囲碁の院生、将棋の奨励会の昇級・昇段規定考

 更新日/2017(平成29).6.24日

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで、「囲碁の院生、将棋の奨励会の昇級・昇段規定考」をものしておく。

 2017.6.24日 囲碁吉拝


【将棋の奨励会の昇級・昇段規定考】
  「小学生で“死”を覚悟!プロ棋士を目指す子供に立ちはだかる、高すぎる壁 」を転載する。
 前回より、石田直裕四段の例から「子供を藤井聡太にしたい場合の労苦」について言及しているが、今回はまずプロ棋士の登竜門である「奨励会」の実情から見ていこう。

 奨励会は六級からだ。日本将棋連盟は、HPで昇級昇段規定を次のように説明している。

 「三段から四段への昇段は年2回の三段リーグに参加し、1・2位の成績を取ること。初段~三段までの昇段点は、8連勝、12勝4敗、14勝5敗、16勝6敗、18勝7敗。6級~1級までの昇級点は、6連勝、9勝3敗、11勝4敗、13勝5敗、15勝6敗」。

 奨励会に集まるのは小学生時代に県大会代表になったような面々ばかりである。そんな中で6連勝だの、9勝3敗だのが滅多にできるはずがない。これを延々と続け、まずは三段まであがって「三段リーグ」に加わり、26歳までに三段リーグで1位か2位になるしか、プロ入りの道はない。26歳でプロになれなければ、クビである。つまり、プロ棋士とは大げさに言えば「小学生時代に、26歳で死ぬ可能性があることを受け入れた」男たちの集団なのだ。

 一度だけ、筆者は藤井四段の取材で奨励会例会を見学したことがある。立ち入りが許されたのは最初の15分だけだが、一言で言って「もう二度と行きたくない」場所である。朝八時集合で、九時の対局開始まで倉庫から盤を取り出して並べ、駒を磨くわけだが、その間誰一人と目も合わせず、一言も口をきかない。挨拶すらない。隣のコイツを倒さなければ自分が上にいけないと小学生が敵意をむき出しにしている。お互い、奨励会に友達はいない。九時に業務連絡と昇級・昇段者の表彰が始まる。その日藤井聡太が二段に昇段したが「藤井聡太初段、規定により二段に昇段です。おめでとう」と幹事が声をかけても拍手はまばらだった。「パチパチパチ」ではなく、「パ…ッチ、パ……ッチ、パ…」だ。この「チ」も本当は小文字にしたいくらいだ。あれほど心のこもらない拍手は見たことも聞いたこともない。

 ここで間違えてはならないのは、奨励会で「六級」は最底辺ではないということ。実はまだその下に「七級」がある。石田直裕四段は、奨励会入会間もなく、2勝8敗を二度繰り返して規定により七級に降級している。母・寿子氏がそのときのことを振り返る。「七級に落ちた時は今も鮮明に覚えています。主人と新千歳まで迎えに行ったのですが、後部座席から泣き声がずっと聞こえているのですよ。あのときは声をかけられませんでした」。

 ◆きわめて難しい、奨励会と高校の両立

 いつだったか、筆者は本人に「将棋で負けて初めて泣いたのはいつか」と聞いたことがある。すると、こんなふうに言っていた。「六級から七級に落ちたときは、これだけ親に負担をかけて、好きな将棋をさせてもらっているのに、あまりにも不甲斐なくて両親に申し訳なくて泣くしかありませんでした」。当たり前だが、名寄でプロ棋士を目指した前例などあるはずがない。棋士の中には教師や同級生から理解してもらえず苦労した人もいると聞くが、その点、直裕は恵まれていた。「幸い、学校の先生も早退する事情をよくわかってくださって、快く送り出してくれましたし、同級生もいつもノートを書いてくれました。本当によくしてもらったんですよ」(寿子氏)。

 しかし、この親しかった同級生ゆえに、のちのち直裕は大きく苦しむことになる。高校進学の時期を迎えたがもちろん、藤井四段と違って当時4級の直裕がいつ四段になるのか、そもそも四段になれるのか保証は全くなかった。寿子氏はこの時期を振り返る。「名寄にも二つ高校はあります。しかし、このままの生活を続けては移動の時間がもったいないですし、何より研究会などで対局している人たちには追い付けない。ネットで師匠の所司先生に教えていただきましたが、それも限界があります。計算すると、あの子が東京でアパートを借りて生活する費用と月二回飛行機で移動する費用はほぼ同じなんですよ。一人っ子で、贅沢しなければなんとかなるからと東京の高校に進学することを決めました」。

 だが、東京の高校ならどこでもいいわけではなく、ここで奨励会員独特の問題に直面する。「あの当時は、月に何回か必ず奨励会員はプロ棋士の対局で記録係を務めなければなりませんでした。持ち時間が長ければ、深夜になることもあります。となると、全寮制の門限がある学校には入れないのです。アパートの一人暮らしを認める学校はほとんどないんです」。念のため付け加えておくと、「記録係」とは、プロの対局で駒の動きを記録する係である。NHKの対局などで「XX先生、持ち時間が残り3分となりました。1,2,3…」などと声をかける人の姿を見たことがある方もおられよう。あれが「記録係」で、奨励会員にとっては決しておろそかにできない修行の場でもあるのだ。

 ◆18歳で二段に昇格してもまだまだ遅い

 結局、直裕は兄弟子でもある渡辺明・現竜王と同じ学校へ進むことになる。「渡辺さんにご紹介いただいたのですが、ここなら事情を説明しなくていいですからね」(寿子氏)。直裕は高校卒業の時点で二段まで昇段していた。プロの可能性は十分あるが、到底安心はできない。現に「オール・イン」の著者・故天野貴元氏は16歳で三段昇段しながら26歳四段の条件を満たせず、退会に追い込まれている。そう考えると18歳二段は全く楽観できるものではなかった。万一就職する場合を考え、大学進学は石田家において既定路線だった。

 大学在学中に、直裕は三段リーグに加わった。余談だが、この三段リーグで藤井聡太四段は「13勝5敗」で一期で勝ち抜いた。逆に言うと、三段リーグとはプロ入り後二十何連勝する強い藤井聡太ですら5回負ける恐ろしい場所なのだ。藤井聡太より明らかに才能が劣る石田直裕が同じく「13勝5敗」で一期抜けするのは不可能だった。「三段に入ってからも、全然昇段できるような成績ではありませんでしたからね」(寿子氏)。大学卒業の時期を迎えても、まだ直裕は四段に昇段していなかった。ここで、石田親子の地獄の苦しみが始まる。  

 子供を藤井聡太にしたい親への助言――石田直裕四段の例に見る」を転載する。

 【タカ大丸】
 ジャーナリスト、TVリポーター、英語同時通訳・スペイン語通訳者。ニューヨーク州立大学ポツダム校とテル・アヴィヴ大学で政治学を専攻。’10年10月のチリ鉱山落盤事故作業員救出の際にはスペイン語通訳として民放各局から依頼が殺到。2015年3月発売の『ジョコビッチの生まれ変わる食事』(三五館)は12万部を突破、26刷となる。最新の訳書に「ナダル・ノート すべては訓練次第」(東邦出版)。雑誌「月刊VOICE」「プレジデント」などで執筆するほか、テレビ朝日「たけしのTVタックル」「たけしの超常現象Xファイル」TBS「水曜日のダウンタウン」などテレビ出演も多数。

 だが、一つ気になることがある。ワイドショーなどで必ず話題になるのが「収入・賞金」である。藤井四段がこのまま快進撃を続け、賞金最高額のタイトル「竜王」を獲得すれば4320万円である。「そんなにもらえるなら、私の子供にも将棋をさせようかな」というコメンテーターがちらほら見られる。だが、一言だけ言っておく。「冗談もほどほどにしてくれ」と。当たり前だが、プロ棋士の中で竜王になれるのは一人だけである。しかも棋士になれるのは年間4人。プロ棋士約160人中、一人しか四千万円をもらえないのだ。

 端的に言って、竜王・名人になるのは横綱や総理大臣になるより難しい。子供に四千万円稼がせたいなら、読売巨人軍で一軍を目指すほうがよほど簡単だ。ジャイアンツでなくとも、プロ野球12球団のレギュラークラスになれば、それくらいもらえる。子供の知能・情操教育に将棋を取り入れるのは大賛成だ。だが、万が一あなたが藤井四段を見て「将棋で子供に稼がせよう」とお思いなら、以下を読んでからにしていただきたい。

 石田直裕四段の場合

 現在28歳の石田直裕四段は北海道名寄市出身・所司和晴七段門下のプロ棋士だ。2012年10月に23歳でプロ棋士となり、名寄市長特別賞を受けた。2014年「加古川青流戦」で優勝、私生活でも2015年4月に披露宴をあげた。筆者も、彼の婚姻届に証人として署名した。彼がプロになるまでの軌跡を名寄で母・寿子(ひさこ)氏に伺った。

 石田が将棋に出会ったのは小学5年生のときだった。「たまたま知人の息子さんが将棋をしていて、誰か相手がいないかと探していたのですね。それでうちの息子が手をあげたのが始まりです」(寿子氏)。お断りしておくが、プロ棋士の中で「小5から始めた」というのは異様に遅い部類に入る。藤井四段は5歳、あの羽生善治三冠で6歳である。本来それくらいの年齢で始めて、人生の全てを捧げなければまず間に合わない。直裕はめきめきと腕をあげ、名寄の地方大会で優勝し、たった一度だけ北海道大会に進出する。そのときは8位だったが、名寄支部に所司七段の知人がいて、プロ棋士養成機関「奨励会」入会を勧められる。まだ小6だった直裕はこの誘いを真に受けてしまう。寿子氏からすれば、寝耳に水そのものだった。

 「私からすると、なんのこっちゃ、という話ですよね。そんな世界があるとは知りませんし、そもそも将棋でどうやって食べて行けるのだろうという感じですよ」(寿子)、「普通なら県大会代表でも奨励会に入れるかどうかでしょう。私がその大人なら、北海道8位の子供には声をかけないと思います」(筆者)、「今の私ならそう思います。奨励会入会試験で私も東京に行きましたけど、全国大会常連の有名な子供たちが揃っていて、そのお母さんたちもみんな知り合い同士なんですよ。その点うちの子なんて北海道でも誰も知らないくらいでしたから、私も控室で場違い感がすごかったですね」(寿子)。

 石田は入会試験に一発合格を果たして奨励会六級となった。しばらくは寿子氏も同行した。「慣れるまでは大変だと思い、何度かは東京まで一緒に行きました。そのとき、青森と新潟から来ていた奨励会員の子がいて、その二人のお母さんとはいつも一緒になりました。そして慣れた頃から一人で行くようになりました」。

 北海道の片田舎からやってきた石田親子は東京に圧倒されたが、もう一つ圧倒されたものがあった。「ネクタイ」である。「例会に行きますでしょ。そのとき、三段リーグを見るとみなさんネクタイを締めていたんですよね。うちの子と比べてものすごいお兄さんだなと思いましたし、ネクタイを締めるくらいの年齢までプロ棋士になれるかどうか粘らなければいけないのだと痛感しました」(寿子氏)。

 ここで石田一家は北海道特有の問題に直面する。交通の便の問題である。後日あらためて触れるが、JR北海道はいつ破綻してもおかしくない。鉄道の便自体が極端に少なく、直裕が東京に向かうため空港へ行くにも公共交通機関を頼ることができない。「当時は月二回の奨励会例会も、今と違って平日だったんですよ。ですから、例会前日のお昼休みに私が学校へ迎えに行き、片道二時間かけて旭川空港へ送るんですよ。その日は千駄ヶ谷の将棋会館近くにある日本青年館とかに泊まるわけです。そして例会で一日二局指したら、夕方の五時か六時ですよね。もうその時間になると旭川便がないんです。ですから息子は新千歳行きの最終便に乗るしかありません。そのときは夫が片道四時間かけて車で迎えに行き、私も助手席に座っていました」(寿子氏)。

 しかし、間もなく石田は大きく周囲を裏切り、人生最大の危機を迎える。次回は、筆者が実際に見た奨励会の光景などについて迫る。








(私論.私見)