囲碁吉の天下六段の道、技術編

 更新日/2020(平成31、5.1栄和改元/栄和2).9.13日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「石好み(3)囲碁上達法1、囲碁吉の天下六段の道編」を書きつけておく。これは平素書きつけていたものを元に、2015年初頭辺りから1局打つごとに気づいたことを書き加え、書き直しして現在に至るものである。2015.3月、最近出くわした「囲碁紫煙荘」の「囲碁講座」、「囲碁講座part2」その他を参照する。以来、一局打つごとに何か教訓を引き出し、該当する箇所の書き直しをしている。これが結構面白くて為になるんだな。途中からプロの碁の対局を見ながら得た感想をも記すことにした。

 ひとたびは思いつくままに書きつけ、後に推敲を加え、次第にいっぱしの囲碁理論にしたいと思っている。囲碁吉が自分の戒めの為に磨きに磨いているものであり、アマの且つそれほど強くもない囲碁吉の囲碁論であるから説得力も権威もない。囲碁吉が今後ひょっと強くなったら、ここに書いたことの値打ちが上がるだろう。今はまだまったくダメですたい。相変わらずアマの県代表レベルに3子、4子(4子、5子かな?)の手合いでしかない。何とかせんととは思っているのだが。いざ出航せん。

 最新の方法として、最も肝要と思われる気づきを頭出しにして並べ替えて行こうと思う。  

 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝


【着手論/相手の構想を見破り、喫急以外の付き合いを止め、急場要所大場に打つ】
 「相手の構想を見破り、喫急以外の付き合いを止め、急場要所大場に打つ」。これができるようになれば天下六段だろう。相手の構想に付き合い続けるようではおぼこい。

【着手法その№、捨て石を覚える】
 「捨て石を覚える」。これが上手くできるようになると天下6段が近い、そんな気がする。捨て石にはどんな効用があるか、これを確認しておく。その一は振り代わりである。捨て石に手を入れれば生きがあるところ、これを放置してよそを打つ。その打った手が捨て石並みかそれ以上の手であれば良い訳である。次に、捨て石を利用した利かしである。次に、絞りである。次にコウ立て活用である。今日はそれができた記念の日である。

 2017.5.16日 囲碁吉拝

【着手法その№、石を取りに行かず敢えて殺さず苛(いじ)め、死に石の守をさせ形勢を悪くさせるのが芸のうち】
 「捨て石を覚える」の対のテーゼが「石を取りに行かず敢えて殺さず苛(いじ)め、弱石の守をさせ形勢を悪くさせるのが芸のうち」。これが囲碁の上手の打ち方である。「石を取らない取らず勝ち打法を心掛けよ。要石以外は取らない。要石は取らせない碁を心掛けよ」。石は取らないのではなく取ってはならない、敢えて取らないことを心掛けよ。そうすれば道を間違えなくてすむ。石の大きさを考えれば分かるのだが、大きいようで小さい取り石、小さいようで大きい取られ石と云うことがある。取れそうな石はいつでも質駒にしておけば良い。相手が手を入れればそれで良し、こちらは二手打てるのだからソロバン勘定は合っているはずである。それよりも要石を取られないことが先決である。このことを言い聞かせておく。

 石を取りに行くのは下策で素人である。将棋で鍛えた人は、将棋は王を詰めるゲームなので、同じ感覚でついつい夢中になって石を取りに行く癖を持つが、囲碁では邪道である。囲碁は最終的には地合い勝負なので、相手石の個々を撲殺したからと云って勝てる訳ではない。むしろ、「(なるべく)殺さず」、「(なるべく)取りに行かず」、「石を苛(いじ)め」、「絡み攻め」するのが良い。勝負に直結する箇所ならいざ知らず、単に地の大きさだけのことなら、取りに行けば取れるところを敢えて取らず、相手に手を入れさせる。その代わりに中央平原の要衝に打つのが賢い。局面を威圧する手があればそこへ打つ。相手の弱石の生きを催促しながら攻め上手で地を稼ぐ。あるいは相手陣地に響くように石を配置し、頃合いを見て雪崩れ込む。あるいは隅にスベルなどして中央に追い出し、その石をうまく攻めて局面を優位にする。これが「取らずに勝つ」上策で賢い打ち方である。この技の習熟度が囲碁の芸である。このことを肝に銘じたい。  

 なぜそう云えるのか。これを愚考するのに、石を取りに行くと、捨石、締めつけ、コウ立てに活用、利用されることになり、結果的に割に合わぬことが多い。こちらの石の命がかかっていたり勝負に直結している場合は別にして、その他の場合には取るぞと見せかけるだけで本気に取りに行かない方が良い。取るのはむしろ終盤の時の問題であると覚えれば良い。攻め合いになって取る取られるの場合にも単に取れば良いと云うのではない。取り石を活用されることを嫌って「味よく取っておく」のが鉄則である。

 石を取ってはならない第二の理由は、取れると思って取りに行って、見落としや勘違いがあって生かしてしまうと酷い損になるからである。「取ろう取ろうは取られの元」とも云う。取り掛けは一本調子になり、石の形を悪くさせる弊害がある。そもそも高段者の石はそうはなかなか取れるものでもない。「手を抜けば取るぞと脅しつつの駆け引きの中で競り合う」のが良い。

 第三の理由は、石を取ってしまうと、その分、相手の思考が単純化し、他の局面に意識が集中し、その分先鋭的になる。取らずにおくと全体に目配せせねばならず、その分足が遅くなり且つ重圧となる。これを長期化させることにより精神的にヘトヘトになる。石を取らぬ功の意味がここにある。これは囲碁吉が最近になって分かった丸秘情報の一つである。

 局面が良くなった時点での次の一手が肝腎である。その一手で局面の優勢を確定させる手を打たねばならない。と云うのも、直近の互い先の碁で、序盤の折衝戦で決定的優位に立った時の次の一手で、盤全体を見渡して中央に出て悠々と天下を睥睨すれば良いところ、部分の得失に拘り、道中で切り離した相手の弱石を取りに行ってしまい絶対的優勢に至る道を行き損ねてしまった。おまけにその石を取り損ね、折衝戦後、中央に手を廻したのが相手の方だったという恥ずかしいことになってしまった。大いに反省すべしである。

 取りかけの道中で、更に攻めることに無理が発生する局面が生まれることが多い。この局面の処し方は、それまでの攻めの効能を確認することである。十分であれば更なる攻めを続行せず、ひとたびは手堅く守るなり、一段落したと判断して攻めに活用した石を利き石にして相手の地の侵食に転換するのが賢い。この大局判断をせずの「攻め一辺倒」は危うい。 

 2014.11.04日 囲碁吉拝

【着手法その№、攻めの理、引きの理の要諦】
 「攻めの理、引きの理」を深く弁えねばならない。攻めれば追うことになり、追えば薄くなるのが理合いである。故に、攻めては引き、引いて固めては攻めで伸びるのが好手順となる。これを逆から云えば、屈んで屈すればバネの如く力を矯めたのであるから強く反撃に転じることができ、反撃に転じては頃合いを見て又固めるのが良いと云うことになる。この「攻め手筋引き手筋の要諦」に熟達せねばならない。

 ある時の実戦訓。相手陣の隙を捉え見事に手にし辺の侵入に成功した。この時の教訓であるが、もう一手先手で打てる利き筋があったのに、もうこれぐらい荒らせば良かろうと兵を引いた。結果、この碁はコミ負けした。こういう結果になってみれば、かの時の手にした時の兵の引き際が早過ぎたことになる。かの時、これで十分とするのではなく、もっと攻めておくべきだった。味残しとの絡みがあろうが追求不足にならぬよう留意せねばならない。この辺りは機微であるが、攻め際と引き際を間違えぬよう、これが教訓となった。実際、かの時もう少し踏み込んでおけば局勢有利になっており、そうなると相手は焦ることになり、その後の展開が変わったと思う訳である。

 2014.09.22日、2015.02.15日再編集 囲碁吉拝

【囲碁技術編/その1、攻めの棋理】
 敢えて「攻めの棋理」ではなく「攻めの手の棋理」とする。この違いは、「攻めの棋理」の中に「攻めの手」と「守りの手」があり、「守りの棋理」の中に「守りの手」と「攻めの手」があり、これを同時に研究するのも一法だが、攻めの手と守りの手を分けて研究するのも良いと思うからである。

 攻め手筋の要諦はこうである。相手の弱石に手をつけて行く場合、熟考しもっとも有効な方法を選択せねばならない。小さな方から行くと捨てられてしまう場合がある。捨てられないよう大きく全体を攻める方法があるのなら、それに従う方が良い。敢えて取らずの攻めの続行にこそ勝因と云うケースが多い。絞り、利き筋の活用、手のあるところを的確に打つことが肝要である。これらを粗雑に打つようでは上達が覚束ない、勝てるものが勝てなくなろう。
 日本棋院の石倉昇9段の「攻めの法則5ヶ条」は次の通り。
 1、相手の根拠を奪う。2、むやみにツケない。3、自分の用心。4、モタレて攻める。5、攻めながら得をする。

【着手法その№、一石二鳥の手考。一石二鳥の手戻しがあれば効率が良い】
 「一石二鳥の手」がある。滅多に出くわすものではないが、両者の石の攻防折衝がかなり煮詰まった局面で、自陣の目の足しにしながら相手陣の目を奪う手と云う絶好の必須点が生まれることがある。ここが「一石二鳥の手」である。こういう場合は、他の好点があろうともそういう手を打たず、「一石二鳥の手」を打たねばならない。これは棋力に関係しているが、棋力だけの問題ではない。要するに明鏡止水の心境も必要になる。「一石二鳥の手」のポイントを探せるかどうか、そこへ打つことができるかどうかが問われている。「一石二鳥の手」が打てると形勢が大いに好転する。相手がそこへ打つと途端に形勢が逆転し始める。故に逃してはならない。

 手戻しが、相手の石の生き死にに関係している場合は一石二鳥であり、仮に地としては小さくとも、見かけよりも大きい手であることが多い。こういう手の場合、相手が受けるかどうかも関係する。受ければ先手、受けなければ相手の石の生死に利いている。こういう場合、打たれるより打つ方が大きい。相手に先に打たれると無条件に受けざるを得ない場合には尚更大きいことになるので、なお大きい。

 2015.1.19日 囲碁吉拝

【着手法その№、要石を取るのに緩め取りは良くない。脇を締めて守り、脇を締めて取るべし】
 「要石を取るのに緩めて取るのは良くない」。これも実戦訓である。中央の数子をゲタで取り序盤で優位を築いたとき、相手が捨て石活用で引き出しに来た手に対しダメを詰める形で取れば良いのに守りにも攻めにもなるような一石二鳥の手で応えた。しかしこの手が味悪になった。取った上に更に利かそうとする手は時に有効であるが大抵の場合は頬張り過ぎの欲深な独りよがりであることが多い。攻守兼用の欲深な手には無理があり、却ってその手が咎められるようになることが多い。このときの教訓として「欲深(よくぶか)をお止めなさい」と言い聞かせておく。「緩みふんどしの味悪」となって後々の石のリズムを狂わせる元である。要石は締めた形で取りきるべしと心得よう。

 「要石に限り、脇を締めて守り、取る場合も脇を締めて取るべし」。攻守兼用の便利な手はないと心得、守るのなら守りに適した手、攻めるなら攻めるに適した手を見立てて着手すべきである。序盤、中盤の要諦が「構えは大きく」とすれば、中盤、終盤の要諦が「取りは脇を締めて守り、取るべし」である。このギアチェンジを上手にハンドル捌きせねばならない。 

 相手の要石を捕縛して有利に進めているのに、ついつい局面を複雑にされ、こんがらがりはじめるに乗じて要石(「種石」とも云う)が逃げ出し、その挙句に形勢逆転と云うことがある。こういう場合、割合と早い段階で要石を締めた形で取りきり簡明しておくのが良いと。要石を取りきれば、誘われようとしていた局面ではなく新たな局面に入る。強い者は取られた要石の周辺に手段を見出し僅かなスキをこじ開けてくる。そのスキを大掛かりな仕掛けの中で上手に活用する。そういう意味で、極力スキのないよう味悪にしないよう石運びしておくことが肝要である。コウも然りで、コウが必然と考え、コウの際に有利になるよう配慮して打つ癖を身につけねばならない。この辺りを普段から稽古しておかねばならない。

 石の取り方取らせ方に長ける必要がある。今日の碁は酷かった。石を取ったのではなく、締めつけが関係しており取らされたという感じ。しかしこれは新たな感じ方であり今後の教訓にしようと思う。実際には、ほぼ寄せの段階で2子取ったのだが、周囲の関係で取り上げる為に2手必要になっており、見掛けより小さなところになっていた。並べて半目負けとなったので、それならもっと上手な寄せ方があったと地団太を踏む。今後はこういうところをも気をつけようと思う。

 2014.9.22日 囲碁吉拝

【着手法その№、中央の厚みを囲うな。厚みを利用して上から下から攻め立てるのが良い】
 中央の厚み経営は正しい。「中央の厚み」は思われている以上に重要で、隅や辺の多少の地を取る手よりも大きい。問題は、そのようにしてできた中央の厚みを地に囲うことが下策であることを知ることにある。中央の模様が仮に大きく見えても、囲い始めると相手にも同様の地ができることが多い。あるいは囲え囲えと利かされたりして案外と効率が悪い。ならばどう打つべきかと云うと、「中央の厚み」を威力として活用するのが賢い。具体的な活用の仕方は、隅、辺に対して上から利かしていく方法と、下から手をつけ相手の石を浮かして行く方法の二通りある。相手石が圏内に入ってきた場合も然りであるが、切り違いで切り結んで戦うのが原則で、目を取って攻め続けるのが良い。その結果として、全滅させる、要の半分を取る、追い駆けながら相手の陣へ雪崩れ込むの三法の筋が見えてくる。胡坐をかくような治まらせ方をさせてはならない。これが「中央の厚み」の効用、即ち「中央の厚みの正しい活かし方」である。

 2016.9.5日 囲碁吉拝

【着手法その№、利き筋を賢く活用せねばならない】
 打ち過ぎ稼ぎ過ぎは良くないが、逆に利き筋は賢く活用せねばならない。相当な成果を挙げたので、もうこの辺りで良いだろうで兵を引き上げるのは良くない。ここはこの辺りまで打つべきとする利き筋の相場と云うものがある。ここまでを打っておかないと悔いが残る場合がある。これに通暁せねばならない。

 2015.1.19日 囲碁吉拝

【着手法その№、相手の傷を咎める筋とその絶好タイミング】
 相手の傷を咎める筋を見つけたら、いきなり打たず、絶好のタイミングで使うのが良い。これは、ご馳走を先に戴くのが良いのか後にするべきかにも通底している。ご馳走は後で戴くのが良い。

 2015.1.19日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、隅の手を途中で打ち止めしておく妙手を覚えよう】
 プロの碁に時に現れ、アマの碁には滅多にないのが「隅の手を途中で打ち止めしておく妙手」である。これは芸である。この腕前を磨くに越したことはない。

 2014.12.07日 囲碁吉拝

【着手法その№、渡り止めの攻めっ気はしつこ過ぎる場合が多い。しつこい手は碁の神様に嫌われる】
 「相手が1線2線に打って渡りを確保したのに対し、渡り止めの手を打つのはしつこ過ぎる場合が多い」。相手が渡らしてくださいと低姿勢でお辞儀しているのだから、そこまで低姿勢したのなら許すとして中央に手を戻す方が賢い場合が多い。相手が1線2線に打って渡りを確保したのに対し、それを許さんと追い伏せする手はしつこ過ぎる場合が多い。しつこい手は碁の神様に嫌われる。これは利かした場合にも云える。こちらの利かしに相手が受けた場合には満足すべきで、さらに利かそうとして連打するのは屋上屋を重ねる愚かな手である。軽くふっくらと打つのが理想である。

 「手入れを催促して手戻りさせた場合、そのやり取りに満足し次に展開するのが良い」。相手が我慢我慢で手入れしたのに、それを追い伏せして許さんとする手はしつこ過ぎる場合が多い。そこまで恭順したのなら許すとして、次の要点に向かう方が賢い場合が多い。

 2017.1.15日 囲碁吉拝

【着手法その№、相手が渡りの低い石を打ってきた場合、そのことに満足して他の好点を打つのが賢い】
 「石を取りに行かず、殺さず、苛(いじ)めるのが芸のうち」同様に、「渡りの低い石を打ってきた場合も、満足して他の好点を打つのが賢い」。なぜなら、相手が「渡らせてください」と辞を低くしてお願いしている訳だから、これに満足すべきだからである。これが柔らかい打ち方である。問題は、相手の石集団を渡らせないことで全局的な有利局面が期待できる場合には、強引に石を裂くことが良い場合もある。よって、「渡らせてください」の石が部分問題なのか全局問題なのかを見極めて正しく応接せねばならない。

 2016.8.31日 囲碁吉拝

【着手法その№、相手の手戻りすべきところの手抜き箇所を睨みながら大場、要所を打ち続けるのがよい】
 相手の石を「なるべく殺さない」、「極力、石を取りに行かぬ」のが良いことと同様に、相手の手戻りすべきところの手抜き箇所を睨みながら当方の大場、要所を打ち続けるのがよい。それを終えて後に相手が手戻りしないところへ打って咎めるのは良いが、いきなり打つと却って負担になることがある。それを踏まえて、相手に手戻りさせるよう石運びするのが良いのかも知れない。この辺の棋理の機微を理解せねばならない。

 2016.03.18日 囲碁吉拝

【着手法その№、アテず騒がず黙って伸びるべし味わい深い手】
 「アテず騒がず黙って伸びる味わい深い手」が打てるようにならなければならない。アテて騒ぐと仕舞いはつくが同時に味気しになる。そう打って良い場合もあろうが大概は「黙って伸びる手」の方が良い。この辺の機微が分かり始めたら高段者である。

 2015.7.7日 囲碁吉拝

【着手法その№、天下睥睨の手がある時は他の好点があろうとも黙って打つべし味わい深い手】
 「天下睥睨の手がある時は他の好点があろうとも黙って打つべし味わい深い手」が打てるようにならなければならない。往々にして天下睥睨の手を打ち惜しみ、他の好点でひと稼ぎしたがるものだが、相手の反発もあり算用が狂うことが多い。天下睥睨の地を抑えてからが正しい順序ではなかろうか。それにより相手が守ればそれで良い、こちらは新たな地の好点に打てるのだから。

 2015.7.7日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、手抜きの芸】
 「手抜きの芸」を身につけねばならない。相手が打てば応じるのが原則であるが、付き合いして得しないところは手抜きして転戦するのも原則である。但し、これを見極めねばならず、その見極めに棋力を要するので堂々巡りの関係にあるとも云える。

 2014.12.07日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、振り代わりの判断を正しくせねばなりませぬ】
 石の競り合い道中で、それまでの石の流れの意思とは異なる方向へ向かうことのできる選択局面に出くわすことがある。この時、「振り代わりの判断」が問われる。ここで腕が試される。結局は、強い人は強いなりの弱い人は弱いなりの判断をする。故に、腕を上げ、振り代わりの技に上手くならねばならない。

 2015.4.7日 囲碁吉拝

【着手法その№、キリ考】
 「キリ味のあるところは極力覗くな」。これは覗きの功罪に関する戒めである。キリ味のあるところ
覗くのを生ノゾキと云う。特別の事情のない限り良くないと心得た方がよい。 

 「中央付近のキリは値打ちがあることが多い」。「中央のキリ一発」は恐ろしい。故にすることはあってもさせてはならない。こう覚えるが宜しい。

 「覗かれた時、腕組みして対応策を考えるよう」にせねばならない。直ぐにツグのは愚策で囲碁の手談の楽しみを半減させる。まずはツグべきかツガざるべきかを考えねばならない。ツグ功罪、ツガザル場合の好手を考えねばならない。石の生き死がかかっている場合、反発、その後のツケ捌きの筋等々を見て局面を幅広くせねばならない。但し、ツグ方が力強く戦える場合もある。但し地で損する場合も多い。この辺りを真剣に読まねばならない。

 「ノゾかれた時、ツグかツガザルべきかのハムレットになれ」。大抵の場合、素直且つ有難くツガせてもらうのが正解である。但し、たまに、相手の覗いた石を取り込むような形で大きく包み返す反発が良い場合がある。プロの場合にはツグ&ツガザルが半々になるほど反発が多いように見受けられる。但し、我々の碁では無用の反発で失敗することが多い。と云うより、相手のノゾキが悪手の場合が多いので、ツイで特段悪くない、あるいは有り難い場合が多い。こういう場合にはツゲば良いと思う。但し、一考を要する姿勢が大事であろう。反発の手に意味と意義を感じた時にはツガザル道を行けば良いと思う。

 2015.3.10日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、証文の出し遅れをしないよう】
 証文の出し遅れをしてはならない。相手の利き味利用の厚みづくりの手の全てに唯々諾々していると、「証文の出し遅れ」になってしまう。これを防ぐには、「相手の利き味利用の厚みづくりの手」の威力の弱い手で考え込み、かねてからの狙いの証文を出して応戦せねばならない。これにより囲い地を狭めることになる。そうすると、「相手の利き味利用の厚みづくりの手」が空振り、局面が当方に有利になる。この辺りの阿吽の呼吸に習熟せねばならない。

 2016.02.01日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、ポン抜き30目の意味を知ることが肝要】
 「ポン抜き30目の意味を知ることが肝要」である。即ち、ポン抜きは石を非常に強くしている。その石の周辺を囲うのは石がダブっていることになる。ポン抜きの後は、これを利き石にして対極のところで闘うべきである。これに気づかぬポン抜き碁が多い。反省すべきである。

 2017.1.21日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、啄木鳥(きつつき)戦法】
 囲碁も兵法の一学科と考えられる。と云うことは逆に兵法から囲碁の戦略戦術を学び返すこともできよう。そこで、代表的な兵法を確認しておく。「個性派武将の得意戦法」を参照する。
 武田信玄の啄木鳥(きつつき)戦法。この戦法は、啄木鳥がエサを捕るときに、木の反対側をつついて虫を穴から這い出させ、出てきたところを捕らえることに目をつけた戦法で、機動精鋭部隊を敵陣の背後に迂回進軍させ、敵が浮き足立った隙に乗じて本軍が正面攻略するというものである。川中島の合戦時に軍師・山本勘助が進言したことに始まるとも馬場美濃守信房だという説もある。この時の合戦では謙信がこの戦術を見破り、武田勢は大苦戦となつた。しかし、別働隊が謙信の背後に回った頃から今度は謙信軍が苦戦を強いられ、結局は痛み分けという結果になった。軍師・山本勘助は戦術を謙信に見破られたことが口惜しかったらしく、責任を取るような形で敵陣に突撃し戦死している。これを囲碁で例えれば、「もたれ攻め」を云うのだろうか。
 上杉謙信の車懸り(くるまがかり)の陣戦法。この戦法は、上杉謙信とその旗本衆による本陣を中心とし、各隊が放射状に並び風車のように回転しながら敵に当たるというものである。即ち、最初に敵に当たった部隊が退くと、すぐ次に新手の部隊が攻撃し、これを繰り返す。各部隊が精鋭にして軍勢の統率がとれていなければできない戦法である。江戸時代に入って、彼の後を継いだ上杉景勝の軍勢を見た諸大名は、その整然として規律正しく統制された軍を目の当たりにし感心したという。謙信の遺風はずっと上杉家の家風として幕末まで続いたのである。
 真田幸村の影武者攪乱戦法。この戦法は、幸村とその旗本衆による本隊と同じ陣立ての隊を数組作り、各隊に同じ「真田六連銭」ののぼりや馬印を持たせて同時に多方向から敵に突撃し攪乱するというものである。幸村はこの戦法を効果的にするために、手飼いの忍者たちを敵陣に紛れ込ませ、「○○殿裏切り!」等と叫ばせて敵陣の一層の乱れを誘ったという。これも幸村一流の工夫である。関ヶ原の西軍敗戦により父・昌幸と紀州九度山に流された幸村は、「真田紐」を考案し作らせ、それを全国に売りに行くという口実で諸方の情報を得ていた。やがて父・昌幸も病死し気落ちしていたところへ大坂の陣が勃発する。大坂方に加担した幸村は「真田丸」と呼ばれる出丸を築き、徳川方をさんざんに悩ませて勇名を高くする。しかし、家康は和談に応じた大坂方を欺き城の濠を全て埋め、裸城にしてから再度大坂方へ戦を仕掛けた。幸村は何度も戦術を上申するが聞き届けてもらえず悲壮な覚悟のもとに徳川方に玉砕戦を挑み、家康の本陣に突撃し家康を三里(12km)後退させている。しかし、敵をさんざんに痛めつけた幸村がようやく安居天神にたどり着いたところで、越前松平家の西尾仁左衛門に首を取られている。
 豊臣秀吉の水攻め/干し殺し戦法。水攻め戦法は歴史上名高い対毛利家の備中高松城攻めや、紀州雑賀党掃滅戦の太田城攻めで使われた秀吉の得意戦法である。また、干し殺し戦法は鳥取城・三木城攻めで使われたことで有名である。これらの戦法は「食料の補給路を断つ」ことと「戦意を喪失させる」ことで共通している。水攻めを行うには、堤を造るための土木工事など、非常に多くの物資と労力を必要とする。干し殺しを行うには、まず敵城の完全包囲が出来るだけの人数と、現地の食料物資を買い占めてしまう金が必要である。秀吉はこの点でも抜かりはない。鳥取城攻めの時は、時価の十倍の値で米を買い占めている。さらに、海上を封鎖して食料を城内に運ぶことをできなくさせている。高松城攻めも太田城攻めも予定通り敵将降伏という形で決着を見る。後の小田原攻めの際、忍(おし)城攻めを任された石田三成がこの戦法を真似て失敗し、諸将の物笑いの種にされたという。誰にでもできる戦法ではないことになる。このあたりは、さすが秀吉といえよう。

 2017.4.20日 囲碁吉拝

【囲碁技術編/その2、守りの手の棋理】

【着手法その№、目の検査、石の繋がりに用心せよ】
 着手の要諦は「目の確認と石の繋がりに対する細心の気配り」にある。強くなればなるほど「目の検査と石の繋がり」アンテナの受信力が高い。これを鍛えねばならない。

 「目の検査」。「子づくりより目づくり」、「火の用心、目の用心」と聞かされる。これが囲碁の心得3か条の第1の要諦になる。常識であるが案外と疎かにされている。「目の検査」がどう重要なのか。それは眼を脅かされることによって相手に巨大地、勢力ができ易いからである。相手にのみ有利になる「弱い石団を作らない」のが肝心な所以である。

 「石の繋がり」。「石の繋がり」を疎かにすると如何に地合いで買っているように見えても逆転されることになる。こういう場合、「亀の石とウサギの石の理」を踏まえねばならない。「亀の石」とは、歩みはのろいが確実なステップを目指す石を云う。コスミ、カケツギ、1間飛びの手を云う。但し、1間飛びの場合には周囲の状況が煮詰まると「割り込みによる切断」が起ることになるので注意せねばならない。対照的なのが「ウサギの石」である。歩みが走っており、かなり伸張している石を云う。二間飛び、大ゲイマ、大々ゲイマ等がそうである。「ウサギの石」を乱用し過ぎると、「行きはよいよい帰りが怖い」ことになる。この辺りの石の配置の熟練度によりヤキが入っているかいないかが分かる。ヤキが入っていない碁は「甘い」と評される。切断は、戦線拡大して相手の地の荒らしに向かって行った際に起こることが多い。慎重さを欠いて暴れていると「切断狙いの罠」に嵌ることになる。

 これに関連して、「相手の手入れに用心せよ」を格言にしておきたい。攻めの魂胆があるから「しっかり守り」しているのであり、相手の意図を見抜いて用心しながら打ち進めねばならない。それらを全部封殺する石運びが要請されていることを知らねばならない。「相手の手入れ」に対しては、その意味とか狙いを窺うべきで、決して手拍子で打ってはならない。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【着手法その№、要石及びその周辺に抜かりなきよう。命(いのち)石は後生大事に保全せよ】
 「一つ、要(かなめ)石及びその周辺に抜かりなきよう」。ところで、要石には、「構想上の要石」と「石の折衝上の要石」の二種類がある。「構想上の要石」とは背骨的な要石で、「石の折衝上の要石」は変わり身する要石である。この二つの要石の違いを識別しながら打ち進めなければならない。経験則として云えることは、構想上の背骨的な要石には護衛艦をつけておくのが良い。護衛艦とは、要石の付近の相手の石にノゾキとか利かしとかの石を付けておき、相手が要石の取りかけに来た場合の邪魔をする石のことを云う。普通はノゾキとか利かしとかはコウ材を減らすことにもなるので打ち惜しみすべきなのだが、構想上の背骨的な要石の場合には打ち惜しみせず護衛艦をつけておくのが良い。

 一つ、命(いのち)石は後生大事に保全せよ」。要石と似ているが要石以上に要石な命(いのち)石がある。要石とどう違うのか。それは、要石は今は要石であるが後に要石でなくなったり、あるいは逆に要石でなかった石が要石になったり有為転変するが、一貫して要石であり続け、よほどのことがない限り手放してはいけない、いわば生命線を為しているのが命石である。

 仮に命石を失うとどうなるのか。それまでの優勢な碁、石全体が有機的に働いている碁の形とリズムが崩れ、次第にバラバラになり劣勢に陥ることになる。つまり損得計算できない、損得計算で測れない重要な石が命石である。故に「命石は後生大事に保全せよ」と云うことになる。

 2014.09.22日、2015.02.15日再編集 囲碁吉拝

【着手法その№、治まる場合の手戻しの要諦は、最も確実安心な二眼確保地点にガチッと守るのが良い】
 「治まる場合の手戻しの要諦は、最も確実安心な二眼確保地点にガチッと守るのが良い」。いわゆる錨(いかり)を降ろすような手を捜すことが肝要である。俗に「渋い手」とも云う。一見、屈するように見えるが、闘いに強く出る為に必要な屈伸であると思えば良い。逆に云うと、低く屈して補強したからには強く転ずる資格を有している。この権利をどう使うかは自由であるが、こう合点せねばならない。

 2014.6.9日、負けたくない相手に「味悪の場合の元からの手入れ」に失敗し負けた。原因はそれである。二度と失敗しないようにと誓う。肝心なことは次のことである。手入れする場合には、僅かの地の損得より仮にコウに持ち込まれる場合もあり、その際の受けにも丈夫なようなところ即ち「形の芯」に石を置かねばならない。これができかねて間に合わせの味悪の手を打つことが多い。こういう打ち方は俗に「ヤキが入っていない」と云うことになる。もっとも急所と芯の手を探すのが棋力通りだから上達あるのみと云うことにもなる。

 石の繋がりもそうである。味悪な繋がりは石が混んで来たときに狙われる。最初からか途中からかは状況によろうが整形が必要である。あるいは場合によっては上手く捨てるのかも知れない。

 2014.09.22日、2015.02.15日再編集 囲碁吉拝

、し、万全の生き基礎とするように着手するのが良い。治まる場合の要諦は石の形の急所と芯を探し、元の不安を断つところに形良くガチッとと云うか、そこに石を置かねばならない


【着手法その№、形の悪い姿は危険信号である。次から次へと悪連鎖反応する恐れがあるので要注意である】
 「形の悪い姿は危険信号である。次から次へと悪連鎖反応する恐れがあるので要注意である」。その通りである。

 2017.3.24日 囲碁吉拝

【着手法その№、今は良くても将来に禍根を残す継ぎ方は良くない。継ぎ方で棋力が分かる】
 「今は良くても将来に禍根を残す継ぎ方は良くない。継ぎ方で棋力が分かる」。その通りである。ツギには堅ツギ、掛けツギ、緩ツギ等々があるが、局面と局勢に相応しい継ぎ方をしなければならない。特に「緩ツギ」が曲者である。その傷を利用されて周囲から攻め込まれることを覚悟せねばならない。周囲が強くて、相手の侵食攻めに耐えられるのなら、その「緩ツギ」が成功するが、リスキーな訳だから例外的に採用されるべきだろう。

 2017.3.24日 囲碁吉拝

【着手法その№、ダメ詰まりにご用心】
 打ち進めているうちにダメ詰まりの手が発生している場合がある。これを予見し手を戻すのと、気づかずに手にされるのとでは大違いである。今日は、この手でやられた。局面優勢だったので、何で味悪のところをキチンと補強しなかったのかが悔やまれる。

 2016.7.3日 囲碁吉拝

【囲碁技術編/その3、攻め合いの棋理】

【棋道講座その№、攻め合いの要諦と原則】
 布石理論、詰め碁、手筋、寄せ方等々についての解説書は多いが、なぜだか分からないが、攻め合いの要諦、原則についてのものは見当らない。攻め合いの要諦、原則論もかなり重要ではなかろうか。

 囲碁吉の経験則で記しておくが、第1の要諦は、攻め合いの勝ち負け帰趨をよく読んで、何手勝ち、何手負けを正確に確認しておかねばならないと云うことである。何手勝ち、何手負けを正確に確認した上での手抜きなら構わないが、取っているつもりで放置し、頃合に攻め合いが再開されたところ当方負けと云う形は最悪である。

 次の要諦は、相手石を「目あり目なし」に誘導することである。「目あり目なし」の威力は凄まじく、目のない方は一見攻め合いに勝っているようでも目あり目なしの場合には目のない方が負ける。

 第3の要諦は「欠け目の手順」があれば放り込んでおくのが良い。これで随分相手の手数が短くなることが多い。

 第4に、勝敗不明の攻め合いの場合には、相手の逃げる幅の広い方から攻め、広い方に逃げ込ませないようにせねばならない。こちらの厚みが働く方に追い込めば欠け目にする方法があったりして二眼できず、又は手数が伸びない。これを逆に打つと、勝ってる攻め合いも負けてしまう。

 第5に、無理に取りに行かず、こちらが先に生きる方法があれば先に生き、相手が手を入れない場合には肝心なタイミングで攻め殺しに向かうと云う方法もある。この辺りは勝負の呼吸だろうと思う。

 第6に、生きる方法は二眼持つ方法と繋がる方法の二種があり、繋がる方がより賢明と云う理を知らねばならない。逆に相手の石は分断にして生きを問うのが良い。どちらの石も分断されていると攻め合いが複雑になる。

 攻め合いの原則でもう一つの要諦がある。攻め合いを仕掛けられた場合は止むを得ないが、仕掛ける場合には、その前に考えねばならないことがある。どういうことかと云うと、懸案の数子を捨石にして外勢的に十分な利益を得られる場合には、懸案の数子を捨石にすべきである。締め付けに使えるし、コウ材になるし、何かと含みが多い。このことが分からず、懸案の数子を動いて攻め合いに持ち込んで徒な苦労をしている場合が多い。これを判断能力と云う。練習碁の場合には攻め合いの勉強として試すのは良いが試合では厳禁だろう。

 2015.4.2日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、着手が分からないとき、異和感を感じるときは、そこを打つな】
 互いの石が折衝し応酬し合う時に、手番で良い手が浮かばず、どう打って良いのか分からないケースがある。着手が分からないとき、あるいは打とうとする手に異和感を感じたり、相手が打った手にオヤッと思う時がある。これを「手どころ」と云う。「手どころ」では平凡な手を打ってはならない。この時こそ正しい応接を求めて苦吟し、暫し考え棋力通りあるいは棋力以上の手を生み出す癖を身につけたいと思う。

 気の進まないまま適当なところに打つ手は局面に相応しい手ではないので気が進まない訳で、例えば筋違いの手を打とうとしているとか、手割上、問題がある手を打とうとしているとかで、心耳を澄ますと別の箇所が着手を要請していることが多い。こういう場合、意外な着想による別の手を見出すとか、そこを手抜きして転戦した方が良い。実践でこのような聞き分けができれば腕が上がっている。これを仮に「着手見えずの理」と命名する。これも神の声である。これとは逆に、ここはこう打ちたい、例えばキリたいと思うケースがある。こういう場合はそこへ着手するのが良いことが多い。そこへ打ちたいが、その後の展開が分からないという局面での手である。「神の手」と関係している場合が多い。但し、ある程度までは読みを入れねばならないとも思う。これを仮に「こう打ちたいの理」と命名する。

 2015.3.17日 囲碁吉拝

【棋道講座その№、糠釘緩手禁物、臆病不要手禁物】
 「糠釘緩手禁物、臆病不要手禁物」。攻め合い時の一手の糠釘緩手が怖い。場合によっては攻守逆転の命取り、あるいは戦線逃亡になる。一段落しているのか、していないかの棋力眼力を要するが、緩手は禁物と心得るのがよい。

 攻め合い時の手入れ問題もある。味悪と粘り石の二つの石がある場合、粘り石の粘り方を読み取った上でであるが、味悪の方の手入れが喫急と心得たい。

 勝勢の折の臆病不要手も禁物である。それらは石の流れを変調にさせる。とどのつまりは自滅手を呼び込み、好局を不意にすることになる。自戒せよ。

【囲碁技術編/その4、空中戦の棋理】

【棋道講座その№、空中戦の道中で腰を入れる手が打てるかどうか】
 囲碁は中盤以降、どこかで空中戦になる。その際の肝要事は、「空中戦の道中で腰を入れる手が打てるかどうかにある」。この手が打てぬまま打ち続けるのを腰が伸びていると云う。凡そ勝負事で、腰が入っていない状態で戦うと最後に負けるケースが多い。

 2017.5.8日 囲碁吉拝






(私論.私見)