囲碁吉の天下六段の道、所作戒め編 |
更新日/2018(平成30).9.3日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「囲碁吉の天下六段の道、所作戒め編」を書きつけておく。 2005.6.4日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、姿勢を良くしよう】 | |
「姿勢を良くしよう」。その通りである。姿勢が悪いと全体が見えなくなる。全体が見えないと、良い手が打てない。 2015.2.19日 囲碁吉拝 |
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「囲碁が強くなるための、碁を打つ姿勢」。
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【棋道講座その№、ヘボは悪くなってから考える。上手はその前に考える】 |
「ヘボは悪くなってから考える。上手は悪くなる前に考える」。その通りである。ちなみに、攻める前に手前の生きを確保、あるいは生きを確かめておく等、用意周到なのが上手であり、いきなり攻めまくるのが下手の特徴である。時にバットが当ることもあるが上手にはなかなか通用しない。 2015.2.19日 囲碁吉拝 |
【着手法その№、せめて1手1分碁を心がけよう】 |
「せめて1手1分碁を心がけよう」。「早打ちマック、手拍子打ち、意固地な手を打つまい」。これを言い聞かせ守るだけで1目半強くなる。早打ちマックとは相手が打った途端に条件反射的に反応し早打ちすることを云う。手拍子打ちとは、相手が打ったのに釣られて打つ早撃ちを云う。意固地な手とは、その後の情況変化を知りながら前に読んだ手を打つことを云う。これが三大悪癖である。これを改めねばならない。なぜか。それは自明で、碁の醍醐味を台無しにしているからである。碁は着手を手談し、手筋を見つけ味わうところに本当の面白みがあるところ、粗雑に打ってヘボ碁ザル碁にしてしまうからである。これでは何の為に碁を打つのか意味が分からなくなる。 対局時間のない対局の場合はなおさらのこと、対局時間のある対局の場合には時間内であれば打つ打たないは対局者の自由である。何も考えぬままの早打ちマックのような打ち方で負けるような囲碁を一局たりとも打たないことが上達の道である。これができれば自然に姿勢が良くなり、上達もうまく行くのではなかろうか。そんな気がする。 対局時間のあるゲームで相手が時間切れ模様で早打ちし始めた場合、こちらに時間があるのに相手の早打ちに釣られて同じように早打ちし優勢な碁を落とした苦い経験がある。こちらは常にマイペースで冷静に打てば良い。相手が早打ちし始めた場合、チャンスが訪れていることが多い。例えば、以前は責め合い負けだったのが、いつのまにかダメが詰まってセキか逆に攻め合い勝ちになっているケースがある。これに気づくべきところを早打ちのために気づかず打ち進め、並べてみて惜敗するのを後の祭りと云う。気づいて打てば、その時点で相手を投了に追い込めるチャンスだったと云うのに。 「早打ちマック、手拍子打ち、意固地な手」を止めるには、一手毎に手を溜めれば良い。「溜め」とは、球技で能く分かるが、「引き付け、狙い通りのところに、タイミング能く打ち返す」ことである。これは或る種の才能を伴うのかも知れないとも思う。碁の一手にも同様の原理がある。これを知って打つのが良い。この原理を知らずに悪手を打つのをダメ手と云う。碁のダメには一目の得にもならない意味のない箇所のことを云う意味もあるが、ここでは良くないと云う意味でのダメのことを言っている。 2015.2.1日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、トッププロの所以】 | |
プロとアマの差に触れた補足としてトッププロとその他のプロを分ける仕切りについて愚考しておく。その差はどの辺りにあるのだろうか。結論は、中央感覚のセンス差のように思える。囲碁吉がこれを説く能力はないので追々の気づきを記していくことにする。この稿のお陰として、このことはアマの碁にも言えることを指摘しておく。中央感覚に優れる者がトップアマと云うことになるのではなかろうか。 「プロは見えないものを見る」と題する次のような一文がある。
2015.04.04日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、口しゃみせん】 |
囲碁の「手談」性からすれば、石で談じれば良く口で語るものではない。にも拘らず「口でも打つ」者がいる。これをどう判ずるべきだろうか。とある碁会所へ行った時、「囲碁は紳士の遊び」とする申し合わせだろうか、10面ほどある部屋であるのに、時に遠慮がちな咳と石音が聞こえるぐらいのものでシーンとしていた。これはこれで良いと思う。但し、私はそういう碁席が良いとは思わない。むしろ「口しゃみせん」を一概に排斥すべきものではないと思っている。囲碁に於いて「口しゃみせん」は非常に面白いものであると思っている。 「口しゃみせん」がプロには禁じられているとすれば(よくは分からないが)、アマの特権かも知れない。囲碁吉は「適度の軽妙な口しゃみせん」は囲碁を面白くすると思うので賛成である。黙って打つも良し、局面に応じた「口しゃみせん」を発しながら打つのも良しと思っている。この辺りは打ち手の性格によると思う。但し、「口しゃみせん」が過ぎて喧嘩になるようでは失格である。相手に合わせて法を説くように、相手に合わせての「口しゃみせん」術を会得せねばならない。「口しゃみせん」は徳分がある者に許されており、徳分がない者がやると同じ言葉を発してもトラブルの元になる。従って、「口しゃみせん芸」は高度な芸であるとも云える。時に、局面にピッタリの言葉を紡ぎだす打ち手がいるが、あるいは自然に口をついてでた局面の相応しい言葉は、許されるべきではなかろうか。 もっとも、高度な緊張感と集中力で打ち進めている場合に、「口しゃみせん」することで緊張感と集中力を欠く結果になることが多い。俗に「口から抜ける」と云う。嫌がらせの「口しゃみせん」もある。そういう意味では「口しゃみせん」を慎むのが良い。但し、「口しゃみせん」が絶妙の局面形容になっていたり、それをユーモアに表現したりで対局盛り上げに資することもある。この両方を睨みながらの、止むにやまれぬ「口しゃみせん」こそ芸であろう。この芸域にまで高められた「口しゃみせん」は許されるとしたい。 2015.04.23日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、催眠術の掛け合い】 |
囲碁もと云うべきだろうか、他の芸事と同じく、勝負を争いながら棋道の奥を深めるゲームである。この両方の観点が不即不離的になっているところに面白みがある。この間、対局者は対局者特有の心理状態に没入する。その心理状態は両者の催眠術の掛け合いの面がある。或る時、その昔に県代表になったこともあるS老人が、横からの口出しに対して珍しく口を尖らせ、「君ぃ、人が一生懸命に催眠術を掛けている時、横から口出されたら術が解けてしまうではないか」と抗議したことがあった。その言い草に妙に感心したことを覚えている。 あの当時は意味が今ほどは分からなかったが、今にして思うのにけだし名言である。そう囲碁は互いの石を盤に晒して競うゲームではあるけれども、晒しながらも錯覚を利用するゲームでもある。その錯覚を呼び込む催眠術を掛け合うゲームでもある。あるいは無用の反発なり早過ぎる店仕舞いなどを呼び込むゲームでもある。横からの口出しは、両者が互いに催眠術を掛け合い、独特の催眠術世界に陥っている心理に対する覚醒行為であり、それは両者のゲームに対する妨害行為でもある。そういう意味で現に慎まなければならない。こう心得たい。こう理解する時、ポカの発生要因が分かることになる。あれはそういう独特の世界に誘い込まれていることによる賜物ではなかろうか。メンタルを強くする所以がこの辺りにもあると思う。 催眠現象の他にも盲目現象がある。これは、普通では見える手が見えなくなる事態に誘い込まれることを云う。例えば自ら当りになるように突っ込むとか、攻め合い勝ちなのにわざわざ負けるようにダメを詰めて行くとか、取りに行かなくても勝っているのに取りに行って仕損じて勝ち碁を落とすとかの現象を云う。これを防ぐ為にもメンタルを強くせねばなるまい。 今日経験したことは、相手の着手に連れションさせられる催眠術に掛けられたことである。相手の頃合の石の生き死にを追及しながら局面を優位に進めており、相手には当然の手戻しが要るべきところ、そこへ打たず他所へ打ってきた。普通なら、相手が受けなかったところを咎めるべきなのに、相手が打った他所に付き合いし、何と相手はそれから手を戻した。手を戻されてみれば、他所の付き合いせずに、そこへ打つべきだったと悔やんだ。そこへ打っておれば恐らく勝てた碁だった。結果は盤面ジゴとなり6目半敗けた。負けの原因は他にもあるのだろうが、少なくともあそこが勝つチャンスだったと思う。 2014.12.08日 2015.09.01日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、他言無用の戒め】 |
「囲碁における他言無用の戒め」を確認しておく。そもそも碁盤そのものが戒めている。碁盤の足の先端はクチナシの実に似せてあり「クチナシ足」と云われる。クチナシは、本州中部以南でポピュラーなアカネ科の常緑低木であるが、「クチナシの実は長さ三センチの長楕円形で蕚筒(がくとう)に包まれたまま黄赤色に熟す。古くから黄色染料に用いられ漢方では山梔子(さんしし)といって利尿剤にする」とある。実が蕚筒に包まれたまま熟す、つまり口を開かずに熟すことを「口なし」とシャレたのが木の名の語源のようである。碁盤のクチナシ足は対局者又は観戦者に「クチナシのように口なしであれ」と緘口令を布く意図をもつと云われる。碁盤の足は最初からクチナシ足だった訳ではない。早くても近世の初頭から登場し、時代とともに正統派としての地歩を占め、現代に入って広く普及したようである。 足付き碁盤の裏側の中央部分には切子形に切ってあるへこみがある。これは「へそ」と呼ばれる。木材の乾燥による歪みや割れの防止と、石を打った時の音の響きを良くする効果がある。2寸程度の薄い足付き盤にはへこみはない。この「へこみ」は「血溜まり」と呼ばれることもある。対局中に横から口を挟む人間は首を刎ねられ、このへこみに乗せられる事になると戒められている。 本因坊道策の「碁歌十七首」の末尾の歌は「人の碁を助言すること無用なり。古人の申しおかれしぞかし」である。江戸時代の囲碁口伝にも 「昔から失言、助言に憤慨して刃傷に及んだ例、数多し」とある。同口伝には「(周りの人は)碁に対しての助言、助指は固く戒むべし」と書かれている。 いろいろこのように戒めていても、口出しお節介する者が後を絶たない。いつもは何でもなくても互いの波長が合わなくなるとトラブルになる。「他言無用の戒め」を守るのが賢いと云うべきだろう。次のような言葉もある。「碁会所で黙ってみているつおい奴」。 |
【棋道講座その№、岡目八目】 | |
岡目八目について確認しておく。その意味は、囲碁用語で、碁をわきから見ていると、実際に打っている人よりも、八手も先まで手を見越すという意から生まれていると解釈されている。「岡目」は他人がしていることを脇から見ていること。「目」は碁盤の目の意。「岡」は「傍」とも書く。一般化させた意味は、「事の当事者よりも第三者のほうが、情勢や利害得失などを冷静且つ客観的に見て的確に判断できること」を云う。それは良いのだが、気になることは「八手も先まで手を見越す」なる解説である。これはどういう意味か。岡目したからとて「八手先まで手を見越す」ことができるように思わない。つまり、この解説は、囲碁を知らない者による推定解説でしかなく、同様に囲碁を知らない者にのみ首肯される解説でしかないと云うことになる。そこで、実際に打っている人よりも、「八目ぐらい得する手が分かり、だから口出ししたくてうずうずすることになる」様子を述べたもの、と云う解説が生まれることになる。しかしこれも一知半解の解説のような気がする。なぜなら「岡(傍)目」がなぜ「八目」に相当するのかの根拠が分からないからである。碁を打つ者からすれば、岡目八目とは手が見えるかどうかの話であって、その際の見える手は五目であったり八目であったり、十五目であったり、生き死にそのものだったりする訳で、「八目相当」とする意味が分からない。 そこで、もう一つの解釈を確認しておく。「八目」の意味は「ヤツメウナギのこと」とする解説がある。「ヤツメウナギ」を検索すると、「ヤツメウナギ科の円口類に属するウナギ状の水中生物で、目の後ろにある7つのえら穴が目に見えるところから八ツ目の名前がつけられている。生の場合はウナギと同様に蒲焼きなどとして食べられるが、ほとんどは乾燥させて干しヤツメにし、漢方薬や健康食品に利用されている」とある。 私はこの「八ツ目」説を採って、岡目八目の意味をここから導き出したいと思う。即ち、「八ツ目」(やつめ)が囲碁用語の「八目」(はちもく)に転じて、勝負に直結する緊張感や興奮から却って近視眼的になり易い当事者の一ツ目よりも、勝負の利害関係から離れた客観的な岡(傍)目の八ツ目で見た方が全体を見渡すことができ易く、その余裕があるので却って手が能く見え、正確に判断できるということを含意させた言葉となっているのではなかろうか。「当事者より傍(はた)から見ている第三者の方が事態を正確に判断できるということ」なる解説は結果オーライの解説足り得ているが、「八目」の解釈に拘ると違うと云わざるを得ない。 その岡目八目につき次のような話しがある。「岡目八目」を参照する。日本棋院発行の格言小事典で次のように記している。「対局の見学者は対局者の棋力を推定する場合、対局者の棋力を3子くらい過少評価する」。例えば、見学者が対局者を自分と同等だと感じたとしたら、対局者は見学者より3子程度強く、見学者が対局者を自分より3子くらい弱いと感じる程度だと、対局者と見学者の棋力はほぼ同じ程度であろうということになる。これより察するのに、対局者は普段の実力より相当弱くなる癖があり、岡目八目からすればやきもきして我慢ならないと云うことになるのではなかろうか。 勝海舟「大勢順応」が次のように記している。
2015.02.24日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、人のふり見て我がふり直せ】 |
「人のふり見て我がふり直せ」は人生万般に通ずる教えである。よって囲碁にも然りである。普通には下手のヘボ手から反面教師的に学ぶ教えのように受け取るが、よく考えると下手に限ることはない。上手からも互先の相手からも学ぶことができる。問題は、「人のふり」をどう受け取るかである。結論は、日頃から下手、互先、上手のどちらからの稽古をも引き受けるべきであると云うことになる。相手の選び方として互先の相手を別とすれば、下手と打ちたがらない人、下手打ちを好む人の二通りがあるが、どちらも良くない。臨機応変に相手をし、下手からも上手からも学ぶというのが正しいように思う。 2014.6.9日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、手震え論】 | |
震えの問題もある。囲碁吉は恥ずかしい体験をした。ある時の手合いのこと。**大会を幸運にも勝ち抜き二日目の第一戦で名の知れた県下の強豪と当った。序盤は普通に打っていたのだが途中から手が震えだし止らない現象に陥ってしまった。手を揉むなどしたのだが治らない。手の震えで石が正確な位置に置けなくなり周囲の石まで歪めてしまう。こうなると着手そのものに気遣いが向かい、碌なことにならない。非常に困ったことになった。その原因を尋ねるのに場慣れしていない故とも考えられる。或いは勝勢故にか、直前の或る着手に対する悔やみからか、医学的に低血糖に陥ったのかと云うことになろう。いずれにせよ恥をかいてしまった。今後、この「純情」をどうすれば良いのか新たな設問をいただいたことになる。来月は別の棋戦に参加する予定である。この時も同じ現象が出たらどうしよう。今から気になる。 これに関連して、「囲碁棋士 井山裕太の名言_bot 」によれば次のようにブログしている。
そういうことなんだろう。おこがましいだろうが囲碁の井山裕太、将棋の羽生善治然りがうれしくなった。 2015.4月、今日の大会でも昨年ほど激しくはなかったが手震えが起きた。我が碁会所で打つ時には滅多に起らないことを思えば緊張のせいだろうと思う。困ったことである。内容は悪くなかった。ほぼ完勝の棋譜であった。そういう意味では自信ができた。1回戦を突破しておけばどんなに格好が良かったかと思う。そのうち場慣れすることにより自然と治ることを期待する以外にない。 2014.4.29日、2015.4月再編集 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、待ったはご法度】 |
「待ったはご法度」。待ったは置き剥(は)がし、打ち直しとも云う。ご法度であると心得よ。問題は瞬間的な置き剥(は)がしをどうするかである。大会等で問題にする人もいる、大目に見る人もいる。私には分からないが、とにかく自分は絶対にしないよう心掛けねばならないと思う。昨日、瞬間芸でそういうことがあった。どういう局面だったか忘れたが、慌てる必要のないところで出た。二度とすまいと堅く思う。 2016.2.6日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、石が飛んだり崩れた時の復元、整地考】 |
「石が飛んだり崩れた時の復元、整地考」をしておく。何かの拍子に盤が揺れたり、手が当って石が飛んだり崩れたりするときがある。これは仕方ないとしても、仕方なくはないことは、正確に復元できているかの確認を疎かにすることである。局面が反目勝負の緊迫した場面においては、整地間違いの1目、2目が命取りになる。そういう意味では、進行中の互いの着手、石の形を記憶しながら打ち進めねばならない、と云うことになる。飛んだ石は拾わせ元のところへ戻させねばならない。 2016.2.6日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、石の位置が変わっている時の復元考】 |
「石の位置が変わっている時の復元考」をしておく。滅多にないことだけれども、石の位置が正式のところではなく一路ズレたまま進行している場合がある。その箇所が攻防の要に絡んだ時、事件となる。対局者自身がこのズレを逸早く発見し直させねばならない。プロではあり得ないだろうがアマではあり得る。トラブル未然防止の為、石が棋譜通りに忠実になっているか点検しつつ打たねばならない。対局者にはそういう責任があると心得るべし。 仮に、対局者が石のズレに気づかず、攻防の要に絡んだ瞬間に石のズレを指摘するのは有効だろうか。どう対応すべきだろうか。「両者負け」とするのは問題の根本解決から逃げているように思う。私の采配は、石のズレに気づかず打った側に石のズレに責任がないことが判明する場合には、石のズレのままに打ち進めるべきだと思う。なぜなら、指摘した側が石のズレに関係があると考えられる場合、それはマッチポンプであるから認められるべきではないと思うからである。 2016.4.24日 囲碁吉拝 |
(私論.私見)