井上家 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).5.26日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで日本囲碁史考補足として江戸時代の「歴代名人、碁所、家元四家」を確認しておく。「歴代本因坊家他」を参照する。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
【井上家】 | ||||||||||||||||
井上家は、幻庵の世系書き換えによって中村道碩(名人)を元祖とし、以下一世ずつ繰り下げ、それまでの1世井上因碩を2世として1代ずつ繰り下げ、10世井上因碩(幻庵)がみずから11世と改称した。3世(4世)井上因碩(道節)が名人碁所となった。跡目の井上友碩を入れ中村道碩を除くと井上を名のった者は16名。 | ||||||||||||||||
2020.6.9日付け「囲碁家元 井上家の墓」。
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井上家傍流に服部家あり。 |
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名人碁所。 京都に生まれる。一世井上因碩(玄覚)の師であったことから、幻庵の時代に井上家の元祖一世として世系に追加された。本因坊算砂の弟子であるが、慶長17年の記録では、31歳の道碩は、師の算砂(52歳)、利玄、将棋所宗桂と同じ五十石取りとなっており、棋力は相当のものであったと思われる。残された棋譜からも、中盤以降の力は現代でも通用すると評価される。算砂は晩年碁所としての家督の全てを道碩に譲り、道碩は二代めの名人碁所となる。また、算砂の遺言により、算悦を鍛え本因坊家再興にも尽力する。 |
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上手七段。 古因碩または、玄覚因碩という。山城出身。中村道碩の弟子として、道碩の跡を継いで井上家を興す。坊門の記録に山城の出身とあるだけで、当時井上家本因坊家とも火災があり大半の書類が焼失し、詳細は不明である。 |
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石見出身。本姓山崎、幼名千松。本因坊道策の弟。本因坊道悦の門下で道砂を名乗る。二世井上因碩の没後、相続人のなかった井上家について、道悦が道砂の相続を願い出て、井上因碩となる。(以来、井上家は代々因碩を名乗ることになる)退隠後は休山と名乗った。 |
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名人碁所。 美濃国大垣の生まれ、本姓桑原。最初本因坊門下で、本因坊道策の五弟子の一人であったが、他の4人とは年齢が離れており、道策の1歳年少であったため、他の弟子とは立場の異なるものであった。貞享元年、本因坊道策は小川道的を本因坊家の跡目と定めるにあたって、道節の処遇について苦慮することとなった。道節は道的に劣らぬ実力であったが、年齢的に道策の後を継ぐには無理があったので16歳の道的の将来性に託すこととした。これにあたり、道節から不服が出て争碁を求めることが予想された。かといって本因坊家の味方として留め置かなければならないと考慮した結果、道策は道節を井上家三世因碩(道砂)の相続人とした。元禄3年、井上家の跡目となり、元禄10年、三世因碩が没して四世因碩を名乗る。 元禄15年、師の本因坊道策は臨終の間際、道節を初め各家元を呼び、本因坊五世道知の後見となって本因坊家の繁栄に助力するように依頼した。このとき、道知を名人碁所に就けるよう託し、道節自身は碁所を望まないことを約束させられた。このとき、道節は八段準名人に勧められている。道知の後見となってからは、御城碁の対局もなく、師の遺命の通り道知の養育に専念。道知が無事に御城碁を勤めるようになって4年後、その実力を試す十番碁が打たれ、このとき道知定先の手合で道節因碩の6勝3敗1持碁。その翌年にはさらに七番打たれた。後の七番碁は棋譜もなく、結果も不明だが、おそらく道知の進歩が著しかったものか、道節は後見を解くことを決めた。このとき、道知から道節の長年の指導に報いるために、名人に推挙したいと考えたと思われる。道節は、師の遺言で名人碁所とならないことを約束していると断ったが、道知は「碁所を望むなと言ったのであって、名人の地位には上れる」と言い納得させるのであった。その後、宝永7年琉球からの棋士が来訪し手合を望み、本因坊道知が対局。帰国にあたって免状の発行を求められたが、碁所不在であった。道知は21歳の若年でまだ七段であったため、長老格で名人の地位にある道節が免状発行の目的のみで一時的に碁所に就くこととなった。師の遺言には反するが、適当な対応であると他家も了承し、この免状発行が終わったら直ちに碁所を退隠して道知に譲ると約束して、実際に碁所として免状をしたが、退任の約束を果たさず、没するまでの9年間碁所であり続けた。元来、名人碁所は本因坊家の独占でもなく、道策の遺言こそが無理なことであり、道節の実力からして、また、道知が年齢的に21歳と若すぎたことから考えても、道策と道知をつなぐ道節因碩の名人碁所時代があっても不都合はなく、碁所を退任しなかったことを責めるにはあたらないだろう。 |
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菊川友碩(きくかわゆうせき) | ||||
後に四世井上因碩(道節)の門下となって名を因節と改める。さらに、5世因碩(策雲)の養子となって井上友信と称した。上手に進み、御城碁にも出仕したが、井上家の家督には至らなかった。 |
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越前の生まれ、初めの名を三崎策雲。本因坊道策の弟子。元禄15年四世井上因碩の跡目となり、名を因節と改める。享保4年、四世因碩の逝去により五世因碩を継ぐ。本因坊道知が名人碁所となったのち、安井仙角、林門入とともに八段準名人にすすんだ。 | ||||
相原可碩 |
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美濃の生まれ、本姓高橋 (高橋友碩) 。初め本因坊道策の門下となり五段まで進む。後、四世井上因碩の門に入り六段を許された。享保5年、五世井上因碩の跡目となり、御城碁に出仕したが、家督にはいたらず没する。尚、同じ道策門下で友碩の名は、菊川友碩があるが、別人。 |
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下総の生まれ、最初の名を伊藤春碩。五世因碩(策雲)の門下で、跡目友碩の物故により再跡目となる。このとき21歳六段。その年から42年間御城碁に出仕し40局を勤めた。享保19年、5五世因碩の隠居により六世因碩を継ぎ、その翌年七段。六世因碩は、生涯に本因坊家と2度にわたって争碁を打った。元文4年、本因坊秀伯の七段昇段申し立てに、五世林門入と共に異議を唱え、秀伯と争碁を開始するが、これは途中秀伯の病気によって預かりとなる。さらに後年、明和3年、本因坊九世察元が碁所を望むのに対抗して争碁となる。これは、因碩5連敗となり、その後打ち込まれるのを恐れた因碩が次の対局を避け、察元の名人昇格を以って終了となった。寛延元年には、琉球棋士の来日に対して前例に倣って3子置かせて対局したがこれに惨敗し、免状を求められて「日本国大国手」と揮毫したため、日本の碁界全体が低く見られることになってしまったことがある。 |
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1738-1784、57、上手七段。(岡田春達、常陸) |
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1746-1805、59、上手七段。(吉益因達、安芸) |
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1774-1810、37、上手七段。(佐藤春策、備後) |
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1784-1829、45、六段。(山崎因砂、石見) |
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1798-1859、61、準名人八段。(橋本安節、幻庵、江戸) |
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1820-1856、36、六段。(橋本安節、秀徹、江戸、戸田秀徹=本因坊丈和の子) |
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1831-1891、60、上手七段。(松本錦四郎、江戸) |
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京都の仁王門通の寂光寺には、山崎外記が建立した歴代本因坊家と井上因碩家の墓石がある。春策の墓石もある。 |
(私論.私見)