囲碁吉の天下六段の道、棋理論7/終盤論(寄せ) |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和4).7.4日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「囲碁吉の天下六段の道、棋理論7/終盤論(寄せ)」を書きつけておく。これは平素書きつけていたものを元に、2015年初頭辺りから1局打つごとに気づいたことを書き加え、書き直し続けて現在に至るものである。2015.3月、最近出くわした「囲碁紫煙荘」の「囲碁講座」、「囲碁講座part2」、「革命的格言講座」、「坂田栄男『囲碁名言集』(有紀書房、1988年[1992年版])の終盤編」その他を参照する。以来、一局打つごとに何か教訓を引き出し、該当する箇所の書き直しをしている。これが結構面白くて為になるんだな。途中からプロの碁の対局を見ながら得た感想をも記すことにした。2016年10月、古書店で、菊池康郎(著)「囲碁に強くなる本」を手にいれた。非常に有益なことが書かれてあり、これを取り込むことにする。 ひとたびは思いつくままに書きつけ、後に推敲を加え、次第にいっぱしの囲碁理論にしたいと思っている。囲碁吉が自分の戒めの為に磨きに磨いているものであり、アマの且つそれほど強くもない囲碁吉の囲碁論であるから説得力も権威もない。囲碁吉が今後ひょっと強くなったら、ここに書いたことの値打ちが上がるだろう。今はまだまったくダメですたい。相変わらずアマの県代表レベルに3子、4子(4子、5子かな?)の手合いでしかない。何とかせんととは思っているのだが。いざ出航せん。最新の方法として、最も肝要と思われる気づきを頭出しにして並べ替えて行こうと思う。 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝 |
【終盤(寄せ)論】 |
布石、中盤に続いて終盤がやって来る。終盤は、この期で勝負の決着をつけることになるという意味での一局の収穫期にして且つ集大成(総仕上げ纏め)期となる。英語で「クロージング」と云う。序盤で苦心の設計を凝らし、中盤で力いっぱい戦って、その努力を正確なヨセによって結実させる。「序盤の十目は惜しむな、ヨセの一目は惜しめ」といわれる。布石は一局の骨格を形成する時期であるから、部分にこだわらず、どんどん大場をめざす。しかし、ヨセはキメのこまかい仕上げの段階であるから、一目、半目もおろそかにしない緻密な神経が要求される。この棋理を確認しておく。 「終盤の棋理」の理解で踏まえるべきは布石、中盤の次になだらかに来るものではないと云うことである。即ち、布石、中盤の次に来る最初のものとして投了がある。次に投了に等しき大差がある。投了死線を超えた果てに数え碁になる伯仲戦がある。この伯仲戦の果てに大寄せ、小寄せがある。終盤はこういう流れと解するべきであろう。 「終盤の棋理」は二方向あり、一つは「捕り物帳」、もう一つが「寄せ」になる。問題は次のところにある。そのいずれにおいても淡々とした流れはないと心得るべきである。まず、優勢な勝ち碁であるか負け碁であるかを形勢判断し、勝ち碁の場合には「自陣の傷口をなくし」、「早めに店じまい」し、そのまま「万全の寄り」で勝ちきるのが賢い。逆に負けている碁は勝負手を連発して乱戦の道へ誘い込み、逆転の道を創出せねばならない。細碁の場合は寄せ負けしてはならない。こうあるべきところ、勝ち碁側が相手の誘い手に乗らなくても良いのに乗り、逆転負けを喫すことがある。これなぞは初学者丸出しのお粗末君である。他にも終盤で見落としとかポカ手を出して負けることがある。論外であるが案外と多い。これについてはメンタルトレーニングを要する。要するに、冷静沈着に常に全体を見回して局面上の好手を打ち続けて勝利を呼び寄せねばならない。これらを総合して「終盤の棋理」と云う。これを能(よ)くする能力を「終盤力」と云う。 終盤では互いの石が相当に絡み合い煮詰まってきているので事件化するタネが多い、痺れるような手筋が潜んでいると心得るべきである。終盤ドラマを堪能するのが囲碁の醍醐味であり、それをせずにのんべんだらりと寄せて行くことほど詰まらないものはない。かく理解して「終盤の棋理」を楽しむべきである。 終盤には、「終盤のドラマ」とは別の細やかな寄せあいの局もある。中盤までの競り合いで手抜きや宿題にしていた箇所がそれぞれにあり、それらをどういう順序でどういう風に仕上げていくかということが問われている。中には大きさが勘定できないところもあり、これをどのタイミングで手をつけるのかという問題もある。 アマチュアはヨセが嫌いで不得手な者が多い。これに対し、坂田栄男は概要次のように主張している。ヨセの手は大きさが計算できるから、大きいところから順に打てばいいので合理的である。布石、中盤は感覚、棋力が大きく関係するが、ヨセでは、強い人が打っても弱い人が打っても十目の手は十目、五目の手は五目である。こう考えてみると、ヨセこそアマチュアにもっとも適した分野ともいえるというのである。 寄せの留意点として、相手の寄せに追随するなという教えがある。これは存外大事で、プロの碁では見事な応酬がみられる。「相手の寄せに追随するな」とは、要するに言いなりにならず、自分の側から見て打ちたいところへとにかく打つという自己主張が肝要である。相手の寄せに受ける手が5目の値打ちだとして、自分の側にそれ以上の寄せがある場合には必ずそちらへ打たねばならない。これが寄せの気合である。但し、単なる数値だけでなく味悪味よしの観点からの総合判断が必要である。 2015.02.16日 囲碁吉拝 |
【寄せ】 | ||
「寄せ」(以下、「ヨセ」と記す)には、目数差による識別で「大ヨセ」と「小ヨセ」がある。性質の差では先手後手が問われる「先手ヨセ」、「両先手」、「片先手」、「後手ヨセ」、「両後手」、「逆ヨセ」などがある。つまるところ、ヨセは先手の争いである。いつでも先手をとるくふうをしよう。以下、「ヨセ」について確認しておく。 「終盤の棋理」の花形が捕り物帳であるとすれば、「寄せ」は地味である。しかし、「寄せ」も捕り物帳に劣らず面白い。「寄せ」では「理由のない損をしてはならない」。正しい順序と応接による「寄せの順序」を想定し、その通りになる場合とならざる場合の修正力が問われており、そこが面白い。一説に、相手の寄せを受けてばかりいたら忽ちのうちに20目ぐらい損をし、さしもの優勢な碁をも勝てなくしてしまう。そういう意味で、形勢判断を能くし、優勢なら優勢のままに指しきる終盤力を発揮せねばならない。 優勢な局面での寄せは、各地の折衝で味良しを心がけ、局面を狭めて行かなければならない。その際の優先は、自陣の味良しになる大ヨセが一番、味良しの手入れ守りが二番、単なる大ヨセが三番である。 これらの過程で仮にコウに持ち込む手があったとしても必ずしも行く必要はない。むしろ「確実なヨセ」、「味良しのヨセ」の方が理に適っている。不利な形勢の場合にはこれと逆である。紛糾の臭いのする箇所を見つけ、あちこちを絡ませてコウに持ち込むなどして荒ワザに訴えねばならない。座して死を待つような詰まらない寄せをするぐらいなら投了した方がマシである。 寄せにも胆力がいる。どういう意味かと云うと、どういう順序で寄せて行くかに関して相手があることだからして思い通りにはならないのが当たり前である。相手の寄せをどう受けてどう反発するのか、自分の意地をどう通すのか、この辺りに技量のみならず胆力がいると思う。これも新たな発見である。寄せ負けをしないこと、これが鉄則である。特に、両先手コスミに対しては警戒が必要で、両方打たれるようでは出世がおぼつかない。2か所ある場合には打ち分け、3か所以上ある場合には賢く立ち回らねばならない。 先手後手は形によって決まるのではなく、手の大きさによって決まる。「大ヨセ」は、一般に10目以上の価値のある大きなヨセの手を指す。例えば星の定石からできる形のハイコミなどは、ヨセに入ったら真っ先に打たれるほどの大きな手で約15目程度の価値があると見られる。大ヨセで、相手の石を取りきる場合、取り切らなかった場合のヨセられも考えねばならない。ヨセられる余地がある場合は取石と寄せられ分が勘定になるので案外と大きい。経験的に言えることは、取ったことで自陣の石がふっくらとする場合、大きい寄せと知って取り切り、後手を甘受すべきである。 「小ヨセ」は、一般に10目以下のヨセを指す。第一線のハネツギなどがこれに相当する。二線のハネツギ、切り取りをは最低でも6目の手になる。逆ヨセのチャンスをねらえ。 「囲碁梁山泊」(2017青春号29p、白石平明)は次のように記している。
寄せの局面で案外と手残りがあることが多い。この手残りの手を巧みに捜すのが「寄せの面白み」である。「キリ、ハネ、置きが寄せの三羽ガラス」であり、これらを駆使して手を見つけるべきである。その手を見つけたら、その手を成功させるべく細心の注意を払って最善の手順をつくして手を作らなねばならない。 それにしても、囲碁吉自身が寄せが下手なのに、その囲碁吉から見て更に下手な者が多い。それが何と囲碁吉の棋力以下の者がそうである。まさに寄せが棋力通りなことに驚かされる。これを逆に云えば、上達を望む者は上級者に寄せ負けをしないことが肝要と云うことになろう。これは「小さな発見」であるが「大事な発見」である。下手とも上手とも打つよう心掛けるべきなのは、こういう「発見の楽しみ」があるからではなかろうか。 |
【囲碁の要諦№、ジワジワと迫る、寄せる、それが実力】 |
「ジワジワと迫る、寄せる、その流れ方が実力」。言葉通りである。 |
(私論.私見)