囲碁の呼び名論

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.12日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、囲碁の呼び名を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【囲碁の名称変遷考】
 碁は長い歴史の中で様々に呼び名されてきている。囲碁発祥の中国では、紀元前に「棋」あるいは「*」と呼ばれていた。その後、同じ音の「碁」の字が当てられるようになり、この呼び名が今日まで至っている。
 「棊・奕・棋」/記録に表れたもっとも古い文字は、甲骨文の「棊」。中国呉の時代(222~280)に書かれた「博奕論」(韋曜)に「枯棊三百」 と記されている。「枯棊」とは、木でできた碁石のことを指し、同時に三百個が1セットだったことも示されている。古代中国では元来、日本とは異なって碁石に適した自然石が少なく、身近な潅木などから手作りしたものと思われる。日本の寛永年間(1624-1644)に編さんされた「玄玄棊經俚諺鈔」という版本に、「碁石は元(もと)、木を似て造る、故に枯棊と云う」と注記している。「棊」は「棋」と同様、古代は「碁石」を意味していたことになる。
 「奕」/「春秋左氏伝」(左丘明)という書物の襄公25年(紀元前548年)の条に、 「君を視ること奕棋に如かず」と書かれているのが初見である。「奕棋」の 二文字が連結して使われている。時として「奕」も使われるが、これは俗字で「重なる」、「大きい」、「美しい」という意味で、「博奕」と書いて「ばくち」と読ませる。紀元1世紀末にできた最古の辞書「説文解字」には、「奕は圍棊也」とあり、 「圍棊」は文字どおり「棊(碁石)を圍む」ことを意味している。 「碁」の文字は、古今を通じて書聖と謳われている王義之(307-365?))によって書かれている。 なお、「圍碁」については唐代の顔眞卿(709-785)が「圍碁百事忘」と書いている(「竹山連句」)。

【囲碁の別名考】
 囲碁には昔から沢山の別名がある。それぞれ納得のいく別名であることに感心させられる。「黒白(こくびゃく)、烏鷺(うろ)、方円(ほうえん)、手談(しゅだん)、座隠(坐隠、ざいん)、忘憂(ぼうゆう)、欄柯(らんか)、腐斧(ふふ)、橘中(きっちゅう)、河洛、敲玉、清遊(楽)、聖(仏)技、小宇宙、棊・奕・棋」等々である。これを確認しておく。
烏鷺 (うろ)  これは、囲碁の黒石白石を黒い鴉(烏、からす)と白い鷺(さぎ)に例えてのことであろう。「烏鷺の戦い」、「烏城、鷺城」との表現がある。
方円 (ほうえん)  「方」が盤(碁盤)の方なること地の如し。「円」が石(碁石)の円きこと天の如しの寓意である。これにちなんで、明治初年に村瀬秀甫準名人は囲碁結社を創始して「方円社」と称した。
手談 (しゅだん)  囲碁対局を着手による会話と捉えている。晋(AD 3~ 5世紀)の支公がこう呼んだ。英語で「Hand Talk」と訳されている。
忘優 (ぼうゆう)  晋書の中に「我亦忘優耳」(われまた憂いを忘るるのみ) とあり、これが史上初の登場といわれる。
爛柯 (らんか)  「腐斧」(ふふ)とも云う。柯(か)は「斧の柄」、爛は「ただれる、腐る」の意で、「斧の柄が腐り果てる」ほどの長い時間を表現している。斧の柄(柯)が腐(欄)っても気がつかないほど夢中になることを暗喩している。次のような伝説がある。
 概要「西暦紀元前凡そ7百年の中国の春秋時代の晋の国の伝説で、河南省信安の石室山の麓(別節に杭州を流れる銭塘江の上流)に王質という木樵(きこり)が住んでいた。ある日、近くの石室山(石橋山とも云う)の奥深く二入って行ったところ、山中の洞窟で四人の童子たちが楽しそうに碁を打っていた。碁好きの王質は立ち去りがたくなり見ていると、童子が王質にナツメの種のようなものを差し出して、『美味しいよ。これを食べれば、いつまでたっても腹が減らないよ』と云う。王質は斧を肩からおろし、腰をすえて碁の観戦をし始めた。不思議にもお腹が空かず、見ているうち時のたつのをすっかり忘れた。しばらくすると童子が言った。『そろそろ帰った方が良いのではないの』。見れば、杖にしていた斧の柄が腐り果てていた。驚いて家に帰ってみれば村の様子がおかしい。道を行き交う人は誰も知らない人ばかりだった。ようやく我が家とおぼしきところまで辿り着いたが、王質から七代目の末裔が住んでいた」。

 という故事(「述異記上」)から生まれた雅称である。この話は少しづつ変わっていろいろ伝えられている。いったん里に帰った王質が再び山に入り、道を得た。つまり仙人になった。その後時折見かけたが、やがて行方が分からなくなった、と云う。また、太平寰宇記(たいへいかんうき)にある爛柯の説話では、王質が石室山で碁を囲んでいるのに出合ったのは、童子でなく仙人だった等々。

 江戸末期に碁界四家元の一つ林派を主宰した舟橋元美は爛柯堂と号し、有名な囲碁エピソード集「爛柯堂棋話」を遺している。
坐(座)隠 (ざいん)  居ながらにして隠遁するの意で、碁にのめり込む様子を隠者の姿と重ねて囲碁三昧の境地を表現している。王担之は、「囲碁は遊戯中の王である。全ての遊戯は自分を忘れて喧噪になるが、碁は沈思を重んじる」として「坐隠」と言った。「世説新語」(巧芸編・劉義慶)の中で、「王中郎((担之)は囲棊を以て是れ坐隠なりとし、支遁(支道林)は囲棊を以て手談と為す」とある。「顔氏家訓」(雑芸)にも、 「囲棋は手談・坐隠の目にあり、頗る雅戯となす」とある。この言葉は日本にも比較的早く移入されており、 「日本紀」(875年)や菅原道真(845~903)の囲碁をうたった漢詩の中に出てくる。
河洛 (からく)  河洛の図・九宮之位置」。この名の由来は古棋書「河図洛書」で、戦争の陣形を型取ったと思われる「魔法陣の数字」が書き込まれ、数を図像化、配列している。図示するのに黒丸白丸を用いており、これが碁に通じていると考えられている。囲碁はこのように戦争の机上作戦の道具として使われていたことになる。ちなみに安井仙知は打碁集「河洛余数」を上梓した。
敲玉 (こうぎょく) 「敲」は推敲の敲。「玉」は玉石の玉。つまり玉石を推敲するの意。1897(明治30)年に石谷広策が本因坊秀策の碁譜500局を編し、「敲玉余韻」と題して上梓している。又、1907(明治40)年に雁金準一が「敲玉会」を創立している。
橘中楽 (きっちゅうらく)  「橘中(きっちゅう)の楽(たのしみ)」、「橘中の仙」とも言って、中国の故事(幽怪録)に出てくる。巴(は)きょうの某(なにがし)と云う人が庭の巨大な橘(たちばな)の実を割ると、中で二人の仙人が碁を興じていたとの話である。橘の中は俗界と違う時間の流れる別天地で、囲碁はその小宇宙に遊ぶ神仙の遊戯と例えている。





(私論.私見)