勝負 囲碁吉の天下六段の道、勝負編

 更新日/2017.3.2日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「囲碁吉の天下六段の道、勝負編」を書きつけておく。 

 2005.6.4日 囲碁吉拝


 その3、勝負
素直、平明、愚直と気合の反発、無用の反発の巧拙
好機、戦機、勝機、締め機を知れ。勝負勘、手どころ勘を磨け
勝負強さ考
石の心、盤の声考
神の一手考
痛恨の一着、虚の一手考
囲碁体操考
やけにならなければ道はあるもんだ
楽して勝てる碁はない
飛ばす時の弓同様に石も一杯に張らねばならない
ホッとした後が危ない
石を取らされて碁を負かされるほど侮辱はない
勝負の決め方の芸を磨け
真空切り
勝機を捉え、チャンスの女神を掴まえなさい
勝つと負けでは天地の差。勝ち碁を勝ち切りなさい
勝って奢らず負けて腐らず

【棋道講座その№、反目勝てば良い】
 「反目勝てば良い」。その通りである。その裏意味は、「大きく勝とうとして無理するな」である。これもその通りである。

 2017(平成29).5.8日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、素直(平明愚直)、気合の反発、無用の反発の巧拙】
 「素直(平明愚直)、気合の反発、無用の反発の巧拙」。これが囲碁上達の機微である。素直であるべきところでは素直に平明愚直に打ち、反発すべきところでは気合で応戦し反発する、無用の反発はしない、と云う石の調子が大事である。その兼ね合いの噛み合い方が棋力だろうと思う。「素直(平明)、気合の反発」の歯車の調子が良いのを「碁が明るい」と云うのではなかろうか。下手になればなるほどこの歯車を逆に回し、云うことを聞き過ぎたり無用の反発したりで自滅する。自戒しているところである。いずれにせよ、囲碁は素直(平明愚直)のイエス路線と反発のノー路線の兼ね合いを楽しむ応酬ゲームであり、この芸に習熟するところに値打ちがあると考えている。これを芸術的にこなすのがプロの技であり味わい深く見て楽しい。下手の碁は逆である故に目を覆う。そういうことではなかろうか。

 補足しておけば、生き死にが絡んでいる場合には辞を低くしてただひたすらに生きなければならぬ。素直とか反発以前の話しと心得、黙って目を持つぐらいが良い。洒落た生き方はコウ材に使われることがあり、そういう意味では、同じ生きるならコウ材に使われことがないように手堅く生きなければならない。これが今日の反省である。

 無用の反発についても一言しておく。形勢が良い時に無用の反発で台無しにすることがある。形勢が良ければイエス路線で味良しにすれば良かろう。欲深く更に儲けに行って失敗するのは愚かであろう。検討すれば、どの手がそうか得心しよう。生きれば勝ちのところでわざと手を抜いて居直り、相手に必死になって攻めさせたところ、頓死させられ負ける場合がある。これも「素直さが足りない」好例だろう。

 2002.2.4日、2013.6.3日 囲碁吉拝

【着手法その№、好機、戦機、勝機、締め機を知れ】
 「好機、戦機、勝機、締め機を知れ」。これはどういうことか。一局の碁をのんべんだらりと打つのではなく、まず好機、次に戦機、次に勝機、最後に締め機を知らねばならないと云う教えである。これは囲碁吉の言葉であるから権威は何もない。囲碁吉は、これを言い聞かせて打とうとしている。この後、囲碁吉の腕が上がりまくれば流行る言葉になるかも知れない。これを解説しておく。

 好機とは、戦を挑む格好の時機を見つけることを云う。早遅はあろうが、どこかで掴むべきである。好機が来たら次の戦機に向かうタイミングを計らねばならない。戦機では戦って勝つ術を覚えなければならない。戦機を安全策ばかりで乗り切れるのは相手が弱いからであり、相手が強くなればなるほど戦いが険しくなる。この戦機を次の勝機に持って行かねばならない。勝機とは、戦機を経て勝ち形に持って行くことを云う。最後が締め機になる。ここで勝ちました宣言の形に持って行く。これを締め機と云う。このローテンションで打ち進めるのが良いと思うので次より実行することにする。

 2015.08.30日 囲碁吉拝

【着手法その№、勝負勘、手どころ勘を磨け】
 打ち進めるうちに手どころを迎え、「ここ一番」の局面に出くわすことになる。これを掴むのが勝負勘である。勝負勘が磨かれておれば、この局面が正念場であると感じることができる。この機会を正しく掴むことにより果敢な攻め、あるいは守りに才能を発揮し、形勢を一気に有利に導くことになる。勝負勘を磨いていなければ、せっかくのチャンスを見逃し不意にしてしまう。その差が大きいと心得るべきである。

 2015.08.30日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、勝負強さ考】

【棋道講座その№、石の心、盤の声考】
 囲碁に対する新たな知見を得たので記しておく。囲碁の着手に必要なことは石の心を聞くことである。これを「石心」と云う。これは既に云い慣らされている囲碁名言である。もう一つ、石の心に加えて盤の声を聞きたい。これを仮に「盤声」と云う。もう一つ、「心の声」。そういう意味で今後は「石心」と「盤声」、「心の声」を踏まえたい。これを仮に「囲碁の三神」と命名しておく。碁打ちは、「囲碁の三神」(石の神、盤の神、心の神)の啓示に耳を傾けねばならない。その導きを得るために、それ以前の要素として礼儀作法、定石手筋、精神(闘争力、調和力、統合力)、判断(判断力、決断力)があり、これを踏まえた先に石の神、盤の神、心の神が待ち受けているのではなかろうか。この神の眼鏡に適うと「閃(ひらめ)き」が生まれ「神の一手」を授かるのではなかろうか。さしずめ「耳赤の手」なぞはこれではなかろうか。一局のうちにこの「神の一手」を見いだし打てるかどうか、これが囲碁の醍醐味ではなかろうか。これらを総称して仮に「囲碁の三神論」と命名しておく。

 補足しておけば、石心、盤声、心声を聞くのに、その前提として「頭を常にやわらかく意地を大きく持て」の心構えが必要である。盤上の局面がどんどん変わる、その中での次善の手、最善の手を追求するのだが、局面が変わっているのが分かりきっているのに意地になって昔の読み筋を通すと云うような愚かな手を打ってはならない。これは碁以前の精神鍛錬に関係しているのだが、こういう例がままある。

 「囲碁の三神論」にはどういう効能があるのだろうか。これは、人間思案では割合早くの手仕舞いで部分部分を解決して行くところ、石心、盤声、心声を聞いて、どんどん大きく攻め合い含みまで持って行く。仮に攻め合い負けになっても締め付けになったり、その締め付けが利いて反対側の相手の石が弱くなっており、捕捉することができたりする。2015.2.20日、今日の碁でそういう局面ができた。最初は気づかなかったが途中で手が見えてきて、その狙い通りに石を運び召し取ることができた。当初の取られた石が20目、後で取った石が15目、但しダメがすごく空いているので却って儲けている。「石心、盤声、心声を聞くべし」と云うことになる。

 2014.4.26日、2015.1.28日再編集 囲碁吉拝

【棋道講座その№、神の一手考】
 ここで「神の一手」について触れておく。「神の一手」とは、打ち手の意識を超えるかの如くの閃きによってもたらされた神の導きの手を云う。対局でこういう手を呼び込み勝着とすることが肝要である。これにつき既に石心、盤声について言及している。ここでは「神の一手」について述べておく。「神の一手」は「絶対の一手」を云う。これとは逆に選択肢を増やし着手に幅を持たせる「神の啓示手」と云うものがあるように思う。この両者を合わせて仮に「神の手」と云う。差し手は19路×19路の361路の球面から汲み出される複数が用意されており、打ち手は、その中の最も相応しいと思える手、あるいは好みの手を判断、感覚、決断することにより選び着手する。これが次から次へと繰り返されて一局となる。この間、留意すべきこと第一は手を戻すべきところは戻すことである。「風格」のところで述べたが先走りし過ぎてはいけない。厚く打つところに神の手が宿る気がする。次に局面でピッタリのところを探して打つ。次に局面から浮き上がる打ちたいところを探し、最高のタイミングで打つように心がける。この流れの中から「神の手」が生まれる気がする。これを関連づけると、普通は選択肢を増やし着手に幅を持たせる「神の啓示手」に導かれ、いざ喫急の時に絶対の着手としての「神の一手」を見いだすと云うことかも知れない。

 但し、「神の手、神の一手」を強調し過ぎると哲学的、宗教学的な意味で神秘論に入り込むことになる。何事も加減が大事で、囲碁吉は、技術論、修身論の果てに「神の手」があると思っている。故に、技術論、修身論を鍛えた果てに「神の手」を呼び込む祈念をする。現にこういう体験をしているので理屈ではない。

 2014.4.26日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、痛恨の一着、虚の一手考】
 「神の手」の逆は「痛恨の一着」である。不意に手拍子で打つ悪手のそれと熟考の末のポカ手の二通りが考えられる。「神の手」を呼びこめられるか、「痛恨の一着」を防ぐことができるかで二子違うと思う。あるいは勝率が5割方変わると思う。これはプロでも同じであろう。

 「虚の一手」もある。形勢5分のまま両者ギリギリの折衝を続けている時、何気なくよそ行きの手を打ってしまうことを云う。それは攻めの急所逃しの手であったり、守りの肝要な手外しの手であったり、戦線逃亡の手であったりする。結局は棋力通りになる訳であるが気をつけねばならない。

 ここ一番の肝腎な時に、神の一手が出るか手拍子の悪手が出るか、雲泥の差である。この辺りは平素の稽古により鍛えておく必要があろう。

 2014.4.26日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、囲碁体操考】
 負け怖じしない心地良い緊張感と石心盤声を能くする為には、心と体を柔らかく保持することが肝要である。心と体を柔らかくするとはどういうことか。これは心と脳と体の働きの交互関係を知り、それらのコンディションを良くする為に必要な営為である。心と脳の働きのコンディションを良くする為に特に首周り、肩周り、腰周り、を柔らかくしておかねばならない。これにつき、囲碁吉の実際の経験で、適当なパイプ棒を持って剣道の素振りをした後に対局に臨み思わぬ成果を得たことがある。してみればストレッチ体操なぞも良いのではなかろうかと思われる。食事法と一緒で、各自が相応しく考案されるのが良いと思う。このことに気づいてトレーニングしている者と気づいていない者の差が大きい。そういう観点からプロの生態を窺うと、やはりこちらもプロで、ちゃんと励んで居られる者が多いので感心させられる。

 2014.4.26日、2015.1.28日再編集 囲碁吉拝

【棋道講座その№、やけにならなければ道はあるもんだ】
 やけにならなければ道はあるもんだ。その通りである。ここが碁の魅力の一つでもある。

 2015.1.19日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、楽して勝てる碁はない】
 楽して勝てる碁はない、この言も添えておく。序盤から終局まで粗略なく打ち続けて勝利することができる。これは当たり前の定法である。そういう意味で、粗略なく打ち続けることができる手数と時間の持久力を身につけねばならない。道中、形勢が良くなると浮かれて口に抜け出すようなことでは修行が足りない。

 2015.10.07日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、飛ばす時の弓同様に石も一杯に張らねばならない】
 「飛ばす時の弓は石も一杯に張らねばならない」。攻めの際に、かなりの成功を収め、もうこれぐらいで良いだろうと軍を引き上げるのは甘い。「これぐらい」の感覚にもよるが、先手で寄せられるところまで目一杯稼いで相手を極度の緊張状態に追い込まねばならない。相手にホッとさせ余裕を持たせると追い込みの逆転打を打たれることが多い。相手が焦るところまで追い込み、焦りの手を誘わねばならない。これが勝負勘である。

 2016.02.05日 囲碁吉拝

【棋道論その№、ホッとした後が危ない】
 窮地を脱したときとか、勝ちが見えてきたときの「ホッとした後が危ない」。特に、こういう時にものをいうと碌なことがない。恐らく集中力が切れ、そういうときには思わぬ見落としの手がある故にだと思う。

 2016.2.15日 囲碁吉拝

【棋道論その№、石を取らされて碁を負かされるほど侮辱はない】
 「石を取らされて碁を負かされるほど侮辱はない」。

 2016.2.15日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、勝負の決め方の芸を磨け】
 プロの碁を見て気づかされたのだが、勝負の決め方にも芸がある。ほぼ間違いなく仕留めることができる態勢に持っていったとして、そこからでも一直線には決めにいかない。これを完璧に仕留めるために、もう一つの弱い大石を突き、その応接の綾で狙っている大石の外堀を埋めていく。要するに次第に首が絞まる仕掛けにしている。なるほどなぁと思った次第である。

 2015.8.19日 囲碁吉拝

【棋道講座その№勝利宣言は控え目の手でする】
 勝利宣言も仕方が難しい。実践的には、味悪の箇所を消す控え目のところへの手入れで勝負を決める。これが勝利宣言となる。初心者は逆をする。目いっぱい張って、さぁ入って来いと見得をきる。実際に入ったに手にされて元も子もなくしてしまう。相手の侵入を許さず、少しの目減りは良い、それでも残っているとする地点に着手して勝利を決めるのが勝利宣言の手である。と自戒せねばならない。

 2016.10.26日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、真空切り】
 県下の最高トップの打ち手に4子局で教えてもらい、真空切りでヤラレタ。真空切りとは、何かこちらがじたばたしただけで、相手の空気圧に押されて結局は負けてしまった。これを名づけて真空切りと云うことにした。実に味わい深いものがある。

 2015.9.6日 囲碁吉拝

【棋道論その№、勝機を捉え、チャンスの女神を掴まえなさい】
 囲碁に限らずであろうが勝負事はチャンスの女神が訪れるように打ちまわさねばならない。そして女神が訪れた時、この機会を逃さず、女神にきちんと挨拶し、女神の前髪を掴んで来訪に応えねばならない。この機会を逃して後ろ髪を掴むとスルリと逃げてしまう。これを「幸運の女神には前髪を掴むしかない。後ろ髪を掴むとスルリと逃げられてしまう」と云う。

 これを手の解説ですると、相手が隅の守りのカケツギをする余裕がなく他の手を打ったとき、当然その手が当方のハサミツケ又は三三入りの手よりも大きな手であることを要する。そうであれば受けざるを得ないが、そういう手がいつまでも続く訳ではない。相手が更に他所へ打ち続けると、当方のハサミツケ又は三三入りの手番がやって来る。この機会を絶対逃してはいけない。相手に他の好点を打たせた挙句、当方がそれに付き合いし、その挙句にカケツギさせるようなことでは勝てない。これはある種の催眠術に入れられている格好である。

 勝機とはどういう状態のことか。思うに、石の連続折衝で、必然的に相手が受けざるを得ず、しかしながら受けると相手の思う壷にはまリ、更に具合の悪い状態に入るので受け切れないような局面を云う。これをずるずると打つ者は弱い。強い者は思い切って手抜きし転戦する。この時が勝負である。相手が受けるべきところを受けなかったのだから手抜きをとがめるのが良い。仮に受けても一刻も早く手抜きを咎める手に戻さねばならない。この一点に勝負の分かれ道があるように思う。

 2015.07.06日 囲碁吉拝

【棋道論その№、勝つと負けでは天地の差。勝ち碁を勝ち切りなさい】
 「勝つと負けでは天地の差。勝ち碁を勝ち切りなさい」。勝ち碁を落とすことはよくある。プロでもある。そういう意味で勝ち碁をきちんと勝ちきる仕上げ方が肝腎である。その為には優勢を維持し続ける棋力を持たねばならない。「優勢な時が危ない。優勢を勝勢に持っていく技もプロの力の見せどころである」と解説されている。その通りである。あるいは勝ち碁にした後の信じられない悪手即ちポカ手に気をつけなければならない。その為の工夫を確認しておく。

 序盤の頃から味の良し悪しを嗅ぎ分け、「我が方の石は味良く、相手の石は味悪く」させねばならない。これを嗅ぎ分ける能力が棋力なので結局は棋力通りと云うことになり棋力を上げる以外に方法はない。自分の陣と相手の陣の長所と短所を上手く操りながら適切に対処せねばならない。

 相手が手のないところへわざわざに入ってきたとき、生きのない石を動き始めた時、警戒せねばならない。そんなところに手があるものかと安易に対応した結果、手にされることがある。特に錯覚に陥らないように気をつけねばならない。錯覚読みで二人がかりで手にされるように打ってしまうことがままある。この辺りは普段からこの対策用の稽古しておかねばならない。  

 2015.2.28日、他人の碁で、圧倒的に有利に進めているのに更に地を頬張り、そのやり取りの道中で形の悪い欠け目繋がりの大石が元から切られ頓死するのを見た。良過ぎて調子に乗り守りを忘れて大逆転である。これを思えば、形勢が良ければ良いほど味悪のヶ所を確認し、それらを上手い順序で補強して石を締めておく必要がある。こうして相手の狙いを潰すのが肝要である。特に欠け目には注意が必要である。

 あるいはそそっかしい手で自滅することがある。普通に攻め合いすれば勝ちのところ欠け目狙いで噛ませた筈が先にこちらの石のキズを咎められた結果、欠け目にならずに目にしてしまい、今度はこちらが生きねばならぬと云うようなことで勝ち碁を落としたことがある。勝ち碁を勝ちきるには軽率を慎まねばならない。

 2014.11.04日 2015.3.2日 囲碁吉拝

【棋道論その№、勝勢になるまではしぶとく大仕掛けに、勝勢後は分かり易く打つのが良い】
 「勝勢になるまではしぶとく大仕掛けに、勝勢後は分かり易く打つのが良い」。これが実践訓である。この教訓は、勝勢後も大仕掛けに打ち進めパンクしたときの反省である。

 2014.11.04日 2015.3.2日 囲碁吉拝

【棋道論その№、勝って奢らず負けて腐らず】
 「勝って奢らず負けて腐らず」でありたい。「勝負は時の運」とも云う。勝った方が労り、負けた方が腐らず更なる上達を目指すような関係で碁を学べたらと思う。

 2015.3.12日 囲碁吉拝

【棋道論その№、大山勝負哲学語録】
 将棋の大山名人が次のような「大山勝負哲学語録」を遺している。味わうべしだろう。
 「迷いが生じたときは、できるだけ積極的な手を指す」(「勝負の世界2」p24)。
 「自分が苦しいときは相手も苦しい。苦しいのは自分だけではないと思えば、自然に道が開けてくるものです」(「勝負の世界2」p27)。

 2015.3.12日 囲碁吉拝

【棋道論その№、】
 「運気の流れを読む、掴む」、「勝負の勘どころ」、「ツキのないときは無理せず「見」(けん)を決め込む」、「見切り千両」、「勘と感受性を磨くべし」。「禍福はあざなえる縄の如し」。「逆張り発想」。「腸(はらわた)と肝(きも)」。「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ。踏み込みゆかばあとは極楽」。「目から鱗が落ちる」。「言うは易し、行うは難し」。「商売は真っ正直にやるのが最終的に一番儲かる」。「オア(or)ではなくアンド(and)で考える」。「我が意を得たり」。「得手に帆を揚げる」。成功のシナリオ、失敗のシナリオ。勇気ある撤退。「運」。「距離感の達人」。「君子の交わりは淡きこと水の如し」。(安田隆夫「安売り王一代」)





(私論.私見)