囲碁吉の天下六段の道 序盤論(布石) |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6).1.14日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、囲碁吉の天下六段の道「序盤論(布石)」を書きつけておく。続いて、中盤論、終盤論を予定している。これは平素書きつけていたものを元に、2015年初頭辺りから1局打つごとに気づいたことを書き加え、書き直しして現在に至るものである。2015.3月、最近出くわした「囲碁紫煙荘」の「囲碁講座」、「囲碁講座part2」、「革命的格言講座」、坂田栄男の「囲碁名言集」(有紀書房、1988年、1992年版)の序盤編その他を参照する。以来、一局打つごとに何か教訓を引き出し、該当する箇所の書き直しをしている。これが結構面白くて為になるんだな。途中からプロの碁の対局を見ながら得た感想をも記すことにした。2016年10月、古書店で、菊池康郎(著)「囲碁に強くなる本」を手にいれた。非常に有益なことが書かれてあり、これを取り込むことにする。 ひとたびは思いつくままに書きつけ、後に推敲を加え、次第にいっぱしの囲碁理論にしたいと思っている。囲碁吉が自分の戒めの為に磨きに磨いているものであり、アマの且つそれほど強くもない者の囲碁論であるから説得力も権威もない。私が今後ひょっと強くなったら、ここに書いたことの値打ちが上がるだろう。今はまだまったくダメですたい。相変わらずアマの県代表レベルに3子、4子(4子、5子かな?)の手合いでしかない。何とかせんととは思っているのだが。いざ出航せん。最新の方法として、最も肝要と思われる気づきを頭出しにして並べ替えて行こうと思う。 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝 |
【互い先、置き碁の打ち方】 |
囲碁の対局は互先と置碁に分かれる。互先(たがいせん)の場合には先番が黒、後手番が白で打つ。先番黒は、コミ碁以前にはジゴ白勝ち、コミ碁以降では当初は「コミ5目半」、現在では「コミ6目半」を負担する。 先番は、このハンディにより積極的な開拓的精神で打ち進める必要がある。但し、攻め急ぎはよくない。攻めを基調にしながらじっくりと打ち進めるのが良い。これの巧拙で腕が決まる。後手番の白は先番黒の打ち方に調子を合わせながらゆったりと息長く打ち、最終的に「コミ貰い」を有利にするような打ち方が良い。「コミのない碁では黒はゆっくり、白はいそいで。コミ碁では白ゆっくり、黒いそいで」と逆になっている。 |
置き碁は2子番から9子番まである。どういう手合いであろうと、勝負の決着が息長くなるのが良い。何度打っても片方が早く潰れる場合には「手合い違い」と云うことになり「手合い直し」をせねばならない。置き碁には置き碁の楽しみ方、打ち方があり、置かす方も置く方もそれなりに勉強になると心得るべきだろう。 置く方は置き石を利き石として徹底活用して打ち進めることが肝要である。その優位を最後まで失わないように打つことができれば置き石を一つ剥がして貰い、これをやがて互い先まで持って行くのが理想となる。置かす方は、圧倒的劣勢の中での状況打開力とジリジリと寄せて行く忍耐力を身につけるのが理想となる。両者こういう思いと割り切りで打ち進めれば、置き碁にもそれなりに得るものがあると思う。 アマ高段者で下手との置き碁を嫌う者が居るが、その理由としてウソ手を打たなければ勝てない、そういう碁を打ちたくないと云う。私は違うと思う。少なくとも定先から5子手合いまではそれなりに楽しめる碁になると思う。何をウソ手、どこをウソ手と言おうとしているか分からないが、道策の5子局を見れば両者丁丁発止の棋譜を遺しているのが分かろう。件のアマ高段者は、打たない理由を下手のせいにせず、自身の棋力に関わっている事を承知し、それなりに楽しむのが良かろう。苦しい状況からの挽回の手を見いだす楽しもあろうし。 2015.3.31日 囲碁吉拝 |
【布石論】 |
囲碁は布石から始まる。次に序盤、中盤、終盤、寄せと云う経過になる。ここでは布石の棋理を確認しておく。 序盤、中盤、終盤、寄せのどの段階に於いても緻密さが要求されている。その緻密さは理論と感性に裏打ちされた着手によって証される。凡手ならともかく悪手(効率の悪い一手)を打つと、その手をきっかけに咎められることで流れを悪くさせられる。これを逆に云うと、悪手を上手に咎めるのが上達者ということになる。 或る時の経験で、コスミ受けで中央に顔を出すべきところ、意味のないツギをしたものだから、相手が遠巻きで生きを催促する手を放った。その網を破るのに汲汲とさせられ、何とか打開したのだけれどもその後の石の流れを悪くしたと思う。結果的に初敗北する悲哀を味わされた。序盤の一手の怖さの経験となった。悟るべきは「一手一手に緻密さが大事」であろう。 布石の肝要は「構想力」である。布石はこの後に続く序盤、中盤、終盤、寄せに比べて着手の選択肢が一番多い。これを「手幅が広い」と云う。この多い選択肢から最も適切とおもわれる一手、あるいは好みの手を見出し、領地に縄張り杭を打つかのように着手し続ける。この際、留意すべきは、引き続き手幅が広い手を探して行くことである。即ち、布石の段階では手幅が狭まる手は良くないということになる。着手は棋理に従うのが良いのだが、その棋理にも複数手が見いだされる。そのどれを選ぶかが問われており、そこには多分に感覚的なものがある。棋理と好みのミックスで、その時々に最も相応しい着手を捜す。この流れが「構想力」であり、将棋では「駒組み」、囲碁では「石組み」と云う。これが布石段階の要諦である。 布石を互いに隅から打ち合う場合、「星、小目、高目、目外し、三3」のいずれかに打っていくのが普通である。次の着手が並行型とたすき型に分かれる。次に「掛かり、割打ち、締り」のいずれかに向かうことになるが、ここに無数の変化がある。一般には「打ち始めはまず空き隅、次にシマリ、またはカカリという順序である。「隅が最大。隅から辺へ、辺から中央へと発展せよ」、「シマリには小ゲイマジマリ、大ゲイマジマリ、一間ジマリの三つがあり、それぞれに一長一短がある。完全なシマリなどあり得ない」と教えられている。 この間を漫然と打つのではなく、手前と相手の陣形を踏まえて最も相応しい手を見出して着手するのが良い。布石で打ち下ろす一手一手が盤上の「杭打ち」であり、盤上のこの文様図柄を布石図と云う。この布石図をどう描くのかが棋力であり、これが「布石の棋理」となる。 布石を「どのように打ち進めるべきなのか」。どう打とうが自由な中にも自ずから棋理に沿った打ち方がある。その要領は現に打たれている布石から学ぶしかない。アマ6段の囲碁吉の棋力で偉そうには云えないが、言えることは、「布石こそ盤全体を見渡し、勢力が偏らないよう四囲に配置するよう心掛け、我が陣営の配石が将来の決戦に役立つよう、その為に潜在的に有機的結合力を発揮するように打て」である。これこそが「布石の棋理」であろう。布石構想は盤全体に波及支配しており、上下左右は無論のこと対角線にも関係している。 この自覚があるかどうかが重要である。出だしの布石が悪ければ先々苦労することになる。石が次第に変調になり、打ち進めるほどに乱調の道のりになる。逆に布石が良ければ局面の主導権を握り、次々良い手が浮かび、楽しみな局面を引き寄せる。この差を心得てどういう配石をするかの感性が問われている。これに棋理が関係している。よって棋力を磨かねばならないと云う三段論法になっている。囲碁史上の名碁師たる呉清源が頻りに「囲碁のバランス」を説いたが、要するに「石が隅とか辺の片側に偏ることなく、碁盤全体に幅広く打つべきであり、それらの石の棋理に適った有機的結合を目指せ」と云う教えではなかろうかと解している。 補足しておけば、「棋理に適った石の有機的結合」とは、「欲張らず、縮(ちぢ)こまらず、拘らず」常に追走し得る要所の地点に打ち、それらのうちの要(かなめ)石を上手に連携させよと云う意味であると拝する。口とか文字で言うのは易しいが、実際にそのように打ち続け、常に追走し得る要所の地点を探すのは難儀である。この地点がひと目で分かるような目利きになるのが上達の道であり、今や人工知能に教えられている時代である。その人工知能も果てしなく進化し続けるとしたら永久に難儀な問答ではなかろうか。しかしこの見極めの道のりこそが囲碁の醍醐味であり奥義であろう。 留意すべきは、布石は互いの勢力杭を打ち合う流れのものであり、地を稼ぐものではないと云うことである。相手の配石に隙を見つければ、咎めに行く意欲を持たねばならない。但し、いきなり行くべきか三度目の正直辺りで決行すべきか、仮に決行しても手付けのまま保留しておくべきか、ある程度打ち進めるのかの見極め能力が問われる。咎めなくても優位であれば相手の隙を担保にしておき、あるいは手付けのまま保留しておくのが賢い。咎めた場合、さらに打ち進めるのは、咎めることで優位に立ち、そのまま押し切る流れに入ることができるのなら打ち進めれば良い。相対的に相手が強ければそういう隙はないが、同格あるいはそれ以下なら結構あるものである。2016.4.24日の対局の敗戦の弁はこれに関係している。序盤で、相手の石を重くして帽子で攻めるべきだった。それを隅のカカリを優先し何となく平凡な展開になった。それは勝機の去る流れを作ったと思う。 2015.02.16日、宿敵とのリーグ戦で完勝した。昨年は15連敗の相手である。このところは1勝1敗が続いているが借りを返せていない。そういう意味で新リーグでの幸先の1勝は値打ちがある。で、今日の碁はどうだったかと云うと、序盤で、囲碁吉が先番三連星を敷いたところ、相手が囲碁吉の右下の星石に左からの小ゲイマ掛かり、それを星で挟んで相手の動きを見たところ、相手1間トビ、こちらも1間トビ、相手隅への小ゲイマスベリ、こちら中央へ向かって相手への帽子風小ゲイマで一段落させた。今度は右上に転戦し、ここで棋譜が分からなくなったが、要するに中央への小ゲイマが先の帽子風小ゲイマと連動し、やけにピカピカに光って感じた。あれは恐らく局面に相応しい良い手だったのだと思う。今度は囲碁吉が相手の下辺左下の小目に小ゲイマにかかり、相手の開きに合わせて中央へ1間トビ。先の下辺の星挟みと連動し、こちらもピカピカに光って感じた。この両ピカで押せ押せムードになり、道中の有為転変はあったものの押し切った。序盤構想の大事さを感じる意味で貴重な経験となった。 2015.02.16日 囲碁吉拝 |
坂田栄男の「囲碁名言集」(有紀書房、1988年、1992年版)の序盤編は他にも次のように指南している。
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【序盤論】 | |||||||||||
布石から中盤に至るまでの間を仮に序盤と云う。その境目は、四隅を打ち終えた頃をもって、それまでを布石、以降を序盤と区分したい。時に四隅を打ち終えぬまま中盤に入ることもある。この場合は序盤が省略されたと思えば良い。序盤は、布石の構想の継承と手直し、あるいは調整、転換の時期を云う。これを大きく見れば、布石段階のことかも知れず、逆に序盤の中に布石があるのかも知れない。つまりワンセットとして捉えるべきなのだろうが、経験則的に云えば分けて考えるべきだと思う。即ち、布石は布石、その次が序盤で、その次が中盤なのではなかろうか。 序盤の要諦を確認しておく。
この流れの延長で、最終的なカウント勝利を見極めつつ石運びせねばならない。 4の中央志向に関連してボウシの手を研究せねばならない。ボウシには一間ボウシ、ケイマボウシ、オオゲイマボウシの手が考えられる。局面に合わせて使い分けせねばならない。ボウシを打つ場合、打たれた場合の二通りの対策が必要となるが、打たれた場合の要諦は、共に中央に顔を出す競り合いなら良いが、手前の逃げ出し方で相手の中央が厚くなり勢威を持つようなことでは良くない。ならばいっそのこと、中央に障らぬように低位で生きる方が賢明かもしれない。あるいは手抜きで他の急場に手をつけるのが賢いかと思う。これを補足すれば、地を取る手を打たないということでもある。布石、序盤の石運びは将来の決戦に備えての有利な陣形作りに意味があり、この段階での地取りは賢明でない。低段級者になればなるほど布石、序盤の段階から地を求める傾向が強い。そうであってはならない。 布石、序盤でメンタル的に気をつけるべきことは、せらう気持ちとか焼きもちを焼かないことである。先に序盤の要諦1、2、3、4を示したが、これらはいずれもせらい、焼きもちを抑制する「がまん、辛抱、忍耐のおしん」の上に成り立っている。そういう意味で、精神力が関係している。この棋理に通じておく必要がある。 手前がそういう風に「おしん」しながら着手しているのに対して、相手が焼きもちを焼いて深く侵入して来たり、安逸なツケ捌きの手を打って来た場合には、これを「上手に守(もり)をする」のがコツである。「上手な守」は局面によるので言葉では言い表しがたい。要するに「取らず攻め」が良い。「取りに行くのは下策」である。相手が焼きもちを焼かず相手も構えれば、こちらが侵入するか更に常に追走し得る要所の地点に打って相手の出方を見る。これが序盤の要諦である。 布石&序盤こそ心の写し鏡的要素が強い。のびのびと打たねばならないところ、心が萎縮していると石も萎縮する。全体を見回す精神力がなければどうしても部分に拘ることになる。つまり石は心の写し鏡だからして心を磨き心を養えと云うことになる。 もう一つ。手筋、詰め碁を覚えたことにより、今まで見えなかった隅の手を発見し、序盤の段階でいきなり味わいに行くことがある。これは邪道で、大抵の場合、形勢を仕損じる。序盤では部分の誘惑に駆られてはならない。但し、中央域の場合は別である。局面有利に持ち込めるならば、ためらわずいきなりの切断勝負あり、と心得たい。 ところで、人工知能が序盤で「星の石に対する三3入り」することがあり邪道視できなくなった。これについて思うことがある。即ち、布石での三3打ちがあるのだから、「星の石に対する三3入り」は「三3に対する星打ち」ができている状態と考えれば良い。星打ちのところへ三3入りしてきたわけだから三3定石になると思えば良いのではなかろうか。即ち必ずしも付き合って打つ必要はなく手抜きできると考えたい。よって他の好点があればそこへ打つのが良い。あるいは三3定石を見据えて、そうなった場合に外勢が働くよう先回りの好点に仕掛けするのも一法だろう。 「囲碁梁山泊」(2017青春号29p、白石平明)は次のように記している。
2015.02.16日 囲碁吉拝 |
【序盤の要諦としての棋理音楽について】 |
「序盤の要諦としての棋理音楽について」云う者は少ない。ひょっとして囲碁吉の初案かもしれない。これを記しておく。棋理音楽とは何か。それは着手の運びに応じて脳内に自然に奏でられる音楽のことを云う。この音楽が聞き心地の良いとき、碁の流れが良い、逆は逆である。しかしてこの音楽は打ち手特有の個性をも備えている。と云うことは即ち布石の型にせよ、打ち手その人にとっての似合いのものが良いと云うことになる。その音楽を中盤、終盤まで心地良く聞きたら、それがその人にとっての名局になる。こういう受け止め方で序盤を磨くのも良かろう。 |
そういう意味では、脳内に音楽が聞こえないのは不調の時かもしれない。 |
(私論.私見)