制的に打ち下ろされる。僕らにできるのは置き場所を選ぶことだけで、着手を速めたり緩めたりはできない。

 そして、僕ら碁打ちは碁石の「働かせ方」を知っている。ならばそれは、時間の「働かせ方」にも応用できるはずだ。 布石の段階なら、碁石は大場にあったほうがいい。人生の大場はどこにあるのか。碁石が"良い形"になることは常に大事で、"良い習慣"を持つことも同じくらい大切だ。どちらも、闘いになったときこそ真の力を発揮する。 闘いになれば、碁石は"急所"に来なければいけない。人生における"急所"は何か。わかっていたとしても、そこで実際に時間を使えているかどうか。 絶対に取られてはいけない石を、囲碁では"要石(かなめいし)"と呼ぶ。人生において、自分を自分たらしめている「絶対に取られてはいけない時間」を確保しているかどうか。確保できていないにしても、せめて認識や把握をしているかどうか。 「一石碁に負けなし」という言葉があるほどに、碁石の連絡は重要視される。「一生を貫くような継続」を、何かに対して行っているかどうか。 序盤・中盤・終盤どの段階でも、"急場"呼ばれる天王山が常に存在し得る。一旦逃せば、もう取り返しはつかない。前髪しかない女神がくれる"チャンス"も、いつも一回きりしかない。 碁石と時間は、かくも本質的な特性を共通点として持っている。 それならきっと、囲碁と人生もどこか深くで共通しているはずだ。碁盤を、人生だと捉えてみる。そこに、碁石という時間を打ち下ろす。 「形も色も全て単一で、打たれた場所によってのみ価値が決まる」 この言葉を噛みしめながら。 盤上に現れる景色は、きっと今までとは少しだけ違うだろう。 それを味わえるのは、「碁打ち」だけの特権だ。
 【第11話 後書きに代えて】

 この本の元になったブログは、院生友達の囲碁普及活動に役立てようとして始めたものだ。だから出てくる話も自然と囲碁礼賛調になってしまったけど、実はそれほど素晴らしいゲームというわけでもない。難しいし時間はかかるし、負けると物凄く悔しいし。ほとんどの方が囲碁に抱くイメージも、「地味」「難しそう」「面白くなさそう」という類のものだと思う。実際、囲碁普及の最大の難関もいつも入門にある。とっかかりが一番難しくて、そのあとはどんどん簡単になるのだ。だから普及活動に携わる人は、「いかにその壁を越えてもらうか」に心血を注いでいる。でもたぶん、人の力を借りて乗り越えた人と、自分だけの力で乗り越えた人とでは、入門後の足取りがずいぶん変わる。自分だけの力で最大の難関を乗り越えた人は、その達成感をばねにどんどん先へ進んでいける。それは、囲碁に限らずそうだと思う。

 
僕が囲碁を始める可能性は、ヒカルの碁を読むまでゼロだった。周りに囲碁を打つ人はいなかったし、小学校にあった碁盤でも五目並べしかしなかった。しかし少年漫画の力で、最大の難関をあっさりと越えることができた。すると眼前に、黒白の宇宙が突如魅惑的に広がった。僕は瞬く間にその世界の虜となった。ただの碁石が突然旋律を奏で出す、何気ない一手が物語を紡ぐ。それを何とか一曲にしたい、一つの物語に仕上げたい、そんなことを考えながら囲碁にのめり込んでいくうちに、僕はいつの間にかとても強くなっていて、気付けば院生の門をくぐっていた。その後の話は、本文に書いた。結局言いたいのは、囲碁の面白さは物語の面白さなのだ、ということだ。まったく脈絡がないように見える石が、実は碁盤の裏で繋がっている。自分と相手の棋譜が、一つの完成された物語となって歴史に残る。その面白さに、僕は虜になっていた。

 
院生の手合というのは、一日に多いときで四局ある。一局あたりの手数は平均して200手だから、四局なら800手ほどになる。僕はそのすべてを、家に着いてからそらで再現できた。一週間後でも、まだできた。やれと言われれば、一ヶ月後でもできただろう。なぜなら、すべての棋譜に物語があるからだ。登場人物も起承転結も全部わかっている物語を再現するのは、実はそれほど難しくない。だけど囲碁を知らない人からすれば、それは神業にしか見えないらしい。僕がしていたのは、自分で紡いだ物語をもう一度なぞりなおすことだけだ。それをすごいと言われた理由は、実は今でもよくわかっていない。人生に物語がない人などこの世に存在しないのだから、それをいつも通りに喋るのと、要領としてはまったく変わらない。物語は英語でstoryと書く。語源はラテン語のhistoriaで、この単語の意味は「調査によって学んだり知ったりすること」だ。歴史のhistoryもこれが語源だから、両者は意味もスペルもよく似ている。囲碁は物語で、人生だって物語だ。そして物語が歴史と祖を一にするなら、囲碁と人生も、やはりどこか深いところで繋がっているのだろう。(了)

  / 囲碁と経営―大局観と局所力」。
 戦士が軍師になるのは、とても大変です。それは能力の所以ではなく、位置関係の所以です。戦士は最前線で敵と闘っていますが、軍師は少し離れた小高い丘の上から戦局を俯瞰するのが役目です。戦士に求められるのは局所力、軍師に求められるのは大局観です。いざ敵を眼前にした戦士が目の前の敵に集中していなければ、すぐさま体に刀を突き込まれてしまいます。ゆえに、「現場でいかに闘うか」の局所力を鍛えねばなりません。丘の上から戦場を見下ろす軍師が全体を俯瞰できなければ、全軍のうちに戦局を把握できる人間がいなくなります。ゆえに、「闘いをどう勝ちに繋げるか」の大局観を磨かねばなりません。そして何より重要なのは、「局所力と大局観の両方がなければ、闘いに勝利することはできない」ということです。両者に優劣があるのではなく、両者が揃って初めて、勝利の芳香は戦場から立ち上りはじめるのです。囲碁でそれを嗅ぎ取ろうと思えば、碁石に戦士の役目を、自身に軍師の役目を、明確に担わせなければなりません。それができたときに初めて、アマ高段者の扉が盤上に姿を現します。
 経営でも一緒です。戦術の鍵で戦略の錠を開けるためには、最前線で闘う戦士と、全体を俯瞰する軍師の両方が必要です。どれだけ立派な戦略を立案しようと、実際にそれを現場で遂行する戦術がなければ、すべては絵に描いた餅で終わります。反対にどれだけ強力な戦術があっても、それを成功に結びつける戦略がなければ、すべては空回りで終わります。戦場では、戦士が軍師になるのはとても大変だと書きました。しかし囲碁なら、一局のうちに100回ほども、「戦士の役目」と「軍師の役目」を往来しなければなりません。本気の対局に勝利を収めようと思えば、どちらかをおろそかにすることなど、とてもできないからです。ゆえにアマ高段者になったとき、その方は必然的に、「局所力の鍛練」と「大局観の養成」の両方を成し遂げていることになります。重要なのは、そのすべてを「実際の経営」ではなく「碁盤の上」で行うことができる、という事実です。囲碁と経営に斯様な相関があるのなら、「囲碁を嗜まない経営者」の方は、その時点で大きなリスクを抱え込んでしまっていると考えることもできそうです。なぜなら「実際の経営」と「碁盤の上」では、成功と失敗に対する社会的なリスクの質量が、まるで異なってくるからです。 
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  / 一人の経営者として重要な資質は、すべて囲碁で学べる」。
 囲碁の面白さの眼目は、このような「独りよがりの否定機能」が、あらかじめ盤上に組み込まれているところです。フィードバックは、どんなに遅くとも10分以内には返ってきます(一手打つのに10分以上考えるアマチュアはほとんどいません)。同じようなフィードバックを経営で得ようと思えば、一週間か一ヶ月か、もっと長ければ一年以上の時間を必要とするでしょう。意思決定のPDCAを回そうと思うのなら、フィードバックは速いに越したことはないはずです。 

  / 第二領域―囲碁とタイムマネジメント」。
 緊急ではないが重要なこと。上の一文を読んだだけで、スティーブン・R・コヴィー氏の名著『7つの習慣』が彷彿とする方は多いと思います。コヴィー氏はタイムマネジメントに関して、「緊急」と「重要」の二軸からなる四象限のマトリクスの、「右上にある事象」に注力することを提唱しました。それは今日、「第二領域」という言葉で広く知られています。第一領域から第四領域までの定義は次の通りです。 

第一領域→緊急かつ重要なこと
第二領域→緊急ではないが重要なこと
第三領域→緊急だが重要ではないこと
第四領域→緊急でも重要でもないこと 

 実は「第一領域」から「第四領域」までのすべてを、囲碁で学ぶことができます。それを確認するために、形式名詞「こと」を、囲碁における「手」に置き換えてみましょう。 

第一領域→緊急かつ重要な手
第二領域→緊急ではないが重要な手
第三領域→緊急だが重要ではない手
第四領域→緊急でも重要でもない手 

 これら四種類の「手」は、実際の盤上に何度も何度も表れます。同程度の相手と対局しているとき、第一領域あるいは第二領域の手しか出てこなければ高段者かそれ以上、第三領域の手が混ざっていれば低段者から上級者、第三領域と第四領域の手が混在しているならば初級者、という棋力の分類も可能です。
 タイムマネジメントにおいて「第二領域の時間」が人生を豊かにするのと同じく、囲碁でも「第二領域の手をいかに増やすか」が、そのまま盤上の豊かさを決定します。「緊急ではないが重要な手」というのは、「盤上で一番大きな手」と同義です。第一領域たる「緊急かつ重要な手」も、「盤上で一番大きな手」と同義です。つまるところ、「重要」とは「盤上での意義の大きさ」の謂なのです。碁石の体積は終始変わりませんが、意義は明らかに変動しています。対して「緊急」は、「盤上での動きの大きさ」の謂です。初級者から低段者の方は、「いま戦いが起きているところ(碁石が集まっているところ)」の近くに反射的に石を置きがちですが、高段者以上になると、「いかに手を抜くか(より重要な箇所に先着するか)」を常に重要視しています。盤上における「動き」と「意義」は、明らかに別ものなのです。緊急を動きに、重要を意義に置換して、第一領域から第四領域までを再確認してみましょう。

第一領域→動きも意義も大きい手
第二領域→動きは小さいが、意義が大きい手
第三領域→動きは大きいが、意義は小さい手
第四領域→動きも意義も小さい手 

 高段者は、「動きも意義も大きい手」「動きは小さいが、意義が大きい手」しか打ちません。低段者から上級者は、「動きも意義も大きい手」「動きは小さいが、意義が大きい手」に加えて、「動きは大きいが、意義は小さい手」をしばしば打ち下ろします。初級者は、「動きは大きいが、意義は小さい手」「動きも意義も小さい手」を盤上に多数出現させます。それはそもそも、「意義の大小」に関する知見と経験値が不足しているからです。そこさえ指導者が補えれば、上級者への飛翔は一瞬です。
 最後にこれらを、再び『7つの習慣』におけるタイムマネジメントの概念に戻してみましょう。 

第一領域→動きも意義も大きいこと
第二領域→動きは小さいが、意義が大きいこと
第三領域→動きは大きいが、意義は小さいこと
第四領域→動きも意義も小さいこと 

 第二領域に注力すればするほど、人生は豊かになります。小さな動きで、大きな意義を獲得することができるからです。同じく第二領域に注力すればするほど、盤上は豊かになるのです。相手に比した際に、最小の手数で最大の陣地を獲得することができるからです。

  / 人類史上、最深にして最高のシミュレーションゲーム」。
 碁石の抽象性は、「シミュレーションゲーム」の観点から囲碁を捉えたときに最大の効力を発揮します。碁石には、将棋の駒のような具体性がありません。一つずつの黒石は、一つずつの黒石以外の何ものでもないのです。飛車のような駆動力や桂馬のような跳躍力を、碁石に担わせることはできません。つまり、碁石は動けないのです。加えて、すべてが一兵卒です。守るべき将や、守られるべき王は、碁盤の推移とともに刻々と生まれて消える「概念」に過ぎません。それゆえに一つの碁石が、一局のうちに「王将」から「歩」までのすべての役割を経験することすらあり得ます。一言で言えば、時間の経過に伴って、碁石の価値はめくるめく変化するのです。この抽象性や変幻性は、例えばテレビで流れている囲碁を見たときに、「何が起きているのかわからない」とほぼ全員が感じる主要因となります。むろん傍観者としては、それでOKです。しかし対局者になった瞬間、「何が起きているのかを理解しなければならない」という盤上への責任が発生します。なぜなら、抽象的な碁石一つ一つはすべて自分の決断で配置されたものであり、それらに具体的な役割を担わせたのは、どこまで行っても当事者である自分一人の責任だからです。 
 これらの事情を、「シミュレーションゲーム」の観点から捉えなおしてみましょう。現実世界において、将棋のように「王飛角金銀桂香歩」が見事に揃ったチームを編成できる可能性はほとんどありません。相手もまったく同じチームを編成している可能性となれば、さらに低まります(というより、ゼロと断言して構いません) 

 であるならば、極めて抽象度が高く、理解に時間がかかる代わりにどのような具体事物にも例えることができ、さらに碁石それぞれの価値が時々刻々と変化していく囲碁のほうが、「シミュレーションゲーム」すなわち『現実または架空のシステムをモデル化し、そのモデルにのっとって行うゲーム』としては秀逸です。 

 つまるところ囲碁においては、シミュレーションゲームの構築条件である『現実または架空のシステムのモデル化』が、既に物凄く高いレベルで達成されているのです。あとは囲碁の楽しみ方を知るだけで、すべての事物をシミュレートできる体制が整います。 

 「すべての事物」は、むろん実際に囲碁を楽しむ人に依存します。ある人はビジネスかも知れませんし、ある人は合戦かも知れません。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、その他名だたる武将や軍師たちが、合戦のシミュレーションを囲碁で行っていたことは広く知られています。あるいは成長、あるいは恋愛。囲碁がシミュレートし得る事物は、およそ膨大な範囲に及びます。その正確さは、3000年を超す囲碁の歴史によって既に証明されています。それゆえ僕は消去法によって、囲碁を「人類史上、最深にして最高のシミュレーションゲーム」と呼ぶのです。

  / 「ルールがわからない」のではなく、「打ち方がわからない」のである
 「囲碁はよくわからない」と、様々な場所で言われます。その言表は、しかし正確ではありません。というのも、そのように述べる方のほとんどが、実は「既に囲碁のルールを知っている人」だからです。囲碁が嘆息の対象となるとき、わかられていないのは「ルール」ではなく、ほとんどの場合「打ち方」です。囲碁のルールは、突き詰めれば二つしかありません。どちらも、「囲」という漢字が大きく影響しています。一つ目のルールは、「石を囲むと、石を取れる」です。二つ目のルールは、「交点を囲むと、陣地を取れる」です。以上、終わり。ルールはこれだけですから、それ以降の悩みはすべて「打ち方がわからない」の範疇です。 

 一つ目のルール、「石を囲むと、石を取れる」は、国家における軍事に相当します。人類の戦史が証明してきたように、軍事力なき国家の安定はほぼ夢物語です。囲碁でも「石の接近戦」における能力を蓄えておかなければ、自国の安定はあり得ません。破壊され蹂躙され、焼け野原だけが残ります。 

 二つ目のルール、「交点を囲むと、陣地が取れる」は、国家における国土に相当します。囲碁の目的(=勝利の条件)は、「相手を上回る国土を確保すること」です。それゆえどんなに軍事力で勝ったとしても、政治力で破れることが往々にしてあります。際限のない軍事費の拡大が国家の衰退を意味するように、陣地を忘れて接近戦に拘泥する姿勢は、勝利を遠ざけることを意味します。 

 つまるところ、囲碁とは「国土を広げる政治」のメタファーなのです。軍事力は蓄えておかなければなりませんが、その行使は絶対条件ではありません。相手国と協定を結びながらも、国境線でのみ主張を押し通し、小さな得を積み重ねて勝つことも可能です。お互いの軍事力が膨大になるほど、全面的な戦争がただちに国家の消滅に繋がる確率も高まるからです。 

 ・・・と、ここまで読んでくださったあなたは、既に「囲碁のルール」の何たるかを明確に理解しています。あとは「打ち方」、すなわち実際に軍事力や政治力を高めていく段階です。 

 ちなみにここでいう政治は、必ずしも民主主義を意味しません。一人の決断にすべてがかかっているという点で、むしろ専制主義に近いものです。その決断をより正確にするために、外の意見を取り入れるべく議会を構成し、脳内に「自分なりの囲碁憲法」を作り上げて民主主義へ発展させていくこともできるでしょう。あるいは自由帝政を志向するか、はたまた権威帝政を押し通して上達の可能性を放棄するか。すべては、あなたの決断です。






(私論.私見)